スレ立てるまでもない質問スレat SENGOKU
スレ立てるまでもない質問スレ - 暇つぶし2ch28:人間七七四年
14/11/01 11:12:44.07 OoEwluKY.net
戦国時代の武将で、双子の武将はいたりしたのでしょうか?

もしくは、それを匂わせる史書とかは有ったりするのでしょうか?

29:人間七七四年
14/11/01 13:00:17.29 6gn/78I7.net
家康の次子・結城秀康は双子だったって説があるな

30:人間七七四年
14/11/03 23:50:08.74 PYhSdtJF.net
80年代半ばからの秀吉ってどうしてこんなに偉そうに出来たの?
同じ大名の立場なのに、どうして「こっち来い」と言われて会いに行かないといかないんだよ。みたいな。
例え秀吉の家臣にせよ、友好的な大名にしても、疑問を持たなかったの?この秀吉の高慢な態度に。
数年前までは信長の家臣の1人だっただけの奴に、どうしてペコペコしなきゃならんのかと。
秀吉の奴、急に偉そうにしすぎてるな。そろそろ秀吉包囲網でも組むか的な風潮にならなかったのかね。

31:人間七七四年
14/11/10 17:28:11.21 aBx5SVt6.net
清華成には内府たがい条を発給し挙兵した
毛利や宇喜多もなっているのも知らんとか恥ずかし過ぎるw
もちろん上杉も清華成で同格だし。
秀吉は同家格の彼らの中に徳川が埋没することを狙っていたわけだ。
五大老筆頭なんて言葉は江戸幕府が作った捏造語で、
秀吉は五大老なんて言葉は知らんから。
いよいよ諸大夫成の一番下の立場でしかない三成が、
公家成の島津らはともかく、
清華成の殿上人を差し押いて、
家康打倒の首謀者に成り得る可能性は皆無だな。
どう考えても輝元が首謀者としか考えられない。
内府たがい状に 家康が諸大名の妻子を贔屓屓に国元に帰したことを弾劾してるから、
大坂には人質なんていなかった。 完全に作り話。
挙兵した西軍が伏見城を落とした辺りで、
帰属してきた美濃諸将から人質を取り始めたりしてるしな。
残念ながら、秀吉の遺言と称する二次史料の覚書に関しては、
家康を特別扱いした文面に限り、
直江状と同じで関ヶ原後の改竄で家康の正当化の作為指摘されてんだよ。

早稲田大学が持つ豊臣秀吉遺言覚書案は、
清水亮氏が宮部氏が家康の体面を重んじて江戸時代になって作成したと指摘してるし、
浅野家に伝わる秀吉遺言覚書も、
矢部健太郎氏が内府以外の文字の時に、大納言殿、江戸中納言殿、羽柴肥前殿などと、
徳川家と前田家だけは律儀を強調したり、
『殿』の敬称を付ける反面、
他の大老は呼び捨てになっていて呼び捨てになってる異様さ。
さらに人質もろともみんなで大坂に政治中枢を移動した後のさみしい伏見に家康を閉じ込めて帰国禁止にし、
いつでも武政の大坂から権威の伏見を討てる形を作ったのに、
遺言だと徳川と前田に任せるような矛盾する話になっており、
そもそも伏見に家康が置き去りで、
奉行衆も検地などで下向して全員揃うことがあまり無いのに、
バラバラで合議制なんて成立しないという点。
極めつけは、この秀吉の遺言に関して、
上杉や毛利ら関ヶ原で負けた側には全く伝わってない不審さ。
これらを挙げて浅野家文書の遺言は関ヶ原後に手が加えられた可能性があるとされてる。
実際は秀吉がもともと上杉よりも下の家格だった前田家を急速に引き上げ、
ついには秀家、景勝、輝元より早く権中納言に利家が就任するなど、
利家を政権の後見役にしようとする動きが見えるため、
秀吉の遺言には前田家の秀頼後見役にする話しかなかったのでないかと考えられる。
秀吉が家康を特別扱いする必要性が無い。

32:人間七七四年
14/11/10 20:59:33.32 Z1k6pT/p.net
そもそも関ヶ原の戦いの時に一番上の地位にいたのは家康じゃなくて、
西軍にいて尾張奪回を狙って出陣した正二位前内大臣北畠信雄だからね。
尾張で捕縛されて家康に土下座したけど。

33:人間七七四年
14/11/18 05:07:10.00 s9Q3ENDP.net
小田原攻めの際、北条氏政が黒田官兵衛宛てに送った書状に「黒勘」の表記があったような気がしますが、これがこの板でよく黒田官兵衛が「クロカン」と呼ばれる理由なのでしょうか?
それともこの書状に限らず当時多くの人が官兵衛のことを「クロカン」と呼んでいたために現代でもこの名称が存続しているのでしょうか?

34:人間七七四年
14/11/18 05:09:32.41 4nD8sGuB.net
>>33
書状で名前を略すのは当時の親しみの表し方にすぎん。
クロカンというのはむしろ近代以降の呼び方やろな

35:人間七七四年
14/11/18 05:31:05.85 s9Q3ENDP.net
>>34
即レスどうもです
そう言えば山本勘助もヤマカンと呼ばれてますし、姓と通称を縮めた呼び方が形式として存在していたんですね
クロカンの場合は語感の良さが受けて未だに使われてるといった感じですか

36:人間七七四年
14/11/18 20:50:57.29 X6lL4f8K.net
形式というほどのこともない。
慣用表現、ってぐらい。

37:人間七七四年
14/11/19 01:07:41.01 K4q7enNw.net
>>35
昔も今も、語呂が良ければ縮めて呼ぶ事は当たり前だろ。
前田健太でマエケンとか、木村拓哉をキムタクとか。

38:人間七七四年
14/11/19 01:34:34.03 oz8qVD44.net
4音って呼びやすいのね、2音の名前みたいに短すぎるとわざわざ四文字にもされる

39:人間七七四年
14/11/19 18:43:17.72 wwWg9Jlq.net
「ぼす」ではちと短すぎると感じましたのでこれより殿下を「らすぼす」とお呼びいたします。

40:人間七七四年
14/11/20 11:51:55.07 iOkKbXWG.net
>>30
天正11年4/12付秀吉→輝元宛では
前々せがれの時でさえ、信長家中においては、秀吉が真似ごと仕るべき者、これなく候つる
などと書いていて昔、子供の時ですら信長家中で自分ほどのことができた人間はいなかったと書いていて
秀吉がせがれ時代からすでに信長に仕えていたことがわかる。秀吉の才覚じゃ自他共に認める隔絶した将器だったのが判明しよう。
他にも上井覚兼日記や島津側書状で、 天下静謐のために秀吉が島津に停戦受け入れるよう命じた時に、
島津が秀吉のことを、なんでお前みたいな馬の骨に名門島津が従う必要あんだよ?みたいな侮り記述がある
フロイスの日本史にも身分も低く血統も賤しいと秀吉の人となりを書いているので、島津の批判は間違っていないだろう。
天正10年10/18の秀吉書状には、自分のことを「小者一僕の者に過ぎなかったのに信長が召し上げてくださり」
などと書いていて「下僕」の身分に過ぎなかったのに、信長が身分を引き上げてくれたことを感謝してる。
また、天正17年11/24の秀吉書状では、
「秀吉若輩の時、弧と成りて信長公幕下に属し」などと書いていて
「孤児」に成り下がり、頼るべき親類もいないほど貧しくなって信長公に仕えたと書いている。
あぁ孤児って訳は染谷氏の解釈であって俺が勝手に訳したわけじゃないからな。
看羊録の著者は、 秀吉の父の家は元来貧賤で、農家に雇われてどうにかたつきをを立てていた。
壮年になってから自分から奮発し、信長の奴隷になったが関東に逃げて数年し、
また戻って信長に自首したので、秀吉は一心に奉公して昼夜風雨を厭わなかったと書いてる。
耶蘇会の1584年の年報にも はっきりと「一般人民の声によれば、秀吉は何事においても
彼の前任者信長より遥かに優れている」と当時の日本での世評において激賞されていたことを記している。

天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見~京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。

信長には分国法すら無く、単に室町幕府に寄生してたら下克上された 歴史的意義の無い 実質10年弱で淘汰された畿内政権だからね。

41:人間七七四年
14/11/20 20:39:34.46 iOkKbXWG.net
安国寺は天正12年1/11にも秀吉の評判を書き残していて
大なる事は、近年信長の下にても、羽柴羽柴と申候て、世上操りをも、又弓矢をも手に取り候て、鑓をもつき、
城をも責候て存んぜられ候、又、小事の儀は小者一ケにても、又、乞食をも仕り候て存んぜられ候仁か、
申し成しなとにては成る間敷候、日本を手の内にまわし候、今日まては名人にて候、明日の不慮は、存ぜず候
などとどんなことでもなんでも抜群にこなせるオールラウンドプレイヤーで頭角を現し、信長の名も霞むほどだと書いてる。
ここで面白いのは秀吉は乞食まで経験してるので、世間の人情の機微も心得ていて名人なので
信長のような犬死のような突然の死に方もしないと書いてるところ。

42:人間七七四年
14/11/21 01:59:18.01 5DfkDuHo.net
>>28
森力丸と坊丸は双子と書いてあるサイトを読んだことがある。
真偽は知らぬ。

43:人間七七四年
14/11/21 08:20:24.05 Z5h0Wz/4.net
信長は怒りの感情に任せて好き勝手に命令しているから
家臣に荷重がかかり精神磨耗させてるだけで、
秀吉はキチンと戦略を組み立て経営管理しているから
家臣が心配なく自由にやれる。
この違いが大きい。
信長は社員を見下し威張りまくるパワハラ ワンマン経営で仕事内容もグレーゾーンで社員の離職率が高いブラック。
気に食わない、自分に従わない者を悪人認定して次から次へとイチャモンつけていくDQN。
恐喝と破壊と殺戮による亡国政策のもとに文化財や民を損ない日本を衰退させた人物。
しかし秀吉は新たな国のシステムを創る才覚があったから元同僚たちも従ったんだろうね。
中間搾取層を排除し、農民に土地を与え、戸籍を作り、民政重視により氾濫防止と田畑拡大を目的に、
河川治水と海上交通網と街並み城下整備など、
大開発を通じて日本を活況させたのが秀吉。
秀吉は信長と真反対のことを行い人心を得た。

44:人間七七四年
14/11/21 10:22:15.19 KbQdv/aP.net
信長は神仏の使いである鹿の大量虐殺による寺社への挑発・荘園の略奪・惣村強制没収略奪・京での略奪放火恐喝大虐殺・強制労働と相次ぐ臨時の税賦課
上限の設けられない軍役・軍役がない時は軍道作りを強制される。また子供が遊ぶことも禁止された。
これらに従わない場合は弾圧で村や都市ごと焦土にする(信長のこのやりかたを一国亡国と呼ばれ批判された)
信長体制とは無政治無内政体制ともいうべきもので、とても国家の体を為してない
単なるあらっぽい下克上大名のレベルからの昇華は認められない。
それは近代兵制たる田畑からの収入把握から算出される家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成がなされていないからこそ生じた問題であろう。
それを虐殺略奪を兵制の基礎に置き、武篇道の督励で対応しただけの蒙昧ぶりが信長。
信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
また甲州の治水技術は関東開発に役に立ったが織田は治水をやらないために後世に残る織田治水などは一切残らなかった。

秀吉が治水をしているのも田畑開発、水害防止、大坂から京への海上経済通商政策を理解しているから。
兵農分離の先駆けは天正13年卯月22日付けの秀吉朱印状が嚆矢。
紀州の雑賀・根来を討ったときに刀狩りを命じていて
その際に頭領の者を選んで皆殺し、平百姓は許すと書いていて
明確に兵と農を区別して国人指導層を殺し、武器を没収して完全な農民にしている。
これにより専業武士と農民が区分けされ秩序が生まれ国内は安定を迎えた。
信長にはそういう思考はなく皆殺しの撫で切りや根切りや磔など残虐な極刑による地域消滅政策。
秀吉は農村の生産力確保維持政策が基本にある。
秀吉の平和安定のための物流革命と言えば、信長死ぬや早くも
天正10年10月には京の出入口に設けられていた関所を廃止し(禁裏領率分関)、
信長のやり方の否定を開始し、次々と経済振興策を繰り出し始め、
ついには「公家武家地下商人に至っては諸役を止め、座を破らる。
これに依りて悦ぶ者多く悲しむ者少なし」などと秀吉の政策は激賞され、
「日本国の諸役、京のみいり(関銭)、兵庫の関、津々役儀かくのごとく往古より有り来る役さへあがり候処」と宣言し昔からあり続けた税の免除を開始。
「日本国諸役悉く上げ申し候処」
関所や港で商品にかける役銭をはじめとして日本国中のすべての役の賦課権を没収するまでに至り、空前の活況を示した。
信長のもとで関所や座の組合が経済活動を押さえ付けていたが(薄と言う公家が牛にまで税を賦課していたのも秀吉が完全廃止した)
これにより自由往来と自由通商が可能となり瀬戸内海から伏見~京への河川流通網整備のため大河治水が開始された。
これが桃山文化と呼ばれ日本各地で城下町が整備され、
日本史史上最も派手で豪勢な時代と言われている。秀吉の下、インフラ整備と経済活況化への資本投入による民心安定策である。
さらに秀吉は太閤検地と身分法令において人口戸籍まで作らせて言わば国政調査をしている。
例えば伊達が朝鮮出兵で飛ばされている間を狙って石田豊前守にやらさせたりしてる。
また朝鮮出兵は看羊録によれば国内で変事を起こさせないように兵を消耗させ
戦国の気風がある荒々しい武将どもの内乱意識を消す戦後処理を謀る意図があったとする。
また土木工事も諸大名の経済力を奪い取ると同時にインフラ整備と経済活性政策であった。

