謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57at HISTORY
謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!57 - 暇つぶし2ch450:日本@名無史さん
11/07/01 11:10:26.96
>>442
言葉綾取り、シリトリみたいだねW
神戸の小学校では、六甲山は、武者の晒し首塚だったからとか言われたな。
風と雲と虹との大河ドラマでは、藤原純友が、ここ、瀬戸内に流罪された武者(奥州藤原氏の武士)が瀬戸内で漁業を、してたのに、
海賊の汚名を着せられて、朝廷の命で来た武士団が手抜きで、その漁師たちを海賊征伐の証として、無実の咎で毎日のように首を狩って、狩った首の数で朝廷に良い顔をしていたとか聞いたな。
それに、剛を煮やした純友が、同族たる、流罪藤原の海賊を束ねて朝廷に反旗を翻したとか・・

聞いてると、それが、六甲山の武者の反らし首だったと思った。

451:日本@名無史さん
11/07/01 15:58:44.73

Q.在日朝鮮人1世の出身地を教えて下さい。
A.99.4%が南部(現在の韓国)出身です。更に17%が済州島出身です。

Q.どうして99.4%が南部(韓国)出身なの?
A.日本に近い南部の人が日本に稼ぎに来ました。

Q.どうして17%が済州島出身なの?
A.戦後、李承晩大統領による済州島民の虐殺から逃げて、日本に密入国
したからです。(関連:済州島四・三事件-Wikipedia)

Q.在日は強制連行されたの?
A.200万人もいた在日人口のうち、大戦末期に他の日本人と同様に工場などに徴用された
 のは終戦直前のたった6ヶ月間の20万人。これが彼らのいう強制連行ですが、その殆どは終戦後に帰国。
 残ったのはたった245人です。(朝日新聞 1959年7月13日)六ヶ月日本にいただけだから当然帰りました。
つまり今日本にいて偉そうにしてるのは・・・

Q.在日は帰りたくても帰れなかったの?
A.戦前の在日人口200万人のうち140万人が終戦直後に帰国しました。つまり帰れました。

Q.どうして60万人は日本に残ったの?
A.朝鮮で白丁(ペクチョン)と呼ばれた奴隷階層が多く、帰ると差別されるからです。
また戦後のドサクサで得た財産を放棄するのが惜しかったからです。

Q.えっ?じゃあどうして在日が被害者ヅラしているの?
A.日本人に罪悪感を抱かせるしか自身の存在を正当化できないからです

452:日本@名無史さん
11/07/01 18:19:09.07

>更に17%が済州島出身です。
元寇・倭寇のNHK特集でやってたけど、済州島は、元寇時代の再戦に備えて居残ったモンゴル人らしいね。

どうやら、倭寇の際、半島内陸部まで、攻め入った倭寇海賊が、突然、揚陸後
何処からか手配した馬に乗ると統率の取れた武者と化したのは、そもそもが瀬戸内水軍だったからで
半島内陸まで誘導したのが、済州島の蒙古残党で馬を準備してのも、彼らと、そのNHKの特集で話してたね。







453:日本@名無史さん
11/07/01 18:58:59.56
日本書紀によると、
>《神功皇后摂政六六年(丙戌二六六)》六十六年。〈 是年。晋武帝泰初二年晋起居注云。武帝泰初二年十月。倭女王遣重訳貢献。 〉

これって奈良時代の人は神功皇后を卑弥呼ではなく壱与に認定してたってことよな。
こんな簡単なことを今までずっと検証することなく思い込みでずっと声闘を繰り返したなんて、史学って本当に怖いくらいの馬鹿の吹き溜まりなんだな。

454:日本@名無史さん
11/07/01 19:00:36.85
>>453
とっくに気づいてるけど、みんな

455:日本@名無史さん
11/07/01 19:25:38.48
九州に邪馬台国があったなんて言い出したのは
後世の一部のアホ共だし。

456:日本@名無史さん
11/07/01 20:54:04.99
畿内に邪馬台国があったなんて言い出したのは
後世の一部のアホ共だし。

457:日本@名無史さん
11/07/01 21:11:37.35
13歳の台与とは明らかに年齢が合わない神功皇后、それを充ててきたってことは、
奈良時代の人にとっては台与=神功皇后によっぽどの確信があったんだろうな。

458:日本@名無史さん
11/07/01 21:32:09.11
>>457
そうじゃないだろ
この書き方から見て、書紀の編者は
「神功皇后は、本当は壹与と違うんですよ、あたりまえですよね」
と言いたいんだよ。オレには行間が読めるぞ。伊作みたいに

459:大御所
11/07/01 22:14:13.70
>オレには行間が読めるぞ。伊作みたいに

?♨⌘〠?

460:カールおじさん
11/07/01 22:19:10.71
は~あ おらがじゃ どか雪が三日も続き
カラスも行くとこなかんべな~ なんて便りもやってくる
いいもんだな~ふるさとは 真っ赤なほっぺの囲炉裏ばた
いいもんだな~ふるさとは それにつけてもおやつはカール

461:日本@名無史さん
11/07/01 22:29:51.28
卑弥呼には子がいないんだから少なくとも
神功皇后じゃない。モモソ姫の方は可能性高いが。

462:大御所
11/07/01 23:07:38.91
>>460
ウ~ム。読まれたか。おぬしタダモノではないな。

463:日本@名無史さん
11/07/01 23:40:35.42
卑弥呼・・・×(中華思想による蔑視的表記)
日巫女・・・○(日御子、日神子、日皇女)
日霊女・・・◎

玉依姫命・・・神霊の寄り付く霊媒巫女さま。

天照大日霊女貴命・・・太陽神を祭祀する偉大なる巫女さま。(一伝、天照大神の別称)
憧賢木厳之御魂天疎向津毘売命(天照大神荒魂)・・・むかつ媛。叉の御別称は瀬織津媛大神

日向王国、むかつ媛女王とフツシ大王=須佐之王尊の御子が宗像三女神(お一方とも)と五男神。
須佐之男尊=倭国王帥升。
市寸嶋比売命/市杵嶋姫命=一伝、天照大神。


464:メ
11/07/02 20:19:36.09
なんだ、あまり進んでないな・・・

卑弥呼=玉依姫命説 けっこう人気あるんだよな
結局、その根拠はどこからきてるのでしょうね

465:メ
11/07/02 20:26:29.19
>>463は、なぜそうなるのか根拠を言え


466:日本@名無史さん
11/07/02 21:09:59.75
メ、って改めドツボさんですか?

467:日本@名無史さん
11/07/02 22:31:54.16
卑弥呼=モモソ媛命
台与=豊鋤入姫命

これでOK。

でも、日本書紀の年代ではあわない。
なぜなら、おそらく、古代の倭国では、暦の数え方が違っていたから。

しかし、日本書紀の編纂者は、古代の人たちは寿命が長かったんだと納得して
日本書紀の年代で比較的に近かった神功皇后を
卑弥呼と台与の二人分だという風に納得している。

468:日本@名無史さん
11/07/02 22:41:30.68
三正を理解してれば年代の矛盾とされてるものが矛盾でなくなる

469:日本@名無史さん
11/07/02 23:00:12.85
帥升は、倭の面土国の王でしょう?
面土国(メタ国)ってのは、筑紫の米多国(メタ国)のことでしょう?
つまり、現在の佐賀県吉野ヶ里遺跡あたりのへん。

よって、記紀には、登場しない人物だと思うよ、面土国の帥升は。
記紀で言うところの、神武~欠史八代前半ぐらいの人物で
この時代、ヤマトの全国支配体制が緩んでいた時期だと思う。

470:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/02 23:28:15.38
古代朝廷のシノギは種貸しである。
つまり国の大きさは、種籾(米)の徴集が可能な範囲である。
崇神時代になり、税を調や役にまで広げる。
これでも全国統一は不可能、全国統一は、景行による”屯倉”の導入以後。


471:レス長たらし毘古
11/07/03 11:02:46.08
>>453
私の個人的な仮説とは少し違うので、古事記ベースの私としては100%賛成は
できませんが、壱与を日本書紀がどう扱っているかは、これはカナリ争点だと
感じています。(あくまでも対外的パンフレットとしてですが)
書紀が壱与を神功皇后と見なしていると言う事は、少なくとも神功皇后が
壱与と近い地縁・血縁かもしれないと言う見方が、書紀編纂の時代には高かっ
たのかもしれません。
(結論から申しますと、私個人は壱与の子孫が神功皇后である可能性は小さく
ないと見ています)

>史学って本当に怖いくらいの馬鹿の吹き溜まりなんだな。
ある面では学者バカと言う言葉は当てはまるかもしれませんね。空の星を
調べていて地面のため池に落ちるような学閥もあるのかもしれませんね。

472:レス長たらし毘古
11/07/03 11:23:42.46
>>467
私個人も概ねその仮説想定です。(但し台与候補はまだ他に複数感じますが)
台与解釈をどこに設定するか自体が、書紀の一つの対外的意義だったのかも
しれませんね。
「卑弥呼前後の時代」における「日本書紀が設定した年代記述」に関しては
信憑性が低い可能性が高いと私個人は想定しています。

但し、神話時代の人間は。。。
長命(長命術・蘇生術)だったんではにゃかろーかとまだまだ盲信してる私。

台与(壱与でもこの場合可とした上で)本人かどうかはともかく、神功皇后が
大陸権威から「台与と似たような外交状況で応じられた」と言う点が私個人は
重要だと感じます。
だからこそ、神功の「朝鮮への出軍行動」も外交的動機としては充分発生し
得るのですから。つまり、台与本人か、少なくとも台与の権威を継承する者
でない限り「かつての女王国の外縁同盟国=倭人文化域とそれ以外との境界」
の支援の為に出兵する口実は発生し得ないのであります。

473:レス長たらし毘古
11/07/03 11:56:10.93
つまり、血脈上が、最低でも対外表面上だけでも、「台与を継承」していない
と、神功の朝鮮出軍の動機と名目が発生せず、大和が邪馬台国の、これも同様
に血脈上か、最低でも対外表面上だけでも「台与を継承した神功を継承」して
いないと、「征夷大将軍」の基礎概念である「征夷」を「役職化」する動機と
名目がゼロサムでは発生し得ないのであります。
(但し、この場合広義ですので、当然「詐称」も含みます)
こう考えると、少なくとも「外交メンツ」だけの面で言えば、邪馬台国から
平安時代の大和王朝まで、スムーズにつながるのであります。(逆にこの
スムーズに拘りすぎて頑張り過ぎてしまったのが日本書紀かもしれませんが)

故に上記から、邪馬台国は大和王朝が近似内包か、少なくとも地理的には
遠くない近い距離(少なくとも女王国逸話の乗っ取りや女王国の外交内容を
詐称ができる程度には)と考えます。
従って当方は、その地は現代地図における日本の国内であると想定します。

474:レス長たらし毘古
11/07/03 11:59:05.79
さて、最後は余談ですが。
実は、この「征夷」と言う概念が古代~近世にかけて、日中史においては、
意外と重要で、これは今風に言うと、「安全保障外交用語」でもあるのです。
「征夷」を名乗る事によって、その権力は、「大陸へ攻め込まない」事を
暗にほのめかす事にもなります。
(例:関白秀吉は朝鮮出兵を行い、征夷大将軍家康は鎖国と制限外交を行う)
国内事情としては、征夷大将軍とは「東国を真に治める者」と言う意味に過ぎ
ませんが、対外的には「中華(思想)から見て蛮族管理を任される者」と
なります。

従って、日本書紀以前は中国大陸との「半島領土争い」が断続的に絶えず、
日本書紀以降は(しばらくしてから)征夷大将軍の実質的権力が急上昇して
行きます。これらの史実も、全てスムーズにつながって来るのです。

475:日本@名無史さん
11/07/03 12:24:24.03
>>433
おにぎり国綱は、源綱の末裔に取っては、御先祖の愛刀だが‥安倍氏に取っては、敵の刀か‥
松浦氏末流は、複雑‥

476:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/03 14:30:09.21
>「征夷」を名乗る事によって、その権力は、「大陸へ攻め込まない」事を
暗にほのめかす事にもなります。

274年 神功渡海
323年 半島占拠。
4世紀末 高句麗の南下
413年 允恭と高句麗は、共同して東晋に朝貢。この時点で百済、新羅は高句麗の
属国であることを認める倭。書紀から百済、新羅の記事が消える。
高句麗から、金銀、馬具がもたらされる。
5世紀半ばに百済は、高句麗より離反する。領土を狭めながら高句麗に対抗する百済。
百済が馬韓を倭から分与されるが、約束の領土以上を確保。
それを容認する倭。倭の態度を良しとしない金官伽耶は、541年新羅に身を寄せる。


477:卑彌呼の都は久留米
11/07/03 17:36:15.96
>>469
>面土国(メタ国)ってのは、筑紫の米多国(メタ国)のことでしょう?
>つまり、現在の佐賀県吉野ヶ里遺跡あたりのへん。
>よって、記紀には、登場しない人物だと思うよ、面土国の帥升は。
>記紀で言うところの、神武~欠史八代前半ぐらいの人物で

ほぼ同意だが。
神武東侵は帥升王の時代の中期から末期。
帥升との戦いに倭奴國の王統である鵜葺草葺不合は106年頃に敗れた。
その息子達の神武兄弟は、その亡命地日向から新天地を求めて、2世紀中葉倭國乱の頃に東進。
神武軍団は、糸島、日向、豊前の混成集団と思われる。
しかし、神武軍団で、最後に宇陀に到着したのは、糸島の集団だけである。
日向と豊前の集団は、阿岐国吉備阿波までの同行であると思われる。

478:日本@名無史さん
11/07/03 18:45:34.65
神武話は結局、各地豪族の伝承組み合わせですよ。

479:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/03 19:21:13.15
神武にも太陰暦の日付がふられている。
実在したのであれば、西暦42年即位であり、第Ⅴ様式土器の始まりである。
「伝承組み合わせですよ」とするには、その伝承を集めねばならない。


