23/05/14 05:15:54.96 QLlqHcA/.net
ゼノンの逆説は自然は多、数で出来ているとするピタゴラス学派へのもの
時空に最小単位が在れば、と競技場の逆説で否定する
数には大きさが無いとするピタゴラス学派に二分の一、アキレスと亀の逆説で否定する
飛ぶ矢の逆説では、点で空間が構成されていたら運動は不可能だとする
つまり自然は一なのだとする師パルメニデスを擁護する
しかし数で理解することは否定していない
光速度一定の原理はパルメニデスの正しさを証明する
数で理解するが数は実在しないのだと
有は無で規定されるから、0に限りなく近いが0ではないという奇妙な規定になる
また運動を静止で規定するから不確定性原理となる
ヘーゲルの運動規定は否定で規定するから決定不能になるということ
運動は静止で規定されるから
古代ギリシャは健康な子供だとある学者は語る
クレタ人、パルメニデス、ヘラクレイトス
エピクロス、デモクリトスは認識の論理だろう
いずれにしても自然科学は自然認識なのだということを強調したい
それは必然として認識の在り方の追究に繋がるのだと
理数系の問題意識のある方々に問題提起をしたいのです
「進化は万能である」ではエピクロスを祖述したルクレティウスはニュートンをはじめとして様々な分野に影響を与えています
わたしのみるところではこれは認識の論理ではあり優れてはいますが本質論からすれば一歩届かないのではと
ボッティチェリの「春の誕生」がルクレティウスの自然理解を展開しているという指摘には驚きましたが
たぶんこれに基づく限り科学革命は困難ではないのかなと
わたし自身は日本の理数系の学徒に科学革命達成をと願っています