45:人間七七四年
14/11/21 10:24:32.41 KbQdv/aP.net
秀吉は全国統一の度量衡の統一、税や法の平等を施行し、
それに反して挙兵するものは朝廷から認められた公儀政権として警察権を行使し
下克上的機運や中間搾取層の排除による既得権益の一掃と豊臣政権による官僚制を志向した。
秀吉は帝国主義・重商主義の世界史的な流れを理解し
大陸進出により、日本が強国で植民地化が不可能だと悟らせた。
看羊録には、秀吉の朝鮮出兵は諸大名の力を削いで
戦乱や領地を望む心を奪うためと書いている。
戦国の機運を終わらせるためには強権発動も必要なのだろう。
~キリシタンはさらに悪質で領主層を惑わす~と秀吉は書状に書いている。
秀吉が給付した領地の主人は変更することはあるが、其の地の農民の移動はない。
それなのにキリシタン大名が秀吉の許可も得ずに領地の寺社を勝手に燃やしたり略奪するのは許されない。
宣教師の企みを喝破できたのは日本の中でいまはまだ私だけだ」と言っている。
信長のようにただ単に興味本位で珍しい新しい物好きで宣教師を厚遇してるバカとは違う。
また高山右近が高槻に続き転封先の明石で寺社を破壊してたのを施薬院全宗が秀吉にチクったことで
激怒した秀吉が博多でポルトガル人の奴隷売買を糾弾したり、
牛馬は人間に仕え有益な動物なのになぜ食べるのか?と言ってたが、
(秀吉の基本思考・・・ポルトガル船でも純粋な交易のためなら寄港するのも問題なし、
秀吉から2000貫以上を給付される者がキリスト門徒になる場合は自分の許可を得よ。
それ以下の者の場合、日本の宗派は八宗あるが、キリスト教が加わり九宗になっても大して変わらんから
信教の自由は保障し何を信じようが構わない。但し、秀吉から給地を与えられた者が、権力を以って
庶民にキリスト教信者になることを強制したら罰する。)
小田原城を降伏に追い込み奥州仕置きをしようとする秀吉は
天正18年8/10に関東にも刀狩り令をだし、その中において
人を売買することを禁止し、天正16年以来で人を売買した者は
すべて返却するように命じ、売る者も買う者も処罰すると宣言している。
このことから高利貸しが政権運営する北条が滅亡するまで頻繁に奴隷売買をしていたことがわかる。
信長のような蒙昧暗愚の暴君と秀吉の差は天地の開きがある。
重商主義的・帝国主義的な植民地化がすでにフィリピンにまで押し寄せている中で
秀吉のみがキリシタンの野望を喝破し、逆に朝鮮への遠征を行うことで
日本の武威を知らしめ、陶工などを連れ帰り現在に至る名産品を生む。
秀吉は明確に日本人民の安全を謀り世界に対する武力誇示と同時に
国内混乱要因の武士層のストレスを解消させる政策を実行(神風連の乱や西南戦争を見れば明治政府の武士への扱いの苦心もわかる)

46:人間七七四年
14/11/21 10:25:37.86 KbQdv/aP.net
資金面から見てみよう。
永禄11年11月上洛するやさっそく
石山本願寺に礼銭五千貫を恐喝
法隆寺に防築銭千貫余を恐喝
永禄12年2月
堺の代表10人中8人を
自刃に追い込み二万貫の矢銭を恐喝。
尼崎は矢銭拒否により全焼略奪。
8月の織田による山名祐豊の但馬攻略後に
祐豊は堺の金融業者の渡辺宗陽を頼って今井宗久を紹介され
今井宗久が祐豊に年利40%で1000貫文を貸付け
それを信長への礼金として但馬復帰を許してもらってる。
信長が永禄12年からの恐喝集金システムでバブリーだったのも
志賀の陣での敗北までに浪費しまくって全部使ってしまったのだろう。
信長がやたら強気に出て、本願寺まで敵に回してしまったのも
あまりの想像を絶した大集金で舞い上がってマトモな判断力を失っていたのだろう。
永禄13年4月改め元亀元年4月に改元。
朝廷からの荘園返還要求から逃げまくる信長
比叡山の荘園横領しまくりの信長による元亀2年9月比叡山焼き討ち略奪。
元亀3年に奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を上納
しかし金が尽きたのか12月にも再度の要求があり成身院に銀子100枚上納の記録が残ってる。
この年は大和で地震もおきていて大和亡国と呼ばれた。
元亀4年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに
まずは小手調べで賀茂~嵯峨まで燃やして恐喝し銀棒300(それぞれ重さ43匁)
恐ろしくなった上京が払った銀1300枚の受け取り拒否した上で上京を焼き討ち略奪。
(信長に金を渡しに行く際に織田軍に略奪され、改めて高利貸しから借金して信長に渡すなど酷い状態になったりした)
御所への延焼の恐れが出てきて天皇も逃亡準備。桂川が死体で埋め尽くされる大虐殺開始。
下京恐喝(銀800枚)で金品を集める。
しかしあっちゃこっちゃ延焼しまくりで火だけは統御できない。
織田軍は常に金欠だったんだろうな(ちなみにこれ以前にも京で略奪をやって織田軍と徳川軍が
略奪品を巡り衝突し織田軍が敗北している)
越前加賀で虐殺略奪大会したあとに前田や不破や佐々に越前の寺社領は
先祖の織田神社以外はすべて没収とかやってるし
宗麟とかは商人から借金したりしてるけど
信長の場合は武力をチラつかせて上納を要求する恐喝型だしな。 完全に893
しかしもう恐喝できる相手すらいなくなり
みんな貧民だらけになってしまう現実・・・北朝鮮的織田統治下全員貧困化政策。

47:人間七七四年
14/11/21 11:37:56.78 KbQdv/aP.net
織田軍の残虐行為の証拠隠滅行為から逃れるために
当時の人々が瓦の裏に後世の人々へ、その犯罪行為を告発しているほど

「後世の方はどうか語り伝えて下さい。
5月24日に一揆が起こり、 前田利家が千人を生け捕りにした。
磔、釜茹で、その有様を書き留めておきます。」

またフロイスも日本史において
荒木の謀反の時は、荒木の妻、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、すべての従兄弟たち、甥、近親ら36人を
市中引き回しの上、斬首(市中引き回しは名誉を重んじるので死ぬことよりも甚だしい恥辱と不面目を信長は与えた)
荒木の城から取っていた貴婦人120名は磔(赤子も母の胸に縛りつけて串刺しにして母親を一層苦しめるやり方をした)
これを見た群集は殺された者が赤の他人であっても肝を潰し幾日も放心状態になる人たちばかりだったほどで、
このまったく罪なき人々に対して前代未聞の過酷さと残虐に京の群集が恐怖したのもつかの間、
今度はさらに残酷で非人道的かつ恐怖を比較にならぬほど煽ったのが、
4つの平屋を作り、そこへ514名が入れられ(380名が女性)外から火をつけられ全員を生きたまま焚殺した。
彼らが発する悲鳴や叫喚の声は、彼らが受けている残忍極まりない苦しみが、京都を恐怖で覆った。
このように荒木のみが受けるべき罰を、多数の無実の人々が受けた。
苦悩の涙と尽きることがない慟哭だけがずっと聞こえてきた。

これが信長のやり方で、異常な暴君以外のなにものでもなかった。

信長は日本史上、唯一の恐怖と虐殺を礎に王朝を築き上げようとした
大陸中国人的専制独裁君主なんだよな。
だから猜疑心が異常に強く、
行き着いた終着駅はカルト宗教の神になって崇拝を強要し権力だけでなく新たな権威を備えようとした挙句に自滅。
朝廷も異常なまでに恐怖し、家格も前例も段階も踏まずに一気に位階官職を引き上げようとしてるくらい媚びへつらい朝廷存立の危機感を持ってたが、
それすらも拒絶して朝廷秩序の枠外に出てしまった日本史上、唯一の暴君。

48:人間七七四年
14/11/21 12:00:58.15 jRwsxZfR.net
荒すなよカス菅沼遼太

49:人間七七四年
14/12/01 00:09:15.81 pcnXVagQ.net
大友宗麟が名将扱いされてる理由が分からん
大内氏いが滅びたからその残党を吸収しつつも島津に敗れて壊滅しただけじゃないの?

50:人間七七四年
14/12/01 01:30:16.23 NcWWY9TD.net
そもそも名将扱いされてないでしょ。

51:人間七七四年
14/12/01 02:13:50.99 pcnXVagQ.net
されてないのか、ごめん
信長の野望では準一級的な能力と顔グラだから強い武将なんだと思ってたわ

52:人間七七四年
14/12/03 09:12:41.15 ezHLUEqW.net
毛利に連勝しまくった名将でしょ。
家督譲ってキリスト教三昧な生活やってたら、
息子の義統が下手うったから、家臣団から当主復活してくれって頼まれたけど、
あくまで義統が大友当主だといって後見役に復帰して、
大友内乱を治めるのに成功して、毛利の便乗も破ったし、
隆景の伊予攻略も失敗に追い込んでるじゃん。

53:人間七七四年
14/12/03 09:16:56.97 OaP3T190.net
宗麟は功もデカイけどやらかした失敗もデカクて

ゲーム的にいうと、キャラの性能はいいんだけど操作するプレイヤー側に問題がある、みたいな

54:人間七七四年
14/12/03 09:46:23.36 ezHLUEqW.net
失敗なんてあったか??

55:人間七七四年
14/12/03 12:25:37.40 SicqXKKM.net
どうせ島津に敗戦したのを
いまだに宗麟が主導した戦だとか思ってるアホだろ。
むしろ敗走してきた大友軍を支えて一時は踏み止まらせるのに成功したのが宗麟。
誤情報で結局、撤退したけど、被害を最小限に食い止めてる。

56:人間七七四年
14/12/03 12:38:20.67 I1EytWOg.net
カス菅沼遼太、適当なこと言ってんなよ

57:人間七七四年
14/12/07 22:12:53.59 vk5ySBRi.net
>>54
子育て

58:人間七七四年
14/12/08 15:39:43.72 2u1Icnhf.net
国人衆と家臣の線引きってどのあたり?

木曽義昌は1555年に武田に降伏し娘や人質を差し出し1582年に反旗を翻した
これだと1555年に家臣になったのがわかりやすい

毛利元就は1525年大内義興の後ろ盾で高橋一族を破り足場を固め1537年隆元を人質に差し出す
1540年吉田郡山城の戦いの活躍で安芸武田氏を滅ぼし安芸最大の国人となる
1551年大寧寺の変で事実上大内が滅ぶと1554年防芸引分で陶晴賢と決別
これは従属国人ではあるが家臣ほどではない

松平広忠は1535年森山崩れでボロボロになり1539年今川に泣きついて1547年に竹千代を差し出す
1549年死ぬと岡崎城は接収され城代を送り込まれている
これは早くて1539年遅くても1549年には家臣に降っているようだ
家臣と言えるのはどのあたり?

59:人間七七四年
14/12/08 15:59:03.13 6ZE/ro+x.net
>>58
国衆が大名の家中に取り込まれたのは近世に入ってから。
それ以前はあまり区別する意味は無い。

60:人間七七四年
14/12/08 17:39:43.94 hhTpV3Lt.net
>>58
とりあえずその三例は全部国人かな
大名は国衆を家中に取り込んで家臣化を押し進めてたから
取り込まれ途中の中間形態なんてどっちに区別とかできないし厳密な判別は難しいね
大名から「殿」付けされたたら国衆、「との」付けなら家中とかも参考にはなるけど厳密じゃ無いし
毛利みたいに同時代の家中名簿と国衆名簿を残してくれてたら簡単に判別できたのにね

61:人間七七四年
14/12/09 15:10:39.03 HNiFHT52.net
山内一豊のウィキペディアに記載されている
「関ヶ原の合戦後の追撃戦で家康に先鋒を求めたが、寛大と評判の一豊が先鋒だと西軍が降伏してしまうためやんわり断られた。」
という逸話の出典(史料でも小説でも)をご存知の方いますか?

62:人間七七四年
14/12/12 10:02:48.41 EVAQ/Z9n.net
関白と征夷大将軍はどちらのほうが偉いのですか?

63:人間七七四年
14/12/12 10:16:47.00 iPgindBB.net
>>62
そもそも意味合いが全く違う役職。
ただし室町後期になると将軍家と摂関家はほぼ同格と考えられていたようで、将軍家と摂関家の間では通婚が行われている。
江戸期もそれに準じている

64:人間七七四年
14/12/16 04:00:22.52 1Rg9JPsU.net
小早川隆景が亡くなった際、秀秋が故人を偲んで詠んだ歌があると聞いたのですが、
詳しいことをご存知の方はいらっしゃいますでしょうか?
ググっても個人サイト以上の情報が引っかからず…

65:人間七七四年
14/12/18 13:38:26.02 yDNh6imx.net
物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず

66:人間七七四年
14/12/18 13:39:51.03 yDNh6imx.net
すいません書き込んでしまいました

物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず

とはどういう意味ですか?

67:人間七七四年
14/12/18 18:41:01.58 +H5Px5kl.net
まんまじゃね?

68:人間七七四年
14/12/21 09:31:58.42 jsu2KoHC.net
関ヶ原の戦後豊臣の領地が220万石から65万石になったとき
なんで家康殺さなかったの?その決定で殺す大義名分あるし
豊臣恩顧の大名も多かったやん
秀頼の御前で謀反ありとぶった斬ればよかったんじゃね?

69:人間七七四年
14/12/21 12:26:12.74 FnbnX6kd.net
関ヶ原であわや日本全土に乱世再来となりかけたわけで
秀頼が幼少で指導者不在の豊臣も諸侯も強力な統治者を必要としていたので無理です

70:人間七七四年
14/12/21 12:58:36.52 E91JbBFN.net
そもそも220万石の殆どを構成する豊臣蔵入地は五奉行体制があってはじめて管理できるようなものなので、
蔵入地どころか本拠摂河泉の管理すら自身でできなくなっていた関ヶ原後の豊臣家にその保持は現実問題として無理。

71:人間七七四年
14/12/21 17:41:34.12 jsu2KoHC.net
なるほどな

72:人間七七四年
14/12/24 01:49:28.18 UItYDs0/.net
220万石は豊臣直轄地で
蔵入地は諸大名の領地の中に設定した別腹収入だよ。
家康はこの蔵入地を廃止して諸大名の支持を得た。
この蔵入地は諸大名の内情監視の出先機関にもなっていたし。

73:人間七七四年
14/12/24 18:42:05.43 rQCin5Ug.net


74:人間七七四年
14/12/25 22:27:30.14 yRTbQsfL.net
関ヶ原の西軍で、田辺城攻めてた人達は、なぜほとんど本領安堵だったの?

