謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57at HISTORY
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57 - 暇つぶし2ch586:日本@名無史さん
11/07/11 22:44:26.74
>任那建国は、210年頃であり、216年崇神末年任那より朝貢。

三国志東夷伝には任那の記載がない。晋書にも出て来ない。広開土王碑文の 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
唐松山氏の編年は最大で190年繰り上げられて(古く看做して)いる可能性がある。


587:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/11 22:50:18.95
239年鏡(景初3年鏡)は紀の崇神7~9年たる銘文である。即ちその前年
たる238年こそが崇神4~6年だということなのだ。つまり188年が崇神元年
にはなりえない。

これを示すのが

鏡作坐天照御魂神社 の 社伝

 崇神6年9月3日 この地で日御像の鏡を改鋳し、天照大神の御魂と
 為す、今の内侍所の神鏡是也。

崇神6年に鏡を造って翌崇神7年あたりにそれの3次鏡たる239年鏡が
多出するのだ。崇神即位元年が188年だとは出鱈目なのである。3倍年暦
にて、崇神7~9年が239年なのだ。

588:崇神の末裔
11/07/11 23:03:36.02
唐松山殿、太国殿

当家の記録によれば初代は4世紀半ばに没したと見られます。

589:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/11 23:07:16.57
初代神武は西暦26年崩御です。皇紀76年は西暦26年ですよ。
眠いねえ・・・。
明日 zzzzzzz・・・・・

590:崇神の末裔
11/07/12 14:39:10.04
>>589 太国殿
当家の初代というのはミマキイリヒコのことです。

591:水銀厨
11/07/12 15:29:08.64
ミマキイリヒコ、そのまま読まなきゃな。
美馬地方から来た男だよ。

592:ローガン
11/07/12 15:57:58.16
>>591
>ミマキイリヒコ、そのまま読まなきゃな。

そのまま読んだら、大彦の娘のところに転がり込んだ男。

593:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/12 16:21:17.48
>>590 崇神の末裔殿
崇神即位年は倍暦逆算から、237年つまり景初元年ですよ。
また崇神没年は259年を算出しています。
よって崇神の代は3世紀ということになります。4世紀ではありません。

同没年=259年 ということは、古事記の崇神没年干支「戊寅」を258年と
観るのが正解だということです。1年違いですね。

594:水銀厨
11/07/12 16:25:31.42
>>592
ミマツがミマの津 徳島~淡路島周辺の港だね。

595:日本@名無史さん
11/07/12 21:44:20.16
ミマキって、三巻(みまき)って意味じゃないの?
三輪山の三輪の由来にもなった。

596:日本@名無史さん
11/07/12 21:52:56.65
御牧か大牧だろ
大王の厩司って肩書きだ


597:日本@名無史さん
11/07/12 22:04:52.39
名前は基盤の土地や職を表す事が多い。

598:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/12 22:29:51.96
>>586
>唐松山氏の編年は最大で190年繰り上げられて(古く看做して)いる可能性がある。

正面からの否定はうれしいね。
崇神世とは、
まず崇神は、庶母の出である。旧朝廷がこぞって賛成する状況では無い。
つまり、宮を無人の纒向遺跡に造る。
崇神5,6年 疫病、民の死、離散。この状況を12年に、寒暑矢序。疫病多起。
百姓蒙災。と説明している。
寒暑矢序。=天候不順。
疫病多起。=凶作。
百姓蒙災。餓死と逃散。←百姓のみが被る疫病とは、“えやみ”であり通常“凶作”と
書かれる。
崇神10年 猶不受正朔。正朔とは、書紀が主張する季節と月齢は正しいと主張している。
しかし正歳とは主張していない。治世は引き延ばされているが、季節と月齢は正しい。
そして年数も正しいと主張するために、日々の干支が振られている。これは、正しい数字
を隠した“証拠品”である。朝廷の主張は、太陰暦を引き延ばし、日々の干支で覆い隠す。
十一年 異俗多歸。國内安寧。
六十五年秋七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。

これらの出来事を他の文献で主張出来るか?


599:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/12 22:30:51.59
新羅192,3年は崇神5,6年又は崇神5年=後漢193年。
寒暑矢序。=天候不順。は後漢183年から193年である。
崇神6年離散=弥生後期後半 唐古・鍵遺跡など各地の居住区が放棄される。
崇神11年異俗多帰=2世紀末に各地の土器が持ち込まれる。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、金官伽耶、任那)は存在する。
ホケノ山古墳=3世紀中葉の墳墓であり、楽浪鏡と鉄器の副葬。
この時代の北部九州に楽浪鏡は出回らない。
楽浪鏡と鉄器は、大和が直接半島(任那)から手に入れるのであり、その鉄で垂仁は
鉄剣を蓄える。
3世紀後期の桜井茶臼山からは、三角縁鏡と大量の鉄器副葬の時代となる。

2世紀末ころ纒向遺跡は台頭する。
3世紀中葉には、楽浪鏡と鉄器が大和に入る。
239年 景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁

考古学の数字と他国の文献を書紀の主張に合わせる。
崇神を240年~260年頃に合わせても“任那建国が無い。
書記の主張を否定して何が編年か?


600:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/12 22:39:56.97
畿内から多出する239年鏡群を製作した鏡作りの因む神社が

 鏡作坐天照御魂神社

であろう。略名で 鏡作神社 というのだろう。

この神社の社伝に

 崇神6年9月3日 この地で日御象の鏡を改鋳した・・・今の内侍所の

 神鏡是也。

とある。

崇神6年は3倍年暦では崇神2年であるから、

 9月3日 崇神2年

のことである。この年月日数を年数に象れば、逆読みで239年を得る。
239年鏡の239年は紀の崇神6年近隣だったのだ。

601:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/12 22:43:29.83
崇神5,6年≠192,3年

臣下 伊支馬≠垂仁天皇

臣下は天皇にはなれないのが神国日本の掟である。また千人もの空腹
フラフラの飢饉農民が半島大量渡海なんぞ不可能事であるのだ。若狭湾に
着く前に野垂れ死にがいいところだな。ww

602:日本@名無史さん
11/07/12 23:36:24.45
崇神とか垂仁のころの天皇は
単に巫女王の旦那という程度だろう
女系で解釈したほうが系譜が素直に繋がるという説もある
無理に男系で書き直したから親類含めて婚姻関係がぐちゃぐちゃになってるんじゃないかな

603:水銀厨
11/07/13 00:15:05.39
>>595
それは箸墓や琵琶湖と同じで後世の解釈でしょう。

604:日本@名無史さん
11/07/13 00:19:49.40
皇孫をスメミマとも呼ぶよ
ミマナとかもろ、直轄地って意味に取れるし

605:水銀厨
11/07/13 00:29:12.54
ミマの地でしょうね。
水銀厨の私としては徳島の美馬と想定しますが。

任那の字からは那に任せた土地ともとれない事はないが、
やっぱりミマの地。

606:日本@名無史さん
11/07/13 01:11:52.20
「任那」は合成語っぽいな
「任」には「ミマ」という音は無いし、その漢字の意味の側面(任せる)を使ったのだろう
逆に「那」は「ナ」という音があるから、音の側面を使ったもの
こういう漢字の凝った使い方は後世の物だろう
古代大王の名前にしても神の名前にしても、漢字の音なのか意味なのか区別しないといけない
大抵は、複数の漢字を当てた例があるから、音だけを伝えたかったのだと思うが

607:日本@名無史さん
11/07/13 01:20:06.95
三潴奴

608:日本@名無史さん
11/07/13 01:28:32.71
古代の言葉は意外と残っているもんだ。

609:日本@名無史さん
11/07/13 01:29:42.86
用語として、あまり変わらない言葉はあるだろうな

610:メ
11/07/13 09:20:26.13
このやろー


611:メ
11/07/13 09:22:41.15
>百襲姫とモモ

これについて少し話題になってるみたいだが
なぜ、姫がモモといわれるようになったか
誰も答えることのできる人はいないと・・・・・

612:日本@名無史さん
11/07/13 09:36:41.79
モモは基本的には神仙思想だろ。

613:日本@名無史さん
11/07/13 11:22:22.91
>>602
それに、巫女は生涯独身で、あくまでも三輪山の神様に生涯をささげる身。
巫女が女王になったのは、一時期のことだよ。
魏志倭人伝みたら分るが、女王が擁立されたのは、
邪馬台国(ヤマト国)にとって一時期的なことだ。
もともと、この国は男王が建国して数十年経過して倭国大乱が起こって
それで、一時的に女王を立てることによって鎮まったとあるわけだから。

おそらく、倭国では、祭祀王と俗世王の二元体制だったのであろう。
ちょうど、中世以降、天皇と征夷大将軍の二元体制になったと一緒。
でも、古代の倭国王においては、その俗世王のほうが、
祭祀王を都から追放し、自分が俗世王と祭祀王の両方を兼ねるようになったんだろう?
その前段階として、俗世王は自分の親族から
子孫を残せない巫女を臨時に女王として立てて、反対勢力を抑え
徐々に、自分達、俗世王が世俗王の両方を兼ねるように転換していったのであろう。


614:レス長たらし毘古
11/07/13 13:51:37.13
>>583
>紀記の勝手な書き換え宣言か?

「紀」の勝手な書き換え宣言かと言う点だけは貴殿の指摘ポイントは正しい。
但し当方は「記」が積極的に書き換えをしたとは主張していない。あくまでも
古事記においては「わから無い物はわからない」としている記述方法。
つまり、古事記においてはモモソは「基礎データ以外はわからない」とされ、
そして対外向けパンフレットの日本書紀では「それでは困るので、日本(大和
王朝)が不利にならない」独自解釈を構築した。と当方は想定しているだけ。
だから日本書紀のモモソは怪異伝に包まれて活躍し没するのではあるまいか。

615:レス長たらし毘古
11/07/13 14:12:07.96
>>613
>おそらく、倭国では、祭祀王と俗世王の二元体制だったのであろう。

祭俗二元体制であった可能性は当方も低くは無いと想定する。故習があった上
で、その故習に(必要に応じて)やむなく改変し、内体裁・外体裁を整える
と言う体制構造変革は、実は日本史を通じて良く見られる政治現象でもある。
(鎌倉幕府発生・明治維新等も、広義ではこれに当たると当方は想定する)

二元制・幼帝の介添えで幼帝母が帝位就任・兄弟相続と長子相続の葛藤。
これらの三要素は、実に聖徳太子の時代から天智・天武の時代に至るまで、
正史においてすら「隠さずに淡々と記述されている」つまり当時はそれらは
「常識(あってあたりまえ)」だったと想定する方が自然。従って、それより
数十世代前には、「それらの常識のオリジナル(のようなもの)」が「あった
のではないか」と考える方が自然と、そういう解釈理窟ともなって来る。
特に「征服王朝」等の政治概念が希薄な日本では、前体制を「完全否定した」
上での新体制を構築流布するには、大乱クラスの陣痛を伴う筈である。まして
や、正史における「中央集権構築の途上段階」の政権(王権)が、朝鮮出兵に
まで膨れ上がる途上の時代で「そこまで痛みを伴う抜本的構造改革を敢えて」
するとは、どうしても考えにくい。
従って「当時も二元体制だった」としてもこれもおかしくない理窟にはなる。

616:レス長たらし毘古
11/07/13 14:39:55.38
先述したとおり、「幼帝母」の「幼帝代理帝位就任」は、これは古事記以前
にも「慣習的」であった可能性が高い。これは神功皇后を古事記において
「帝位に入れず」しかしながら、その他の文献では神功も「帝位に入って
いる」等の矛盾から類推できる。しかしながら、古事記の「直前の史料」でも
ある旧辞・帝紀においては、「推古が最初の女帝である」とせねばならぬ
と言った、絶対的前提条件が立ちふさがって来る。従って当時は「検証途上」
であった神功は、少なくとも古事記においては「帝位」に含める事が出来な
かったとも類推できるのである。
ましてや少なくともその数代前のモモソと言う女性。
魏志倭人伝を程度信用するならば、卑弥呼には子がいない。そして、モモソ
にも子がいない。「子がいないのにどうして女性が帝(大王)になれるのか」
と、当然記紀の時代の研究者は男権思想トップリの条件反射的に判断する。
そして、それは「推古が最古の女帝である」と言う前書にも大いに反する。

幼帝母の神功ですら、当時の研究者は、帝位についていたかどうかを明確に
する事はできなかった。(そして古事記においては結果排除)ましてやその
数世代前のモモソさんである。

従って、タケハニヤスヒコが、もしモモソの子(政治的養子も含む)なら?
そう、この仮定なら、事態は大きく変って来るのである。もし、女帝がその
婚姻や養子縁組を「地域支配」や「外交」に積極的に活用していたなら?
その政治や外交を、「認めることが出来ない」立場の子孫が、天智・天武の
ご先祖家系であったなら?

