凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part15at HISTORY
凸凸凸日本の城総合スレ凸凸凸Part15 - 暇つぶし2ch800:日本@名無史さん
10/10/25 21:20:43
明国や西洋文化を吸収しよういていたんじゃ信長は

秀吉の成金趣味ほど単純でもなく




801:日本@名無史さん
10/10/25 21:20:47
>>798
家康なんてもっと簡単
「大きいことは良いことだ」

802:日本@名無史さん
10/10/25 22:07:53
家康は信長にコンプレックスがあったようで安土同様最上階の屋根の色を特別なものとして銅板葺きで表現して天下人の証を踏襲した。特に駿府城は安土城の要素をふんだんに取り入れている。

803:日本@名無史さん
10/10/25 23:08:20
>>802
コンプレックスというより追慕の念かと、何だかんだで両者の仲は良好だったし
後、江戸城のみはしっかり全屋根を鉛瓦にしている、層塔型も家康が大々的に導入してものだし

804:日本@名無史さん
10/10/25 23:34:24
遠江横須賀、三河西尾、三河吉田には天守閣はあったのか

805:日本@名無史さん
10/10/26 00:00:15
>>802,>>803
俺はどちらでもないと思うな。

大御所の居城として、幕府のある江戸城とは趣を異とする天守の意匠を模索した結果、安土城を参考にしたという事は考えられなくもない。
しかし、意匠の変化のヒント程度として考えたかもしれないが、それ以上の思いまでは無かったと思う。

最上層の銅板葺は単に屋根の軽量化と見た目の美しさ、寿命が長い等の理由。それ以外を瓦葺として見た目の変化をつけて幕府の城との差別化をしていると言う程度ではないかと思う。

一方構造面では別の理由が考えられる。
一つは、家康が富士山が好きだったという点に着目したい。
好きだったと言われている富士山を最上階から眺める為の場所として、ただ単にシンボルだけの城の様に内部は簡素という造りではなく、比較的頻繁に利用する為、内装もそれなりに造る必要があったという理由。
そのため、御殿の造りを取り入れた事が考えられ、結果的に安土城天主と同じような要素が含まれる事になったのかもしれない。

又、ちょっと突飛な発想ではあるが、駿府城の下層が三浦研究室の復元図のような意匠で、(住むまでは行かないまでも)内部に居住するスペースがあったのなら、自分を神格化するための装置としての機能も考えられていたのではないだろうか?
三浦研究室の復元図に依ると1階と2階はまるで神社仏閣の様な佇まい。
内部がどうなっているかはわからないが、もし正面中央に対面所の様な間があったりしたら、来訪者はまるで参拝に来たような錯覚を覚えたりしたかもしれない。
そうだとすると、それこそがまさに安土城で信長がやろうとしていた事とダブって見えてきたりする。

806:日本@名無史さん
10/10/26 00:36:24
駿府城天守の復元案についてはいい加減に、史料に記述がない二・三階間の
腰屋根を追加するのを止めろと言いたい

807:日本@名無史さん
10/10/26 05:47:30
>>802-803
いや、家康は信長を恨んでいたと思う。
今川義元から押し付けられたとはいえ、正室と前途有望だった嫡男・信康を殺されているからね。
昔話を話して聞かせるのが好きだった晩年の家康も、信長のことに話題が及ぶと途端に口数が少なくなったことからも、
大御所の内面で、信長への恩義と恨みが激しい葛藤を引き起こしていたことが伺える。
したがって、駿府城天守は義元へのコンプレックスと信長への葛藤を解消する格好の手段となったと思われ…

>>804
天守というより御三階櫓という感じだね。もちろん城主や家臣は「天守」と言い張っていただろうがw


808:日本@名無史さん
10/10/26 07:25:39
秀吉の天下人サイズはどうよ。10×12間だっけ?この寸法の根拠って何なの?

809:日本@名無史さん
10/10/26 07:47:12
宮上説による継承される天守の平面規模

11×12間 安土⇒大坂

10×12間 名護屋⇒駿府

9×12間 聚楽第⇒二条城


これは俺の個人的な見解だが、
江戸の16×18間は諸国古城の図に記載された
豊臣伏見の 【天守曲輪】 の規模を受け継いだものじゃないだろうか

810:日本@名無史さん
10/10/26 07:48:23
下に訂正

9×10間 聚楽第⇒二条城

811:日本@名無史さん
10/10/26 07:49:27
また訂正

8×12間 名護屋⇒駿府


812:日本@名無史さん
10/10/26 09:46:35
まぁ、地方大名が「自分にご褒美」で、自腹切って建てる高知城みたいな天守と、
全国の大・中・小名を総動員して、出来栄え(=出世)競争をさせる天下人の5層7階の巨大天守では、
雲泥の差ってことですよ。

813:日本@名無史さん
10/10/26 09:54:37
>>807
信康については家康首謀説が強くなっている
ちなみに家康と信長の交友については年始に信長が吉良に鷹狩に行く際に、
家康が清須まで出迎え、共に鷹狩をして、帰りに岡崎に寄るということを何年か
行っている
語らないについては、家康の昔話は基本的に苦言が前提ですし
これ以上はスレチかな

814:日本@名無史さん
10/10/26 11:57:11
>>793

最上階に外縁が無いのは、同図がやはりそういった天守が主流となった時代に描かれたことを物語っているんだろうね。

その上で矢倉などが下見板張りで天守が絵?蒔仕様なのは、実物がそうであったからというより、
すこしでも豊臣時代の雰囲気を再現しようとした絵師の創意工夫だろうね。

その際には「大坂城図屏風」や「冬の陣図屏風」が参考にされたかも知れない。


>冬の陣屏風の白い大坂城のデマは城郭出版業者MMの陰謀かも?

