信長包囲網はなぜ失敗したの?at SENGOKU
信長包囲網はなぜ失敗したの? - 暇つぶし2ch150:人間七七四年
14/07/02 23:44:54.38 D1MUHxv7.net
>>148
その不死身の天才が敗戦数十敗とかしょっぱいですなー。

151:人間七七四年
14/07/02 23:46:45.02 I3jRYmZv.net
>>150
どの戦いのことを言ってるの?名前挙げてw

152:人間七七四年
14/07/02 23:47:05.25 1png42hz.net
1573年時点の織田の国力は
尾張美濃伊勢の大部分、近江全域山城大和河内和泉の大部分丹波の大部分
これに摂津の4分の3に播磨・但馬の織田方が加わるから
全部で450万石前後はいくんじゃね。

153:人間七七四年
14/07/02 23:48:14.97 D1MUHxv7.net
>>146
ついでに、志賀陣でも普通に一揆勢が朝倉浅井勢に参戦して遠征してるので、
一揆勢に遠征能力がないなんて事はまずないです。

154:人間七七四年
14/07/02 23:53:39.40 1png42hz.net
遠征するには物資と兵站網と継続的な収入が必要。
一揆勢らはそれを持ち合わせていないので
外征など不可能。
城に篭もって迎撃してるだけ。

155:人間七七四年
14/07/02 23:53:41.34 D1MUHxv7.net
>>152
正気で言ってるんですか…。1573年の何月なんですか?
信玄が生きてる時点でいいんですか?
1573年の時点では伊勢長島も健在どころか、伊勢長島に北伊勢自体が呼応してますし、
北畠宗家に味方して織田を主君と認めてない者とかも普通にいるわけで、
伊勢での動員力は大部分とはとてもいえないです。
近江全域って、浅井や一揆はどこにいったんですか。
大和も宗教勢力や信長に服属してない勢力いますし、河内や和泉も大部分か微妙ですし、
丹波が支配されるのってまだまだ先ですよね。
播磨・但馬の織田方って…。当時は動員にも入りゃしないくらいの関係でしょ。

156:人間七七四年
14/07/02 23:55:28.45 D1MUHxv7.net
>>154
いや、だからそれ貴女の妄想でしょ。
北陸一揆とかは何回も越前とかに攻め込んでますし、
大阪も天文一揆とかでは大暴れ、志賀陣でも普通に朝倉浅井について遠征してますし、
マジで一揆が遠征不可能とか、「それを員数に入れられると困る」人が
必死になってるだけでしょ。

157:人間七七四年
14/07/02 23:56:24.06 I3jRYmZv.net
>>152>>155
自演はもう少し考えてやろうね、菅沼クン


関ヶ原、西軍勝利 その2
453 :人間七七四年[sage]:2014/07/02(水) 23:43:53.31 ID:1png42hz
実際この掲示板のアホ書き込みのほとんどは1人の馬鹿織田厨によるものだからな。
頼るもクソもない。

