09/07/14 23:00:16 epYj7hHM0
さて、ゼルダらしさについてでも語るか。
おれが考えるゼルダらしさ…それは「ゼルダという体験」だ。
上手くいえないけど…ゼルダってゲームは、初めてやったゼルダがベストなんだよね。
何でかっていうと、ゼルダには押しなべて「ゼルダ律」とでも言うべき法則があって、
それが謎解きやゲームの攻略に関係している。最初はそのゼルダ律を見出すまでに苦労があるゆえに、
ゼルダは難易度が高いゲームのように感じる。また、同時にゼルダの楽しさのピークはゼルダ律を見出してる最中に訪れる。
この「ゼルダ律」という、ある種マンネリになりかねない法則を受け継ぎながら、なぜ今までゼルダが受け入れられてきたかというと、
それはもうハードの進化あってこそだと思うんだよ。もちろんハードの進化がそのままソフトの進化となることは、
どのゲームにも言えることかもしれないけど、ゼルダの場合ほとんどそれが全てのように思うんだよね。
演出から謎解きから何から、一種の様式が出来上がっちゃってる。
だからオカリナ、ムジュラまでは何とか許されたんだ。2D→3Dという大きな進化があったから、
それにあわせてゼルダ律も大きく変貌したんだ。必然性を持って、自然な形でね。
問題はタクトからだ。このあたりからハードの進化というものに、根本的な違いを見出せなくなった。
つまり、画質が上がっただけの、焼き直しゼルダを量産するはめになった。
俺は、この悪しき風潮がトワプリで飽和状態になったと見ている。あのゲームはよく言われるように、時岡の焼き直しだ。
初めてやった人しか感動できないゼルダ…。
この状況を脱するには、ゼルダらしさというものを見直す必要がある。
そのために必要なことが、ゼルダらしさからの脱却だ。
矛盾しているようだが、事実そうなんだ。今まで築き上げたゼルダ律というものを、もう一度壊さなくてはいけない。
そして新しい「初体験のゼルダ律」を生み出す。つまり、ゼルダ律という上辺のゼルダらしさを半分脱却して、
もう半分はまったく新しいゼルダ律に組み替えることによって、古参にも新参にも初体験を平等に与えるという、
ゼルダらしさの「本質」に立ち返る、ということを意味している。
もしこの本質を再び見失えば、古参からも見放されて、もうゼルダに未来は無いだろう。