さすがにそれは聞いたことがないが?


815:日本@名無史さん
10/10/26 12:18:48
伏見城は三度も天守を建て替えたから事情を知らない絵師の時代的錯誤があったと思う。様式が改変された寛永二条城天守を参考にした可能性もある。

816:日本@名無史さん
10/10/26 13:26:02
どう見てもここは平均年齢高すぎる。年齢も書き添えていただくとありがたい。

817:日本@名無史さん
10/10/26 13:56:51
>>815
洛中洛外図屏風を見ると慶長期と寛永期二条城は、ちゃんと望楼型と層塔型の描き分けはしている

818:日本@名無史さん
10/10/26 14:36:51
まさか、外縁付き=望楼型なんて思ってないかい?

819:日本@名無史さん
10/10/26 14:42:25
>>817
入母屋破風の有無で

820:日本@名無史さん
10/10/26 15:52:11
ほとんどの洛中洛外図は入母屋破風の積み重ねで表現されているがね

821:日本@名無史さん
10/10/26 15:59:32
>>788
初回録画してなかったからラッキーだぜ

822:日本@名無史さん
10/10/26 16:03:39
復元 寛永度江戸城 (復元:佐藤大規)(監修:三浦正幸) ぺパクラ
URLリンク(blog.livedoor.jp)

今週の27日から発売します。
amazonでは手配の都合上29日からとなります。


823:日本@名無史さん
10/10/26 16:11:00
淀城に構造的に類似している絵もあるから伏見城も何らかの事実を含んで描かれているはずだ。徳川天守の存在期間が長いから屏風図への影響は大きいと推定される。

824:日本@名無史さん
10/10/26 17:36:05
ほとんどの洛中洛外図は入母屋破風の積み重ねで表現されているがね。
思い込みじゃないかい。

825:日本@名無史さん
10/10/26 17:50:49
>>820
寛永期の二条行幸を描いた図屏風は層塔型がデフォ

826:日本@名無史さん
10/10/26 18:30:45
キャッスルランドの模擬天守が秀逸過ぎ。世間の期待を超越する美麗さ。この先入観が邪魔して地味な屏風絵の天守を絵師の架空として認めたくなくなるのだ。

827:日本@名無史さん
10/10/26 18:55:32
>>826
うむ。全国のなんちゃって天守は桃山城を見習えと言いたい。
特に今治城な。

828:日本@名無史さん
10/10/26 20:33:48
今治城って素直に亀岡城を復元すれば良かったのに。だって亀岡の天守台は教祖の墳墓でいじれないからね。いらない破風いっぱい付けて小倉と同じだよ。

829:日本@名無史さん
10/10/26 21:11:43
>>828
破風無し層塔型のモダニズムを理解できるのは少数派なんでしょう
だから徳川家は破風有り層塔型というポストモダンを案出した

830:日本@名無史さん
10/10/26 23:53:46
ポストモダンといえば聞こえは良いが、アバンギャルド

831:日本@名無史さん
10/10/27 00:00:52
>>830
破風付層塔型はどちらかと言えば、保守回帰なんだけどね

832:日本@名無史さん
10/10/27 00:16:05
すなわちロココ調ネオコンサバティブ、プロテスタント的コンサバティブで有ります

833:日本@名無史さん
10/10/27 06:33:38
破風は視察や射撃の邪魔。死角が生じる。破風に窓があっても使いにくい。小倉なんかは忠興が倭城で朝鮮、明相手に苦戦した戦訓の集大成だと思う。

834:日本@名無史さん
10/10/27 07:32:46
下層櫓と(屋根に載せた)望楼が分離(セパレート)した望楼型から、
最下階から最上階まで一体(モノコック)化した層塔型になって、
耐風性や耐震性が飛躍的に向上し頑丈になったものの、五重塔みたいで味気がなくなったのを補うべく、
望楼型への復古趣味ともいえる千鳥破風や唐破風で天守をゴテゴテに飾るようになった。

835:日本@名無史さん
10/10/27 08:52:01
坂本城址消滅したのか・・・
URLリンク(pc.gban.jp)

836:日本@名無史さん
10/10/27 09:28:00
前衛は小倉城の唐造りですな

837:日本@名無史さん
10/10/27 13:03:56
名古屋城・最上階の窓について、おまいらに質問!どっち?

①焼失前のオリジナルに戻して欲しい。
 URLリンク(morishige.omlog.net)

②復興後の現状でいい。
 

838:日本@名無史さん
10/10/27 18:13:01
富山のニュース 【10月15日01時53分更新】
増山城跡のシンボルに となみセントラルLC、冠木門の建築開始

冠木門の建築が行われる増山城跡の登山口=砺波市増山
URLリンク(www.toyama.hokkoku.co.jp)

砺波市増山の国指定史跡増山城跡の登山口で14日、となみセントラルライオンズクラブ(LC)による
冠木(かぶき)門建築工事地鎮祭が行われ、同LC、増山地区、市教委の関係者約20人が城跡のシンボルとなる門の完成を願った。
増山城は越中三大山城の一つで、2009年、国指定史跡となった。今回、同LCが門を整備することにし、
増山地区や市教委の協力を得て、設計建築を職藝学院(富山市)の上野幸夫教授に依頼した。

地鎮祭には同LCの太田守会長や上野教授らが出席した。冠木門は2本の門柱の上に冠木と呼ばれる
横木を貫いて渡した形となっている。今回建設される門は2本の柱の間が約3・3メートル、高さ約3・5メートルで、
鏡柱と呼ばれる主柱を支える支柱2本と礎石を施すことで、堅固な造りにする。