158:人間七七四年
14/07/02 23:57:58.65 D1MUHxv7.net
>>151
とりあえずざっと
斎藤義龍相手に大良河原で完敗
・斎藤龍興相手に14条で敗戦
・斎藤龍興相手に騙し討ちを仕掛けても防がれ、
逆に河野島で壊走
・第一次伊勢長島攻めで攻略できずに引き上げる所を追撃され、敗退。殿軍を務めた柴田は負傷して交代、後退した氏家が部隊もろとも全滅という大敗。
・第2次伊勢長島攻めでも攻略できずに退く所を追撃され、
殿軍を務めた一の重臣である林新次郎が
その与力武将もろとも部隊ごと壊滅して大敗。
・尾張小口城攻めで敗北し側近死亡
・1569年の北畠攻めで敗北
・1560年に美濃を攻めて2回斎藤義龍に撃退される。
・新加納で斎藤勢に敗北
・1565年に東美濃で武田勢と接触して戦闘になり、織田勢が兵を退く。
・堂々砦攻防戦。信長公記では見事な撤退、となっているが、
実際は「死人を先に出した」とかおかしな記述が目立ち、
信長公記特有の提灯記事の可能性が指摘される。
武功夜話では明確にこの退却戦は「前方は広野、支え様手立相無し、敵方信長様近々に寄せ来る」「高名も手柄も外聞も無く逃れ候」と
信長の近くにまで敵が迫り、高名も外聞もなく敗走した戦いだったと
記されている。
・朝倉浅井に挟撃され、金ヶ崎崩れとなる。越前攻略に失敗。
・野田福島の戦いにおいて本願寺勢に撃破され、佐々成政負傷、
野村越中討ち死に。
・志賀陣において堅田に坂井勢を派遣して朝倉浅井の陣に楔を
打ち込む事を狙うが、朝倉浅井の反撃を受けて敗退し坂井勢壊滅。
・1572年、朝倉浅井と対峙するが、越前勢の奇襲を受け、
陣地を700以上焼き討ちされる。
・朝倉浅井勢、織田勢を攻撃して大利を挙げる。
常陸の土岐氏からの朝倉宛の答弁の内容、朝倉の返答書状、
武田家の書状、など複数の同時代的資料及び根拠あり。
・1573年5月に浅井を攻撃するが撃退される。
・1574年東美濃攻防。明知城の救援に赴くが、武田の山県勢に険路を抑えられ、進むに進めないうちに明智城が陥落。
退くところを山県に追撃されて敗走。

159:人間七七四年
14/07/02 23:59:26.02 D1MUHxv7.net
>>157
あのー、それって例によって貴女が都合悪いレスを認定してるだけで
何の根拠にもなりゃしないと思うのですが。
っていうか、本当に都合悪い相手はなんでも菅沼なのですなあ。

160:人間七七四年
14/07/03 00:06:53.86 uGnBNOqn.net
>>139
っていうか、それいつごろの話をしてるんですかねえ。
っていうか、朝倉の領域に若狭とか入ってないですし、
一揆勢は人口を召集して数万単位の規模をつくる勢力なので、
石高ではかるのは意味がないはずですが。
実際に、湖北・長島・大阪・北陸、いずれも数万単位の兵力を動かしてますね。
他にも普通に織田包囲網に入って戦ってる足利やら土一揆やら幕臣やら三好やら、その他の
勢力を含めないのもおかしいですし、武田も織田の東美濃を攻略したりしてます。
どう見ても動員兵力とかで見れば、織田は不利な状況では。

161:人間七七四年
14/07/03 00:12:57.61 uGnBNOqn.net
>>134 >>135 >>136
>>160にも書きましたけど、普通に一揆勢は数万単位で動くので
石高だけではかったところで意味ないです。

>>137
その計上方法でどうして包囲網勢に味方した土一揆だの、幕臣だの、三好だの、
六角だの、足利だの、雑賀だの、その他色々だの、を入れないのでしょうかねー。
っていうか、300万石余裕とかマジないっしょ。

162:人間七七四年
14/07/03 01:24:01.41 Y+xiHRh9.net
畿内では若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
他にも但馬や丹波など織田方に帰参してる国人は多く
普通に300万石は余裕でオーバーする。
近江の中で浅井の支配拠点はわずか2郡だし
朝倉には一門からもボロボロ寝返りが出てる始末。
山岡もあっさり織田に従属したりしてるし
六角義秀はハナから織田方で斉藤攻略や上洛戦で多いに織田の戦をお膳立てまでやってる。
武田はほとんど徳川が抑えてて、東美濃には5000程度がほんの一時期ちょろっと攻めかかってきただけ。
包囲網勢は贔屓目に見ても110万石前後しか対織田に参加してない。

163:人間七七四年
14/07/03 02:15:34.59 uGnBNOqn.net
>>162
とりあえず、時系列がいつの事なのかわかりにくいです。
但馬なんか当時は動員兵力にもならないでしょうし、
丹波が攻略されるのってこれから数年たってからの事でしょうに。
多くって誰の事言ってるのですかね。
若狭には朝倉の味方もいるわけで。大和も完全掌握とはいかないですし、
細川・畠山・荒木もその国全部を抑えてるわけではないですし
っていうか、この時期にはまだ普通に三好が健在ですけど。それらの地域で。
どう考えても300万石余裕でオーバーとかありえないでしょ。

