11/02/12 15:40:48
>>580
音とか色とか匂いとか
そうした感覚的なものって、引用した朝吹真理子さんの文体からは
引き出し難いんですよ。イメージを浮かび上がらせるまえに言葉が単独で
動き出しちゃうようなところがある。それだけ選ばれた言葉一つ一つが重厚なんですよ。
言葉と言葉の組み合わせで文章はできているんだけれども、文章よりも言葉が生きてきちゃう。
風景のなかに溶け込んだ音とか色とか匂いとかを浮かび上がらせるには
全体的な雰囲気を醸し出さないといけないと思うんです。
時間的な感覚に優れているという評価なんですけど、先に引用した文章の
なかには時間的な流れがない。
視点が動くわけですよね。先ず、庭の全体を捉える。次に個々を捉える。
細部が見えてくる。これって時間的な流れでしょう。その流れのなかで
色に気づき音を耳で捉え、匂いがイメージされてくる。
感覚的なものを呼び起こす描写とはそうしたものだと、わたしは思っているんです。
でも、先に引用した朝吹真理子さんの文章からは、そんな感じを受けない。
551さんが三島の文章を引用していましたが、あれと通じるものがありますね。
感覚的なものを連れてきて、読者の想像性を限りなく解放するという文体じゃないような
印象を受けるんですよ。むしろ、抽象的なもの、思想的なもの、言葉そのもの
を表現するのに適した文体のような感じがします。
川端康成の文章と比較すれば、わたしが言っていることがわかると思います。
これは、先に引用した箇所に限ったものなのかもしれませんが、少なくとも
先に引用した箇所はそんな印象がして仕方がないんです。
だからダメだと言っているんではないですよ。感性を解放する描写に優れている
という評価に首を傾げているだけです。悪しからず……。