75:人間七七四年
14/12/26 00:27:11.87 jdwILHnc.net
天皇の仲裁に従ったから家康といえどもむげには出来なかった。

76:人間七七四年
14/12/27 18:58:07.20 KJ4Jxz8M.net
質問です
↓のような被り方は名前があるのですか?
URLリンク(j-koyama.img.jugem.jp)

77:人間七七四年
14/12/27 19:12:56.65 IGwgV0/p.net
>>76
桂包

78:76
14/12/27 19:25:12.59 KJ4Jxz8M.net
>77
どうもありがとう
この被り方すきです

79:人間七七四年
14/12/28 14:09:30.35 eWm0dRZV.net
>>74
忠興のお礼参りがあったよ。

80:人間七七四年
14/12/29 11:24:39.35 suqvr24n.net
どうすればこの板で語れるくらい詳しくなりますか?

81:人間七七四年
15/01/03 19:27:38.22 73225Wit.net
秀吉や家康の居城といえば大坂城や江戸城ってイメージですけど
引っ掛け問題で伏見城や駿府城って答えにするのはありでしょうか?

82:人間七七四年
15/01/03 22:21:47.45 I7vypsGf.net
居城の定義によるから、出題者の性格で決まる。

83:人間七七四年
15/01/08 17:00:40.97 kgFz2K1fJ
戦にはたくさんの馬が必要ですが、当時日本にそんなにたくさんの馬がいたのですか?

84:人間七七四年
15/01/08 22:45:02.22 wYF6aiGR.net
戦には馬がたくさん必要ですが、戦国時代当時日本にそんなにたくさん馬がいたんですか?

85:人間七七四年
15/01/09 11:29:57.83 kK8S2/Jg.net
現代から見れば世の中じゅう馬だらけと言っていいほどいた
機械が無く人力以外は牛馬力に頼るしかなかった時代で農民でも耕運機代わりに3,4人に一人は馬か牛を持ってた。

86:人間七七四年
15/01/10 00:21:46.50 UPxXRJso4
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
例えば関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?

87:人間七七四年
15/01/11 02:41:59.93 SMo23iG/.net
城の本丸取るのってそんなに大変だったんですか?
例えば関ヶ原の戦いの時の信濃上田城の本丸は縦横何mくらいだったのですか?
本丸には何人くらいが守っていたのですか?

88:人間七七四年
15/01/11 02:55:05.61 034jqvSg.net
>>87
本丸は最終防衛拠点であり本丸を守るために二の丸三の丸などの外郭があるのだから、
本丸だけ見てもなんにもわからん

89:人間七七四年
15/01/11 07:55:38.07 X1IuPqB8.net
そういえば
薙刀ってどうして戦国ではやらなかったのですか?
よく集団戦法に変わって密集するようになったからといいますがそれは源平合戦でも三国志でも同じでは?
関羽や弁慶みたいに馬上で薙刀振り回すやつが戦国に一人や二人いてもおかしくないと思いますが。

90:人間七七四年
15/01/11 09:39:25.52 gNnmejBQ.net
薙刀使ってるやつもいたよ

91:人間七七四年
15/01/11 10:56:59.06 kh7Sehpx.net
家康の家臣・鳥居元忠は薙刀の達人
他にも逸話で良ければ小西行長が長刀(=薙刀)ぶん回してる話がある
つまり個人レベルでは薙刀使ってる人も居た

92:人間七七四年
15/01/28 12:06:39.38 ezQ+h2aJ.net
戦国時代の武士にも武士道ってあったのですか?

93:人間七七四年
15/01/28 12:55:51.06 DvY+KoLf.net
武士道自体は江戸時代に作られた言葉であり江戸時代に作られた思想であるし
現代人がイメージする武士道はそれをさらに明治にまとめたものなので当然戦国時代には無い
現代人がイメージする武士道とは違うが何らかの武士の普遍的な規範、
たとえば背中の傷は恥とするような武士独特の全国で共通する思想は有った

94:人間七七四年
15/01/29 22:33:42.94 Eq+l0AYi.net
上杉謙信が後継者指定しないで死ぬに任せたのは何故でしょう?
内紛になる事は解ってたろうに。

95:人間七七四年
15/01/30 02:01:21.69 2XNxKKl3.net
謙信は年齢的にはもう後継者を決めなければならなかったが患って訳ではなく突然死だったので、
本人は健康体だと思っててもう少し生きるつもりだったののと。
景勝にかなり権力移譲していたので本来は景勝に譲るつもりで居たと思われますが、
憶測になりますが越相同盟のときに上野割割譲の条件が景虎を後継者にすることだとしたら、
今だ大義名分として利用価値があることになり、とりあえず後継者候補から外さずにいて、
様子見してたら死んじまったというのが、今のところつじつまが合う説とかなと思います。

96:人間七七四年
15/01/30 15:23:13.86 O0UIx5OX.net
足利義持が死去するに及んで、群臣が後継をだれにしますか?と尋ねた。
しかし義持は「どうせここで私が指名したところでお主らが支持してくれなければ意味はない
おぬし等で相談して決めるがよい」と言って死んだ。
当時の上位権力者というのは重臣たちの合議の上で支持していくというのが当たり前だった。
とにかく支持を得るために行動するのが当主の器用であり才覚だった。
そして何らかの変事が起きない限り当主身分は終身にわたるものであり、
そうでない場合は権力の分裂対立が生じてしまうので総領制の元で権力集中が行われた。
特に器用を謳われたのが織田信秀で取り分け器用の仁と賞賛された。

97:人間七七四年
15/01/30 15:30:44.93 SH6+yHXE.net
まあ信玄のように今まで支持しろと言わんばかりの嫡男をあっさり廃嫡させたり
当主であるはずの父親を喜々として追放するような人間と違って
謙信はあくまで越後やお家のことを考えていたんだろう。
元々謙信も代理当主に近い就任の仕方だったしな

98:人間七七四年
15/01/30 15:38:27.53 O0UIx5OX.net
漢の劉邦は愛妾の子に皇帝の座を与えたかったが、
群臣が長男を支持したために
やつには翼が生えてしまったようだ。
自分の力ではどうすることもできないと嘆いた。
当主というのは力ある群臣らによって擁立廃嫡されるものなのだろう。

99:人間七七四年
15/01/30 15:52:41.54 SH6+yHXE.net
信玄の悪事を群臣のせいにする菅沼君w

100:人間七七四年
15/02/01 08:31:06.96 +4EWxpoX.net
香川に所用で行くのですが、香川で有名な武将は誰でしょう?
調べたのですが分かりませんでした
そしてお勧めの歴史関連の観光地もあれば教えて下さい

101:人間七七四年
15/02/01 10:15:16.06 rPc8svad.net
香川と言ったらまずは全国に12しかない現存天守で有名な丸亀城に行きましょう。
そして「こんぴらふねふね」で有名な金刀比羅宮(ことひらぐう)にも行きましょう。
時間があったら高松城にも行きましょう。堀が海と繋がっているので海水で、
真鯛が放流してあるらしいです。
有名な武将は十河一存(そごう かずまさ /かずなが)だけど全然知名度無いですね。
そもそも読めません。

102:人間七七四年
15/02/04 01:35:33.02 PrIoHvWU5
戦国最大の内乱ってなんですか?(応仁の乱以降~小田原征伐まで)
出来れば規模とその被害状況も・・

103:人間七七四年
15/02/04 07:21:52.56 Y3DikEAr.net
>>101
遅くなりましたが、ありがとうございます
勧めてもらったところ全部行きたいと思います

104:人間七七四年
15/02/06 14:29:16.61 Cb7ha08l.net
戦国時代は何年から何年までという明確な定義はあるのですか?

105:人間七七四年
15/02/06 14:36:26.64 uyESoe16.net
無いです。見方によって変わります。

106:人間七七四年
15/02/07 20:37:03.42 PAcyCIFz.net
あと、関東と関西の学者によって違うというのがたまにある。
面白いところだ。

107:人間七七四年
15/02/07 21:04:54.21 DKtI3TKy.net
>>104
学説として多いのが、明応の政変から小田原の陣まで。
これが一番狭義の戦国時代といえる。
一般的には応仁の乱から大阪の陣までが多い。
関東では享徳の乱から小田原の陣まで。
研究者によっては、国内内戦の集結として下限を島原の乱まで入れる人もいる。

108:人間七七四年
15/02/21 18:54:36.16 4gwbVL9w.net
家康の子には秀忠 忠輝 忠吉と忠がつくのが複数あるけど
忠は誰から取ったの?

109:人間七七四年
15/02/21 19:09:53.20 RfXAP9Sx.net
安祥松平初代親忠から、いわゆる通字

110:人間七七四年
15/02/21 19:12:58.83 4gwbVL9w.net
>>109
なるほど

111:人間七七四年
15/02/21 20:53:01.57 t1LPiuE0.net
信康は信長だが、
信吉の信はどこから来た?

112:人間七七四年
15/02/21 21:00:08.99 b0LrnURU.net
>>111
> 信康は信長だが、
違う。「信」も松平氏の通字。おそらく家康の曾祖父にあたる信忠からとられたもの。

113:人間七七四年
15/02/21 21:19:43.84 cxxB/l7/.net
武田信玄が晴信。信玄の後を継いだ勝頼の子が信勝。(ここで武田家滅亡)
武田一門の重鎮から織田に寝返った穴山梅雪の息子で信勝の従兄弟の穴山勝千代に
武田の名跡を継がせて武田信治と名乗らせたが16で死んだので、家康の子に勝千代の母で
信玄の娘である見性院を後見人として武田信義と名乗らせた。後に改名して信吉らしい。
つまり「信」は武田の通字。

114:人間七七四年
15/02/22 22:05:31.12 E00Nx43d.net
信長は尾張統一に半生をかけたって聞くけど
織田家ってそんなに弱小大名だったの?

115:人間七七四年
15/02/22 22:58:20.62 pLCYB52C.net
年齢で言えば18歳から26歳までなので普通は半生とは言いません

116:人間七七四年
15/02/22 23:17:12.09 C3LWhJv9.net
享年49だから約半分じゃね。

117:人間七七四年
15/02/22 23:26:49.97 C3LWhJv9.net
>>114
信長の織田家は尾張の守護大名斯波氏の守護代として尾張を半分ずつ支配する
二つの織田家の一方の分家で家臣という立場で、しかも家督相続後に家中が分裂して
内紛となった。柴田勝家とかも敵に回った。内紛を収めて主家を滅ぼし、もう一つの織田家も
滅ぼしてやっと尾張統一。

118:人間七七四年
15/02/23 01:24:36.29 FZ+HdIaU.net
>>114
なんで尾張統一に半生かけたって聞いた時点で「なるほど、織田家は弱小大名だったんだなぁ」って
判断できないの?
人に聞かないと納得できないの?

119:人間七七四年
15/02/23 12:40:02.21 21crPvTn.net
普通に信長関連スレで質問すればいいじゃないか

120:人間七七四年
15/02/26 20:01:39.74 jnF3wmRL.net
信秀が尾張統一したまま信長に与えたのに
信長がバカすぎて道三も心配の手紙まで書いてる。
道三死去後に、義龍に尾張半国奪われたからね。

121:人間七七四年
15/02/26 20:16:00.44 p4tYciIV.net
信秀が尾張統一って本気で言ってる?

122:人間七七四年
15/02/26 21:47:08.94 8STWgQJt.net
尾張統一どころか加納口で斎藤道三にボコられた挙句
居城が織田信友に包囲されて平手のおかげで
なんとか助かったくらいなんだよな
信秀が死んだ段階でよく霧散しなかったもんだ

123:人間七七四年
15/02/26 22:58:59.61 nCG1h7+P.net
>>居城が織田信友に包囲されて平手のおかげで
>>なんとか助かったくらいなんだよな
加納口のあとの大垣城救援で出張中の信秀がいない間に放火するくらいしかできなかったレベルなのに
「なんとか助かった」とか捏造にもほどがある。
しかも信秀が急速渡河して猛烈な勢いで北上してきたから
道三はさっさと大垣から逃亡してるくらい鎧袖一触の武威を信秀が示した結果
濃姫を人質に出す政略結婚をすることに追い詰めたからねぇ。
愛知県史もはっきり政略結婚によって信長に嫁ぎって書いているし。
結局、大垣城も信秀は守り通して斉藤との同盟を結んでいるし、
信秀の姉妹の岩村城も織田勢力圏として信長に譲渡してるし
三河の水野氏も隷属化においているし、
なにより今川からも和睦したいなら城をよこせと要求して義元に条件を飲ませてるほど。

124:人間七七四年
15/03/01 16:34:00.19 hwL7l25R.net
信長が出陣した後居城
攻められたのはそれなりに危なかったんじゃないか。
放火するぐらい、というけどそれで城炎上したてかもしれない。
というか居城まで敵に攻められた、というのは信長の
ミスだろう。
助かった、のこそ結果論で、最終的に道三救出にも
失敗してるし、この頃の信長はそんなにスーパーじゃない。
桶狭間でやられてたらそれこそバカ殿で終わってたろう。
結果から美化しすぎだし
本能寺でやられたという結果ももっとちゃんと
低評価したほうがいいと思うけどな。

125:人間七七四年
15/03/08 01:23:13.55 kN8VazEK.net
自民党、グッジョブですわ。
URLリンク(www.soumu.go.jp)
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、改憲の参議院議員が
3分の2以上を超えると日本国憲法の改正です。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。
私たちの日本国憲法を絶対に改正しましょう。☆

