【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その16at HISTORY
【ヤマト】纏向は王権の礎の地か【マキムク】その16 - 暇つぶし2ch2:日本@名無史さん
11/05/31 22:35:09.40
■過去スレ
その14 スレリンク(history板)
その13 スレリンク(history板)
その12 スレリンク(history板)
その11 URLリンク(2chnull.info)
その10 スレリンク(history板)
その9 スレリンク(history板)
その8 スレリンク(history板)
その7 スレリンク(history板)
その6 スレリンク(history板)
その5 スレリンク(history板)
その4 スレリンク(history板)
その3 スレリンク(history板)
その2 スレリンク(history板)
その1 スレリンク(history板)

3:日本@名無史さん
11/06/01 00:11:12.07

■滋賀・栗東で近畿最大級の琴出土 珍しい8弦か

共同通信2011/05/31
URLリンク(www.47news.jp)

 滋賀県栗東市の下鈎遺跡(しもまがりいせき)で、古墳時代初頭(3世紀)の琴の一部が見つかり、31日、同市教育委員会が発表した。
出土したのは弦を張る上板部分で長さ158センチと近畿では最大級で、市教委は「琴の全体像が分かる状態での出土は貴重」としている。

 針葉樹の板で、最大幅24センチ。中央には直径約2センチの穴があり、音響効果を狙った加工とみられる。割れた上板を補修するための樹皮の帯も残っており、大切に扱われた様子が分かるという。

 弦を巻き付ける突起が5個残っていたが、復元すると、8個だった可能性があるという。古代の琴は5~6個のものが多く、市教委によると8弦琴は非常に珍しい。

・下鈎遺跡で出土した古墳時代初頭の琴の上板部分=滋賀県栗東市
URLリンク(img.47news.jp)


※下鈎遺跡(滋賀県文化財学習シート 遺跡編)
URLリンク(www.pref.shiga.jp)

4:日本@名無史さん
11/06/01 03:36:06.46
>>1
乙!

5:本田
11/06/01 06:35:37.06
歴史における「真実」とは
URLリンク(www63.tok2.com)
しかも日本史学会や、考古学会は学際的な研究をほとんど行ってこなかったし、
学際的な研究がどうも嫌いなように見受けられる。
日本史学会などは国内においてすべてが完結してしまう学会である。
これこそ万邦無比と言うしかない特殊性である。
ヨーロッパや中国史の研究は国際的に為されており国際的学会が存在し活動している。
しかも、いくら自国の歴史を歪曲しようとしたところで
その国の歴史を見つめ記述してきた他の国からすぐに指摘を受けてしまう。
日本史は客観的歴史記述が事実上中国文献しか存在しないということもあってか、
外国の研究者がほとんど存在しない。
そのため日本史を研究し論じるのはほとんど日本人だけのため、
どうしても日本国家と国民にとって心地の良い日本史を作りがちである。
教科書の記載もはっきりした表現を巧妙に避けながらも「日本人は大昔から日本国に住んでいたのだ」という考え方を植え付けるように書かれている。
このような戦後の日本史業界を支配している、
「単一国家・単一民族」思想とそれに基づく「大和朝廷国内自然発生説」は、
充分に疑ってかかる必要がある。

6:日本@名無史さん
11/06/01 06:48:46.65
>>1

黒歯国の工作員  乙

7:日本@名無史さん
11/06/01 10:20:56.00
朝鮮人は劣等民族だから、好き勝手にやらせておくとどこへ行くかわからんほど
間違ったことをしでかす。
もう一度日本の植民地支配が必要だな。

8:日本@名無史さん
11/06/01 17:56:22.77
誤爆乙

9:日本@名無史さん
11/06/01 20:19:06.73
元伊勢を辿る旅に出てくる

10:日本@名無史さん
11/06/01 21:59:40.39
卑弥呼は倭迹迹日百襲姫命で確定的ですか?
内藤湖南の垂仁天皇の皇女倭姫命説はダメですか?


11:日本@名無史さん
11/06/01 22:05:10.19
倭迹迹日百襲姫命や倭姫命、豊鍬入姫命でもよいが、これらの人物が一人一人実在であると
見るのはなかなか難しい。ヤマトタケルがヤマト王権伸長期に各地に派遣されて戦った多くの
皇子たちの姿を集合した像であるとする説があるように、これらの姫命もシャーマン的な役割を
王権内で司っていた女性の象徴として記されているのかもしれない。

12:日本@名無史さん
11/06/01 22:32:24.66
箸墓の伝承が面白いから、つい卑弥呼に結びつけてしまうんだろうな。

考古学上、箸墓は、その後の前方後円墳の定形化という意味で画期的な古墳。
紀では、少しばかり神託が出来る皇女の1人であるにも関わらず、その死や墓の造り方まで事細かに載せている。この異常さは何か?

13:日本@名無史さん
11/06/01 22:36:31.13
>この異常さは何か?

そう。この後、記紀には埴輪などの話はあっても、古墳についてはほとんど登場しないんだよな。

14:日本@名無史さん
11/06/01 22:51:34.08
三種の神器の一つ、天叢雲剣は銅剣だったという話って、どうなのかね。
熱田神宮のご神体を見たという記録にあるその形状から判断すると
どうも銅剣のもののようだという事だけど。
やはり初期ヤマト政権は鉄器に恵まれてなかったのかな。

15:日本@名無史さん
11/06/01 23:31:33.04
>>13
結局のところ、三輪山の宗教的権威を物語るために挿入されたんだと思う>トトヒモモソ媛の説話。
箸墓はおそらく三輪山祭祀の起源伝承とセットになっていて、最終的に巫女は悲惨な死を遂げ、三輪氏の祖である大田田根子(男子)が継承するという筋。

16:日本@名無史さん
11/06/01 23:33:30.15
>>15
ただ三輪山の祭祀遺跡とは箸中山は時代がずれてるんだよね。3世紀は三輪山が禁足地に
なっていたという説もあるけど。

17:日本@名無史さん
11/06/01 23:33:45.83
官僚機構などの政治体制が整備されてくると、宗教的権威は逆に邪魔になり、政治から排除されるようになる。
雄略の頃には三輪山神もすっかり零落してしまい、天皇の命を受けたスガルに捕縛されるまでに至る。雷で雄略を怖がらせたのは、せめてもの意地か。

トトヒモモソ媛の物語は、昔、三輪山神がまだ絶対的な権威をもっていた頃の昔話、神話だろう。

18:日本@名無史さん
11/06/01 23:50:18.67
箸墓の頃に三輪山が信仰の対象だったかどうかは確かに微妙だが、
後世に箸墓と三輪山信仰がセットになった、でも別にいいんじゃないかな?

そもそも三輪山山麓に昔、都があって、箸墓に巫女が葬られている、程度の記憶は残っていたのかもしれない。それが後世の三輪山祭祀と合わさって、トトヒモモソ媛説話が創られた。

トトヒモモソ媛の悲劇的な死は、父性原理が進展して、三輪山の神官が女性から男性に転換したことのメタファーだろう。

19:日本@名無史さん
11/06/02 00:46:11.37
>>18
俺もその程度の捉え方でいいと思う
考古学的に見ても、纏向以前の木製鳥器の出土などが、肝心の三輪山では全く確認されていないし
祭祀跡ともくされる遺構もない
当然纏向期にしても円形埴輪などは三輪山では確認されない、遺構も然り
ようやく早くて6世紀末か7世紀初頭ではないかと思われる巨石モニュメントが出現するわけだが
それ以前の三輪山を仮に禁足地だったとの仮定にしても、麓周辺に祭祀跡と見られるものが皆無だ

つまり三輪山信仰そのものが、かなり時代を下った頃に発生したものであり
纏向成立の頃には神格化されては居なかったと見るのが、現時点では正しいと思う
新たな発掘成果が出るまでは、関連性を論じるのは早計だろう

20:日本@名無史さん
11/06/02 00:52:35.31
ついでに言うなら、高千穂伝説などの山岳信仰そのものが
飛鳥以降に出来上がった概念ではないかとも思う
それ以前の山岳地帯の遺跡といえば、実用性重視の高地性集落くらいしかない
そしてそのどれもが宗教儀式を思わせる遺構が皆無であり、東大寺遺跡のように中規模集落として普通に生活していたものもある
とても禁足地として扱われていた形跡が見当たらない

これは九州でもそうだし、遡った東北・関東の縄文遺跡でも状況は同じだから
山岳信仰そのものが、比較的新しい概念として記紀に反映されているだけだと見たほうが自然だろう

21:日本@名無史さん
11/06/02 00:53:15.70
三輪山の祭祀は、現禁足地および周辺山麓から出土する祭祀遺跡と遺物の特徴として、
古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中。4世紀後半から
始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える。
6世紀には子持勾玉を用いた祭祀が盛んに行われ、須恵器も多量に出土する。

記紀でいえば、須恵器と陶邑出身の太田田根子との関係かねえ。

22:日本@名無史さん
11/06/02 01:03:36.96
>>21
いや
>古墳時代中期(4世紀後半~)から後期(6世紀)にかけての時期に集中。
これは祭祀遺跡じゃなく、いわゆる工房だよ
その場で作ってその場で奉納したにしては、あまりに扱いが雑すぎる
失敗作や割れた土器のゴミ捨て場の中で祭祀をしていたとするのなら話はまた変わるが

>4世紀後半から始まった磐座祭祀は多量の滑石製模造品、土製模造品を伴い5世紀後半にピークを迎える
磐座祭祀にしても、現在では4世紀後半開始というのは大方否定されている
簡単にいえば、須恵器も含めた中小企業の工場密集地帯みたいなものだろう


23:日本@名無史さん
11/06/02 12:04:29.60
前方後円墳の首長霊祭祀が確立した後で、原始的な三輪山信仰が始まるというのも、
奇妙な話しだけどね。

もともとマキムクが聖地で、三輪山が霊山として禁足地だったのが、
前方後円墳の首長霊祭祀の確立に伴い、三輪山祭祀様式も変化したと考えたほうがよいのではないか?
証拠が無い以上、断言はできないがな。





24:日本@名無史さん
11/06/02 16:24:25.81
で、箸墓はだれの墓か?布留0を280年頃とみれば卑弥呼の墓ではない可能性が高い。

25:日本@名無史さん
11/06/02 16:44:02.00
190以前     各地における天候不順、食糧不足などによる争乱多発。

190年頃     東海勢力、東瀬戸内勢力、河内や地元大和の勢力の連合により纏向遺跡が建都される。
           卑弥呼の共立。銅鐸祭祀の終焉。

200年代前半  石塚など早期の前方後円墳の築造開始。公孫氏への朝貢、画文の輸入開始。

240年頃     卑弥呼の魏への朝貢、吉備、山陰などの連合への参画、初期の三角輸入開始?
           卑弥呼倭王冊封により各地首長による纏向詣でが始まる。全国的な前方後円墳の展開。
           西新を中心とした大陸との交易。対狗奴国(東海?)戦争、東海の影響力低下。
           
250年頃     卑弥呼死亡、墳墓造営。男王擁立。東日本に高地性集落出現、東国への勢力拡大。
           庄内式土器の北部九州への流入、伊都国への一大率の設置?