近江の浅井には一揆勢とか味方にいますし、
朝倉も普通に1万数千から2万近い兵を動かしてるわけで。
なんで六角といって六角義賢が出てこないのか謎すぎですが、
こっちの方は普通に信長に敵対してます。
武田も普通に東美濃で岩村を攻略した後は織田方を上村合戦で
撃破したりしてますし、勝頼時代には東美濃攻防もしてます。
というか、友好勢力、とやらを含めつつ、武田が入るのは嫌だから
徳川関係ノーカウントとかされてもですねえ…。
っていうか、大阪・北陸・湖北・長島といった一揆勢それぞれ数万単位の
動きがあるので、石高だけでとらえてもしょうがないですし、
山岡をはじめ他にも織田に敵対してる勢力はいくつもありますが、
それらはノーカウントで110万石(キリ)とか言われても
こちとら失笑でして。マジで一体いつの事を話してるのか
謎杉なので、定義出してくださいよ。

っていうか、あちこちでID変えながら発狂してますけど、
こんな時間に文体も論旨も行動パターンも一緒で
一斉にレスし出す時点で、色々と明白なのが分からないあたり
やっぱり長篠スレで複アカ多数派工作してる事を自白してる、
腐女系おばちゃん織田厨のネット廃人カス子さんだけはあるなあ、
と思ったりしますね。

164:人間七七四年
14/07/03 09:10:12.71 m+C9J1Ru.net
尾張・美濃で100万石
あとは伊勢と近江でどんだけ支配してるかだけど・・・畿内が反旗を翻してる状況じゃ兵を動かせない
結局のところ動かせる兵は尾張・美濃だけ

165:人間七七四年
14/07/03 09:24:40.20 Y+xiHRh9.net
尾張 57万石
美濃ほぼ一国 49万石
刈谷の水野12万石
伊勢の6割~7割計30~35万石
近江の大部分60万石
大和のほぼ一国40万石
摂津7割26万石
河内何割か 16万石
但馬(元亀時点では織田方。織田に謁見を願ってるし、山名は元々織田の支援を受けて但馬入りしてる)11.5万石
播磨(永禄末期の経略で一旦平定)36万石
丹波(元亀時点では織田方) 22万石前後

浅井・朝倉滅亡前でも330万石前後
浅井・朝倉滅亡後で400万石前後といった所。
長島平定・伊勢平定後だと450万石前後いく。

166:人間七七四年
14/07/03 09:42:40.42 xa3oz6bh.net
>>165
尾張一国で57万石は疑問だな
江戸時代でも47万石しか無かったのに
刈谷の水野はもっと少ないぞ。徳川が三河の半分しか支配していない事になる
浅井の勢力と寺社の支配地域、六角の残党が割拠する近江も40万石程度
大和も武家の勢力が及ぶのは半分程度

167:人間七七四年
14/07/03 09:45:02.14 xa3oz6bh.net
>>162
浅井の拠点は浅井、伊香、坂田の三郡に
犬上、高島の二郡にも勢力は及ぶ

168:人間七七四年
14/07/03 09:45:55.82 vRi/0HzM.net
尾張の国力が太閤検地によれば57万石。
刈谷の水野氏は水野い得譜によれば20万石。
近江の中で浅井の支配拠点はわずか2郡の10万石前後。
一揆勢は支配拠点が皆無なので計上する必要なし。
六角も残党なので、支配拠点はなし。
大和は一職支配を筒井がやってるからほぼ一国支配。
ついでにうと筒井以外に織田方に抗戦してる勢力なぞいない。

169:人間七七四年
14/07/03 09:52:38.20 pmkGCfGa.net
近江国人のうち
蒲生・後藤・青地・池田・永田・進藤・永原・山岡らは信長の上洛戦で既に帰属
さらに浅井との対戦時でも
堀・多賀・高宮・久徳・宮部・新庄・林・磯野といった国人らがあっさり浅井を見限って
織田に帰参してきてる。
浅井の支配拠点はせいぜい2郡の10万石前後でしかない。

170:人間七七四年
14/07/03 09:53:31.91 xa3oz6bh.net
>>168
だから何で浅井の勢力を勝手に二郡に減らすんだよ
おまけに水野の勢力圏が尾張、三河内なのだから
水野の石高を増やして計算すれば、相対的に徳川、織田の石高が減る

