10/10/20 02:18:16
>>14
般若心経大本に次の一文がある:
yaH kas'cit kulaputro gaMbhi:ra:ya:M prajn~a:pa:ramita:ya:M carya:M cartuka:maH kathaM s'ikSitavyaH
最後の s'ikSitavyaH についてだが、岩波・中村訳では「(どのように)学んだらよいであろうか」
となっている。
ところが、Monier-Williams の辞典(p.1070)で語根 s'iksh- には“to learn, to practice,
to acquire knowledge”なる訳語が与えられており、未来受動分詞語尾 -itavya が付くと
s'ikSitavya- は「学ばれるべき」という訳になるはず。
しかし、yaH kas'cit「誰であれ・・・する人」が主語なので、「修行したいと欲する人は
誰しも学ばれるべき」では意味を成さない。
中村訳では何故「学ばれるべき」が「学んだらよいであろうか」となっているのか?
因みに Max Mueller の英訳でも “how is he to be taught?” となっていて、... is to be learnt ではない。