126:人間七七四年
15/03/08 11:48:25.52 qpde/qZJ.net
褒美として木下から羽柴と名乗るようになった藤吉郎さんみたいなことって、よくあったのでしょうか?
一字や大名の姓を貰うことではなく、兼続の弟小国から大国みたいなことで

127:人間七七四年
15/03/08 12:53:25.92 ZcJkqeU1.net
>>126
姓を与える、というのは割とあった。
ただし秀吉の羽柴の姓はどういう経緯で付けたのかよく解っていない。
丹羽+柴田というのは裏付けのない俗説

128:人間七七四年
15/03/08 13:04:09.07 /w0C/1Pk.net
でも、その俗説以外に羽柴なんて考えられないでしょ
地名でもないし、過去に羽柴という偉人がいたわけでもない

129:人間七七四年
15/03/08 13:32:58.22 ZcJkqeU1.net
>>128
むしろ「丹羽+柴田」の方が考えられない。
丹羽からは後の字、柴田からは前の字で、あまつさえ羽を頭に持ってくるなんて
柴田勝家を徹底的に丹羽長秀の格下だと言っているのと同じ行為で、勝家に喧嘩を売っている以外の何物でもない。
これは丹羽長秀と柴田勝家の関係すら悪化させる。
そんな不穏当な苗字ならそもそも信長が許可しない。
なので「丹羽+柴田」というのは間違いだと断じてもいい。

130:人間七七四年
15/03/08 13:36:45.43 /w0C/1Pk.net
>>129
あなたの由来説はどんな感じですか?
もちろん信長も納得するような「羽柴」の由来

131:人間七七四年
15/03/08 13:41:27.92 ZcJkqeU1.net
>>130
もちろん推測だが秀吉の実家の在地、あるいは縁のある地名を雅字にしたというあたりが穏当なところじゃないかね。「橋場」とか。

132:人間七七四年
15/03/08 13:49:17.00 /w0C/1Pk.net
その結果
>柴田勝家を徹底的に丹羽長秀の格下だと言っているのと同じ行為で、勝家に喧嘩を売っている以外の何物でもない。
ような苗字が出来上がったら、NGでしょうが。
説得力が足りない

133:人間七七四年
15/03/08 14:04:17.22 v73fmS7r.net
つか苗字にも避諱ルールが適用されるのか?

134:人間七七四年
15/03/08 14:08:32.19 ZcJkqeU1.net
>>132
ランク付けする意図があるかないかは重要だよ。そもそも関わりなければ丹羽柴田とは関係ないものだ、で済む話。
>>133
ランク付けのような話になれば大いに問題が出てくる。現在だって同じこと。
だからこそ「丹羽+柴田」なんて俗説は現実的にありえない。

135:人間七七四年
15/03/08 14:17:38.42 v73fmS7r.net
えらいあいまいやね

136:人間七七四年
15/03/08 15:23:35.26 PB/wFq+d.net
>>126
>兼続の弟小国から大国みたいなことで
秀吉の「庭に鬼が居るのは縁起が悪い」といういいがかりで鬼庭から茂庭に変えさせられた茂庭綱元とか。
百武賢兼は『主君・龍造寺隆信から百人並みの武勇を有すると賞され、百武姓を賜った。』

137:123
15/03/08 17:45:25.27 qpde/qZJ.net
沢山のレスありがとうございます。
事実かどうかはわかりませんが、上杉謙信から姓を賜ったと代々伝えられている珍しい姓を当方しておりまして、気になりました。

138:人間七七四年
15/03/08 18:01:45.13 FFdLPIYb.net
>>137
差し支えなければ、お名前は?

139:人間七七四年
15/03/08 18:05:45.45 v73fmS7r.net
家康からじゃなくて胸を撫で下ろした

140:123
15/03/08 18:17:48.08 qpde/qZJ.net
>>138
戦国時代板の方なら読めるとは思いますが、雁行と申します。
一般の方には初見で正しく読めた人はいないですね

141:人間七七四年
15/03/08 18:24:22.41 FPwWaZN6.net
謙信には雁の漢詩があるが、地域も時代もビンゴなんだな>>能登

142:人間七七四年
15/03/08 18:40:07.71 PB/wFq+d.net
「がんこう」さんで良いのかな?それなら陣形で雁行陣(がんこうじん)というのがあるからすぐ判るけど。
「雁行陣」でググってみたらテニスの陣形ばかりでてきてワロタ。

143:123
15/03/08 18:51:32.06 qpde/qZJ.net
>>142
正解です
>>141
能登も正解です
雁行の由来はどっちなんでしょうね
>>141の雁行が由来ならば謙信さんぽいですし、>>142の陣形が由来ならば鶴翼さんとか陣形が由来の方がいらっしゃるんですかね?

144:人間七七四年
15/03/08 18:57:02.53 ZcJkqeU1.net
>>143
もしかすると群馬県の雁行川からじゃないかなあ?
謙信が由来なら、越山でその辺りで軍功を立てたか、領地を与えられたか。

145:123
15/03/08 19:39:12.89 qpde/qZJ.net
>>144
雁行川は知りませんでしたが、「がんぎょう」ですので違うと思われます。また、「かりゆき」と読む雁行姓もあるのですが関係はないです。
上杉謙信に姓を賜ったらしく、家系図にもそう書かれてあったと代々伝わってはいるのですが、肝心の家系図が今現在どこにあるのかわかりません。
大きな軍功であるならば、何かしらの記録がどこかに資料等として残っている可能性もあるとは思いますが、姓を賜ったとしか伝わっておらず功の話すらないんですよね。
調べようにも>>142ばかりですし、資料館等に行ったところで解読出来ませんし。

146:人間七七四年
15/03/08 20:29:22.28 PB/wFq+d.net
>>143
あっ、イヤイヤ。「判る」と書いたのは読めるという意味です。陣形が由来とは思いません。
貰った時の逸話が伝わってないのは惜しいですね。

147:人間七七四年
15/03/08 21:11:26.78 ZcJkqeU1.net
>>145
雁行のばあい「がんこう」と「がんぎょう」は読みとしては根は同じ(おそらく表記はどちらも「ガンカウ」)なので
現代の読み方の違いにあまりこだわることも無いかとも思う。
もちろんそれが姓の由来かどうかは別として

148:123
15/03/09 19:09:04.05 N9XK0JCR.net
>>146>>147
なるほど、納得しました。
雁行の陣が由来なら戦働きにより賜ったとも考えられますが、何もわかりませんからね。
むしろ橋作りだとかの活躍で雁行川が由来ならしっくりきます。

149:人間七七四年
15/03/09 23:18:59.04 YBxpmIC4.net
「羽柴」に戻るけど、126の論は非常に
不思議だよね。
実際に信長が許可したのだし、直接の関係者に
丹羽と柴田がいるのだから、そこから採用したと
するのが普通でしょう。直接史料がないから
「理由不明」ぐらいならともかく、否定、するのは
さすがに行き過ぎじゃないだろか。
例えば秀吉の文書に理由が記載してあっても
「本心はわからない」とかなんとでも言える。
この頃の信長が伝統とか格式に厳しく
偏諱ルールにもこだわっていた、という傍証があるのなら
わかるけど、「ランク付け」だけが根拠というのは
拡大解釈すぎないだろか。
逆に、ではどうしてそんな苗字を信長が許可したか
というのを説明できるのだろか。
自分から家中での関係を悪化させてるわけなんだが。
「雅字」にした、も矛盾してるでしょう。
縁のある地名に「はしば」と発音するところがある
という証明もされてないし。
というわけで、現実にはありえない俗説が
どうして「現実にある」のか、そこの説明が
ほしいですね。

150:人間七七四年
15/03/10 07:13:40.49 VvPq4sS2.net
>>149
> 実際に信長が許可したのだし、直接の関係者に
> 丹羽と柴田がいるのだから、そこから採用したと
> するのが普通でしょう
何が普通なのかさっぱりわからん。通説を肯定したいだけの発想じゃん

151:人間七七四年
15/03/10 07:17:52.86 VvPq4sS2.net
例えば徳川家中の井原という武士の苗字は「伊井と榊原から取ったと考えるのが普通だ」とか言い出すのだろうか>>149

152:人間七七四年
15/03/10 08:39:34.35 J2nhTqJ6.net
と、通説を否定したいだけのひとが申しております
井伊な

153:人間七七四年
15/03/10 15:36:02.30 /6XoazF/.net
>>151
一般例ではなくて、秀吉の改姓の話をしてるわけでしょう。
通説というのが一番普通の考え方、ということだね。
話をそらしたり、個別のアラさがしをするだけだったら
「通説否定」は話にもならないということ。
「不穏当な苗字をどうして信長が許可したか」
をまず説明してほしいのだけど、128が
何の説明にもなってないから129,131と
話がそれてしまってるし。

154:人間七七四年
15/03/13 18:55:30.92 fTGimJ1S.net
この前行った名古屋の徳川美術館がマジで素晴らしかった(戦国時代初心者です)
箪笥仕掛け銃(引き出し1段につき5本の銃が仕込まれていて、箪笥一個で引き出し3段*銃5本)
ってやつが面白いと思ったんだけど、ググっても情報が出てこなかったです。
あれは戦のために作られたものなんでしょうか?それとも遊びで作ったようなものなのでしょうか?

155:人間七七四年
15/03/13 20:20:24.66 P/y2dZ2+.net
>>154
実物を見たことないから断言できないけど、ネタで作ったんだと思いますw
兵器として使うには欠点が大杉です

156:人間七七四年
15/03/13 20:40:03.44 UR3+r/B1.net
そんなのあったっけ、見たことないなぁ。

157:人間七七四年
15/03/13 22:26:32.82 p288GSMc.net
>>155
やっぱそうですかね~w
>>156
画像はなかったですが、徳川美術館の展示品目録(URLリンク(www.tokugawa-art-museum.jp))から
19 箪笥仕掛け銃 江戸 17
銘 芝辻小兵衛作・国友勝兵衛作・芝辻茂右衛門作 二箱一対
芝辻・国友という鉄砲鍛冶三名の合作ということは、中々技術的に高度なものだったのかな

158:人間七七四年
15/03/13 23:13:39.75 M+gwa1DA.net
見てないからアレだけど、合作つか使う銃が多いから寄せ集めになっただけじゃね
江戸時代作だから太平にって戦がなくなった時代の曲芸まがいの砲術の一端ぽいね

159:人間七七四年
15/03/14 13:38:10.81 3O9ENCBM.net
>>157
さんきゅ。
会員入ってて非常設も見てたはずだけど
いろいろあるもんだなぁ。

160:人間七七四年
15/03/14 20:59:32.91 ukkAWazE.net
実用性の無さは、
水戸斉昭さん考案の牛がひく戦車みたいなものかね?

161:人間七七四年
15/03/19 14:52:43.97 h/hghf+j.net
名前について
よく下の名前は口にするものではなかった
といわれてるけれど
でもみんながみんな「○○守」みたいなものを持ってたとは思えず
下の方の者はなんと呼ばれてたんでしょうか?
それとその「○○守」もあれだけ大名・武将の人数がいたなら
ダブッてなかったのかなとかも思ったりしてます

162:人間七七四年
15/03/19 14:55:37.45 Xlo9luNo.net
>>161
仮名はみんな持ってた。「ナントカ兵衛」とか「ナントカ右衛門」とかそのたぐいだ

163:人間七七四年
15/03/19 15:06:26.93 h/hghf+j.net
最近では黒田の「官兵衛」なんかがそうなんでしょうか?
ということはその名前なら呼んでもいいということですか?
孝高は基本的に使ってはダメと

164:人間七七四年
15/03/19 15:16:29.22 Xlo9luNo.net
>>163
諱ってのは文字通り「忌み名」だからね

165:人間七七四年
15/03/19 15:32:51.70 YYGt0r8/.net
普段は使わない名前を付ける
不思議な風習でした・・・

166:158
15/03/19 15:33:52.12 YYGt0r8/.net
ID変わってる・・・

167:人間七七四年
15/03/19 15:56:41.80 gkBer07R.net
本来の「○○守」は定員1名だけど
戦国時代の「○○守」は大抵は自分たちで勝手に名乗ってる偽官職(受領名)だからいっぱいいる。
豊臣時代だと正式に朝廷から貰う様になったけど、任官したらすぐ辞任して次の人に渡し、
渡した後も「元○○守」の元を省いて呼ばれるから「○○守」がいっぱいいるように見える。
江戸時代だと武家に限って定員無しになったから正式な「○○守」がいっぱいいる。
だから一部の特殊な国を除いた「○○守」はダブりまくってました。
>>165
自分が名乗る時は毎回使ってたから、普段は使わない名前というわけじゃない
名指しするのが非常に失礼というだけ。敵相手なら名指し余裕でした。

168:人間七七四年
15/03/19 18:45:27.34 RdeDwhcV.net
>>161
既に答えが出てるけど仮名(けみょう)はみんな持っていた。柴田勝家は権六、丹羽長秀は
五郎左(正しくは五郎左衛門尉なの?長いね)。源義経は判官の官位をもらう前は九郎と呼ばれた。

169:人間七七四年
15/03/19 22:58:43.10 09cPw6CP.net
仮名、についてだけど、これは権六や九朗でもそうだけど、
自分が何番目の子供か、をちゃんと表わしてるのですよね。
戸籍なんかないから相続時にトラブらないように
出自をはっきりさせておく目的があった。
次郎三郎、みたいなのは父が次男で自分が三男であることを
意味している、たぶん。
だから、仮名、と言っても無意味なものではなく、それなりに
出自等を判断するちゃんとした役割があった、というのは
押さえておいたほうがいいわね。

170:人間七七四年
15/03/19 23:26:59.50 Xlo9luNo.net
あとまあ、○○守などの官位名も、基本的にはその家の嫡流に代々伝わる屋号みたいなもんだね。

171:人間七七四年
15/03/19 23:43:36.95 RdeDwhcV.net
でも悪源太義平は長男だけど嫡男ではない。母の身分が低かったので。
三郎頼朝が嫡男だったと考えられている。