260年頃     台与共立。九州での環濠集落の終焉。
           北部・東部九州への影響力拡大。南九州生目勢力と連合。

270年代以降  ヤマト王権の成長、国産三角製造。
     

26:日本@名無史さん
11/06/02 18:21:18.67
いや、しかし三角縁国産化、そんなに遅いですか?
景初四年の紀年鏡とか、同時代たがらこそ起き得る錯誤だと思うけどなあ。

27:日本@名無史さん
11/06/02 18:27:54.83
うーん、三画の系統研究から50年程度は同一集団が作っていたとみて。ただし最初から国産の
可能性もある。

28:日本@名無史さん
11/06/02 18:57:04.70
中国北方にもある「特異な規矩鏡群」と文様要素が関連し、その要素の変遷も並行しているから、始めから国産というのは難しいでしょう。
福永のD段階以降は国産の可能性はあるが。

29:日本@名無史さん
11/06/02 18:59:00.02
んー鏡師集団を招聘した可能性も捨てきれない。

30:日本@名無史さん
11/06/02 19:59:27.53
景初四年の三角縁やら、黒塚のバリ付きの三角縁や画文(公孫)>三角(巍)の扱いとかを見る限り、三角縁はかなり早い段階で国産化してた、と思うよ。

公孫氏と結びついてた畿内マキムクは当初画文帯を配布することで連合の結束を高めたが、
公孫氏が滅亡すると画文帯の流入がストップし、やむなく銅鏡国産に踏み切る。布留の頃の話。

31:伊作
11/06/02 21:18:12.38
●纏向・ミスってりツアー。

周知の既報。
天理大学のレーダー探査で、最古(3世紀前半築造)の前方後円墳といわれたホケノ山古墳は、
となりの堂ノ後古墳の周濠の一部を削ってつくられていることが判明した。
堂ノ後古墳を発掘したところ、出土した土器などから5世紀後半の築造だったいうことが分かった。

どうしてくれるんだ畿内説考古学のタコ野郎ども。

32:日本@名無史さん
11/06/02 21:26:28.95
>しかし、桜井市教委が今年(2009)6~7月に堂ノ後古墳の前方部を発掘したところ、5世紀後半の円筒埴輪や
 須恵器の破片などが見つかり、ホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった。
 同市教委は「レーダー探査で墳丘を前方後円墳と解明するなど、天理大の調査には一定の評価ができる。今後も
 古墳の調査には発掘を含めた総合的な手法が必要だ」と話している。

レーダー調査の画像は見たが、ホケノの周壕を切り崩してはいない。単に学生たちがそう見ただけのこと。天理大教授
もこの件に関しては勇み足だったとのコメントを出している。

33:伊作
11/06/02 21:30:31.66
●ボケの山ミステリー

5世紀後半築造の堂ノ後古墳の周濠の一部を削って、
3世紀前半築造のボケの山古墳がつくられた。

これが、ウソで固めた考古所見の末路国。
年代操作による意図国。まんま「ボケの山たい国」。

34:日本@名無史さん
11/06/02 21:37:17.87
わからんやつだな。堂の山の周壕うんぬんは発掘調査ではなく、地中レーダー画面を学生が
見て判断しただけのこと。しかも天理大が誤りだったとのコメントを出している。この話もさんざん
やってるので過去ログを見な。

35:日本@名無史さん
11/06/02 21:39:02.36
あんま触るなよ。放っておけ

36:日本@名無史さん
11/06/02 21:50:38.67
ホケノ山の土器は庄内ぐらいだろう?
5世紀じゃないよな。

37:日本@名無史さん
11/06/02 22:24:41.81
天理大の担当教官が勇み足だったとコメントしているのは記憶があるが、
間違いだったとは言ってない。

レーダーでそう見えるのは事実で、さらに調査を進める前に
公表してしまったのが勇み足と言っているだけだ。

どっちが正しいかは、結論が付いていないのである。


恐ろしくて調査できないような気もするのである。

38:日本@名無史さん
11/06/02 22:52:03.45
>>31
なんでお前は今更そんな嘘を書くんだ?
堂ノ後古墳は天理大学の勇み足だと「大々的に」報道されただろ
此処の住人がそれすらも知らんとでも思ってるのか?

39:日本@名無史さん
11/06/02 22:55:11.85
馬鹿を弄らぬようにw
嘘しか付けないんだから、このボケ九州説はw
今さら堂ノ後の話で笑いを取る奴が現れるとは思ってもみなかったw

よっ!自爆芸人w



40:日本@名無史さん
11/06/02 22:59:34.39
堂ノ後についてはたしかこのスレでも当時
地中探査のデータの読み方の難しさや、その制度などについて
スレの半分くらい使って皆で議論した覚えがあるな
院生の読み違いにしても皆同情的だったが、これを鵜呑みにして発表するとか天理大のリテラシーはどうなってんだとここは批判していたっけ

41:日本@名無史さん
11/06/02 23:08:47.47
地中レーダーは土壌や水道管の調査で慣れてる土建屋さん入れてやるべきなんだよな、ホントは。
学生がちょっと見てもわからん。

42:伊作先生
11/06/02 23:20:52.48
けっきょくは・うやむやか。わらわら

43:日本@名無史さん
11/06/02 23:36:04.36
>>42
お前が思うのならそうだろう、お前の中ではな

44:日本@名無史さん
11/06/02 23:45:38.47
>>23
どうなんだろう>>20の言うように山岳信仰は仏教思想由来の新しい概念だと考えたほうがしっくりくる

「三輪山周辺スゲー!どんだけ職人多いんだよ!」
「あれってさ、最近聞いたんだけど山には神とか仏とかがいて、その超能力を分けてもらえるんだって」
「へー!じゃあ三輪山にはカミサマいたんかいな」
「うーんそうじゃね?」
「どの山にもカミサマいるんだね!」
「まあ・・・そうかも」
「スゲー!三輪山のカミサマスゲー!」
「まあどうでもいいけど・・・何のカミサマなんだろうねぇ」

こんな感じで意味論を操る神というプリミティブ概念からは遠い事代主とかが創設されたんじゃないかな



45:日本@名無史さん
11/06/02 23:48:39.51
仏教思想って原理的に山岳信仰とはあわない気がする。
日本の仏教的山岳信仰は、むしろ神道と融合して
生まれたのでは。

46:日本@名無史さん
11/06/02 23:50:48.97
後代の修験道は根本は密教だけどね。まあ時代が違いすぎるか。

47:日本@名無史さん
11/06/02 23:57:53.64
>>11
倭迹迹日百襲姫命や倭姫命、豊鍬入姫命でもよいが、これらの人物が一人一人実在であると
見るのはなかなか難しい。ヤマトタケルがヤマト王権伸長期に各地に派遣されて戦った多くの
皇子たちの姿を集合した像であるとする説があるように、これらの姫命もシャーマン的な役割を
王権内で司っていた女性の象徴として記されているのかもしれない。

倭迹迹日百襲媛命=複数モデル 説か…
面白いと言うか、賛意を示しておきたいと思う

確かにヤマトタケル(古事記Ver)が複数の人物の事績を仮託したしたもの(丁度、聖徳太子と厩戸皇子に似るかな?)
…と言うのは意識していたのに何で今まで思いつかなかったのだろうwww

崇神の大叔母で武埴安彦との戦にコミットしたかなりリアリティのある人物と
三輪の蛇神との言わば「異種婚譚」とでも言う話の人物と
少なくとも二つの元ネタはありそうだw

尚、神が通い婚していてその姿を見られて逃げる…という話は
ギリシア神話プシューケーとエロース(キューピット)の話にも似ている気がするw
(まあ記紀神話には他にもオルフェウスの冥界巡りとかペルセウスが怪物の生贄の美女を救うとかに似たような話があるがw)




48:日本@名無史さん
11/06/03 00:06:46.82
>>45
大乗仏教とは相性が悪いが、チベット仏教のように仏は地上に非ず
むしろ高山のように天上に近い位置におわすみたいな地方仏教の概念も同時に輸入されているんじゃないかな
当時の学問が体系的に分類されていたとは考えにくいから

それとそれまでの遺跡に山岳信仰の痕跡が全く見つからないというのは重要要素かも
神道というか修験道的なサンカにしても平安期の発生だし、そもそも神道として体系づいたのは鎌倉期だし

49:日本@名無史さん
11/06/03 00:08:57.96
さすが畿内説!
宗教談義に花が咲く・・・と。

50:日本@名無史さん
11/06/03 00:14:04.00
>>47
トトモモソちゃんが複数モデルによる複合神話だというのは
大国が大嫌いなwww津田が戦前から指摘していたな

まあ氏の推論はあくまでも推論でしか無かったが、普通はそう考えるよなってところで
近年の民話・神話比較学でも伝来による短期間での神話体系の塗り替え(恣意的な意図なき)が頻繁に行われているというのは
前提として考えねばならないと思う

有名な「黒い瞳」の歌による民族的記憶の上書き事例によるまでもなく

51:日本@名無史さん
11/06/03 00:18:11.35
>>47
倭迹迹日百襲姫命の父の孝霊天皇を欠史としておきながら、その娘を実在とするのは
アンフェアじゃないかな。

説としては持統6年(692)に伊勢御幸があり、ここで伊勢神宮の祭神が伊勢大神からアマテラス
に変わった可能性が高い。これが倭姫命のモデルとなったのではないかと推測している。これらの
姫たちにはかなり後代の事績が投影されているのかも。

52:日本@名無史さん
11/06/03 00:29:28.93
山岳信仰と言うか所謂「神奈備信仰」とでも言うような物が纏向にあったかどうに関しては
>>18-19あたりと同意見。

度々言っているが伝承の宮の位置なら>>17に出てくるオオモノヌシをディスったはずの雄略の方が
纏向より三輪に近かったりするwww
現在分っている纏向の姿からは山岳信仰や太陽信仰というよりやはり水に関わる祭祀を髣髴させる。

山中の磐座はそこに「神を降ろす」仕掛けであって天空の神に近づこうという装置ではない。
祭りに神を降ろす「ヨリシロ」として高い木(=高木神)を広場におったてる様な天を祭る宗教で
やはり5世紀頃急速に日本に流入してきた北東アジア系の信仰ではないかと思う。

尚外出だが山岳信仰は後の密教の要素もあるし
中には妙見信仰に結びついている物もあることに留意した方がいいと思う。


53:日本@名無史さん
11/06/03 00:39:14.08
>>52
>祭りに神を降ろす「ヨリシロ」として高い木(=高木神)を広場におったてる様な天を祭る宗教で
>やはり5世紀頃急速に日本に流入してきた北東アジア系の信仰ではないかと思う。

5世紀と断定した根拠について詳しく聞きたいね。

巨木を立てた痕跡は、少なくとも平原に例があるが?


54:日本@名無史さん
11/06/03 00:43:16.06
巨柱を立てて信仰した例は縄文時代からあるよ。日本海側が多いかな。

55:日本@名無史さん
11/06/03 00:49:01.92
>>53
まあ両者を直接結びつける物は無いな、あくまで俺個人の想像と思ってもらって良い。

五世紀にかけ須恵器だの馬匹文化だのあるいは文字による系譜の記録だの
半島の文化が急激に入ってきたのは間違いないと思うが
その時に天孫降臨神話のような北東アジア系の神話も入って来たのだろうと思っている。


56:日本@名無史さん
11/06/03 00:49:18.30
鳥居は、インドのトラーナ、中国の華表、朝鮮の紅箭の関連を言われているな。

57:日本@名無史さん
11/06/03 01:02:14.93
三輪山が禁足地を伴う山岳信仰の対象であったのが
果たして三世紀にまで遡るか否かという議論は面白いな
個人的には後の輸入思想の影響大だとの説のほうがしっくりくるが
ここで考古学的な裏付けは>>21>>22のどちらが正しいのだろうか?
我がつたない知識では>>22のいう工房説のほうが一般的だと聞きかじっているが

58:日本@名無史さん
11/06/03 01:20:26.16
>>55
貴方が思うのは勝手だが、
それなら俺は、稲作伝来と同時期に流入してきたと思うことにするよ。

民族の起源神話が、大王が立ってから農業も鍛冶も盛んな5世紀に形成とはちょっと考えられん。


59:日本@名無史さん
11/06/03 01:23:49.56
>>57

三輪山信仰が4世紀以後としても、別にかまわんが、
それはそれで記紀の記述を、考古学が裏付けることになる。

箸墓が作られた頃に、三輪山信仰が始まったことを、7世紀の人は記憶してたわけだ。
ただ、箸墓の被葬者と三輪山の巫女が同じモモソヒメかどうかは、わからんがね。


60:日本@名無史さん
11/06/03 01:28:12.28
内容:
>>52
反論ではなく>妙見信仰、これは取り扱い要注意事項だと思う
というのは相当に後世に体系づけて出来上がったいわゆる、齟齬や矛盾を理論的に解決しましたという知的整合性を有した辻褄合わせの部分が強いから
悪く言えば詭弁みたいなもので、それまでのプリミティブな伝承を美味く関連付けたよく出来た物語の結晶でもある


61:日本@名無史さん
11/06/03 01:29:53.96
>>58
まあこちらとしても最後まで詰める材料が無いし
どうせ平行線をたどるのが分っている話を引っ張るのもスレ違いになるので望む所じゃないが

神話中の時系列で古い部分は古い元ネタに基づく…と言うのは
少し柔軟に考えた方が良いだろうとは思うw

例えば高天原に馬が出てくるとか…まあ言い出したらきりがないがwww




62:日本@名無史さん
11/06/03 01:33:16.06
>>58
起源神話の保存と新文化の流入を、そのまま在地を新文化が凌駕したというのは早計ではないかな
元からあったものに、後付的な体系がくわわってさももっともらしくなるってのは
昨今のラノベやアニメで散々やりつくされている、ある意味古典的な神話体系発生の手法だろう

63:日本@名無史さん
11/06/03 01:36:38.55
>>22
>>57
我がつたない知識では>>22のいう工房説のほうが一般的だと聞きかじっているが

ソースを開示してくれ
つまりな、三輪山工房説を主張している学者さんは誰々よ?

64:52
11/06/03 01:37:21.46
どうも余計な話を入れてしまってスレ違いな内容になっているのはスマンw

まあ要するに現在の纏向に(三輪を対象にした)山岳信仰だの太陽信仰の跡は中々見出せないと言う
このスレで過去散々言われて来たお話ねwww

65:日本@名無史さん
11/06/03 01:43:42.60
>>61
高天原は、明らかに7世紀の創作だからどうでもいい。

>>62

根拠を示さず、恣意的に、あれは古い、あれは新しいと言うだけでは、貴方も俺もレベルは同じだろ?

