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私の履歴書 木田元(哲学者)日経2010.09.15
⑭危うい兼業
激務の傍ら 闇米運び
学校へ通える同級生羨む
小学校の代用教員の口にありついたものの、給料は600円、とても5人家族は暮らせない。
悪いと思いながらもバイトをせざるをえない。
私が選んだのは、週末に東京まで闇米を運ぶ仕事だった。これなら、新庄にいたころ幾度も
東京の親戚に届けさせられていた下地があった。
知人に頼んで米を買い集めておいてもらい、それを週末の夜行列車で東京まで運ぶのだが、
鶴岡駅からでは窓からでさえ乗れないので、2駅もどって余目駅から乗り込む。
みな同じことを考えるので、夕方になると大勢の担ぎ屋が余目に集まり、荷物を真ん中に積み上げ、
まわりに円陣をつくって汽車を待つ。それを取締まりの警官と進駐軍のMPが取り囲み、たまにMPが
空に向けてピストルをぶっぱなすこともある。
そこに8時ごろ秋田始発の夜行列車が入ってくる。みなわれがちに荷物を抱えて窓から乗り込む。
入り口からなどまったく乗る余地がない。
だが、なかにガラガラ空いている車輌がある。秋田から朝鮮人が占拠してきた車輌だ。私はそこの窓から
荷物を投げ入れ、自分も乗り込むことにしていた。「入ってきたら殺すぞ」とすごまれても、
「乗ってからにしてくれ」と言って、強引に乗り込む。
実際になぐられもするが、少し我慢していたら、親分風の女性が「そのくらいにしておき」と停めてくれた
こともある。毎週のことなので、やがて顔見知りになり、引き上げてくれるようにもなった。
仕入れがうまくいって、一度に1俵分60㌔近く運んだこともあるが、やはりきつかった。通常は30㌔だ。
上野まで行くと、神田の須田駅で例の海軍大佐が活字と印刷の会社をやっていて、時価で買い取ってくれる
ので仕事は楽だった。帰りに新庄を回り、叔母の家に1泊することもあった。2度運ぶと給料1月分くらい
になるので、やめられない。