11/02/08 03:41:12
朝吹さんの小説は形式の刷新者か、エピゴーネンか、という対立において評価されるべきなのだろうか?
必ずしもそうは思わない。たとえば、現代短歌におけるひとつの使命めいたもののなかに、文語の力の
継承がある。この継承が歌人にとって大切なのは文語と短歌形式の結びつきにあるが、同様のことが散文
の芸術作品において妥当してもいい。たとえそれが歌人ほどの深刻さを持ちえないとしてもね。
その意味じゃあ彼女は「伝統芸能」の担い手として、少なくとも歌舞伎役者のようなスターにはなりうる
わけだけど、それはけっして新しいとか、画期的とか、そういう評価の枠内ではない。もちろん、彼女の
作品はたんに文語をこざかしく使いまわして文体に淫するようなものでもない、と思う。たとえば記憶の表象
からどのように物語を立ちあげていくか(あるいは別の道を進むか)は、20世紀の小説家が苦心したあげく、
いまだに疲弊してはいないホットな挑戦であると思う。だけど、いままでの作品を読んだかぎりでは、記憶の扱い
はたんなる連想にもとづくモンタージュの域を出るものではなく、またその手なみも、古井どころか日野啓三あたり
にもはるかに及んでいない。おれは彼女が古井のたぐいとは違う挑戦に向かうのか、それとも伝統芸能の担い手として、
ひたすらにその語りのたくみさに磨きをかけていくのかに関心があるなあ(そしてもし後者の道を選ぶなら、おれに
とってはすでに魅力的な書き手ではなくなってしまうだろう。すでにおれたちには「山躁賦」があるのだから)