神話は史実ではないのは当然としても、断定的に否定するなら、相応の根拠を示して欲しいわけよ。

66:日本@名無史さん
11/06/03 01:45:10.31
>>65
>高天原は、明らかに7世紀の創作だからどうでもいい。

高木神が出てくるのが高天原なのだが・・・



67:日本@名無史さん
11/06/03 01:53:43.54
三輪山の山ノ神遺跡なら、
・4世紀後半~5世紀前半の碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
・5世紀後半~6世紀初め滑石製模造品・土製模造品など

これらが出土していて、辺鄙な山中で工房跡ということはないよ。

68:日本@名無史さん
11/06/03 01:56:13.97

『三輪山周辺の岩石祭祀事例』

URLリンク(f1.aaa.livedoor.jp)

69:日本@名無史さん
11/06/03 01:57:36.34
あと文武即位(697年)の詔に「高天原」が出てくるけど、アマテラス活躍の舞台が整ったのは
確かにその頃だろう。

70:日本@名無史さん
11/06/03 01:57:59.41
>>63
誤解なきように三輪山工房説ではなく、三輪山麓周辺にある工房遺跡についての話な
これを宗教施設として見るにはあまりに雑多すぎるということで
逆に宗教施設として考査する学者を知らないというか、そんな論文や著書を見たことがないということ
有名所でも寺澤、石野、都出などにしても、三輪山周辺の4,5世紀の遺構を
三輪山山岳信仰に結びつけて、これらの遺跡の多さ故に三輪山が聖地であったという結論に持っていったものは見たことがない

つまり美輪さんを頂点とした禁足地信仰に結びつける根拠は、今のところ一切無いということだ
逆にそれを本気で主張する論文があるのなら教えてくれ
>>52の言うように水(河川)との関連のほうが近しいと考える

71:日本@名無史さん
11/06/03 02:05:34.31
天照大神=伊勢大神も、もとは川の神らしいね。


72:日本@名無史さん
11/06/03 02:06:06.89
>>68
ちょっと待ってくれ
山ノ神遺跡の出土物(というか発見物)は土中からではなく
千年以上もその磐座の背後に鎮座ましましていましたという触れ込みで
実年代も実測されていない(私有物であるため所有者の同意が得られない)保留事項のシロモノだろう

それを
>・4c後半~5c前半:碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡など
>・5c後半~6c初頭:滑石製模造品・土製模造品(鏡・剣・玉に類似した模造品が多い)

と鑑定(調査ではない)したのは一体誰なんだ?




73:日本@名無史さん
11/06/03 02:16:11.36
>>72
『大神神社境内地発掘調査報告書』奈良県立橿原考古学研究所編集 寺沢薫 から

74:日本@名無史さん
11/06/03 02:25:04.26
神話の話と一緒で、碧玉製勾玉・剣形鉄製品・小形素文鏡が、全て同時期に4c後半~5c前半に奉られた証拠は無いよね?
バラバラの時期に作られたものが、バラバラに奉られて、何百年かの間に人の手で奉りなおされていったなら、
いつの時代の遺物かなんて容易にわかるわけがない。

75:日本@名無史さん
11/06/03 02:27:56.19
>>73
申し訳ないが、それは形式及び形態特徴からの診断であり
その当時の形式に非常に酷似しているという、寺澤氏の論文の前段階での引用だね

しかし論文を最後まで読めば一目瞭然だが、この形式が山ノ神遺跡出土という確証はなく
(寺澤氏ら橿原考古学研究所が直接発掘したものではない)
さらには後世の模造品である可能性も多々ありという、まさに保留事項のものだったはずだが
貴方は同論文を直接読まずして、そに恣意的な部分を抜き出したどこかのサイトや新書を鵜呑みにしてはいないか?

原文は橿考研のサイトでPDFで読めたはず
もし登録制だったならお手数だが照会してアクセス許可をとればいいかと

76:日本@名無史さん
11/06/03 02:38:25.12
安本と同じ手法で騙しにかかる奴は、やっぱ畿内説にもいるんだ

詐欺って応用が効く普遍的なやり口なんだなw

77:日本@名無史さん
11/06/03 04:57:05.39
ちょっと面白い話でスレ違いすまないが
それって某神社の縁起録の鑑定で
A大学のB教授がほぼ後世の創作だと論じたのに納得しなかった神社が
C大学のD教授に再鑑定を依頼して
結論はA大B教授とほぼ同じだが、本物の可能性が0%とは言えないという表現を

C大D教授の鑑定によれば・・・という、例の斑目原子力安全委員会委員を拡大解釈して
立て札にして観光客集めしているようなものなのか?
京都の有名陰陽師の神社みたいに

78:日本@名無史さん
11/06/03 22:44:29.09
出現期の古墳が山の尾根の先に築造されてるから、山岳信仰がそれ程新しいとは思えないのだが。
国見とか国誉めの習俗は、出来るだけ高い場所に行き、国を誉めることで豊穣を祝う儀式。

79:日本@名無史さん
11/06/03 22:49:20.92
そもそも三世紀の邪馬台国が「山」を国名につけてるんだから、山岳信仰は少なくとも三世紀には遡れるだろw

80:日本@名無史さん
11/06/03 22:51:02.56
崇神天皇
武埴安彦 卑弥弓呼 
倭迹迹日百襲姫 卑弥呼 
垂仁天皇
狭穂彦の乱
倭姫 台与

81:日本@名無史さん
11/06/03 23:12:51.57
いや、だからさ、
記紀の崇神の頃はほとんど説話文学の時代だから、
安易に史実を求めちゃダメだよw

実際のところ、記紀が編纂された八世紀には、卑弥呼が誰か解らなくなってたんだし

82:日本@名無史さん
11/06/03 23:44:26.58
>>78
三輪周辺が工房で密集してたなら、山岳信仰はあったんじゃねーのかな
工房が沢山あったなら薪を大量に消費してただろうし、その産地としての山は職人達にとっては身近にある大切な物だったわけだしさ

実際沿岸部なんかは海の神様より、山や木の神様信仰してる事が多くって
何でかってゆうと海に出るための船の原料が樹木であり、産地の山を信仰の対象にしたそうな

83:日本@名無史さん
11/06/04 00:02:55.45
>>72
出土物と発見物は違うのだね
ちょっと勉強になった

84:日本@名無史さん
11/06/04 05:53:31.76
>>78黎明期古墳はその構造上の理由から平地でなく尾根などに築かれているんじゃなかったか
つまり元からあった微高知を基本に盛土をして前方後円墳に仕立て上げるというように
宗教的な意味合いより、物理的工法的な理由で

85:日本@名無史さん
11/06/04 09:09:25.60
体積を稼ぐ意味で尾根上に造ったのか、被葬者に国を見守ってもらいために見晴らしの良い場所に造ったのか。
その両方、てのが一番妥当な気がするが。

86:日本@名無史さん
11/06/04 17:24:56.37
伊勢遺跡

87:日本@名無史さん
11/06/05 01:24:39.84
ここらで原点に戻って>>1の是非を考察してみないか?

老教授による>>1はかなり緻密な考古事実による考察を簡易な言葉で、しかも各説に考慮して一般論のひとつとしてまとめたものだし
それも何年も前の話だろう

どこかの任意の一つの勢力が単独の力で制服や建国を成し得たとは考えられないというのは
ここの住人のほとんどが同意する事項だろう

では纏向成立のたとえば6割を引っ張ったのが河内大和なのか
いや吉備が5割以上、いやいや北部九州が主導8割とか、何を言う東海が9割以上だろうとか各自色々あると思うんだ

でやり方として、可能性の低いものから潰していくというオッカムの剃刀を使って
まず九州からの武力侵攻はない、畿内の武力西征もないというように、無いものから消してゆき考慮するべき可能性を論じるってのはどうかな

88:日本@名無史さん
11/06/05 04:30:36.89
>>87
原点回帰は賛成。
で、テンプレ読んで前々から疑問に思ってたんだが、

>>1
>その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり

ここで老教授は、なぜか「河内」を抜かしてるね。
単なる書き忘れなのか、それとも意識的に抜かしたのか・・・
もしわざと「河内」を入れなかったとするなら、なんか深い理由でもあるのだろうか?

89:水銀厨
11/06/05 07:10:26.82
何故か河内を皆避ける傾向がありますね。
重要な土地なのは当然だと思いますが。

90:日本@名無史さん
11/06/05 08:50:39.79
本人じゃないからわかんないけど、入れ忘れっぽいような
この>>1の文章自体が、久々に出てきて酒飲みながら書きましたって雰囲気だったように記憶してる

でもわざと外したと解釈したほうが面白いからw
そっち方面で考えてみると
弥生後期の河内は北部九州の縮小版みたいな感じで
全く一枚岩とは言い難いのよね
すでに出雲なども東西で文化層が違うとかあるけど、これは出雲と一括りにするのがそもそも乱暴で
河内みたいに湿地中心で微高地が少ないところで、小中規模集落が乱立し
そのひとつひとつが独立して強い連立がないというとこは珍しいように思う
だから主導するには至らず、もっと大きな事業主体(王権?)が出来始めたときに
下請けのように仕事を求めて各自がバラバラに参画したみたいな雰囲気だったとしたらどうだろう

91:日本@名無史さん
11/06/05 10:41:10.28
河内はひとつのクニというより、他のクニから上陸した人がつくった集落群しかないんじゃないの?

河内がマキムクを開発とかは無いでしょ。

92:日本@名無史さん
11/06/05 14:34:58.52
庄内甕で熱効率革命をもたらした河内が単なる集落群だなんて

93:日本@名無史さん
11/06/05 14:56:46.31
>>92
そういう意味では非常に優秀な技術を持つ、中小企業群みたいな技術者集団だったのかも
東海のように組織的に労働者を送り込んできた勢力とは、何かしら行動原理そのものが違う気がする
吉備・出雲・阿讃などは>>1のいうように時期の差はあるんだろうが
積極的になんつーか政策みたいな感じで一体化して纏向を目指すみたいに
総合的な技術と輸送力、人材を送り込んでいるのに、なんか河内はそういう組織だったところがない

94:日本@名無史さん
11/06/05 15:14:28.17
そして弥生後期の河内の大和川流域では、すでに外来式土器の出土率が当時としては突出する集落遺跡が複数あるんだよな
それも集落ごとに吉備だったり山陰だったりで完全に別れている
これは吉備と貿易する集落、出雲と貿易する集落と、ほぼ完全に住み分けしていたことになる、この狭い地域で
そして加美遺跡や東大寺遺跡のように、東海まで含めた外来式が出土するようになり
同じ時期にに唐古・鍵がこの時期ゆるやかに衰退していく

大和川が纏向の時代になっても直通で川上リができなかったという説も浮上しているし
纏向の政治的宗教的主体になったのではなく、技術的あるいは商業的なノウハウをその小さな集落が各自持っていたという
職人&商売人たちが底上げするように関与したのかも知れない

第一河内を経由せねば、西と東の物流など不可能だったろう
大和→山科→近江→若狭という日本海ルートもおそらく当時からあったはずだとは思うが

95:日本@名無史さん
11/06/05 15:37:25.38
ついでに書くというか教えていただきたい部分なのだが
>>93で「東海のように組織的に労働者を送り込んできた勢力」と書いたのは
もちろん北条説の受け売りなのだが、過去スレの老教授の書き込みによれば
東海は畿内や九州より一世代ほど前に集落再編成が始まっていて
2世紀末の纏向建設時には、すでに大きな勢力として一本化していたとさらに踏み込んでいるのだが
それを裏付けるというか詳しく解説した著作とか、どこかにないものだろうか

論文名は明記されていたが、どうやら一般にはウェブでも開放されていないようで
当方は休日の図書館めぐりぐらいでしか資料入手ができないので
閲覧可能な大学とか教委とかがあればぜひとも教えていただきたい
有給とって日帰りで見に行くくらいの気概はあるのでお願いします

96:ひとぶた
11/06/05 15:40:28.33
>>94

テンプレの件はともかく、
私はヤマト王権の母体は、吉備、播磨、阿讃や瀬戸内の水上勢力の影響を受けた河内の地で形成され、
それが後に纏向へ移転したのだと思いますよ。
文化的、経済的融合が生じる地理的特性は、対東海条件を除けば、河内の方が強いですから。

97:日本@名無史さん
11/06/05 15:57:16.04
>>95
論文名がわかるなら、明記してくれよ。
調べられないだろ。

98:日本@名無史さん
11/06/05 16:00:10.04
>>96
つまり東瀬戸内の経済圏が先に出来上がっていて
それが東海北陸も視野に入れたか、あるいは東海北陸がそれに目をつけたかという
双方の利害が一致したというのが源流にあって、新設の交易拠点として纏向が築かれたという解釈でいいのですかね

ただそこで疑問なのが、わざわざ纏向を新設した理由って何なのだろう
唐古・鍵を再開発するとかで十分用は足りたような
あるいは伊勢遺跡でもいいし、加美遺跡の拡大でも良かったというかそっちのほうが手頃で簡単だったはずなのに
わざわざ未曽有の造成をしてまでハコモノを創った理由とはなんなのだろう
広域王権の存在はその時代には想定できないのだから、そこがまさに纏向のネックとして引っかかる

99:ひとぶた
11/06/05 16:07:28.12
>>98

>唐古・鍵を再開発するとかで十分用は足りたような

大和盆地の旧勢力は、保守的で初期の連合には非協力的だったんじゃないですかね。
庄内式の受容が見られないとか言う事実から、纏向参加勢力とは、若干の断絶感がみられるような・・・


100:日本@名無史さん
11/06/05 16:14:08.96
>>97
村山恭通 1992 「中九州における弥生時代鉄器の地域性」
明治大学考古学博物館館報 1991 「弥生時代石器の基礎的研究」
論文集「中部の弥生時代研究」

コピペですがこれらが挙げられていました

101:日本@名無史さん
11/06/05 16:19:37.13
>>99
芝遺跡のように纏向が前方後円墳をつくりまくった時期でも参加しなかった集落も、奈良盆地内にはあるけど
唐古・鍵などは人形水路の水底に並べられた鳥型や
纏向と同時に再編成して当時としては近代都市に生まれ変わる事実をみると
唐古・鍵だけが協力的だったのか、それとも衰退の一途だったのが、カネに誘惑に負けたのか
今の段階では色々考えられるので、考えがまとまらないのですよ

102:日本@名無史さん
11/06/05 16:33:17.67
>>100

明大の図書館は、人物証明ができれば一般(OB、地域住民以外)の方でも利用できますよ。
自分のとこの発行物なら必ず所蔵してるでしょう。
他の館にも所蔵されていて、そちらで閲覧可能なら断られれますが。

103:日本@名無史さん
11/06/05 16:38:15.13
>>98

唐古・鍵は庄内式でてるんじゃないの?

