謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57at HISTORY
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57 - 暇つぶし2ch679:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:04:11.37
宿主
そうならば、オマエの論では西倭と書くべきだね。うっちゃりキング
は常に出た結果と整合しないから、デマカセ即興での東倭の説明で誤魔化
す。オマエのは整合しないから、今後もうっちゃりうっちゃりの連続
記録で、出た結果は常にオマエの論をそうでないとの回答になる。

最初に恣意的勝手に景行年代を強行に決めこみ、それが合わない無理の
ため天皇になれない臣下を天皇に仕立て上げ、さらに数日間も継続
しない日食を日食だと現代天文学の鉄則も無視して牽強付会を頑張り
通すその根底は、ホツマを極超賛美化してオマエがその上にアグラを
かきたいための利害がこういうドス黒い出鱈目論を何が何でもイカサマ
砦化を貫くオマエの後ろ暗いよくない動機なのだよ。ヘヘヘヘ・・・。

インチキ編年では古代史論の権威のキングにはなれず、インチキ古代史論
の魔王になるばかりで、言い変えれば古代史論の朝敵がオマエなのだ。

景行は全然日本統一など出来ない。
日本統一はホツマの成立年代に合わせることは出来ない。←朝敵の言う論
日本統一は記紀の成立年代適合するのである。

680:メ
11/07/18 11:05:55.52
>>637
>>542 アラタメドツボ

542はおれじゃないが・・・
最近は、古代史というよりも戦国時代に興味を持ち、
そっち方面にいってる。 んで今、本を読み漁ってるところだ。
織田信長、浅イ長政・・・などなど

おぬしも、考古学に限らず、もっと幅広い知識を身につけるべきと思うぞw

681:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:09:25.37
>>676
>42年のインチキ数字をさ~も合ってるように羅列して説明した素振りで
☆この数字を裏付ける文献の読み方が有る。
>おまけに地球上の日本に存在しない数日間も日食が見られるという
☆数日間の暗黒は、太国の主張である。太国はこの数日間の暗黒を説明出来ていない。
>こんなのは外人らは騙せても、小学生でもちょっと考えれば出鱈目だと
☆太国倍年の事ね。倍年とはデタラメの暦法である。小学生も騙せない。
本人(太国)自身この暦法(倍年)に数字をふれない事実は、本人自身が信じていない。
だから、考古学の主張する纒向年代を否定しても、正しい年代を主張したことが無い。


682:日本@名無史さん
11/07/18 11:14:15.24
さすがに安本は無いよ。
商売背負ってるから引けないだけとしか…

683:日本@名無史さん
11/07/18 11:14:33.00
>>678
残念ながら、説明を読んでも、安本説がまちがいで、庄内式は畿内発祥だと認めるべき事項は何もないね。
畿内発祥ならば、当然それが使用された期間も長いわけだから、畿内周辺にその亜型がたくさん生じるはずだ。
ところが君の説明では、畿内周辺にそのような亜型がたくさん生じていたという指摘はない。
逆に北九州にそれがあったという。君の説明を読むかぎり、北九州発祥とみる方が自然だと思うよ。
それとも、甘い「庄内式」基準なら、畿内周辺に広範囲に出ているというのかね?

684:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:22:29.25
そんな読み方など存在しな~い。オマエが出したところで、またまた
抽象的説明とインチキ数字の羅列でケムに巻くのがオマエのイカサマ手法
だ。
数日間の暗黒が説明出来なかろうと、だからといって数日間が数分間には
ならない。オーストラリアのヨ-ク半島ではモーニング・グローリーと
いう日本列島の半分の長さとなる極超大雲が天空を覆いかぶすことがある。

こんな超現象は千年二千年とか経てば、その間に数日間も続く暗雲が
出来あがることはありうることで、数日間も長いとなれば数分間で
終わる日食とは異なりモーニング・グローリー的天候現象ならば神功元年
前年の紀の記述と矛盾しない。つまりこの年の記録は日食にはならない。
こういう超天候現象だったと考えるべきだ。

倍年でなく、当時佛伝以前、朝廷には色即是空など教育されておらず、
宿主空年は成立しない。そんなものは当時ないんだ。ww

685:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:25:58.63
>>679 訂正
× ←朝敵の言う論
○ ←朝敵の言う論への反論

686:日本@名無史さん
11/07/18 11:27:10.83
>683
畿内周辺に部分的に庄内式に近い各地様々な伝統的5様式や、模倣庄内甕がたくさんありますが。つまり、「亜式」がたくさんあるということだが。
安本信者は本当に何も知らないんだな。

北部九州の庄内式について、井上裕弘、久住猛夫、佐々木健一の論文を読んだことがあるのかい?

687:日本@名無史さん
11/07/18 11:27:26.35
なんか孤独な安本信者がいるな。それとも利害関係者か。

688:日本@名無史さん
11/07/18 11:28:59.01
>>687
安本本人じゃないのwww

689:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:32:47.59
URLリンク(homepage2.nifty.com)
邪馬台国と楽浪郡


>>684
>空年は成立しない。そんなものは当時ないんだ。ww

何故ここで”太国倍年”が存在した。と主張しない?

>その間に数日間も続く暗雲が出来あがることはありうることで、

その出来事を特定して、神功元年の指標とすれば?
暗雲のため、日のカゲがきらめく。薄日はきらめかない。
また夜の如き暗さもありえない。
空に満つる雲量には限界が在り、限界を過ぎると雨となる。


690:日本@名無史さん
11/07/18 11:34:00.95
ただの信者なら九州大に行ってレクチャーを受けてくれば洗脳も覚めるだろうが
利害関係者ならどうしようもないな。2ch宣伝係か。

691:日本@名無史さん
11/07/18 11:37:20.50
そもそも安本は人の説得のしかただとか詭弁のススメのような本を書いてるじゃないか。

692:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:37:32.24
年輪降水量。
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183~193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。

唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。

この出来事を書紀に当てはめると
崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神10年 4道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:各地の土器。
崇神58年 新羅209年ころ


693:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:38:01.01
なお毒書ホツマとはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが恣意的妄想
を追加して書いた文であり、これの記載内容には重々用心が必要であり、
各々方はホツマの妄想に騙されないよう注意されたい。

日本統一はホツマの成立年代ころではない。
日本統一は記紀の成立年代ころなのである。

694:日本@名無史さん
11/07/18 11:39:23.00
一体どんな人が安本信者さんなんだろう?
正直文献解釈でもどうになもならん状態だし。
巻向や箸墓の年代だけ批判してる場合じゃないだろという気が。

695:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:41:58.12
垂仁天皇 217年~239年 4章 ホケノ山古墳。半島式木郭墓は田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年~261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年~265年 3章 
仲哀天皇 266年~274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年~343年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
の時代、佐紀楯列までの70年間。
桜井茶臼山や黒塚古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、274年頃からの西晋洛陽、楽浪の鏡である。
魏の時代には、洛陽にない意匠・図像である。いわゆる卑弥呼の鏡とは、後漢鏡である
画文帯神獸鏡・方格規矩鏡・内行花文鏡などであるが、卑弥呼以前から流入している。
308年永嘉の乱以後は、完全に仿製鏡の時代に入る。(意匠・図像の使い回し)


696:日本@名無史さん
11/07/18 11:42:20.41
>>694
いつもの劣等感丸出しの恨み節君だろw

697:日本@名無史さん
11/07/18 11:43:56.23
ついでに安本氏の庄内式に関する珍論に、庄内式が物部氏と関係するという説がある。
畿内だけ見ると、奈良盆地東南部と中河内は適合するが、外の物部氏根拠地に庄内式があるかというと疑問がある。
何よりも、安本氏が庄内式発祥とする北部九州では、物部氏根拠地の久留米周辺や遠賀川流域に庄内式の出土がほとんど無く、逆に物部氏の伝承がほとんどない福岡平野の一部(博多、那珂比恵周辺)にのみに庄内式が集中している。

698:日本@名無史さん
11/07/18 12:03:51.91
>>686
佐々木健一なんて書いてるようじゃ、程度が知れるぞ。とにかく、こいつらの頭は畿内中心で
固まってるからな。読んでいて馬鹿かというような思考方法ばかりだ。

伝統的5様式は、亜式にはならんよ。問題は、模倣庄内甕はどこにどんなふうに出ているかだな。
資料を明示してくれ。

699:日本@名無史さん
11/07/18 12:11:11.87
しかし考古学者ではない安本以外のほとんどの考古学者が一笑に付すような話を
いかに2chとはいえここまで強弁するというのは、やはり関係者なんだろうな。

700:日本@名無史さん
11/07/18 12:13:54.90
鰯の頭も信心から

701:日本@名無史さん
11/07/18 12:19:04.57
自分で調べろw
畿内一円に大和型や河内型の真正庄内甕(河内型は広い分布、大和型は盆地内が多い)が搬出され、そこらて模倣甕が作られているぞ。
まあ大和なら盆地西南部や北部、宇陀、大阪なら摂津や和泉、北河内、あるいは山城の庄内式平行期の遺跡報告書で自分で探せ。河内でも生産地の中河内以外は庄内甕は客体的で模倣品がある。

北部九州は福岡平野以外は分布自体が非常に薄いが。客体的過ぎて亜型式があまりない。在地系から布留式系に移行する地域が多い。

あと佐々木健一は佐々木憲一の誤植というだけだろ。だからどうしたんだ?

702:日本@名無史さん
11/07/18 12:20:11.64
おもしろい文章だな。ほとんどの考古学者って考古学者ではないのか?

703:日本@名無史さん
11/07/18 12:45:27.41
>>701
ヤマト中心の考え方からすれば、ヤマトが東海や中国、四国、九州と勢力下に
治めたんだろ。そして、畿内で生産を始めた庄内式土器を支配下の九州に分けて
やった。そうゆうことだよな。それなのに、何で、九州以外の諸地方から庄内式
がどんどん出てないんだ?

704:日本@名無史さん
11/07/18 13:08:52.41
>>703
だから、いっぱい出てるって言ってんだろうが。
安本が「出てない」と言い張ってるだけなの。


705:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:14:39.36
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

なおホツマとはそんじょそこいらのタダの昔のオッサンが妄想毒を挿入
して書いた毒文であり、重々用心を必要とする。

臣下は神国日本では絶対天皇にはなれない。従って等号は成立しない。

706:日本@名無史さん
11/07/18 13:16:07.91
??

北部九州庄内式発祥説は、柳田康雄氏の編年に柳田氏の年代観を採用して庄内式が北部九州で3世紀初めからにして、一方で畿内は関川尚功氏の遅めの年代観を挿入して、庄内式が畿内のが遅いとするおかしなことをやっている。
土器の併行関係を考えたら、両者の年代観は両立しない。
もともと関川氏の年代観は須恵器成立が5世紀中頃として、それ以前の布留式は百年間を超えないだろうと言う素朴なもの。舶載遺物の検討などで検証していない。自身の年代観があまり根拠がない感覚的であることは関川氏自身が言っている。
まず布留式が百年以内とか、ただの感覚で根拠にならないし、須恵器成立は年輪年代資料を鵜呑みにして4世紀末まで上げるのは韓半島の年代資料と齟齬が出てくるが、少なくとも5世紀中頃というよりは前半ないし初頭になる可能性が高い。
布留式の長さも、前期古墳が多様性があり、編年細分がかなりできるとなると、百年以内に限定というのは難しい。
庄内式イコール北部九州の弥生終末に三国鏡(三角縁は置いておいても)がほとんど入らない状況から、庄内式≒北部九州の弥生終末は3世紀中頃までの可能性が高くなる。
これは1960年代から九州の考古学者が言っていた話で柳田氏の年代論もその延長上だが、さも最近急に古墳出現が早くする論が出てきたと解説しているのは、学史の隠蔽と言える。
もちろん、3世紀中頃が後半くらいになる誤差はあるだろうが、庄内式が4世紀まで下がるということはありそうにもない。
九州の庄内式の「古さ」を言う時だけ柳田氏の年代観が使われたりするが、肝心の九州の遺構の年代比定にはそれが使われないのは詐欺に近い。

707:日本@名無史さん
11/07/18 13:18:42.12
安本さんも裸の王様なんだよな。
でも自分でもわかっててやってる気がするw

708:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 13:31:26.44
>臣下は神国日本では絶対天皇にはなれない。

1年を120日とか1月を10日とかいう劣等国の話か?
五世孫の継体が皇位に付く。
太国の好きな顕宗、仁賢は、牛飼いの奴だろ?


709:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:36:27.26
朝敵
継体は臣下ではな~い。

劣等国などとほざいているところを観ると、やはりどうやらオマエは半島人
らいしな?ww 半島の年代はオマエの好きな国だからな。ppp

710:日本@名無史さん
11/07/18 13:38:37.56
>>707

少なくと>>703レベルの奴には、未だ服を着ているように見えているわけだから、
ちゃんと商売としては成りたってるみたいだw

711:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:40:38.24
>>709 訂正
× らいしな?
○ らしいな?