480:卑彌呼の都は久留米
11/07/03 20:03:51.67
>>478
>神武話は結局、各地豪族の伝承組み合わせですよ。

そう思います。

五つほど(少なくとも二つ)の移民伝承の組み合わせでしょう。

奈良の宇陀に到着したのが、倭奴國糸島出身の神武グループ。

2世紀ごろ九州東岸から瀬戸内海を東に進んだ移民のお話。

1~3世紀の瀬戸内海の侵略的移民団のひとつ。

481:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/03 22:36:30.33
>台与を継承」していないと、神功の朝鮮出軍の動機と名目が発生せず、

渡海直前に仲哀が死ぬ、にもかかわらず渡海は、実行される。
渡海目的は、戦争では無い、なぜならば総司令官である仲哀の死が無視されるかたでの渡海である。
274年 渡海であれば、晋の要請での渡海である。目的は、魏末に伊都国に置かれたⅠ大率の行為を
半島で行う。この行為の履行が神功49年の半島占拠に大した戦いも無く
半島占拠が出来る。323年当時の中国東北、半島は政治的空白地帯である。


482:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/03 22:44:48.72
* (正始)四年/冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
* 七年春二月、幽州刺史毋丘儉討高句驪、夏五月、討wai[扁水旁歳]貊、皆破之、韓那奚等
266年 泰始2年 十一月己卯,倭人來獻方物。
274年 二月,分幽州五郡置平州。
277年 咸寧3年 是歲,西北雜虜及鮮卑、匈奴、五溪蠻夷、東夷三國前後十餘輩,各帥種人部落內附。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
280年 太康元年 6月 東夷十國歸化。7月 東夷二十國朝獻。
281年 太康2年 夏六月,東夷五國內附。冬十月,鮮卑慕容廆(歸か)寇昌黎。
282年 太康3年 九月,東夷二十九國歸化,獻其方物。
286年 太康7年 夏五月,郡國十三旱。鮮卑慕容廆寇遼東。八月,東夷十一國內附。是歲,扶南等二十一國、馬韓等十一國遣使來獻。
287年 太康8年 八月,東夷二國內附。
288年 太康9年 九月,東夷七國詣校尉內附。郡國二十四螟。
289年 太康10年 五月,鮮卑慕容廆來降,東夷十一國內附。
是歲,東夷絕遠三十餘國、西南夷二十餘國來獻。
290年 太熙元年 二月辛丑,東夷七國朝貢。
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。

舶載三角縁神獣鏡は、晋時代の鏡である。
つまり神功渡海によりもたらされる。


483:日本@名無史さん
11/07/03 22:52:28.81
神武の東征にまつわる伝承は崇神一族のものである
この一族は北九州から日本海経由で敦賀に上陸した
その後3派に別れ、丹波、湖東、伊勢より南紀を経由、という3つのルートで大和に入った
先に入った者と後から到着した者の間で争いがあった、それが長髄彦や兄磯城・弟磯城が登場する件だ
崇神は後から到着したグループ、宗主としてトヨを頂いていた

484:日本@名無史さん
11/07/03 22:58:48.38
>>483
そんなわけない。
神武と崇神は別。
なんで、わざわざ紛らわしいことしなきゃいかんのだw

485:日本@名無史さん
11/07/03 23:05:31.70
なんか何度も同じ話題でループしてるだろww
神武や崇神が同じだのなんだのと一体何回同じ話題ループすりゃ
気が済むんだよwwいい加減懲りろよ。
答えなんてでないよ。

486:日本@名無史さん
11/07/03 23:13:29.02
神武って「神」と「武」だよな、つまり宗教と武力だ
古代において、いや中世に到るまで、両者は拮抗しながら並立する存在だよ
その両方を諱とする王、これは人物一人を指すものではないよ
神格トヨとそれを擁して俗権を握る崇神をあわせた象徴的名称だ
崇神という名は、神を奉る者という言い当てて妙なる名だな

487:日本@名無史さん
11/07/04 00:35:59.59
>>477
代数で見たら、ワカミケヌ(神武)は、
西暦1世紀台の人物だと思うよ。
帥升も奴国も、基本、ワカミケヌとは無関係だと思う。

488:日本@名無史さん
11/07/04 00:39:10.26
>>486
漢風諱号は、記紀の原文にも書かれていない。
記紀成立数十年後に後付けで書かれたもの。

ちなみに、崇神ってのは、
イニエ命(崇神)が、大国主と天照などの祟りを恐れたから
つけられた漢風諱号。
だいたい、神武と崇神って、全く記述内容が異なるのに
同一人物のわけがないw

489:日本@名無史さん
11/07/04 04:04:09.84
>488
そう言う、命名の根拠が書かれた文書でもあるの?
だいたい天皇を侮ったような命名せんだろ

490:日本@名無史さん
11/07/04 05:18:43.43
>>489
漢風諱号は、記紀が成立して数十年後に贈られた諱。


491:日本@名無史さん
11/07/04 08:51:34.44
まあ基本的にモモソ媛が卑弥呼で
トヨ=豊鋤入姫命でOKだと思う。

神功皇后は各種の逸話を脚色されたものだろう。



492:日本@名無史さん
11/07/04 09:57:18.26
漢風諱号ではなくて漢風諡号じゃないのかい
諱(いみな)と諡(おくりな)はちがうよ

>>489
ウィキでは、『逸周書・諡法解』などに拠ったってあるね。
諡法解は諡に使う文字の意味を解説したもの。
君主の死後に、その治世を評価して良い意味や悪い意味の文字を諡にした。
それで秦の始皇帝は、臣下が君主の業績を評価するのはけしからんということで、
諡をやめさせて、始皇帝・二世皇帝・三世皇帝・・・・ということにした。
実際は二世皇帝までしか続かなくて、漢以降、諡が復活するけど。

だから中国の風習を踏襲したのなら、天皇を侮ったような諡もありえるよ。

493:日本@名無史さん
11/07/04 11:56:44.59
皇帝や天皇が絶対崇拝対象でなかった事には笑えるね

494:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/04 18:46:56.77
>基本的にモモソ媛が卑弥呼で

この設定では、崇神の任那建国が無い。
伽耶建国は、210年頃である。
つまり考古学が言う2世紀末からの纒向遺跡は、崇神からである。


495:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/04 21:00:21.37
中国尺の場合
• 前漢尺: 23.2cm 1.39m/歩
• 後漢尺: 23.3cm 1.40m/歩
• 魏尺: 24.0cm 1.44m/歩
• 晋尺: 24.3cm 1.46m/歩
• 唐尺: 29.8cm 1.49m/歩
朝鮮半島の尺度の場合
• 古韓尺: 26.7cm 1.60m/歩
纏向建物等の使用尺解析 纏向大型建物群は卑弥呼の宮殿か
卑弥呼時代の遺跡中枢部か
纏向発掘調査現説資料(建物配置図)
纏向で使われた可能性のあるモノサシ
各尺度の建物群への適合状態比較
纏向建物の尺度は古韓尺
纏向型古墳の尺度も古韓尺
ホケノ山古墳等の石槨・木棺も古韓尺

纏向建物(3世紀前半)、纏向建物(3世紀中葉)
この大型建物は、垂仁の珠城宮と景行の日代宮であり、任那からの朝貢と
同期して造られる。


496:日本@名無史さん
11/07/04 21:01:00.97
治】菅首相の資金管理団体、北の拉致容疑者親族所属政治団体から派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に6250万円献金★3
スレリンク(newsplus板)

現実のほうがものすごいことが起きている件について、キミはどう思う?


特捜1「献金されています!五千万です!」
特捜2「献金元はどこだ・・・!?」

特捜1「・・・これは・・・ウソだろ?総理です!総理が五千万献金しています!」

110:名無しさん@12周年 07/02(土) 08:36 GAZzjy8T0 [sage]
オバマがビンラディンの親族が属する政治団体に大口寄付してたようなものw

909:名無しさん@12周年 07/02(土) 09:55 oEGy+UI/0 [sage]
テロのスポンサーが総理大臣って…。

>25 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/07/02(土) 08:22:15.91 ID:8a/xyVGw0 [1/9]
>一瞬拉致被害者団体に献金ならまぁいいんじゃないかと思ったんだが
>よく読んだら容疑者団体ってwwwwww
>有り得ない文字に目がおかしくなったのか俺wwwww

俺もwwwwww



やっぱりな、
拉致被害者ってゆすりが目的だと
思ってたけどやっぱりそうだったのか
なんか胡散臭いとずっと思ってたけど
これで証明されたな、

497:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/04 21:06:57.29
URLリンク(members3.jcom.home.ne.jp)

後漢尺(23.3cm)の適合度
長さ 適
m 柱間総長歩m 合
建物A 東西4.8 20 ― 4.7 0.1 ○
建築B 南北5.2 22 ― 5.1 0.1 ○
東西4.8 20 ― 4.7 0.1 ○
建築C 東西 3間8.0 11 33 ― 7.7 0.3 ×
南北 2間5.3 11 22 ― 5.1 0.2 △
建築D 桁行 4間19.2 10 80 ― 19.6 0.4 ×
梁行 2間6.2 13 26 ― 6.1 0.1 ×
建物Bと建物Cの間隔5.2 22 ― 5.1 0.1 ×
建物Cと建物Dの間隔6.4 27 ― 6.3 0.1 ×
建物Bの両側の柵間8.0 33 ― 7.7 0.3 ×
建築C部の柵間26.8 110 ― 25.6 1.2 ×


498:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/04 21:08:55.28
ホケノ山古墳等の石槨・木棺
ホケノ山古墳の石囲い木槨内法
 長さ6.7m 古韓尺25尺=6.7m
巾 2.7m 古韓尺 10尺=2.7m
ホケノ山古墳の木棺
長さ5.3m 古韓尺 20尺=5.3m
巾 1.3m 古韓尺 5尺=1.3m
桜井茶臼山古墳の竪穴式石室
長さ6.75m 古韓尺 25尺=6.7m
巾 1.27m 古韓尺5尺=1.3m
桜井茶臼山古墳の木棺 
長さ4.88m 古韓尺  18尺(3歩) =4.8m

499:日本@名無史さん
11/07/04 21:27:23.33
建築に使う曲尺は秦~清までほとんど変化しなかった。

500:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/04 21:57:36.36
法隆寺も古韓尺。


501:日本@名無史さん
11/07/04 22:59:06.82
神聖キュビト

502:日本@名無史さん
11/07/05 00:51:37.43
>>496
コピペにレスするのもなんなんだけど、

>拉致被害者ってゆすりが目的だと
>思ってたけどやっぱりそうだったのか

献金相手は、拉致被害者 【じゃなくて】、拉致 『容 疑 者』 の親族が所属する政治団体だから。
拉致された方じゃなくて『拉致した方』の関係者に総理が献金してたってのが本当なら、
おかしなはなしだ。

503:日本@名無史さん
11/07/05 08:37:20.07
基本的に民社党を後世する人達は北朝鮮(左翼)よりなのです。

504:日本@名無史さん
11/07/05 10:01:26.56
【政治】菅首相の資金管理団体、北の拉致容疑者親族所属政治団体から派生した政治団体「政権交代をめざす市民の会」に6250万円献金★3
スレリンク(newsplus板)

現実のほうがものすごいことが起きている件について、キミはどう思う?


特捜1「献金されています!五千万です!」
特捜2「献金元はどこだ・・・!?」

特捜1「・・・これは・・・ウソだろ?総理です!総理が五千万献金しています!」

110:名無しさん@12周年 07/02(土) 08:36 GAZzjy8T0 [sage]
オバマがビンラディンの親族が属する政治団体に大口寄付してたようなものw

909:名無しさん@12周年 07/02(土) 09:55 oEGy+UI/0 [sage]
テロのスポンサーが総理大臣って…。

>25 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2011/07/02(土) 08:22:15.91 ID:8a/xyVGw0 [1/9]
>一瞬拉致被害者団体に献金ならまぁいいんじゃないかと思ったんだが
>よく読んだら容疑者団体ってwwwwww
>有り得ない文字に目がおかしくなったのか俺wwwww

俺もwwwwww

やっぱりな、
拉致被害者ってゆすりが目的だと
思ってたけどやっぱりそうだったのか
なんか胡散臭いとずっと思ってたけど
これで証明されたな、
時の政権からお金むしりとるのが目的の乞食



505:メ
11/07/05 10:07:06.63
日本列島内での殉葬の例だが・・・
結構、後代にもその話はきいたりするよね


506:メ
11/07/05 10:11:49.97
>>466
>メ、って改めドツボさんですか?

いえ、人違いでしょうwww

>>467
>卑弥呼=モモソ媛命
>台与=豊鋤入姫命

大本命だよね

>>469
>帥升は、倭の面土国の王でしょう?
>面土国(メタ国)ってのは、筑紫の米多国(メタ国)のことでしょう?
>つまり、現在の佐賀県吉野ヶ里遺跡あたりのへん。

「倭」面土国ですが、
これはヤマトを漢字表記したものでは?と思います。

507:メ
11/07/05 10:13:59.19
鷲崎氏はまた何かやらかすようですよ。
安本と仲が良いみたいで・・・・
URLリンク(yamataikoku.bbs.coocan.jp)


508:日本@名無史さん
11/07/05 10:18:09.18
へえ 河童虫さんって死亡したんだね。

知らなかった・・・・餓死だったらしい。
みんな知ってた?

509:日本@名無史さん
11/07/05 10:49:42.03
主催者の全国歴史研究会てなに?

510:メ
11/07/05 12:08:35.81
>>509
知らん

お友達を呼んで講演会を開催し
全国の歴史好きな人らからお金を集める団体じゃない?