当然、カレラ(記紀編集代の皇族&研究者)は、モモソの執政を可能な限り
抹消したくなる立場を執ったとしても、これもおかしくは無い。

617:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/13 16:56:40.84
>「幼帝母」の「幼帝代理帝位就任」は、無い。
有史8代  孝昭天皇
 秋七月、都を腋上(ワキガミ)に遷す。是を池心(イケゴコロノ)宮と曰(い)ふ。
出石心(イズシゴコロノ)命を以て大臣(おほいまうちぎみ)とす。此の命は、宇摩志
麻治(うましまじの)命の後(のち)なり。
 天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)
かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)
の然(しか)らしむる所ろなり。

孝昭は、幼くして即位し、皇太后(母親)から離れなくとも、政務がとどこおる事は無い。
簡単に言えば、政務は、大臣が担当するが、政務自体が単純な時代である。
崇神も幼くして即位するが、母親(イカガシコメ)は、開化に殉じている。


618:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/13 17:12:53.92
どこの文献か題名を書かずなのは、後ろ暗いところがあるんだろう?w
よく題名を書かずにスッポかすからな。

619:日本@名無史さん
11/07/14 14:56:38.63
>>616
モモソ媛命が倭王であったことよりも
なぜ、モモソ媛命が倭王の地位に就いたのかというのが問題なんだろう?
天皇家にとっては。
つまり、倭国大乱やそれ以前の倭国の王制が、
天皇家にとっては非常に都合が悪かったと。

620:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/14 18:24:49.02
巫女(斎王)が女王になった事実は大和に存在しない。
ただ、卑弥呼を大和に存在させたい人物の作り話である。
巫女(斎王)が女王になった事実はある。しかしこれは、景行が九州に送り込んだ
五百野姫(壹與)の事である。

景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、
その次は邑長を与う。その俗、衣[巾責]を好み、下戸の郡に詣りて朝謁するは、皆、衣[巾責]を仮し、自ら印綬・衣[巾責]を
服するもの千有余人。部従事(役職)呉林、楽浪もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。

この時代に任那建国は無い。だからこの時代に崇神(モモソ姫)を配しても正解は得られない。


621:日本@名無史さん
11/07/14 18:56:29.54
>>619
そんな無理やりな解釈は必要ない
まったくの別人だからなw

622:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/14 19:08:53.85
五百野姫≠壹與

623:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/14 22:04:46.40
大丈夫だ、太国に有史八代は使えない。
大日本根子彦国牽天皇 <孝元天皇>  
妃伊香色謎命、彦太忍信命を生む。彦太忍信命は、是武内宿禰の祖父なり。
 開化天皇 
伊香色謎(イカシコメノ)尊を立てて皇后とす。後に御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱノ)尊、御間津姫(ミマツビメノ)命を生みたまふ。
男彦太忍信(ヒコフトヲシマコトノ)命
   此の命は、嘗て尾張連等(ヲハリノムラジラ)の祖、意富那毘(オホナヒ)の妹、葛城高千那媛(カヅラキノタカチナビメ)を娶り、
味師内宿祢(ムマシ ウチノスクネ)を生む。此の宿祢嘗て紀伊国造(キノクニヅコ)の祖、宇豆彦(ウヅヒコ)の妹、山下影媛(ヤマトカゲビメ)
を娶り、武内(タケウチノ) 宿祢を生む。
ヲシマコトのコ ウマシタケ ヰココロやりて まつらしむ アビカシハラに コトセすむ
キのウヂマロが ヤマトカゲ めとりてうむコ タケウチぞ
ホ32180 のちヲシマコト ヲクチがト タカチゑてうむ ウマシウチ これキウツがト
ヤマトカゲ めとりうむコは タケウチぞ

有史八代を使うと、忍信と崇神は種違いの兄弟となり
しかも武内宿禰は、忍信の孫である。
私の数字でも、一世代少ないのに、太国倍年では二世代不足する。

624:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/14 22:39:15.25
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~と、コチラを口撃していた男
が~

 ~偽書といわれる書物を持ち出した~~。><

なお宿主空年は宿主の創作の出鱈目である。当時の朝廷に佛教の色即是空
は関係な~い。

625:日本@名無史さん
11/07/14 22:49:33.92
江戸時代に今の韓国みたいなウリナラブームが起こって、
いろいろな神代文字が捏造されたのはもう明らかになってるんだけどね。


626:日本@名無史さん
11/07/15 07:58:12.14
>>625
國学思想な。
本居宣長それ。


627:日本@名無史さん
11/07/15 07:59:14.33
モモソ媛命=卑弥呼
トヨスキイリ姫命=台与

628:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 22:02:25.49
>三国志東夷伝には任那の記載がない。晋書にも出て来ない。広開土王碑文の 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。

任那とは、崇神がツノガアラシトの要請で兵を預け、それにより伽耶が建国されるわけであるが
なだ国名が決定していない。だからミマキの(荷担により建国)邦と呼ぶことになる。
任那は日本語と言うことになるから、東夷伝では、狗邪韓国(カヤカラ)と記載される。
400年の任那とは、323年神功49年半島占拠。この半島を経営するための倭国の出先機関が置かれた
土地であり、カヤカラまでを含むかどうかを判断する文献が無い。

魏時代には、任那(伽耶)は、楽浪郡に含まれる。
晋時代に入り、倭国は、伊都国の1大率の行為を半島で行う、その為の神功渡海(274年)である。
308年永嘉の乱、316年西晋滅亡。中国東北部は、空白地帯となる。
323年神功49年 半島占拠。百済建国。北方の民の大量渡来。
書紀の神功渡海(274年)、同49年半島占拠(323年)。この出来事に大きな軍事力は使われていない。
だから軍事力が最小でなくては整合性が得られない。
323年迄の任那とは倭国での伽耶の呼び方でしかない。
この伽耶が541年新羅に身を寄せる、丁度建国330年である(3国遺事2巻)。
つまり210年は崇神世である。


629:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 22:10:08.45
ホ34129      ミマナのアヤ
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり コトバきゝゑず ハラのトミ ソロリヨシタケ
よくしれば これにとはしむ

ホ34185 トミねがわくは クニむけの オシをこふのみ キミトミと はかればいわく
クニフクの マゴシホノリツ これよしぞ カフべのミコブ マツノキミ セイヒタケヰタ
ヤソチカラ いさみはげしく ミコトのり シホノリヒコをミマナオシ ゆきとくにむく
ミチツカサ かえればよしと カハネたまひき

国葺はワニ臣の元であり、ワニ臣は、古墳時代に活躍する、特に後半。


630:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/15 22:29:14.79
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~、とコチラを口撃していた男
が~

 ~偽書といわれる書物を持ち出した~~。

なお毒書ホツマとはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが恣意的妄想
を挿入して書いた朝廷から観ての落第文書であり、重々各々方はこの妄想
にやられぬよう用心する必要がある。

崇神即位年=237年 であることは、鏡作神社の社伝

 崇神6年9月3日 日御象鏡を改鋳

が景初3年鏡(239年鏡)鏡作年代近隣に相当してることが確実視したこと
で、この等号が真であることが確定した。このため畿内から239年鏡が多出
する起因なのである。
すなわち以下の不等式が成立するのだ。

崇神6年≠193年

631:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/15 22:38:36.09
>>630 続き
当時の3倍年暦行使から

 紀の崇神6年=崇神2年

となる。だから 崇神6年9月3日 とは 崇神2年9月3日 であり

 崇神2年9月3日→9月3日 崇神2年(天津神算木式記載)

なのである。
→の向く側は数字を年数に象れば、逆読みにて239数が並ぶ。

すなわち239年を秘めたものであり、当時西暦を朝廷側が覚知していたと
いうことなのだ。193年とやらでは先頭数1が不整合でダメである。

すなわち1の不整合から

 崇神6年≠193年

632:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 23:10:54.95
184年 開化元年庚午朔 3章(の空白年の差し込み)
187年 崇神元年壬午朔 2章 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章
240年 景行元年壬申朔 2章
262年 成務元年甲申朔 3章
266年 仲哀元年庚寅朔 0章 成務と同じ暦の可能性が有る

開化の治世は数字上3年となる。治世3年に57年の加増であれば、
民でもこの“57年”に秘密が隠されていることに気づくであろう。
であるならば、4年の治世に56年の空白年の差し込みであれば、正しい答えを
見つけることが出来ない。農事暦の配布をする朝廷のシノギは安泰である。

210年 任那建国
239年 田道間守派遣
274年 渡海
323年 神功49年 半島占拠
326年 神功52年 七支刀
現在 考古学の主張する纒向遺跡の年代は正しい。
3世紀半ばのホケノ山が垂仁の墳墓であれば、
大和で最初の鉄器副葬、公孫氏の楽浪鏡の副葬として疑問は無い。
この時代に九州北部では楽浪鏡を副葬した墳墓は無い。
九州で楽浪鏡が副葬されるのは、庄内式土器の進出と時を同じくする。

>崇神6年9月3日 日御象鏡を改鋳
崇神5,6年の災害とは、天候不順に依るもので有る。
239,240年 晋書 正始元年東倭重譚納具。
ここに天候不順は無い。
災害または天候不順で説明出来ないから”誤りである”。


633:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 23:21:53.30
>>631
>当時の3倍年暦行使から

この”3倍年暦”なるものを数字で1年=??日と表記出来るのか?
数字の無い暦は、存在出来ない。
1年を180日とする。←この類の数字の暦は地球上に存在出来ない、また
1年=12ヶ月が基本となる。5,6月が存在しない太国倍年。地球上の暦では無い。
その証明が、金木算木だそうだ。となれば、こちらも使い物にならない。


634:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 10:57:33.61
東倭とは、コチラの主張では、大陸から見て通常では東の日本のことである。
それが畿内でなく九州のことだとなると、何ら問題はないし、天候不順が1年間
も継続することは、日本の気候からありえない。つまりオマエの主張は暖簾に
腕押しそのものである。1年も日食が継続しないことを知れば、オマエの反論
はオマエ自身の日食妄想をなおさら精神病院行きだとオマエ自ら知りうること
である。ww 当時の畿内と九州とは別国である。

1年を180日とする明確な暦法は、古代マヤの太陰暦に存在する。ここは中南米
だから、地球上である。

古代マヤの太陰暦は学術文字で C にて表現される。権威者の解説書には
悉く

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

の月があり、順に1月、2月・・・6月の1年が180日の半年である。
つまりグレゴリオ暦式の1年ではマヤの太陰暦は2周することとなる。これを
ルナー・シリーズといい、マヤの長期暦とカレンダー・ラウンドのついでに
この太陰暦がCで、絵文字で現地では石碑等に彫られている。なお180日の半年
であるから、7C 8C ・・・ 12C というのはこの暦には存在しない。

つまり宿主の言うことは大ウソだということだ。ww
ついでにオマエはマヤ文字を読むことが出来ない。1年が180日の暦は、この
ように存在するのである。

635:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 11:19:40.34
地球上に存在しないのは日食が数日間という日を経て継続するという事実
である。w これは精神病院患者とか熱帯密林の蛮族などなら、こういう
インチキを地球上にあるのだと言い張る。w

朝廷が5月6月を削ることはありうる。現今でも各マンション、アパートで
4号室とか104号室とかを不吉数と観て削るのがあることからも、これは
おかしくはない。

636:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 11:24:44.92
>>635 訂正
× 事実である
〇 論である。

日食は数日間も継続しない。たかが暗黒は数分間であり、常夜とは言えない。

637:日本@名無史さん
11/07/16 11:51:09.68
>>542 アラタメドツボ
だからそういう捨て台詞を言わず消えるなら消えるで黙ってフェイドアウトしろ。
2ちゃんねるじゃあ捨て台詞吐いて去ったやつは未練タラタラで大抵戻ってくるのが法則だがwww

邪馬台国古代史に何か変な妄想を押し付けて興味を持って
やがてそれが自身の妄想でしかなかったと気づいた時点で古代史そのものへの興味も失せる
モチベーションも低下する…ってパターンかな?

と り あ え ず…
 

【重要じゃないお知らせ】

 当スレご愛顧のお客様各位
 
  長年当スレをご利用賜りましたが結局南極『謎の女王卑弥呼は誰か?』と言う謎の解明には至らず
  長く自称スレ主を語ってきた「アラタメドツボ」も去りました。

  ここに至り当スレは一度終了となりました。
  長年のご愛顧ありがとうございました。

  ※尚、今後は太国と唐松山の専用隔離スレとしてご利用ください。


 
dotubodotubodotubodotubodotubo    終  了   dotubodotubodotubodotubodotubo


638:日本@名無史さん
11/07/16 13:46:56.82
了解

639:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 14:14:02.29
>>634 >>635 >>636 続き
この古代マヤの太陰暦は1年が180日であり、現今で使用の1年では2年を経過
する。事実地球上に存在する。地球上に存在しないのは数日間継続の日食がそれ
であって、これは常夜とは到底言えず、たかが数分間の出来事であり、数日間
ではない。これこそ地球上に存在しない。これが存在するというのは遠い遠い
はるか彼方の電波星とかの天体があって、そこからこちらは日食が数日間も続く
星であるとかのデンパがその星から伝播する送信があって、それをピピピ・・・
と受信出来るから宿主らが日食が数日間続くと強行にガンバリと押すのだろう?
それはそうである。地球上でないこういう電波星とやらでそういう日食が
あることはこれは否定出来ず、宿主のそういういうピピピピ・・・とむこうから
デンパが来てるのでは、これは絶対否定にはならんのだろう?ppppp

C文字は右片手の上に人間あるいは魔人の頭部の形状絵文字であり、これに
1~6までの数字をoと棒字で表現する。1年が180日の暦法はかように存在
するのである。

640:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/16 19:34:54.06
>1年が180日の半年である。
>1年が180日の暦法はかように存在するのである。

”年”の意味は?
”月”の意味は?
そして、1太陽年との整合性は?