なおホツマとは昔の尊そんじょそこいらのタダのオッサンの書いた毒文
であり、とりわけニガクリタケをクリタケだとかいう同然の日 食中毒
をお薦めする根となる書であるからして、この妄想毒にしてやられ
ないよう、各々方はこの半島人?に用心をされたい。

712:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:43:24.86
>>711 訂正
× 尊そんじょそこいら
○ そんじょそこいら

なお数日間という日を経て日食が観測できる地点は、この地球上に
存在しない。同様に宿主空年は存在しない。

713:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 13:54:25.75
>モーニング・グローリー的天候現象ならば神功元年前年の紀の記述と矛盾しない。

この雲は暗雲ではない、だからグライダーで乗ることが出来る。

>日本統一は記紀の成立年代ころなのである。

箸墓は最初の大王墓。

崇神5年頃=景初3年銘
崇神5,6年は、崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。で説明すべきである。
高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。

つまり、崇神6年を景初3年銘で説明したつもりであろうが、肝心の寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
が説明出来ていない。
だから考古学は、こんな文献史学を見放して独自に編年を始める。
太国がいくら主張しても過去の数字にしがみついたご老体でしかない。
老兵は去るのみである。飛ぶ鳥あとを濁さず。ご苦労であった。



714:日本@名無史さん
11/07/18 14:01:00.25
安本は確信犯だろ。自分の説などかけらも信じちゃいない。古代史は金になると踏んだんだ。


715:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 14:18:32.00
>>713
いつから觔斗雲を古代史論説に入れたのか? ヘヘヘ・・・。ww

飢饉、疫病が起こったから祭祀をしたということだ。当然だな。

716:日本@名無史さん
11/07/18 14:21:15.00
>>706
急に年代論を持ち出してきたが、いったい何を言いたいんだい?
九州の庄内式と畿内の庄内式では年代がちがうって言いたいのかな?
もう少し趣旨が伝わる文章を書かんとあかんな。

717:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 14:31:20.77
>>672
>”東倭”が倭国を指さないことは確実
ヘッヘッヘ~。説明が抽象的で不十分だねぇ。ww

これは ↓ 何だ?

邪馬台国ドンと来い♪ 85
>56 唐松山 2011/03/16

正始元年には魏使が大和を訪れる

 倭王=大和

晋書 正始元年 【東倭】重譚納具。

神功の渡海は274年 倭国統一から20年ほど後。晋の要請による渡海であれ
ば【東夷】の親玉として君臨でき、半島占拠も視野に入る。

718:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 15:00:48.16
>>717 続きだ~ヘッヘッヘ~~
     ↓
晋書・・・【東倭】重譚・・・
 
 神功の渡海は・・・【東夷】の親玉として君臨でき・・・

漢書王莽伝

元始5年(=西暦5年) 東夷の王 大海を渡り国珍を奉ず

なお ↓ 宿主説

 神武元年=西暦42年

ヘヘヘヘ・・・、西暦5年にどんな東夷の王が畿内にいたというのかね?
返答に屈すると、脳内で即興にうっちゃりを考案し→>>672 を言い出す。

臨機応変にクルクル変わるインチキの自語相違とはオマエの論だ。ww

719:日本@名無史さん
11/07/18 15:58:02.37
>716
よく嫁
安本氏が庄内式を新しくみたり、一方で九州の庄内式を古くみたりしているカラクリを暴露しているだけでしょ
関川氏の年代観と柳田氏の年代観は両立しない、て書いてあるじゃん
で、実際はどっちが実態かも書いているわけで

720:日本@名無史さん
11/07/18 16:10:17.52
で、早稲田の邪馬台国シンポジウムと二上山博物館の邪馬台国シンポジウムのレポートは無いの?

721:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 16:21:42.34
>西暦5年にどんな東夷の王が畿内にいたというのかね?

西暦5年の朝貢は九州だ。
畿内からの朝貢は田道間守の派遣が最初である。だから卑弥呼の下に見られた。
そしてこの時には任那(伽耶)は存在する。
>準3倍年暦は1ヶ月が10日間の欠史八代の3倍暦法と類似して、1ヶ月が
9日間での暦法であり、
1年の長ささえわからない崇神では、その年が景初3年と認識することは出来ない。

>>719
太国主張の倍年暦とやらに、数字をふれないことを認めたのか?
太国倍年とは、太国の妄想暦である。だから数字もふれない。


722:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 16:29:39.72
崇神(188~216年)を考える
他の文献と合わせる処は
ツノガアラヒト、5,6年の凶作逃散、任那建国

ツノガアラヒトの渡来は書かれていても時期は書かれていないが
新羅 173年 卑弥呼。これが姫大神の記事なら、それを追ってツノガアラヒトの来日
ここに田道間守の系図を入れると
ホ35054 アメヒホコ モロスケをうむ モロスケは ヒナラギをうむ ヒナラギは キヨヒコをうむ キヨヒコは タシマモリうむ

176年 モロスケ 
196年 ヒラナギ
216年 キヨヒコ
236年 田道間守
田道間守は239年に魏を訪れ、年末か翌年子供が生まれる。
数字が合わない。しかし 気長帯姫はキヨヒコの孫である。
236年 ?
256年 気長帯姫
274年 応神誕生
田道間守がキヨヒコの弟なら、数字は合う。


723:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 16:43:05.87
>>722
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~と。コチラを口撃していた男
が~

 偽書といわれる書物を持ち出した~~。

>>721 ヘッヘッヘ~~。クルクル君よww
      ↓
謎の女王卑弥呼は誰か? 邪馬台国問題に終止符 55
>816 唐松山 2011/03/22

景行世=九州、関東までを・・・・・274年渡海、晋の要請による渡海、
【東夷軍】の編成。323年神功49年半島を占拠→これだけの軍事力を持たね
ばならない。その為には、誰よりも早く【東夷軍】をとして組織され
る必要が有る

724:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 16:51:29.61
>>721 クルクル宿主君
オヤッ?何かの語が抜けてるねぇ。ヘヘヘヘ・・・ どうしてかいな?
     ↓

邪馬台国ドンと来い 85
>403 唐松山 2011/05/04
・・・・・・・・・・・・
晋書 正始元年 重譚納具

725:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 17:02:31.69
238年 九州を訪れた魏使は、邪馬台国(畿内)の位置さえ良くわかっていない。
しっかし狗邪韓国(任那)で仕入れた情報に依れば、この国の建設に関与した国
である。乱に疲弊し、朝貢もままならない九州倭国。
九州倭国は3世紀初めの平原墳墓から大王を立てられていない。だから、楽浪鏡は
畿内に入っても、九州に入っていない。
魏使の要請に九州では、女王卑弥呼が共立され、その下に畿内代表 田道間守が付く。
洛陽を訪れた一行と共に、魏からの使者が大和を訪れるのであるが、垂仁は墳墓の下。
魏使は、大和の王に一つの提案をする。それが、九州倭国との共同で“倭国統一”である。
その応諾の返答に大和(景行)は、使者を送る。晋書正始元年東倭重譚納具。
ここから魏による戦争の仕方からその後の治世方法までの伝授が始まる。
正始4年倭王(景行)は伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁を団長として
送り込む。
戦争の準備が整った時、魏は黄旛の下賜を決定する。
274年?九州へ渡った景行は、最初に筑紫、カンカシヒメに挨拶を終え、大分方面へ南下する。


726:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 17:30:26.33
ホツマの成立年代頃に朝廷の日本統一はな~い。
記紀の成立年代頃朝廷の日本統一が成ったのであ~る。

景行の代、日本統一は出来ない。

727:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 18:52:03.78
>>708 朝敵
「劣等国」などと言うところを観ると、オマエは「神」を毛嫌いして
いるようだな。やはりオマエは神国日本の人間ではなく~~
半島人らしいな?ww

以前には、神社の由緒伝承等を「ゴミ」だと不敬の語を吐いて
いたオマエのことだ。オマエは「神」を毛嫌いしてるからオマエの口から
本音が出たんだろう。だから神鏡製作年代をズラしたいのだろう?
へへへへ・・・

728:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 21:03:24.39
>「劣等国」などと言うところを観ると、
畿内大和の朝廷で訳の解らない1月が9日などと言う暦を使わせ
劣等国とする太国。
古代朝廷では、太陰暦が使われていた。その証拠が書紀の太陰暦で有る。
ただし空白年の差し込みにより引き延ばされている、その証拠が日々の干支である。
日々の干支は太陰暦が正しいと言う側面と引き延ばされているという側面を表す。


729:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 22:08:15.83
そんなものは引き伸ばされていない。年代は全部埋まってるんだね。
佛伝以前に朝廷が色即是空に染まってたとは言えない。つまり宿主空年は
成立しな~い。
寺坂氏も具体的に説明してたとおり、パラオでも2倍年暦を行使して
いる。なにも古代マヤだけではない。また1ヶ月が9日という暦は
朝廷のではなく、マヤの暦法(G文字)のほうだ。オマエはすーぐハメ
を外してインチキを書きこむ癖がある。1ヶ月が9日という準3倍年暦
ならば、1年は108日であり、神武の世の3倍年暦(1年が4ヶ月→
30×4=120日)に近いこととなるから、準が可能である。神武は元年
の当初は1年10ヶ月の勅を出したが、途中で改暦したようで、元年から
やりなおし、5月~12月をなくしたのであるのだ。

劣等国とするのはオマエの話なんだよ。すり換えるんじゃぁねえ~。><
こちらは神国日本と言ってるんだ。劣等国と言ってるのは半島人くさい
オマエのほうではないか? 邪魔だから早急に帰国しろ。

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、30日を一月とし、
 十月を1年と定め給ふ。

1年が10ヶ月となると、5月6月が欠なのは当然だな。アパート、
マンションに不吉との迷信か~4号室、104号室がない所があることから
充分言えるんだぜ。

730:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 22:43:50.29
毒文ホツマとは昔のそこいらにいたタダのオッサンが恣意的妄想を注入
して書いた危険な史想の書である。

唐松山はこれを書いた奴のクソ汁でさえ喜んで飲むくらいアリガタヤ、
アリガタヤの境地なんだろう? プハハハ・・・ww

731:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/19 18:41:24.53
>神皇紀は 太陰暦を太陽暦に改め

太陽暦とは、1年を365日程度とする。
つまり、何処にも1年が180日である。とは書かれていないんだろ?
日本書紀は太陰暦、よって、太国倍年の存在は否定された。
ご愁傷様。


732:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 18:47:25.96
神皇紀は神武の勅が太陽暦だとしっかり記載している。太陽暦行使を
否定出来ないオマエの宿主空年はオマエのインチキ創作。ww

733:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 18:58:55.03
どこにも宿主空年とは書かれてないんだろ。ww
宿主空年の存在は否定された。年代に架空年数を注入すると大きく真の
年代が撹乱されて分からなくなる。そんな間抜けなマネをする奴は朝廷
にはいないんだぜ。2倍暦等は古今の世界各地を調べるとあるわけで、
パラオなど好事例だ。古今の昔から2倍年暦等が行使されてたのを確認
できるわけで、かたや空年などの愚かなマネをしていた国などどこにも
見当たらない。あるのはオマエの脳内の浅薄な活動の創作だ。ww

734:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 19:08:19.58
>>732 訂正
× 太陽暦行使を否定出来ない
○ 太陽暦行使を否定している

735:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/19 20:57:41.02
>太陽暦行使を否定出来ないオマエの

古代朝廷は、太陰太陽暦を行使していたことは認めていますよ。
だから1と月は、29日か30日になる。
12ヶ月で1年、不足分は閏年を設ける。
太陰暦に空白年を差し込むことにより、太陽暦(24節季)が隠される。


736:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 22:20:07.79
色即是空の佛理など、当時の朝廷は関係ない。すなわち空白年などさし
こむ間抜けな朝廷の臣下などいつの時代にも無い。ww
そんなことをすれば、別の朝廷の仲間が「何をやってるんだ。これは年数
が間違いだぞ。どれ、みどもが正してあげよう。」と言われて元に矯正
されるのがオチだ。2回もそんなマネをやろうとでもしたら、更迭は
疑いない。故意だったら、公文書偽造同行使で身の危険が切迫する。

であるから、そんな危ないインチキ空年など入れるやつなどいやしな~い。
当時は今と同様、政敵がうんといたに違いない。そんなインチキ空年など
こっそり入れたことがこいつらに知られたら最後、弱点を握られて、
もうオシマイ。

24節を隠したところで、農民には何の利害もな~い。農民にとって利害大
なのは、飢饉で餌がないことだ。

ところオマエいつ半島から日本に住みだしたんだ? あまり日本の悪口を
言うなら、半島へ帰れ。邪魔だ。>|<

737:妖拳
11/07/20 02:21:30.68
この前、遠山美都男という人と、ある焼鳥屋で会って歴史の話をしたらしいんだが
酔っ払ってて全く覚えてない。
その後、その遠山という人が自分が書いた本だと言ってその焼鳥屋に「卑弥呼誕生」とかいう本を置いて行ったとのこと
自分に渡されたんだが、ちょっと難しかった。はっきりもらったわけでもないので
店に返したが、今度は他の女性が借りて行った。

738:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/20 22:16:10.77
崇神六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。先是。天照大神。
倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内。

天照大神を豐鍬入姫命に託し、倭笠縫邑に祭る。その後、罪神に祈る。
崇神5,6年は、國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。百姓流離。或有背叛。または、
寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。で表される。

罪神に祈る崇神。それを無視して天照大神を笠縫に祭った証拠が景初3年銘と言い張る太国。
この主張をごり押しする太国は、神をないがしろにしている。
その前に、239年頃、寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。の説明が出来ていない。
民有死亡者。=百姓蒙災。←この出来事が景初3年であれば、その年を紀年した鏡ならば
大凶の銘である。

崇神世の寒暑矢序とは、後漢183年から193年にかけての異常気象と同期する。
そして任那建国は存在する。210年頃である。
つまり崇神世は、考古学の主張する纒向年代の2世紀末から210年を含む時代である。

景初3年銘をここに設定しても書記の主張する崇神世の何も説明出来ない太国倍年。
考古学の主張する纒向年代を否定しても、書き換えるだけの文献もなければ、能力もない。
3倍年があったと主張してもその暦に数字を与えられない。数字の無い暦は存在しない。


739:日本@名無史さん
11/07/21 14:59:47.35
女王卑弥呼は第15代天皇陛下のお妃様だったのではないかな?

740:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/21 16:20:16.83
>>738 魔書ホツマの宿主よ
神社等の伝承由緒をゴミだと抜かす奴が神をないがしろにしてる野郎なん
だぜ。つまりそれはオマエではないか。ww
オマエなんかが大三輪神社の鳥居をくぐれば、神域が汚れる。><
早く半島へ帰国しろ。

>239年頃、寒暑矢序・・・
これがどこの文献かを書けていないオマエこそうしろ暗い所が
あるらしく、文献の題名の説明を渋ってる。これではコチラは関係な~い。

741:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/21 17:05:47.44
URLリンク(yamatai.cside.com)

742:八色仮面
11/07/21 20:50:19.68
>>739
そう考える理由も記して下さい。でなければ読んでいる人達はあなたの意見を
検討することができませんよ。

743:日本@名無史さん
11/07/22 08:49:11.52
なんとなく・・・15代って応神天皇だっけ?

744:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 19:56:28.76
>>741 の記事より
箸墓も崇神天皇の時代の4世紀中頃に築造された古墳と考える。

崇神をどの時代に配するか?これで古代史の認識が大きく変わる。
太国は、この書き込みから崇神=240~260年頃をあきらめたらしい。

崇神5,6年は災害。そして崇神末までに伽耶(任那)建国。←これを西暦で説明出来なければ
設定間違いである。

>239年頃、寒暑矢序・・・  これがどこの文献かを書けていないオマエこそうしろ暗い所が
魏使の訪れた238年や240年に凶作は無い。つまり崇神5,6年頃を「寒暑矢序」で説明出来なければ
整合性がある、とはいわない。
それとも太国は書紀の記事を吟味したことがないのか?
崇神天皇十二年(乙未前八六)三月丁亥《十一》◆十二年春三月丁丑朔丁亥。詔曰。朕初承天位。獲保宗廟。
明有所蔽。徳不能綏。是以陰陽謬錯。寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。然今解罪改過。敦禮神祇。亦垂教而緩荒俗。
擧兵以討不服。是以官無廢事。下無逸民。教化流行。衆庶樂業。異俗重譯來。海外既歸化。宜當此時。更校人民。
令知長幼之次第。及課 之先後焉。

745:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 21:13:54.97
北史卷九十四 列傳第八十二 倭國 より
至邪馬臺國,即倭王所都。
靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。
正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。
其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。魏景初三年,公孫文懿誅後,卑彌呼始遣使朝貢。

183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。中国の乱れ始め。
崇神12年の「寒暑矢序。」は、この183年から193年に当たる。 
倭国に於いても、この翌年(184年)頃から不作があり、九州では乱れ始める。
奴国は疲弊し、大王を立てられなくなる。
そして3世紀前半の平原の墳墓を最後に王墓は造られない(歴年無主)
楽浪鏡は、公孫氏の鏡であり、公孫氏が呉から入手した鏡を東夷に配る。
楽浪鏡は、東瀬戸内以東に供給されるが、北部九州はこの鏡を入手していない。
ホケノ山に楽浪鏡が副葬される。(239年)邪馬臺國=大和。
238年 魏の使いが北部九州を訪れる、そして朝貢を促す。
歴年無主の北部九州で卑弥呼が共立される。
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀。
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
240年 田道間守をホケノ山に殉葬(半島式墳墓)。この時魏使は大和を訪れる(ホケノ山を見る)
240年 晋書 正始元年 東倭重譚納具。
243年 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人
 倭王(景行)は伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁等を派遣する。


746:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/22 22:38:02.14
な~んだ。どこの文献かも言えないんじゃ、オマエの創作文だとみなす。
そうでなければ、キチンと文献名を書いてそこのどこにその文があるの
か、それを書いてから文句を垂れろ。><

>魏使の訪れたのは九州のほうだ。
 畿内が飢饉凶作でも畿内から別国の~
 九州が飢饉凶作だとは限らない。オマエは畿内も九州も同一視して
 いる○抜けな考えだから、そんな慌てた支離滅裂の文句を考えるんだ。

紀の崇神6年とやらの飢饉凶作とやらは畿内このことだ。別国の
九州のことなど通常は関係ない。魏使が九州に行って畿内のことなんぞ
大して知る余地もない。おまけに魏に帰れば、その翌日から飢饉となれ
ば、魏使も知るわけがない。出鱈目野郎、わかったか?

747:日本@名無史さん
11/07/22 22:45:59.41
>>706
>もともと関川氏の年代観は須恵器成立が5世紀中頃として、それ以前の布留式は百年間を超えないだろうと言う素朴なもの。
>舶載遺物の検討などで検証していない。自身の年代観があまり根拠がない感覚的であることは関川氏自身が言っている。

その辺はかつての佐原と同じなんだろうなw

本人もあくまで大雑把な目安程度に言ったものが、それが都合の良い者=ゴミクズレベル九州説(特に東遷説)に
まるで金科玉条の如く扱われると言うwwww

まあ暫定的に決めた一種のダミーデータの類と思っておけばいいのだと思う。
当然あとで修正されることを前提にしたあくまで暫定の値。

そもそも須恵器は土師器が発展進化してできたものじゃない。
基本的には外来の技術。

極端な話、須恵器の技術が日本へ伝播するのは土師器が登場して10年でも良いし100年でも良い。
両者は ベ ツ モ ノ なんだからwwww

ちなみに須恵器が出てきたと言って土師器が消滅するわけでもないwwww



748:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 23:06:10.86
>九州が飢饉凶作だとは限らない。

しかし 「歴年無主」を探せば、3世紀前半の平原の墳墓を最後に王墓は造られない
北部九州が妥当である。
魏使は伊都国辺りまでしか訪ねていないが、狗邪韓国で畿内大和を聞き知っている。
であるならば、魏使は大和の参加を求めると共に、正始元年に大和を訪れる。

>崇神6年とやらの飢饉凶作とやらは畿内このことだ。
天候不順は、地域を特定しない。だから、
新羅192年4月大雪
後漢193年6月寒風冬の如し。新羅本紀が1年狂っていると思われるが
この寒気が日本を襲えば、畿内だけでは済まない。
靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。 ←後漢183年から後漢は乱れ始める。
時を同じく倭国内でも乱れ始めた地域があり、「歴年無主」で説明出来なければならないとなると、
九州北部で王墓が造られなくなる事実が妥当である。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

女王国は伊都国を傘下に置く北部九州、そこに1大率を置く大和。
時代は庄内式土器の時代である。

庄内式土器の時代を引き下げれば、平原墳墓の時代も引き下げられ
(歴年無主) の地域が無くなる。
3世紀半ば、ホケノ山古墳=楽浪鏡の副葬。は正しい。であれば、纒向遺跡の年代も正しい。

>紀の崇神6年とやらの飢饉凶作とやらは畿内このことだ。
この年を記年した鏡を誰が喜ぶ?

749:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/22 23:20:18.17
オマエは畿内と九州が、まるでJRの隣りの駅の気でいる○抜け率
多大の野郎だな。当時は新幹線もなく航空機もないのだ。九州⇔畿内と簡単
には情報は入ってこない。おまけに女王国は中九州あたりだから、畿内に
大陸から来る遣使も女王国の情報を簡単にはもたらしえない。

江戸時代の江戸から伊勢参りは一生に一度遠方行きなのだ。畿内からそう
やすやすと九州の女王国へ行けると思ったら大間違い。オマエはかように
畿内から九州へ隣りの駅へ行くつもりの浅はかな考えだ。それは今なら
新幹線とか航空機があるからそういう気分でいいが、古代の当時は畿内
から九州へと行くことは軽くはとてもとても出来ない。

これを履き違えるオマエだから、畿内から半島へやすやすと行け
る~ウワッハッハ~~ww~だと、193年のとんだ不可能編年を頑張るわけ
だな。www

早く精神病院で診てもらうんだな。

zzzzzzzz・・・・・・・

750:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 23:29:01.27
庄内式=土師器とすれば、216年崇神末年 任那より朝貢。
須恵器=大量の民の渡来=神功49年以降=323年以降。

現在の考古学は、須恵器を誉田御廟山(380年ころ)としているが、
神功52年=七支刀=369年の文献史学の数字から須恵器が不当に遅くなっている。
369年の数字では、半島占拠が否定され、大量渡来も否定されている。
つまり
3世紀後半=福岡西新町遺跡=布留式=半島の土器とカマド。←274年神功渡海。
275年神功元年 323年神功49年半島占拠。中国東北部が空白地帯となる。


751:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 12:29:39.04
>女王国は中九州あたりだから、畿内に
大陸から来る遣使も女王国の情報を簡単にはもたらしえない。

女王は伊都国を傘下に置く。
魏使はその前に狗邪韓国(任那、210年建国)を訪れる。
後漢時代、倭国の代表は金印を下賜された奴国である。つまり、魏使は、奴国を目指して
倭国を訪ねる。しかし、奴国は、3世紀初めの平原王墓を最後に大王を立てられていない。
卑弥呼を共立するのは、この奴国が中心となる。女王卑弥呼とはカンカシヒメである。
魏使は、狗邪韓国で大和の存在を知る。ただし、正確な位置までは聞き出せなかったが
女王に畿内大和も朝貢団に加わることを要請する。
九州へは出雲のフリネが訪れていた様に各地と通交がある。だからこの程度の連絡は取れる。
それに対し、卑弥呼と対峙する狗奴国。狗奴国は、熊襲(ソの隈、背振山地南縁)を通じて
鉄を入手していた熊本地方である。←朝貢団に加わらない。

正始4年  伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
正始6年? 難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
つまり奴国と大和は協力して倭国統一に動く、それを支持する魏国。
その戦争の最中に女王、男王は相次いで死亡する。
残された大和の倭王が倭国統一を果たし、伊都国に1大率を置く。

3世紀初めの平原王墓は動かない。従って纒向遺跡の年代も動かない。
となれば、これまでの年代(崇神=卑弥呼の時代)では纒向遺跡の説明が出来ない。
だから考古学が50年遡上したのであれば、崇神も50年遡上させなければ、整合性が取れない。
崇神5年は、後漢193年である。←50年遡上させた場合この文献で整合性が得られる。
崇神(モモソ姫)=卑弥呼の時代に合わせる文献は存在しない。
畿内に歴年無主は、存在しない。←畿内卑弥呼は成立しない。
考古学の数字を動かすと九州でも歴年無主は、成立しない。


752:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/23 16:24:19.75
>>751
>大陸から来る遣使も女王国の情報を簡単にはもたらしえない
        ↑
これはそのとおりだぜ。
それがたまたまなにかのきっかけで情報を運よく得たのだ。それで女王国
の実体が大陸にもたらされたのだ。それが働かないと、女王国の存在が
殆ど不明で終わったろう。

それがオマエに分かるなら、畿内と九州中部との情報の行き来が殆ど無
だったことに気がつけと忠告する。オマエは九州と畿内とが、まるで現今
のJRの隣りの駅の気分でいつも論を書きこんでいる。これはおかしい訳
だよ。ならば新幹線、航空機の無い193年当時、極めて遠方の半島に千人
もの農民の渡海などとても無理で不可能だ。おまけに全員空腹で船舶も
オマエの言う崇神6年には製造出来てない。船舶が製造されたのは紀の
崇神17年以降で、崇神6年には船舶のアリバイがなく、オマエの論は
これで崩壊している。これでは全然整合しておらず、大ダメだ。

753:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 17:49:40.85
URLリンク(m-repo.lib.meiji.ac.jp)
古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究 佐々木 憲 一
岩永(1989)は,古墳出現前後の時期に畿内など外来系の土器が福岡・早良・糸島平野で爆
発的に増加することに関して,次のように述べた。「外来系器種の増加とともに在地系器種の
消滅ないし個体数減少が起こっている。転入者がF地区[福岡・早良・糸島平野(引用者注,
以下同じ)]在来の集団中で土器製作に従事していることはIlb~IIIa期[この議論の対象の
IIIb期の前,Ilb期は以下に筆者が依拠する久住猛雄(1999a)編年のIb期,岩永IIIa期は
久住Ila期に概ね相当する]と変わらないが,さらに進んで,その転入者に伴って持ち込まれ
た土器作りに関するもろもろの情報が,在来の集団中の土器製作者に既に広く共有され,在
来の人間も外来系の土器を確実に製作し始めていると考えられる(下線は引用者による)。」つ
まり,古墳出現期には福岡・早良・糸島平野で外来(この場合は畿内)の土器が在地で大々的
に模倣製作されている現象を既に看破しているのである。
 高橋浩二(1995)はこの時期の加賀,能登越中を対象とし,庄内系土器や東海系土器などが
北陸各地域へ一様に波及する庄内式新段階と,布留系甕の波及・受容によって土器組成に不均
等性が生じた布留式古段階という2つの画期を見出し,定形化した古墳は第2の画期で出現す
るとした。
 また纒向遺跡と佐紀遺跡に近接して大和古墳群と佐紀盾列古墳群が広がることから,「その
[古墳群の]築造とあい前後する時期の隣接集落が,政権中枢のありかたと無関係に存在す
ることは考え難い。

続く

754:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 17:56:59.17
続き
方形4本柱竪穴住居は豊前・筑豊の東部地域で弥生時代後期中段階にいち早く出現し,
続いて庄内式併行期には筑前・筑後の西部地域でも現れ(この点についてはすでに井上
[1991]が指摘していた),東部から西部に,豊前→筑豊→筑前→筑後と徐々に広がってゆく
ことを明らかにした。西部地域では,そのような新しい竪穴住居は出現期(庄内式併行期)
→受容期(布留式古・中段階)→普及期(布留式新段階)の3段階の緩やかな変遷過程を経る
ことも確認した。
第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入
 箱崎遺跡(福岡市東区,図6-3)[czr-4]
 多々良川・宇美川の河口部に位置する,南北に長い砂丘の東側にこの時期の遺構が展開する。
第8次調査では古墳時代初頭の竪穴住居2軒(SC36とSC58)と土墳3基が検出され,特に
SC36からは伝統的V様式系甕4点,庄内播磨型甕2点,畿内からの搬入と思われる布留甕
1点,布留系甕6点が出土した[czr-4]。久住(2004)は,布留系甕の1点を西部瀬戸内
地域製作と推測する。その他,韓半島系,東海系(S字甕B類C類),讃岐系壺棺の搬入品が
ある(久住2004)

庄内式が3世紀中葉に九州へ上陸してから、半島へ渡るまでの時空は短い。
東海系(S字甕B類C類)= 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁=
大彦の諸武士。

>畿内と九州中部との情報の行き来が殆ど無だったことに気がつけと忠告する。

だから女王卑弥呼は九州中部に設定出来ない。


755:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 18:13:06.18
方形4本柱竪穴住居が出現期(庄内式併行期)→受容期(布留式古・中段階)→普及期
(布留式新段階)の3段階の緩やかな変遷過程を経ることも確認した。

神功の渡海は、熊襲(佐賀)を討ち、現地で渡海の人員を募集する。
田油津姫は田平津姫の間違いである。
庄内式併行期=景行の九州。
受容期=大倭が伊都国に1大率を置く。274年神功渡海
普及期=323年神功49年頃まで。


756:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/23 18:59:27.07
>>754 コチラが~
設定するんではない。コチラが女王国を建国したんじゃないよ。当時も
人間が住めたに違いないから、設定は出来る。

757:メ
11/07/23 20:49:15.92
わっしょいわっしょい
祭りだ祭り
各地で祭りが盛んだねえ。
邪馬台国もいいが、家族とともに楽しむべしw

758:日本@名無史さん
11/07/23 20:51:04.02
ひそひそひそ メ よ いやーね 死んだらどうかしら

759:メ
11/07/23 20:58:18.92
こらこら
久しぶりに来たのに~
歓迎してくれないのか・・・


760:日本@名無史さん
11/07/23 21:00:35.16
メは雑兵、足軽だな

761:永久保存
11/07/23 21:12:15.39
516 : アラタメ : 2009/08/15(土) 16:20:49
>>513
>千餘里はあくまで上陸地。そこから先の広がりは別です。

>後漢書倭伝では「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
>女王国(九州)の東の海を渡った中国・四国・瀬戸内海諸島はみな拘奴国(畿内)の傘下に入った。
>これが纏向遺跡が出現する後漢末期の実態だったと思われます。
   中国・四国・瀬戸内海諸島とか妄想ですか?w
千餘里はあくまで上陸地。そこから先の広がりは別です。 ww

>これに危機感を覚えた卑彌呼は公孫氏に、次いで魏に朝貢し、東方諸国はみな自分の傘下にあると主張した。
>魏も先に朝貢した卑彌呼の言い分を認めたが、瀬戸内海は狗奴国が実効支配しており、調査もできない。
>そこで魏志倭人伝は「其餘旁國遠絶、不可得詳」「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と曖昧に書かざるを得なかった。
>こんなふうに推測しますが?

単なる妄想デス。

<晋書 帝紀>
正始元年春正月 東倭重譯納貢

少し考古学に関係しますが、重譯文化というのは何処だかご存知でしょうか?


762:永久保存2
11/07/23 21:13:37.65
517 : アラタメ : 2009/08/15(土) 16:24:14
<訂正>

重譯→銅鐸
518 : アラタメ : 2009/08/15(土) 16:27:00
やべえ やっちまったなwww

とりあえず、落ち(逃げ) またねwwwwwww


763:永久保存3
11/07/23 21:15:43.77
524 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2009/08/15(土) 17:00:21
改め氏は重譯→銅鐸と勘違いし、「東倭」は銅鐸文化だから畿内と言いたかった?
しかしウィキ「銅鐸」によると
「かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。
・・・しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと
(特に有名な例が吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。
ただし、現在でもこれらの出土分布の傾向自体は変わっていない。」
それに「東倭」と「倭」は違うでしょう。


525 : 太国 ◆yVAs7uaYlY : 2009/08/15(土) 17:00:35
ウワッハッハ!!www 無コテか~。

アラタメはチチクリアイの盲象大王!ppp

764:永久保存4
11/07/23 21:17:31.11
556 : 傷に塩をぬる : 2009/08/15(土) 22:44:49
>東倭重譯納貢
①東倭は倭ではないこと。
②重譯は銅鐸とまったく違うものであること、河童の解釈にかかわらず一般に「訳を重ねる」
 の意。
③晋代には銅鐸祭祀は廃れていること。

まあしかし、よく顔を出せるわwwwww

765:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 22:14:21.24
3世紀前半の前原王墓で奴国に大王が不在となる。
しかし魏国は後漢時代と同じく奴国を訪れる。ここで、卑弥呼共立。
卑弥呼共立に動いた勢力は、筑前、筑紫。この程度である。畿内大和は、筑紫に
協力する。(出雲、吉備等は崇神時代から大和の勢力範囲)
景行が九州で戦った跡として、鉄族が分布する。
九州勢は、石鏃や骨鏃が主体であり鉄族はほとんど無かったであろう。
鉄族が多く出土するのは、大分南西の山間部、筑後、肥後この様な分布を見る。
この中で南の狗奴国を比定すれば、熊本が狗奴国となる。
筑後川方面に鉄族が分布すると言うことは、この方面に女王卑弥呼を設定出来ない。
そして、この時代の武器は弓矢が主体となる。メスリ山の槍は、次の時代の武器である。


766:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/23 22:55:49.66
>>763
今の盲象大王は彼ではなく、宿主=唐松山 がそれです。ww

767:ひとぶた
11/07/23 23:13:22.83
>>766

何で唐松さんは「宿主」なんですか?

768:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 10:17:09.70
恐ろしい妄想増幅エイリアンの「毒書たるホツマ」の幼虫に15年ばかり
前に脳内が侵されて、毎回デタラメを書きこむ毎日であるが、その寄生虫
の宿主があわれなコヤツなのだ。

769:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 10:19:17.89
>>753 より 高橋浩二(1995)はこの時期の加賀,能登越中を対象とし,庄内系土器や東海
系土器などが北陸各地域へ一様に波及する庄内式新段階と,

北陸越前は大彦の領土である。伊勢(東海系)はその息子武淳川が入植している。
その物資が加賀、能都方面へ進出する。
この時代を設定すれば、日本武尊による関東遠征(256年か)の結果と捉える事が出来る。
つまりここが倭国統一のなった時代であり、大倭が伊都国に置いた1大率を畏れ憚る時代となる。
倭人伝にこの記事が有るということは、この時代まで魏の役人が伊都国にいてこの情報を
得ている。266年壹與の朝貢時も役人は伊都国を訪れ魏から晋へ時代の変遷を伝えて居る
であろう。そして274年の渡海を促す。要請(命令)による渡海であるから、仲哀の死
は無視される。軍事力も必要としない。そこで何を要請されたかを考えた時、それは、半島に
おいて伊都国に置いた1大率の行為を晋の軍隊から引き継ぐ。こうであれば、新羅も1大率
(倭国)の傘下となる。
神功49年半島占拠。この時、1度引き上げた軍隊を渡海派遣しているが、大きな戦いは
描かれていない。と言うことは、半島諸国に大きな軍事力は存在せず、倭軍(一大率)が存在
した証拠である。同様の軍隊が他に存在したとすれば、高句麗と扶余(百済軍)であり、
高句麗は自国、扶余(百済)は派遣であろう。
320年 平州刺史崔毖は高句麗へ出奔する。これで中国東北部、半島は政治的空白地帯となる。
323年 倭軍の渡海、取り残された百済軍を誘う。半島占拠と百済への領土分与。
百済立国と326年七支刀。
仁徳天皇十二年(甲申三二四)十二年秋七月辛未朔癸酉。高麗國貢鐵盾。鐵的。
この後331年(辛卯年)頃より帯方郡方面に領土を広げる百済、それを支援する倭国。
342年高句麗は前燕に大敗する。これを契機にこの地方の情勢は安定する。


770:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 10:44:07.94
妄想とは無いものを有ったかの如く考え想う事である。
例えば太国が主張する 180日の1年が存在する、9日程度の1ヶ月が存在する。
この様な思考を妄想と呼ぶ。
だから、この数字を暦として提示出来ない。
崇神世=卑弥呼時代も妄想である。
だから、崇神五,六年の災害を主張しない、また任那建国(書記の主張である)も
無い。
この妄想の発端は、七支刀=369年=新羅本紀。という設定から始まる、しかし、
この数字で半島占拠が容認されることは無い。
では何故主張の食い違いが発生したか?これを考えず無視したためにこの齟齬が生き続けた。
考古学は、この設定を比定し、時代を50年遡上させる。
ここで考古学と文献史学に50年の齟齬が生まれたわけであるが、文献史学はこの事実を
何故か?を考えていない。
考える事を捨てた想いを妄想という。
あわれ太国。


771:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 11:02:47.84
>>770
それは妄想ではないね。
古代マヤ研究の学者、専門家が解明して全員言ってる現実だから、
それがしの言う1年が180日の古代マヤの太陰暦の現地の各石碑の古代人
の書きこみは本物である。こういう古代マヤの学者らの認定する本物が
現実にあるんだから、こういうのを否定せねばならない宿主の大あわて
が目に見えるようだね。ウワッハッハ!www

古代マヤの太陰暦は中南米の現地のステラ等に多大に刻まれており、
1年が180日の暦法なのである。古代マヤの太陰暦は2倍暦法だったのだ。
それは学術文字 C で表現され、Cは各月を意味する。そこで

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

の1月~6月の古代マヤ書記の刻みこみにより、1年180日の暦を編んで
いたのであるのだ。それで 7C 8C ・・・ 12C というのは
2倍年暦だから当然書きこみに存在しない。宿主は大ウソ野郎だ。><

Cはマヤ神聖文字で右片手の上に人間か魔神らしき頭部の横顔があり、
これにjaという付属文字がついて月の文字としている。これはウソでは
ないのだ。

772:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 11:05:35.93
考古学は今
最後の平原王墓を3世紀初めとしている。
ここから238年の魏使訪問までが、倭人伝の「歴年無主」である。
この年代は、纒向遺跡の年代と整合している。
だから纒向遺跡(2世紀末各地の土器から箸墓まで)は、崇神、垂仁、景行の都である。
崇神を2世紀末に配さなければ整合性が得られない。またこの時代の大和に「歴年無主」は
設定出来ない。(「相攻伐」が「歴年無主」に発展し、卑弥呼共立にならなければならない。)
この思考を妄想とは呼べない。
あわれ太国。


773:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 12:58:39.93
1年が180日の暦法Cはかように古代マヤの太陰暦に存在しており、現に
古代マヤの学者、専門家の全員が肯定してることを否定するオマエは、
相当追い詰められているということだな。ww
つまりオマエの宿主空年の論の足元に火がついたということなのだ。

>大和に「歴年無主」は設定できない
倭人伝は九州の話であり、大和が畿内ならば別に設定する必要もない。

なお考古は毎回年代の上下の揺れがジェット・コースターの如くであり、
こんなのに編年を全部まかせるのは失敗が待つばかりの軽率な考え。

774:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 13:09:17.07
>それがしの言う1年が180日の古代マヤの太陰暦の現地の各石碑の古代人
の書きこみは本物である。

それが本物かどうかは感知しない。
事実は、その様な暦法が日本で使われていた、という太国の主張だ。
使われていた暦として、その数字と共に暦法まで主張出来て初めて真偽を検討できる。
真偽も検討できない暦法があったとする思考を妄想と呼ぶ。
しかも1倍暦、2倍暦、3倍暦が平行して行使される。←完全な妄想である。
”月”とは、月の満ち欠けを数えた30日程度である。←9日程度の1ヶ月も成立しない。
この様な思考を妄想と呼ぶ。
5,6月が存在しない暦も存在しない。5,6と云う数字は正月を1月とし、5,6番目の意味である。
だからこの思考も妄想である。
妄想年で思考された編年も妄想の産物である。
だから、崇神5,6年の災害も説明出来ない(ここは、凶作と翌年の逃散と考える)。


775:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 13:18:47.96
宿主空年こそ盲象そのものの暴走論だ。

古代マヤ暦には 1倍暦たるハアブ暦 と 2倍暦たる太陰暦(C文字)
と 準3倍暦たる夜の魔王暦(G文字、F文字)での構成がちゃんと存在
するわけであり、当時の朝廷がこういう3種の暦法を行使していたこと
は事例がかようにあることで、否定は出来ない。

むしろ空年などやってる地域は古今(西暦0年のみはある)どこにも事例
がなく、おまけの佛伝以前の朝廷には色即是空の考えなどあるとは到底
言えず、宿主空年が妄想だと断定出来る。ww

776:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 13:25:39.47
神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を【太陽暦】に改め、30日を一月と
 し、十月を1年と定め給う。

1年に5月6月が欠となるとこのように十ヶ月となるんだよ。ww

つまりこの文にコチラの論が整合する。

777:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 15:09:45.18
>1年に5月6月が欠となるとこのように十ヶ月となるんだよ。ww

神皇紀 人皇第一代 神武天皇元年に
5,6月が無いと書いて有るのか?そんな書き込みは存在しないんだろ?
だから妄想だと言うんだ。
>30日を一月とし、十月を1年と定め給う。
これでは1年が300日となり、地球の1年(365日)ではない。
だから、どっかの惑星の1年であろうと推測するのである。
その何処かの惑星の暦を大和朝廷が使用したと主張するから妄想であると断定するのである。
崇神紀に”正朔”の文字が存在する以上、書紀の”朔”は、太陰暦の1日目を指す。

>つまりこの文にコチラの論が整合する。
日本書紀に整合しないことは認める。そして整合するとすれば、地球以外の惑星である。


778:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 15:22:40.41
じゃぁその月二つはどこなんだね?
ヘッヘッヘーー それを先に言えてから否定しろ。ww

日本書紀も当時の記事は5月6月が欠ばかりだ。
これはアパート、マンションで4号室とか104号室の無い建物がかなり
多いように、これと同様のことだ。
しかし4号室104号室のあるアパーチ、マンションもあることは確かだ。
だから日本書紀でも佛伝前、5月6月のある天皇の代もあるのは当たり前
だ。これは時代の降下の途中で、主体暦法の変更があったということを
物語っている。つまりコチラの論は、このたとえからして整合している。

つまり例外的に佛伝前、少し5月6月の天皇の世があっても4号室
104号室のある建物もあることからおかしくはない。これはコチラの論が
整合してることを意味しているのだ。

779:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 15:27:47.11
訂正
× アパーチ
○ アパート

1年十月の神武の勅を継承して、5月6月を殆どの佛伝前天皇の代で無と
してやってたということだな。
これだと1年が十月という神皇紀の記述と確実に整合して
ることとなる。つまりコチラの論は確実に整合しているのだ。

780:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 15:30:19.02
日食が数日間継続するのは、この地球上では存在しない。
つまりオマエのこの神功元年前年の論は、地球以外の惑星である。ppp

781:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 16:19:44.26
>>777
ホツマの記事
    ↓
 孝安天皇 即位 1/7

オマエのはホツマに整合しないことは認める。ww

782:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 21:11:19.84
>>778
>それを先に言えてから否定しろ。ww

崇神天皇七年(庚寅前九一)二月辛卯《十五》◆七年春二月丁丑朔辛卯。
崇神天皇七年(庚寅前九一)八月己酉《七》◆秋八月癸卯朔己酉。
書紀は太陰暦で書かれているからこの 春2月丁丑朔から秋8月癸卯朔までは、
206日である。
明年(景行天皇元年辛未七一)春三月辛未朔壬午。
景行天皇十八年(戊子八八)四月甲子《三》◆夏四月壬戌朔甲子。
景行天皇十八年(戊子八八)五月壬辰朔◆五月壬辰朔。
景行天皇二〇年(庚寅九〇)二月甲申《四》◆廿年春二月辛巳朔甲申。
この夏4月壬戌朔から5月壬辰朔までは、30日である。
春三月辛未朔から春二月辛巳朔迄は、6910日である。
孝霊天皇元年(辛未前二九〇)正月己卯《十二》◆元年元年春正月壬辰朔癸卯。治世76年
孝元天皇元年(丁亥前二一四)正月甲申《十四》◆元年春正月辛未朔甲申。治世57年
開化天皇元年(甲申前一五七)正月癸酉《四》◆元年春正月庚午朔癸酉。

太陰暦は、19年が6940日が基本であり4章で1日を減ずる。
春正月壬辰朔から正月辛未朔までは、27759日=6940×4-1
正月辛未朔から正月庚午朔までは、20819日=6940×3-1

5,6月はこの様に存在している。
5,6月が存在しないという太国の思考は、妄想である。


783:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 22:00:32.97
5月6月が存在しないとはかたことも書いてはいな~い。
一部存在してると言ってるわけで、この日本語が「存在しない」と
読むというコイツは、その宿主が半島人だから誤訳をするんだろう?
はやく半島へ帰国しろ。>|<

再度言うが日本のアパート、マンションには4号室とか104号室の欠の
建物がけっこうある。しかし4号室、104号室のあるアパートマンション
だって存在する。
紀を見れば佛伝前、5月6月のない天皇の代はけっこうあるが、この事例
のように少ないが5月6月の記事のある代もあることは確かだ。
これは天皇の世の途中、暦法変更があったりしたことを物語っている。
即ちコチラの論はかような事例から、まったくおかしいとは言えない。

784:メ
11/07/25 19:03:22.84
>>761-764

過去のレスを引っ張ってきて暇人だな~ww
んで、何がしたいの?


785:日本@名無史さん
11/07/25 19:07:24.94
メ が来なければいいなあと思って

786:日本@名無史さん
11/07/25 19:08:07.16
>>785
相手すんな

787:通りすがりの俳人
11/07/25 19:57:54.82
嫌われし  人の記憶や  彼岸花

788:日本@名無史さん
11/07/25 20:12:43.13
ワロタ

789:日本@名無史さん
11/07/25 20:27:01.04
まてまて、季語が違ってるだろ

790:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/25 20:42:04.55
>5月6月が存在しないとはかたことも書いてはいな~い。一部存在してると言ってるわけで、

暦法とは、同じ暦を長く使うからこそ、その差異を得られる。
太国倍年の如く、ころころ変わっては、暦の意味を成さない。
太陰暦では19年が6940日で表されれば、全ての5,6月が存在する。
そして、正朔である。
それを認めた上で、正しい年数を得ようとしたら、”空白年の差し込み”が妥当である。
この時、日々の干支は、"正しい”から”引き延ばし”の証拠と変わる。



791:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/25 20:54:06.19
3世紀前半の平原の墳墓を最後に王墓は造られない(歴年無主)。

考古学の主張する編年を引き下げると、奴国の歴年無主が無くなる。
魏は後漢から禅譲を受ける。だから後漢に朝貢し金印まで下賜された
奴国を訪れる。←当然の思考である。
ここに”歴年無主”が無ければ、魏使は朝貢を促す相手がいなくなる。
残念ではあるが、崇神世=卑弥呼で纒向遺跡を説明することが出来ない。
考古学の編年を動かす事が出来ない事実が、平原王墓である。


792:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/25 22:04:29.22
ころころとは2千数百年の年数には全然なじまない。オマエのは今日A
だから、明日はBだとコチラが言ってるような言い草だ。ww

2千数百年の間、恒久的に暦法が同じだとは、到底言えない。それは
一部では数百年とかなかなか同一暦法の時期はあったことは否めないもの
の、案外変化してるんだぜ。オマエのは、神武から今の今まで同一暦だと
言わんバカりだ。ww

日本で変わらないのは、一系無窮の皇統だ。><

佛伝以前は朝廷に色即是空の思想などあるわけがなく、そんなものは
オマエの脳内以外存在しない。但し西暦0年は天体暦では使用して
るがね。これは特殊で利便のためあるわけだ。
おまけにそんな空年のインチキ挿入などすれば、当時の政敵に見つかれ
ば、とたんに密告されて、身の危険が切迫する。そんなやばいマネなど
やる奴はいないんだぜ。もしやったとしても、仲間からこれは年代計算
に誤りがあるぞと言われて是正されるのがオチだ。それも2回もそんな
ことをすれば、頭が狂ったかとか言われて更迭される。そんなバカな
マシなぞやる朝廷勤めの野郎なんぞどこにもいやしないんだぜ。ww

793:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/26 19:10:24.19
3世紀前半の平原の墳墓を最後に王墓は造られない(歴年無主)。
纒向遺跡は、2世紀末各地の土器が持ち込まれる(崇神 異俗多帰)から
箸墓築造までが、いわゆる纒向3代である。その中央に、
239年 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁 がある。

後漢時代、倭奴国は朝貢し金印を下賜される。魏は後漢から譲位された王権である。
後漢時代の奴国をないがしろにする事はない。倭国で“王”と表記される資格は、奴国に
しかない。魏使は伊都国を訪れる。ここに女王卑弥呼が共立される。
魏に対して、後漢から下賜された”倭奴国王“印は、有効である。
諸国王は、魏(後漢)に王位を認められたことがない、だから“官”と記される。
魏使は都市牛利に従い邪馬台国(大和)を訪れる。
晋書 正始元年 東倭重譚納具。 ここで、大和の王に王位が授けられる。(240年の朝貢)
魏から“親魏倭王”印を下賜される。
243年 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人。 
伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁

北史卷九十四 列傳第八十二 倭國 より
至邪馬臺國,即倭王所都。
其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。
其の王とは、乱の中の女王卑弥呼では無い、なぜならば「為法甚嚴。」この記事から乱の
中では無い。乱の中での共立女王では無理。
同書より、靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。

183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。(後漢の乱れ始め。)
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
冬の寒さは麦の不作、夏の寒さは稲の不作。
崇神12年の記事「寒暑失序。」は、この183年から193年にあたる。
崇神天皇十一年是歳。異俗多歸。國内安寧。ここには「乱」もなければ「歴年無主」も無い。


794:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/26 19:16:01.46
崇神12年の記事「寒暑失序。」は、この183年から193年にあたる。
崇神5,6年の百姓蒙災。

太国倍年では、説明出来ない。だから鏡銘で説明した如く見せかけているだけである。


795:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/26 19:17:04.71
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

臣下は神州では天皇にはなれない身分。つまり両者は別人である。
したがって、等号は成立しない。

796:日本@名無史さん
11/07/26 19:18:23.55
【滋賀】「邪馬台国は守山にあった!」とする近江説を盛り上げる動き…銅鐸出土で
スレリンク(newsplus板)

797:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/26 19:22:30.66
日食が数日間も続くという説で固めた論は小学生でも分かる出鱈目である。

なおホツマとはそんじょそこいらのタダのオッサンが恣意的インチキ妄想
を入れて書いた毒書であり、日食が数日間も続くという電波星からの
大デンパを受信している男なら、そういうことも遠い電波星では
あるということを頑張って言うんだろう?ppp

798:日本@名無史さん
11/07/26 23:20:34.27
モモソ姫が卑弥呼に一番近いのかな。

■ヤマトトビヒモモソ姫の名前は、魂が肉体から離れるの意
■記紀に巫女的性格の内容。
■モモソ姫伝の箸墓の直径が倭人伝の記述とほぼ一緒
■巻向に大量の桃の種、モモソ姫のモモはここから?
■国宝の海部文書の中に日神、大市、日女命(卑弥呼?)と書かれてる