511:日本@名無史さん
11/07/05 12:30:01.22
>>509 五反田歴史研究会ともいいます。
五反田に本社をかまえる新人物往来社系統の出版社です。
インターネット歴史館で検索してみてください。

512:日本@名無史さん
11/07/05 13:42:18.10
オレ、五反田近くに住んでるから、いってみよか

513:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/05 14:08:10.76
任那建国があろうとなかろうと、関係ない。120年前後の年代差の半島とコチラの
年代を同級に観る〇抜けになったら、もうおしまい。pp

514:日本@名無史さん
11/07/05 17:33:52.07
16日の邪馬台国研究大会の懇親会にはサガミハラハラ氏も出席するようです。
しかし彼、発表会の方は落選したのね。

515:日本@名無史さん
11/07/05 21:46:32.35
>>508

ミエミエの連投なのにそのネタだけ何で名無しになるのw

516:日本@名無史さん
11/07/06 06:04:07.87
>>507
>「倭」面土国ですが、
>これはヤマトを漢字表記したものでは?と思います。

その当時の漢字の音韻を研究したら良いと思う。
どうみても、ヤマトとは発音できないw
面土国は、メタ国って発音なんだ
倭面土ならば、ワメタとなり、どうみてもヤマトではないw

517:日本@名無史さん
11/07/06 06:54:22.43
仮にヤマトと読めたところで、
ヤマトは日本全国たくさんあるわけで。

すぐ大和に結びつける奴は、天皇病にかかっているとしか思えん
救い難い。

518:日本@名無史さん
11/07/06 08:23:21.43
西暦100年頃、倭はイまたはヰと発音していましたよ。ワと発音するようになったのは、隋や唐の時代からです。

519:水銀厨
11/07/06 09:10:44.26
まぁどちらにせよ3世紀の邪馬台国は九州ではありません。
四国東部から河内周辺の国でしょう。

520:日本@名無史さん
11/07/06 10:04:25.43
ヰメトからヤマトへの転化はあり得そうだな

521:日本@名無史さん
11/07/06 11:49:33.13
四国は侏儒國
邪馬台国のかけらも無い。

522:日本@名無史さん
11/07/06 12:45:10.44
四国だとよっぽど困るのかな?

523:日本@名無史さん
11/07/06 12:57:40.79
>>516
元々は古代倭人の発音が基本になっているわけで、表記する人が異なれば、違う漢字になることも
ありえるというか、むしろ違う漢字になるほうが普通といえる。

昔、アメリカのことをメリケンと言っていたが、これくらいの違いは出てきてもおかしくない。

倭人伝の記述から考えられるように帥升と卑弥呼が同じ倭王の系列だとしたら、倭面土=邪馬台の
ほうが自然と言えるかもしれない。

524:日本@名無史さん
11/07/06 15:28:01.55
四国なんて言うのは馬鹿だけでしょう。

525:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/06 19:38:10.36
>任那建国があろうとなかろうと、関係ない。

任那建国が無ければ、神功渡海もない、半島占拠も260年代には考えられない。
つまり日本書紀の主張は事実無根である。となる
であるならば、書紀の数字から編年を得ても全く役に立たない。

書紀の主張を正しいとして、その年代を得る。
崇神5年=後漢193年、新羅192年。
崇神6年=新羅193年 であれば、任那建国は210年=新羅209年、3国遺事541年で建国330年

崇神は、考古学の主張する2世紀末の纒向遺跡に実在した。
卑弥呼=モモソ姫では、任那建国が無い←書紀の主張では無い。
書紀の主張から年代は得られるが、
七支刀=369年←ここに半島占拠は無い←書紀の主張を無視したら、編年自体が成立しない。
だから百済本記と整合性は取れるが書紀の主張は退けられる。
書紀の主張で編年すれば、新羅本紀や後漢書、倭人伝と整合性が得られる。
東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,
倭国は東夷9種に含まれる。
278年 咸寧4年 3月 東夷六國來獻。是歲,東夷九國內附。
だから、278年の東夷9国にも含まれる。
卑弥呼=モモソ姫では、この記事は無視されるが、三角縁神獣鏡はこの時代に
舶載される。
前方後円墳の全国展開もこれ以降だ。

526:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/06 19:44:07.32
任那建国が無いとは言ってはいないんだぜ。それはあるだろう。

オマエの言う建国年代が正解だという保証はどこにもない。
いくらこうだと叫んでも、その解説が抽象的で上っ面の修飾文句の~説明
した素振りでの誤魔化しでは、オマエの言う年代の証明にはならない。

なお毒書ホツマはそんじょそこらのタダのオアニイサンが恣意的勝手な
妄想を追加して造った文であり、参考になる個所と有用個所があるのは
確かで救いはあるが諸刃の剣であり、薬のもなるが毒にもなる危険史想の
書である。

527:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/06 19:47:45.42
崇神5,6年≠192,3年

これは確かで堅い。等号にならんのは、明日のメシにも困る農民千人が
渡海のスタミナなんぞどこにもない。今回の3/11の大震災の被災者の
遠くに行けない苦言で明白に等号は成立しない。若狭湾に至る前にもう
野垂れ死にだ。ww

528:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/06 20:22:52.73
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
魏置東夷校尉,居襄平,而分遼東、昌黎、玄菟、帶方、樂浪五郡為平州,後還合為幽州。
 遼東太守公孫文懿反。
文王生於東夷,東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,

270年代 東夷校尉文俶は公孫氏の末裔であり、公孫氏に帰服していた東夷は
彼を慕っている。だから、文俶が役職を離れ、恵帝に使えるも
291年 永平元年 東夷校尉文淑庚戌,免東安王繇及東平王楙,繇徙帶方。
東夷十七國、南夷二十四部並詣校尉內附。
その文淑を詣でる東夷。舶載三角縁神獣鏡は、この291年迄かも知れない。
いずれにせよ、魏に帰服する倭、箸墓=260年±10年であれば、
箸墓は魏に帰服した倭国の最初の大王墓である。
“鉄を持たない”崇神では役不足である。

早期古墳と葬儀用器台 石野博信
URLリンク(www.kyotofu-maibun.or.jp)
都月型器台は、吉備発祥
宮山型器台は、大和発祥
そして墳墓上に宮山型器台、下部を都月型が取り巻く。
つまり吉備は大和に帰順する。書紀の主張からゆけば、景行になる。
この時代に倭国統一と魏に帰順する大倭。


529:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/06 20:30:49.13
>等号は成立しない。

太国は自分の編年を持っている。
しかし、対案を示せない。何故か?
書紀の主張を否定しなければ成立しない年代であるからだ。
そんな太国倍年では否定できていない。
>渡海のスタミナなんぞどこにもない。
渡海は、6月盛夏である。だからそこそこの食料は得られる。ただその冬を越すことを
考えた時、渡海を選んだ。


530:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/06 22:26:59.08
飢饉でそこそこの食料も得られまい。当時でさえ金がなけりゃぁ、それを
調達できまい。どこにそんな金があるのか?女でも売り飛ばしたのか?ww
それともまだ物々交換か~? そのブツはどうやって若狭湾まで持って
行けるのか? 超大量で重たくて到底無理だろう。pp
半島までの渡海での食料といったら、千人分なら大変な量だぞ。おまけ
に当時は船舶もない。

そこそこ得られるというなら、畿内でいられるだろうが。つまりオマエの
言うことはインチキだ。

531:メ
11/07/06 22:35:06.84
>>516
現在の感覚でものを考えるんではなく
「倭面土国」はヤマトを指して、そういう漢字表記になったのではなかろうか?ということだよ。


532:メ
11/07/06 22:42:20.99
>>518
>西暦100年頃、倭はイまたはヰと発音していましたよ。

おお、よくご存知で!!

>ワと発音するようになったのは、隋や唐の時代からです。

しかし、これは間違いだね。
しんぎわおう、即ち、魏代にはすでに「倭(わ)」と読まれてた・・・

533:メ
11/07/06 22:52:52.58
夏はどこにでかけようかな
古代史めぐりでいいとこあったら教えて
ではさらば・・・zzz


534:日本@名無史さん
11/07/06 23:01:16.67
>>533
福島に逝け

535:日本@名無史さん
11/07/06 23:02:32.81
彼岸に逝け

536:日本@名無史さん
11/07/07 09:21:04.17
いや、ですから、親魏倭王もただしくはシンギイオウでは。

537:親魏ラ王
11/07/07 09:50:51.11

我 が 人 生 に 一 片 の 悔 い 無 し っっっっ!



538:日本@名無史さん
11/07/07 16:13:13.10
>>536
メにレスしてもムダだよ

539:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 17:43:15.16
>当時でさえ金がなけりゃぁ、それを調達できまい。

大飢饉の最中に金で食料が買えるのか?
金木算木さえあれば、いかような数字でも説明出来るとする太国の思考と一緒で
不可能である。
後漢 193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時。[一]袁山松書曰:「時帝流遷失政。」養奮對策曰:「當溫而寒,刑罰慘也。」
この「刑罰慘也。」とは、食人を意味する、些細なことに難癖を付け刑罰と称して殺人、その人肉を喰らう。
太国の難癖とどっこいダロ。
否定したければ、対案を出したらいいだろ。
太国倍年 崇神5,6年=239年。ここに災害は無い。だから崇神世に任那建国も宛がうことが出来ない。
任那が無ければ、垂仁世の鉄剣類の貯蔵も出来ない。
景行時代の九州遠征も、遠足程度の説明しかできない。この状態で
神功の三韓征伐などあり得ないだろ?

540:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/07 18:51:18.96
そこそこに喰えるんじゃ飢饉じゃぁないではないか。飢饉ていうのは宿主
よ~~そこそこに喰えないからそう言うんだよ。

そうか~。崇神5年の飢饉を否定するわけだな。pppppp

いかようにも出鱈目を創作するのがオマエだからな。ww 都合が悪く
なると飢饉というそこそこ喰えない紀の文でさえ否定するとぼけ野郎が
オマエの常套手段だということだ。いかにインチキを強行するか~
コチラは強く牽制するのだ。><

なおホツマとはそんじょそこいらのタダのオッサンが恣意的妄想を入れて
書いた危険な史想の書であり、各々方、用心をしたほうがよい。

541:日本@名無史さん
11/07/07 19:57:15.65
いつ頃から倭語は共通化されたんだよ
九州と近畿じゃ江戸時代でもけっこう違うだろ。

542:メ
11/07/07 20:09:56.34
ホントここはバカばかりのスレに堕ちたな 
なげかわしいことだ 
だいたい古代史なんて愚にもつかない分野に
手を出すのにろくなやつはいない
こんなところおさらばして正解だったのではなかろうか
戦国時代はいい 夏休みはハワイに行く
さらばビンボー人ども 



543:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 20:48:39.32
ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる
崇神5年 凶作、その年の冬から餓死者が出始め、翌春にかけてピークが来る
この翌春こそ逃散のピークでもある。晩春から夏は野山で食料を得られるが、
秋を過ぎると冬を越す食料が得られない。逃散した民は田畑の用意がない。
だから、夏の間にその冬を越す算段を考える。その一つの答えとして、渡海
がある。弥生後期後半 唐古・鍵遺跡などが放棄される。何故放棄されたか?
その答えの一つとして、後漢193年の冷夏、それに続く食人。半島に於いては
食人は凶作の度に起こるが、当時の畿内などではほとんど無い。だから人々の
ショックも大きく、居住区の放棄となって現れる。
凶作の去った同7年以降も民は旧居住区に帰ることを拒否し、東方の山麓に
住み着く。
崇神世には、任那建国がある。任那建国と出来るのは、新羅209年しか存在しない。
ここが崇神であることは、考古学の主張する纒向遺跡の年代と整合する事からも妥当である。
であるならば、
239年は田道間守とイクメが登場すると出来る。
景行による、九州や関東は、倭国統一である。
274年神功渡海は、326年七支刀で整合性が得られている。


544:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 21:09:09.88
九州に女王卑弥呼が存在したことは確かである。
しかし倭人伝の最終章は、大倭(大和)が伊都国に1大率を置く。までだ。
九州王朝の存在を主張しても、西新町遺跡が庄内式や布留式と半島の土器が
共存する事実を無視してかろうじて存在しているだけだ。


545:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/07 21:31:05.88
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~と、コチラを口撃していた男
が~

 ~偽書といわれる書物を持ち出した~~。><

なお半島文献は紀と120年前後等の年代差があるため、任那建国がその
位の説明では到底あてにはならない。こいつの勝手に決めたものでしか
ない。つまり宿主の信用度は0にもならない0以下の→∞であり、なんら
説得力はオマエの脳内を除いて他に無い。ww

546:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/07 21:33:13.75
>>545 訂正
× →∞
○ →-∞

ww

547:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 21:39:44.12
>半島文献は紀と120年前後等の年代差があるため

120年前後等とは、何を主張したいんだ?
倍年が存在し、その誤差は、半島文献と120年差の処も有る。とでも主張しているつもりか?
半島文献との誤差が何処でどれだけあるか主張も出来ない太国倍年。
当たり前だな、太国倍年に日々の数字がふれない以上この程度の主張しかできない。

>信用度は0にもならない0以下の→∞であり、
その私の主張を覆す対案も出せない太国倍年。あわれ。


548:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 21:49:34.11
東夷九種皆服事焉。魏置東夷校尉,と黄旛下賜。
この二つの意味するところは、倭種を1国として帰服させる。
その戦いの最中に九州卑弥呼と男王は死亡する。残されたのは、箸墓の主しかいない。
いくら九州王朝が存続したと主張しても、その存在を肯定する遺物が無い。
当たり前だろ
大倭は伊都国に1大率を置く。と倭人伝は書き残している。


549:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/07 21:53:10.73
いくら景行が日本を統一したと主張しても、その存在を肯定する遺物が
無い。景行が九州へ行っただけでは統一にはならない。ww

550:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 22:17:04.32
>景行が九州へ行っただけでは統一にはならない。

239年 景初3年 都市牛利=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁
景行(240年~261年)
大倭は伊都国に1大率を置く。