104:ひとぶた
11/06/05 16:44:08.35
>>101

>唐古・鍵などは人形水路の水底に並べられた鳥型や

鳥型は、私的には穀霊信仰レベルのモジュールなので、纏向以前に有ってもOKかと。

>纏向と同時に再編成して当時としては近代都市に生まれ変わる事実をみると

同時かどうかは微妙ですが、激しく影響は受けているところではあります。

>考えがまとまらないのですよ

これは、私も同感かとw

105:日本@名無史さん
11/06/05 16:49:03.82
>>102
早速照会して申し込んでみます
久々の東上ですが楽しみです
>>103
それが逆に頭を抱える材料で
もし唐古・鍵が纏向造成や拡大と共に衰退するのなら、それはそれで分かりやすい
しかし事実は違う、大福遺跡も再編成再開発の兆しもある
じゃあ奈良盆地がこぞって大歓迎かというとそれも違うし
現在の奈良県針に点在する名阪高速に沿った遺跡群にしても
纏向で飛び抜けた東海外来式の割合を底支えするパーセンテージの底上げが見当たらない

なんか纏向だけ突如、土器が空を飛んできたみたいに突然集まるのが不思議すぎる
その前段階が今のところ見つからなさ過ぎる

106:ひとぶた
11/06/05 16:50:29.06
>>103

>唐古・鍵は庄内式でてるんじゃないの?

環濠の埋立てに使われたやつですよね。
書き方が拙かったです。
私の書いた「受容」とは「製造する」の意味にとっていただければと思います。

107:水銀厨
11/06/05 16:58:55.49
何故河内から巻向なのかと言うと、
三輪周辺の丹の山の存在という事ですよ。
桃や鏡に水銀朱と揃うのですから。

勿論物流の為の水運や防衛上の地の利もありますが。

108:日本@名無史さん
11/06/05 17:47:33.69
桃や鏡に水銀朱では、実用品や実戦に役立つものじゃないよね。
そこまで宗教にどっぷり漬かる余裕があるかどうかだな。

109:水銀厨
11/06/05 18:57:39.02
生活の痕跡が何も出ないという事はそういう事です。
この周辺が鉱山に関する交易場だった事は、
後の海柘榴市という名前からも判る事ですよ。

110:日本@名無史さん
11/06/06 15:17:30.74
何言ってもだめだよ
この人水銀に犯されてるから

111:日本@名無史さん
11/06/06 15:42:39.19
お気の毒に…

112:水銀厨
11/06/06 19:49:34.05
私にとってそれは誉め言葉ですねw
でも以後間違いなくこの主張が証明されてゆきますから。

113:日本@名無史さん
11/06/06 20:09:19.60
「河内」は中期には等間隔に並立する拠点集落を中心とした地域構造ができあがっていた。
それが中期末に拠点集落が消滅する。代わって高地性集落が出現する。
拠点集落消滅の原因は、洪水によるものという説、農耕技術の革新により大規模な労働力の集約が必要なくなったという説、がある。

ではその後の後期の「河内」の様相はどのようなものであったのか?

終末期環濠拠点集落の解体、散村化は、首長権力が確立し集落外への居館建設、と一体になって考えられているのではなかったか。
すると後期の河内では拠点集落中心の地域ブロックが解体し、より広範囲を統率する首長が出現していたといえるのだろうか。
しかし実際にはそのような存在を示す首長墓はない。
拠点集落もなく、首長墓もなく、中小の集落が点在し、水稲耕作は発展している。いったいどうなっていたのだろう。

114:日本@名無史さん
11/06/06 20:10:29.87
中河内に新たな集落群が現れるのがマキムク建設と同時期だという。
これらはマキムクと同様に外来系土器の比率が高い。
そしてそれらの集落はマキムクと同時に消滅する。

庄内甕は畿内と吉備の製作技術の融合だという。
瀬戸内航路の終着点が河内。さらに東の地域との結節点が大和盆地ということを考慮すると、
外来系土器に見られる地域の人々がやって来て交易していた、とは言えるだろう。

では「河内」の人々はどうしていたのか?
終末期に現れた新興集落は、外来系の人々が建設したのか地元民が建設したのか?
以西の地域と東日本との交易の仲介を果たしていたのか? マキムクも同様の流れだったのか?

115:日本@名無史さん
11/06/06 22:28:56.74
中河内がマキムクの最初からの主要構成員のひとつなのは間違いないだろう。
老教授が河内を抜いたのは、酔っていてたまたまのド忘れか、もしくは「大和」と書いてるが実は「大和川水系の首長連合のこと」という認識があったのかもしれない。あくまで推測だが。

俺自身は大和=中河内連合がマキムクの主体になったと思っているので、余り旧国名に拘らなくて良いと思ってる。
古代日本の陸上交通は貧相で、川沿いの道や河川の両岸から筏を引っ張り上げるという水運などで、密に交流があり、それら集落同士がやがて連合、同族化していき、やがてクニになるのだと思う。

116:日本@名無史さん
11/06/06 22:39:43.30
日本神話から見られる、山vs海の相剋の物語は、実は内陸部(大和、東海)vs東瀬戸内(河内、阿讃播、吉備)じゃないのかな?

その2勢力の中間地点、緩衝地帯だったのがちょうどマキムクで、大和川水運が陸路山辺の道に切り替わる場所だった。

その2勢力から少し距離を置いたところで、淀川や琵琶湖水運の首長連合がいるというのが、初期ヤマト王権の実態ではないか?

117:日本@名無史さん
11/06/06 23:03:03.59
大和外からの搬入土器の内訳
東海系49%、北陸・山陰系17%、河内系10%、吉備系7%、近江系5%、関東系5%、播磨系3%、西部瀬戸内海系3%、紀伊系1%

しかし纏向1式では、東海、吉備、北陸・山陰、西部瀬戸内、近江の5地域。
河内の登場は、関東、播磨、紀伊とともに纏向2式になってからの登場。

118:日本@名無史さん
11/06/06 23:12:11.49
>>116
海彦山彦の話?
単に縄文時代の名残を残した説話だと思う。
農業が重要になった弥生以降の話にしては
生産手段が狩猟と漁業というのでは不自然だから。

119:日本@名無史さん
11/06/06 23:27:13.48
>>115
旧国名に拘らないほうがいいというのは極めて同意
単に都道府県で区切るよりさらに細かいしまだわかりやすいから便宜的にそう表現するだけで
誰もが知っているように筑前も筑後も、河内も大和も弥生・古墳期にはそれぞれひとつのクニどころか
同一グループとして、いわゆる”面”としてはまとまっていない

それを踏まえて”大和川流域グループ”というのが纏向黎明期やそれ以前に
本当にグループとしてまとまっていたか否か
まとまりではなくとも相互に貿易し、極端な話だがある集落は玉を特産品とし
またある集落は東瀬戸内各地からの輸入品を仕入れる商店であったとかの特色が分かってきたら
ひいては当時の交易実態にも迫れるのではないか

120:日本@名無史さん
11/06/06 23:29:11.99
>>112
水銀朱の扱いが軽くなっているというか、忘れられかけていない?

最近水銀朱を話題にしてるのは水銀厨さんだけのような。

121:日本@名無史さん
11/06/06 23:33:08.85
纏向以前は銅鐸グループだろ。唐古だって近江や東海と近いんだろう。

122:日本@名無史さん
11/06/06 23:33:19.09
素人ですみません、宇佐以外で埋葬された遺体に水銀朱が塗られてた例ってあるんですか?

123:sss
11/06/06 23:44:29.78
>>122
吉野ヶ里遺跡の甕棺からは、朱を含ませた布を顔にかけていたものが出てきたなあ。

124:日本@名無史さん
11/06/06 23:50:18.46
桜井茶臼山古墳から水銀朱200kg

125:sss
11/06/06 23:51:58.51
>>124
やはり、水銀朱は貴重という前提が間違っていると思う。

126:日本@名無史さん
11/06/06 23:54:13.89
貴重だから大量に使うのがステータスなんだろ

127:sss
11/06/06 23:55:53.36
水銀朱は、辰砂をすり鉢ですりつぶせば出来るものだし。

128:日本@名無史さん
11/06/06 23:58:27.37
>>117
外来系土器をどう解釈するか?で変わってこないかな?

例えば、東海は大和の最大の交易相手とされるけど、東海からは畿内の土器は余り出てこない。
土器の多寡=親密さ、てのは少し単純過ぎやしないか?

129:ローガン
11/06/07 00:04:06.38
まあ、神話はよくわからないけど…
拡散した大和庄内の胎土にある流紋岩質岩起源の砂礫。
「大和盆地には広域には存在せず、東部の山地から流れ出る 初瀬川の砂礫に混ざっている程度である。(中略)
つまり、西日本各地に出土している庄内大和型甕は、地元で製作されているものを除けば、
大和で製作されたものではなく播磨で製作されたものであるということが、胎土観察の結果から明らかになってきた。」(庄内土器研究Ⅰ 1992 米田敏幸)
とは、環瀬戸内説の水銀厨氏に送る塩。


130:日本@名無史さん
11/06/07 00:11:15.57
庄内大和型甕という名前だが庄内播磨甕とな?

131:水銀厨
11/06/07 00:16:09.87
まぁこの3世紀前後の巻向周辺の土地で、
一体何が貴重な物かというと、水銀朱の存在しか無い訳ですから。
これ無しで一体何を語るというんでしょうねw

大体大和天神山古墳のように水銀朱自体が埋蔵主という例もありますから。



132:水銀厨
11/06/07 00:19:34.02
神話と塩で思い出したけど、弥生以前から大和の塩は竹之内経由の流通ですな。


133:日本@名無史さん
11/06/07 00:39:49.41
>>132
弥生以前の塩の流通経路がわかるの?

134:日本@名無史さん
11/06/07 01:09:16.81
継体天皇領は判明したよ。纏向まだぁ?チソチソ♪

【Full HD 1080p】 いましろ大王の杜 継体天皇陵 今城塚古墳 埴輪
URLリンク(www.youtube.com)

135:日本@名無史さん
11/06/07 01:20:32.13
>>128
なぜ東海が交易相手なの?
巨大古墳を作るために東海から動員された人が土器を持ち込んだ
奉仕労働として代わる代わる一定期間定住したから、土器が東海の特徴を保ち続けたんでしょ

136:日本@名無史さん
11/06/07 02:16:58.66
>>135

東海が労働者を送ったとして、タダ働きなわけないだろ。
食料とかはどこから調達したの?
大和で食料がありあまってない限り、東海から食料も調達したはず。
そこまでして、東海の労働者がマキムクで奉仕する理由は?
鉄器や鏡がもらえたわけでもないのに。
前方後円墳祭祀とも距離を置いていたようだし。
かといって、当時の大和に、東海を征服するような力は無いよね?

大和と東海とは労使関係でなく、対等の交易をしてたとしか考えられないと思うが。


137:日本@名無史さん
11/06/07 08:17:38.61
壺や甕なら東海の産物を畿内に運び込んでいたというkとで
食器なら人が東海から畿内に移住したということだろう。

で、畿内で発掘される東海土器ってどんなの?

138:日本@名無史さん
11/06/07 09:11:46.66
食器も産物だったら?