月齢と太陽年と考古学の主張を否定して成り立つのが、太国倍年で有る。
3倍年暦なるものは、太陽年と整合性が取れていない。だろ?
だから”あった”と主張しても、暦として存在出来ていない。



641:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 22:52:44.45
準3倍年暦も古代マヤ暦にある。釣り合いがとれるとかそんなことは
直接関係ない。あるのは1年を半年での180日で立派に暦が出来るという
2倍年暦があるということであって、現に古代マヤで使用されてたものだ。

これが古代マヤの長期暦の次にカレンダー・ラウンド(ツォルキン暦、
ハアブ暦)の前後に太陰暦Cとして1年180日の暦法をステラ等に刻んで
いるのだ。かたやオマエの言う色即是空的宿主空年など、古代マヤ暦では
存在しない。そんな空年などを大量に不正に入れこめば正確な年代が
撹乱するばかりであり、古代マヤでも古代朝廷でもそんな暦はやって
いないのだ。すべてオマエの妄想の集積だ。

準3倍年暦は1ヶ月が10日間の欠史八代の3倍暦法と類似して、1ヶ月が
9日間での暦法であり、マヤ遺跡のステラではその太陰暦の直前に G
の(学術)文字で刻まれている夜の魔王暦というものだ。

642:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/17 12:53:05.14
>>641
>あるのは1年を半年での180日で立派に暦が出来る
>1ヶ月が9日間での暦法であり、

1年、1ヶ月の意味も知らない太国よ!!
上記の如き暦は地球上の暦と成らない。
つまり、太国の主張は、書紀の太陰暦と全く整合しない。だから太国の主張する
数字が文献と整合性を得る事は出来ていない。
だから、太国は”金木算木”?の計算結果を”文献”と主張するが
金木算木とは電卓やソロバンの類であり計算結果が文献と整合性を得る事は有っても”文献”とはならない。
例えば崇神237年から33年間である”3倍年”であるならば、
崇神初期=△鏡銘、崇神末の文献が表記出来て初めて33年間が容認されるが
まだ”倍年”が容認されたわけではない。
とりあえず
>あるのは1年を半年での180日で立派に暦が出来る
>1ヶ月が9日間での暦法であり、
この太国倍年に数字が与えられるか?太国は未だに数字を与えられていない。
数字の無い暦は存在しない。だからまずこの
”太国倍年”に数字を与えて提示出来なければ、ただの妄想暦にしかならない!!


643:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:00:23.63
中南米は地球上である。すなわち中南米の暦は地球上の暦であり、
地球上でないデンパ星ならば地球上に現れない日食とやらが数日間も
続くのは、その星からデンパの送信をピピピピピ・・・と受けている者
なら言い易いとありうる話である。ww

言っとくが、中南米は地球上であるから古代マヤの1年が180日の暦は
地球上の暦である。

644:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:06:41.38
整合しないのは天皇になれない臣下が天皇だとか日食が数日間も続く計算
数値を論としてる話である。中南米の地は地球上にあるのであり、数日間
続く日食が観測できる所は地球上にはない。それはデンパ星とやらでは
日食が数日間という日を経て続くことは否定は出来ず、こういう天体から
コチラの星では日食が数日間も長く続くぞという送信をNNNNN・・・
とピピピピピ・・・と受信してる脳内の奴なら強行しても日食が数日間も
続くの論を曲げずに強行するだろう。ww

645:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:24:04.29
古代マヤの地だとか他の古今東西の地域で色即是空の宿主空年を
行使している所は見当たらない。マヤの地たる中南米は地球上で
あるから、古代マヤの太陰暦の1年180日のC文字暦法は地球上の
暦であると断定される。これによって古代マヤでは2倍年暦が行使
されていたのだ。宿主空年はインチキなのである。

景行を自己(←宿主)の都合のいい年代に先行して強行恣意的に
決めこんだことが、オマエの墓穴を掘った出鱈目編年なのだ。
それはヤマが当たりゃぁこれは凄いが、はずれればいっぺんで奈落
の底の出鱈目論となる。オマエのはヤマがはずれだったんだよ。ww

崇神6年が景初3年近隣に位置するのは 鏡作坐天照御魂神社 の
社伝 崇神6年に日御象の鏡を改鋳した この伝承で確定的であり、
となれば239年が崇神6年あたりに位置して来るとなる。それで
239年鏡が畿内からうんと出るわけなのだ。

それに関係鏡が舶載品でないことは鏡作と鏡を作ったとの神社名
から決まりであり、舶載な大陸鏡贈神社とでもいう社名になるはず
だ。そういう名でなく鏡作の名の神社名ということは日本製だと
断定してよい。舶載という宿主の論はデタラメである。

鏡作の意味は(この地で)鏡を製作したという意味であり、鏡を
舶載されたという意味にはならない。

646:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:26:47.09
>>645 訂正
× 決まりであり、舶載な
○ 決まりであり、舶載なら

647:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/17 18:16:06.17
>古代マヤの1年が180日の暦は地球上の暦である。

崇神天皇元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。
崇神天皇元年二月辛亥朔丙寅。
崇神元年の1月が壬午朔であり、2月が辛亥朔と表記されて居る。
つまり崇神元年1月は29日存在する。
古代マヤの暦で説明したいだろうが、古代マヤの暦と畿内の太陰暦は関係無い。
それとも古代マヤでも1月を9日とする暦が使われていた、とでも主張したいのか?

>239年が崇神6年あたりに位置して来るとなる。
魏の1年は太陰暦の1年である。対する太国倍年は??日を1年とする。
つまり"倍年”と太陰暦は整合しない。であるならば、紀年の意味をなさない。
景初3年銘などは、太陰暦が使われていた証拠である。


648:レス長たらし毘古
11/07/17 22:22:32.16
>>617
>「幼帝母」の「幼帝代理帝位就任」は、無い。

申し訳無いが、この場合争点を明確にする為には「参考文献は何か?」を明確
にして欲しい。そしてその参考文献が、記紀より後代の物である場合は、その
場合、幼帝母の代理就任の有無は、まさしく卵が先か鶏が先かの話に成り兼ね
ない。記紀と同時期迄に記録された史料で、かつ別系統の記録文献でない限り
は、「記紀をベースにその事実は無い」と言う先入観の元に書かれた史料の
可能性が高くなって来る。

>崇神も幼くして即位するが、母親(イカガシコメ)は、開化に殉じている。

皇后が大王の死に殉じ殉ずるのが記紀の主張するように「当時の当然の慣例」
だと仮定した場合、少し後代の神功皇后が何故にスンナリ殉じなかったのか?
が矛盾になる。つまり、該当当時は「そんな風習」なぞ無く、神功以降の後代
の記紀までの間の時代に「皇后が殉ずると言う風習」が出来て行ったか、
或は、それは恒例の慣例では無く、時に行われ、時に行われなかった、と言う
程度の風習だった可能性が浮上します。
記紀が主張する「崇神時期における恒例のしきたり」を、それがそのまま、
崇神時期には恒例のしきたりとして(例外なく)行ったと規定するのはこれも
解釈的には危険な決めつけかもしれない。

649:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 22:49:09.38
>>647
そんなことより、オマエの42年を数字の羅列で誤魔化さずに具体的説明を
してみろ。これをしない限り、オマエの説を常人なら信用などしてくれ
ないね。こうだ~とだけ言ったところで餌のつけない釣り同然であり、
言わないところを観ると後ろ暗いところがあるということだね。これ
ではマルデ駄目オだ。ww

太陰暦の証拠だと~

これを ↓ 忘れたのか~?ww

神皇紀

 人皇第一代神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、30日を一月とし、
 十月を一年と定め給ふ。

1年が10月となるならば、当然コチラの言う5月6月の欠は整合して
ることとなるんだよ。どうだ~~? 分かったか~?

650:レス長たらし毘古
11/07/17 22:50:48.58
争点と成り得べきは、「ミカド(大王)の母」が、「記紀の主張ではどうか」
と「実際はどうであったか」は、全く別問題と言う点です。
つまり、記紀(ならずしも、国史を目指した史書)では、ある程度恣意的に、
ミカドの母を「規定せざるを得ず」、また「後代の規定となってしまう」この
両点があり、その意味で、神功はなぜ、「ミカドの母としてはアッパレ」と
「記紀では規定されているか」と言う点が甚だ異常に思えるのです。

もし仮に、(記紀においての)故習における、「皇后の殉死」を非としたのが
記紀の「皇后規定」だとしたら、今度は古事記のモモソの死が「怪死」になる
必要性が全く生じません。なぜならその価値判断の場合モモソは「間違った事
をやった人」となるので「悪玉にすればいい」ワケですし、或は「大王に殉じ
死を選んだ」(間違った故習に殉じたアワレなヒロイン)と言う表記が妥当と
なります。
モモソさんはましてや記紀では「子がいない」し「大王にも嫁していない」筈
なので、これは記紀上は「幼帝母でも何でもありません」ので、記紀では悪女
に描く事も、大王に殉じ死を選んだとも、「どちらで表記する事も可能」で、
「わざわざ怪死で描く必要性は全く無い筈」なのです。

でも、そうじゃない。という事は、この仮定の方が間違っている可能性が高い
と、このような解釈も発生して来るワケです。ハイ。

皇后殉死を非とした場合、神功の殉死セズはアッパレとなります。またモモソ
が仮に生前皇后の一人であった場合、(仮に)殉死し(てしまっ)たモモソ
さんは、記紀では「比較悪」にしか成り様がありません。しかし、そうできな
かった。(なぜなら、モモソが殉死である事を認めたら、モモソが大王に
嫁した事実記録をも明記せざるを得ない:注:ここはあくまで個人妄想)

「だから怪死ナンデス、記紀では」と成っている構図と考えた方が、
解釈的にはスムーズにつながって来る気もするが、ハイ、これは個人的感想。

651:日本@名無史さん
11/07/17 22:52:03.42
ううう 長たらし

652:レス長たらし毘古
11/07/17 23:02:32.97
つまり、シンプルに言えば、
「どこまで殉死したか?」「どこからが代理で埴輪を埋めたか」
この過渡期の、以前なのか以後なのか、あるいはその真っ最中なのか?
ここが、争点と言うワケです。

埴輪を埋める風習は、奇しくも神功以降の、所謂教科書で言う所の古墳時代
となって来るワケなんですね。ハイ。神功さんが、なぜに殉死しなかったか?
とも一致してくる時代考証ともなって来るんデスね。
つまりモモソさんは(怪死とされているが)(大王の后でもないのになぜか)
殉死した。翻って、その数代後の神功さんは殉死どころか、逆にまだ生まれて
来てもいない腹の子を盾に執政を続行し(大王すら反対した)朝鮮遠征する。
どう考えても「ヒトククリに出来ない」二つの価値基準が、そこではパラレル
に展開しているのです。そう、それもたった数世代の間に。

653:日本@名無史さん
11/07/18 06:04:29.94
二上山博物館の邪馬台国シンポジウム行った人いる?
あと、土曜日に早稲田で行われた邪馬台国シンポジウム行った人いますか?
早稲田のは素人の発表が半分あったみたいだけど。ちょっと怖いもの見たさで行こうかと思ったけどやめたんだが

できたら行った人レポよろしく

654:日本@名無史さん
11/07/18 06:54:53.38
早稲田のシンポジウム、おもろかったですよ。
安本先生口角泡を飛ばして石野さんにかみついていました。
素人さんの中には暑さでばてたかたがおられました。

655:日本@名無史さん
11/07/18 07:05:04.09
信者にはともかく、安本氏の言っていることは一般的にはムチャクチャだよなあ?
箸墓卑弥呼説やC14年代への批判は当たっている部分もあるが、対案の根拠が薄弱だものね。特に古墳の編年や年代論は天皇1代10年説から当てはめているだけで、考古学的検証は全くないし。庄内式九州起源説に至っては、ただのつじつま合わせで、恥ずかしくて見てられない。

656:日本@名無史さん
11/07/18 07:18:27.57
>>655
ほほう。安本の考え方は次のとおりだね。

庄内式土器は北九州一円と、近畿地方では、大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から
櫻井市にかけての地域に分布する。
北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎ
られた地域にしか分布しない。
これは、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。

まともな考え方だと思うが、どこがつじつま合わせなのかな?