大倭とは統一倭国を表す。
景行は、九州から関東、東北までを平定する(書紀の主張)
書記の主張を無視して、七支刀=369年としても歴史の説明が出来ない。
書記の主張を無視して、崇神=卑弥呼の時代と主張しても、書紀の主張である任那建国が無い。
任那建国を無視して歴史を説明出来ない。
西新町遺跡は、当時の香椎宮の近方であろう。
景行時代は、庄内式の後半にあたる。景行の死亡を以て布留式が始まる。
これは、考古学の主張する纒向遺跡と同期する。

残念ではあるが、崇神=卑弥呼時代とする文献の読み方は存在しない。
だから金木算木や景初3年銘で崇神を主張しても、三角縁神獣鏡は神功渡海以後の舶載である(274年以降)


551:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 22:44:44.10
URLリンク(www.okunomasao.com)
三角縁神獣鏡の研究より
黄河流域で三角縁神獣鏡と共通点が多い画像鏡や神獣鏡が作られ始めたのは卑弥呼の
時代を下がる西晋の泰始年間になってからだということは、三角縁神獣鏡が卑弥呼が
魏朝からもらった鏡でないことを時間的に示しており、

つまり 三角縁神獣鏡や景初3年銘と崇神には全く繋がりがない。
274年神功渡海。大和は、伊都国の1大率の行為を半島で行う、その要請での渡海である。
だから神功渡海に武力は必要としないし仲哀の死も障害とならない。
景初3年銘はその根源となる 東倭重譚納具を表す。


552:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 22:48:24.76
北部九州における土器の畿内化の現象は、博多湾沿岸ばかりでなく有明湾沿岸
地域にもおよび、この時期の北部九州にみられるきわめて特徴的な現象である。
3 世紀後半以降、福岡県西新町遺跡に
極度に分布が集中するようになることなどが理解された。


553:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/07 22:54:15.35
URLリンク(www.kiu.ac.jp)
韓半島南部の栄山川流域の主な前方後円墳と
古代日本との交流を示す出土物

URLリンク(www.jkcf.or.jp)
369年七支刀では、半島占拠は否定される。

URLリンク(homepage2.nifty.com)
ホケノ山古墳の楽浪鏡 画文帯神獣鏡と方格規矩鏡
また日本列島で出土した画文帯同向式神獣鏡の中に楽浪郡出土の画文帯神獣鏡と文様が完全に一致
する、いわゆる兄弟鏡が存在することです。徳島県鳴門市萩原1 号墳丘墓は3世紀中期の前方後円
形積石塚で、この墳墓から一面の画文帯同向式神獣鏡が出土しており、この鏡の文様と寸分違わな
い鏡が楽浪郡から発見されて います。これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、楽
浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しまし た。こ
の事実により楽浪出土鏡を原鏡とした踏み返しの鋳型より萩原墳丘墓鏡が作製されたことが明白と
なり、更に3世紀代に造営された積石塚が楽浪郡と密接 に関わっていることをも強く示唆するもの
として注目に値するといえます。
一方北部九州地方では、弥生時代に大量の方角規矩鏡や内行花文鏡などの漢式鏡が出土したにも関
わらず、画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんど認められません。
この組み合わせ が北部九州では一般的であったのに対し、やや遅れて造営されたホケノ山古墳では、
内行花文鏡と画文帯神獣鏡の組み合わせに変化しています。すなわち瀬戸内 以東では後漢鏡に加え
楽浪鏡が墳墓に埋納され始めたのです。この背景には畿内を中心として興隆した新興勢力が、伊都
国を経由しない独自の経路で、朝鮮半島 や中国大陸と直接交流し始めたことを示しているのではな
いでしょうか。

私は、ホケノ山を239年垂仁と仮定しています。つまりこの画文帯神獣鏡は“卑弥呼の鏡”
以前に“任那”を通じて輸入された鏡とする。


554:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/07 23:14:14.80
臣下 伊支馬 ≠ 垂仁天皇

神国日本で臣下は絶対天皇にはなれない。つまりこれを等号とする論は
インチキの出鱈目なのである。ppp

太古の大中臣からの出鱈目編年の退治の下命文~これが大祓祝詞である。
その文の焦点が天津金木(天津神算木)の計測による インチキ編年を祓い
に祓え との大中臣の作法なのだ。真の編年を教示するのがここにある。

天津神算木とは崇神紀(景行紀ではない)にある三輪山の説話の三輪
(半径r=3の円)の球化の体積=表面積の数式をいう。すなわち

 4πr**3/3=113.0973355292・・・ (**は冪)

大祓祝詞に曰く 大中臣 天津金木を本打ち切り末打ち断ちて

 3≠113.097335=113.◎97③350

右辺末桁50 をイスズ暦数あるいは単にイスズ暦という。両○数字は数的
にミワと読む。○数字に挟まれて B.C.97年 崇神即位年 がある。
崇神即位年の実年代は両○数字外側の数列 113 350 の差により求まる。

 350-113=237年=崇神即位元年(実年代)=景初元年

大中臣からの真の年代は、それがし 太国 が拝受した。インチキ188年説を
祓いに祓って、日本古神道からの真の年代が開顕されたのだ。

555:日本@名無史さん
11/07/08 10:59:14.88
>>481
ご指摘共感します。神功派と仲哀派との「外交方針の相違」は、これはどの
国内書物でも「隠されている物ではない」と言う点がポイントと感じます。
これは、記紀がこの両派の外交方針相違を隠す必要が無いと言う点と、その
相違(に近い物)が当時の王権の二大勢力として共存していた点を、傍証して
いると感じます。

つまり、古事記編纂時においては、「当時は両論あったが、半島侵攻積極派と
半島侵攻消極派がかつて共存していた」となり、そして、「その両派共々の
子孫が今の皇統を継いでいる(少なくとも記紀上は)」となります。だから、
隠す必要も無く、当時は相違があっても記紀の時代には全く問題が無くなる
という記紀時代の外交理窟にもなります。
日本独自の「善にも悪にも祟る天皇」と言う概念をナントカ関係諸外国に理解
して頂く為に、結果的に記紀はこの記述方式に成ったのかもしれませんね。

もし、この積極派・消極派、のいずれかを記紀の時代に「否定」しなければ
ならない立場の者が政権を執っていたと仮定した場合、この「どちらも隠され
ていない」と言う点がありえなくなります。よってこの仮定(つまり、神功
大王王権は婚姻ではなく乗っ取りであるとする仮定)は間違いであると傍証
される事になります。
むしろ、対外的に隠したかった場所は他にあり、それこそが卑弥呼(と呼ばれ
た女)と考えた方が解釈としては自然に思えます。勿論推測200%の話ですが。

556:あ、レス長でした
11/07/08 11:24:01.14
従って、(ここからは可能性ですが)記紀の時代の皇室お抱えの口伝者とその
編纂者は、「卑弥呼(彼等はこれを神功前後と規定し)以前」の所謂「本来
倭国の宗主国であった女王国(大和にとっても宗主国は女王国となる)」の
歴史をあえて、「神話の時代」に繰り上げ、人代の歴史を、「大和の創建時代
から」とする必要性が発生します。(従ってここでニニギ~(豊玉)~神武
の神話が強調される必要性が高まります。古事記はこの手法を採用)
この必要性が、記紀のレトリック構造を生み出したと邪推した場合、この邪推
筋が、絶妙にシックリしてしまうのです。勿論、邪推でしかシックリ来ません
が、それこそが味噌なのではなかろうかと感じるのです。

この方法論は、現代日本人のメンタリティーと近い物を感じます。つまり先代
王朝(この場合は大和の宗主国としての女王国)を「非」としたいが、完全に
「非」とした場合、「祟られる」可能性が濃厚に発生してしまいます。従って
「人代の歴史」においては、「隠す、黙して語らず」と言う手法によって、
暗に「非」を表し、その不遜が引き起こすかもしれない「祟り」や、一方に
おいて女王国の外交を「是」とする国内憤懣を和らげるために、それらを
「神話」にしてしまう事によって、お鎮めすると言う構図なのです。

この仮定の上で演繹される歴史可能性は、「女王国」は数代といくつかのプロ
セスによって次第に大和王権に吸収され・取り込まれ・外交の部分部分だけを
都合継承したと、この可能性歴史が埋もれてると言う結論も可能にはします。

557:レス長たらし毘古
11/07/08 11:31:13.69
またやってしまった。>>555>>556は、それがしでした。ミス陳謝。

さて、それがしの空論、「卑弥呼はモモソであるが、当時は実は大和は女王国
の属国であったかもー説」ですが、本日はここまで。

ちなみに、それがしの想定では、神功さんは卑弥呼さんとは別人です。むしろ
卑弥呼さんがおらなんだら、神功さんが発生し得ないと言う想定立場です。
従って、イヨ(イトでも我は可)の末裔か亜流が神功さんかも、とこうなりますが、残念ながら記紀にはこの証拠が全くありません。シクシクw
上記と全く違うお立場の方々、手加減してツッコミを入れてくんなまし。

558:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/08 16:16:02.68
>>557
>卑弥呼はモモソであるが、

魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
つまり、モモソ姫と卑弥呼が重なることは無い。
また、考古学が主張する2世紀末からの纒向遺跡の説明も説明出来ない設定である。

崇神5年=新羅192年または、後漢193年であれば、任那建国は
新羅209年または、3国遺事541年時点で建国330年。
この数字であれば、纒向遺跡の説明が出来る。
纒向遺跡は、崇神・垂仁・景行の3代の都の土地である。
箸墓築造を以てその時代は終わりを告げる。

箸墓(250年±10年)に崇神を配しては、纒向遺跡の説明も出来ない。
>卑弥呼はモモソであるが、←この主張のために纒向遺跡の説明を先に出来るか?


559:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/08 18:08:08.24
>>554
>臣下 伊支馬 ≠ 垂仁天皇

太国倍年ではそういうことだろう。だから纒向遺跡の説明も出来ない。
考古学の主張する纒向遺跡の年代も否定するが、それを文献で主張する事も
出来ていない。
かわいそうに。


560:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/08 18:15:52.81
*ホケノ山古墳の「石囲い木槨」

先にも触れましたが大和最古の古墳として注目されたホケノ山古墳からは非常に精巧な
画文帯神獣鏡が出土しました。出土した画文帯神獣鏡は同向式のもので、興味あること
に同型式の鏡は日本列島以外では楽浪郡にのみ出土例のある特殊な鏡種であると言われ
ています。…
すなわちホケノ山古墳の造営された3世紀中期以降にその原型が成立したものと推測
しています。ヤマト政権の大陸航路の獲得については、政権の成立過程において非常
に重要であるので後ほど述べたいと思います。…
 ホケノ山古墳の画文帯同向式神獣鏡と内行花文鏡、この両鏡の組み合わせは非常に
意味が深く、画文帯同向式神獣鏡が楽浪鏡であることは、この古墳の被葬者像を推理
する上で非常に重要であると思います。内行花文鏡は「視点改四」で詳細に述べる様
に祭祀的な目的で用いられた鏡と思われます。すなわち築造当時、他の墳墓とはその
形状も規模も隔絶した位置にあったこの古墳の被葬者が、祭祀権をも兼ね備えた権力
を保持していたのではないかと推察されるからです。

3世紀中期のホケノ山古墳築造時点で、大和は楽浪郡と関係が深い。
つまり、任那建国以後ととらえれば、任那建国が209年で整合性が得られる。

考古学の数字を否定したら、次の時代の三角縁神獣鏡の副葬年代も説明が出来ない。


561:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/08 18:27:46.36
 大和では三輪山の周辺に次々と巨大な前方後円墳が造営されます、黒塚古墳からはご
存じのように、30数面の三角縁神獣鏡が出土していますが、棺内の被葬者の頭部付近に
置かれていたのは画文帯神獣鏡のみでした。一方北部九州地方に出現した畿内的古墳の
代表の一つである一貴山銚子山古墳では方角規矩鏡と内行花文鏡が出土しています。
この古墳からは他に6面の三角縁神獣鏡が出土していますが、先の2面の鏡は被葬者の
頭部付近に置かれていました。方格規矩鏡は北部九州勢力の伝統的な鏡種と推察してい
ますが、この古墳の被葬者が、ホケノ山古墳と同様、祭祀権と地域の支配権を有す在地
の宗教的権威者であったと考えられることも可能で、その卓越した墳丘規模からも伺い
知ることができます。特に銚子山古墳は旧伊都国の領域に出現した典型的な畿内型古墳
の代表例で、この古墳に埋葬された被葬者がヤマト政権と強いつながりを有していたこ
とは容易に想像できます。

一貴山銚子山古墳で三角縁神獣鏡を受け入れた時点で 九州王朝が大和に吸収されている
証拠である。


562:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/08 19:00:13.84
巻向は垂仁、景行関係の宮だ。はい、説明終わり。

563:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/08 19:11:28.27
崇神5,6年≠192,3年

そこそこに喰えれば飢饉であったとは記紀は書かない。喰えないから飢饉
と書かれてあるんだ。

ならば千人もの多勢が食料の確保も出来ずに半島まで渡海は出来ない。
地図で見れば近く見えようが、現実は航空機もない時代に半島まで行くと
いうことは大変なことだ。江戸時代に江戸から伊勢まで伊勢参りするの
も、一生に一度の大旅行だ。半島まで軽く行けるような口をたたくな。

メシも喰えないことは、つまり等号には到底ならない。

564:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/09 21:06:51.24
ホケノ山古墳からは非常に精巧な画文帯神獣鏡が出土しました。出土した画文帯神獣鏡は
同向式のもので、興味あることに同型式の鏡は日本列島以外では楽浪郡にのみ出土例のあ
る特殊な鏡種であると言われています。
 画文帯同行式神獣鏡など、特に瀬戸内以東の日本列島と楽浪郡でのみ確認される特異な
一連の鏡群は「楽浪鏡」と定義されています。
それまでの鏡文化の中心であった伊都国の領域では、3世紀初期に位置づけられる平原墳
丘墓を最後に鏡の埋納は終焉してしまいます。平原墳丘墓では、内行花文鏡と方格規矩鏡
が出土していますが、この組み合わせが北部九州では一般的であったのに対し、やや遅れ
て造営されたホケノ山古墳では、内行花文鏡と画文帯神獣鏡の組み合わせに変化しています。
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。