大和は武家支配だけでは無いぞ
争いに参加していない寺社や吉野郡の郷士の領土だってある
世の中全て武士というわけでは無いからな、特に近畿は

171:人間七七四年
14/07/03 09:57:48.80 xa3oz6bh.net
>>168
江戸時代の尾張藩の記載だと、尾張国内は47万石しか無いだろうが

172:人間七七四年
14/07/03 10:04:39.17 4I3Gfbvt.net
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし

173:人間七七四年
14/07/03 11:08:05.78 ftnIbka+.net
なるほど、そんな極小な織田を滅せなかった武田信玄情けねえと
全くの同意だ

174:人間七七四年
14/07/03 11:45:19.10 GlvfWau6.net
菅沼くんはまだ水野20万石とか言ってるの?
三河の7割も水野が持ってたら徳川の土地なんてほとんどないじゃん。
そんな弱小徳川すら潰しきれなかった信玄どんだけ弱いんだよ。

175:人間七七四年
14/07/03 13:28:00.34 1FmoHVrL.net
自衛隊を軽く凌駕する不死身の織田軍団に他が勝てるわけない
そうだよね?菅沼君

176:人間七七四年
14/07/04 23:04:42.68 DYeS8h3T.net
石高なんて表向きの数値なのに信じきっちゃってるアホたち
平和やね

177:人間七七四年
14/07/05 02:55:23.78 YXtGkgcA.net
参考にはなるだろ

178:人間七七四年
14/07/05 07:50:50.55 QoXZSZI9.net
石高以外に戦国時代の各国の経済力を指し示すデータはないのだからそれを参考にするのが普通。
石高が参考にならんとか馬鹿な妄想はどうでもいい。
石高以外に副収入入れると
津島港の収益や京や堺や南近江などを掌握してる織田はさらに有利だし。

179:人間七七四年
14/07/05 08:52:16.86 oFzhTRXm.net
ある程度信頼出来て客観性もあるデータとなると石高だけだからな、
絶対視はできないにしても、他のデータよりははるかにマシってことだ。

180:人間七七四年
14/07/05 16:08:28.97 lcNdQmJX.net
さんざん信じきっちゃってて否定されると「参考になる(キリ」とかトーンダウンするアホたち

平和だね^^

181:人間七七四年
14/07/05 16:26:15.75 CNQl3zAD.net
?負け菅沼の遠吠え

182:人間七七四年
14/07/05 19:53:50.33 iPM5ds3j.net
石高が参考にならんとかアホ妄想垂れ流してるのは馬鹿織田厨だけだからな。
各国の経済力を推し量る唯一の判断材料なんだからそれを元にして語るのが普通。
まあ、史料を無視して妄想垂れ流すのが好きな織田厨は認めたくないだろうが。

183:人間七七四年
14/07/05 20:39:55.80 +ibiw37m.net
菅沼「自分に都合の悪いデータは信用ならないニダ」
まで読んだ

184:人間七七四年
14/07/05 22:28:37.22 AAtDq9B9.net
確か軍記物だと織田の兵力が多い、そもそも信用できないから国力から判断しようぜ
商業利権考えると国力は織田が圧倒的だろ、商業工業とか客観性ないから石高から判断しようぜ
石高で考えると国力は織田の方が、石高だけじゃ判断つかないから(ry

これが上洛スレの流れだった
最終的に石高だけで国力兵力判断するのが一番武田に有利だから基本石高での比較に落ち着いたと

185:人間七七四年
14/07/05 23:27:15.67 LReklZfm.net
次は領土から取れるドングリの数を比べようと言い出すな

186:人間七七四年
14/07/06 00:48:59.49 mRNY/0VN.net
仮に織田が300万石だったとしても兵力は乞食兵一万しかいないのだから確かに関係ないわな
そうだよね?菅沼君
君が言い出したことだよ?無視しないで答えなさい
それとも負けを認めるかね?

