07/05/17 12:47:56 1YlWRnWh
>>71 貴重な情報に感謝。(著者に「矢野」と見れば、まず、絶対に、読まないことにしているからw!)
唐津 一(1999):"田口玄一(1999):タグチメソッドわが発想法.,(株)経済界,東京" 解説,同書巻末p.234-237。
以下引用(一部を任意に要約・省略、または注釈を括弧書きで付記)> (p.234)(電電公社・・・電気通信研究所の
設立があり)・・・幅広く人を集めた。・・・何を研究・・・大学からの人は・・・基礎研究が重要・・・企業からの人は・・・製造
現場・・・、本社からの人は・・・全体システムの研究が重要で、そこから(個別の)テーマが出てくる・・・(と説く)。
そこに登場したのが茅野健氏・・・研究はいかにあるべきかというテーマを取り上げ、「我が国の実用化研究」という
報告書を作成・・・私(唐津)もお手伝いした・・・ (p.235)このときの組織が器材実用化部研究管理課。ここで
(唐津は)田口さんと一緒になった。茅野さんの人集めがすごく・・・一人一人名の残るそうそうたる人たち・・・共通
テーマは、品質管理と実験計画法といった統計手法の開発と応用である。 (p.235)その後、茅野さんが本社に
転出することが決まったので、我々はあわてた。・・・西堀栄三郎先生を引っ張り出して、西堀特別研究室という
のを設立してもらった。・・・(電気通信研究所の)研究所長が伺ってご依頼・・・快く・・・ (p.235) >引用以上
なお、田口のインド滞在は1954年09月(同書p.77,L5)から1955年08月(同書p.78,L10)まで。
西堀特別研究室の開設、解散、どちらの大きな変動も田口が海外に行くと留守に起こったのは偶然だろうか?