九州の優位性は、3世紀初期までであり、3世紀中期のホケノ山古墳には、
楽浪鏡が副葬される。
崇神天皇十年 畿内無事。唯海外荒俗。騷動未止。
崇神天皇十二年 寒暑矢序。疫病多起。百姓蒙災。
寒暑矢序(失序)とは、後漢書にいう183年から193年までの天候不順をいう。
年輪降水量。
URLリンク(osaka.yomiuri.co.jp)
日本の木材でもその時期が特定出来る。
疫病多起。 疫病とは現在の認識とは少し違うが「えやみ・凶病」であり、凶作を表す。
だから「百姓蒙災。」と書かれ、食料備蓄のある朝廷に及ばない。
183年 靈帝光和六年冬,大寒,北海、東萊、琅邪井中冰厚尺餘。
193年 獻帝初平四年六月,寒風如冬時 獻帝興平元年夏,大蝗。是時天下大亂。
高句麗本紀 256年 九年十二月 無雪 大疫。この“大疫”は凶作である。
崇神天皇六五年 任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。
崇神末、垂仁始めから伽耶(任那)から文物が大和に流入する。
諸国は、鉄や楽浪鏡を求めて大和に集まる。
垂仁(217年~239年)が直接公孫氏に帰順することは無かったであろうが
伽耶(任那)を通して楽浪鏡を手にする。
しかし、この時代に北部九州は楽浪鏡を手にしていない。
ここに、倭国乱と疲弊する北部九州王朝が有る。

565:日本@名無史さん
11/07/09 21:24:49.08
始めて来た人へ、ようこそ!
戦後政界史上最大の事件です!
超簡略まとめです。

■菅総理個人の資金管理団体「が」、
「市民の会」に6250万円もの大金を献金していた。そして他の民主党議員も。

ここで、
「市民の党」=「市民の会」=「MPD」
(まとめて「市民の党」と呼びましょう)

市民の党は、北朝鮮と密接。思想はあのテロリスト集団、「日本赤軍」と同派の武闘派極左グループ。
千代田区平河町のあるビルを拠点に、どうやら資金洗浄や北朝鮮送金の窓口になっている。

菅の6250万円→市民の党→北朝鮮→日本に向けた核兵器
(菅の6250万も、もともと民主党から流れた政党助成金などの税金含む大金)

つまり、
「実は総理大臣が、テロリストと組むスパイだった」
という超大惨事。
オバマが実はアルカイダと組んでいたようなもの。
ほぼ確定ではあるが、これが証明できれば、外患誘致罪(刑法81条)で、
菅を合法的に死刑にできる。拉致やテポドンとの関連もある。

そして、何より驚きなのが、
「テレビがこれを報道しない」
ということ!



566:日本@名無史さん
11/07/09 21:29:18.84
当時、魏においては銅鏡じゃなくて鉄鏡が
最高級品だった事を知ってちょっとショック。
2級品を寄越しやがって。

567:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/09 21:52:54.76
ホケノ山古墳に副葬された同向式画文帯神獣鏡は日本列島以外では楽浪郡にのみ出土
例のある特殊な鏡種である。
後漢末,公孫度自號平州牧。及其子康、康子文懿並擅據遼東,東夷九種皆服事焉。
公孫氏が呉と通交を結びその時代に呉鏡を下敷きとして、楽浪鏡が造られ、
伽耶(任那)を通してこの鏡が直接大和にもたらされた物ならば、ホケノ山古墳が
239年に築造されても整合性は得られている。
であるならば、ここを垂仁末と考え 都市牛利=田道間守、本墳に垂仁、石囲い木廓
に景行が許可した田道間守が葬られる。とできる。
ホケノ山古墳は、3世紀半ばで何の問題もない。

魏はこの楽浪鏡を卑弥呼に送る。
晋は、呉鏡を入手し、楽浪で三角縁神獣鏡を造る。この時の東夷校尉は、公孫氏の
末裔である文王生於東夷,
東夷校尉文俶父欽為繇外祖諸葛誕所殺,文俶は惠帝(290~306)に仕える。
308年永嘉の乱。これ以降は完全に仿製鏡の時代となる。


568:メ
11/07/10 14:09:55.59
>>542はおれじゃないし・・・

しかしあまりまわってないよね。
梁山泊(りょうざんぱく)じゃないけどアウトローに生きる
のもいいが迷惑な行為はよしてほしいよね


569:メ
11/07/10 14:17:14.18
卑弥呼さんですが、
URLリンク(image-search.yahoo.co.jp)

女王卑弥呼の宮殿と指摘される大型建物からモモが出土されて会って話があったよね。
ちなみにヤマトトヒモモソ姫の「モモ」はどうしてそのような名前がつけられたんだっけ?
弟のきびつ彦の伝説、ももたろうから?
姫とモモとの関係をだれくわしくかたってくれっ!

570:メ
11/07/10 14:54:47.37
ま、誰も来ねえんで、俺も落ちるか・・・・
あばよ・・・ALL


571:日本@名無史さん
11/07/10 15:25:50.15
もう来るな

572:日本@名無史さん
11/07/10 17:21:40.71
モモといえば仙果だからな。

573:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/10 22:01:56.12
公孫度→康→文懿→欽→東夷校尉文俶。
文俶は、274年頃から291年恵帝に使えるまで、東夷校尉の座に有ったと思われる。

斜縁二神二獣鏡は三角縁神獣鏡に最も類縁性の近い鏡として知られており、この鏡種にも
「吾作」銘のあるものが多く存在しているのは偶然ではないと考えています。斜縁二神
二獣鏡は神人龍虎画像鏡を母体により成立した鏡種であると言われていますが、神人龍
虎画像鏡は長江下流域の浙江省北部の海岸地域で集中して発見される呉系の鏡とのこと、
すなわち楽浪鏡の成立には呉系の鏡工人が深く関わっていたことが明確に示された訳です。

文俶は倭人の好物が鏡であることを知っている。
その倭人を半島に呼び寄せると共に、呉から新作の鏡を入手し、楽浪で仿製鏡を造らせる
わけであるが、呉の新作の鏡は、洛陽で274年頃から出回る。時を同じくして274年
神功渡海がある。文俶は切れ者であるから、まず銅を倭国から上納させる。下賜する鏡を
造るためだ、と言えば倭国もそれに従う。銅鉱山発見、開発のためには、山師を送り込む。
そして鉛は、倭国の1大率が居る半島から調達する。
これで原材料の銅が不足する中国本土の銅を消費しない。
舶載三角縁神獣鏡と倭仿製鏡の原材料が同じになる。
永嘉の乱により舶載鏡は途絶えるが、鏡の製造を倭地に移すのは簡単である。
ついでに呉系の鏡工人も渡来させれば、文字もクリヤー出来る。


574:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/10 22:23:15.36
天津神算木の測りによりて、

 崇神即位元年=237年=景初元年

を得た。
崇神の代は3倍年暦であるから、紀の崇神元年~同3年はともに237年で
あるのだ。紀の四季は後付けのものである。これは官僚語の形式に則
るから年月日のところにほぼ悉く四季語が入っているのだ。ホツマなんぞ
は朝廷のでなく私的古文書だから、同様の個所に四季のない状況が結構
あるはずだ。これは官僚のしきたりの為うるさく季語をつけてる訳だ。

紀の崇神元年~同3年=237年
紀の崇神4年~同6年=238年

であり、同6年に倭笠縫に日神とその象徴たる鏡を祭祀したことにより
畿内に239年鏡が多出するのである。6年のは1~2次鏡関係、239年のは
3次鏡なわけだ。

575:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/10 22:24:48.65
>>574 続き
したがtt

576:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/10 22:42:56.84
>>575 書きこみミスです。失礼しました。

>>574 続き
~従って崇神即位年188年説は誤りである。

畿内、「鏡作坐天照御魂神社」の社伝 『大倭神社注進状 裏書』

 社傅ニ至リ、中座ハ天照大神之御魂也、傅ヘ開ク
 崇神天皇ノ6年9月3日 於是地改鋳日御象之鏡 為天照大神之御魂、
 今之内侍所ノ神鏡ナリ、即チ当社ハ其像鏡奉斎、爾来号此地ヲ日鏡
 作ト」

崇神6年は3倍暦では崇神2年である。だから上の文の年月日は
9月3日 崇神2年 となるのだ。これは天津神算木式記載で、年代が
月日の後に来ている。数字だけ逆読み←、配列すれば239が出る。
年代に象れば239年の数字なのである。当時にすでに畿内で西暦を知悉
していたということだ。よって188年説は出鱈目なのである。3次鏡は
239年、1~2次鏡は 238年=紀の崇神6年=崇神2年 である。

577:レス長たらし毘古
11/07/11 00:25:03.41
>>558
鋭いご指摘をありがとう。箇所ごとに当方の解釈想定にて見解返答。

>魏が半島を管理する時代に任那建国は無い。
>つまり、モモソ姫と卑弥呼が重なることは無い。

任那建国は当方の想定では崇神大王以降の「近畿の」大和王権による物である
ので、少なくとも当方の想定においては矛盾は無い。むしろ、モモソ代(是を
崇神世代の一代手前と想定)において、半島の所有権を空白地帯と見なせ、
従って「その後にあえて任那建国(所有)を(近畿)大和(つまりこれは崇神
派の子孫による大和)が主張した」となるので、大枠の矛盾は小さいと当方は
考える。(モモソ朝→クーデター→崇神朝、と当方は想定している故)

>箸墓(250年±10年)に崇神を配しては、纒向遺跡の説明も出来ない。

当方は箸墓をモモソの遺跡とは想定しない。しかしながら、(九州)モモソが
近畿に派遣した勢力(植民地派遣将軍等の)との関係はあるかもしれない。
あくまでも、モモソが「記紀の言うようなモモソ」になったのはAD250~300
より「少し後になる」点を当方は重視する。つまり、記紀のようにモモソを
畿内に持ってきたのは、むしろオオタタネコの美和神主就任(これをAD350年
程と想定)~古事記編纂の時期、の間と想定。
従って当方は近畿説ではないモモソ説である、となる解釈方法になるのです。

578:レス長たらし毘古
11/07/11 00:54:36.82
>>569
>ヤマトトヒモモソ姫の「モモ」はどうしてそのような名前がつけられたん
だっけ?
>>572
>モモといえば仙果だからな。

詳しくは無いので、当方の感想は先述を参照されたし。残念ながら、古事記
においては、「百」を「モモ」と読ませる記述が、モモソ姫の記述を除いて
他にはほとんど見出せない。ここが悩ましい所。また、古事記は擬似漢文調
なので、この「百」すら、本当に当時「モモ」と読んでいたかどうか、或は
それがまして「桃」と関係があるかどうかは、これまた類推の上の類推しか
描けません。(都合よく日本書紀を出して申し訳無いが、百襲をモモソと
読めるとし得るのは、日本書紀が担保しているとも考えれる)
あくまでもモモソがもし鬼道(ここでは仙道と類似と想定)を使っていたと
したら、桃が中国古典において桃源郷の仙果の如く描かれるように、当時の
中国大陸人にとっては、「怪異なる異国の女王」と見えた可能性は生じて
きます。もし、百(=桃)の生産を独占し、その仙果の功能を十二分に扱う
東国の女王がいたとしたら、これは大陸中華の人々にとったら「おっかねー」
と成りかねない。
(ちなみに、西遊記から邪推すると倭人地域は孫悟空が最初に基盤を持った猿
の(島)国と地理的には近いのではなかろうかとも思っとります、是は余談)

事実か否かはともかくとして、当時の中華人達が東方倭人地域に抱く、一種の
怪異の念は、中国古典の端々にも見え隠れしているのかもしれませんね。

579:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/11 10:11:22.29
卑弥呼と百襲媛とはほぼ同時代の人物だ。すなわち年代が重なるところがある。

580:日本@名無史さん
11/07/11 18:49:02.49
卑弥呼183年即位247年死去。孝元天皇の24年頃。
ヤマトトトヒモモソ媛の登場する日本書紀の崇神十年は西暦273年秋年前年です。
ただしこの年に亡くなったのではなく彼女の事績をここにまとめていれたということです。
死亡年は垂仁天皇時か?
こうみると卑弥呼の後の壱与の時代の人物ということになります。

581:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/11 19:37:51.86
>>576から、崇神6年が239年近隣だということですよ。景初年間が崇神
即位のころだということになります。

神功39年の年代差を考慮し、卑弥呼と百襲媛はほど同時代の女性なんです。

582:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/11 19:45:39.58
URLリンク(homepage2.nifty.com)
邪馬台国と楽浪郡
ホケノ山古墳からは非常に精巧な画文帯神獣鏡が出土しました。出土した画文帯神獣鏡は同
向式のもので、興味あることに同型式の鏡は日本列島以外では楽浪郡にのみ出土例のある特
殊な鏡種であると言われています。
徳島県鳴門市萩原1号墳丘墓は3世紀中期の前方後円形積石塚で、この墳墓から一面の画 文
帯同向式神獣鏡が出土しており、この鏡の文様と寸分違わない鏡が楽浪郡から発見されてい
ます。これら2面の鏡では文様の細部まで詳細に分析した結果、楽浪出土鏡は萩原墳丘墓鏡
の割れ傷と全く同じ位置で同じ形状に割れていることが判明しました。
 一方北部九州地方では、弥生時代に大量の方角規矩鏡や内行花文鏡などの漢式鏡が出土し
たにも関わらず、画文帯神獣鏡などの楽浪鏡の出土はほとんど認められません。特にそれま
での鏡文化の中心であった伊都国の領域では、3世紀初期に位置づけられる平原墳丘墓を最後
に鏡の埋納は終焉してしまいます。

ホケノ山古墳は3世紀中期の前方後円墳である。
纒向遺跡には、3世紀前半の大型建物と、その跡地に3世紀中期の大型建物。
であるならば、3世紀前半の纒向の王の宮殿と墳墓となる。
この時代は、公孫氏の楽浪鏡と重なる。しかし、無主歴年の九州では、3世紀初期の平原墳
丘墓を最後に鏡の埋納は終焉する。

考古学の主張する年代を、4,50年繰り下げては、九州の無主歴年を説明出来ないし、
楽浪鏡が卑弥呼の鏡になる。それはそれで構わないが、共立された卑弥呼の墳墓が
平原墳丘墓となり、それに続く九州王朝が消える。
舶載三角縁神獣鏡は、274年から308年までの時空の鏡である。
時空の繰り下げは、この鏡の副葬時期にまで影響する。つまり全ての鏡が4,50年
伝世してから、副葬される。ありえない。


583:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/11 20:11:44.37
>モモソが「記紀の言うようなモモソ」になったのはAD250~300 より「少し後になる」
点を当方は重視する。

崇神世に任那建国がある。魏が半島を管理する時代に任那建国は不可能である。
3世紀半ばのホケノ山古墳には公孫氏の楽浪鏡が副葬される。
ホケノ山古墳とそれまでの大和の墳墓の違いは、鉄器副葬の有無である。
この楽浪鏡は、大和が北部九州を通さずに手に入れている。
つまり3世紀半ば迄に任那建国がある。文献で探せば、新羅209年、3国遺事も同じ
時空を建国としている。

>「少し後になる」点を当方は重視する。

紀記の勝手な書き換え宣言か?