187:人間七七四年
14/07/06 09:06:01.85 turVc+nE.net
>>186
それだと菅沼君は織田は40万石以下しか実質支配していないというだけだと思う。

188:人間七七四年
14/07/06 09:29:46.60 ezm8eRqo.net
そしてそれだと

そこから盛り返した信長すげー
そんな相手を滅ぼせなかった信玄マジ無能

にしかならないんだよな

189:人間七七四年
14/07/06 11:54:16.22 e3bP7OKx.net
信長は実際にそれだけ有能で、信玄はそれだけ無能だったんだろ。

190:人間七七四年
14/07/06 11:56:05.23 yFSbH/Vo.net
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。

織田軍なんて、惣村ですら一揆を組んで、織田に反抗していたほどザコで
誰も恐れていた記述が存在しないしな。
そもそも長篠の戦いで武田が弱過ぎるなら、そのまま武田領へ侵攻すりゃあいいけど
謙信に武田を攻めない理由を追求されて、いいわけ三昧の態度をだして
あまりのヘタレぶりに、謙信から織田とは絶交!とか言われて
能登や加賀を奪われたヘタレ信長だし
近甲同盟交渉を長引かせて、ひたすら武田の鋭鋒から逃げ回ってただけだし。

信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、80万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。

信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。

天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

家康の織田裏切り行為
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
謙信が死んだことで御館の乱が発生し
信長が北陸戦線防衛に必死になることなく
勝頼の遠江侵攻への支援が可能になる余裕が出てくると
9月に信康の岡崎へ三河国衆が出仕するのを禁止して
万が一の時の武田との交渉チャンネルである
信康の排除へ家康が動き出す。
そして家康と北条の同盟が成立する天正7年9月に切腹。
それと同時に徳川領での石山本願寺支援も消えていく。

191:人間七七四年
14/07/06 11:58:04.48 yFSbH/Vo.net
結局、最後まで徳川は高天神とセットで攻撃していた田中城を自力で落とせなかったくらいだし、
武田崩れを誘発した穴山の離反がなければ諏訪で織田軍を壊滅させられたよな。
なんせ北条如きに大敗した滝川とか地侍に破れて殺される河尻とか
織田軍の弱さはハンパねぇからな。

いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。

天正7年8月末に北条高広が後北条を離反
それを受けて9/5に北条と徳川の同盟が成立し
家康も武田窓口の信康を9/15に切り
対武田の全面戦争開始。
同時期、佐竹を通じて武田と織田の同盟交渉がなされており
家康は信長の娘を尾張に送り返し甲江同盟に対して不満をぶちまけている。
しかし当時の信長は本願寺と毛利と別所に呼応して摂津荒木が挙兵し危機的状態にいた。

蘭奢待の切り取りで天皇権威を背景に大和の帰順をしたから北畠支配も可能になっただけだし
そもそも勝頼が穂貸し美濃で大規模攻勢をかけて明智城が落ちたり(苗木城は勝頼の子の信勝の祖父の城だから攻撃してない)
毛利が東進する危機に信長はビビりまくり公家らに略奪してた荘園を
返却したり、自分で燃やした京の復興をしたりの
朝廷への土下座外交をしたから長篠の勝利を得ただけだし。
他力本願ばっかじゃん信長。
虎狼のように手に平返しして天皇をあからさまに軽視した瞬間に家臣に討ち殺されて終了w

天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城日了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。

192:人間七七四年
14/07/06 11:59:52.00 yFSbH/Vo.net
山城の山崎の畿内全域の油流通を支配していた団体も信玄上洛は確実とみて、
武田から安堵状を出してくれるように乞うてた。
中世日本最大規模の油座であった大山崎油座の情報諜報能力とその意向と影響力・経済力は高く
山崎の合戦で明智が守ろうとした山崎の地は戦後に、秀吉が築城し大坂城ができるまでここを根拠地に政戦略を策していたほど。

熱田~伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

193:人間七七四年
14/07/06 12:01:51.47 yFSbH/Vo.net
蒲生賢秀の娘2人の旦那の関盛信と神戸具盛は
信長によって幽閉されていたから怒ってたんだろうな。
脱走した際に不憫に思って助けたのが賢秀だろ。
大体蒲生は六角侵攻の時に素早く織田に鞍替えるような人間
信長が滅亡寸前で鞍替えしても不思議ではない。
実際、蒲生の後援がなければ六角氏が生き延びられるわけがなかったからな。
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿

194:人間七七四年
14/07/06 12:02:30.60 yFSbH/Vo.net
加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。

神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人

関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。

織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。

鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。


蒲生の織田からの離反の契機は元亀2年10月あたりからだな。
11/3付で穴山→蒲生賢秀宛に書状を出してるから。
その内容は信長には秘密裏に蒲生が馬が欲しいと言ってきたことに対する返礼で、
蒲生の望み通りの乗り心地の栗毛の馬を馳走してる。
また関東と越後と戦っているが伊豆と武蔵の過半が
信玄の本意になるのは疑いないと書いている点は、
11/7の書状で信玄が書いている内容と同じで、
10/3に氏康が死んだことを知った上で、再度の小田原攻撃を宣言し、
氏政を恫喝していたので12/17には北条が武田との和睦を受託していた。
またこの書状には文書には書けないことを柱蔵司に演説させるとも書いていて
武田の威勢に驚いた蒲生が、武田への急接近を始めている証拠となっている。


まー肝心の山岡氏がもう信長から離反開始だからね。そりゃ蒲生だって裏切るわな。


信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで~と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
そんなら天正元年には何で滋賀郡周辺で大苦戦してる光秀への援軍に柴田は陸路が使えず船で行かざるを得なくなってんだw
あきらかに瀬田大橋が織田軍の通行を許さなかったからだろw

完全に自演発狂しながら織田厨はデタラメを書き散らして喚いているな。

195:人間七七四年
14/07/06 12:03:26.23 yFSbH/Vo.net
二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。

もう勝敗はついてるよ。
フロイスは日本史において、
初めて岐阜へ向かったときに
「信長の軍勢の総司令官である佐久間殿」を最初に訪問してる。
その後に「信長の最高の武将4人の中の一人である柴田」を訪問。

そして信玄は三方が原で織田軍総司令官佐久間を怯えさせて戦わずして勝ちを得ている。
謙信は織田軍総司令官の下にいる四天王の1一人である柴田を怯えさせ戦わずして勝ちを得てる。

孫子が主張する戦わずして勝ちを得る最高級の勝ち方を示している。

貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。

196:人間七七四年
14/07/06 12:04:30.04 yFSbH/Vo.net
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

197:人間七七四年
14/07/06 12:05:29.46 yFSbH/Vo.net
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。

198:人間七七四年
14/07/06 12:12:51.89 mRNY/0VN.net
答えられないとまた妄想コピペですか?菅沼君

199:人間七七四年
14/07/06 12:32:35.02 SZwotR58.net
>>190-197
何がいいたいのかわからん。
詳しいのはわかるが、各レスごとに要旨を2行ずつくらいでまとめてくれ。

200:人間七七四年
14/07/06 12:54:37.58 yFSbH/Vo.net
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで?と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。 公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww

信長は援軍として西に兵力派兵する余裕がまったく無かったから、勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
まぁ波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。

201:人間七七四年
14/07/06 12:55:30.44 yFSbH/Vo.net
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。

天正2年正月の公記 朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は? 義昭→六角義賢書状 信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、 勝頼に明智城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、
石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが義賢書状では 信楽表で大勝利し感状まで出してる。

202:人間七七四年
14/07/06 13:04:08.70 yFSbH/Vo.net
丹波最大の実力者の内藤氏は義昭に付いてないと信長は細川に言ってたが
二条城に着いてみたら内藤が銃手1000を含む5000で入城してた事実www
>>毛利はまだあの時点では因幡や但馬より東には興味も余裕もない。尼子再興軍が山陰で暴れてる
はぁ?義昭の槇島城籠城の時は毛利は兵糧を援助したりと東進の気持ちがかなりあるし
そもそも尼子残党と宇喜多を支援してた織田は余力なくなり、
尼子残党の拠点だった山名まで吉川化して吉川と赤鬼は刀の交換までしてんじゃんw
織田が支援打ち切りしたので宇喜多は播磨侵略中の毛利の先鋒になってしまい
織田方の浦上が圧迫されるも織田は支援できず、浦上まで義昭に内通を始めて、
義昭から浦上と小早川の上洛を急かされてるしwww
>>野田福島時点より三人衆の勢力は後退
後退してないどころか織田方の池田勝正は三人衆側の知正に追放され
和田も討死して伊丹まで三人衆側で挙兵してる始末www
>>はその直後に篠原長房が殺されてる事
それは何年の出来事か確定されていない話なわけだが織田厨の脳内では確定してんのかwww
>>石山は織田と和睦中
和睦も何も顕如と信玄の妻が姉妹でもあり同盟し、顕如は信玄に上洛してって頼んでるし
近江の六角氏に協力して一向宗を蜂起させたりしてるし、三好三人衆との同盟を堅守してますが。
しかも三好義継の河内を本願寺の前衛と捉えて支援してますがwww
(河内が落ちると河川のない大坂南へ通ずる四天王寺方面へ織田軍が進出できる為)