139:日本@名無史さん
11/06/07 09:18:50.45
東海が食器の生産工場ならそれもありかもね。

140:日本@名無史さん
11/06/07 09:45:02.27
URLリンク(www.bell.jp)

奈良盆地の弥生後期の遺跡からは、他の地域との交流を示す地方の土器が見つかっている。
まず弥生中期後半から後期前葉にかけて多く見られるのが瀬戸内海地方、とくに吉備地方の
土器である。唐古・鍵遺跡などから吉備系の大型器台や壺が出土している。だが、後期中葉から
後葉にかけて、吉備系土器の出土例は少なくなる。この系統の土器の出土が再び増えるのは
後期末から古墳前期にかけてだそうだ。

河内系の土器は弥生時代の全期間を通じて見られるが、後期に目立つようになるのは、近江系の
土器である。口縁が受け口状で、櫛描門や突帯で飾られた甕や鉢が特徴的な近江系の土器は、近江
から直接運ばれたものだけでなく、在地で真似て作られたものも多いという。

141:日本@名無史さん
11/06/07 09:48:48.73
つづき

後期後半になると東海系の土器が増加してくる。奈良盆地の東部を中心に、ほとんどの遺跡で東海の
影響を受けた土器が出土するようになる。近江系土器によく似た形状をしているが、赤い塗料で文様が
描かれている。ただし、後期後葉の遺跡から出土するものは、いずれも在地で作られたものらしい。東海
地方から直接運ばれてくるようになるのは、後期末から古墳前期になってからとのことだ。

142:日本@名無史さん
11/06/07 14:55:09.26
>>141にある東海のパレース式もそうだが
最近は外来式土器と呼ぶ人が増え、従来の搬入土器で一括りにしなくなったのが
このような在地制作型外来式が時代ごとに区分されるようになったからだね

東海に関しては纏向に外来式が非常に多い理由として
東海地方で広範囲に混乱が起き、大量の難民がほとんど着の身着のまま畿内に来たという考え方と
東海のまとまりが畿内より早く、組織的に労働力を送り出してきたという考え方、このふたつがあったが
これらも>>141にある在地制作の外来式と、搬入外来式の時代のずれを根拠に考えられた
今は上の方にあったように、後者の東海からの派遣者という考えの人のほうが多いのではないか

143:日本@名無史さん
11/06/07 17:14:43.10
東海がマキムクの大スポンサーだったのはそうだろう。
で、その見返りは、瀬戸内海航路から流れてくる大陸利権しかない。土木や機織りなどの新技術や、鉄や鏡などの舶載品を求めた筈。
弥生後期、権力の不在で瀬戸内海には海賊が横行、各々勝手に通行税を取って、東海にたどり着くまでにはかなりの割高になっていた。
東海にとって、マキムクに王権が出来ることで、機能不全を起こし易い瀬戸内海航路を管理統括してもらい、鉄などの安定供給をもとめた、ということではないだろうか?
ていう、昔からの説明が一番しっくりくる。

しかし、東海ではマキムク以降、逆に鉄が減っているという話だし、違うって言う人もいるし。

144:日本@名無史さん
11/06/07 17:27:22.55
鉄は淡路島で一括管理ができるくらい
ごく少量しか入ってきていないといえる。

瀬戸内海航路が樹立されているのなら
九州から鉄が入ってきてもよいはずだが
そうなっていない以上通行権が確立されているとはいいがたい。

鉄の出土状況からは、順に交易で順に伝わっているようにしか見えない。
順調にというか、九州から距離に応じて出土量が減っている。

145:伊作先生
11/06/07 17:38:23.09
纏向に対するまっとうな専門家の見方は、倭国の組織的墓域であり葬送センターだろ。
ここが倭国の政権中枢だとか倭国政権発祥の地であることはない。

ここを国葬センターに指定し、近隣から資材や労働力を集めるよう支持したはずの
政権中枢がいったいどこにあったのかを考えるのがまっとうじゃないのか。


それと、俺が先に提示したことだが。
纏向の土器は生活用の土器か、輸送と貯蔵用の土器か、祭祀用の土器か。
考古学は明確に情報公開をしているのか。
土器の性格と種類と数の比較などで纏向の性格も分かるし、
ものだけの移動か人間の移動を伴うかも分かるし、
一定期間だけ労働力が滞在したのか・永住的集落なのかも分かるだろう。

「東海と交易」だのというが、
大和盆地の山の中と東海じゃアクセスは不便なんだぜ。

146:ひとぶた
11/06/07 18:35:35.16
>>144

鉄製品の分布についてはもっともなことだと思いますけど、
布留の時代になると事情は変わりますよね。
全体の供給量も増えますが、大和への供給量は飛躍的に伸びるのではないですか。
庄内のころには、まだ並列的だった交易連合の諸国の中から
大和が突出して来て、名実ともに盟主と言えるようになった。
なので鉄の消費も増えた、これは鉄に限る話ではないのでしょうけど。

147:日本@名無史さん
11/06/07 18:51:05.53
>>246
>布留の時代になると事情は変わりますよね。

布留の時代っていうと4世紀初頭くらいからですかね?
出土量に変化あります?

布留と庄内といった細かい時代別の出土量のグラフは見たことないんで
何かソースがあれば教えてください。



148:日本@名無史さん
11/06/07 18:51:31.02
ごめんなさい

>>146 の間違いです。

149:日本@名無史さん
11/06/07 18:56:47.02
土器編年に沿ったものはないけどね。

URLリンク(home.hiroshima-u.ac.jp)

150:日本@名無史さん
11/06/07 18:56:51.13
>>145
>大和盆地の山の中と東海じゃアクセスは不便なんだぜ。

ば~か。

おまえが考古学にクチ出しても
恥をかくだけだから、やめとけって。


151:ひとぶた
11/06/07 19:19:50.00
>>147

実年代のことはおいときますが、庄内との違いはホケノ山の出土品を見ても判るかと思いますが。

152:日本@名無史さん
11/06/07 19:23:30.73
ホケノの頃はそう増えてはいない、3世紀半ばすぎだろうね。加羅の政変とかかわりがある。

153:日本@名無史さん
11/06/07 19:28:00.37
>>149
ありがとう、ちょうどそれ見てました。
やはり、畿内で鉄が出始めるのは古墳時代に入ってからですね。

弥生終末期に備前とか山陰が伸び始めるのは
製鉄が始まってきたのでしょう。

その後、ここを畿内が手に入れることによって、
古墳時代から、鉄の出土量が増え始めることになるのです。

154:日本@名無史さん
11/06/07 19:59:44.66
うーん、しかしそれでは、東海がマキムクに労働力を派遣して得た対価が分からないんだよな。

東海がマキムク王に従属していて、江戸初期の天下普請みたく、労働力を提供していたとは考えにくい。

となれば答えはひとつ。
東海勢力が西日本との交易を求めて、マキムクを造った。という仮説。

東海に画文帯や三角縁が出土しないのは、もともとの勢力圏の首長を懐柔する必要がなかったから。

前方後方墳と前方後円墳の形の違いは不明。
マキムクに進出した東海勢力が東瀬戸内の古墳祭祀を採用した、ということでは?

みたいな、東海西遷、みたいな説は成り立ちませんか?

155:日本@名無史さん
11/06/07 20:13:42.56
三種の神器のひとつのクサナギ剣が東海(名古屋)にあるのは不思議だな。
7世紀に尾張氏に渡したものだろうが、なぜそんなことをしたのだろう?


156:日本@名無史さん
11/06/07 20:18:17.66
三種の神器のひとつのヤタ鏡も、東海(伊勢)にあるしな。
三種の神器というお宝中のお宝を、どうして2個も東海に預けたのか?
7世紀のこととはいえ、よほど東海が大和王権に信用されてないと。


157:日本@名無史さん
11/06/07 20:39:32.95
宮崎市定なんか、アマテラスが東海だから、大和朝廷は東海発祥、って大昔に、至ってシンプルに書いてたんだよな。

そんな筈あるか、アマテラスが皇祖神になるのは八世紀だろ、と俺は訳知り顔で言っていたが、
まさかここに及んで、東海が浮上してくるとはw

158:日本@名無史さん
11/06/07 20:45:26.84
壬申の乱で政権奪取した天武が東海の息がかかった人物だからじゃないかと思うんだが、
メジャーな説じゃないんだよな。

これを認めると、大和王権は8世紀に東海によって誕生したことになる。w

159:日本@名無史さん
11/06/07 20:50:17.42
宮崎市定先生が書いてるならそうなんだろうな。

160:伊作先生
11/06/07 21:08:41.73
纏向という限られたエリアの限られた時期の土器の数が、
日本国の古代の行方を語る手がかりだとは驚きだな。

そして、掘ってもみない箸墓が3世紀半ばの築造だと。
ゴミクズども。

161:日本@名無史さん
11/06/07 21:18:09.46
ヤマトに鉄が流入することばかりを意識してるけど
実際に弥生時代末に向けて鉄が増えていくのは「丹波」。
若狭湾の西端、丹後半島を頂点として伯耆但馬越前丹波(丹後)など日本海側。

162:日本@名無史さん
11/06/07 21:31:15.00
>>129
検討材料として次の見解も挙げておきましょう。
「私は、岩石学者である奥田氏の砂礫による産地同定が方法としては正しい、としたうえで砂礫は動くと考えた・・・
 特定地域の砂礫が含まれる土器は神聖であり、そして多様な意味を持つ、と考えておきたい。
 決して土器の遠隔地生産と供給を示すものではない。・・・
 砂礫同定の方法は認めたうえで、結果については慎重に対処しようとする岸本道昭氏の考えが穏当であろう。」(石野博信)

163:伊作先生
11/06/07 21:51:12.46
>>161
>実際に弥生時代末に向けて鉄が増えていくのは「丹波」。
>若狭湾の西端、丹後半島を頂点として伯耆但馬越前丹波(丹後)など日本海側。

んー。いい所に目が向いた。
長門・出雲・丹波・丹後。そして、若狭湾からの陸路の要衝となる高島には、
九州勢力の中でも有力な日置氏(九州では「ひおき」と読む)が
配置されていた痕跡がある。
これは、裏街道を使う勢力に対するクサビだろう。 

天才は、この日置氏の国こそが倭人伝に「已百支国」と書かれたものと見ている。
書記にも「イオキイリヒコ」「イオキイリヒメ」が登場するしなー。ん

164:伊作先生
11/06/07 21:59:04.56
>>161
ついしん。
(おそらくは出雲を経由して)
日本海側の裏街道から畿内に鉄が入ったことを知ったことで、
これを抑えるために日置氏勢力を配置したんだろうな。

日置氏は古墳時代まで実在が確認できる有力豪族だし。


165:日本@名無史さん
11/06/07 22:31:03.40
>>164
>日置氏は古墳時代まで実在が確認できる有力豪族だし。


根拠もなく、勝手な妄想ばっかりしてんな。
日置氏の実在をどうやって証明するんだね?


166:伊作先生
11/06/07 22:42:30.88
>>165
知らないのか・疑ってるのか。
自分で調べて反論なり否定するという手があるんだぞ。
タコ

167:日本@名無史さん
11/06/07 22:47:04.23
そもそも、皇祖神を伊勢神宮にしたのはなぜかって
疑問が湧いてくるな。
初代天皇は日向だし。

畿内をルーツにしたくないみたいだな。
記紀編纂者は。


168:日本@名無史さん
11/06/07 22:58:15.37
>>166

日本には7世紀以前の文献が存在しないが、
中国の文献には日置氏が記載されてるのかね?


はい、君の論は破綻しました。残念だったね。


169:伊作先生
11/06/07 23:00:14.03
>>167
>初代天皇は日向だし。
>畿内をルーツにしたくないみたいだな。 記紀編纂者は。

んー・いい線を出してるな。
『日本書紀』編纂者は、滅亡百済からの亡命帰化漢人だ。
彼らは三国史倭人伝に目を通しているのだが、
邪馬台国は日向にあったと解釈した節がある。これが原因だろう。

そのくせ、稲・穂・田など稲作にまつわる人名が多く登場するし、
葦原中国をスタートとしている。
ところが、九州山地の傾斜が海岸近くまで迫っている東側には、
葦原中国というほどの大湿地帯はない。このあたりからすでに矛盾している。

畿内をルーツにしたくなかったのではない。
国の興りに関するかすかな伝承逸話と、彼らの創作が混在してる証拠でもある。


170:日本@名無史さん
11/06/07 23:00:31.52
破綻しました、いうわりには、なんにも破綻しとらんなあ。

171:伊作先生
11/06/07 23:02:26.27
>>168
>日本には7世紀以前の文献が存在しないが、
はぁ? 
九州の歴史をはじめ、興味のないことに関して知識ゼロといわけだな。

>中国の文献には日置氏が記載されてるのかね?
はぁ?

172:日本@名無史さん
11/06/07 23:06:22.15
>>171

思いつきで適当なことを言ってるから、破綻するんだよ。

日置氏の動向がどうしたって?そんなもの、信用できる文献がどこにあるのだ?と聞いておるのだ。


173:伊作先生
11/06/07 23:07:07.67
>>170
>なんにも破綻しとらんなあ。

畿内説害宣に共通する手法で古典的なやつ。
「刷り込み宣伝・レッテルでっちあげ宣伝」としいう奴だ。

勝ったポーズ・論破したホーズ・相手が返にげたポーズ、
そして論理破綻というポーズをとる。
畿内説害宣伝が半ば義務か仕事なんだろう。

174:日本@名無史さん
11/06/07 23:10:09.38
>>167
畿内をルーツにすると、他の畿内有力豪族に簒奪の大義名分を与えると思ったんじゃないかな?

