11/02/18 19:03:53
いえいえ、会津藩の中央政界への登場は、薩摩藩島津久光と岩倉具視らの斡旋によるもので、
最初は、江戸の幕府に対抗する朝廷側の武力として期待されたものだったのですよ。
事実、孝明天皇は身辺を会津桑名に警備させつつ、自らの権威で江戸の幕府へ干渉を続け、
この時期に江戸の権威は落下し、京都の朝廷と、京都に越して来た幕府の出先機関とで日本は運営されるようになります。
ところが、会津桑名は新撰組や見廻組を用いて尊王攘夷派浪士へ捕縛殺害を繰り返し、彼らと完全に敵対し、
また、京都の政界では薩摩や諸侯側と一会桑との対立が激化し、この最中に将軍家茂が死亡し徳川慶喜ら一会桑が幕府を手にします。
すると、幕府側に鞍替えした一会桑が、朝廷や諸侯と対立するようになり戦争に至ります。
要するに、会津や桑名は幕府を手にし、朝廷を裏切ったわけです。
会津の何が忠義なのかと思います。会津は実のところ、朝廷にも幕府にも従っていませんから。