上野教授は「冠木門による城門の再現は全国的にも珍しい試み。100年は風雪耐えられる冠木門にしたい」と話している。
冠木門は27日にまで完成させる予定で、23日にはLC会員が防腐剤を塗る。

URLリンク(www.toyama.hokkoku.co.jp)



839:日本@名無史さん
10/10/27 18:39:39
>>837
窓を小さくすると最上階からの眺望は悪くなるだろうね
どうせ観光用の展望塔なんだから今の姿で良いのか?もしかして

840:日本@名無史さん
10/10/27 18:53:56
>>837
外から見ると①、中から見ると②がベスト。そんな技術ないのか??
でもオリジナルの方が安定感と塊(ソリッド)感あるなぁ…ヤッパシ①がイイ!

841:日本@名無史さん
10/10/27 20:15:37
URLリンク(pc.gban.jp)


842:日本@名無史さん
10/10/27 20:45:30
>>837
窓を直すんなら瓦を土瓦にして、破風の金箔をもとに戻した方がいいな。

843:日本@名無史さん
10/10/27 20:52:34
>>URLリンク(pc.gban.jp)

このリンク観れないんだけど

844:日本@名無史さん
10/10/27 20:54:02
>>843
自己解決。
観れた

845:日本@名無史さん
10/10/27 21:14:07
>>841
なんだろう、この格好悪さは一体・・・

846:阿部頼母
10/10/27 21:39:40
格好悪いといえば筑前筑後両ヶ國を睥睨する小倉城天守閣。

847:日本@名無史さん
10/10/27 21:40:45
>>840
中井正清が草葉の影で喜んでいるでしょうNE
私も焼失前のオリジナルがいいです、って優香、それしかないでしょう!

848:日本@名無史さん
10/10/27 21:45:20
URLリンク(pc.gban.jp)

849:日本@名無史さん
10/10/27 21:51:42
>>848
うーん、やっぱり前衛、前衛

850:槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq.
10/10/27 22:08:24
豊臣の大坂城って籠城して10年持つって言われてたけど、結果ね・・・・
淀がいなかったら実際はどうなってたんだろう?

851:日本@名無史さん
10/10/27 22:41:19
>>850
心臓部である本丸を一方的に大砲で叩かれ続けたんなら、どのみち士気は崩壊する
個人的には和議締結時には、総構門下まで掘り抜かれていた坑道が炸裂する瞬間も見たいが

852:日本@名無史さん
10/10/27 23:20:24
城の下を掘り進めて爆破するというのは、大河内なにがしという旗本がホラを吹いたにすぎないんじゃなかったか?

853:日本@名無史さん
10/10/27 23:26:48
>>852
それは本丸まで掘り抜いて天守を爆破という大法螺
実際に行なったのは総構の土塁や城門を爆破で崩すというもの

854:槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq.
10/10/28 00:04:58
まぁ。豊臣側は圧倒的に人材がね・・・・・牢人集めたのはいいが、信頼度が・・・。
大野修理も指揮官としての価値があったのか?凄い消極的な考えだったしね。
大阪城にはリーダーらしい大名はいなかったし、関ヶ原と同様、従おうって言う気持ちがなかったな。
でも、籠城してれば大損害は間違いないが、2年後に家康が死ぬって分かってたら豊臣家は滅亡しなかったのに・・・。
やっぱ、淀が悪いと思う。

855:日本@名無史さん
10/10/28 06:05:36
>>842
今の名古屋城、瓦も破風も銅版っぽいよね。築城当初は金箔瓦、金箔破風だったの??

856:日本@名無史さん
10/10/28 06:27:37
↑鞭

857:日本@名無史さん
10/10/28 06:58:13
>>850
兵糧がもたないと思うけど

石山本願寺の場合も毛利水軍からの兵糧輸送が信長の水軍に敗れ
兵站ルートが絶たれて和睦に

858:日本@名無史さん
10/10/28 08:53:43
>>570
秀頼の代で大坂城を建て直した可能性はどうよ?

ところで、秀頼の秀は丹羽長秀→秀吉だろうけど、頼ってやっぱ頼朝(初代武家の棟梁)かな?
小田原攻めの帰りに鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄って、頼朝の木像の肩をポンポン叩きながら、
「貴殿は天皇に繋がる血筋で天下を取られたが、私は卑しい出ながら天下を取った。私の勝ちですなw」と
話しかけたらしいし…
スレ地スマソ。

859:日本@名無史さん
10/10/28 09:01:06
>>858
織田信秀→丹羽長秀→羽柴秀吉→豊臣秀頼

860:日本@名無史さん
10/10/28 09:34:27
>>858
いくらなんでもあの大天守を代替わりってだけで「立て直す」までしてないんじゃないかな?
江戸城(慶長→元和→寛永)の場合は、元和の場合は大坂城へ移築、寛永の場合は本丸御殿の拡張のためで、それぞれ必然性があったからね。
某掲示板でも否定されてますた。

秀頼の頼は、諏訪大社が武門の聖地だし、諏訪大明神は武家の守り神だから、
諏訪氏の通字(平氏「盛」源氏「朝」足利「義」織田「信」徳川「家」…etc)から取った可能性もある。


861:日本@名無史さん
10/10/28 10:02:27
>>860
江戸城天守は元和度が本丸と御殿の拡張という理由があるが、寛永はこれといった理由は乏しい

862:日本@名無史さん
10/10/28 10:12:43
寛永期に史上最大の超巨大天守に建て直した理由は、(家光に中々子が出来ないのに危機感を覚えた)春日局によって大奥が更に大拡張されたため。
その際、家光が(神君の遺産である)駿府城天守を模したと思われ。