敢えて中央から離れた場所にすることで、政治的利用をさせまいとした。
逆の意味で、侮り難い吉備や筑紫、毛野などは警戒され、美作備前備中備後、筑前筑後、上野下野みたいに細分化。記紀でその地方の神話が語られることもなかった。

出雲神話が大幅に採録のは、悪役を作る必要があったためか?

175:伊作先生
11/06/07 23:11:27.91
>>172

「思いつきで」「適当なことを言って」「破綻した」とは、
勝ったポーズ・論破したホーズ・相手が返にげたポーズ、
論理破綻というポーズでの
「刷り込み宣伝・レッテルでっちあげ宣伝」だよな。

文句があるなら、自分で調べろとゆっておるのだ。
タマには嫌いな九州の歴史をべんきようするのも悪くはないぞ。
纏向一辺倒で「井の中の蛙」にも飽きてきたころだろうし。

176:伊作先生
11/06/07 23:15:23.61
「纏向一辺倒で井の中の蛙」。
畿内説の孫引き・受け売り野郎どもには、けだし名言だな。

うん

177:伊作先生
11/06/07 23:16:54.44
「畿内説の孫引き・受け売り野郎ども」
たしかに、自力で懸賞した目新しいものは何も出てこないもんな。

うん

178:水銀厨
11/06/07 23:26:21.99
畿内をルーツにしたく無いのなら、
国生みを淡路島からなんて説話を入れるはずがないね。

179:日本@名無史さん
11/06/07 23:27:18.61
伊作先生は、論拠を示せず、白旗ですか。

哀れだなあ。そんなに毎日論破されて、ストレスためるようなことしてて平気なのかな?

もしかしてマゾなの?

180:日本@名無史さん
11/06/07 23:31:30.26
>>178

うん、当然、クニ産み神話が淡路島から始まってる以上、
日本神話を共有してた人々は、淡路、播磨、讃岐、阿波、河内の人々だったということだね。
そいつらが大和に移住したってことが、基本でしょ。


181:日本@名無史さん
11/06/07 23:31:48.10
ほう

182:日本@名無史さん
11/06/07 23:35:11.93
九州から東遷があったなら、九州の創世神話を持ち込むはず。
ところが、九州の創世神話というものは、現存しておらず、
高千穂にニニギが降りたというくだりだけが、神代の最後に挿入されただけ。

九州の神話の扱いの低さは、出雲神話にも劣る。
いかに九州の地位が低かったか、神話から一目瞭然なんですよ。


183:日本@名無史さん
11/06/07 23:44:49.59
日置氏については、俺もいろいろ調べてはいたけど、
まあ、大和王権創設には何の役割も果たしてないよね。

菊池の豪族という人もいるが、
スサノオを祖としてることから、出雲が本拠でしょ。



184:日本@名無史さん
11/06/07 23:47:10.06
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原、であるように
黄泉の国に行って帰ってくる話も九州だね。


185:日本@名無史さん
11/06/07 23:50:00.29
>>184
そのエピソードは、創世神話ではなく、中国古典を引用しての後付け。

186:日本@名無史さん
11/06/07 23:50:41.04
逆に創世神話の部分で、畿内の地名がはっきりわかるところはどこかある?
歴代天皇の時代を別にして。

187:日本@名無史さん
11/06/07 23:54:21.76
>>185
そういう似た話があることは否定しないけど、
辿ればほとんどすべての話で似た話が出るよ。

そうなると、>>182 の問いそのものが、
間抜けな問いということになってしまうけど。

188:日本@名無史さん
11/06/07 23:56:51.42
>>187

どこを舞台にしてるかが重要。
イザナギの九州での禊は、「帰り道の途中」であり「盤古神話」の模倣だから、
たいした意味は持ち得ない。


189:日本@名無史さん
11/06/07 23:57:30.59
ここは神話の史実性、非史実性を論じるスレではない。

190:sss
11/06/08 00:01:16.40
国産神話が淡路島から始まっているわけではなくて、淡路島が最初に出来たということかな。
実際は、そうではないが。

伊邪那岐命と伊邪那美命は、先に誕生した神々から国土を固めるように命じられ、天沼矛を授かった。
二柱の神が天沼矛で地上をかき回して出来たのが淤能碁呂島(おのころしま)。まず、ここに降り立ち、国産みが始まる。
まず生まれたのが、水蛭子と淡島。これは出来が悪いということで流された。

女から先に声をかけたので出来の悪い子が生まれた。今度は男から先に声をかけよう、ということで生まれたのが
淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐、対馬、佐渡島、そして本州でこれらを大八島国という。

淡路島に特に意味があるとも思えないが…。

191:日本@名無史さん
11/06/08 00:04:42.21
淡路島は四国と大阪湾の子なんだよ。それだけの話。

192:日本@名無史さん
11/06/08 00:05:11.31
>>186

地名というか、国底立尊、国常立尊とかいう、名前だけの神が最初に生まれる。
多くの異伝が、この神が最初に生まれたと書き残してるということは、
本来の日本神話の原型に近いと思う。

URLリンク(ja.wikipedia.org)

国土形成の根源神、国土の守護神として信仰され、以下の諸社で祭られている。

聖神社 (秩父市)(埼玉県)
蘇羽鷹神社(千葉県松戸市)
日枝神社(東京都千代田区)
大鳥神社(東京都目黒区)
二宮神社(東京都あきる野市)
山津照神社(滋賀県米原市)
城南宮(京都府京都市伏見区)
玉置神社(奈良県吉野郡十津川村)
熊野速玉大社(和歌山県新宮市)の相殿
若桜神社(鳥取県八頭郡若桜町)
小村神社(高知県高岡郡日高村)

ほとんど近畿で祭られてる神であり九州は無い。

というわけで、九州から東遷なんて、ちゃんちゃらおかしいのですよ。


193:水銀厨
11/06/08 00:06:39.80
>>190
順番は重要ですよ。何処からの視線かという事ですから。
スレから逸脱するので詳細は書きませんが、
国生みの最初の舞台が大阪湾近郊なのは間違いない事です。

194:日本@名無史さん
11/06/08 00:09:53.39
>>189
神話の史実性ではなくて、
神話を残したのは、どこの地域の人々かを考察してる。

結論は近畿ということで動かない。
九州の創世神話は現存してないから。
出雲には国引き神話という創世神話がちゃんとあるのにね。


195:sss
11/06/08 00:10:19.55
>>193
本州(大倭豊秋津島)は最後に生まれているのだが。

196:日本@名無史さん
11/06/08 00:10:53.20
国産みで佐度って出てきてるのは、新潟の佐渡ではなくって
西都原、佐土原つまりクマソの国のことだからね。
そこんとこ勘違いしないでね(ハート

197:日本@名無史さん
11/06/08 00:13:03.52
>>195
それがどうかしたの?

イザナギ、イザナミ神話を残した人々は、淡路島周辺のクニってことだよ。
その人々が主要メンバーとして、大和王権を作った。


198:日本@名無史さん
11/06/08 00:14:35.92
いやあ、祀られてるというなら神話の神は
日本全国の神社で祀られてるわけでね。

そういや、伊邪那岐、伊邪那美は福岡の高祖山、太祖山
の神社で祀られてるからね。

そして、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原は、
高祖山から海の方の地名だね。

199:日本@名無史さん
11/06/08 00:16:03.79
>>194
このスレで何を論じるかは>>1に明記してある。
きみたちの書き込みはスレの趣旨に合っていない。

200:日本@名無史さん
11/06/08 00:17:44.12
>>195
っ一書に曰く

201:日本@名無史さん
11/06/08 00:18:04.99
高祖山、太祖山の高祖太祖は重要な文字で、

その一族の創始者に高祖や太祖の称号がつけられる。

高祖太祖とイザナギ、イザナミが結び付けられているのは
偶然じゃないんだよ。明らかに意図を持ってつけられているんだ。

202:sss
11/06/08 00:18:19.08
>>192
神社に詳しいわけではないが、九州にも「天御中主大神」を祀った神社がある。
幣立神宮。高天原となっている。
URLリンク(www.ajkj.jp)

203:日本@名無史さん
11/06/08 00:21:36.99
神社は難しいね。記紀以前に遡れる確証のとれるものは少ない。社伝は参考にしにくいものだし。

204:sss
11/06/08 00:22:44.92
>>200
古事記は最後だが、日本書紀は最初の方になっているな。
どっちでもかまわないのだろう。

205:日本@名無史さん
11/06/08 00:23:23.28
>>202

>その気になった?ところで幣立神宮のご紹介。実はこの幣立神宮、高天原神話の発祥の地とされる。

[高天原]が、8世紀の創作だから、ダウト。

あきらめが悪いね。



206:sss
11/06/08 00:25:50.57
>>205
神社ってそんなものだろう。

207:日本@名無史さん
11/06/08 00:26:18.93
>>198

九州のあちこちでは、神功、応神が祭られてるそうだが、何か言うことはあるかね?

九州の創世神話は、神功時代に消滅したんだよ。
九州に郷土愛があるなら、神功以前の九州の神話を掘り起こしてこいってことだよ。

208:日本@名無史さん
11/06/08 00:28:37.08
高祖山のふもとにある飯盛神社
ここにイザナミが祀られているわけだが、
このすぐ横は吉武高木遺跡なのだ。
最古の三種の神器が出たことで有名だね。

そして、日向峠を通って糸島に入ると、高祖山の裏側は高祖神社
三雲曽根遺跡群や平原遺跡で有名だね。

209:日本@名無史さん
11/06/08 00:31:37.30
淡路島の伊弉諾神宮には勝てんよ。

イザナギの伝承地という動かぬ証拠だからな。





210:日本@名無史さん
11/06/08 00:32:43.79
神埼櫛田神社では、クシナダヒメ、スサノオ、ヤマトタケル、
が祀られているね。

あと糸島のさざれ石神社ではコノハナサクヤヒメとイワナガヒメが祀られている。

消滅したわけじゃないと思うよ。

211:日本@名無史さん
11/06/08 00:37:09.76
天沼矛を得てから躍進が始まったんだよね。
この矛っていうのは金属製の矛ってことでいいのかな?

212:ひとぶた
11/06/08 00:40:42.34
>>162

> 検討材料として次の見解も挙げておきましょう。
> 「私は、岩石学者である奥田氏の砂礫による産地同定が方法としては正しい、としたうえで砂礫は動くと考えた・・・
>  特定地域の砂礫が含まれる土器は神聖であり、そして多様な意味を持つ、と考えておきたい。
>  決して土器の遠隔地生産と供給を示すものではない。・・・
>  砂礫同定の方法は認めたうえで、結果については慎重に対処しようとする岸本道昭氏の考えが穏当であろう。」(石野博信)

石橋は敲いても渡らないみたいな論法ですね。

213:日本@名無史さん
11/06/08 00:44:35.07
>>204
淡路島が重要な事には変わりないからな。
ま、諦めろ。

214:日本@名無史さん
11/06/08 00:46:28.41
>>211
金属器が伝わってからの脚色でしょう。

男女が柱の周りを巡って、クニ産みってのが、原型だと思われ。
これは日本オリジナルじゃないかな?
神話に詳しい人、外国に似た神話あるかな?


215:ローガン
11/06/08 00:54:12.48
>>212
>石橋は敲いても渡らないみたいな論法ですね。

S字甕の砂礫…が気になってとか。
(他意はありません)

216:sss
11/06/08 00:56:04.80
>>211
矛と言えば、九州を代表する金属器。その矛が記紀で重要な役割を果たしていることから
神話の舞台は九州ではないかといわれる。
一方で、弥生近畿を代表する金属器である銅鐸は記紀には全く登場しない。

217:日本@名無史さん
11/06/08 00:58:57.51
URLリンク(www.yu-ji.com)
この図は一昔前のものだけど、銅矛に関しては西から東への収束と見るのは不自然。
明らかに東から西へ、瀬戸内から四国・九州へと拡散していってる。
それはまさに国産みの順序そのままなんですよぬ。

218:日本@名無史さん
11/06/08 00:58:59.03
>>216
8世紀に書かれた神話が何の根拠になるわけ?

重要なのは、淡路島からクニ産みがはじまってること。
九州からは淡路島は遠すぎる。


219:日本@名無史さん
11/06/08 01:04:26.63
>>217
銅剣、銅戈、銅矛が北部九州を中心にして
広がっているのが一目瞭然じゃん。

東は銅鐸だけだし。

220:日本@名無史さん
11/06/08 01:07:14.01
>>217
銅矛がマキムクに何も影響していないことは判るが、それが何か?