172:人間七七四年
15/03/20 00:03:06.08 VayAq84e.net
生まれた順に太郎次郎三郎とやっていたのは鎌倉中期くらいまでで、あとは、例えば細川京兆家の嫡男の名乗りが「九郎」のように、
最初に生まれた男子でも、その家代々の嫡流の仮名が付けられた。

173:人間七七四年
15/03/20 01:36:59.83 yVBR1u2b.net
戦国時代までに降ると順に太郎次郎三郎ってのは逆に珍しいよな
有名どころで甲斐武田氏とかそうだけど

174:人間七七四年
15/03/20 01:45:04.13 VayAq84e.net
そういえば豊臣秀頼の仮名が「藤吉郎」だったらしいな。朝廷の記録から発見されたとか

175:人間七七四年
15/03/20 01:52:00.24 yVBR1u2b.net
諱を呼ぶのは失礼だから官職で呼ぶ、官職もってない人はしょうがないから通称で呼ぶ訳で
成人と同時に正式の官職もらえた秀頼や秀忠みたいな連中は通称使う機会がないから
たまたま書き残した資料が無いと分かんなかったりするよね

176:人間七七四年
15/03/20 08:15:44.69 LxkRzumL.net
団十郎とか、勘三郎みたいなものか

177:人間七七四年
15/03/20 10:17:04.14 afs6BjcE.net
>>174
へ~、それ何に載ってました?知らなかったですね。
鎌倉中期までは、誰かが出世すると後から「実は
親戚で」みたいなのがワラワラ現れただろうから、そういうのを
防ぐためもあって、政府機構がしっかりしてくると
そういうリスクもだんだん薄れてきた。
面白いところでは、最初に生まれた子供なのに、わざと
代々つけてきた幼名、仮名を使ってないことがある。
これは後から、正妻を迎えてそこで生まれた子の
ためにとっておこう、としたと考えられて、ある程度の
身分があって間違いとかが起きにくい家では
仮名、がそれなりの意味を持っていたことを表してる。
当該の話題の~守というのはもっと時代が後の話では
あるのだけど。

178:人間七七四年
15/03/28 23:04:58.48 R73KoxHt.net
長尾家の嫡男の多くは「六」の字が幼名に使われたみたいだね。六郎、弥六郎とか。
さらに通字の「景」の字も、序列をはっきりするために当主だけは「景」の字を下に置くことができるが(例・為景、晴景)弟以下は「景」の字を上に置かなくてはならない(例・景虎)、
というルールのようなものがあったとか。上杉謙信は長尾為景の何番目の息子かはっきりしたことは分からないが「平三」という名前から(あくまで普通に考えれば)三男なのかな?

179:人間七七四年
15/03/29 00:38:52.42 fyNmyN68.net
>>178
>さらに通字の「景」の字も、序列をはっきりするために当主だけは「景」の字を下に置くことができるが(例・為景、晴景)弟以下は「景」の字を上に置かなくてはならない(例・景虎)、
>というルールのようなものがあったとか。
毛利も嫡男は弘元、興元、隆元、輝元と通字の「元」が下にくる。元就は次男だから「元」が上。
と以前書いたら、嫡男は偉い人から片諱を貰うからだろうと指摘された。確かに符合する。
長尾も晴景は片諱貰ってるけど、為景は貰ってなさそう。景虎は片諱貰うと政虎とか輝虎とか
通字の「景」を捨てるし、養子たちは景虎に景勝で、上杉謙信は変わり者だなぁ。

180:人間七七四年
15/03/29 02:08:19.89 gr6OFun0.net
普通だろ。

181:人間七七四年
15/03/29 13:21:48.99 47qUKonb.net
こういう話題であるなら
どうして上杉輝虎と書かないのか

182:人間七七四年
15/03/29 19:13:40.93 RPStsaEf.net
長尾景虎が上杉憲政から「政」の字を貰ったとき自分の「景」の字のほうを捨てたのは上田長尾に「長尾政景」がいたというのも関係ありそうな気がする。
詳しくないからはっきりしたことは言えないが。

183:人間七七四年
15/03/29 20:21:35.59 Q51WcKId.net
遊佐長教の妻が十河一存の娘って爺が死ぬちょっと前に婿の姪である乳児を妻にしたことにならない?

184:人間七七四年
15/03/30 17:02:41.54 GX/oMrtu.net
系図の間違いじゃなければ養女なんじゃ

185:人間七七四年
15/03/31 01:32:05.35 +xUUxKGc.net
1465~1620頃を記した史料で、一級史料ないし読んだほうがいいというものは何でしょうか?
とりあえず『戦国遺文』とWikipediaの『戦国時代史料の一覧』に載っているものは読もうと思っています

186:人間七七四年
15/03/31 11:25:59.05 cJUk0Fsr.net
『戦国時代史料の一覧』に載って無いのだと
多聞院日記、毛利輝元上洛日記、懲毖録、あたりとか

187:人間七七四年
15/04/01 01:50:43.56 f/R8SFfU.net
言継卿記もいいよ

188:人間七七四年
15/04/01 07:45:26.26 kkviV7uS.net
御湯殿上日記もだね。
しかし最初にイエズス会って、これを作ったのは
どういうんだ?
武功とか載せてるし。

189:人間七七四年
15/04/01 19:50:23.04 /om8lJxH.net
質問です。家康が秀吉没後に関ヶ原・大阪冬/夏の陣で豊臣滅ぼして天下狙ったのは何故でしょう?
五大老筆頭ならもう十分な権力者という気もするのですが。勝算の方が高いとはいえ関ヶ原で負けてたら徳川も終わってたでしょうに
何故あんな博打を?

190:人間七七四年
15/04/01 20:43:37.47 o8IDB0Fr.net
>>189
そもそも関ヶ原も大坂の陣も家康が望んだのではなく三成や秀頼が起こしたもの。考え方が逆。

191:人間七七四年
15/04/01 21:15:19.88 /CKQl85J.net
>>189
五大老筆頭でも何時転落するか判りません。家康自身が前田や上杉にしたように
追い落とす敵が何時何処から現れるか判りません。天下を握って盤石の体制を
作り上げない事には安心出来なかったのです。
秀吉だって天下人にあぐらをかいて油断してるから豊臣は滅んだので、家康は
徳川が滅びない為に必死だったのです。

192:人間七七四年
15/04/02 12:13:19.84 o1+VSi1p.net
>>189
大坂の陣に関して
新説?だけど、秀吉直系の男系の血統の
抹殺ではないか。
豊臣氏がある限り、いつ寝首かかれるかわからない。
これは188さんと同じ。
だから家康長命最後の大仕事として
命をかける価値と重要性はあった。
豊臣氏というのは天皇賜姓であることに注意。
これは日本史的にも異常な大事件であるのだよね。

193:人間七七四年
15/04/02 12:28:46.26 o1+VSi1p.net
>>189
関ヶ原はいろいろ言われるけれど
あの状況では家康はさらなる高みを
目指すのは普通の理解でいいのかもしれない。
それと、関ヶ原では「豊臣滅亡」ではなく
あくまで西西決戦、豊臣の枠内での権力争い
なのには注意がいる。
あの時点では豊臣はいわば関白家であり
それへの謀反は朝廷との関係にも触れる。
だから勝利後は、武家の棟梁、としてまず別の
地位を固めるわけだね。
大阪の陣の理由の一つに、秀頼が成人して
関白を望んだらそれこそ手も足も出なくなる。
だから、最後のチャンス、として188にも関連して
あの時点で豊臣抹殺を図った、というようにつながっていく。
家康は関ヶ原勝利後すぐに摂家に関白を戻している。
これも家康が公武関係を意識していた傍証だし
家康の幅広い視点、政治、統一構想を物語るものだろう。

194:人間七七四年
15/04/03 01:16:17.65 DOHTSLyE.net
この頭の悪い人いつもいるのな

195:人間七七四年
15/04/04 18:34:12.37 xVd0PnXR.net
言うたるな

196:人間七七四年
15/04/05 03:36:47.09 7Ze1nWrY.net
長宗我部の忍者の竹内虎之助・弥藤次は志賀親次との話が長宗我部が秀吉の命で大友と戦ったことから初耳だけど伊予での敗戦と娘の死の話は理解出来るし
長宗我部に竹内なる諜報に従事した家臣がいたにはいたってことでいいのかな

197:人間七七四年
15/04/05 10:40:06.31 EDKDTpIF.net
長宗我部が九州に侵攻したのは秀吉の命で大友を救援する為だから、話がおかしい。

198:人間七七四年
15/04/05 18:07:16.75 7Ze1nWrY.net
だから気になったんだよ
志賀のよく知られる島津戦での活躍までがセットみたいだし

199:人間七七四年
15/04/11 20:58:33.32 1E47xDwA.net
戦国大名で兄弟仲が上手くいった家やそうでない家の違いはなんでしょう?
良くあるのが、兄弟を討って家の主導権を取り、統一に乗り出すパターン(最上、織田とか)
逆に最後まで兄弟仲が良く連携をって家の拡大が出来るパターン(島津、北条とか)
何故でしょうか?

200:人間七七四年
15/04/11 22:39:56.60 spxqaVPy.net
そんなのは家よって人によって違う
あえて共通点を上げるなら、ある程度覇業が上手く行きつつ
成り上がり者で一族で争ってる場合じゃ無い家は上手く行くことが多い
ついでに島津も上手く行かなくなると分裂したからね

201:人間七七四年
15/04/15 04:18:32.45 b00ElsvJ.net
URLリンク(pbs.twimg.com)
これ↑は何家の旗印なのか?教えてください

202:人間七七四年
15/04/15 04:41:54.58 vxDRLaV5.net
>>201
梅鉢の紋だからおそらく前田家

203:人間七七四年
15/04/15 05:06:21.18 b00ElsvJ.net
こんな時間に即レスどうもです

204:人間七七四年
15/04/15 05:30:53.06 /9z6zKyu.net
前田家の旗印の色が水色って、ありなんでしょうか?
家紋の色に規定は無いそうですが、
「前田利家 幟」でググると、赤地に白抜きの家紋か、その逆か
白地に黒の家紋だったりするので、やっぱり違和感があります
水色といえば、明智家の水色桔梗ですよね

205:人間七七四年
15/04/15 05:53:02.49 vxDRLaV5.net
>>204
この手のものがそういう時代考証に忠実に作ってるわけ無いだろ

206:人間七七四年
15/04/15 12:21:18.04 BYv7aS2L.net
なんか語りたがったんだろう。

207:人間七七四年
15/04/15 13:57:26.27 yy06usDn.net
確かに水色=明智光秀だからなあ
>>201を水色桔梗と間違える人もいるだろうな

208:201
15/04/15 23:26:33.67 /9z6zKyu.net
>>205
レスありがとうございます
本当その通りですね、なんか質問ではなく愚痴のようになってしまい
すみませんでした
>>207
>>201を水色桔梗と間違える人もいるだろうな
はい、別板のスレですが何人かいらっしゃいました
形も似てますもんね

209:人間七七四年
15/04/16 01:04:31.06 A7D7Lrft.net
それタカサワの説でしょう。
光秀の紋が水色だった、という
肖像とかはあるのかい?

210:人間七七四年
15/04/25 15:24:56.07 fb8Kjug3.net
箕輪長野家についての質問です
長野十六槍と聞きますが、どの軍記物に登場するのでしょうか?
検索して調べても十六槍とされている人物がサイトによって違っていたり情報元が示されておらず、よくわからないことが多いです
情報元と該当武将、その活躍などを教えていただけると助かります

211:人間七七四年
15/04/25 16:17:28.91 z2qAbxR7.net
>>210
撃剣叢談、かな。
URLリンク(hdl.handle.net)
ここに論文が出てるけど、剣術の分野だから
よくわからないな・・すまぬ・・

212:人間七七四年
15/04/25 16:21:08.64 z2qAbxR7.net
jinbunkagakukiyo_45_121.pdf
あ、こっちだ。

213:人間七七四年
15/04/25 18:40:35.55 fb8Kjug3.net
>>211
ありがとうございます
撃剣叢談には長野十六槍の存在と上泉信綱がその筆頭であることが書かれているようでした

214:人間七七四年
15/05/06 20:44:18.16 GPABIqHw.net
○○生存説がどいつも70超えまで生きるのは何故

215:人間七七四年
15/05/06 20:58:56.04 KQc76pYy.net
意味のわかる日本語でおながいすます

216:人間七七四年
15/05/10 17:26:58.57 +K0jX1oP.net
大阪の陣後に、徳川家が人心を失わなかった理由を知りたいです
「国家安康」にキレて開戦したり、
一旦講和しといて堀を埋めたり、
結構むちゃくちゃなゲスいことやってるのに

217:人間七七四年
15/05/10 18:05:35.72 0KWMipET.net
>>216
> 「国家安康」にキレて開戦したり、
当時の意識として誰でも納得する当然の怒り
> 一旦講和しといて堀を埋めたり、
堀を全部埋める事は最初から講和条件になっている。
お前が後世の講談小説に影響受けて視線がゆがんでいるだけ

218:人間七七四年
15/05/10 18:17:31.39 EjZmI0Ca.net
>>216
ものすごく大雑把に答えると
戦国自体が「ゲスさ満点」の
時代なので、そんなに問題化するほどのことでもない。
また、人心、というけど、一般農民さんたちからみたら
「国家安康」も「講和」も本能寺も
直接的にはあまり関係ない話。
ということだわね。
余分だが、堀の埋め立ては豊臣から抗議が出て
家康はちゃんとあやまってる。
その頃にはもう、現場、が埋め立ててしまってたから
家康のゲスさはやっぱり目立つけどね。

219:人間七七四年
15/05/10 18:23:38.84 0KWMipET.net
>>218
> 余分だが、堀の埋め立ては豊臣から抗議が出て
> 家康はちゃんとあやまってる。
謝ってねえ。つか最初から講和条件に入ってるから謝る必要もないし、豊臣側も抗議等一切していない。
どこの小説の知識だ。アホか。