863:日本@名無史さん
10/10/28 10:37:53
>>862
家光は秀忠を通り越して「2世権現」を自認していたからな
自分は権現様(家康)の生まれ変わりである!と天下に示したかったんだろう…
だから家康の生まれた岡崎城ではなく、死んだ駿府城をモデルにした、と
死んだ家康の霊が家光の身体に乗り移って天下に睨みを効かせる、と

864:日本@名無史さん
10/10/28 11:18:28
>>862
それは初耳、よろしければ出典を教えていただきたい

865:日本@名無史さん
10/10/28 11:18:32
家光~綱吉にかけての直系将軍は史上稀にみるアホさ加減
系統が絶えたのはまさに天罰

866:日本@名無史さん
10/10/28 11:23:08
>>862
なるへそ!!それで合点承知の介
でもその大奥が原因で幕府の台所事情が火の車になるとは夢々思わなかったろうな
寛永天守は振袖火事で燃えちゃったし、天守を再建しようとしたら「無い袖は振れぬ」って、そこから北野加奈???

867:日本@名無史さん
10/10/28 11:23:47
家光の貿易制限(所謂「鎖国」)・重量車両禁止令・大型船禁止令などという決定的なミスがあったにせよ、
この二代から七代目の幕府は体制を固めることには成功しており、あまり批判したくない。

幕府の崩壊は、八代目の経済音痴から始まった。

868:日本@名無史さん
10/10/28 11:35:35
(7代家継生母)月光院と(6代家宣正室)天英院の主導権争いを発端に、幕末まで両派は因縁争いを続け、
ついには御三家の対立や将軍選び(表向きの政治)にまで飛び火してもうた・・・

江戸幕府は、家康によって開かれ、春日局によって作られ、春日局によって滅んだ、とも言える(?)

869:日本@名無史さん
10/10/28 11:47:02
>>862
寛永度天守は慶長・元和度とほぼ同じ規模・構造
後、寛永度本丸御殿の大奥はそれ程大きくはない、幕末の御殿のような今の天守台東にあった長局はもとより存在しない

870:日本@名無史さん
10/10/28 11:48:33
>>868
それって、角福戦争を発端に始まった今の国会の自民(旧福田派)VS民主(旧田中派)因縁争いそのものじゃん!

政権与党にお灸を据えることしか頭に無い国民と相俟って、日本は滅びるかも知れないjo!(完全にスレ違いだが)

871:日本@名無史さん
10/10/28 13:45:42
銅板は熱に弱い。江戸城天守は、長時間高熱で炙られて銅窓は変形して内側に倒れ落ちて火の粉を天守内部に吸い込ませた。金属板で屋根から壁まで包み込んだ駿府城天守も同じく大火で焼失。京都御所も銅葺にしたら大火であえなく全焼。以後は檜皮葺に戻る。

872:日本@名無史さん
10/10/28 13:55:22
>>871
内部は普通に土壁ですが

873:日本@名無史さん
10/10/28 14:02:56
白漆喰壁も剥がれやすいよ。
土壁が乾かないうちに上手に塗っても、10年くらいで剥離して下地が見えてしまう。
だから取替えが簡単な下見板や銅板で覆うようになったと思われ。


874:日本@名無史さん
10/10/28 18:29:16
徳川伏見城↓って、福山城の伏見櫓みたいに長押型出し白漆喰で、最上階のみ黒漆柱だったのかな?
URLリンク(www.youtube.com)

875:874
10/10/28 18:32:10
リンク貼り間違えた!スマソ!
URLリンク(www.youtube.com)

広島県・福山城(伏見櫓)ページの中程
URLリンク(www.arch.kobe-u.ac.jp)

876:田沼が頑張ってロシアと国交結んでいればな・・・
10/10/28 22:44:02
来年の大河ドラマ「江」の安土城はどうなる?

877:日本@名無史さん
10/10/28 22:58:50
むしろ慶長度江戸城天守が…
三浦案なんてだしたらマジで抗議の電話をする

878:日本@名無史さん
10/10/28 23:26:14
このスレ的には、やはりそういうことにんなるんだw

879:日本@名無史さん
10/10/28 23:33:41
現在、三浦は、津軽図が慶長度だって言ってるんじゃなかったけ?

880:日本@名無史さん
10/10/28 23:44:47
投石器(カタパルト)
URLリンク(www.youtube.com)

881:日本@名無史さん
10/10/29 00:13:01
>>879
家康が存命時に建てられた慶長度天守に東照宮がある
石垣の構造が『当代記』の記述に合わない
それ以前の復元案をなかった事にしている
なんか知らんが写しの図面を額面通りに受け取って欠陥建築とかぬかしだした

えー加減にせーよ

882:日本@名無史さん
10/10/29 06:04:31
>>876
URLリンク(castles.noblog.net)


883:日本@名無史さん
10/10/29 06:29:25
秀吉流築城術
URLリンク(www.google.co.jp)

884:日本@名無史さん
10/10/29 08:14:55
>>881
【エエ加減にせー】三浦正幸【インチキ城郭業者】

スレ立ててくだちい。

885:日本@名無史さん
10/10/29 15:20:50
>>874
コーシー吹いたw

886:日本@名無史さん
10/10/29 22:43:06
コーシー高峰

887:日本@名無史さん
10/10/30 01:17:55
なんていうか典型的な権力執着型の
反面、劣等感ありまくりの人みたいな感じが漂ってくるな

888:日本@名無史さん
10/10/30 01:21:49
内藤宮上三浦

889:日本@名無史さん
10/10/30 07:51:15
宮上氏の建築学に裏付けられた慎重な考証と異なり、三浦氏は不合理な屏風図の構造に惑わされる等学者としての資質に欠ける。三浦氏の思考回路はアマチュア研究者の先駆け櫻井氏に似ている。