221:日本@名無史さん
11/06/08 01:11:06.07
銅鐸文化圏銅矛文化圏なんて昭和の時代の教科書レベルじゃねーか
とっくに否定されてるぞ

222:日本@名無史さん
11/06/08 01:15:11.41
倭人の兵は、矛・盾・木弓を使うと魏志倭人伝にあります。
そして卑弥呼は魏から刀(剣)を贈られてます。
銅鐸を作る技術の中から銅矛を作る技術を得て征西、そこで剣という存在を得て東に戻った、そう考えるとしっくりきます。

223:日本@名無史さん
11/06/08 01:30:51.48
>>221
ちゃんと一昔前と書いたじゃないですか。

補足すると、細型銅矛は九州西部でしか出ないけど、中細~広型に関しては、
東が中細で西が広型という傾向があったように記憶してます。
中細から広型への変化を進化と見るならば、やはり銅矛は東から西へと移動してると思います。

224:日本@名無史さん
11/06/08 02:02:37.68
進化の過程で
シンプルになると見るか
ごてごてすると見るかで導かれる結果は違うでしょうが
方向が有るのはわかりますね

225:日本@名無史さん
11/06/08 06:22:27.16
むかしテレビで、
「マキムクマン」っていたよな?

226:伊作先生
11/06/08 07:44:55.96
燃えるような話題がないなー。

>>179
纏向一辺倒の井の中の蛙。
自力で検証したものは何も出せず、もっぱら孫引き・受け売り。
知らないことは、バカの一つおぼえで「論拠を示せ」という。

>そんなに毎日論破されて、
やることは「中身のない勝利のポーズ」。
でっちあげレッテルの刷り込み害宣。
畿内説の常套手口としては古くさいほうだが、いまだに使う時代遅れ

227:伊作先生
11/06/08 07:58:37.40
>>183
>日置氏については、俺もいろいろ調べてはいたけど、
かんしん・かんしん。
でも・地元の詳しい資料を見なくちゃなー。
ま・その様子からみると、天才の発言の重みだけは自覚できているようだ。
古代史関連のスレッドをみると、九州説者たちの間にも、
天才の影響がかなり浸透しているようだし。いいことだ。

それにしても燃えるような話題がないな。
纏向一辺倒にもそろそろ翳りが出てきたかー。わらわら

228:日本@名無史さん
11/06/08 09:03:42.50
朝早くから暇なの?

229:日本@名無史さん
11/06/08 11:43:11.76
古今東西自称天才にはろくでもない奴しかいません。
天才とは第三者が判断するものです。

230:日本@名無史さん
11/06/08 12:08:55.85
>>142.143.154
S字甕 は伊勢湾岸沿いの平野部、尾張平野、伊勢平野北部地域が発祥との事。
前方後方墳もこの地域が発祥。東海(濃尾平野)をまとめる首長となると
初代倭王・天照火明命の末裔を名乗る豪族でしょうね。

231:日本@名無史さん
11/06/08 12:33:06.70
>>227
>でも・地元の詳しい資料を見なくちゃなー。

たかが百年前の資料で何がわかるのかなー


232:日本@名無史さん
11/06/08 14:13:18.24
巻向が当時、唯一未開の誰のものでもないが、誰にとっても重要な土地という発見があったとしたら?
関西の交易の中心は琵琶湖でしょう。しかし、そこにはすでに先住者がいた。

交易路の中継点という意味でフロンティアだった。

233:日本@名無史さん
11/06/08 16:42:34.09
>>230
S字パレスの発祥はいわゆる三遠でほぼ間違いないだろうが
前方後方墳のそれは意見が分けれていて岐阜の山中との説とも拮抗している

それに文献を重ねあわせるのは早計すぎる
ましてや偽史の疑いが濃厚な古史古伝のように、文献史学ではないオカルト趣味を引き合いに出すのは論外

アマチュア古代史家は、は文献重視を謳うものほどオカルト古史古伝にかぶれている
考古学者はそれを冷笑するだけだが(いろいろな意味で使えるから)
文献学者は後ろから頭を蹴りつけたくなるほど不快に思っている

234:太国 ◆yVAs7uaYlY
11/06/08 16:50:54.38
カルト・ホツマの寄生虫に脳内が蹂躙されてる妄想男が宿主たる唐松山と
いう、脳内判断のブレーキがいかれている人物であ~る。

なおホツマとはそんじょそこらの昔のただのオッサンが恣意的妄想を追加
して書いた朝廷が落第とするであろう危険な史想の書である。おのおの方
はこの書に対し、重々警戒、用心せねばならない。

235:日本@名無史さん
11/06/08 18:31:31.42
(・∀・)カエレ!!

236:日本@名無史さん
11/06/08 21:27:18.54
>>233

>>230の言う「初代倭王・天照火明命」とは、文字通り記紀・神社伝承に書いてある事柄だけど、
それを否定してる文献学者なんているの?




237:日本@名無史さん
11/06/08 21:30:16.31
そもそも、神武東征を否定した場合、
文献上の初代倭王とは、天火明の流れをくむ豪族しかいないわけで。

その豪族とは尾張氏なわけで、東海系土器の多さと符号するのは無視しようがない。



238:日本@名無史さん
11/06/08 21:37:36.44
(・∀・)カエレ!!

239:日本@名無史さん
11/06/08 21:40:19.64
天火明の話題を出すと、ヒステリー起こす人がいるみたいだが・・・

畿内説には有利なはずなんだがな?

240:日本@名無史さん
11/06/08 21:44:28.14
結局、このスレは神武とか天照とかのキャラクターを当てはめる事が目的なのかね。

241:日本@名無史さん
11/06/08 21:49:36.47
マキムクの成立過程について語るスレだから

畿内説がどうとか僕の考えた神話解釈とか
どうでもいいから

242:ネタ投下第一弾 1
11/06/08 22:02:25.53
議論があまりにも低調に思えて仕方がないので、ネタ(下記佐々木論文)を投下する。昨年の論文である。
まず、先行研究について記述している部分を抄出する。全文はリンク先紀要参照。

----------------------------------------
佐々木憲一 URLリンク(www.meiji.ac.jp)

 「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」

『明治大学人文科学研究所紀要』 第66冊(2010年)251-312
URLリンク(m-repo.lib.meiji.ac.jp)
----------------------------------------
(以下抄出)

第1章:研究史
C.古墳出現前後の土器の移動に関する研究史

 近年は古墳出現前後の土器の長距離移動と,搬入された土器の在地での模倣に関する研究が大変活発である(西日本を対象とした研究の総論として,森岡1985;1991;米田1990;東日本については加納1985;比田井2001など)。
(つづく)
----------------------------------------
森岡秀人
1985「土器の交流一西日本」『考古学ジャーナル』252号,pp.16-22.
1991「土師器の移動一西日本」岩崎卓也(編)『古墳時代の研究』第6巻(土器),pp.229-37,東京,雄山閣
米田敏幸
1990「邪馬台国時代の土器の移動」都出比呂志・山本三郎(共編)『邪馬台国の時代』pp.2741.木耳社
加納俊介
1985「土器の交流一東日本」『考古学ジャーナル』252号,pp.11-15.
比田井克仁
2003「土器移動の類型と原理一弥生後期から古墳時代前期の東日本を対象として一」『法政考古学』第30集,
 pp.189-204,

243:日本@名無史さん
11/06/08 22:04:51.66
>>242
ああ、俺もそのネタ、文献派のみなさんのために投下しようと思ってたのにwww

244:ネタ投下第一弾 2
11/06/08 22:04:57.86
(つづき)
この研究の大きな出発点は奈良県桜井市纏向遺跡の調査[knr-1]である。
この成果と絡めて,古墳出現前後の地域間交流に関する研究活発化の背景に次の2点を想定できる。
まず第1に,弥生時代と古墳時代の境界をどこに求めるのかという議論。
第2に,本稿の冒頭で述べたように,古墳出現前後の土器の移動が古墳出現と関係するはず,という議論である。
第1の点は,以下の編年の節で詳述する。

纒向遺跡の成果は,この第2点の理解への貢献が極めて大きい。
纏向遺跡出土土器の15%近くは関東から北部九州に至る他地域からの搬入かそれを在地で模倣した土器であり,非在地系土器に限ると,その45%が東海系であることがわかった。
その結果,他地域の古墳出現前後の土器編年との並行関係を知る手がかりを提供したのである。

 纒向遺跡と同様,八尾南遺跡[knr-4]など大阪府八尾市内(中河内地域)の遺跡の調査成果に基づき,米田敏幸(1981)が庄内甕を5期に細分し,庄内1を弥生V様式末,庄内5を布留式初頭に比定した。
(つづく)
----------------------------------------
米田敏幸
 1981「古墳時代前期の土器について」[knr-4], pp.180-189.

[knr-1] 石野博信・関川尚功1977『纏向遺跡』奈良県立橿原考古学研究所
[knr-4] 山本昭・米田敏幸・原田昌則1981『八尾南遺跡』八尾南遺跡調査会

245:ネタ投下第一弾 3
11/06/08 22:07:35.67
(つづき)
さらに八尾南遺跡を始めとする中河内地域の遺跡の遺構から,庄内甕,布留甕と吉備山陰の土器との共伴関係が多数確認され,米田(1985)は,庄内甕の5期の各々の段階で共伴する吉備,山陰の土器型式を明らかにした。
その結果 この時期,中河内,吉備,山陰において,甕形土器が小さな平底から尖り底の段階を経て,丸底に,ほぼ同じスピードで変化することを突き止めた。

また米田(1985,p.103)は,近畿地方中央部への非在地系土器の流入のあり方が,中河内,纒向,そして摂津東部で違いがあることも既に気づいている。
つまり,纒向遺跡での搬入土器の主体は東海系であるのに対し,河内平野では吉備系土器が主体である。纒向遺跡では北陸系や近江系といった河内には流入しない土器群がみられる。

さらに摂津の崇禅寺遺跡[knr-6]では,近江系,東海系,吉備系の土器がまとまって出土しており,河内平野の遺跡群とは様相が若干異なる。
(つづく)
----------------------------------------
米田敏幸
 1985「中河内の庄内式と搬入土器について」『考古学論集』第1集,pp.87-105,考古学を学ぶ会

[knr-6] 大野薫1982『崇禅寺遺跡発掘調査概要1』大阪府教育委員会

246:ネタ投下第一弾 4
11/06/08 22:14:07.31
(つづき)
 1986年,奈良県奈良盆地中部に位置する,田原本町矢部遺跡の報告書[knr-2]が寺沢薫編集で刊行された。
ここでは,纏向遺跡と並行する時期でありながら,鈍重な印象を与える伝統的V様式甕が甕形土器組成の中心を成し,纏向編年では甕形土器の編年が説明困難となってきた。
つまり,奈良盆地の中でも,纏向遺跡を中心とする南東部地域と,それ以外の地域では,古墳出現前後の時期は土器の型式変化のスピードが違うのではないかという認識が生まれた。
それに対応する形で,纒向編年以上に土器の組み合わせを重視した,まったく新しい編年の枠組みを寺沢(1986)は発表する。その中で,概ね庄内式後半段階,纒向III式の新段階を布留0式と定義・提唱した。

翌年,寺沢(1987)は「布留0式土器拡散論」と題した短い論文を発表し,彼が布留0式甕とした,畿内型甕が西日本各地に搬入,在地で模倣されている事実を明らかにした。

 寺沢(1987)は,布留0式期の甕形土器の西日本各地への移動と移動先での受容の在り方を次の3パターンに区別した。

「北九州型」:布留0式甕を主体として,布留0式期以降の畿内系土器群を顕著に含む遣跡を広範囲かつ高い密度でもつ地域,
「北陸・山陰型」:分布は緩慢だか.点的に顕在化する遺跡をもち,布留1式期には普遍的な拡散をみせる地域
「瀬戸内型」:布留0式甕は希薄だが,布留式傾向庄内形甕や布留式影響庄内形甕,布留式影響弥生形甕を主体とする畿内系土器群が目立つ一方で,布留式1段階でも布留甕の存在はさほど顕著ではない。

さらにこの時期に布留0式土器があまり移動しないケースを「東方型」(布留0式甕はもとより.布留0式土器の様式的受容がみられず,伊勢湾系土器が卓越する)と「辺境型」(布留甕が顕在化するのが布留3式期以降。南九州や東北)に区別した。
(つづく)
----------------------------------------
寺沢薫
 1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr-2],pp.327-397.
 1987「布留0式土器拡散論」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズIII, pp.179-200.

[knr-2]寺沢薫(編)1986『矢部遺跡』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告No,49)奈良県立橿原考古学研究所

247:ネタ投下第一弾 5
11/06/08 22:23:42.13
(つづき)
 寺沢(1986,1987)が「布留0式甕」というとき,布留式傾向甕はもちろんであるが,寺沢が「布留式影響庄内形甕」,「布留式影響弥生形甕」と呼称する,この影響を受けた(というより,布留0式期の)庄内甕や伝統的V様式甕も含んでいる。
上記の西日本における布留0式土器受容の3パターンも,受容の量の差異だけではなく,そういった布留0式土器に包括される違った型式の甕の差異の所産でもある。
つまり布留0式土器自体が多様な型式を包括した概念であり,したがって,他地域におけるその受容の在り方もいきおい多様であるのが当然であろう。むしろ我々読者が重視せねばならないのは,この多様性ではないだろうか。

 その多様な土器群を「布留0式」で無理に一括した理由は.

