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2002年、新たに監督に就任した伊原春樹の勧めでこの年から外野手一本に絞り、5番左翼手のレギュラーに定着した。初めて規定打席に到達し、打率.319、本塁打33本、81打点と、
定着1年目から中軸打者として申し分のない成績を残し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献した。しかしレギュラーとして迎える初めての日本シリーズでは15打数無安打と不振だった。指名打者部門で初のベストナインを受賞。
2003年は、前年よりさらに成績を上げ、打率.346、30本塁打、89打点を記録。自己最高の出塁率.428、長打率.632を叩き出した。
また柴田博之が出場する際には中堅手や右翼手としても起用された。この年から4年連続で外野手部門でベストナインを受賞する。
2004年は、アレックス・カブレラの開幕出遅れで、6月まで4番を任された。打率.320、30本塁打、89打点の成績で、3年連続3割30本80打点を達成。
5月30日の函館市千代台公園野球場での北海道日本ハムファイターズ戦で芝草宇宙から本塁打を放ち、通算100本塁打を達成。
この年からパ・リーグで開催されたプレーオフでは、第1ステージ第3戦北海道日本ハムファイターズ戦で、横山道哉からサヨナラホームランを放ち、
チームを勢い付ける。 後に移籍することになる中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、打率.310、4本塁打、6打点で12年ぶりの日本一に貢献し、優秀選手に選ばれた。
2005年は、春先は絶不調であったが後半戦からは打率.370と一気に追い上げ、シーズン打率.322で初の個人タイトルとなる首位打者を獲得。
同時に153安打で最多安打のタイトルも獲得した。パ・リーグの右打者による首位打者獲得は1993年の西武・辻発彦(打率.319)以来12年ぶり。4年連続30本塁打には3本届かなかった。
2006年3月、ワールド・ベースボール・クラシック日本代表に選出された。しかし尿管結石を発症するなど体調を崩し、1次リーグでの代打起用のみに終わった。
シーズンでは6・7月に不調に終わり打率が伸びず、後半巻き返したが打率.298で惜しくも5年連続打率3割はならなかった。本塁打も19本に終わった。
しかし自己最高の95打点を記録し、5番打者としてチームに貢献した。チームメイトの赤田将吾と並んでリーグ最多補殺を記録。