890:日本@名無史さん
10/10/30 08:38:00
宮上案の安土城は、大棟をちょん切って載せた望楼部が分離した不安定な構造を採用するため、風が吹くたびに6階は大きく揺れ、信長は船酔い状態になる。
しかも5階6階の二重高欄にしてあるため、その付け根(5階八角堂)の高欄床下から雨水が浸入し、数年もすれば、雨が降るたび小屋の段が水浸しになる。
コーキングという現代の技術を前提とした構造になっていて、櫻井案同様、お絵描きの域を出ないものとなっている。



891:日本@名無史さん
10/10/30 08:57:00
望楼型天守の大入母屋の大棟なんて皆、切れているがね。
そんなこと自慢げに指摘するなんて、香具師鵜呑みのバカの一つ覚え。

892:日本@名無史さん
10/10/30 08:59:53
それに、最初の超大型天守なんだし、なんたったて施主は信長なんだから無理もしただろうね。

893:日本@名無史さん
10/10/30 09:06:43
>>890

>その付け根(5階八角堂)の高欄床下から雨水が浸入し、数年もすれば、雨が降るたび小屋の段が水浸しになる。

>コーキングという現代の技術を前提とした構造になっていて、櫻井案同様、お絵描きの域を出ないものとなっている。


URLリンク(www.kyoto-ranzan.jp)

URLリンク(ryokou-ki.sakura.ne.jp)

894:日本@名無史さん
10/10/30 12:13:41
>>890
雨が漏ったって、船酔いしたって、カッコイイ宮上天主なら信長も耐えたと思うyo!

895:日本@名無史さん
10/10/30 12:16:38
>>891-894
ネタにマジレス(悪)…

896:日本@名無史さん
10/10/30 12:21:38
>>893
安土は望楼部が2階建てで、4階建ての櫓の上に乗ってゐる。
風圧は相当なものになると思われるのだが、どうだらう??

897:日本@名無史さん
10/10/30 12:52:24
城戸博士は駿府城の縁側と欄干が天守内部の装飾と考証していたが、櫻井氏は外側の造りとして模型まで制作している。櫻井氏の素人的発想は的得ていたと思う。

898:日本@名無史さん
10/10/30 13:24:37
>>893
なにこの変な建物

899:日本@名無史さん
10/10/30 13:30:25
↑鞭

900:日本@名無史さん
10/10/30 13:40:32
>>890
大体それ以前に何もない手探り状態で建造した物なのに
あんな朱塗りやら金箔だのといったド派手な作りであるわけがない
そもそも奇抜な構造というのは
積み重ねた経験や実績があってこそ初めて冒険的な試みが可能となる
とくに信長の場合、天守そのものを居住空間として使用しており
そんな危なっかしい構造になど出来るわけがない

901:日本@名無史さん
10/10/30 14:04:08
>>898
格好良いと思うけどなー
>>900
安土が初めての天主(高層建築)という訳ないだろ
それまでも4階櫓的なものあったし、岐阜城にも天主は立っていた
光秀の坂本城や秀吉の長浜だって規模は安土に劣るとしても立派な天主だろう
坂本城は宣教師の記録にも安土に次いで立派だったと書いてある

極端に大型化して、派手な装飾をこしらえたのが安土であって
何もわからない状態からいきなり手探りで安土天主を建築したわけではない







902:日本@名無史さん
10/10/30 14:58:35
>>900
普段、居住空間として使用していたのは一、二階部分で、毎朝最上階に登り朝日を拝んでいたわけでもなかろうに(笑


903:日本@名無史さん
10/10/30 15:19:00
信長は自分の脚でエッチラオッチラ石段を登って大手門から天守まで上がったのかね
それとも籠や輿に乗って運ばれたのか?

904:日本@名無史さん
10/10/30 15:26:02

その為に石段の歩幅を馬に合わせてある

905:日本@名無史さん
10/10/30 15:36:03
木戸が言う「登りにくいのも天下人の道」という意味が最初わからんかった。

906:日本@名無史さん
10/10/30 16:40:18
>>900
無知。
日本の大型木造建築物の技術はもっと以前から成立していた。
都の建物や仏閣等ではもっと大きい。
装飾だって似たり寄ったり。

大型天守と言う建物を発明したのが信長と言うだけ。

907:日本@名無史さん
10/10/30 17:28:42

結論:「城は安土に始まり、安土で終わる」

(安土城解明の手掛かりになるものはないか?と)他の城にいろいろ手を出したりするんだけど、
結局、また安土に戻ってくるんだよなぁ~


908:日本@名無史さん
10/10/30 18:25:39
多聞城や岐阜城を忘れてるだろ

909:日本@名無史さん
10/10/30 19:04:00
とりあえず「旧者のそれを遥かに凌駕していることは―」とまで書かれている
豊臣大坂城天守とあまり変わらない大きさになっているという
どう考えても不自然な大きさの設定だけは何とかして貰いたいな、と

910:日本@名無史さん
10/10/30 19:51:26
豊臣大坂城の具体的な史料って中井家の平面図しかないのにな。

911:日本@名無史さん
10/10/30 20:04:27
>>908
それらも大型天守に含めていいの?