657:日本@名無史さん
11/07/18 08:04:03.01
天皇の在位年数なんて相手にする専門家はいないだろ。www

658:日本@名無史さん
11/07/18 08:33:05.98
庄内式九州起源説に天皇の在位年数は関係ないだろ。

659:日本@名無史さん
11/07/18 08:43:17.32
>>657
こんな事未だに主張してる時点でダメだよなw


660:八色仮面
11/07/18 09:01:04.70
ここは637氏が発表したように、終了した板だよ。前レスを読んでないのかい。

661:日本@名無史さん
11/07/18 09:04:35.37
日本史板が終了だってwwwwww

662:日本@名無史さん
11/07/18 09:30:42.78
従来の説にしがみついていた連中が、伊都国=佐賀説に反論できないと知って逃げ出したってことかな。


663:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 09:45:02.92
>>656
>庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。

倭人伝を正しく読むと
大倭(大和)は1大率を伊都国に置き、諸国を検察する。
つまり、北部九州の庄内式はこの時の土器であり、
布留式と半島の土器が共伴するのは、神功渡海の位置を示す。

ついでに佐賀は、熊襲の地である。
熊襲とは、曽於のまわり(隈)である。


664:日本@名無史さん
11/07/18 09:47:19.83
               ★●日本最強伝説●★
日本刀1本で100人以上斬り殺せるほどの戦闘能力と有り余る日本刀を持ち、
銃剣と単発銃のみで80万人以上殺す等、原爆以上の破壊力を持つ携行兵器を誇り、
揚子江の川幅を2m以下にしたりするほどの高い土木技術を持ち、
沖縄で米軍上陸後も市民に玉砕命令が出せるほど命令系統がしっかりしていて、
当時オランダ領だったインドネシアにも開戦前から日本軍用の慰安婦を送り込むほど先見性があり、
韓国で文化施設はもちろん一般家庭にある辞書から料理本に至るまで処分してまわるほど暇で、
当時の朝鮮の人口の半数近くを日本へピストン輸送するほど燃料と船舶が豊富で、
中国で家々に火を放ちまくり虐殺した民間人の死体を集めてたっぷりとガソリンをまいて燃やすほど石油資源に余裕があり、
広く険しい中国大陸を大軍勢で移動していたにも関わらず、兵士や民間人が逃げる暇も無い程のスピードで動き回る運動能力を誇り、
舎から都市部まで全ての街道を余す所無く隅々まで破壊し尽くし、
11歳が戦場で暴れ回るほど逞しく、戦後に意味の無い強制連行を行いまくるほどの軍備と余裕があり、
圧倒的科学力を誇る朝鮮の反日勢力になぜか圧勝するほど運がよく、
朝鮮人を殺しまくりながら人口を2倍にするという魔術を持ち、
敗戦国でありながらGHQを手玉にとって朝鮮戦争を起こすほど政治力と外交能力に長け、
中国での最初の慰安所大一サロンにはハイテクエアコンを完備させ、
半世紀以上放置されても使用出来る毒ガスを作れる科学力を誇っていた大日本帝国が敗戦したことは、
戦後最大のミステリー

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※ちなみに中国、韓国、北朝鮮は予選の予選で敗退

665:日本@名無史さん
11/07/18 09:51:35.92
>>656
あたかも九州発祥のように思わせるデータを持ち出してくるところが
つじつま合わせにしか見えないなw

666:日本@名無史さん
11/07/18 09:55:39.52
>あたかも九州発祥のように思わせるデータを持ち出してくるところが
>つじつま合わせにしか見えないなw
なるほど。君も庄内式土器の分布状況は、九州発祥のようにみえるデータだと
思っているんだね。それなら、それを素直に評価すべきだね。
九州発祥を裏づけるデータは無視するってんでは学問としてまちがってるよ。




667:日本@名無史さん
11/07/18 10:09:36.15
他のデータを無視しておいて、都合の良いデータだけを突き出してそれを信じろとか
とても学問とは思えないがなw

668:日本@名無史さん
11/07/18 10:10:03.28
こんなん大妄想発表会でしかないわw

669:日本@名無史さん
11/07/18 10:14:33.80
安本はオワコン なぜ自殺しないかと思うが最初から商売だから

670:日本@名無史さん
11/07/18 10:19:04.52
>>667
>他のデータを無視しておいて
何の話かな?

なるほど。安本は天皇の在位年数なんてあてにならないデータを出してくる人間だから
庄内式土器の分布について言うことも信用できない、って論法かな。
それは、畿内説論者は、南を東とごまかす連中だから、その連中がいう考古学的所見と
いうのも全て嘘に決まっている、と言うような論法だね。

671:日本@名無史さん
11/07/18 10:33:55.51
>>670
>何の話かな?

え、考古学者が畿内発祥とする理由も知らずに言ってるの?

ま、下の文章を読めば、考古学者の出してくる情報は出鱈目だ、安本の情報だけを
信じろって読めるから、当然かもしれないが・・

ところで誰か筑紫型庄甕の瀬戸内・畿内での分布状況知ってる人いない?


672:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 10:36:14.03
>準3倍年暦は1ヶ月が10日間の欠史八代の3倍暦法と類似して、1ヶ月が
9日間での暦法であり、

のらりくらりと、倍年の説明は出来ても、それに数字を与えて“暦”とする事が出来ない。
つまり“倍年”なる暦は存在しない。
よって、太国が主張する年代は誤りである。

>すなわち239年を秘めたものであり、当時西暦を朝廷側が覚知していたと
いうことなのだ。
> 崇神6年9月3日 日御象鏡を改鋳
>東倭とは、コチラの主張では、大陸から見て通常では東の日本のことである。

○ 日本における西暦の使用は、明治以後であり、西洋に於いても240年頃はまだ西暦は
使われていない。
○ 日御象鏡は大型の内向花紋鏡であって、△縁鏡と関係無い。△縁鏡は墓穴に放り込むため
のみの存在である、だから伝世しない。
○ 倭または倭国と魏書に書かれる。この時点で“東倭”が倭国を指さない事は確実である。
卑弥呼の居る“倭”すなわち北部九州と邪馬台国なる大和を別けるために“東倭”が存在する。


673:日本@名無史さん
11/07/18 10:38:12.03
庄内土器九州発祥を言っているのはほぼ安本だけ。九州の考古学者にすら一笑にふされている。
それもこれも安本東遷説を成り立たせたいためのごまかし。ここが安本説の最大の弱点となるからだ。
自分たちの編年研究をまったく無に介するような、この安本の独善的な説を苦々しく思っている九州考古学者
は実は多い。安本が学会からいっさい相手にされなくなったのも、この主張がきっかけとなる部分が大きい。
そもそも庄内はそれ以前の大和や吉備の土器と形式的つながりを持っており、出土量もまるで違う。
・・・安本説は神話解釈の時点で実は終了なんだけどね。

674:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 10:40:52.12
>>671
URLリンク(repository.nabunken.go.jp)


675:日本@名無史さん
11/07/18 10:44:24.02
安本(笑)

676:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 10:48:58.05
宿主
42年のインチキ数字をさ~も合ってるように羅列して説明した素振りで
ポーズをとってみたところでその具体的核心部分の説明などただの一度
もしたことのないオマエの論など、常人はだれも信じやしないぜ。

おまけに地球上の日本に存在しない数日間も日食が見られるという大ウソ
の計算を出したというならば、これこそ蛮族はどうだか知らぬが、他の
者らに嘲笑されるだけで、まぁ精神病院でも泊まってらっっしゃいと
彼らにクルクル○ーらしいと陰口をたたかれるのが行き着く先だ。ppp

こんなのは外人らは騙せても、小学生でもちょっと考えれば出鱈目だと
この子らにも嘲られるぜ。ウワッハッハ!ww オマエの論のイカサマの
化けの皮が剥がれるのがこういうところだ。

日食が数日間も継続するんだとよ。所詮誰でもおかしいと見咎められ
る大デマカセだ。

677:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 10:50:09.68
URLリンク(repository.nabunken.go.jp)
PDFファイル 研究課題名(和文) 日韓出土土器による3・4世紀国際交流の研究 

URLリンク(m-repo.lib.meiji.ac.jp)
古墳出現前後における畿内型甕形土器の 西方拡散に関する研究 佐々木 憲 一

URLリンク(repository.nabunken.go.jp)
大阪平野における3世紀の首長墓と地域関係 福永伸哉


678:日本@名無史さん
11/07/18 10:51:47.12
>656
はほとんど詐欺
北部九州の「庄内式」は庄内式以降の伝統的5様式や布留式古相平行に残る庄内式様相まで含んだ分布を示して「北部九州一円」とする。実際は、その広義の「庄内式」の共伴土器は在地系が多い場合も含んでいる。いずれにしても、北部九州では「庄内式」は客体的だ。
畿内の「庄内式」は、布留0以前に庄内甕を含んだより精製の真正の庄内式の分布範囲しか示さない。庄内式平行期に伝統的5様式主体地域は除かれた分布図だ。
北部九州の、伝統的5様式や布留式期含む甘い「庄内式」基準なら、北部九州以上に畿内一円「庄内式」だらけになる。
逆に、安本氏が畿内に当てはめてる厳しい「庄内式」基準だと、福岡平野の一部のみにしか「庄内式」はないのが実態。
甘木朝倉とか、「庄内式」要素の伝播は布留式古相平行からだし。
福岡平野にある真正庄内式も、型式学的に庄内式成立期のものはない。
そもそも、九州の弥生後期土器に、製作技法や形態上、庄内式成立につながる要素はない。
庄内式成立は、基本を畿内5様式とし、製作技法や一部器種に吉備の影響があり、わずかに東海の影響がある。
畿内と北部九州の平行関係は、互いの土器の搬入搬出や、間の山陰や吉備での畿内産や北部九州産土器の出土で分かる。
北部九州での庄内式成立(福岡平野の一部への大和からの伝播だが)は、寺沢編年庄内2式以降だろうことが証明されている。



679:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:04:11.37
宿主
そうならば、オマエの論では西倭と書くべきだね。うっちゃりキング
は常に出た結果と整合しないから、デマカセ即興での東倭の説明で誤魔化
す。オマエのは整合しないから、今後もうっちゃりうっちゃりの連続
記録で、出た結果は常にオマエの論をそうでないとの回答になる。

最初に恣意的勝手に景行年代を強行に決めこみ、それが合わない無理の
ため天皇になれない臣下を天皇に仕立て上げ、さらに数日間も継続
しない日食を日食だと現代天文学の鉄則も無視して牽強付会を頑張り
通すその根底は、ホツマを極超賛美化してオマエがその上にアグラを
かきたいための利害がこういうドス黒い出鱈目論を何が何でもイカサマ
砦化を貫くオマエの後ろ暗いよくない動機なのだよ。ヘヘヘヘ・・・。

インチキ編年では古代史論の権威のキングにはなれず、インチキ古代史論
の魔王になるばかりで、言い変えれば古代史論の朝敵がオマエなのだ。

景行は全然日本統一など出来ない。
日本統一はホツマの成立年代に合わせることは出来ない。←朝敵の言う論
日本統一は記紀の成立年代適合するのである。

680:メ
11/07/18 11:05:55.52
>>637
>>542 アラタメドツボ

542はおれじゃないが・・・
最近は、古代史というよりも戦国時代に興味を持ち、
そっち方面にいってる。 んで今、本を読み漁ってるところだ。
織田信長、浅イ長政・・・などなど

おぬしも、考古学に限らず、もっと幅広い知識を身につけるべきと思うぞw

681:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:09:25.37
>>676
>42年のインチキ数字をさ~も合ってるように羅列して説明した素振りで
☆この数字を裏付ける文献の読み方が有る。
>おまけに地球上の日本に存在しない数日間も日食が見られるという
☆数日間の暗黒は、太国の主張である。太国はこの数日間の暗黒を説明出来ていない。
>こんなのは外人らは騙せても、小学生でもちょっと考えれば出鱈目だと
☆太国倍年の事ね。倍年とはデタラメの暦法である。小学生も騙せない。
本人(太国)自身この暦法(倍年)に数字をふれない事実は、本人自身が信じていない。
だから、考古学の主張する纒向年代を否定しても、正しい年代を主張したことが無い。


682:日本@名無史さん
11/07/18 11:14:15.24
さすがに安本は無いよ。
商売背負ってるから引けないだけとしか…

683:日本@名無史さん
11/07/18 11:14:33.00
>>678
残念ながら、説明を読んでも、安本説がまちがいで、庄内式は畿内発祥だと認めるべき事項は何もないね。
畿内発祥ならば、当然それが使用された期間も長いわけだから、畿内周辺にその亜型がたくさん生じるはずだ。
ところが君の説明では、畿内周辺にそのような亜型がたくさん生じていたという指摘はない。
逆に北九州にそれがあったという。君の説明を読むかぎり、北九州発祥とみる方が自然だと思うよ。
それとも、甘い「庄内式」基準なら、畿内周辺に広範囲に出ているというのかね?

684:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:22:29.25
そんな読み方など存在しな~い。オマエが出したところで、またまた
抽象的説明とインチキ数字の羅列でケムに巻くのがオマエのイカサマ手法
だ。
数日間の暗黒が説明出来なかろうと、だからといって数日間が数分間には
ならない。オーストラリアのヨ-ク半島ではモーニング・グローリーと
いう日本列島の半分の長さとなる極超大雲が天空を覆いかぶすことがある。

こんな超現象は千年二千年とか経てば、その間に数日間も続く暗雲が
出来あがることはありうることで、数日間も長いとなれば数分間で
終わる日食とは異なりモーニング・グローリー的天候現象ならば神功元年
前年の紀の記述と矛盾しない。つまりこの年の記録は日食にはならない。
こういう超天候現象だったと考えるべきだ。

倍年でなく、当時佛伝以前、朝廷には色即是空など教育されておらず、
宿主空年は成立しない。そんなものは当時ないんだ。ww

685:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:25:58.63
>>679 訂正
× ←朝敵の言う論
○ ←朝敵の言う論への反論

686:日本@名無史さん
11/07/18 11:27:10.83
>683
畿内周辺に部分的に庄内式に近い各地様々な伝統的5様式や、模倣庄内甕がたくさんありますが。つまり、「亜式」がたくさんあるということだが。
安本信者は本当に何も知らないんだな。

北部九州の庄内式について、井上裕弘、久住猛夫、佐々木健一の論文を読んだことがあるのかい?

687:日本@名無史さん
11/07/18 11:27:26.35
なんか孤独な安本信者がいるな。それとも利害関係者か。

688:日本@名無史さん
11/07/18 11:28:59.01
>>687
安本本人じゃないのwww

689:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:32:47.59
URLリンク(homepage2.nifty.com)
邪馬台国と楽浪郡


>>684
>空年は成立しない。そんなものは当時ないんだ。ww

何故ここで”太国倍年”が存在した。と主張しない?

>その間に数日間も続く暗雲が出来あがることはありうることで、

その出来事を特定して、神功元年の指標とすれば?
暗雲のため、日のカゲがきらめく。薄日はきらめかない。
また夜の如き暗さもありえない。
空に満つる雲量には限界が在り、限界を過ぎると雨となる。


690:日本@名無史さん
11/07/18 11:34:00.95
ただの信者なら九州大に行ってレクチャーを受けてくれば洗脳も覚めるだろうが
利害関係者ならどうしようもないな。2ch宣伝係か。

691:日本@名無史さん
11/07/18 11:37:20.50
そもそも安本は人の説得のしかただとか詭弁のススメのような本を書いてるじゃないか。

692:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:37:32.24
年輪降水量。
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)

日本の歴史を、年輪降水量に合わせると。
西暦20年代 唐古、鍵の環濠を埋める洪水(降雨)。考古学:弥生中期後葉。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。

 降水量が少ない時期が続く=寒冷期である。
年輪降水量グラフは、年輪年代法に基づく。
日本に於いても、183~193年頃は寒冷期である。
新羅 192年 4月大雪。
新羅 193年 6月倭人飢餓の為渡来する。=弥生後期末の出来事である。
新羅 209年 伽耶に援軍。 加羅 541年 建国330年で新羅に身を寄せる。

唐古、鍵遺跡や近江伊勢遺跡など各地の遺跡が衰退する。=居住地の放棄。
2世紀末 纒向遺跡に各地の土器が集まる。

この出来事を書紀に当てはめると
崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。
考古学:唐古、鍵の住民は居を山辺に移す。
崇神10年 4道将軍の派遣の結果として、異俗多帰。地方の民を連れ帰る=考古学:各地の土器。
崇神58年 新羅209年ころ


693:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 11:38:01.01
なお毒書ホツマとはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが恣意的妄想
を追加して書いた文であり、これの記載内容には重々用心が必要であり、
各々方はホツマの妄想に騙されないよう注意されたい。

日本統一はホツマの成立年代ころではない。
日本統一は記紀の成立年代ころなのである。

694:日本@名無史さん
11/07/18 11:39:23.00
一体どんな人が安本信者さんなんだろう?
正直文献解釈でもどうになもならん状態だし。
巻向や箸墓の年代だけ批判してる場合じゃないだろという気が。

695:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 11:41:58.12
垂仁天皇 217年~239年 4章 ホケノ山古墳。半島式木郭墓は田道間守の殉葬。
纒向遺跡の巨大建築は珠城宮の跡に、土を盛り平す(ひ=乾く、しろ=ならす)日代宮。
景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行天皇 240年~261年 2章 箸墓は箸陵。遠国をまとめる為、魏の政治手法「屯倉」導入。
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
成務天皇 262年~265年 3章 
仲哀天皇 266年~274年 0章 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年~343年  ここより盟神探湯による世継ぎの部分。磐余稚桜宮は、桜井茶臼山
の時代、佐紀楯列までの70年間。
桜井茶臼山や黒塚古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、274年頃からの西晋洛陽、楽浪の鏡である。
魏の時代には、洛陽にない意匠・図像である。いわゆる卑弥呼の鏡とは、後漢鏡である
画文帯神獸鏡・方格規矩鏡・内行花文鏡などであるが、卑弥呼以前から流入している。
308年永嘉の乱以後は、完全に仿製鏡の時代に入る。(意匠・図像の使い回し)


696:日本@名無史さん
11/07/18 11:42:20.41
>>694
いつもの劣等感丸出しの恨み節君だろw

697:日本@名無史さん
11/07/18 11:43:56.23
ついでに安本氏の庄内式に関する珍論に、庄内式が物部氏と関係するという説がある。
畿内だけ見ると、奈良盆地東南部と中河内は適合するが、外の物部氏根拠地に庄内式があるかというと疑問がある。
何よりも、安本氏が庄内式発祥とする北部九州では、物部氏根拠地の久留米周辺や遠賀川流域に庄内式の出土がほとんど無く、逆に物部氏の伝承がほとんどない福岡平野の一部(博多、那珂比恵周辺)にのみに庄内式が集中している。

698:日本@名無史さん
11/07/18 12:03:51.91
>>686
佐々木健一なんて書いてるようじゃ、程度が知れるぞ。とにかく、こいつらの頭は畿内中心で
固まってるからな。読んでいて馬鹿かというような思考方法ばかりだ。

伝統的5様式は、亜式にはならんよ。問題は、模倣庄内甕はどこにどんなふうに出ているかだな。
資料を明示してくれ。

699:日本@名無史さん
11/07/18 12:11:11.87
しかし考古学者ではない安本以外のほとんどの考古学者が一笑に付すような話を
いかに2chとはいえここまで強弁するというのは、やはり関係者なんだろうな。

700:日本@名無史さん
11/07/18 12:13:54.90
鰯の頭も信心から

701:日本@名無史さん
11/07/18 12:19:04.57
自分で調べろw
畿内一円に大和型や河内型の真正庄内甕(河内型は広い分布、大和型は盆地内が多い)が搬出され、そこらて模倣甕が作られているぞ。
まあ大和なら盆地西南部や北部、宇陀、大阪なら摂津や和泉、北河内、あるいは山城の庄内式平行期の遺跡報告書で自分で探せ。河内でも生産地の中河内以外は庄内甕は客体的で模倣品がある。

北部九州は福岡平野以外は分布自体が非常に薄いが。客体的過ぎて亜型式があまりない。在地系から布留式系に移行する地域が多い。

あと佐々木健一は佐々木憲一の誤植というだけだろ。だからどうしたんだ?

702:日本@名無史さん
11/07/18 12:20:11.64
おもしろい文章だな。ほとんどの考古学者って考古学者ではないのか?

703:日本@名無史さん
11/07/18 12:45:27.41
>>701
ヤマト中心の考え方からすれば、ヤマトが東海や中国、四国、九州と勢力下に
治めたんだろ。そして、畿内で生産を始めた庄内式土器を支配下の九州に分けて
やった。そうゆうことだよな。それなのに、何で、九州以外の諸地方から庄内式
がどんどん出てないんだ?

704:日本@名無史さん
11/07/18 13:08:52.41
>>703
だから、いっぱい出てるって言ってんだろうが。
安本が「出てない」と言い張ってるだけなの。


705:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:14:39.36
臣下 伊支馬≠垂仁天皇

なおホツマとはそんじょそこいらのタダの昔のオッサンが妄想毒を挿入
して書いた毒文であり、重々用心を必要とする。

臣下は神国日本では絶対天皇にはなれない。従って等号は成立しない。

706:日本@名無史さん
11/07/18 13:16:07.91
??

北部九州庄内式発祥説は、柳田康雄氏の編年に柳田氏の年代観を採用して庄内式が北部九州で3世紀初めからにして、一方で畿内は関川尚功氏の遅めの年代観を挿入して、庄内式が畿内のが遅いとするおかしなことをやっている。
土器の併行関係を考えたら、両者の年代観は両立しない。
もともと関川氏の年代観は須恵器成立が5世紀中頃として、それ以前の布留式は百年間を超えないだろうと言う素朴なもの。舶載遺物の検討などで検証していない。自身の年代観があまり根拠がない感覚的であることは関川氏自身が言っている。
まず布留式が百年以内とか、ただの感覚で根拠にならないし、須恵器成立は年輪年代資料を鵜呑みにして4世紀末まで上げるのは韓半島の年代資料と齟齬が出てくるが、少なくとも5世紀中頃というよりは前半ないし初頭になる可能性が高い。
布留式の長さも、前期古墳が多様性があり、編年細分がかなりできるとなると、百年以内に限定というのは難しい。
庄内式イコール北部九州の弥生終末に三国鏡(三角縁は置いておいても)がほとんど入らない状況から、庄内式≒北部九州の弥生終末は3世紀中頃までの可能性が高くなる。
これは1960年代から九州の考古学者が言っていた話で柳田氏の年代論もその延長上だが、さも最近急に古墳出現が早くする論が出てきたと解説しているのは、学史の隠蔽と言える。
もちろん、3世紀中頃が後半くらいになる誤差はあるだろうが、庄内式が4世紀まで下がるということはありそうにもない。
九州の庄内式の「古さ」を言う時だけ柳田氏の年代観が使われたりするが、肝心の九州の遺構の年代比定にはそれが使われないのは詐欺に近い。

707:日本@名無史さん
11/07/18 13:18:42.12
安本さんも裸の王様なんだよな。
でも自分でもわかっててやってる気がするw

708:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 13:31:26.44
>臣下は神国日本では絶対天皇にはなれない。

1年を120日とか1月を10日とかいう劣等国の話か?
五世孫の継体が皇位に付く。
太国の好きな顕宗、仁賢は、牛飼いの奴だろ?


709:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:36:27.26
朝敵
継体は臣下ではな~い。

劣等国などとほざいているところを観ると、やはりどうやらオマエは半島人
らいしな?ww 半島の年代はオマエの好きな国だからな。ppp

710:日本@名無史さん
11/07/18 13:38:37.56
>>707

少なくと>>703レベルの奴には、未だ服を着ているように見えているわけだから、
ちゃんと商売としては成りたってるみたいだw

711:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:40:38.24
>>709 訂正
× らいしな?
○ らしいな?

なおホツマとは昔の尊そんじょそこいらのタダのオッサンの書いた毒文
であり、とりわけニガクリタケをクリタケだとかいう同然の日 食中毒
をお薦めする根となる書であるからして、この妄想毒にしてやられ
ないよう、各々方はこの半島人?に用心をされたい。

712:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 13:43:24.86
>>711 訂正
× 尊そんじょそこいら
○ そんじょそこいら

なお数日間という日を経て日食が観測できる地点は、この地球上に
存在しない。同様に宿主空年は存在しない。

713:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 13:54:25.75
>モーニング・グローリー的天候現象ならば神功元年前年の紀の記述と矛盾しない。

この雲は暗雲ではない、だからグライダーで乗ることが出来る。

>日本統一は記紀の成立年代ころなのである。

箸墓は最初の大王墓。

崇神5年頃=景初3年銘
崇神5,6年は、崇神5年 民の疫病=餓えの病、餓死。民の疫病は朝廷に及ばない、ただ困惑させる。
崇神6年 民の離散。逃散は「餓え」でのみ説明出来、疫病では説明出来ない。
寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。で説明すべきである。
高句麗本紀 256年 九年 十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。

つまり、崇神6年を景初3年銘で説明したつもりであろうが、肝心の寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
が説明出来ていない。
だから考古学は、こんな文献史学を見放して独自に編年を始める。
太国がいくら主張しても過去の数字にしがみついたご老体でしかない。
老兵は去るのみである。飛ぶ鳥あとを濁さず。ご苦労であった。



714:日本@名無史さん
11/07/18 14:01:00.25
安本は確信犯だろ。自分の説などかけらも信じちゃいない。古代史は金になると踏んだんだ。


715:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 14:18:32.00
>>713
いつから觔斗雲を古代史論説に入れたのか? ヘヘヘ・・・。ww

飢饉、疫病が起こったから祭祀をしたということだ。当然だな。

716:日本@名無史さん
11/07/18 14:21:15.00
>>706
急に年代論を持ち出してきたが、いったい何を言いたいんだい?
九州の庄内式と畿内の庄内式では年代がちがうって言いたいのかな?
もう少し趣旨が伝わる文章を書かんとあかんな。

717:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 14:31:20.77
>>672
>”東倭”が倭国を指さないことは確実
ヘッヘッヘ~。説明が抽象的で不十分だねぇ。ww

これは ↓ 何だ?