220:人間七七四年
15/05/10 20:01:48.84 +K0jX1oP.net
>>217
>>219
まぁそんな怒んないでよ
確かに最近漫画のあずみ 読んでたからこういうことふと思ったんだよね
>>218
戦国がゲスい時代ってのは確かにそうか!
ただ、「律儀者」で通ってた徳川が、
よくここまで本性出せたなとは思うなぁやっぱり

221:人間七七四年
15/05/11 10:30:18.41 Kz6XXzk/.net
>>220
「律義者」というのが一般論だし
人間というのはそんな簡単にレッテルで
決められるものでもないからね。
家康の本性?というのはやはり秀吉の
死の直後からの誓紙破り?にあるだろうし
国家安康や埋め立ては逆にちゃんと筋通した
「律義者」の範疇というぐらいだわね。

222:人間七七四年
15/05/13 23:09:54.56 aFNeGANs.net
国家安康と埋め立てって暴力団の因縁みたいなのやり方だろw
どう贔屓目に見ても律義者はないわ

223:人間七七四年
15/05/13 23:45:43.05 z1IJ1j1o.net
家康については、坂口安吾の「家康」という作品が的確だと思う。
文学作品、というより評論という感じのものだけど、学者の説よりよほど説得力がある。
概要は、家康の戦いは基本的に身を守るための戦いだった、というもの。
律儀者として身を処しつつ武田の襲撃を振り払い、秀吉の支配に対して小牧・長久手の戦いで
身をかわし、石田三成をはじめとする家康を危険視する勢力に対抗して関ヶ原の戦いをおこして
身を守った。
で、関ヶ原以降にふと周囲を見回してみると、もう自分を脅かす勢力がない。天下も目の前に
転がってる。
ここになって初めて野心を出した家康は、あわてて恥も外聞もない泥臭い方法で豊臣家を
やっつけた。
という感じ。
いわれれば、家康の出処進退は基本的に自衛のため、と見えなくもない。
豊臣政権内の勢力の扶植も考えてみれば徳川家の地位を安定させるためとも見えるし、
後年の念には念を入れすぎている幕府の安定のための施策を見ても、その見方は
納得できる。
で、最晩年になって初めて野心を出して、慣れない事をやろうとした結果が「国家安康」とか
その辺だった、と。
それほど長くないから読んでみるとおもしろいと思うよ。
URLリンク(www.aozora.gr.jp)

224:人間七七四年
15/05/14 03:04:05.04 kc3Gruqz.net
>>222
同時代的には国家安康の件は超弩級の無礼で、家康の怒りはむしろ未だセーブされてる方。
即開戦でも全くおかしくなかった。

225:人間七七四年
15/05/14 09:13:20.42 XstEZq2a.net
高野山に戦国武将の墓がいっぱいあるのは
やっぱり人殺しの自覚があって地獄に落ちるのが嫌だったのかな?
ビビりすぎw

226:人間七七四年
15/05/14 12:07:37.22 qc4GIZew.net
>>224
同時代の人から見ても「その言いがかりはないわ」って引かれてた感じじゃなかったっけ?
ソースが思いつかないけど。

227:人間七七四年
15/05/14 12:08:38.94 kc3Gruqz.net
>>226
同時代史料では「家康や幕府の言うことは当然」ってのしかないぞ。

228:人間七七四年
15/05/14 19:51:18.69 XL4PTffk.net
歴史は勝者が作るものだからな。

229:人間七七四年
15/05/14 20:51:17.75 kc3Gruqz.net
という敗者の言い訳

230:人間七七四年
15/05/14 23:15:37.18 V/WsqYo8.net
つか「国家安康」にキレて開戦したとか一旦講和しといて堀を埋めたとか徳川時代に作られた講談逸話だろ

231:人間七七四年
15/05/15 10:53:20.14 j+tAJKb+.net
太閤記の史料としての信頼性ってどの程度なのでしょうか?
知りあいがwikipediaに記載されている明智光秀と毛利元就の謁見の会話を史実だと主張しているのですが……

232:人間七七四年
15/05/15 10:59:54.79 CnXrUrS5.net
太閤記といっても色々あるけど
一番有名な甫庵太閤記なら他史料による裏付けがなければ使えない程度

233:人間七七四年
15/05/15 11:23:11.59 hyGmCVLo.net
太閤記なんて小和田くらいしか信じてないだろ
小和田ですら否定的に見る部分もいっぱいある

234:人間七七四年
15/05/15 11:56:17.04 s4zE5pkM.net
川角太閤記:二次史料だがそこそこ資料価値は在る(要他史料の裏付け)
甫庵太閤記:二次史料の上作為が多い(前田家関連に記述など)(要他史料の裏付け)
絵本太功記:小説

235:人間七七四年
15/05/20 16:44:28.25 X/ZfpnTQ.net
兄がどんな歴史小説だか漫画だかドラマを見たのかわからないんですが
秀吉死後の徳川家康と前田利家の対立について偏見を持ってます。
兄は判官贔屓の石田三成アゲなんですが、秀吉の生前から秀吉との友情篤い利家は
三成の(忠誠心)の事を信頼していてとても仲が良かった、と主張しています。
私の史観では、秀吉の生前から利家やら家康のような大名集こそ歴戦の中で同僚意識があり
中央の官僚である三成とは対立する立場にあったと考えています。
実際はどんな感じだったのでしょうか?

236:人間七七四年
15/05/20 17:18:19.24 n4nOaZ3m.net
>>235
秀吉は最晩年に成って利家の官位や待遇を引き上げ、家康の対抗馬にしようとしたのは確か。
ただし利家ももちろん独立の大名なので、自分の家が第一であり、その意味では家康とも利害を共にしていた。
逆に豊臣家のそのものの利害代表である奉行の三成とは、政治的目的のため組むことがあっても、根本的には
利害を異にしていた。

237:人間七七四年
15/05/20 20:54:21.37 N3cf+wZe.net
利家が死んだ途端、嫡男の利長は若年と侮って、恫喝したあげく芳春院を人質に取ったのにか?

238:人間七七四年
15/05/22 07:24:05.99 Pw4aZXgy.net
司馬遼太郎と吉川英治と山岡荘八は誰が一番人気があるんですか?
順位を教えてください。
司馬遼太郎と吉川英治と山岡荘八は誰の歴史小説が一番おもしろいんですか?
順位を教えてください。

239:人間七七四年
15/05/22 18:02:28.30 Xs6Bt0qG.net
太田牛一の捏造歪曲三昧より川角太閤記の方がかなりマシ

240:人間七七四年
15/05/23 12:39:42.61 zCIMyTIu.net
菅沼はスルー

241:人間七七四年
15/05/23 22:50:56.50 pWtOK6BI.net
>>238
人気順位は知らないけど、自分としては山岡より司馬の方が読みやすいし面白い

242:人間七七四年
15/05/24 00:24:42.60 T1fWPu7+.net
俺は全部駄目だな
司馬も吉川も海音寺も今読みと古くさく感じる

243:人間七七四年
15/05/24 00:30:31.68 yG6n96NO.net
そもそも歴史勉強しだすと歴史小説読めなくなるよ嘘臭くて。

244:人間七七四年
15/05/24 00:34:33.56 Cwm397nu.net
そりゃ単にフィクションの区別がついてないってだけだ

245:人間七七四年
15/05/24 00:39:16.15 yG6n96NO.net
>>244
歴史物だと、読者側が詳しくなると、作者の意図が露骨に読めちゃうからなあ。
それで覚める

246:人間七七四年
15/05/24 10:49:27.11 uFl05FFD.net
新しい仕官先に大禄で召し抱えられたのだけど、それを良く思ってない古参の家臣に
「一体、どのような働きをすれば新参者のお主が大禄を得られたのだ?w」と嫌味を言われ
それに対して「殿に認められる働きをしてご恩(大禄)を得ました」と返して黙らせたって誰の
逸話だったっけ?

247:人間七七四年
15/05/27 02:17:33.50 zYU1ViMG.net
ちょっと違うけど、多分、江口三郎右衛門の逸話じゃないかな?
やる夫スレの小早川秀秋が主人公のやつで紹介されてた気がする。
ただ、ググってもその逸話の出典元は出てこないんだよなぁ?

248:人間七七四年
15/05/27 19:34:09.82 ErjhZwga.net
歴史小説って
史料がない部分を、作者がどう補うかが面白いんじゃん

249:人間七七四年
15/05/27 22:26:17.18 jI6KSsou.net
作者のオナヌー設定を元に書かれてるから好みが合わないとキツイ

250:人間七七四年
15/05/27 22:34:07.91 yrQ9drfe.net
司馬も好きだけど岩井三四二がさらっと読めていい
さらっとしすぎかなとも思うけど

251:人間七七四年
15/06/04 17:16:05.46 318xCOmy.net
波田野氏はKOEIの被害者なんですか?
丹波波田野氏の最盛期を教えてください。
あと曹洞宗、一向宗誠照寺派の手助けしてた鎌倉時代の地頭
波多野義重、波田野景之らと丹波波多野氏関わりはありますか?

252:人間七七四年
15/06/06 23:18:26.39 GtBIUP6N.net
むしろKOEIのおかげで丹波を代表する戦国大名と思ってもらえるようになったんじゃなかろうか

253:人間七七四年
15/06/07 20:58:05.25 OnIrb1X3.net
波多野結衣がお家再興のために一肌脱いで頑張っているのは有名な話

254:人間七七四年
15/06/10 00:48:22.75 UYcGDvAY.net
コーエーの最大の被害者は二階堂だと思う。創造でまともな絵になってがっかりした

255:人間七七四年
15/06/13 21:36:06.66 e380m0Y9.net
戦国時代はどうして城下町焼いたり水攻めしたりしたんですか?
そんなに有利になるものなの?

256:人間七七四年
15/06/13 23:42:52.53 F6kca4nK.net
そりゃ有利になるでしょ

257:人間七七四年
15/06/14 09:28:37.26 cGWRinBf.net
>>255
焼く 障害物がなくなる
水 孤立させる

258:人間七七四年
15/06/14 09:41:49.13 UTxvj7OQ.net
さらに、地域住民を戦災難民化して城内に追い込み
食料、飲用水の消費の加速を狙う

259:人間七七四年
15/06/14 21:51:13.27 4gzXiUji.net
障害物と食料消費ですか…
こんなこと書くと怒られちゃうかもしれないけど、
直接戦う以外はわりと地味なんですね

260:人間七七四年
15/06/14 23:17:19.43 +MjxSGBQ.net
今と違って火事を消すのは非常に難しい。江戸時代には火付けは死罪だよ。
地味ってどういう感想なのかねぇ。

261:人間七七四年
15/06/14 23:48:25.91 yF1OSGec.net
自分の町がまるごと火事で焼失することを考えたら地味だなんてとても言えんがな

262:人間七七四年
15/06/15 00:50:45.60 jqpkMfzi.net
それで住む所無くなったり自分達の土地がぼろぼろになるならそこを治めてる攻められた領主の失態になるわけだしな

263:人間七七四年
15/06/15 07:49:19.54 GZ2Ktb8B.net
江戸時代でも破壊消防が基本
類焼しないように、近隣の建物を先に取り壊して、周囲へ火が広がらないようにした
その後、日除け地として、上野広小路など幅の広い道ができた

264:人間七七四年
15/06/18 11:52:43.42 ECWPJWhe.net
毛利元就についての質問です
毛利元就は父親が亡くなった後、井上元盛に所領を奪われたと残しているそうですが元就の家督相続を依頼する連署状にもその名前がありますよね。
元就の記憶違いとする説を本で読んだのですが、ネットでは同姓同名の説が多く見受けられました。
実際のところどちらが説としては有力なのでしょうか。
また、毛利元就についておすすめの本がありましたら教えてください。

265:人間七七四年
15/06/18 20:27:39.80 Kqhk+BVz.net
井上を殺した元就の自己正当化目的のウソだよそれ。
元就は後世の評価を気にしていろいろとウソ吐いてる。

266:人間七七四年
15/06/19 21:49:50.46 0EUnwyX0.net
豊臣秀頼が太り過ぎてて馬に乗れなかったっていう話は本当なのでしょうか?

267:人間七七四年
15/06/20 00:47:56.87 0IudxxTR.net
スペイン大使ビスカイーノも自由に体を動かせないほどのデブと報告してるらしいですし
「世に無き御太り」(長澤聞書)というのは有名です
実際乗れなかったかは分かりませんが馬場は有るものの大阪城からも出たこともないし少なくとも得意とは思えません。

268:人間七七四年
15/06/20 15:20:06.88 vxc5hE6w.net
秀頼の身長190とか200cmって話、信憑性はどの程度なんですか?
また、徳川綱吉の位牌を論拠にした超低身長、吉宗の装束根拠にした高身長
は誤り。が現在の学会?の主流と考えてOKですか?

269:人間七七四年
15/06/22 17:49:45.31 w7FFD0bl.net
>>268
学会、というのも「一つ」にまとまっているわけでもないし
いろんな考え方がある。
直接一次史料がないので、わからない、というのが
専門家らしいお茶の濁し方だわね。

270:人間七七四年
15/06/24 15:15:16.46 Zf9hnPlr.net
滝川とかが城より茶器がよかったといったりルソンの壷ブームがあったり
骨董ブームがあったとおもうのですが徳川時代にはこの手の話がありませんが
秀吉なくなったらどの大名も茶器に興味なくなったのですか?

271:人間七七四年
15/06/24 16:16:01.45 ekvHhepy.net
小牧長久手の戦いの中入り?(別働隊)って、
家康の本拠地を目指したんですか?
それとも秀吉本隊との挟み撃ちのために
後方にまわろうとしたんですか?