912:日本@名無史さん
10/10/30 20:10:13
URLリンク(pc.gban.jp)
URLリンク(pc.gban.jp)



913:日本@名無史さん
10/10/30 20:12:50
>>911
>それらも大型天守に含めていいの?


>>907
>(安土城解明の手掛かりになるものはないか?と)他の城にいろいろ手を出したりするんだけど、

914:日本@名無史さん
10/10/30 20:21:08
あづちを追い求めると岡山城にたどり着く。

915:日本@名無史さん
10/10/30 20:35:55
層塔型一本槍の私には興味の薄い話

916:日本@名無史さん
10/10/30 21:11:20


次スレ
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917:日本@名無史さん
10/10/30 22:56:44
競艇のCM、あの唐津城を文化財整備に貢献に入れていいのか?

918:日本@名無史さん
10/10/31 09:42:18
>>915
理想の層塔型天守はどれでつか?

919:日本@名無史さん
10/10/31 11:22:34
>>918
芸がないと思われるだろうが、江戸城
天守自体と破風の配置とバランスが安定している

次点で丹波亀山城、モダンなシンプルな構造が良い

920:日本@名無史さん
10/10/31 11:32:59
江戸城は(慶長・元和・寛永)と3つある>>685みたいだけど、どれでつか?


921:日本@名無史さん
10/10/31 11:55:15
>>920
慶長の奴、白で統一された意匠が空に映えると思う

寛永は黒色系で重すぎるし、元和は破風が複雑すぎて層塔型に合わない

922:日本@名無史さん
10/10/31 12:39:27
そんな貴兄に質問!
望楼型の場合、前期(大屋根と望楼の棟方向が直交=安土城、岡山城)と後期(大屋根と望楼の棟方向が同じ+最上階平側に唐破風=姫路城、駿府城…)で簡単に見分けが付くけど、
層塔型の場合、前期(名古屋城>>837)と後期(寛永期江戸城)で何が違うんですか?


923:日本@名無史さん
10/10/31 12:58:00
>>922
層塔型の前期・後期はかつては最初期とされた名古屋城や松本城の1・2重が同規模であることから、
戦前の藤岡通夫氏や城戸久氏、戦後は内藤昌氏が提唱されていました

しかし松本城は解体調査の結果、基が望楼型であったという説が有力になり、また名古屋城以前にも
加納城や日出城など初重から逓減している層塔型が確認されており、現在は否定されています

では何故かという話になりますが、これについては初重規模を拡大させることなく、高さを稼ぐ方法
だったと考えられます
似たような例として大垣城天守、間に腰屋根がない駿府城、水戸城、小田原城、古河城
望楼型も含めれば、金沢城や水戸城も含まれます

924:日本@名無史さん
10/10/31 13:10:13
つまり層塔型の前期・後期の見分け方としては、

前期:1層目と2層目の床面積が同じ=2層目から逓減し始める(例:名古屋城)。
後期:1層目からいきなり規則的に逓減する(例:寛永江戸城)。

やっと解った!お産クスコ!

ちなみに慶長(家康)江戸城も元和(秀忠)江戸城も後期望楼型で桶?

925:日本@名無史さん
10/10/31 13:16:09
>>924
ちゃんとスレ読んでる?

926:日本@名無史さん
10/10/31 19:01:00
例の木幡山城、少し大き目の写真を発見


洛中洛外図屏風 秀吉が築いた伏見城描く 教育・文化 中部発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
URLリンク(chubu.yomiuri.co.jp)
URLリンク(chubu.yomiuri.co.jp)

927:日本@名無史さん
10/10/31 19:11:54
なんとなく、肥前名護屋城に似た佇まいだね。
黒漆塗り鉄板に菊紋や桐紋、唐草など蒔絵を描いた腰壁…これが秀吉好みだったとしていいだろう。

928:日本@名無史さん
10/10/31 19:12:10
でも、なぜに土塁なんでしょうかね

929:日本@名無史さん
10/10/31 19:49:04
学研の本に伏見城も黒塗りだったと書いた人がいたね。徳川も白漆喰から銅板を黒塗りにしたし、聚楽、名護屋で白漆喰に飽きて伏見は黒塗りにしたかもね。

930:日本@名無史さん
10/10/31 19:53:02
>>926
天守の形はいつもの判子絵に見えるわ

931:日本@名無史さん
10/10/31 19:56:47
>>873

932:日本@名無史さん
10/10/31 20:05:52
判子絵風天守を実際に造ってしまった金沢城御三階櫓

933:日本@名無史さん
10/10/31 20:09:51
>>926
本丸の右にある廊下橋と繋がっているのは二ノ丸、その下にあるのが治部少丸と思われる
下の縄張り図を参考にするとつまりAの地点からの俯瞰となる
ここで注目するのは空堀に人がいる点で、ここから推察すると豊臣氏時代の伏見城は今より
も空堀が浅く帯曲輪的な要素が多きかったと考えられる

URLリンク(www.geocities.jp)

934:日本@名無史さん
10/10/31 20:20:54
カラホリを通路にしていた可能性はありそうですね
URLリンク(www.geocities.jp)

935:933
10/10/31 20:39:48
他にはAと松の丸の間にある出丸がないのでこれは徳川時代に造られた可能性が高い
天守が松の丸側にないのは御殿の手前に天守を描かない技法的な問題と思われる

936:日本@名無史さん
10/10/31 20:45:26
URLリンク(www45.tok2.com)
金沢城のこの石垣は、二段目以外が落とし積みになっているところを見ると
明治以後に積み直されたものなの?