記紀には、邪馬台国も卑弥呼も除外されている。
記紀を編集した人たちは、数百年前ぐらい誰が日本を支配していたかは知っていたはずなのに
邪馬台国のことはくわしく書かれていない。
記紀は天皇の正当性を主張するためのものだから、邪馬台国と卑弥呼のことが書かれていないことは
目障りなもの。天皇家の系列ではないのかもしれない。
あと、海部文書の系図の卑弥呼も気になる

799:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/27 14:19:19.51
書紀は允恭4年に盟神探湯で氏姓自定をした、と明記されている。
つまり、書き換えられた部分のあることを比定できない。
だから、この記事を無視して世継ぎを推定しても正解は得られない。
その最たる所が、神功、応神紀に渡って書かれた百済王家である。
百済王家を正しいとした場合、神功、応神世は長すぎる。
百済王家を無視して短くするのが正解か? だから神功、応神世の出来事を検証
する必要が有る。
神功渡海から誉田御廟山までが110年である。
福岡西新町遺跡には、3世紀後半の布留式土器と半島の土器、カマドが共存する。
ここを神功渡海の指標とすれば、110年後の4世紀末近くが誉田御廟山である。
神功の磐余稚桜宮の指標を桜井茶臼山としてもほぼ同様である。
しかしこれで得られる七支刀は326年になる。
百済本記に合わせれば、七支刀は369年である。
この齟齬を鑑みると、書紀の日々の干支と百済本記の日々の干支は整合する。
百済は49年の領土分与より倭国に臣従する。だから書紀に記載されたとすれば
420年 久尓辛王即位。高句麗と倭は、413年そろって東晋に朝貢する。
この時、百済王は、高句麗国に含まれる。つまり久尓辛王の記載が書紀にあり、次の
王名が記載されないと言うことは、久尓辛王迄が倭国に臣従する百済王家でなくては
ならない。次に記載されるのはガイル王の反乱である。


800:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/27 14:20:21.15
ハッキリ言うと、百済本記は、高句麗に占領された50年の歴史を欠く。
ソウルに造られた、積石塚は高句麗の墓である。決して肖古王からの墳墓では無い。
百済本記 肖古王
東漢桓帝延熹9年 :丙午年1月辛卯朔166年2月18日 この年肖古王即位 
東漢獻帝建安19年 :甲午年1月癸未朔214年1月29日 この年肖古王崩御
百済本記 近肖古王
東晉穆帝永和3年 :丁未年1月庚申朔 西元347年1月28日 この年近肖古王即位 
東晉孝武帝寧康2年 :甲戌年1月癸未朔374年1月29日 の年近肖古王崩御
書紀の肖古王
西暦273年日食、西暦275年を神功元年として、
西暦301年?皇暦888年、神功28年戊申1月辛卯朔 この年肖古王即位か?
西暦328年◆皇暦915年、神功55年乙亥1月癸丑朔? この年、百濟肖古王薨。
庚申朔と辛卯朔は1ヶ月の誤差。 癸未朔と癸丑朔は1ヶ月の誤差。
書紀は、「百濟記云 壬午年」の如く年の干支で記事を差し込んでいるが、肖古王の干支
は合わない、つまり差し込み記事では無い。差し込み記事でないから神功、応神紀は
短く出来ない。世継ぎに書き換えがある。


801:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/29 18:00:23.05
URLリンク(www.bbweb-arena.com)
狗邪韓国=任那=金官伽耶
大成洞古墳群の特徴は、丘の上に3世紀頃から突然副葬品を多く持つ木槨墓が作られるよう
になったことである。それまで金官の中心はより内陸にあったものと 考えられるが、大成洞
の地域に中心勢力が移り、他と比べて大きな力を持った支配者ができたことを示している。
3世紀末頃に作られた29号墳からは大量の土器、鉄製鏃、刀子、刀の 副葬品が発掘され、
さらに床からは板状の鉄斧もでてきた。青銅器、玉などもちりばめられ、厚い埋葬をしてい
る様子が分かる。
さらに規模の大きくなる39号墳からは2体の殉葬者も発見されている。29号墳と39号墳は
現地に墳墓の様子が復元されているが、39号墳が29号墳を切 り欠いていてその関係が論ぜら
れる。遺物からすると北方の騎馬民族の文化が強力に流入したようである。これらの墓からは
倭系の遺物も出てきて、当時の金官 伽耶の国際的な地位がよく現れている。
なお、5世紀になると突然このような大規模な墳墓は作られなくなる。400年に新羅高句麗
軍によって打撃を受けたことと関連していると考えられる。その後 中心勢力がどこに移った
かも今のところわかっていない。

三国遺事によると
伽耶の建国は、210年頃である。その後541年迄王朝は続き、新羅に降る。
その間、330年、王朝の交替は無い。

大和の木槨墓は、箸墓に先行するホケノ山古墳にあり、楽浪鏡が副葬される。
29号墳が3世紀末頃であれば、39号墳は、308年永嘉の乱に対応すべく馬具、甲冑の製作
が増える。畿内の古墳の副葬品が祭祀器物から甲冑に替わる。(西晋滅亡後)
323年 神功49年 半島占拠。ここを遅くすると大型墳墓が5世紀にはみ出す。
高句麗の南下は、金官伽耶に大打撃を与え、倭国は、新羅・百済を失う。
高句麗軍によって打撃を受けた倭国でも大型墳墓(大仙陵)が5世紀に造られる事は無い。
欽明天皇二年(五四一)四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。ここが伽耶滅亡。


802:日本@名無史さん
11/07/31 01:16:26.32
このスレの過去スレで何とか山のベクトルがどうのこうのって
たくさんの書き込み見たけど、たぶん昔の会社の開発の上司のような気がしてきた。
あんたあれほど2ちゃんが嫌いって言ってたのにバリバリ2ちゃんに書き込んでるじゃんw

803:卑弥呼
11/07/31 11:51:45.74
卑弥呼は私だよ。

804:日本@名無史さん
11/07/31 12:51:28.10
>卑弥呼は私だよ。

3世紀の住所と現住所はどこ?

805:日本@名無史さん
11/08/01 00:44:24.17
卑弥呼にしろ倭国にしろ、漢字だね
日本がこのような漢字を当時当てはめることはない


806:卑弥呼
11/08/01 22:31:37.24
当時も今も変わらない。
僕はここにいる。
ただ、うちには"邪"が棲んでいる。それを斬らないといけない。
そのための剣を今夏取ってきます。

807:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/02 22:32:32.79
北史
漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣朝貢,謂之倭奴國。靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。
至邪馬臺國,即倭王所都。
其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。
魏景初三年,公孫文懿誅後,卑彌呼始遣使朝貢。魏主假金印紫綬。
倭人伝
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬
其年十二月詔書報倭女王曰 制詔親魏倭王彌呼
正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王齎詔賜金帛錦刀鏡采物 倭王因使上表荅謝詔恩
 其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳緜衣帛布木短弓矢 掖邪狗等壹拜率善中郎印綬
晋書 正始元年 東倭重譚納具。

倭人伝のいう“親魏倭王彌呼(親魏倭王卑弥呼)”は、登場が景初3年である。叙勲の記事は無い。
しかし、梯儁は、正始元年に邪馬台国を訪れ、そこの王に「倭王を賜る”から来い」。と言うことで、その年の内に
洛陽を訪れ、倭王を賜る。その結果が正始4年の記事である。なのに、正始元年に成立する“倭王”、であるにも
拘わらず、これ以降に、“女王卑弥呼”や“女王国”の記事が有る。これは、何を意味するか?
“女王卑弥呼”は“女王国”。対する“倭王”は“邪馬台国”なのである。

238年魏使は、伊都国を訪れ、倭奴國王に面会を求める。しかし、奴国は靈帝光和中の凶作後乱れ始め、
(後漢の乱れ始めと同じである)奴国に臣従していた諸国は離れる。ここで疲弊するのは、諸国から徴税
が出来なくなった奴国である。
考古学:3世紀初めの平原王墓を以て王墓は造られない(歴年無主)。
奴国王は、まだ臣従する諸国や、協賛する諸国を集め、卑弥呼を共立する。
女王卑弥呼は、後漢が王と認めた倭奴国王の末である。だから魏は、そのまま(叙勲もせず)女王卑弥呼
と記す。
景初3年 女王卑弥呼の代表として、難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫(斗は書紀)。
副使 邪馬台国(伊支馬=イクメ=垂仁)の代表として 都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁。
卑弥呼が叙勲されて“倭王”を名乗るなら、景初3年で十分である。


808:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/02 22:53:45.95
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

臣下は神国日本では絶対に天皇になれないのが掟であるからして、
等号は朝敵がいいやすい完全なデタラメである。すなわち恒久的に
不等号が成立する。

809:日本@名無史さん
11/08/02 22:53:58.30
>>807唐松山さん
>都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守

その説はあまり聞かない。無理な語呂合わせでは?

都市牛利について最近よく聞くのは、古事記に出てくる旦波大縣主の由碁理とみる説。
この説は、唐松山さんはどう考える?

810:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/02 22:55:08.53
稀代のデ○パ

811:日本@名無史さん
11/08/02 23:03:41.77
都市牛利=田道間守説はあるよ。黄幢が非時の香の実という見立てだろう。


812:日本@名無史さん
11/08/04 21:08:24.85
年寄りは黙ってろ!

ってことだろう?


813:日本@名無史さん
11/08/04 23:00:28.54
>>809

> 都市牛利について最近よく聞くのは、古事記に出てくる旦波大縣主の由碁理とみる説。
> この説は、唐松山さんはどう考える?

唐松山氏ではありませんが、
倭人伝では
  「皆裝封付難升米、牛利還到録受。」
  「みな裝封し、難升米、牛利に付す。還えり到りたるに録を受け」
と「牛利」とも書かれています。
さすれば「都市牛利」と言うのは「都市」の「牛利」で、名前も部分は「牛利」だけ。
「都市」と言うのは、漢時代の官制に下級の市場役人で「都市」と言う職名のものがあります。
正使の難升米が「大夫」ですから、副使の牛利には丁度見合の称号のように思えます。

814:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 10:29:00.63
>>809
>古事記に出てくる旦波大縣主の由碁理とみる説。

名前だけで正当性を訴えても考古学が付いてこない。
考古学:弥生後期後半 唐古・鍵遺跡などの放棄。←崇神6年民の離散
考古学:2世紀末各地の土器が纒向に持ち込まれる。←崇神11年異俗多帰
書紀:崇神世に任那(狗邪韓国)建国
考古学:3世紀初めの大型建物←垂仁珠城宮
書紀:田道間守の派遣。239年倭人伝都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守
伊支馬=イクメ=垂仁
考古学:3世紀半ば 土盛りと整地をして、日代宮(土盛り=土地が乾く=ヒ、平す=しろ)
考古学:庄内式土器が九州にもちこまれる。←倭人伝247年ころ、書紀景行12年から
考古学:福岡西新町遺跡の庄内式←倭人伝:大倭は伊都国に一大率を置く
考古学:福岡西新町遺跡の布留式と半島の土器←神功渡海
神功元年あづないの罪←273年の日食を指標とする。

この数字を太陰暦(崇神正朔)で表記する。

遣使派遣は奴国王(共立された女王卑弥呼)、ヤマト(邪馬台国)は初めて派遣する
正使の難升米が「大夫」=奴国代表、書紀:難斗米=ナトベ=難(奴)トベ

815:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 10:46:59.48
人間に支配されるは猿のほう → 臣従の伊支馬
猿を支配するのが人間のほう → 垂仁天皇

従って

 臣下 伊支馬≠垂仁天皇

等号は成立せず、これを等号にする野郎は、まるで映画の

 「猿の惑星 創世記」

だ。ppp

816:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 10:47:24.11
書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。19年=6940日=1章が基本。
天皇   西暦    増し 
神武天皇 42年~63年 3章 手研耳による空白年を含む。
綏靖天皇 64年~77年 1章
安寧天皇 78年~
懿徳天皇    ~93年 3章 安寧、懿徳は同じ暦 安寧、懿徳は兄弟。
孝昭天皇 94年~119年 3章
孝安天皇 120年~145年 4章
孝霊天皇 146年~164年 3章
孝元天皇 165年~183年 2章
開化天皇 184年~187年 3章-1年(56年) 開化、崇神は同じ暦
崇神天皇 188年~216年 2章+1年(39年) 
垂仁天皇 217年~239年 4章
景行天皇 240年~261年 2章
成務天皇 262年~265年 3章 成務、仲哀は同じ暦の可能性が有る。 
仲哀天皇 266年~274年 0章
神功皇后 275年~343年
応神天皇 344年~384年 

仁徳天皇 313年~399年 神功三九年大歳を元年とする。
履中天皇 400年~405年 
反正天皇 405年~411年
允恭天皇 412年~453年 同4年盟神探湯。


817:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 10:55:45.44
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

所詮、猿は人間ではない。猿を人間にしてるのが宿主のデタラメ論。

なお日食は数日間継続はせず、せいぜい数分間であり、これでは
とても常夜の状態とは言えない。
まぁ宿主は遠い遠い猿の惑星とかデンパ星あたりでは、日食が数日間
も続くとの受信をかの天体からピピピ・・・ともらっているらしい?

818:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 10:57:21.84
>>816
日食が数日間も続く数値を得てるらしいが、これでそんな数字が信用
できるかね?ww

819:日本@名無史さん
11/08/07 11:13:16.36
あいも変わらずに、太松論争、まだやってるんかいな。
もはや、2CHの古代史スレの名物だな。
この先、死んでもやってろ。

820:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 11:24:29.57
牛馬の渡来
“牛馬”と書いて“うま”と読む。
牛馬が大和に来たのは、箸墓の少し前である。その時まで大和では、牛馬は知られていない。
最初に持ち込まれた大型動物が“馬”である。大和の人民は、初めて見るこの大型動物を
“ウマ”と呼ぶ。次に牛が登場するのであるが、名を呼ぼうとして“ウッ”と言葉に詰まって
しまう。“馬”を“うま”と呼んでしまったから、“牛”の呼び方がない。
そこで、この動物を“ウの主”つまり“うし”と呼ぶ様になったのである。
チジュ島の東に牛島という小島がある。その呼び名が“ウ島”なのである。


信用出来ないのは、180日を1年などとする太国倍年で有る。
だから、崇神五,六年の災害も説明出来ない。

821:日本@名無史さん
11/08/07 12:28:26.90
豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと、『日本書紀』には豊耜入姫命)は崇神天皇の皇女で、
崇神天皇6年、父天皇の命で天照大神を宮中から笠縫邑(かさぬいのむら)に遷し祀り、以後、垂仁天皇25年3月10日に倭姫命と交替になるまで祭祀を続けたといい、そのことが伊勢神宮の斎宮制度の濫觴となったとされている。
奈良県桜井市にあるホケノ山古墳を豊鍬入姫命の陵墓とする伝承がある。
豊鍬入姫命が台与だとすると、卑弥呼は、その母、紀国造荒河戸畔(あらかわとべ)の娘、遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)であることは間違いない。
邪馬台国は紀伊半島にあったことは明白。

822:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 12:55:00.25
>>821
残念ではあるが、相攻伐、歴年無主が設定出来ない。

ハニヤスヒコの反乱は、妾の子崇神が位に就いたのを、嫉んでの戦であり。
直ぐに終了している。
無主を主張するならば、ハニヤスヒコ側にあるが、復活した形跡は無い。
遠津年魚眼眼妙媛まで、無主歴年の説明が必要である。

その前に 崇神世=卑弥呼時代と時代を重ねられる文献が存在しない。
崇神12年 寒暑失序は、後漢183~193年を宛がう事が出来る。


823:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 13:48:38.33
>>820
信用出来ないのは、オマエの宿主空年であ~る。

1年が180日の暦法は古代マヤの太陰暦に現存する。オマエよりマヤ学者
のほうが信用できる。ww 当たり前だな。

古代マヤの太陰暦は通常、長期暦の後に1年260日暦法のツォルキン暦の
次あたりに準3倍暦法のG,F文字に並べて、C文字で示されている。

ところがいろいろこれらマヤ暦を調べてみても、空年などの馬鹿下駄暦法
をやってた形跡は全然無い。これを観ても、宿主空年がデタラメであると
断言出来る。そんな空年などをこさえれば年代が殆ど撹乱され、マヤ王の
怒りにふれ、チャック・モールの上で生贄の罰を受ける身の危機が切迫
するから、やる奴などいやしない。

1年が当時6ヶ月の半年であったこのC暦法は当然現今の1年では2年
だったわけで

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

の6ヶ月で180日で一周する。だから現今の1年では2周するし、当然
7C~12Cは2倍暦のため存在しない。

つまり宿主空年とは宿主の脳内の盲象産物であ~る。ww

824:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 15:20:51.73
>>823
その暦を使って、崇神3倍年の、崇神五,六年の災害を説明出来ない。
だから、かわいそうな妄想、と哀れんでいるんだ。

編年とは、正しい歴史認識にある。
歴史を語れない太国倍年は、哀れである。


825:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 16:03:11.25
42年を宿主空年で説明出来ないい。ww

大金(年代)の編年に小銭(日々の干支)がどのこうのと焦点ボケの
オマエは、美濃もん太氏から要領の極めて悪い~メリットのない無駄な
労働だと笑われていた。

当然だな。日々がどうのこうのなんぞ、太陽暦でやろうと太陰暦で
やろうと、いずれも年代の誤差はたかが知れている。そんなあさってに
近いことは参考には必要なるも、これを(日々を)主体的にああだこう
だ論じるのは、○ヌケな話だということだ。ww

826:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 16:11:59.02
>>824
災害が天津神とかの祟りだと考えたから、倭笠縫に日神と日像鏡を祭祀
したわけで、軽く説明が出来てるね。

出来ないのは、192,3年が崇神5,6年だとすると船舶が製造されておらず、
船舶のアリバイがない年代であり、これでは千人もの大量人数を渡海
など出畿内。ww

だからオマエの論はデンパ星にありそうな人間電送機で千人もの空腹連中
を瞬間電送するとかいう話に似たりよったりであり、そういう天体からの
デンパを受信して教えてもらっているならば、まぁコチラが大宇宙をくま
なく見物したわけではないことから、否定するのは可愛そうだという
ことだ。ww

827:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 16:27:02.13
>災害が天津神とかの祟りだと考えたから、倭笠縫に日神と日像鏡を祭祀
したわけで、軽く説明が出来てるね。

倭笠縫に日神を祀ったと記されているが、鏡は、太国の差し込みである。
その災害は、五年=疫病←凶作、民の死←餓死
六年=民の離散←逃散
七年冬=民は糧を得ている。
つまりここは、3年の歳月が必要である。

太国倍年でこの災害を説明出来ていない、説明が出来ないから、
哀れんで上げるのだ。

>船舶が製造されておらず、
船は海で使われている、対する崇神の領土に海は無い。
崇神が領土を広げるのは、四道将軍を派遣した結果である。だから、その後に
崇神は船を造る。
崇神17年迄船が無かったとしたら、銅製品、や原料、鉄が無かったと主張しているのか?
哀れな思考だ。


828:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 16:45:33.47
哀れなのはオマエのほうだ。
だいたい編年を議論してるときに、補助的論になる日々の干支がどうの
こうのだとか焦点があさってのほうに向きすぎるのがオマエの脳内だ。
「万」の日数を数える暇があったら、年のほうに焦点を当てろ。><

オマケに臣下は天皇にはなれない身分なのに、臣従する伊支馬を垂仁天皇
に仕立て上げている。笑止千万だ。これでは猿(臣下)を人間(天皇)に
仕立て上げてるわけで、これではまるで月光仮面ならぬ~日光仮面での

 万モス・コング

に似て、「猿の惑星」同然であ~る。ppp

829:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 17:03:57.43
>編年を議論してるときに、補助的論になる日々の干支がどうの

1年は365日が基本と成る。
太陰暦では12ヶ月が基本であり閏年を設けて調整している。
太陰暦は、青銅製品と一緒にもたらされる。これが弥生農業の基本と成る。

>「万」の日数を数える暇があったら、年のほうに焦点を当てろ。><
1年は12ヶ月である。12を数えるだけで1年が得られる。文字も数も知らなくても、民でも出来る。
ところが、太国倍年の主張こそ数を数えなければ成立しない。
正歳を知らない民が郡の市に参加出来るのは、12を数えられて、閏年を知れば出来る。
しかし、太国倍年で中華の太陰暦を知ることは出来ない。
だから、崇神5年に景初3年を充てることが出来ない。
だから、哀れんで上げるのだ。


830:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 17:40:36.09
ミ05016      ソフホスエ ミオムソヰカの
ミ05017      ヒのメクリ ヒトセになりて
ミ05018      ハルアキと ヨツにわかるゝ
ミ05019      クワのネも ツキはソフタビ
ミ05020      ホシにあい なるソフツキの
ミ05021      ソフホスヱ

書紀の干支はそのまま記録された物であれ、後付けであれ
再現出来なくてはならない。
日々の干支を否定した太国倍年も後付け説である。
書紀の太陰暦を再現することは出来ない。であれば、全ての数字を自ら否定した先に
太国倍年が存在する。再現出来ない以上、正しいと出来ていない。
正しく無いことは太国自身が知っている。しかし、太国には書き換える能力が無い。
この能力の無さを哀れんであげているのだ。


831:日本@名無史さん
11/08/07 17:56:35.85
勝手に死ぬまでやってろ。

832:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 19:40:28.04
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~と、コチラを口撃していた男
が~ 

 ~偽書といわれる書物を持ち出した~~。


そうだろう? どうやらオマエは半島人か中国人あたりと認定した。ww

中国は日本より早く佛伝があったから色即是空が浸透しており、このため
オマエは日本にない宿主空年の妄想を伝播させているらしい。ww
当時朝廷には色即是空の理はあるわけがなく、これは編年での宿主空年が
成立しないことを意味する。

なお臣従者たる伊支馬は垂仁天皇ではなく、双方は無関係の別人で
あるからして、同一人物説は成立しない。つまり猿は人間にはなりえ
ない。ww この猿を人間に仕立て上げてるのがオマエの論であり、
これでは映画の「猿の惑星 創世記」さながらの滑稽説であり、また
年代の誤差が出にくい日々の干支にこだわっているオマエは、まるで
月光仮面ならぬ日光仮面での

 マンモス・コング

さながらの盲象論を展開している。ww

また日食は数日間も続かずせいぜい数分間であるからして、神功紀の神功
元年前年の記事は日食にはなりえないのは、斉藤国治先生以下天文学者
の肯定する鉄則であり、当然毒書ホツマはこれに拘束される。

833:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 20:12:19.60
>>827
>鏡
なんでも「磯城郡誌」には崇神天皇の時代に日御象鏡を改鋳したと記され
ているそうだねぇ~。
「古語拾遣」にも崇神天皇の時代に鏡を鋳造したとあるそうだ。

森浩一先生も八尾の鏡作神社△鏡の内区だけの遺品があって、鏡製作の
原型と推定すると言っておられるという。

鏡作神社の鏡の改鋳は、崇神6年9月3日だな。

このことは△239年鏡銘文の239年(=景初3年)が崇神6年に近接
することを物語っているのだ。つまり宿主説は崩壊であ~る。ww

泣いてるか~?ppp

834:日本@名無史さん
11/08/07 20:43:26.60
ところで日食が数日続けて起きるのは証明出来たの?

835:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 21:25:15.90
>鏡作神社の鏡の改鋳は、崇神6年9月3日だな。

この主張は、△239年鏡銘文の元と成る鏡が崇神6年に存在したと言いたいのか?
△鏡が全て仿製鏡でも構わないが、その元と成る画像が何時舶載されたか?
楽浪鏡は230年代であろう。しかし、△縁鏡の元と成る鏡が洛陽に登場するのは
晋時代に入ってからである。
だから仿製内向花紋鏡は造れるが、景初3年銘鏡の元と成る画像、画文が輸入されるのは3世紀後半である。

だから太国の書き込みは、整合する文献とはならない。



836:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/07 21:33:39.54
三角縁神獣鏡は四世紀に大和朝廷のもとで作られた国産鏡である。 「卑弥呼に下賜された魏鏡」ではない。
「三角縁神獣鏡は魏の鏡である」という仮説は他の多くの諸事実をうまく説明し得ない。

私の説ではないが、三角縁神獣鏡が卑弥呼と重なることは無い。
全くその通りである。


837:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 22:13:29.17
舶載鏡でないことは王さんと言ったか、オマエの故郷らしい中国の学者さん
がそう説明してるぜ。これは権威がある。
過去にオマエの言う△が舶載だという論は成立しない。このことは、500枚
とか多出しているこれらの鏡が卑弥呼と無関係だということを物語る。

つまりオマエの言う畿内邪馬台国説は成立しない。オマエのは、現今で
いえばエリザベス女王が英国にいて邪馬台国が日本アメリカだとか言う
も同然であり、このような支離滅裂のオマエの論はボロがここでも丸見え
だということだ。ww オマエはひどく浅薄なのさ。

838:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/07 22:21:40.06
>>834
宿主の計算にデカイ誤りがある証拠である。

つまり奴の計算は全然デタラメだということだ。
まぁ奴は猿の惑星とかデンパ星とかに日食が数日間も継続するという
すごい天体があって、そこのデンパ星人とかから「こちらでは日食が
数日間も続くんだ」というデンパを奴がピピピ・・・と受信してると
なれば、大宇宙は広大無辺であるからして行ったこともないので、
ニヤニヤ ないとは言えないと奴に言ってやるほかはないだろう。w

839:日本@名無史さん
11/08/08 11:26:30.90
おまんらの論争、書籍化しろ。
挿絵入りで出せ。

840:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/08 19:54:49.13
>>833
>崇神6年9月3日だな。

↑この日付は何に合わせた日付なのだ?
太国が後付けを主張する書記の太陰暦に合わせたものでは無いだろう?
1年が180日の太陽暦に合わせたのか?
太国3倍年に合わせたのか?