584:ローガン
11/07/11 21:13:31.06
>>582:唐松山さん
>舶載三角縁神獣鏡は、274年から308年までの時空の鏡である。時空の繰り下げは、この鏡の副葬時期にまで影響する。つまり全ての鏡が4,50年伝世してから、副葬される。ありえない。

和泉黄金塚は景初三年鏡は晋代銅銭共伴。よって最短で27年間は地上にあった。
又、鏡ではないが、新山古墳の帯金具の指標が297年。 いずれも副葬品として、半世紀程度の伝世は充分考えられるもの。
「ありえない」は言い過ぎ。

585:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/11 22:16:15.01
>>584

全ての鏡が4,50年伝世してから、副葬される。ありえない。
全ての鏡であるから、あり得ないのであり、中には50年以上の伝世が在っても良い。
ホケノ山古墳とそれまでの大和の墳墓の違いは、鉄器副葬の有無である。
ホケノ山を239年垂仁とする私から見れば、
任那建国は、210年頃であり、216年崇神末年任那より朝貢。
3世紀初期の大型建物より、古韓尺が使われる。←これに関しては、それ以前の
磯城瑞垣宮などの資料が無いので、絶対主張では無いが、建物も墳墓も古韓尺が妥当である。

3世紀中期の墳墓に楽浪鏡の副葬はありうる。
3世紀後期の桜井茶臼山は、舶載△鏡の時代である。
4世紀初めのメスリ山は、舶載△鏡である。
ここに副葬された内向花紋鏡など漢鏡は?

考古学が2世紀末からの纒向遺跡を支持する理由としてこの鏡の編年がある。
纒向遺跡が2世紀末からとする文献の読み方がある。



586:日本@名無史さん
11/07/11 22:44:26.74
>任那建国は、210年頃であり、216年崇神末年任那より朝貢。

三国志東夷伝には任那の記載がない。晋書にも出て来ない。広開土王碑文の 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。
唐松山氏の編年は最大で190年繰り上げられて(古く看做して)いる可能性がある。


587:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/11 22:50:18.95
239年鏡(景初3年鏡)は紀の崇神7~9年たる銘文である。即ちその前年
たる238年こそが崇神4~6年だということなのだ。つまり188年が崇神元年
にはなりえない。

これを示すのが

鏡作坐天照御魂神社 の 社伝

 崇神6年9月3日 この地で日御像の鏡を改鋳し、天照大神の御魂と
 為す、今の内侍所の神鏡是也。

崇神6年に鏡を造って翌崇神7年あたりにそれの3次鏡たる239年鏡が
多出するのだ。崇神即位元年が188年だとは出鱈目なのである。3倍年暦
にて、崇神7~9年が239年なのだ。

588:崇神の末裔
11/07/11 23:03:36.02
唐松山殿、太国殿

当家の記録によれば初代は4世紀半ばに没したと見られます。

589:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/11 23:07:16.57
初代神武は西暦26年崩御です。皇紀76年は西暦26年ですよ。
眠いねえ・・・。
明日 zzzzzzz・・・・・

590:崇神の末裔
11/07/12 14:39:10.04
>>589 太国殿
当家の初代というのはミマキイリヒコのことです。

591:水銀厨
11/07/12 15:29:08.64
ミマキイリヒコ、そのまま読まなきゃな。
美馬地方から来た男だよ。

592:ローガン
11/07/12 15:57:58.16
>>591
>ミマキイリヒコ、そのまま読まなきゃな。

そのまま読んだら、大彦の娘のところに転がり込んだ男。

593:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/12 16:21:17.48
>>590 崇神の末裔殿
崇神即位年は倍暦逆算から、237年つまり景初元年ですよ。
また崇神没年は259年を算出しています。
よって崇神の代は3世紀ということになります。4世紀ではありません。

同没年=259年 ということは、古事記の崇神没年干支「戊寅」を258年と
観るのが正解だということです。1年違いですね。

594:水銀厨
11/07/12 16:25:31.42
>>592
ミマツがミマの津 徳島~淡路島周辺の港だね。

595:日本@名無史さん
11/07/12 21:44:20.16
ミマキって、三巻(みまき)って意味じゃないの?
三輪山の三輪の由来にもなった。

596:日本@名無史さん
11/07/12 21:52:56.65
御牧か大牧だろ
大王の厩司って肩書きだ


597:日本@名無史さん
11/07/12 22:04:52.39
名前は基盤の土地や職を表す事が多い。

598:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/12 22:29:51.96
>>586
>唐松山氏の編年は最大で190年繰り上げられて(古く看做して)いる可能性がある。

正面からの否定はうれしいね。
崇神世とは、
まず崇神は、庶母の出である。旧朝廷がこぞって賛成する状況では無い。
つまり、宮を無人の纒向遺跡に造る。
崇神5,6年 疫病、民の死、離散。この状況を12年に、寒暑矢序。疫病多起。
百姓蒙災。と説明している。
寒暑矢序。=天候不順。
疫病多起。=凶作。
百姓蒙災。餓死と逃散。←百姓のみが被る疫病とは、“えやみ”であり通常“凶作”と
書かれる。
崇神10年 猶不受正朔。正朔とは、書紀が主張する季節と月齢は正しいと主張している。
しかし正歳とは主張していない。治世は引き延ばされているが、季節と月齢は正しい。
そして年数も正しいと主張するために、日々の干支が振られている。これは、正しい数字
を隠した“証拠品”である。朝廷の主張は、太陰暦を引き延ばし、日々の干支で覆い隠す。
十一年 異俗多歸。國内安寧。
六十五年秋七月。任那國遣蘇那曷叱知令朝貢也。

これらの出来事を他の文献で主張出来るか?


599:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/12 22:30:51.59
新羅192,3年は崇神5,6年又は崇神5年=後漢193年。
寒暑矢序。=天候不順。は後漢183年から193年である。
崇神6年離散=弥生後期後半 唐古・鍵遺跡など各地の居住区が放棄される。
崇神11年異俗多帰=2世紀末に各地の土器が持ち込まれる。
三國遺事卷二 より
洎新羅第三十王法敏龍朔元年辛酉(541年)三月日.有制曰.朕是伽耶國元君九代孫仇衝王之
降于當國也.
位己卯年(559年)置便房,降及仇衝朝末,三百三十載之中,享廟禮曲,永無違者.其乃仇衝失位去國.
仇衝朝末〔541年〕で330年であるから、伽耶建国は210年頃である。
新羅本紀ではこの時(209年)伽耶に援軍を送る。
魏志倭人伝239年には、狗邪韓国(カヤカンコク、金官伽耶、任那)は存在する。
ホケノ山古墳=3世紀中葉の墳墓であり、楽浪鏡と鉄器の副葬。
この時代の北部九州に楽浪鏡は出回らない。
楽浪鏡と鉄器は、大和が直接半島(任那)から手に入れるのであり、その鉄で垂仁は
鉄剣を蓄える。
3世紀後期の桜井茶臼山からは、三角縁鏡と大量の鉄器副葬の時代となる。

2世紀末ころ纒向遺跡は台頭する。
3世紀中葉には、楽浪鏡と鉄器が大和に入る。
239年 景初3年 都市牛利(たしうり)=田道間守、伊支馬=イクメ=垂仁

考古学の数字と他国の文献を書紀の主張に合わせる。
崇神を240年~260年頃に合わせても“任那建国が無い。
書記の主張を否定して何が編年か?


600:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/12 22:39:56.97
畿内から多出する239年鏡群を製作した鏡作りの因む神社が

 鏡作坐天照御魂神社

であろう。略名で 鏡作神社 というのだろう。

この神社の社伝に

 崇神6年9月3日 この地で日御象の鏡を改鋳した・・・今の内侍所の

 神鏡是也。

とある。

崇神6年は3倍年暦では崇神2年であるから、

 9月3日 崇神2年

のことである。この年月日数を年数に象れば、逆読みで239年を得る。
239年鏡の239年は紀の崇神6年近隣だったのだ。

601:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/12 22:43:29.83
崇神5,6年≠192,3年

臣下 伊支馬≠垂仁天皇

臣下は天皇にはなれないのが神国日本の掟である。また千人もの空腹
フラフラの飢饉農民が半島大量渡海なんぞ不可能事であるのだ。若狭湾に
着く前に野垂れ死にがいいところだな。ww

602:日本@名無史さん
11/07/12 23:36:24.45
崇神とか垂仁のころの天皇は
単に巫女王の旦那という程度だろう
女系で解釈したほうが系譜が素直に繋がるという説もある
無理に男系で書き直したから親類含めて婚姻関係がぐちゃぐちゃになってるんじゃないかな

603:水銀厨
11/07/13 00:15:05.39
>>595
それは箸墓や琵琶湖と同じで後世の解釈でしょう。

604:日本@名無史さん
11/07/13 00:19:49.40
皇孫をスメミマとも呼ぶよ
ミマナとかもろ、直轄地って意味に取れるし

605:水銀厨
11/07/13 00:29:12.54
ミマの地でしょうね。
水銀厨の私としては徳島の美馬と想定しますが。

任那の字からは那に任せた土地ともとれない事はないが、
やっぱりミマの地。

606:日本@名無史さん
11/07/13 01:11:52.20
「任那」は合成語っぽいな
「任」には「ミマ」という音は無いし、その漢字の意味の側面(任せる)を使ったのだろう
逆に「那」は「ナ」という音があるから、音の側面を使ったもの
こういう漢字の凝った使い方は後世の物だろう
古代大王の名前にしても神の名前にしても、漢字の音なのか意味なのか区別しないといけない
大抵は、複数の漢字を当てた例があるから、音だけを伝えたかったのだと思うが

607:日本@名無史さん
11/07/13 01:20:06.95
三潴奴

608:日本@名無史さん
11/07/13 01:28:32.71
古代の言葉は意外と残っているもんだ。

609:日本@名無史さん
11/07/13 01:29:42.86
用語として、あまり変わらない言葉はあるだろうな

610:メ
11/07/13 09:20:26.13
このやろー


611:メ
11/07/13 09:22:41.15
>百襲姫とモモ

これについて少し話題になってるみたいだが
なぜ、姫がモモといわれるようになったか
誰も答えることのできる人はいないと・・・・・

612:日本@名無史さん
11/07/13 09:36:41.79
モモは基本的には神仙思想だろ。

613:日本@名無史さん
11/07/13 11:22:22.91
>>602
それに、巫女は生涯独身で、あくまでも三輪山の神様に生涯をささげる身。
巫女が女王になったのは、一時期のことだよ。
魏志倭人伝みたら分るが、女王が擁立されたのは、
邪馬台国(ヤマト国)にとって一時期的なことだ。
もともと、この国は男王が建国して数十年経過して倭国大乱が起こって
それで、一時的に女王を立てることによって鎮まったとあるわけだから。

おそらく、倭国では、祭祀王と俗世王の二元体制だったのであろう。
ちょうど、中世以降、天皇と征夷大将軍の二元体制になったと一緒。
でも、古代の倭国王においては、その俗世王のほうが、
祭祀王を都から追放し、自分が俗世王と祭祀王の両方を兼ねるようになったんだろう?
その前段階として、俗世王は自分の親族から
子孫を残せない巫女を臨時に女王として立てて、反対勢力を抑え
徐々に、自分達、俗世王が世俗王の両方を兼ねるように転換していったのであろう。


614:レス長たらし毘古
11/07/13 13:51:37.13
>>583
>紀記の勝手な書き換え宣言か?