「布留系各器種を携え,居住した集団,あるいはまたそれを大量に搬入ないしは製作した集団の性格を,政権中枢やその中継的地域との社会的関係性の表徴として,
換言すれば,初期ヤマト政権の政治的・祭祀的伸長の実存姿態として把握していかなければならない」

と寺沢(1987,p.198)が考えるからである。
つまり,布留0式土器の拡散を「政治的」脈絡で捉えている。

布留0式期のさまざまな畿内系甕形土器の各地での受容のあり方の多様性を認識していたことは高く評価し,そういった意味では,本稿は寺沢(1987)論文を発展的に継承する面が大きい。
しかし,本稿の結論で主張するように,その多様性は,この時期における地域社会の自律性主体性に由来するものと筆者は考えている。

米田敏幸(1997,p.50)が言うように,「土器の移動は文化交流によって生じるもので,その交流関係は対等である。」筆者も,集落から出土する土器に政治的性格をあまり付与しない立場であることは,ここであらかじめ明言しておきたいo
(つづく)
----------------------------------------
寺沢薫
 1986「畿内古式土師器の編年と2,3の問題」[knr-2],pp.327-397.
 1987「布留0式土器拡散論」『考古学と地域文化』同志社大学考古学シリーズIII, pp.179-200.
米田敏幸
 1997「庄内式土器研究の課題と展望」『庄内式土器研究』XVL pp.1-48.

248:ネタ投下第一弾 6
11/06/08 22:35:54.18
(つづき)
 寺沢の画期的論文以降も,この時期の土器の移動を対象とした優れた業績は枚挙に暇がないが,本稿に直接関係あるものを中心に触れておきたい。

寺沢論文に若干遡るが,田崎博之(1983)は

外来系土器の筑前地域への流入過程は,経済基盤の異なる海岸部の集落と内陸部の集落で大きく異なることを指摘し,
氏の設定する「有田式土器古相段階」(概ね後述する布留0から布留1の段階)に外来系土器の流入量の増加と流入される遺跡の増加という「画期」を迎え,
その画期の背景として,海岸部の集落では近畿地方の勢力が海上交易圏を掌握する過程,内陸部の集落では限られた一部(首長層?)が近畿地方を中心とする外来の祭祀権と結び付く過程

と結論付けた。

そして内陸部の集落での場合は,祭祀様式の統一体への帰着として意義づけ,それを定形化した古墳の成立の「統一的な首長霊祭祀型式の創出」と整合すると主張した。
(つづく)
----------------------------------------
田崎博之
 1983「古墳時代初頭前後の筑前地方」『史淵』120集,pp.219-261. 九州大学文学部

249:伊作先生
11/06/08 22:52:21.60
古墳時代のはまりは3世紀半ばてかい。

古墳時代に入ると、ほぼ全国一斉に同じ墓制と葬送祭祀が蔓延する。
その墓づくりと葬送祭祀をやる人材の育成と供給が、
組織的・計画的に3世紀半ばには行なわれていたわけだ。
さもなければ、ほぼ全国均一ともいえる墓制と葬送祭祀が蔓延するわけがない。

そうした「人材育成と供給」はどこで・どうやって行なわれたのか。
まるで土器に足がついていて意思でもあったかのようにドキ・ドキゆってるが、
人の移動や流れが一次要素でドキなど付属要素だろう。

「土器の移動は人の移動によって生じるもので,移動の動機は複雑多様である」。
考古学の世界は、質的な意味において、慢性的な人材不測のようだな。

250:日本@名無史さん
11/06/08 22:56:39.39
>>248

>その画期の背景として,海岸部の集落では近畿地方の勢力が海上交易圏を掌握する過程,内陸部の集落では限られた一部(首長層?)が近畿地方を中心とする外来の祭祀権と結び付く過程

なるほど、このようにして九州は近畿勢力に飲み込まれていったわけか。
さすが、九州の考古学は進んでるな。


251:日本@名無史さん
11/06/08 23:00:39.45
>>249

>そうした「人材育成と供給」はどこで・どうやって行なわれたのか。

関東、東北方面は東海勢力が担ってたでしょうな。


252:ネタ投下第一弾 7
11/06/08 23:19:52.76
(つづき)
 前述の岩永(1989[1981],p.92)は,古墳出現前後の時期に畿内など外来系の土器が福岡・早良・糸島平野で爆発的に増加することに関して,次のように述べた。

「外来系器種の増加とともに在地系器種の消滅ないし個体数減少が起こっている。
転入者がF地区[福岡・早良・糸島平野(引用者注,以下同じ)]在来の集団中で土器製作に従事していることは
Ilb~IIIa期[この議論の対象のIIIb期の前,Ilb期は以下に筆者が依拠する久住猛雄(1999a)編年のIb期,岩永IIIa期は久住Ila期に概ね相当する]と変わらないが,
さらに進んで,その転入者に伴って持ち込まれた土器作りに関するもろもろの情報が,在来の集団中の土器製作者に既に広く共有され,在来の人間も外来系の土器を確実に製作し始めていると考えられる(下線は引用者による)。」

つまり,古墳出現期には福岡・早良・糸島平野で外来(この場合は畿内)の土器が在地で大々的に模倣製作されている現象を既に看破しているのである。

 さらに福岡・早良・糸島平野と畿内・山陽・山陰地域との土器から窺われる交渉の深化について,

「畿内地域諸集団の側にF地区との交渉を強化すべき必要性があったはずである。
それが,どの程度『政治的』なものであるかの評価は難しいが,首長間の政治的同盟関係が成立する以前に,より下位の集団成員間レベルでの交渉関係が成立していたことは認めてよかろう(下線は引用者による)。」(岩永1989[1981],p.93)

と指摘した。

これも,本稿で筆者が主張する,集落同士のネットワークが前方後円墳で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したことを既に示唆しており,その先見性に敬服する。
(つづく)
----------------------------------------
岩永省三
 1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43-105.福岡,凸版印刷
久住猛雄
 1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp. 62-143.

253:伊作先生
11/06/08 23:20:18.84
>>251
ヘタな考古学者よりも天才のほうが、言うことも着想も新鮮だろ。




254:ネタ投下第一弾 8
11/06/08 23:24:51.17
(つづき)
ただ岩永(1989[1981],p.93)は甕棺葬の消滅などをあげ,「在来文化の活力の衰微」を畿内系土器の福岡・早良・糸島平野への導入・模倣製作の背景に考える点については,
在地集団の主体的意思で畿内地域諸集団との交渉を強化したかったと考える筆者とは若干立場を異にする。

 余談であるが,岩永(1989[1981])論文は1981年1月に脱稿していたが,発表が1989年になった。
その間,類似する内容の論文が溝口孝司(1988)によって岩永論文より先に発表されたためか,後述する久住(1999aなど)も余り引用しない。
しかしながら岩永の研究は,土器の分類にあたって基準とする属性を明示し,その属性の集まりを数量化・グラフ化し,第三者による検証を可能にするなど学ぶべき点は極めて多く,
方法論・理論研究の両面から,この種の研究の画期を成すものと高く評価したい。
(つづく)
----------------------------------------
岩永省三
 1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43-105.福岡,凸版印刷
溝口孝司
 1988「古墳出現前後の土器相」『考古学研究』第35巻第2号.pp.90-117.
久住猛雄
 1999a「北部九州における庄内式併行期の土器様相」『庄内式土器研究』XIX, pp.62-143.

255:ネタ投下第一弾 9
11/06/08 23:27:06.91
(つづき)
 井上裕弘(1991)も田崎(1983),岩永(1989)と同様,筑前地域における外来系土器の流入過程を検討した。

井上論文の編年にやや無理なところもあるが,外来系土器群の流入過程と4本柱住居の導入を絡めて考察した点は前進である。
また筑前地域における布留式土器の主体的な製作を想定し,また布留式土器製作者に山陰系土器製作者集団が関与していた可能性まで示唆した。
さらに畿内系土器や畿内系集団の北部九州流入が,豊前地域を拠点に進められたと想定した。

最後の点は.以下の次山淳(1997)が,松山平野を介して布留系土器が北部九州に達した可能性を指摘しているのと考え合わせると,大変興味深い。

ただ,伝統的V様式系,庄内系,布留系の流入を井上が一括して考えている点は,議論の余地がある。
(つづく)
----------------------------------------
井上裕弘
 1991「北部九州における古墳出現前後の土器群とその背景」『古文化論叢』児嶋隆人先生喜寿記念論集 pp.315-372,飯塚市,児島隆人先生喜寿記念事業会
田崎博之
 1983「古墳時代初頭前後の筑前地方」『史淵』120集,pp.219-261. 九州大学文学部
岩永省三
 1989「土器から見た弥生時代社会の動態」『生産と流通の考古学』(横山浩一先生退官記念論文集1),pp.43-105.福岡,凸版印刷
次山淳
 1997「初期布留式土器群の西方展開」『古代』第103号,pp.135-156.

256:sss
11/06/08 23:31:23.76
土器は基本的に台所用品だからなあ。
普通に考えれば、政治的な動きとは別の視点が必要だと思うのだが…。

257:日本@名無史さん
11/06/08 23:34:59.48
>>255
首長墓など政治的な遺構の西遷より以前に
経済的な西遷が起こっていたということか。
しかし松山平野を介して北部九州に達していた可能性とか


258:ネタ投下第一弾 10
11/06/08 23:41:24.00
(つづき)
 山田隆一(1994)は中河内への外来系土器の流入を分析し,庄内大和型甕が河内にはほとんど発見されないのに対し,庄内河内型甕は纒向遺跡で多数発見されることを指摘する。
そして米田敏幸(1985)が外来系土器の構成比率の差を地域差として捉えたのに対し,当時の纒向遺跡を中心とする大和盆地南東部地域への一方通行的な流通の実態と解釈する。

つまり,中河内地域の諸遺跡は西日本各地の「物」の纒向遺跡への流通経路上の「港湾的機能」有する拠点集落群であり,
東海を含めた東日本諸地域から纒向遺跡にもたらされた「物」は基本的に中河内をはじめとする西日本の諸地域には流出しなかった社会的状況であったと大胆な提言を行う。

 高橋浩二(1995)はこの時期の加賀,能登越中を対象とし,
庄内系土器や東海系土器などが北陸各地域へ一様に波及する庄内式新段階と,布留系甕の波及・受容によって土器組成に不均等性が生じた布留式古段階という2つの画期を見出し,定形化した古墳は第2の画期で出現するとした。

そして重要な点は,より古くから畿内の土器様式を受け入れた地域よりも,在地色の強い地域において墳形や規模,副葬品などが卓越した古墳が築造されたと判断したことである。
これは,土器からみた地域間交流のパターンと,地域間交流の所産としての古墳の出現の在り方とは,かならずしも整合しない場合があることを初めて明確に指摘した,極めて重要な論文である。
(つづく)
----------------------------------------
山田隆一
 1994「古墳時代初頭前後の中河内地域」『弥生文化博物館研究報告』第3集,pp.119-146,
米田敏幸
 1985「中河内の庄内式と搬入土器について」『考古学論集』第1集,pp.87-105,考古学を学ぶ会
高橋浩二
 1995「北陸における古墳出現期の社会構造一土器の計量的分析と古墳から一」『考古学雑誌』第80巻,pp.279-318.

259:日本@名無史さん
11/06/09 00:03:04.23
九州では劣化コピーが行われてた事実には泣けたね。
完全コピーが出来なかったなんて・・

260:ネタ投下第一弾 11
11/06/09 00:14:51.84
(つづき)
 次山淳(1995)はまず布留形甕肩部に施された波状文と列点文に注目し,前者が山陰に,後者が吉備に出自をもつ文様であることを確認する。
そして布留甕出現期には両者がみられ,両者の間には近畿地方のなかで地理的な分布に偏りがあることを見出し,それを各々の出自集団の畿内の中での棲み分けの反映と解釈する。

次いで次山(1997)は,各地の布留形甕製作者の出自・系譜を考慮に入れながら,定形化した布留1式直前,布留0式段階の最新型式の土器群が,畿内と北部九州の中間地域である中国・四国地方にどのような経路で伝播したのかを探った。
その結果この地域における初期布留式土器群の分布には特定の方向性があり,面的というよりはむしろ伝播経路に沿った線的なものであることを明らかにした。

特に,その「線」が従来想定されていた中国地方の瀬戸内海沿岸に沿ったものではなく,むしろ松山平野を経由して北部九州地域へ到達した可能性を強く示唆する。

またこの初期布留式土器群の西方展開を担ったのは.その肩部施文率の高さから,山陰系(肩部波状文),吉備系(肩部列点文)畿内集団であること,布留甕口縁部形態の分析から,大和外縁地域と結び付く可能性が高いことを指摘し,
さらに多量の畿内系土器が出土するその松山平野の土器製作者は山陰系畿内集団と想定する。
(つづく)
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次山淳
 1995「波状文と列点文一布留形甕にみられる肩部文様の分類・系譜・分布」『文化財論叢II』(奈良国立文化財研究所創立40周年記念論文集),pp.19-39.同朋社
 1997「初期布留式土器群の西方展開」『古代』第103号,pp.135-156.


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