937:日本@名無史さん
10/10/31 23:52:13
>>936
URLリンク(uploader.sakura.ne.jp)
URLリンク(uploader.sakura.ne.jp)

938:日本@名無史さん
10/10/31 23:55:55
>>937
納得

939:加州侯附家老・本多安房守政重
10/11/01 00:03:37
前田藩が幕府に遠慮して金澤に天守閣を造らなかったのが悔やまれる

940:日本@名無史さん
10/11/01 06:59:24
仙台藩も、赤穂藩も天守台だけ作っておしまい
石垣だけが残る怪

941:日本@名無史さん
10/11/01 07:16:26
江戸時代前期に天守台があれば城の体裁が整うと言う思想が定着。明石、赤穂等はその典型。

942:日本@名無史さん
10/11/01 07:35:18
>>941
ふむ。一国一城令以後に着工された例外の城だな。

943:日本@名無史さん
10/11/01 07:52:04
新政府の許可で築城した園部城は、山上にでかい櫓をぽつんと建てて天守扱い。

944:日本@名無史さん
10/11/01 08:11:25
天守閣の格付け
・松(最高国宝級)…安土城、大坂城、伏見城、江戸城、駿府城など
・竹(要衝に建つ示威城)…松本城、岡山城、姫路城、名古屋城、熊本城、福山城など
・梅(地方大名の御三階櫓)…高知城、掛川城、犬山城、彦根城など

945:日本@名無史さん
10/11/01 08:40:47

日本には1800年前から、スサノオが将来役に立つ時が来るからと天皇家に渡した金塊があった。
鎌倉(元のフビライ)時代、マルコ・ポーロが「黄金の国ジパング」と呼んだのは、その金塊量が当時世界一だったから。
室町(大航海)時代になって、イエズス会や東インド会社が日本にやってきたのはそれ目当て。

ヴィクトリア女王は三浦按針ことウィリアム・アダムスを通じて、日本を植民地化し、スサノオの金塊を手に入れるべく、
傀儡に選んだ家康にあれだけ最新式の武器を提供し(関ヶ原合戦&大坂の陣で圧勝)天下を取らせてやったのにもかかわらず、
家康がヴィクトリアの野望に気付いため、鎖国されて失敗!
この時のイギリスの恨みが産業革命を経て、やがて明治維新を起こすことになる。

KWSKはこちら↓
URLリンク(www.aa.alpha-net.ne.jp)

946:日本@名無史さん
10/11/01 10:01:43
格式でがんじがらめの時代に新築された相良城を見てみたい。映画のセットみたいな城だったんだろうがね。

947:日本@名無史さん
10/11/01 13:13:04
>>944
梅はデフレの今でも復興できるだらうが、竹や松は次回のバブル経済発生までムリだらう。

948:村岡官房庁長官
10/11/01 14:06:57
その格付けは恣意的だ。
駿府は竹にすぎない

949:日本@名無史さん
10/11/01 14:14:24
竹にはぜひとも津山城天守を加えてもらいたい

950:日本@名無史さん
10/11/01 19:44:38
>>945
マジレスするとヴィクトリア女王は産業革命以後

951:日本@名無史さん
10/11/01 19:59:04
>>943
園部城でぐぐって先頭に出てくるサイトが、インフォシークの昨日サービス終了した
無料プロバイダ上だという哀しいお話。

952:日本@名無史さん
10/11/01 20:29:13
>>941
同時期着工の尼崎、福山には天守を作れて明石は作れなかったとはこれ如何に

953:日本@名無史さん
10/11/01 21:04:34


次スレ
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954:日本@名無史さん
10/11/01 22:09:28
明石は縄張りの段階で天守建立の可能性が無かったと考えられる。天守台が隅ではなく側面に凸型に少しせり出すだけで防御上無駄な配置となっている。築城者が最初から幕府に配慮したとしか考えられない。

955:日本@名無史さん
10/11/02 00:53:04
明石の築城者は小笠原か?

956:日本@名無史さん
10/11/02 01:10:06
野球場を撤去して堀の復元を

957:日本@名無史さん
10/11/02 06:19:50
「この城堅固にして天守を建てるべからず」権現さまが丹波篠山城に下した宣告。このあたりから諸大名の天守建立を遠慮する傾向が出てきたと思う。

958:日本@名無史さん
10/11/02 08:05:32
>>945
家康に武器を供給したのはエリザベス1世だyo!


959:日本@名無史さん
10/11/02 08:15:06
>>948
小田原攻めの後、家康が関東に移封されたのは、秀吉も宿泊した天正期・駿府城があまりに立派だったのも一因という説もある。
秀忠に将軍職を譲った後の慶長期駿府城は間違いなく天下普請で「(伏見城修築に携わっていた)京・大坂の大工が雲のように(駿府に)消えた」と記録があることから、間違いなく「松」と思われ。

960:日本@名無史さん
10/11/02 08:22:55
>>944
松=天下普請(全国大名総動員)
竹=周辺大名動員
梅=自腹天守

よって名古屋城・彦根城は松!
URLリンク(ja.wikipedia.org)

961:日本@名無史さん
10/11/02 08:35:40
彦根城は廃物利用の城だわさ
よって格下であります

962:日本@名無史さん
10/11/02 08:40:48
大津城だっけ

963:日本@名無史さん
10/11/02 09:12:05
その大津城天守は(本能寺の変後)丹羽長秀が再建した坂本城天守の移築だった可能性について。

坂本城の位置と構造(1-8 坂本城と明智光秀をクリック!)~坂本城を考える会
sakamoto-jyoh.org/_userdata/data/sakamotojo-mitsuhide1.pdf


