11/08/07 14:59:53.67
新堕落論についてもせっかくだからちょっと感想を。
論の全体的な構成を把握すると、まず戦時中における農村映画の映画の企画についての話が
ふられて、それに刺激され農民精神なるものの実情を、安吾は、大化の改新にまで遡って
考察するんだね。で、農民精神は美徳であるという政治的言説に反発して、そんなのは
美徳でも何でも無い、連綿とつづいていたのは退嬰的精神以外の何者でもないと断定し
それから、農民精神の政治的な称揚は、天皇制の政治的必要性と密接に結びついていると
かぎつけて、天皇制批判にいたるわけだ。安吾の農本主義批判が、大化の改新まで射程を
もってる批判であることと平行して、安吾の天皇制批判も、貴族や武士の時代まで遡り
いかなる時代にあっても、天皇は権力者に政治的に利用されるだけの存在であったと
明言される。それで日本における天皇の政治利用の集大成が、八月十五日終戦の詔勅
だったというんだね。たとえば、河上徹太郎は、終戦の詔勅はひとつの奇跡だっていうんだが
安吾はそういう言説に激しく反発するわけだね。こんなのは、からくりであり、ペテンであり
天皇制がある限り、日本に真の人間性が開花することはありえないってね。
で、話はこれでおわりになるかというと、そこから論は尾崎咢堂のコスモポリタニズム批判へと
流れていき、しまいには共産主義批判になるんだな。当時において、もっとも急進的に
天皇制批判やってたのは共産主義者だから、ここで共産主義批判へと論を転回させるのは
論旨の一貫性を自ら解体する行為と、共産主義者にみなされても仕方ないんじゃないか。
安吾は、論旨の辻褄をあわせることより、論を様々な方向へ開いておくことを優先したので
一貫性とおもわれるものを自ら放棄したと、続堕落論の構成はこのようなものであると
とりあえず一つの解釈を提示しておく。