272:人間七七四年
15/06/24 18:41:41.60 wsluUY/V.net
西三河に侵攻撹乱して家康軍と本拠地を分断し小牧にいる家康軍を窮地に立たせるのが目的ということになっています。

273:人間七七四年
15/06/24 19:57:33.11 1iuoWfwg.net
1

274:人間七七四年
15/06/24 20:59:37.75 QXs9LPqF.net
>>270
滝川はそこで茶器をもらってもその先に城でも国でも貰えるチャンスはまだあると思ったからそう言った。
江戸時代は新たな領地など貰えるはずも無いので茶器のほうが良いなんて酔狂な人間は居ない。
ちなみに安政の大獄の井伊直弼は本来は家督を継ぐ立場じゃなかったので茶人として生きる予定だった。
ちなみに秀吉が亡くなった後の大坂夏の陣で大阪城とともに消失した九十九茄子という名物茶器を
家康が破片を探し出させて職人に漆でつなぎ合わせて修復させている。
出雲松江藩主の松平不昧公は「古今名物類従」という名物茶器の全集的な本まで出している。

275:人間七七四年
15/06/24 21:39:16.49 ekvHhepy.net
>>272
ありがとうございます

276:人間七七四年
15/06/24 22:12:35.13 cFFROPVQ.net
芸術品として茶器の価値や、教養としての茶道の意味は変わらずあったけど
政治的な意味は、少なくとも豊臣政権の頃のようには強くはなくなっていた

277:人間七七四年
15/06/25 08:58:16.82 ZiwYlBhW.net
戦国後期の茶は政治的な道具で、褒美で名品を与えられる=公式な茶会
(政治的会談,外交)を行って良し、そういう地位にある って証でもあった
江戸時代に入ると武家間の格式は石高を基本に御目見え,譜代~などの
形で形式化・固定化されたので、武家にとっての茶器の価値は急落、
武家経済低迷とともに売却(大名貸の担保や対価などで)されていった。
この手の、政治的地位や己の力を誇示するための道具として、解りやすい
形で散財する。ってのは社寺建築や武具などでもあったけど、いずれも
江戸時代に入ると退潮していくね

278:人間七七四年
15/07/11 13:40:06.92 03YbKMEb.net
関ヶ原ブログというサイト→ URLリンク(blog.livedoor.jp)
関ヶ原後の加藤清正について、諸将や商人と会談した家康&正信が天下一の名将として名を挙げ
ただ一つの欠点として激情家であることを述べて 清正本人の耳に入れることで牽制した 
みたいな話なんですが出典がありません。 本当? というか出典はあるのでしょうか?
※にわかな兄が上記のブログの内容を疑いなく信奉して
「嘘だというなら証拠を出せ、本当に歴史上にこういうエピソードがなかったと証明しろ」
と悪魔の証明めいた馬鹿な事を言ってきます。 どう対応すべきなんですかね

279:人間七七四年
15/07/11 15:32:53.73 PJHyH6A3.net
いい悪い話スレまとめによると出典は『駿河土産』だそうだ

280:人間七七四年
15/07/11 15:47:40.50 03YbKMEb.net
駿河土産
現代語訳をggれる範囲だと家康・正信が清正を呼びつけて豊臣の恩と関ヶ原の恩を比較させた逸話しか見つからないすね

281:人間七七四年
15/07/12 19:24:56.35 eXcoy5er.net
近代デジタルライブラリーの続史籍集覧第8冊の駿河土産(1917年と1930年版)だと
載ってないけど
同じ近代デジタルライブラリーの国史大系第9巻の東照宮御実紀附録巻十一(コマ124)
だと出典を駿河土産として記載がある
どうやら近デジの駿河土産の正信&清正の逸話は後半部分しか記載が無い物らしい
そうなった理由は不明

282:人間七七四年
15/07/17 22:09:03.64 6Mo+V5es.net
正室と側室ってどうやって決まるんですか?

283:人間七七四年
15/07/17 22:14:14.54 gHHnMH7+.net
実家とか養子先の家格。有力者の娘を差し置いて下賤の出の者を正室にする訳にはいかない。

284:279
15/07/18 00:41:33.75 Fqwjx4oP.net
>>283
ああなるほど!
でもそしたら、今の正室より格上の女性と結婚するとになったら、
今の正室が側室になるんですか?

285:人間七七四年
15/07/18 00:54:32.21 3XbJZWWe.net
津軽信枚とかそういう例が無いわけではないが、普通はもうすでに正妻が居る家に正妻格の女性を縁付けたりはしないだろ
後は、両方正妻というのもある

286:人間七七四年
15/07/18 01:37:17.23 8iEy0sss.net
足利氏がまだ一有力御家人だった鎌倉時代に当主だった泰氏には北条氏一門の
名越氏から迎えた正室と嫡男として家氏がいたが、得宗家の娘が新たな正室として
押し付けられて名越氏は側室に落とされた。それに伴い家氏も庶子とされ、足利宗家とは
別に一家をなした。子孫が代々尾張守になったのでのちに足利尾張家と呼ばれるようになる。
現在の岩手県にあった斯波郡を領地としていたので斯波氏とも呼ばれる。
室町幕府の三管領の斯波氏であり、織田氏に尾張の国を奪われた斯波氏でもある。
そういう例もあるという話。

287:人間七七四年
15/07/18 01:42:51.19 8iEy0sss.net
去年の大河ドラマの黒田長政みたいに今の正室を離縁して家康の養女を正室として迎える例もある。

288:人間七七四年
15/07/18 18:51:35.40 qyAbkpdR.net
秀吉のようにそもそも正室を変えない例もあるがな

289:279
15/07/18 22:45:05.95 Fqwjx4oP.net
みなさんありがとうございます!
いろんな例があるんですね。勉強になりました
>>286
斯波氏はもともと岩手にいて、尾張に移ってきたってことですか?

290:人間七七四年
15/07/18 23:53:19.55 8iEy0sss.net
斯波郡を領有していたのは間違いないけど住まっていたかどうかは定かでないです。
有力御家人は各地に領地があることが多いです。

291:人間七七四年
15/07/20 22:27:29.84 +1fAvrcT.net
新発田の乱で、新発田側に葦名は分かるけど、伊達まで関与した旨味ってなに?
金山でも取ろうとしたの?

292:人間七七四年
15/07/21 13:59:33.53 S/mMkceR.net
>>291
当時の伊達の本拠地は米沢
米沢と越後北部は山を挟んでお隣どうし、遠いようで意外と近い
後背地に有力な同盟があるのなら他の戦線に兵力を割けるし、
越後が内乱状態なら庄内進出を目指す上杉の野望も挫く事ができる
さらに状況次第では越後に進攻できる大義名分にもなる
つまり伊達にとってメリットが多いから支援したって事だね

293:人間七七四年
15/07/24 18:17:50.77 gCwpgTdP.net
当時の蘆名は伊達輝宗の保護国。

294:人間七七四年
15/07/24 21:58:51.59 3NLdm9EF.net
と、妄想してます

295:人間七七四年
15/07/28 01:36:06.75 vGRdlqfM.net
>>292
サンクス。山向こうってのは地図で理解したんだけど、飯豊ごえのルートって当時あったんかな。
今は道がないようだけど

296:人間七七四年
15/07/30 21:39:04.00 1vlbvQSw.net
有能すぎて、お前はこのくらいの手柄当然だから加増しないみたいなこと言われた武将て誰でしたっけ?

297:人間七七四年
15/07/30 22:02:51.94 YQxApp+4.net
内藤昌豊が信玄から一度も感状を貰わなかったって逸話かな

298:人間七七四年
15/07/31 12:50:14.99 KLBbIRYF.net
「これの一次史料なんてない!だから史実はお前の言ってることの逆!」というのは正しいのですか?

299:人間七七四年
15/07/31 14:01:11.60 b4Curj/i.net
史料が無いなら答えは出ません。

300:人間七七四年
15/08/03 23:53:59.34 ZKibzRTk.net
守護ってどうやって決められてたの?

301:人間七七四年
15/08/04 00:16:51.70 mNxMcpst.net
幕府が任命。

302:297
15/08/05 21:45:08.74 FD4IiRgV.net
じゃあ、任命された守護が討たれたら、また幕府が任命し直すってこと?

303:人間七七四年
15/08/05 21:50:31.36 k4cVQ0pU.net
そやね

304:297
15/08/05 22:35:41.77 FD4IiRgV.net
そうなんだ
ありがとうございました

305:人間七七四年
15/08/07 12:29:39.39 tgldG6Nh.net
○○守護と、○○守はどう違うの?
どっちが偉いの?

306:人間七七四年
15/08/07 19:50:59.79 UZKn1e39.net
守護は幕府の役職。守は律令時代の国司の長官。
守護が設置されると国司は有名無実と化す。
建武の新政の時代は別で南朝方は反幕府の立場だから北畠顕家が陸奥守とか
北畠顕能が伊勢国司に任命されて実権を振るっている。

307:人間七七四年
15/08/08 07:45:24.44 s2LNPxc7.net
なるほど。
だから、江戸時代になると○○守とか許可があれば勝手に
名乗れたんだね。

308:人間七七四年
15/08/08 18:48:32.53 sN4D6YQr.net
>>307
> だから、江戸時代になると○○守とか許可があれば勝手に
> 名乗れたんだね。
この2行に矛盾しか無いことを気がついてないだろ

309:人間七七四年
15/08/08 20:03:23.37 qGncpzL4.net
信長は許可がなくても勝手に上総守を名乗って、
上総は親王任国だから上総守になれるのは親王だけとつっこまれて
上総介に改めた。

310:人間七七四年
15/08/09 00:17:00.19 du3n86TQ.net
むしろ江戸以前が許可なく勝手に名乗りまくりだった
江戸時代以降武家官位が制度化されて勝手に名乗れなくなった

311:人間七七四年
15/08/09 09:45:48.62 51QNlVpn.net
甲斐と関係ないのに鳥居耀蔵が甲斐守だったりするのは?

312:人間七七四年
15/08/19 00:04:01.24 5SV5Mjdl.net
織田は弱く武田は強い、豊臣は善で徳川は悪と記載されている一次史料を教えてください

313:人間七七四年
15/08/19 12:18:04.49 siSwvwpS.net
官位だけでなく、氏すらも自称してる人も多かった

314:人間七七四年
15/08/20 01:11:02.35 fPkege2x.net
あるホラーマンガに出てきた話なんですが
ある戦国武将の子孫が先祖が滅ぼした戦国時代の人によって祟られているのを霊能者に相談するという内容でした。
一応実話怪談の体をとっているのでその子孫の苗字は配慮で出てこなくて、誰の子孫なのかもやもや気になりました。
作中のヒントは
 ・相談者の先祖は成り上がりの戦国武将(相談者は19代目の子孫)
 ・↑はもともとは織田の家臣、信長死後は秀吉、家康に仕えて、江戸時代まで武士として残る
 ・祟っていたのは朝倉義景の継室、近衛稙家の娘
 ・↑の女性が、朝倉が織田に滅ぼされた折、留守を守っていた城で敵武将(相談者の先祖の戦国武将)によって討たれ、その恨みで祟っていた
この戦国武将って誰かわかりますか?
漫画だから創作の可能性もあるけど、気になったので心当たりあれば教えてください

315:人間七七四年
15/08/20 08:26:49.75 w1vwI0fB.net
それだけじゃあ特定不可能w
一乗谷炎上のときは柴田勝家が先鋒だったというから、彼の配下の誰か、くらいか推測するとしたら

316:人間七七四年
15/08/20 14:15:03.00 wK4VKJsD.net
そもそも近衛稙家の娘とは子供ができなくて離縁してるはず

317:人間七七四年
15/08/20 22:15:40.99 fPkege2x.net
>>315
ですよね、やっぱりw
あとヒントになりそうなことといえば
・名前を出すと一発でわかるくらいの有名戦国武将
・その戦国武将は、作者の先祖の戦国武将(浅井)と敵対していた
というくらいでしょうか…
あ、このマンガの作者の母方は阿佐井といって、浅井長政の血筋だという話です。
この人も、浅井の先祖の武将が佐々家の武将をリンチでなぶり殺しにした恨みで祟られていたのを
霊能者に解決してもらったという…w

>>316
そうなんですか、だったら作中の推察は外れってことかな
霊視で、織田信長に越後辺りで滅ぼされた一族の子供を生まなかった身分の高い正室の女性が祟ってるという結果が出て
資料を調べて件の女性だろうという結論でしたので

318:人間七七四年
15/08/21 09:44:12.52 A8K4G1eo.net
単純に1世代で血縁1/2とすれば19世代で1/52.4万。体重60kgの0.1gは
○○の血だから呪う…マンガとはいえ理解不能な世界だな
直系男子だけ呪うとしても、直系家督で19世代も継続してるってのは特に中下級
武家では奇跡レベルのあり得なさ。傍流も含むなら、血縁者は万は下らないし…

319:人間七七四年
15/08/22 18:08:32.19 JpP7LREU.net
この時代田舎なのはどこらへんですかね?

320:人間七七四年
15/08/22 18:17:06.19 scUDgwTn.net
京都以外全部

321:人間七七四年
15/08/26 22:46:43.35 g0HDE7Y6.net
寵愛する小姓が成人年齢に達しても、元服を許さず
相変わらず閨の相手にしていた武将というのは
誰でしたっけ?

322:人間七七四年
15/08/26 23:58:46.58 5JSqufeP.net
元服の許可はともかく
成人したから止めにしました、というケースがあるのだろうか?

323:人間七七四年
15/08/27 06:22:00.05 0nhRO47h.net
日本の衆道ってホモとロリコンを掛け合わせた要素が強いから成長したら興味がなくなるんじゃね?

324:人間七七四年
15/08/29 12:13:02.09 GLkqAR3b.net
織田と武田双方からスカウトされて、”織田は過酷だから”と武田に仕官した武士がいる、と何かで読んだ記憶があるのですが、本当ですか?