「紀」の勝手な書き換え宣言かと言う点だけは貴殿の指摘ポイントは正しい。
但し当方は「記」が積極的に書き換えをしたとは主張していない。あくまでも
古事記においては「わから無い物はわからない」としている記述方法。
つまり、古事記においてはモモソは「基礎データ以外はわからない」とされ、
そして対外向けパンフレットの日本書紀では「それでは困るので、日本(大和
王朝)が不利にならない」独自解釈を構築した。と当方は想定しているだけ。
だから日本書紀のモモソは怪異伝に包まれて活躍し没するのではあるまいか。

615:レス長たらし毘古
11/07/13 14:12:07.96
>>613
>おそらく、倭国では、祭祀王と俗世王の二元体制だったのであろう。

祭俗二元体制であった可能性は当方も低くは無いと想定する。故習があった上
で、その故習に(必要に応じて)やむなく改変し、内体裁・外体裁を整える
と言う体制構造変革は、実は日本史を通じて良く見られる政治現象でもある。
(鎌倉幕府発生・明治維新等も、広義ではこれに当たると当方は想定する)

二元制・幼帝の介添えで幼帝母が帝位就任・兄弟相続と長子相続の葛藤。
これらの三要素は、実に聖徳太子の時代から天智・天武の時代に至るまで、
正史においてすら「隠さずに淡々と記述されている」つまり当時はそれらは
「常識(あってあたりまえ)」だったと想定する方が自然。従って、それより
数十世代前には、「それらの常識のオリジナル(のようなもの)」が「あった
のではないか」と考える方が自然と、そういう解釈理窟ともなって来る。
特に「征服王朝」等の政治概念が希薄な日本では、前体制を「完全否定した」
上での新体制を構築流布するには、大乱クラスの陣痛を伴う筈である。まして
や、正史における「中央集権構築の途上段階」の政権(王権)が、朝鮮出兵に
まで膨れ上がる途上の時代で「そこまで痛みを伴う抜本的構造改革を敢えて」
するとは、どうしても考えにくい。
従って「当時も二元体制だった」としてもこれもおかしくない理窟にはなる。

616:レス長たらし毘古
11/07/13 14:39:55.38
先述したとおり、「幼帝母」の「幼帝代理帝位就任」は、これは古事記以前
にも「慣習的」であった可能性が高い。これは神功皇后を古事記において
「帝位に入れず」しかしながら、その他の文献では神功も「帝位に入って
いる」等の矛盾から類推できる。しかしながら、古事記の「直前の史料」でも
ある旧辞・帝紀においては、「推古が最初の女帝である」とせねばならぬ
と言った、絶対的前提条件が立ちふさがって来る。従って当時は「検証途上」
であった神功は、少なくとも古事記においては「帝位」に含める事が出来な
かったとも類推できるのである。
ましてや少なくともその数代前のモモソと言う女性。
魏志倭人伝を程度信用するならば、卑弥呼には子がいない。そして、モモソ
にも子がいない。「子がいないのにどうして女性が帝(大王)になれるのか」
と、当然記紀の時代の研究者は男権思想トップリの条件反射的に判断する。
そして、それは「推古が最古の女帝である」と言う前書にも大いに反する。

幼帝母の神功ですら、当時の研究者は、帝位についていたかどうかを明確に
する事はできなかった。(そして古事記においては結果排除)ましてやその
数世代前のモモソさんである。

従って、タケハニヤスヒコが、もしモモソの子(政治的養子も含む)なら?
そう、この仮定なら、事態は大きく変って来るのである。もし、女帝がその
婚姻や養子縁組を「地域支配」や「外交」に積極的に活用していたなら?
その政治や外交を、「認めることが出来ない」立場の子孫が、天智・天武の
ご先祖家系であったなら?

当然、カレラ(記紀編集代の皇族&研究者)は、モモソの執政を可能な限り
抹消したくなる立場を執ったとしても、これもおかしくは無い。

617:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/13 16:56:40.84
>「幼帝母」の「幼帝代理帝位就任」は、無い。
有史8代  孝昭天皇
 秋七月、都を腋上(ワキガミ)に遷す。是を池心(イケゴコロノ)宮と曰(い)ふ。
出石心(イズシゴコロノ)命を以て大臣(おほいまうちぎみ)とす。此の命は、宇摩志
麻治(うましまじの)命の後(のち)なり。
 天皇、天性至孝にして、専(もは)ら皇太后に事(つかへ)まつりて、政務を事(つ)
かへたまはず。然(しか)れども天下泰平、国土安穏(あんをん)、此れ聖徳(せいとく)
の然(しか)らしむる所ろなり。

孝昭は、幼くして即位し、皇太后(母親)から離れなくとも、政務がとどこおる事は無い。
簡単に言えば、政務は、大臣が担当するが、政務自体が単純な時代である。
崇神も幼くして即位するが、母親(イカガシコメ)は、開化に殉じている。


618:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/13 17:12:53.92
どこの文献か題名を書かずなのは、後ろ暗いところがあるんだろう?w
よく題名を書かずにスッポかすからな。

619:日本@名無史さん
11/07/14 14:56:38.63
>>616
モモソ媛命が倭王であったことよりも
なぜ、モモソ媛命が倭王の地位に就いたのかというのが問題なんだろう?
天皇家にとっては。
つまり、倭国大乱やそれ以前の倭国の王制が、
天皇家にとっては非常に都合が悪かったと。

620:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/14 18:24:49.02
巫女(斎王)が女王になった事実は大和に存在しない。
ただ、卑弥呼を大和に存在させたい人物の作り話である。
巫女(斎王)が女王になった事実はある。しかしこれは、景行が九州に送り込んだ
五百野姫(壹與)の事である。

景初中、明帝密かに帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣を遣わし海を越え二郡を定む。諸韓国の臣智には邑君の印綬を加賜し、
その次は邑長を与う。その俗、衣[巾責]を好み、下戸の郡に詣りて朝謁するは、皆、衣[巾責]を仮し、自ら印綬・衣[巾責]を
服するもの千有余人。部従事(役職)呉林、楽浪もと韓国を統べるを以って、辰韓八国を分割し以って楽浪に与う。

この時代に任那建国は無い。だからこの時代に崇神(モモソ姫)を配しても正解は得られない。


621:日本@名無史さん
11/07/14 18:56:29.54
>>619
そんな無理やりな解釈は必要ない
まったくの別人だからなw

622:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/14 19:08:53.85
五百野姫≠壹與

623:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/14 22:04:46.40
大丈夫だ、太国に有史八代は使えない。
大日本根子彦国牽天皇 <孝元天皇>  
妃伊香色謎命、彦太忍信命を生む。彦太忍信命は、是武内宿禰の祖父なり。
 開化天皇 
伊香色謎(イカシコメノ)尊を立てて皇后とす。後に御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニヱノ)尊、御間津姫(ミマツビメノ)命を生みたまふ。
男彦太忍信(ヒコフトヲシマコトノ)命
   此の命は、嘗て尾張連等(ヲハリノムラジラ)の祖、意富那毘(オホナヒ)の妹、葛城高千那媛(カヅラキノタカチナビメ)を娶り、
味師内宿祢(ムマシ ウチノスクネ)を生む。此の宿祢嘗て紀伊国造(キノクニヅコ)の祖、宇豆彦(ウヅヒコ)の妹、山下影媛(ヤマトカゲビメ)
を娶り、武内(タケウチノ) 宿祢を生む。
ヲシマコトのコ ウマシタケ ヰココロやりて まつらしむ アビカシハラに コトセすむ
キのウヂマロが ヤマトカゲ めとりてうむコ タケウチぞ
ホ32180 のちヲシマコト ヲクチがト タカチゑてうむ ウマシウチ これキウツがト
ヤマトカゲ めとりうむコは タケウチぞ

有史八代を使うと、忍信と崇神は種違いの兄弟となり
しかも武内宿禰は、忍信の孫である。
私の数字でも、一世代少ないのに、太国倍年では二世代不足する。

624:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/14 22:39:15.25
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~と、コチラを口撃していた男
が~

 ~偽書といわれる書物を持ち出した~~。><

なお宿主空年は宿主の創作の出鱈目である。当時の朝廷に佛教の色即是空
は関係な~い。

625:日本@名無史さん
11/07/14 22:49:33.92
江戸時代に今の韓国みたいなウリナラブームが起こって、
いろいろな神代文字が捏造されたのはもう明らかになってるんだけどね。


626:日本@名無史さん
11/07/15 07:58:12.14
>>625
國学思想な。
本居宣長それ。


627:日本@名無史さん
11/07/15 07:59:14.33
モモソ媛命=卑弥呼
トヨスキイリ姫命=台与

628:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 22:02:25.49
>三国志東夷伝には任那の記載がない。晋書にも出て来ない。広開土王碑文の 永楽10年(400年)条の「任那加羅」が史料初見とされている。

任那とは、崇神がツノガアラシトの要請で兵を預け、それにより伽耶が建国されるわけであるが
なだ国名が決定していない。だからミマキの(荷担により建国)邦と呼ぶことになる。
任那は日本語と言うことになるから、東夷伝では、狗邪韓国(カヤカラ)と記載される。
400年の任那とは、323年神功49年半島占拠。この半島を経営するための倭国の出先機関が置かれた
土地であり、カヤカラまでを含むかどうかを判断する文献が無い。

魏時代には、任那(伽耶)は、楽浪郡に含まれる。
晋時代に入り、倭国は、伊都国の1大率の行為を半島で行う、その為の神功渡海(274年)である。
308年永嘉の乱、316年西晋滅亡。中国東北部は、空白地帯となる。
323年神功49年 半島占拠。百済建国。北方の民の大量渡来。
書紀の神功渡海(274年)、同49年半島占拠(323年)。この出来事に大きな軍事力は使われていない。
だから軍事力が最小でなくては整合性が得られない。
323年迄の任那とは倭国での伽耶の呼び方でしかない。
この伽耶が541年新羅に身を寄せる、丁度建国330年である(3国遺事2巻)。
つまり210年は崇神世である。


629:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 22:10:08.45
ホ34129      ミマナのアヤ
ミヅカキの ヰソヤホハヅキ ミユキして ケヰヲヲカミに もふでます モロいわふとき
ツノひとつ あるヒトこゝに たゝよえり コトバきゝゑず ハラのトミ ソロリヨシタケ
よくしれば これにとはしむ

ホ34185 トミねがわくは クニむけの オシをこふのみ キミトミと はかればいわく
クニフクの マゴシホノリツ これよしぞ カフべのミコブ マツノキミ セイヒタケヰタ
ヤソチカラ いさみはげしく ミコトのり シホノリヒコをミマナオシ ゆきとくにむく
ミチツカサ かえればよしと カハネたまひき

国葺はワニ臣の元であり、ワニ臣は、古墳時代に活躍する、特に後半。


630:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/15 22:29:14.79
ほ~ら、偽書といわれる書物を持ち出した~、とコチラを口撃していた男
が~

 ~偽書といわれる書物を持ち出した~~。

なお毒書ホツマとはそんじょそこいらの昔のタダのオッサンが恣意的妄想
を挿入して書いた朝廷から観ての落第文書であり、重々各々方はこの妄想
にやられぬよう用心する必要がある。

崇神即位年=237年 であることは、鏡作神社の社伝

 崇神6年9月3日 日御象鏡を改鋳

が景初3年鏡(239年鏡)鏡作年代近隣に相当してることが確実視したこと
で、この等号が真であることが確定した。このため畿内から239年鏡が多出
する起因なのである。
すなわち以下の不等式が成立するのだ。

崇神6年≠193年

631:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/15 22:38:36.09
>>630 続き
当時の3倍年暦行使から

 紀の崇神6年=崇神2年

となる。だから 崇神6年9月3日 とは 崇神2年9月3日 であり

 崇神2年9月3日→9月3日 崇神2年(天津神算木式記載)

なのである。
→の向く側は数字を年数に象れば、逆読みにて239数が並ぶ。

すなわち239年を秘めたものであり、当時西暦を朝廷側が覚知していたと
いうことなのだ。193年とやらでは先頭数1が不整合でダメである。

すなわち1の不整合から

 崇神6年≠193年

632:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 23:10:54.95
184年 開化元年庚午朔 3章(の空白年の差し込み)
187年 崇神元年壬午朔 2章 開化と同じ暦、調整前
217年 垂仁元年丁丑朔 4章
240年 景行元年壬申朔 2章
262年 成務元年甲申朔 3章
266年 仲哀元年庚寅朔 0章 成務と同じ暦の可能性が有る

開化の治世は数字上3年となる。治世3年に57年の加増であれば、
民でもこの“57年”に秘密が隠されていることに気づくであろう。
であるならば、4年の治世に56年の空白年の差し込みであれば、正しい答えを
見つけることが出来ない。農事暦の配布をする朝廷のシノギは安泰である。

210年 任那建国
239年 田道間守派遣
274年 渡海
323年 神功49年 半島占拠
326年 神功52年 七支刀
現在 考古学の主張する纒向遺跡の年代は正しい。
3世紀半ばのホケノ山が垂仁の墳墓であれば、
大和で最初の鉄器副葬、公孫氏の楽浪鏡の副葬として疑問は無い。
この時代に九州北部では楽浪鏡を副葬した墳墓は無い。
九州で楽浪鏡が副葬されるのは、庄内式土器の進出と時を同じくする。

>崇神6年9月3日 日御象鏡を改鋳
崇神5,6年の災害とは、天候不順に依るもので有る。
239,240年 晋書 正始元年東倭重譚納具。
ここに天候不順は無い。
災害または天候不順で説明出来ないから”誤りである”。


633:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/15 23:21:53.30
>>631
>当時の3倍年暦行使から

この”3倍年暦”なるものを数字で1年=??日と表記出来るのか?
数字の無い暦は、存在出来ない。
1年を180日とする。←この類の数字の暦は地球上に存在出来ない、また
1年=12ヶ月が基本となる。5,6月が存在しない太国倍年。地球上の暦では無い。
その証明が、金木算木だそうだ。となれば、こちらも使い物にならない。


634:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 10:57:33.61
東倭とは、コチラの主張では、大陸から見て通常では東の日本のことである。
それが畿内でなく九州のことだとなると、何ら問題はないし、天候不順が1年間
も継続することは、日本の気候からありえない。つまりオマエの主張は暖簾に
腕押しそのものである。1年も日食が継続しないことを知れば、オマエの反論
はオマエ自身の日食妄想をなおさら精神病院行きだとオマエ自ら知りうること
である。ww 当時の畿内と九州とは別国である。

1年を180日とする明確な暦法は、古代マヤの太陰暦に存在する。ここは中南米
だから、地球上である。

古代マヤの太陰暦は学術文字で C にて表現される。権威者の解説書には
悉く

 1C 2C 3C 4C 5C 6C

の月があり、順に1月、2月・・・6月の1年が180日の半年である。
つまりグレゴリオ暦式の1年ではマヤの太陰暦は2周することとなる。これを
ルナー・シリーズといい、マヤの長期暦とカレンダー・ラウンドのついでに
この太陰暦がCで、絵文字で現地では石碑等に彫られている。なお180日の半年
であるから、7C 8C ・・・ 12C というのはこの暦には存在しない。

つまり宿主の言うことは大ウソだということだ。ww
ついでにオマエはマヤ文字を読むことが出来ない。1年が180日の暦は、この
ように存在するのである。

635:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 11:19:40.34
地球上に存在しないのは日食が数日間という日を経て継続するという事実
である。w これは精神病院患者とか熱帯密林の蛮族などなら、こういう
インチキを地球上にあるのだと言い張る。w

朝廷が5月6月を削ることはありうる。現今でも各マンション、アパートで
4号室とか104号室とかを不吉数と観て削るのがあることからも、これは
おかしくはない。

636:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 11:24:44.92
>>635 訂正
× 事実である
〇 論である。

日食は数日間も継続しない。たかが暗黒は数分間であり、常夜とは言えない。

637:日本@名無史さん
11/07/16 11:51:09.68
>>542 アラタメドツボ
だからそういう捨て台詞を言わず消えるなら消えるで黙ってフェイドアウトしろ。
2ちゃんねるじゃあ捨て台詞吐いて去ったやつは未練タラタラで大抵戻ってくるのが法則だがwww

邪馬台国古代史に何か変な妄想を押し付けて興味を持って
やがてそれが自身の妄想でしかなかったと気づいた時点で古代史そのものへの興味も失せる
モチベーションも低下する…ってパターンかな?