邪馬台国ドンと来い♪ 85
>56 唐松山 2011/03/16

正始元年には魏使が大和を訪れる

 倭王=大和

晋書 正始元年 【東倭】重譚納具。

神功の渡海は274年 倭国統一から20年ほど後。晋の要請による渡海であれ
ば【東夷】の親玉として君臨でき、半島占拠も視野に入る。

718:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 15:00:48.16
>>717 続きだ~ヘッヘッヘ~~
     ↓
晋書・・・【東倭】重譚・・・
 
 神功の渡海は・・・【東夷】の親玉として君臨でき・・・

漢書王莽伝

元始5年(=西暦5年) 東夷の王 大海を渡り国珍を奉ず

なお ↓ 宿主説

 神武元年=西暦42年

ヘヘヘヘ・・・、西暦5年にどんな東夷の王が畿内にいたというのかね?
返答に屈すると、脳内で即興にうっちゃりを考案し→>>672 を言い出す。

臨機応変にクルクル変わるインチキの自語相違とはオマエの論だ。ww

719:日本@名無史さん
11/07/18 15:58:02.37
>716
よく嫁
安本氏が庄内式を新しくみたり、一方で九州の庄内式を古くみたりしているカラクリを暴露しているだけでしょ
関川氏の年代観と柳田氏の年代観は両立しない、て書いてあるじゃん
で、実際はどっちが実態かも書いているわけで

720:日本@名無史さん
11/07/18 16:10:17.52
で、早稲田の邪馬台国シンポジウムと二上山博物館の邪馬台国シンポジウムのレポートは無いの?

721:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 16:21:42.34
>西暦5年にどんな東夷の王が畿内にいたというのかね?

西暦5年の朝貢は九州だ。
畿内からの朝貢は田道間守の派遣が最初である。だから卑弥呼の下に見られた。
そしてこの時には任那(伽耶)は存在する。
>準3倍年暦は1ヶ月が10日間の欠史八代の3倍暦法と類似して、1ヶ月が
9日間での暦法であり、
1年の長ささえわからない崇神では、その年が景初3年と認識することは出来ない。

>>719
太国主張の倍年暦とやらに、数字をふれないことを認めたのか?
太国倍年とは、太国の妄想暦である。だから数字もふれない。


722:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 16:29:39.72
崇神(188~216年)を考える
他の文献と合わせる処は
ツノガアラヒト、5,6年の凶作逃散、任那建国

ツノガアラヒトの渡来は書かれていても時期は書かれていないが
新羅 173年 卑弥呼。これが姫大神の記事なら、それを追ってツノガアラヒトの来日
ここに田道間守の系図を入れると
ホ35054 アメヒホコ モロスケをうむ モロスケは ヒナラギをうむ ヒナラギは キヨヒコをうむ キヨヒコは タシマモリうむ

176年 モロスケ 
196年 ヒラナギ
216年 キヨヒコ
236年 田道間守
田道間守は239年に魏を訪れ、年末か翌年子供が生まれる。
数字が合わない。しかし 気長帯姫はキヨヒコの孫である。
236年 ?
256年 気長帯姫
274年 応神誕生
田道間守がキヨヒコの弟なら、数字は合う。


723:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 16:43:05.87
>>722
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~と。コチラを口撃していた男
が~

 偽書といわれる書物を持ち出した~~。

>>721 ヘッヘッヘ~~。クルクル君よww
      ↓
謎の女王卑弥呼は誰か? 邪馬台国問題に終止符 55
>816 唐松山 2011/03/22

景行世=九州、関東までを・・・・・274年渡海、晋の要請による渡海、
【東夷軍】の編成。323年神功49年半島を占拠→これだけの軍事力を持たね
ばならない。その為には、誰よりも早く【東夷軍】をとして組織され
る必要が有る

724:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 16:51:29.61
>>721 クルクル宿主君
オヤッ?何かの語が抜けてるねぇ。ヘヘヘヘ・・・ どうしてかいな?
     ↓

邪馬台国ドンと来い 85
>403 唐松山 2011/05/04
・・・・・・・・・・・・
晋書 正始元年 重譚納具

725:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 17:02:31.69
238年 九州を訪れた魏使は、邪馬台国(畿内)の位置さえ良くわかっていない。
しっかし狗邪韓国(任那)で仕入れた情報に依れば、この国の建設に関与した国
である。乱に疲弊し、朝貢もままならない九州倭国。
九州倭国は3世紀初めの平原墳墓から大王を立てられていない。だから、楽浪鏡は
畿内に入っても、九州に入っていない。
魏使の要請に九州では、女王卑弥呼が共立され、その下に畿内代表 田道間守が付く。
洛陽を訪れた一行と共に、魏からの使者が大和を訪れるのであるが、垂仁は墳墓の下。
魏使は、大和の王に一つの提案をする。それが、九州倭国との共同で“倭国統一”である。
その応諾の返答に大和(景行)は、使者を送る。晋書正始元年東倭重譚納具。
ここから魏による戦争の仕方からその後の治世方法までの伝授が始まる。
正始4年倭王(景行)は伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁を団長として
送り込む。
戦争の準備が整った時、魏は黄旛の下賜を決定する。
274年?九州へ渡った景行は、最初に筑紫、カンカシヒメに挨拶を終え、大分方面へ南下する。


726:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 17:30:26.33
ホツマの成立年代頃に朝廷の日本統一はな~い。
記紀の成立年代頃朝廷の日本統一が成ったのであ~る。

景行の代、日本統一は出来ない。

727:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 18:52:03.78
>>708 朝敵
「劣等国」などと言うところを観ると、オマエは「神」を毛嫌いして
いるようだな。やはりオマエは神国日本の人間ではなく~~
半島人らしいな?ww

以前には、神社の由緒伝承等を「ゴミ」だと不敬の語を吐いて
いたオマエのことだ。オマエは「神」を毛嫌いしてるからオマエの口から
本音が出たんだろう。だから神鏡製作年代をズラしたいのだろう?
へへへへ・・・

728:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/18 21:03:24.39
>「劣等国」などと言うところを観ると、
畿内大和の朝廷で訳の解らない1月が9日などと言う暦を使わせ
劣等国とする太国。
古代朝廷では、太陰暦が使われていた。その証拠が書紀の太陰暦で有る。
ただし空白年の差し込みにより引き延ばされている、その証拠が日々の干支である。
日々の干支は太陰暦が正しいと言う側面と引き延ばされているという側面を表す。


729:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 22:08:15.83
そんなものは引き伸ばされていない。年代は全部埋まってるんだね。
佛伝以前に朝廷が色即是空に染まってたとは言えない。つまり宿主空年は
成立しな~い。
寺坂氏も具体的に説明してたとおり、パラオでも2倍年暦を行使して
いる。なにも古代マヤだけではない。また1ヶ月が9日という暦は
朝廷のではなく、マヤの暦法(G文字)のほうだ。オマエはすーぐハメ
を外してインチキを書きこむ癖がある。1ヶ月が9日という準3倍年暦
ならば、1年は108日であり、神武の世の3倍年暦(1年が4ヶ月→
30×4=120日)に近いこととなるから、準が可能である。神武は元年
の当初は1年10ヶ月の勅を出したが、途中で改暦したようで、元年から
やりなおし、5月~12月をなくしたのであるのだ。

劣等国とするのはオマエの話なんだよ。すり換えるんじゃぁねえ~。><
こちらは神国日本と言ってるんだ。劣等国と言ってるのは半島人くさい
オマエのほうではないか? 邪魔だから早急に帰国しろ。

神皇紀

 人皇第一代 神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、30日を一月とし、
 十月を1年と定め給ふ。

1年が10ヶ月となると、5月6月が欠なのは当然だな。アパート、
マンションに不吉との迷信か~4号室、104号室がない所があることから
充分言えるんだぜ。

730:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/18 22:43:50.29
毒文ホツマとは昔のそこいらにいたタダのオッサンが恣意的妄想を注入
して書いた危険な史想の書である。

唐松山はこれを書いた奴のクソ汁でさえ喜んで飲むくらいアリガタヤ、
アリガタヤの境地なんだろう? プハハハ・・・ww

731:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/19 18:41:24.53
>神皇紀は 太陰暦を太陽暦に改め

太陽暦とは、1年を365日程度とする。
つまり、何処にも1年が180日である。とは書かれていないんだろ?
日本書紀は太陰暦、よって、太国倍年の存在は否定された。
ご愁傷様。


732:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 18:47:25.96
神皇紀は神武の勅が太陽暦だとしっかり記載している。太陽暦行使を
否定出来ないオマエの宿主空年はオマエのインチキ創作。ww

733:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 18:58:55.03
どこにも宿主空年とは書かれてないんだろ。ww
宿主空年の存在は否定された。年代に架空年数を注入すると大きく真の
年代が撹乱されて分からなくなる。そんな間抜けなマネをする奴は朝廷
にはいないんだぜ。2倍暦等は古今の世界各地を調べるとあるわけで、
パラオなど好事例だ。古今の昔から2倍年暦等が行使されてたのを確認
できるわけで、かたや空年などの愚かなマネをしていた国などどこにも
見当たらない。あるのはオマエの脳内の浅薄な活動の創作だ。ww

734:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 19:08:19.58
>>732 訂正
× 太陽暦行使を否定出来ない
○ 太陽暦行使を否定している

735:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/19 20:57:41.02
>太陽暦行使を否定出来ないオマエの

古代朝廷は、太陰太陽暦を行使していたことは認めていますよ。
だから1と月は、29日か30日になる。
12ヶ月で1年、不足分は閏年を設ける。
太陰暦に空白年を差し込むことにより、太陽暦(24節季)が隠される。


736:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/19 22:20:07.79
色即是空の佛理など、当時の朝廷は関係ない。すなわち空白年などさし
こむ間抜けな朝廷の臣下などいつの時代にも無い。ww
そんなことをすれば、別の朝廷の仲間が「何をやってるんだ。これは年数
が間違いだぞ。どれ、みどもが正してあげよう。」と言われて元に矯正
されるのがオチだ。2回もそんなマネをやろうとでもしたら、更迭は
疑いない。故意だったら、公文書偽造同行使で身の危険が切迫する。

であるから、そんな危ないインチキ空年など入れるやつなどいやしな~い。
当時は今と同様、政敵がうんといたに違いない。そんなインチキ空年など
こっそり入れたことがこいつらに知られたら最後、弱点を握られて、
もうオシマイ。

24節を隠したところで、農民には何の利害もな~い。農民にとって利害大
なのは、飢饉で餌がないことだ。

ところオマエいつ半島から日本に住みだしたんだ? あまり日本の悪口を
言うなら、半島へ帰れ。邪魔だ。>|<

737:妖拳
11/07/20 02:21:30.68
この前、遠山美都男という人と、ある焼鳥屋で会って歴史の話をしたらしいんだが
酔っ払ってて全く覚えてない。
その後、その遠山という人が自分が書いた本だと言ってその焼鳥屋に「卑弥呼誕生」とかいう本を置いて行ったとのこと
自分に渡されたんだが、ちょっと難しかった。はっきりもらったわけでもないので
店に返したが、今度は他の女性が借りて行った。

738:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/20 22:16:10.77
崇神六年。百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕■。請罪神祇。先是。天照大神。
倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内。

天照大神を豐鍬入姫命に託し、倭笠縫邑に祭る。その後、罪神に祈る。
崇神5,6年は、國内多疾疫。民有死亡者。且大半矣。百姓流離。或有背叛。または、
寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。で表される。

罪神に祈る崇神。それを無視して天照大神を笠縫に祭った証拠が景初3年銘と言い張る太国。
この主張をごり押しする太国は、神をないがしろにしている。
その前に、239年頃、寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。の説明が出来ていない。
民有死亡者。=百姓蒙災。←この出来事が景初3年であれば、その年を紀年した鏡ならば
大凶の銘である。

崇神世の寒暑矢序とは、後漢183年から193年にかけての異常気象と同期する。
そして任那建国は存在する。210年頃である。
つまり崇神世は、考古学の主張する纒向年代の2世紀末から210年を含む時代である。

景初3年銘をここに設定しても書記の主張する崇神世の何も説明出来ない太国倍年。
考古学の主張する纒向年代を否定しても、書き換えるだけの文献もなければ、能力もない。
3倍年があったと主張してもその暦に数字を与えられない。数字の無い暦は存在しない。


739:日本@名無史さん
11/07/21 14:59:47.35
女王卑弥呼は第15代天皇陛下のお妃様だったのではないかな?

740:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/21 16:20:16.83
>>738 魔書ホツマの宿主よ
神社等の伝承由緒をゴミだと抜かす奴が神をないがしろにしてる野郎なん
だぜ。つまりそれはオマエではないか。ww
オマエなんかが大三輪神社の鳥居をくぐれば、神域が汚れる。><
早く半島へ帰国しろ。

>239年頃、寒暑矢序・・・
これがどこの文献かを書けていないオマエこそうしろ暗い所が
あるらしく、文献の題名の説明を渋ってる。これではコチラは関係な~い。

741:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/21 17:05:47.44
URLリンク(yamatai.cside.com)

742:八色仮面
11/07/21 20:50:19.68
>>739
そう考える理由も記して下さい。でなければ読んでいる人達はあなたの意見を
検討することができませんよ。

743:日本@名無史さん
11/07/22 08:49:11.52
なんとなく・・・15代って応神天皇だっけ?

744:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 19:56:28.76
>>741 の記事より
箸墓も崇神天皇の時代の4世紀中頃に築造された古墳と考える。

崇神をどの時代に配するか?これで古代史の認識が大きく変わる。
太国は、この書き込みから崇神=240~260年頃をあきらめたらしい。

崇神5,6年は災害。そして崇神末までに伽耶(任那)建国。←これを西暦で説明出来なければ
設定間違いである。

>239年頃、寒暑矢序・・・  これがどこの文献かを書けていないオマエこそうしろ暗い所が
魏使の訪れた238年や240年に凶作は無い。つまり崇神5,6年頃を「寒暑矢序」で説明出来なければ
整合性がある、とはいわない。
それとも太国は書紀の記事を吟味したことがないのか?
崇神天皇十二年(乙未前八六)三月丁亥《十一》◆十二年春三月丁丑朔丁亥。詔曰。朕初承天位。獲保宗廟。
明有所蔽。徳不能綏。是以陰陽謬錯。寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。然今解罪改過。敦禮神祇。亦垂教而緩荒俗。
擧兵以討不服。是以官無廢事。下無逸民。教化流行。衆庶樂業。異俗重譯來。海外既歸化。宜當此時。更校人民。
令知長幼之次第。及課 之先後焉。

745:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 21:13:54.97
北史卷九十四 列傳第八十二 倭國 より
至邪馬臺國,即倭王所都。
靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。
正始中,卑彌呼死,更立男王。國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。
其王有宮室、樓觀、城柵,皆持兵守衛,為法甚嚴。魏景初三年,公孫文懿誅後,卑彌呼始遣使朝貢。

183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。中国の乱れ始め。
崇神12年の「寒暑矢序。」は、この183年から193年に当たる。 
倭国に於いても、この翌年(184年)頃から不作があり、九州では乱れ始める。
奴国は疲弊し、大王を立てられなくなる。
そして3世紀前半の平原の墳墓を最後に王墓は造られない(歴年無主)
楽浪鏡は、公孫氏の鏡であり、公孫氏が呉から入手した鏡を東夷に配る。
楽浪鏡は、東瀬戸内以東に供給されるが、北部九州はこの鏡を入手していない。
ホケノ山に楽浪鏡が副葬される。(239年)邪馬臺國=大和。
238年 魏の使いが北部九州を訪れる、そして朝貢を促す。
歴年無主の北部九州で卑弥呼が共立される。
難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀。
都市牛利(たしうり)=タジマモリ =田道間守。
240年 田道間守をホケノ山に殉葬(半島式墳墓)。この時魏使は大和を訪れる(ホケノ山を見る)
240年 晋書 正始元年 東倭重譚納具。
243年 正始四年 倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人
 倭王(景行)は伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁等を派遣する。


746:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/22 22:38:02.14
な~んだ。どこの文献かも言えないんじゃ、オマエの創作文だとみなす。
そうでなければ、キチンと文献名を書いてそこのどこにその文があるの
か、それを書いてから文句を垂れろ。><

>魏使の訪れたのは九州のほうだ。
 畿内が飢饉凶作でも畿内から別国の~
 九州が飢饉凶作だとは限らない。オマエは畿内も九州も同一視して
 いる○抜けな考えだから、そんな慌てた支離滅裂の文句を考えるんだ。

紀の崇神6年とやらの飢饉凶作とやらは畿内このことだ。別国の
九州のことなど通常は関係ない。魏使が九州に行って畿内のことなんぞ
大して知る余地もない。おまけに魏に帰れば、その翌日から飢饉となれ
ば、魏使も知るわけがない。出鱈目野郎、わかったか?

747:日本@名無史さん
11/07/22 22:45:59.41
>>706
>もともと関川氏の年代観は須恵器成立が5世紀中頃として、それ以前の布留式は百年間を超えないだろうと言う素朴なもの。
>舶載遺物の検討などで検証していない。自身の年代観があまり根拠がない感覚的であることは関川氏自身が言っている。

その辺はかつての佐原と同じなんだろうなw

本人もあくまで大雑把な目安程度に言ったものが、それが都合の良い者=ゴミクズレベル九州説(特に東遷説)に
まるで金科玉条の如く扱われると言うwwww

まあ暫定的に決めた一種のダミーデータの類と思っておけばいいのだと思う。
当然あとで修正されることを前提にしたあくまで暫定の値。

そもそも須恵器は土師器が発展進化してできたものじゃない。
基本的には外来の技術。

極端な話、須恵器の技術が日本へ伝播するのは土師器が登場して10年でも良いし100年でも良い。
両者は ベ ツ モ ノ なんだからwwww

ちなみに須恵器が出てきたと言って土師器が消滅するわけでもないwwww



748:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 23:06:10.86
>九州が飢饉凶作だとは限らない。

しかし 「歴年無主」を探せば、3世紀前半の平原の墳墓を最後に王墓は造られない
北部九州が妥当である。
魏使は伊都国辺りまでしか訪ねていないが、狗邪韓国で畿内大和を聞き知っている。
であるならば、魏使は大和の参加を求めると共に、正始元年に大和を訪れる。

>崇神6年とやらの飢饉凶作とやらは畿内このことだ。
天候不順は、地域を特定しない。だから、
新羅192年4月大雪
後漢193年6月寒風冬の如し。新羅本紀が1年狂っていると思われるが
この寒気が日本を襲えば、畿内だけでは済まない。
靈帝光和中,其國亂,遞相攻伐,歴年無主。 ←後漢183年から後漢は乱れ始める。
時を同じく倭国内でも乱れ始めた地域があり、「歴年無主」で説明出来なければならないとなると、
九州北部で王墓が造られなくなる事実が妥当である。

使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
(壹與の時代)大倭(大和)は北の女王国(九州)に(自ら)一大率を使い検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。

女王国は伊都国を傘下に置く北部九州、そこに1大率を置く大和。
時代は庄内式土器の時代である。

庄内式土器の時代を引き下げれば、平原墳墓の時代も引き下げられ
(歴年無主) の地域が無くなる。
3世紀半ば、ホケノ山古墳=楽浪鏡の副葬。は正しい。であれば、纒向遺跡の年代も正しい。

>紀の崇神6年とやらの飢饉凶作とやらは畿内このことだ。
この年を記年した鏡を誰が喜ぶ?

749:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/22 23:20:18.17
オマエは畿内と九州が、まるでJRの隣りの駅の気でいる○抜け率
多大の野郎だな。当時は新幹線もなく航空機もないのだ。九州⇔畿内と簡単
には情報は入ってこない。おまけに女王国は中九州あたりだから、畿内に
大陸から来る遣使も女王国の情報を簡単にはもたらしえない。

江戸時代の江戸から伊勢参りは一生に一度遠方行きなのだ。畿内からそう
やすやすと九州の女王国へ行けると思ったら大間違い。オマエはかように
畿内から九州へ隣りの駅へ行くつもりの浅はかな考えだ。それは今なら
新幹線とか航空機があるからそういう気分でいいが、古代の当時は畿内
から九州へと行くことは軽くはとてもとても出来ない。

これを履き違えるオマエだから、畿内から半島へやすやすと行け
る~ウワッハッハ~~ww~だと、193年のとんだ不可能編年を頑張るわけ
だな。www

早く精神病院で診てもらうんだな。

zzzzzzzz・・・・・・・

750:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/22 23:29:01.27
庄内式=土師器とすれば、216年崇神末年 任那より朝貢。
須恵器=大量の民の渡来=神功49年以降=323年以降。

現在の考古学は、須恵器を誉田御廟山(380年ころ)としているが、
神功52年=七支刀=369年の文献史学の数字から須恵器が不当に遅くなっている。
369年の数字では、半島占拠が否定され、大量渡来も否定されている。
つまり
3世紀後半=福岡西新町遺跡=布留式=半島の土器とカマド。←274年神功渡海。
275年神功元年 323年神功49年半島占拠。中国東北部が空白地帯となる。


751:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 12:29:39.04
>女王国は中九州あたりだから、畿内に
大陸から来る遣使も女王国の情報を簡単にはもたらしえない。

女王は伊都国を傘下に置く。
魏使はその前に狗邪韓国(任那、210年建国)を訪れる。
後漢時代、倭国の代表は金印を下賜された奴国である。つまり、魏使は、奴国を目指して
倭国を訪ねる。しかし、奴国は、3世紀初めの平原王墓を最後に大王を立てられていない。
卑弥呼を共立するのは、この奴国が中心となる。女王卑弥呼とはカンカシヒメである。
魏使は、狗邪韓国で大和の存在を知る。ただし、正確な位置までは聞き出せなかったが
女王に畿内大和も朝貢団に加わることを要請する。
九州へは出雲のフリネが訪れていた様に各地と通交がある。だからこの程度の連絡は取れる。
それに対し、卑弥呼と対峙する狗奴国。狗奴国は、熊襲(ソの隈、背振山地南縁)を通じて
鉄を入手していた熊本地方である。←朝貢団に加わらない。

正始4年  伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁
正始6年? 難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベ=奴国大夫 倭女王の部下 斗は書紀
つまり奴国と大和は協力して倭国統一に動く、それを支持する魏国。
その戦争の最中に女王、男王は相次いで死亡する。
残された大和の倭王が倭国統一を果たし、伊都国に1大率を置く。

3世紀初めの平原王墓は動かない。従って纒向遺跡の年代も動かない。
となれば、これまでの年代(崇神=卑弥呼の時代)では纒向遺跡の説明が出来ない。
だから考古学が50年遡上したのであれば、崇神も50年遡上させなければ、整合性が取れない。
崇神5年は、後漢193年である。←50年遡上させた場合この文献で整合性が得られる。
崇神(モモソ姫)=卑弥呼の時代に合わせる文献は存在しない。
畿内に歴年無主は、存在しない。←畿内卑弥呼は成立しない。
考古学の数字を動かすと九州でも歴年無主は、成立しない。


752:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/23 16:24:19.75
>>751
>大陸から来る遣使も女王国の情報を簡単にはもたらしえない
        ↑
これはそのとおりだぜ。
それがたまたまなにかのきっかけで情報を運よく得たのだ。それで女王国
の実体が大陸にもたらされたのだ。それが働かないと、女王国の存在が
殆ど不明で終わったろう。

それがオマエに分かるなら、畿内と九州中部との情報の行き来が殆ど無
だったことに気がつけと忠告する。オマエは九州と畿内とが、まるで現今
のJRの隣りの駅の気分でいつも論を書きこんでいる。これはおかしい訳
だよ。ならば新幹線、航空機の無い193年当時、極めて遠方の半島に千人
もの農民の渡海などとても無理で不可能だ。おまけに全員空腹で船舶も
オマエの言う崇神6年には製造出来てない。船舶が製造されたのは紀の
崇神17年以降で、崇神6年には船舶のアリバイがなく、オマエの論は
これで崩壊している。これでは全然整合しておらず、大ダメだ。

753:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 17:49:40.85
URLリンク(m-repo.lib.meiji.ac.jp)
古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究 佐々木 憲 一
岩永(1989)は,古墳出現前後の時期に畿内など外来系の土器が福岡・早良・糸島平野で爆
発的に増加することに関して,次のように述べた。「外来系器種の増加とともに在地系器種の
消滅ないし個体数減少が起こっている。転入者がF地区[福岡・早良・糸島平野(引用者注,
以下同じ)]在来の集団中で土器製作に従事していることはIlb~IIIa期[この議論の対象の
IIIb期の前,Ilb期は以下に筆者が依拠する久住猛雄(1999a)編年のIb期,岩永IIIa期は
久住Ila期に概ね相当する]と変わらないが,さらに進んで,その転入者に伴って持ち込まれ
た土器作りに関するもろもろの情報が,在来の集団中の土器製作者に既に広く共有され,在
来の人間も外来系の土器を確実に製作し始めていると考えられる(下線は引用者による)。」つ
まり,古墳出現期には福岡・早良・糸島平野で外来(この場合は畿内)の土器が在地で大々的
に模倣製作されている現象を既に看破しているのである。
 高橋浩二(1995)はこの時期の加賀,能登越中を対象とし,庄内系土器や東海系土器などが
北陸各地域へ一様に波及する庄内式新段階と,布留系甕の波及・受容によって土器組成に不均
等性が生じた布留式古段階という2つの画期を見出し,定形化した古墳は第2の画期で出現す
るとした。
 また纒向遺跡と佐紀遺跡に近接して大和古墳群と佐紀盾列古墳群が広がることから,「その
[古墳群の]築造とあい前後する時期の隣接集落が,政権中枢のありかたと無関係に存在す
ることは考え難い。