325:人間七七四年
15/08/29 22:23:07.51 xU5uWMSo.net
本当にそう言ったかは知らんけど、鹿島源吾という侍がが織田を蹴って武田に仕官したという話なら聞いた事がある

326:人間七七四年
15/08/29 22:24:25.39 HzCNmvNI.net
まあ良くも悪くも信長の配下に対する使い捨て体質は有名だったらしいしな

327:人間七七四年
15/08/31 15:43:03.47 OVCvLzMe.net
信長には情がなく非道だからってやついたが誰だったっけ。
たしか上杉に逃げてきた記憶が。

328:人間七七四年
15/09/01 21:06:22.03 4x+mAU8a.net
本能寺の変の時の、秀吉の中国返し?ってそんなに速かったんですか?
当時の速さがよく分からなくて

329:人間七七四年
15/09/01 21:43:59.05 aW71vBXs.net
1日にどのくらい歩けるか、自分で歩いてみなよ
しかも移動した直後に戦闘だ

330:人間七七四年
15/09/01 23:56:21.54 KmGFp3Zy.net
>>328
中国大返しって逸話自体が後世の創作だからな
一次資料見る限り秀吉は高松出発は6/4
備前の沼に6/5到着
播磨に移ったのは6/6
摂津尼崎に6/9
6/12に富田着陣
6/13に山崎合戦だから9日~10日かかってる
これでは特別早くないだころかむしろ遅いくらいだよ。

331:人間七七四年
15/09/02 12:25:52.01 pibILh2Q.net
北条・今川って武田に荷止めとか本当にしてたんでしょうか

332:人間七七四年
15/09/02 12:26:59.65 99qK6WOz.net
>>328
秀吉軍は200km走破(途中から戦闘を見越して鈍行)して6月13日山崎の戦い。
柴田先鋒は250km走破して6月18日近江長浜到着(本人はまだ後方)。
比較してみればわかりやすい

333:人間七七四年
15/09/02 12:42:29.62 99qK6WOz.net
>>331
資料が残ってるのでホント

334:人間七七四年
15/09/02 14:03:19.89 jEhSG0AD.net
>>332
柴田軍は変報を得たのがいつかわからないし
上杉とにらみ合ってて出発が遅れただけ。
本能寺の変の時の秀吉の行軍なら関ヶ原の時の家康の小山評定後の家康の行軍の方がはるかに速い

335:人間七七四年
15/09/02 15:58:34.62 JY7RYz0O.net
すばやく毛利と和睦し、追撃の警戒しつつ
巧みに播磨の本拠地まで戻ってきたのが
中国大返しであって、
強行スケジュール行軍後の休憩を兼ねて、
摂津の調略をしつつ行軍をしている時期は
中国大返しの範疇には入らないのに捏造すんなよアンチ豊臣の在日くん。

336:325
15/09/02 22:33:35.40 VbECC4Le.net
みなさんありがとうございます
中国大返しがはっきりして良かったです
速かったかどうかはともかく、仮眠を取ったとは言え連日移動続きで
そのあと山崎で戦うのはかなり大変だったでしょうね

337:人間七七四年
15/09/02 23:21:13.96 jEhSG0AD.net
>>336
6/9に摂津尼崎について
6/12に冨田着陣
6/13に山崎合戦だからかなり終盤は休めてると言っていいだろうね。

338:人間七七四年
15/09/02 23:27:47.52 bGEr/ef2.net
俺ならとてもじゃないが疲れがとれない

339:人間七七四年
15/09/03 09:51:28.14 OZ47YM5n.net
昔の人は移動手段が徒歩とせいぜい上流階級が馬くらいなもんだから歩きなれてるからな
自分の祖母も隣町まで一日20kMとか余裕で往復してたし

340:人間七七四年
15/09/03 09:52:55.36 GSfiLd++.net
行軍距離で言ったら関ヶ原や大阪の時の家康や伊達政宗の関東出陣の方がずっと移動してる
特に家康の関ヶ原は長距離を速い時間で移動してるからこっちの方が遥かに大返しと言える

341:人間七七四年
15/09/03 09:54:12.05 GSfiLd++.net
秀忠は10/23に江戸を発して
11/2に名古屋到着と
366キロ程度の距離を10日で到着してるので
行軍速度はおおよそ36キロペース。

342:人間七七四年
15/09/03 09:55:42.58 GSfiLd++.net
フロイスの日本史によると
明智方は高山右近が1000の兵とともに門を開き明智を目指して突撃し
高山と併進してきた羽柴方の二将が到着すると明智は戦意喪失し
背を向けて退却しだしたと書いてる。
その後明智は勝竜寺城に戦う事なく敗走し
その後こっそり夜をしのんで坂本に帰る途中に殺されたと書いていて
山崎合戦自体がなかったとされてる。
最初から明智軍は戦意0で崩壊状態だったようだな。
古代ローマ軍はローマ~マルセーユ間直線距離で602キロ、実質距離750キロ程度を
重装備の歩兵達がわずか12日で移動してる。
一日60キロ程度行軍してることになる。
しかもガチガチの重装歩兵団が急行軍でもなんでもなく12日間ぶっ続けで歩いてる

343:人間七七四年
15/09/03 10:47:29.46 9RVzz9VI.net
古代ローマとか古代中国のあれは物語であって史実検証されてないだろ。

344:人間七七四年
15/09/03 14:16:52.53 48vmJeF2.net
キチガイ菅沼遼太が連投し始めた。次はコピペ爆撃が来るぞ

345:人間七七四年
15/09/03 18:05:51.30 EM05KhCz.net
>>343
ガリア戦記とかに書いてるけどね

346:人間七七四年
15/09/03 20:43:29.86 z2dsrBD3.net
>>341
並みの参勤交代でももっと速かったりする

347:人間七七四年
15/09/03 21:08:08.50 X32l0URV.net
>>333
ありがとうございます

348:人間七七四年
15/09/04 12:02:40.25 qyhkXvfT.net
行軍速度については、集団の移動用に事前にインフラやサポート体制がキッチリ
用意された自国/友好国内での移動 から 完全な敵地(その中でも地図や道路有無
食糧調達性などで条件異なる)まで様々なので、そこら辺を考えないと、全く見当違い
の比較になるよ。
ローマ軍とか、条件としては江戸の参勤交代と比べるべきものだべさ
秀吉に話を戻すと、自勢力下の道路移動速度としては当時の常識内、あの状況で
それをやれたのはスゴイ。って所でないの

349:人間七七四年
15/09/04 13:59:02.57 wYZ63gg0.net
>>348
秀吉が行軍したのは備中~播磨~摂津だからどこも自勢力内だろ。
備前や備中は秀吉に人質の秀家を出して臣従した宇喜多の領内だし、播磨は秀吉の領地内、摂津は秀吉と兄弟の契りをかわしていた中川や
中国攻めで秀吉と協力関係にあった高山、信長の乳兄弟で、大切にされた秀吉の味方である事が確定してる池田と自勢力ばかりだし。
そもそもお前は凄い前提で結論ありきで話してるから何言っても聞き入れないけど中国大返しなんて逸話自体が後世の創作だから。
一次資料見る限り一日20kmペースしか動いてないし、関ヶ原の時の家康の方がずっと速い

350:人間七七四年
15/09/04 14:00:41.50 paApGUks.net
菅沼遼太に理屈は通じない

351:人間七七四年
15/09/04 14:01:54.25 TEUHQI6h.net
>>348
ローマ軍は重装歩兵主体で一日60kmペースで行軍したのに対して
秀吉軍は当時の軽装備の歩兵主体で、しかも逸話によると鎧など装備類を捨てて走ったと言われるし
自勢力下の備中、備前、播磨を行軍した速度は普通な物としかいいようがないでしょう。
関ヶ原の時の家康の方がずっと速い速度で行軍してるし

352:人間七七四年
15/09/04 14:03:11.03 paApGUks.net
壊れたスピーカーやな

353:345
15/09/04 15:10:38.05 qyhkXvfT.net
何に切れてるのか今一解らんが…
もう一度、わかりやす~く書くと、
・『自勢力圏での移動速度』として見れば、他のケースと比べ特筆すべき速さは無い
・予定外+敵対勢力と対峙+経路状況(織田配下の武将がどう動くのか)不明
 って『状況』で、アノ速度=平時の行軍に近い移動を行ったのがスゴイ・エライ
って事よ。行軍の決心から準備・移動開始に至る時間、和平、状況確認 とかが
(明智の想定や他の織田配下の軍団長と比べれば)早かった って事でさ

354:人間七七四年
15/09/04 15:18:26.11 Z/3qfIRg.net
本当に予定外だったのかな?
信長が殺された確認はどうやってとったのかな?

355:人間七七四年
15/09/04 19:08:49.70 Exvx7v1X.net
確認は早馬とかだろうな。内匠頭刃傷の時みたいな早駕籠は無かったろう。

356:人間七七四年
15/09/04 23:10:02.36 wYZ63gg0.net
>>353
秀吉が毛利軍と和睦したのは6/2頃で和睦交渉はそれより前から行われていた
6/2には既に行軍開始してるから、
行軍中の速度と毛利軍と対峙中であった事とは何ら関係がない
それと経路状況が不明と書いてるが大嘘で
中川は秀吉と兄弟の契りをかわしてる程の関係だし池田も信長の乳兄弟だから信長を殺した光秀に従うわけがないし
高山も秀吉と一緒に中国攻めするほどの関係
だから織田配下の武将がどう動くのかは最初から確定していたと言っていい。
毛利と和平を成立させたところは確かに運が良かったといえるが
織田配下の他の武将らは和平を成立させられていないか領内で一揆がおこったり反乱が起きたりしてるから
最初から動けるわけがない。

357:人間七七四年
15/09/05 05:26:41.60 cUfN89Ao.net
どうしても秀吉を叩きたい
コピペ連投自作自演の
いつもの火病の方が
執拗に粘着してますね。

358:人間七七四年
15/09/05 10:31:03.89 wywD0dUP.net
すみません、大河ドラマの評定シーンとかでよく見る小具足姿に憧れて自分でも欲しいのですが販売してるところってありますかね?

359:人間七七四年
15/09/05 12:30:26.77 lB30KJ/g.net
小具足か三具と甲冑直垂が欲しいってことなら売ってるで。丸武とかで

360:人間七七四年
15/09/06 00:28:20.94 OjFqUWKF.net
>>356
>織田配下の他の武将らは和平を成立させられていないか領内で一揆がおこったり反乱が起きたりしてるから
>最初から動けるわけがない。
なるほど、他の武将がこういう状況の中、いちはやく引き返すことができた秀吉はやっぱりすごかったんですね

361:人間七七四年
15/09/06 19:36:38.88 9nMkZFgi.net
>>360
他の武将は敵対大名が和議に応じなかったが
秀吉の場合は本能寺の変前から和議が模索されていて交渉中だった
他の武将は一揆の土壌が強い土地にいたが秀吉の場合は一揆の土台がまるでない治安のとれた地域だった
この差だな。秀吉は悉く棚ぼただった。

362:人間七七四年
15/09/07 08:13:59.97 HtR35BKB.net
>>359
亀ですみません、ありがとうございます
一式で販売してるとこは無いかもしれませんが直垂とか脛当てとか籠手とか個別になら揃えられそうで安心しました
そもそも各部位の名称とか全然知らなかったので甲冑直垂を教えてもらえて助かりました

363:人間七七四年
15/09/08 13:56:39.93 xEVJDvys.net
>>361
なるほど、他の武将が和議に苦労する中、一足早く和議をまとめることができた秀吉は
やっぱりすごいなって話ですね。
支配地域の治安を維持させていたところも秀吉の有能さをしめしている、と。
勉強になります。

364:人間七七四年
15/09/08 14:07:57.50 B9Xo0fET.net
相手の事情考慮に入れないとか勉強しても無駄なタイプやねキミ

365:人間七七四年
15/09/08 23:27:01.86 vOgNmui1.net
>>363
毛利と他の大名とで和平に協力的だったかどうじゃなかったかだけの差じゃないかね
支配地域の治安などもそうだけど元の地域ごとの特性がまるで違うからそれを能力どうこうの問題に帰結させるのは暴論かと

366:人間七七四年
15/09/11 07:21:21.65 iWVhiqB9.net
柴田と秀吉の対決の時は
どっちが勝っても良いように両天秤かけていたりと
この時点ではまだ必ずしも秀吉に肩入れしていたわけではないよ。

367:人間七七四年
15/09/12 21:17:13.76 DBwa692q.net
毛利は本能寺の変の時点で実際に既に両川が秀吉に子どもを人質に出す約束がされていて
その後すぐに吉川から広家 小早川から秀包が秀吉の元に秀吉に出されて関係は良好だったんだけど。
柴田と毛利はまるで連絡してる様子はないけど

368:人間七七四年
15/09/12 21:27:18.95 s8aMnAk2.net
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけだし
攻め取った丹波には秀勝?だったかを置いて、直轄領化があっさり実行できたのに対し
勝家の方は織田家時代の軍閥化がされてない、織田家旧来の寄騎関係にすぎない
後進軍隊だったからその弱点がモロに出ただけでしょ。
明智や羽柴は軍閥化が終了してたし、早くから陣立書や、直轄支配化、直接命令型の統治形態や軍隊が持てたけど
勝家は家康の信濃支配みたいな、弱い頼子寄親に頼った軍隊だっただけ。
光秀や秀吉は軍閥化に成功しており信長の仇討ちをスローガンに
摂津にいた池田恒興・高山・中川ら都市国家(都市軍閥)を同陣に誘い光秀軍閥を打ち破り指導力を確立した。
(賤ヶ岳の戦いで戦死した中川清秀について中川氏年譜は秀吉と中川が天正8年6/5に兄弟の契りをしてる書状がある)

369:人間七七四年
15/09/12 21:29:32.36 s8aMnAk2.net
毛利は秀吉の口述詐欺にはまって
6/6小早川書状では本能寺の変では信澄・光秀・柴田の調儀で信長を殺したと書いてて
勝家の事を主殺しをした謀反人とみなして敵視してたのがわかる。
杉若無心書状  西国表之儀存分之まま、両川人質定ふに相定、三か国相渡、去6日に至姫路
と書いてて西国表は秀吉の思うままになって、両川は三か国割譲と人質提出が決定されたと書いてるし
毛利との和睦は既に本能寺の変の時に成ってて
後は備中での秀吉親藩の宇喜多領と毛利との国境線画定作業が残ってただけ。


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