24/07/22 11:46:21.35 GWT0M8X6.net
日本の城の建築技術は世界的に見てかなり後ろの方である。
その中でも石垣の建築技術は相当稚拙である。
しかしそこで非常に面白いのは歴史的に見てある時代に一斉に沸き起こり日本国中に広まり
そしてそのまま保存された技術が2種類あることである。
まず一つは城の石垣を見た際に最も目にする機会が多いであろう痕跡は矢穴石、矢穴の技法である。
矢穴の技法で最も知らなければいけないのは日本の石垣を備えた城として白眉である安土城で認めないことである。
そして本能寺の変後の豊臣秀吉の建築である石垣山城、名護屋城、朝鮮の倭城で数多く認めることである。
矢穴の技術はユーラシア大陸、南北アメリカの石工の技術として普遍的に認められるものであるが、少数の例外を除いて日本では
豊臣秀吉以降の建築で広まったと考えられる。この非常に狭い極端な時期の限定と伝達経路の狭小がこの話のポイントである。
二つ目の技術は刻印石である。刻印石は大阪城で有名であるが、こちらも天下普請の篠山城が初出と考えられ、
豊臣秀吉の時代の矢穴石を認める城郭では認めない。また九州の豊臣秀吉時代以前に矢穴石を認めるような様々な
中小の城郭でも刻印石は認めていない。唯一例外的に黒田如水が建築した福岡城では建築後に刻まれたと考えられる刻印がホントに少数存在する。
刻印石は天下普請で大名ごとに多数の刻印をしるし、協力して石垣を建築したことに由来すると考えられるが、
その技術自体はヨーロッパでは石工のかなり初期から認められるようで、また墓石などでも呪術的な意味を込めた
幾何学的な象徴を刻印する習慣は古く、日本でもそれ以前より梵字の刻印などはあったが、城の石垣の刻印石は
ほぼこの時期の天下普請の城に集中している。
いずれも時代がキリスト教布教後の日本の内乱の時代であり、鉄砲の普及と同じく軍事施設であった
城の石垣を建築する技術としていわゆる南蛮人、キリスト教宣教師らの手を経て伝わったものと考えられるが、
その明確な証拠はなく、日本国内に普遍的に存在する戦国時代以降の石垣を伴ったいわゆる日本式の城の研究の上で
重要な要素として世の中に知られる必要があるだろう。