その辺の主張が無い限り使い物にならない。
かわいそうに。



841:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/08 22:03:29.29
そんなヒマがあったら~
オマエの日食が数日間続くとかいう計算値が合ってるのか、とでも
考えろ

これはオマエの算術がゴミだ~といことを意味する。つまりジョーカーの
言うゴミクズ・レベルだから、日食の暗黒時間が数日間も続く数値を
オマエがハジき出したというザマだ。ww

昨日あたりも書きこんだろう。その年月日は 鏡作神社 の由緒等からだ。
これはゴミではないぞ><

842:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/08 22:14:02.82
>>840
~西暦42年

↑この年代は何に合わせた年代なのか?

この辺の主張が無い限り使い物にならない。
かわいそうに。

843:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/08 22:24:59.53
>その年月日は 鏡作神社 の由緒等からだ。これはゴミではないぞ><

だから~その年月日が、書紀から採用されたもので有るならば、
太国が、”後付け”と主張して捨てた日付なんだろ?
その捨てた日付を他から拾い出して「どうだ!!」といわれてもねえ。

3世紀半ば過ぎの西新町遺跡には、半島の土器とカマドが存在する。←ここを神功渡海とすれば、
270年代に渡海を設定出来る。
それから、110年後が誉田御廟山であり、百済王家は倭国に臣従する時代の記録である。
書紀は、百済記の記事を年の干支で合わせている。
しかし、百済王家の年の干支は百済本記と整合しない。だから倭国の記録である。
であるならば、400年前後に高句麗が南下し、百済を属国としたときの記録は記載されない。


844:日本@名無史さん
11/08/08 22:40:53.83
卑弥呼は神功皇后に殺された、あり得ませんかね?

845:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/08 22:58:12.66
>書紀から採用・・・
笑わせるな。wwwww
書紀とは別の伝えだね。>のオマエの仮定は成立しない。

846:日本@名無史さん
11/08/09 07:15:04.45
>>844
記録で証明できない妄想は疲れるだけかと……。

847:日本@名無史さん
11/08/09 15:06:10.58
>>846
ありがとうございます

848:日本@名無史さん
11/08/09 22:29:08.19
私は卑弥呼。
僕は彼女の付き人さ。

849:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/09 22:46:11.41
>書紀とは別の伝えだね。

であるならば、書紀の年月日を後付けとして無視する事は出来ない。
よって、太国倍年は潰える。
かわいそうに。


850:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/09 23:16:10.08
>>849
コチラは別に無視していな~い。オマエのように大金(年代)を動かす
ときに万札よりも,終始小銭がどうのこうの何枚だ何枚だ~~~~と、
[こればかり]強調している○ぬけな野郎だということだ。それは日数
(小銭)も軽視してはならない~1円を粗末にする奴は1円に泣くとか
の話があるからな。格別にその機に応じて小銭(月日)を出すのは当然
だ。がしかし万札をなおざりにして編年において小銭のほうを何枚だ
不足だ~~とか四六時中能書きを垂れて○呆のように小銭のほうばかり
こだわっている。要領が悪いのがオマエの脳内だ。そんなに小銭の計算
など編年には必要がな~い。必要があるとき格別に出して使うのが適正な
小銭(月日)の使用なのだ。それを捨ててるとか言うオマエの誤解釈は
支離滅裂の見本であ~る。

何枚だ~は南無阿弥陀だけでよい。><

畿内から△鏡が多出するのは、景初3年が鏡作神社の由緒
たる崇神6年近隣に位置してるからであり、景行元年にはそんな事象を
関連づけるモノは見当たらな~い。つまりオマエの編年はデタラメなり。

851:メ
11/08/10 11:40:24.70
>>844

あんた、関ゆーじ邪馬台国本の読み過ぎだぁぁ


852:日本@名無史さん
11/08/10 20:07:16.35
>>844
卑弥呼が亡くなったのは西暦248年でほぼ確定している。神功皇后が応神天皇
の母君として実在した方と認めても、その年代は西暦350年から400年ころ。
どうして貴方の推測が成り立つの? 関ゆーじ氏が最近、ぴーえっちなんとか
から干されてしまったのは、そういう時代考証をせずに書き散らしているから
だそうだよ。

853:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/10 20:59:44.51
>時代考証をせずに書き散らしている

神功渡海とできる時代は、西新町遺跡に布留式と半島の土器が共存する時代である。
纒向でいえば、桜井茶臼山が磐余稚桜宮の時代であり、110年後が誉田御廟山である。
神功・応神にかかる百済王朝は、倭に臣従する時代であり、高句麗が南下した
400年を過ぎることはない。

神功紀とは、倭人伝景初3年に合わせる為に空白年を設けている。
だから、この空白年は現実の時間が流れている。
274年 神功渡海。
275年 神功元年。 273年の日食が指標である。
323年 神功49年 半島占拠、百済建国はここが指標
326年 七支刀。
ここから、50年ほど臣従する百済王家。


854:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/10 22:42:04.96
神功当時、朝廷は色即是空の思想を持ち合わせていな~い。
何のデカイ利害など存在せず、宿主空年の設定などするわけもなく、
そんなことをすれば、当時での公文書偽造罪で身の危険が切迫するため、
そんな設定をするやる必要もなく、この論はデタラメであ~る。

なお日食は数日間も継続しないから、神功初年前年の紀の記事は日食には
ならない。


つまり宿主空年は完全なデタラメ・インチキである。

855:日本@名無史さん
11/08/11 00:43:40.41
>>851
関裕二さんも言ってるんですか?
自分は別の所でこの情報を仕入れました
もしかしたら関裕二さんの書籍だったのかもしれませんね
自分は全体的に井沢元彦さんの見解に興味があるのですが、卑弥呼については神功皇后に殺されたという仮説が面白いと思います

856:日本@名無史さん
11/08/11 01:23:22.07
>>852
手元にある資料には応神天皇の生没が200年~310年111歳(かなり怪しいですが)と記載されているので卑弥呼と神功皇后は同時期に存在したのではないかと(だとしても神功皇后はもう年寄りですね)
この資料自体怪しいのでしょうか?

卑弥呼が神功皇后に殺されたという仮説は面白いと思っただけです

こちらの聡明な方々のご意見をお聞きしたかった次第です

857:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 10:12:00.30
神功皇后と卑弥呼とでは年代が100年以上違いがあるから、神功が卑弥呼を殺害
するという仮設は成立しないな。

なぜこんなに年代差があるのかというと、卑弥呼生存の相当年代に神功に
かわる女王的人物が皇統にいなかったためで、神功は即位してにないが摂政だと
いうことで、紀の編者らが卑弥呼が神功ではあるまいかという考えを多かれ
少なかれ持ってたことから、神功紀に卑弥呼の記事を挿入したもの。あとは
以下のとおり。

編者らは紀の原書群の中に他に卑弥呼に当たる相当人物がいなかったことで、
こういう迷いから、神功紀に記事を入れこんだもので、また相当人物がいない
ということは、(百襲媛は即位も摂政もなっていない)卑弥呼が畿内の女王
でないことを物語る。つまり卑弥呼は九州の人物だということだな。

また百歳以上の意味の超長寿の記載は、当時朝廷が倍暦を行使してたため、
このような数字になっていたということだ。2倍暦ならば100歳は50歳になり、
妥当な年齢だということが確認出来る。また朝廷は複雑に世代世代で暦法を
変更して来たものであり、これが記と紀の年代が合わない因になっていると
いうことだ。単純に紀とか古史古伝の日数から逆算しても、世代で暦法を変更
してるから、正確な神武までの古代の年代を正確には復元不能である。これを
分からず暦法の変更改正を把握しないと、日数逆算を単純にしてもクソの役
にも立たなくなるから、他の手を考えねばならない。

858:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 11:15:30.48
神功前紀 渡海。
大和勢力による渡海は,初めてのことであるから、斥候を派遣してから、本体の渡海である。
渡海時に大きな戦闘は記録されていない、にもかかわらず、新羅などを、臣下にしたと書かれる。

渡海を設定出来る時代は、3世紀半ばの西新町遺跡、布留と半島の土器が共存する、大倭が伊都国
に1大率を置いてから20年ほど過ぎた晋時代、274年が渡海である。その目的は、晋の要請に
よる、1大率の行為を半島で行う為である。だから、仲哀の死でも渡海を中止させられなかった。
そして、第1回目の渡海としては成功の部類に入る。しかし、仲哀の死は、その後の内戦を招く。
274年応神誕生。275年神功元年、指標として273年の日食が元年記事となる。
ここから40年弱の空白を、女王卑弥呼の“歴年無主”とする書紀ではある。
この“歴年無主”の空白は、時間が経過している。そして、この空白の時代に、大和で前方後円墳
が造られ、唐古・鍵遺跡の環濠の復活がある。
275年神功元年 磐余稚桜宮、この実態はまだ編年に組み込まれていないが、この指標として
桜井茶臼山が充てられる。桜井茶臼山から誉田御廟山までの時空が110年である。
秋津遺跡は、4世紀初めから複数回の立て替えがある、と説明されている。
続く

859:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 11:16:20.86
続き


860:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 14:40:18.86
神功元年前年の記事は日食にはならない。こんなイカサマにはちょっとオツム
の良い小学生でもそんな〇鹿なはずはないくらい、容易に選別できる。ww

つまり日食は数日間も日を経て継続しないことから、日食にはならない。
これは現代天文学の鉄則であり、脳内ホツマはこれに従う。

861:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 15:24:44.49
>神功元年前年の記事は日食にはならない。

その対案を示せない太国倍年は、なんなのか?
纒向遺跡の年代さえ否定してやっと成り立たせているが、整合する文献は皆無である。
脳内金木算木はこれに従う。


862:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 15:53:04.27
崇神天皇十年 秋七月丙戌朔己酉。詔群卿曰。導民之本。在於教化也。今既禮神祇。災害皆耗。
然遠荒人等。猶不受正朔。是未習王化耳。其選郡卿。遣于四方。令知朕意。
崇神天皇十年 九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道
主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃擧兵伐之。既而共授印綬爲將軍。

崇神10年秋7月 諸卿を召して曰く。まつろわぬ民を導かねばならない。今こそ民に教える時である。
今は、神祇に礼をとり、災害で皆が疲弊している、然るに遠くの荒人等は、なお朝廷の正朔(暦)を受け入れていない。各地の臣を選び四方に使わせて我が意を伝え知らせよ。
9月 もし聞き入れない者があれば、すなわち兵を挙げてこれを伐。

太国は、書紀の季節も正朔も無視する。
その太国が「紀記に合わせろ」。言っていることの整合性が取れていない。


863:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 17:23:33.73
オマエの盲象より、現代天文学の鉄則が日食論を支配する。ホツマは
現代天文学に拘束される。拘束されないで神功元年前年の記事を日食だと
頑張る野郎は、精神病院へでも行くんだなぁ。ww

日数計算に拘って後代から毎・日数計算を積み上げても、各世代の途中に
暦法の変更があることから、この単純計算をやってて合ってると思いこん
だら大間違い。つまり暦の変更で、日数干支の単純逆算の精度がダメに
なる。つまり小銭計算に囚われては労して功なしの無駄な労働。ww

逆算の年代の途中に、不意な事象が暦変から予測される。よって単純計算
では合うことはまず無い。

864:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/08/11 19:15:05.99
>各世代の途中に暦法の変更があることから、

暦とは、継続するからその変化を読み取ることが出来る。
太陰暦から太陽暦に暦が変化しても、24節季が変化することはない。

>現代天文学の鉄則が日食論を支配する。
だから、神功元年の”あづないの罪”を273年の日食と断定できるのである。

>逆算の年代の途中に、不意な事象が暦変から予測される。よって単純計算
では合うことはまず無い。

倍年では整合性が得られなかった。という結論を太国は得た。
倍年で崇神5,6年の出来事を説明出来ないことは最初からわかっていて太国倍年を編み出す。
強引に倍数で編年しても正解が得られないことを、太国は証明した。
そんなことだろ?


865:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/08/11 19:33:01.12
日食が数日間継続しな~い。あづないなんぞの抽象語で誤魔化しは
効かな~い。ホツマの脳も現代天文学の厳しい鉄則から、インチキだとの
レッテルを貼られる。日食はたかが数分間の事象であり、とてもとても
常夜とは言い難い。

色即是空は当時朝廷は感知していな~い。つまり宿主空年はデタラメで
あ~る。なおホツマとは昔のそこいらのタダのオッサンの妄想入り文で
あり、カリスマ化を企てる宿主も、大中臣の下命の前に朝敵と認定される。


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