武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?6at SENGOKU
武田信玄が長生きしていたら、天下を取れたのか?6 - 暇つぶし2ch138:ているわけですが、 この状況になるまでが、信玄が家督を継承してから、およそ10年余程、という事になりますかねえ。 ちなみに、駿河は1568年年末から開始され、1571年の一月で深沢城が攻略され、 駿河の北条領土の大部分が武田に制圧される、という状況になりますので、およそ2年余り、というところではないかと 思う次第でございますかねえ。 実際に、史実では、勝頼とかは北条に上杉の相手をお任せして、 高天神侵攻とか、他の徳川領土侵攻とか、 徳川の主城である浜松城近辺の蹂躙とか略奪とか、 普通に色々とやっているわけですからねえ。 北条の方も特にそれで武田に不満を述べているわけでもないわけでございますしねえ。 (実際に、史実ではそれでも北条は関宿やら羽生を攻略する事ができたわけですしねえ。) 何度も述べている事ではございますが、謙信が1574年の初頭から、末に至るまで 関東の各地で奮戦を続けていく第一の理由は、関東諸侯の救援要請にこたえる事と、 北条に侵攻されて苦しい状況になっている、関宿やら羽生やらの救援を行う事、なわけですからねえ。 史実では普通にそれを目標にして関東の各地で年末まで奮戦し続けても、 結局、関宿やら羽生やらを北条が攻略してしまっている、という状況ですのに、 この状況で武田領土にまで攻め込む理由がどこにあるのかと思う次第なのでございますが、 この件につきましても、>>126で聞かれている事と同じくお答えの方をよろしくお願いいたしますかねえ。 1574年の謙信の関東侵攻は、1574年2月に沼田に着陣し、 赤堀城、善城、山上城、女淵城、といった上野の北条側領土の諸城を攻略し、 さらに深沢城(駿河の城と同名ですけれど、これは上野東部にある城。)を攻めて、その城主を従属させ、 さらにその勢いで御覧田城も攻略しておりますね。 そしていよいよ上野の北条領土における大豪族である、由良氏の金山城を攻略にかかろうとしますが、 そこで北条氏政が救援の為に大軍を率いて来援し、利根川を挟んで上杉側と対峙しますね。 結局、この時は利根川が増水していた事から、両者ともに川を渡っての決戦が行えず、 北条側が4月15日に撤収、上杉側は拠点として今村城を構築した後で、5月にひとまず越後に撤収しておりますね。 そして、7月にはまた北条の侵攻が開始された、という報告を受けて、まず先発隊として上条や上杉景信などを派遣し、 その後で、自身も本軍を率いて8月の初めに関東に出陣しますね。 で、関宿城がいよいよ本格的に危機的状況にある、という報告を受けた謙信は、 11月には利根川を越え、北条側の主力軍勢を自身たちに向けさせる為に、 武蔵の鉢形、成田、上田、などの諸城に放火や蹂躙をしていきますが、 深谷の上杉憲盛から関宿に侵攻している北条勢が撤収した、という報告を受け、 一旦は矛先を上野の方に転じて、先にも書いたように、北条側の上野における大豪族である 由良氏の金山城を攻略しようと、金山に陣を張っておりますね。 しかし、その後で関宿城主の梁田から、関宿に侵攻している北条勢は撤収していない、 という報告が届けられ、急いで新田・館林・足利領、などに放火や蹂躙をして回りつつ、 下野の只木山に到着し、一日軍勢を休息させた上で、佐野と藤岡の間に陣を張り、11月23日には小山氏などと談合しますが、 閏11月には北条側の攻囲によって関宿やら羽生やらが防衛の限界に達し、攻略される事になりますね。 で、謙信は1574年末には本国である越後に撤収、という流れになるわけですね。 このように、謙信は文字通り、関東の各地で奮戦を1574年一杯にわたって繰り広げるわけですけれど、 結局、関宿やら羽生やらを救援する事はできなかったわけでして、 武田はこの間、普通に上記のように高天神を攻めて攻略したり、 家康の主城である浜松周辺を蹂躙したり、他の徳川領土に侵攻したり、 という事を普通に行っているわけで、北条の方も特にそれらについて、 不満などを述べたりはしていない、という流れになっているわけなのでございますが、 これらの件については、いかがなものなのでございましょうかねえ。




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