964:日本@名無史さん
10/11/02 13:03:29
なぜか完全に忘れ去られている近江八幡城について

965:日本@名無史さん
10/11/02 14:01:52
>>964
殺生関白の城じゃぁね

966:日本@名無史さん
10/11/02 15:04:09
その八幡山の天守台が神社の工事で破壊されたらしい。

967:日本@名無史さん
10/11/02 22:05:21
移築の系譜
坂本城→大津城→彦根城

968:日本@名無史さん
10/11/02 22:23:37
埼玉四名城

川越城
岩槻城
忍城
岡部陣屋

969:日本@名無史さん
10/11/02 22:49:53
川越…酒井重忠、松平信綱、柳澤吉保、秋元喬知、松平斉典、松平康直
岩槻…阿部重次、大岡忠光
忍…阿部豊後、奥平下総
岡部陣屋…安倍摂津守

970:日本@名無史さん
10/11/03 14:28:50
全国の移築櫓を紹介しあおうぜ
笠間城
URLリンク(takayama.tonosama.jp)

971:日本@名無史さん
10/11/03 14:58:25
横ですが
ヨーロッパの城マニアも中々ですね

URLリンク(www010.upp.so-net.ne.jp)

972:日本@名無史さん
10/11/03 15:49:52
>>716
あれって豊臣と徳川のミックスじゃなかった?

973:日本@名無史さん
10/11/03 16:00:15
>>850
豊臣方が城の北側の中洲?を除去してしまわなかったのはなぜだろう。
あんな大規模な総構えを作ったぐらいなのだから、それぐらいやってもよさそうな気が。
秀頼時代にしても、真田丸の建造と合せてやろうとは考えなかったのだろうか。

974:日本@名無史さん
10/11/04 09:01:46
>>970
それって寺に移築されてんだっけ

975:日本@名無史さん
10/11/04 09:35:36
笠間は天守が神社に縮小改築されて旧位置に現存する唯一の例。

976:日本@名無史さん
10/11/04 16:52:27
土浦城も捨てがたい(太鼓門・高麗門が現存、東櫓は再建、西櫓は復元)
www.kohgin-syohji.co.jp/syasinsyu/tutiura3.jpg

地味ではあるが、愛知県の西尾城(天守が月見櫓)、飛騨高山城(安土城を横に寝かせたような複雑な御殿)も風情があってイイ!
blogs.yahoo.co.jp/merce203/11254422.html
3.bp.blogspot.com/_-qr2cFrSTJE/SmEdInmZwjI/AAAAAAAABoc/PRWabl8jRuY/s400/0901%E9%A3%9B%E9%A8%A8%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E5%AE%88.jpg

977:日本@名無史さん
10/11/04 17:43:30
駿府城の坤櫓も財政難で復元延期かな。川越城の富士見櫓はどうなったんだろう。

978:日本@名無史さん
10/11/04 17:53:33
竹下内閣の「ふるさと創生1億円」を元手に、櫓を再建した水口城には敬意を表したい。
URLリンク(www.pref.shiga.jp)

979:日本@名無史さん
10/11/04 17:56:49


次スレ
スレリンク(history板)l50





980:日本@名無史さん
10/11/04 17:59:05
>>979


981:日本@名無史さん
10/11/04 18:05:50
>>979
乙です
なんだかんだで気が付けばもう
前スレからやって来た新参ですが
こんなマニアックなスレなのに進行が早くてびっくり

982:日本@名無史さん
10/11/05 08:11:37
>>915
岸和田城って現在「彦根城もどき」の望楼型天守だけど、
江戸時代は五層五階の層塔型天守が建っていたんでせう?

983:日本@名無史さん
10/11/05 12:20:47
>>982
そうらしいデス
単にお金がもったいなかっただけのような気もしますが
今ではあの天守が市民のあいだですっかり定着してしまったので
ちなみに私は元岸和田市民デス
有名なだんじり祭りを始めたのは城主の岡部氏だったこともあってか
地元の人は今でも岡部の殿さん殿さんといって慕ってマス

984:日本@名無史さん
10/11/05 14:33:32
岸和田市には天守復元の計画はなく天守台に城郭風図書館を建てただけなのです。その後も史実を無視して八陣の庭や櫓、多聞を模擬建設しております。

985:日本@名無史さん
10/11/05 14:41:46
岸和田城には下見板張の層塔式に近い五層の天守があったようです。落雷焼失後は二の丸の三重櫓を「天守」と改称させて藩主の具足一式を格納させてます。古写真が一枚も出てこないのが残念です。

986:槌の子狩人 ◆UiIixM3Kq.
10/11/05 19:00:58
田中城について語ろうじゃないか。

987:日本@名無史さん
10/11/05 19:15:56
丸いなあ。

988:日本@名無史さん
10/11/05 19:41:44
典型的な輪郭式縄張りかと

989:日本@名無史さん
10/11/05 21:00:58
きっと櫓も円柱状だったことだろう。

990:日本@名無史さん
10/11/05 21:39:23
990

991:日本@名無史さん
10/11/05 21:56:55
991

992:日本@名無史さん
10/11/05 22:00:00
992

993:日本@名無史さん
10/11/05 22:01:51
993

994:日本@名無史さん
10/11/05 22:12:15
994

995:日本@名無史さん
10/11/05 22:13:25
995

996:日本@名無史さん
10/11/05 22:13:57
996

997:日本@名無史さん
10/11/05 22:15:06
997

998:日本@名無史さん
10/11/05 22:19:15
998

999:日本@名無史さん
10/11/05 22:19:34
1000

1000:日本@名無史さん
10/11/05 22:19:51
1000get!

1001:1001
Over 1000 Thread
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