続く

754:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 17:56:59.17
続き
方形4本柱竪穴住居は豊前・筑豊の東部地域で弥生時代後期中段階にいち早く出現し,
続いて庄内式併行期には筑前・筑後の西部地域でも現れ(この点についてはすでに井上
[1991]が指摘していた),東部から西部に,豊前→筑豊→筑前→筑後と徐々に広がってゆく
ことを明らかにした。西部地域では,そのような新しい竪穴住居は出現期(庄内式併行期)
→受容期(布留式古・中段階)→普及期(布留式新段階)の3段階の緩やかな変遷過程を経る
ことも確認した。
第4章:筑前・筑後への畿内型甕形土器の流入
 箱崎遺跡(福岡市東区,図6-3)[czr-4]
 多々良川・宇美川の河口部に位置する,南北に長い砂丘の東側にこの時期の遺構が展開する。
第8次調査では古墳時代初頭の竪穴住居2軒(SC36とSC58)と土墳3基が検出され,特に
SC36からは伝統的V様式系甕4点,庄内播磨型甕2点,畿内からの搬入と思われる布留甕
1点,布留系甕6点が出土した[czr-4]。久住(2004)は,布留系甕の1点を西部瀬戸内
地域製作と推測する。その他,韓半島系,東海系(S字甕B類C類),讃岐系壺棺の搬入品が
ある(久住2004)

庄内式が3世紀中葉に九州へ上陸してから、半島へ渡るまでの時空は短い。
東海系(S字甕B類C類)= 伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁=
大彦の諸武士。

>畿内と九州中部との情報の行き来が殆ど無だったことに気がつけと忠告する。

だから女王卑弥呼は九州中部に設定出来ない。


755:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 18:13:06.18
方形4本柱竪穴住居が出現期(庄内式併行期)→受容期(布留式古・中段階)→普及期
(布留式新段階)の3段階の緩やかな変遷過程を経ることも確認した。

神功の渡海は、熊襲(佐賀)を討ち、現地で渡海の人員を募集する。
田油津姫は田平津姫の間違いである。
庄内式併行期=景行の九州。
受容期=大倭が伊都国に1大率を置く。274年神功渡海
普及期=323年神功49年頃まで。


756:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/23 18:59:27.07
>>754 コチラが~
設定するんではない。コチラが女王国を建国したんじゃないよ。当時も
人間が住めたに違いないから、設定は出来る。

757:メ
11/07/23 20:49:15.92
わっしょいわっしょい
祭りだ祭り
各地で祭りが盛んだねえ。
邪馬台国もいいが、家族とともに楽しむべしw

758:日本@名無史さん
11/07/23 20:51:04.02
ひそひそひそ メ よ いやーね 死んだらどうかしら

759:メ
11/07/23 20:58:18.92
こらこら
久しぶりに来たのに~
歓迎してくれないのか・・・


760:日本@名無史さん
11/07/23 21:00:35.16
メは雑兵、足軽だな

761:永久保存
11/07/23 21:12:15.39
516 : アラタメ : 2009/08/15(土) 16:20:49
>>513
>千餘里はあくまで上陸地。そこから先の広がりは別です。

>後漢書倭伝では「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」
>女王国(九州)の東の海を渡った中国・四国・瀬戸内海諸島はみな拘奴国(畿内)の傘下に入った。
>これが纏向遺跡が出現する後漢末期の実態だったと思われます。
   中国・四国・瀬戸内海諸島とか妄想ですか?w
千餘里はあくまで上陸地。そこから先の広がりは別です。 ww

>これに危機感を覚えた卑彌呼は公孫氏に、次いで魏に朝貢し、東方諸国はみな自分の傘下にあると主張した。
>魏も先に朝貢した卑彌呼の言い分を認めたが、瀬戸内海は狗奴国が実効支配しており、調査もできない。
>そこで魏志倭人伝は「其餘旁國遠絶、不可得詳」「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」と曖昧に書かざるを得なかった。
>こんなふうに推測しますが?

単なる妄想デス。

<晋書 帝紀>
正始元年春正月 東倭重譯納貢

少し考古学に関係しますが、重譯文化というのは何処だかご存知でしょうか?


762:永久保存2
11/07/23 21:13:37.65
517 : アラタメ : 2009/08/15(土) 16:24:14
<訂正>

重譯→銅鐸
518 : アラタメ : 2009/08/15(土) 16:27:00
やべえ やっちまったなwww

とりあえず、落ち(逃げ) またねwwwwwww


763:永久保存3
11/07/23 21:15:43.77
524 : 愛知県民 ◆/aQLbFNNDU : 2009/08/15(土) 17:00:21
改め氏は重譯→銅鐸と勘違いし、「東倭」は銅鐸文化だから畿内と言いたかった?
しかしウィキ「銅鐸」によると
「かつては遺跡が発掘される事自体が少なく、青銅器の出土量も少なかったため、銅矛は主に北九州周辺、銅鐸は近畿から東海地方にかけての地域で出土するという偏りがあった。
・・・しかし、発掘される遺跡の増加に伴い当然のことながら青銅器の出土例も増え、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、「銅矛文化圏」内で銅鐸が出土するといったこと
(特に有名な例が吉野ヶ里での出土)が多くなり、この仮説は成り立たなくなり次第に論じられる事は少なくなった。
ただし、現在でもこれらの出土分布の傾向自体は変わっていない。」
それに「東倭」と「倭」は違うでしょう。


525 : 太国 ◆yVAs7uaYlY : 2009/08/15(土) 17:00:35
ウワッハッハ!!www 無コテか~。

アラタメはチチクリアイの盲象大王!ppp

764:永久保存4
11/07/23 21:17:31.11
556 : 傷に塩をぬる : 2009/08/15(土) 22:44:49
>東倭重譯納貢
①東倭は倭ではないこと。
②重譯は銅鐸とまったく違うものであること、河童の解釈にかかわらず一般に「訳を重ねる」
 の意。
③晋代には銅鐸祭祀は廃れていること。

まあしかし、よく顔を出せるわwwwww

765:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/23 22:14:21.24
3世紀前半の前原王墓で奴国に大王が不在となる。
しかし魏国は後漢時代と同じく奴国を訪れる。ここで、卑弥呼共立。
卑弥呼共立に動いた勢力は、筑前、筑紫。この程度である。畿内大和は、筑紫に
協力する。(出雲、吉備等は崇神時代から大和の勢力範囲)
景行が九州で戦った跡として、鉄族が分布する。
九州勢は、石鏃や骨鏃が主体であり鉄族はほとんど無かったであろう。
鉄族が多く出土するのは、大分南西の山間部、筑後、肥後この様な分布を見る。
この中で南の狗奴国を比定すれば、熊本が狗奴国となる。
筑後川方面に鉄族が分布すると言うことは、この方面に女王卑弥呼を設定出来ない。
そして、この時代の武器は弓矢が主体となる。メスリ山の槍は、次の時代の武器である。


766:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/23 22:55:49.66
>>763
今の盲象大王は彼ではなく、宿主=唐松山 がそれです。ww

767:ひとぶた
11/07/23 23:13:22.83
>>766

何で唐松さんは「宿主」なんですか?

768:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 10:17:09.70
恐ろしい妄想増幅エイリアンの「毒書たるホツマ」の幼虫に15年ばかり
前に脳内が侵されて、毎回デタラメを書きこむ毎日であるが、その寄生虫
の宿主があわれなコヤツなのだ。

769:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 10:19:17.89
>>753 より 高橋浩二(1995)はこの時期の加賀,能登越中を対象とし,庄内系土器や東海
系土器などが北陸各地域へ一様に波及する庄内式新段階と,

北陸越前は大彦の領土である。伊勢(東海系)はその息子武淳川が入植している。
その物資が加賀、能都方面へ進出する。
この時代を設定すれば、日本武尊による関東遠征(256年か)の結果と捉える事が出来る。
つまりここが倭国統一のなった時代であり、大倭が伊都国に置いた1大率を畏れ憚る時代となる。
倭人伝にこの記事が有るということは、この時代まで魏の役人が伊都国にいてこの情報を
得ている。266年壹與の朝貢時も役人は伊都国を訪れ魏から晋へ時代の変遷を伝えて居る
であろう。そして274年の渡海を促す。要請(命令)による渡海であるから、仲哀の死
は無視される。軍事力も必要としない。そこで何を要請されたかを考えた時、それは、半島に
おいて伊都国に置いた1大率の行為を晋の軍隊から引き継ぐ。こうであれば、新羅も1大率
(倭国)の傘下となる。
神功49年半島占拠。この時、1度引き上げた軍隊を渡海派遣しているが、大きな戦いは
描かれていない。と言うことは、半島諸国に大きな軍事力は存在せず、倭軍(一大率)が存在
した証拠である。同様の軍隊が他に存在したとすれば、高句麗と扶余(百済軍)であり、
高句麗は自国、扶余(百済)は派遣であろう。
320年 平州刺史崔毖は高句麗へ出奔する。これで中国東北部、半島は政治的空白地帯となる。
323年 倭軍の渡海、取り残された百済軍を誘う。半島占拠と百済への領土分与。
百済立国と326年七支刀。
仁徳天皇十二年(甲申三二四)十二年秋七月辛未朔癸酉。高麗國貢鐵盾。鐵的。
この後331年(辛卯年)頃より帯方郡方面に領土を広げる百済、それを支援する倭国。
342年高句麗は前燕に大敗する。これを契機にこの地方の情勢は安定する。


770:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 10:44:07.94
妄想とは無いものを有ったかの如く考え想う事である。
例えば太国が主張する 180日の1年が存在する、9日程度の1ヶ月が存在する。
この様な思考を妄想と呼ぶ。
だから、この数字を暦として提示出来ない。
崇神世=卑弥呼時代も妄想である。
だから、崇神五,六年の災害を主張しない、また任那建国(書記の主張である)も
無い。
この妄想の発端は、七支刀=369年=新羅本紀。という設定から始まる、しかし、
この数字で半島占拠が容認されることは無い。
では何故主張の食い違いが発生したか?これを考えず無視したためにこの齟齬が生き続けた。
考古学は、この設定を比定し、時代を50年遡上させる。
ここで考古学と文献史学に50年の齟齬が生まれたわけであるが、文献史学はこの事実を
何故か?を考えていない。
考える事を捨てた想いを妄想という。
あわれ太国。


771:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 11:02:47.84
>>770
それは妄想ではないね。
古代マヤ研究の学者、専門家が解明して全員言ってる現実だから、
それがしの言う1年が180日の古代マヤの太陰暦の現地の各石碑の古代人
の書きこみは本物である。こういう古代マヤの学者らの認定する本物が
現実にあるんだから、こういうのを否定せねばならない宿主の大あわて
が目に見えるようだね。ウワッハッハ!www

古代マヤの太陰暦は中南米の現地のステラ等に多大に刻まれており、
1年が180日の暦法なのである。古代マヤの太陰暦は2倍暦法だったのだ。
それは学術文字 C で表現され、Cは各月を意味する。そこで

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

の1月~6月の古代マヤ書記の刻みこみにより、1年180日の暦を編んで
いたのであるのだ。それで 7C 8C ・・・ 12C というのは
2倍年暦だから当然書きこみに存在しない。宿主は大ウソ野郎だ。><

Cはマヤ神聖文字で右片手の上に人間か魔神らしき頭部の横顔があり、
これにjaという付属文字がついて月の文字としている。これはウソでは
ないのだ。

772:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 11:05:35.93
考古学は今
最後の平原王墓を3世紀初めとしている。
ここから238年の魏使訪問までが、倭人伝の「歴年無主」である。
この年代は、纒向遺跡の年代と整合している。
だから纒向遺跡(2世紀末各地の土器から箸墓まで)は、崇神、垂仁、景行の都である。
崇神を2世紀末に配さなければ整合性が得られない。またこの時代の大和に「歴年無主」は
設定出来ない。(「相攻伐」が「歴年無主」に発展し、卑弥呼共立にならなければならない。)
この思考を妄想とは呼べない。
あわれ太国。


773:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/24 12:58:39.93
1年が180日の暦法Cはかように古代マヤの太陰暦に存在しており、現に
古代マヤの学者、専門家の全員が肯定してることを否定するオマエは、
相当追い詰められているということだな。ww
つまりオマエの宿主空年の論の足元に火がついたということなのだ。

>大和に「歴年無主」は設定できない
倭人伝は九州の話であり、大和が畿内ならば別に設定する必要もない。

なお考古は毎回年代の上下の揺れがジェット・コースターの如くであり、
こんなのに編年を全部まかせるのは失敗が待つばかりの軽率な考え。

774:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/24 13:09:17.07
>それがしの言う1年が180日の古代マヤの太陰暦の現地の各石碑の古代人
の書きこみは本物である。

それが本物かどうかは感知しない。
事実は、その様な暦法が日本で使われていた、という太国の主張だ。
使われていた暦として、その数字と共に暦法まで主張出来て初めて真偽を検討できる。
真偽も検討できない暦法があったとする思考を妄想と呼ぶ。
しかも1倍暦、2倍暦、3倍暦が平行して行使される。←完全な妄想である。
”月”とは、月の満ち欠けを数えた30日程度である。←9日程度の1ヶ月も成立しない。
この様な思考を妄想と呼ぶ。
5,6月が存在しない暦も存在しない。5,6と云う数字は正月を1月とし、5,6番目の意味である。
だからこの思考も妄想である。
妄想年で思考された編年も妄想の産物である。
だから、崇神5,6年の災害も説明出来ない(ここは、凶作と翌年の逃散と考える)。



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