と り あ え ず…
 

【重要じゃないお知らせ】

 当スレご愛顧のお客様各位
 
  長年当スレをご利用賜りましたが結局南極『謎の女王卑弥呼は誰か?』と言う謎の解明には至らず
  長く自称スレ主を語ってきた「アラタメドツボ」も去りました。

  ここに至り当スレは一度終了となりました。
  長年のご愛顧ありがとうございました。

  ※尚、今後は太国と唐松山の専用隔離スレとしてご利用ください。


 
dotubodotubodotubodotubodotubo    終  了   dotubodotubodotubodotubodotubo


638:日本@名無史さん
11/07/16 13:46:56.82
了解

639:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 14:14:02.29
>>634 >>635 >>636 続き
この古代マヤの太陰暦は1年が180日であり、現今で使用の1年では2年を経過
する。事実地球上に存在する。地球上に存在しないのは数日間継続の日食がそれ
であって、これは常夜とは到底言えず、たかが数分間の出来事であり、数日間
ではない。これこそ地球上に存在しない。これが存在するというのは遠い遠い
はるか彼方の電波星とかの天体があって、そこからこちらは日食が数日間も続く
星であるとかのデンパがその星から伝播する送信があって、それをピピピ・・・
と受信出来るから宿主らが日食が数日間続くと強行にガンバリと押すのだろう?
それはそうである。地球上でないこういう電波星とやらでそういう日食が
あることはこれは否定出来ず、宿主のそういういうピピピピ・・・とむこうから
デンパが来てるのでは、これは絶対否定にはならんのだろう?ppppp

C文字は右片手の上に人間あるいは魔人の頭部の形状絵文字であり、これに
1~6までの数字をoと棒字で表現する。1年が180日の暦法はかように存在
するのである。

640:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/16 19:34:54.06
>1年が180日の半年である。
>1年が180日の暦法はかように存在するのである。

”年”の意味は?
”月”の意味は?
そして、1太陽年との整合性は?

月齢と太陽年と考古学の主張を否定して成り立つのが、太国倍年で有る。
3倍年暦なるものは、太陽年と整合性が取れていない。だろ?
だから”あった”と主張しても、暦として存在出来ていない。



641:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/16 22:52:44.45
準3倍年暦も古代マヤ暦にある。釣り合いがとれるとかそんなことは
直接関係ない。あるのは1年を半年での180日で立派に暦が出来るという
2倍年暦があるということであって、現に古代マヤで使用されてたものだ。

これが古代マヤの長期暦の次にカレンダー・ラウンド(ツォルキン暦、
ハアブ暦)の前後に太陰暦Cとして1年180日の暦法をステラ等に刻んで
いるのだ。かたやオマエの言う色即是空的宿主空年など、古代マヤ暦では
存在しない。そんな空年などを大量に不正に入れこめば正確な年代が
撹乱するばかりであり、古代マヤでも古代朝廷でもそんな暦はやって
いないのだ。すべてオマエの妄想の集積だ。

準3倍年暦は1ヶ月が10日間の欠史八代の3倍暦法と類似して、1ヶ月が
9日間での暦法であり、マヤ遺跡のステラではその太陰暦の直前に G
の(学術)文字で刻まれている夜の魔王暦というものだ。

642:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/17 12:53:05.14
>>641
>あるのは1年を半年での180日で立派に暦が出来る
>1ヶ月が9日間での暦法であり、

1年、1ヶ月の意味も知らない太国よ!!
上記の如き暦は地球上の暦と成らない。
つまり、太国の主張は、書紀の太陰暦と全く整合しない。だから太国の主張する
数字が文献と整合性を得る事は出来ていない。
だから、太国は”金木算木”?の計算結果を”文献”と主張するが
金木算木とは電卓やソロバンの類であり計算結果が文献と整合性を得る事は有っても”文献”とはならない。
例えば崇神237年から33年間である”3倍年”であるならば、
崇神初期=△鏡銘、崇神末の文献が表記出来て初めて33年間が容認されるが
まだ”倍年”が容認されたわけではない。
とりあえず
>あるのは1年を半年での180日で立派に暦が出来る
>1ヶ月が9日間での暦法であり、
この太国倍年に数字が与えられるか?太国は未だに数字を与えられていない。
数字の無い暦は存在しない。だからまずこの
”太国倍年”に数字を与えて提示出来なければ、ただの妄想暦にしかならない!!


643:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:00:23.63
中南米は地球上である。すなわち中南米の暦は地球上の暦であり、
地球上でないデンパ星ならば地球上に現れない日食とやらが数日間も
続くのは、その星からデンパの送信をピピピピピ・・・と受けている者
なら言い易いとありうる話である。ww

言っとくが、中南米は地球上であるから古代マヤの1年が180日の暦は
地球上の暦である。

644:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:06:41.38
整合しないのは天皇になれない臣下が天皇だとか日食が数日間も続く計算
数値を論としてる話である。中南米の地は地球上にあるのであり、数日間
続く日食が観測できる所は地球上にはない。それはデンパ星とやらでは
日食が数日間という日を経て続くことは否定は出来ず、こういう天体から
コチラの星では日食が数日間も長く続くぞという送信をNNNNN・・・
とピピピピピ・・・と受信してる脳内の奴なら強行しても日食が数日間も
続くの論を曲げずに強行するだろう。ww

645:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:24:04.29
古代マヤの地だとか他の古今東西の地域で色即是空の宿主空年を
行使している所は見当たらない。マヤの地たる中南米は地球上で
あるから、古代マヤの太陰暦の1年180日のC文字暦法は地球上の
暦であると断定される。これによって古代マヤでは2倍年暦が行使
されていたのだ。宿主空年はインチキなのである。

景行を自己(←宿主)の都合のいい年代に先行して強行恣意的に
決めこんだことが、オマエの墓穴を掘った出鱈目編年なのだ。
それはヤマが当たりゃぁこれは凄いが、はずれればいっぺんで奈落
の底の出鱈目論となる。オマエのはヤマがはずれだったんだよ。ww

崇神6年が景初3年近隣に位置するのは 鏡作坐天照御魂神社 の
社伝 崇神6年に日御象の鏡を改鋳した この伝承で確定的であり、
となれば239年が崇神6年あたりに位置して来るとなる。それで
239年鏡が畿内からうんと出るわけなのだ。

それに関係鏡が舶載品でないことは鏡作と鏡を作ったとの神社名
から決まりであり、舶載な大陸鏡贈神社とでもいう社名になるはず
だ。そういう名でなく鏡作の名の神社名ということは日本製だと
断定してよい。舶載という宿主の論はデタラメである。

鏡作の意味は(この地で)鏡を製作したという意味であり、鏡を
舶載されたという意味にはならない。

646:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 13:26:47.09
>>645 訂正
× 決まりであり、舶載な
○ 決まりであり、舶載なら

647:唐松山 ◆V0F34EbmQA
11/07/17 18:16:06.17
>古代マヤの1年が180日の暦は地球上の暦である。

崇神天皇元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位。
崇神天皇元年二月辛亥朔丙寅。
崇神元年の1月が壬午朔であり、2月が辛亥朔と表記されて居る。
つまり崇神元年1月は29日存在する。
古代マヤの暦で説明したいだろうが、古代マヤの暦と畿内の太陰暦は関係無い。
それとも古代マヤでも1月を9日とする暦が使われていた、とでも主張したいのか?

>239年が崇神6年あたりに位置して来るとなる。
魏の1年は太陰暦の1年である。対する太国倍年は??日を1年とする。
つまり"倍年”と太陰暦は整合しない。であるならば、紀年の意味をなさない。
景初3年銘などは、太陰暦が使われていた証拠である。


648:レス長たらし毘古
11/07/17 22:22:32.16
>>617
>「幼帝母」の「幼帝代理帝位就任」は、無い。

申し訳無いが、この場合争点を明確にする為には「参考文献は何か?」を明確
にして欲しい。そしてその参考文献が、記紀より後代の物である場合は、その
場合、幼帝母の代理就任の有無は、まさしく卵が先か鶏が先かの話に成り兼ね
ない。記紀と同時期迄に記録された史料で、かつ別系統の記録文献でない限り
は、「記紀をベースにその事実は無い」と言う先入観の元に書かれた史料の
可能性が高くなって来る。

>崇神も幼くして即位するが、母親(イカガシコメ)は、開化に殉じている。

皇后が大王の死に殉じ殉ずるのが記紀の主張するように「当時の当然の慣例」
だと仮定した場合、少し後代の神功皇后が何故にスンナリ殉じなかったのか?
が矛盾になる。つまり、該当当時は「そんな風習」なぞ無く、神功以降の後代
の記紀までの間の時代に「皇后が殉ずると言う風習」が出来て行ったか、
或は、それは恒例の慣例では無く、時に行われ、時に行われなかった、と言う
程度の風習だった可能性が浮上します。
記紀が主張する「崇神時期における恒例のしきたり」を、それがそのまま、
崇神時期には恒例のしきたりとして(例外なく)行ったと規定するのはこれも
解釈的には危険な決めつけかもしれない。

649:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/07/17 22:49:09.38
>>647
そんなことより、オマエの42年を数字の羅列で誤魔化さずに具体的説明を
してみろ。これをしない限り、オマエの説を常人なら信用などしてくれ
ないね。こうだ~とだけ言ったところで餌のつけない釣り同然であり、
言わないところを観ると後ろ暗いところがあるということだね。これ
ではマルデ駄目オだ。ww

太陰暦の証拠だと~

これを ↓ 忘れたのか~?ww

神皇紀

 人皇第一代神武天皇元年 太陰暦を太陽暦に改め、30日を一月とし、
 十月を一年と定め給ふ。

1年が10月となるならば、当然コチラの言う5月6月の欠は整合して
ることとなるんだよ。どうだ~~? 分かったか~?

650:レス長たらし毘古
11/07/17 22:50:48.58
争点と成り得べきは、「ミカド(大王)の母」が、「記紀の主張ではどうか」
と「実際はどうであったか」は、全く別問題と言う点です。
つまり、記紀(ならずしも、国史を目指した史書)では、ある程度恣意的に、
ミカドの母を「規定せざるを得ず」、また「後代の規定となってしまう」この
両点があり、その意味で、神功はなぜ、「ミカドの母としてはアッパレ」と
「記紀では規定されているか」と言う点が甚だ異常に思えるのです。

もし仮に、(記紀においての)故習における、「皇后の殉死」を非としたのが
記紀の「皇后規定」だとしたら、今度は古事記のモモソの死が「怪死」になる
必要性が全く生じません。なぜならその価値判断の場合モモソは「間違った事
をやった人」となるので「悪玉にすればいい」ワケですし、或は「大王に殉じ
死を選んだ」(間違った故習に殉じたアワレなヒロイン)と言う表記が妥当と
なります。
モモソさんはましてや記紀では「子がいない」し「大王にも嫁していない」筈
なので、これは記紀上は「幼帝母でも何でもありません」ので、記紀では悪女
に描く事も、大王に殉じ死を選んだとも、「どちらで表記する事も可能」で、
「わざわざ怪死で描く必要性は全く無い筈」なのです。

でも、そうじゃない。という事は、この仮定の方が間違っている可能性が高い
と、このような解釈も発生して来るワケです。ハイ。

皇后殉死を非とした場合、神功の殉死セズはアッパレとなります。またモモソ
が仮に生前皇后の一人であった場合、(仮に)殉死し(てしまっ)たモモソ
さんは、記紀では「比較悪」にしか成り様がありません。しかし、そうできな
かった。(なぜなら、モモソが殉死である事を認めたら、モモソが大王に
嫁した事実記録をも明記せざるを得ない:注:ここはあくまで個人妄想)

「だから怪死ナンデス、記紀では」と成っている構図と考えた方が、
解釈的にはスムーズにつながって来る気もするが、ハイ、これは個人的感想。


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