三好がもはや弱体化?冗談でしょw
三好康長や篠原自遁は12月に長岡京のある大山崎で禁制を発布してるし、桂川の渡河先の淀城には石成友通がいる。
京の西側はすでに三好勢力圏になってるわけですがw
浅井も朝倉も弱体化?まさかwww阿閉貞征が降伏するまで織田軍は北国街道すら制することができなかったのに?
もうお前の言ってること滅茶苦茶過ぎて笑えてくるよ。
義継は河内半国だから弱いってwその河内上国+松永の軍勢に河内下国の畠山昭高はボコボコにされて高屋城篭城して織田の援軍待ちじゃん。
しかも1月初頭には遊佐信教に暗殺されそうになるほど城内は不穏で・・・まぁ結局6月に暗殺されたけどwww
どう考えても葉を見て木を見ないのは織田厨の方だろ。
織田は本国すら不安な状態。
逆に武田領国は安定盤石。

ひたすら反織田側を弱小にイメージ付けたいみたいだが
信玄が死んで武田軍が撤退するまで何一つとして解決されてないわけだが。
自遁は長房の弟とも言われてるんだから大山崎にいたから何だと言う話じゃないし、
むしろ自遁が最前線にいる時点で三好内乱が勃発してない証拠。
長房が死んだのは天正2年から始まる讃州燎乱による三好内乱と言われ
事実この内乱で織田側に降るものも出てきてるし、
小少将と自遁が密通し讒言され長房暗殺された話は信憑性が低い。
若江三人衆はもともと遊佐氏の配下で、のちに松永久秀とつるんでいた者達。
めともと若江三人衆は反織田なわけだが。
遊佐氏は信長の妹が畠山昭高に嫁いでいるのにそいつを暗殺してるのに反信長じゃないとかデタラメ過ぎ。
遊佐氏は三好の援軍を城内に迎えてる。
信長は朝倉の撤退を最大の戦機だと主張し追撃してる。
この戦機を信長や利家らは全力で追撃して雨天の峠でボコボコにしてる。
この最大のチャンスに動きが遅かった佐久間らはのちに信長に激怒されてるほど。
一方利家らは信長から激賞されてる。
佐久間追放の折檻状にもこの話を持ち出すほどの大戦機だった。
そのまま息をつかせぬ鬼追撃で越前まで乱入。
余程の戦果を上げているわけで、これにより朝倉軍15000以上の軍が瓦解壊滅してる。
これ以前にすでに朝倉軍が弱体化してるなら朝倉軍は3万くらいいたのか?

203:人間七七四年
14/07/06 13:07:59.84 yFSbH/Vo.net
じゃあなんで兵糧や銃や火薬が足らんから金作れって命令してるわけ?
1568年に天皇から乱妨狼藉の禁止・禁中御警固を命じられていたのに、
いまそれを放棄してまで金を作ってんのに?
その金作りのせいで類火が禁裏の近くまで広がり、
万が一の時は吉田山へ逃げろとか言ってるのに。
義昭との講和のためなら二条から上の上京を燃やすだけでなく
下京や賀茂から嵯峨まで燃やして恐喝する必要性はないよね。

毛利輝元も1573年2月に義昭から右馬頭に断りもせず受けてるし
(義昭も左馬頭→征夷大将軍になってるように次は将軍なので
左馬頭は禅譲を意味するので与えないがそれだけ毛利を大事に思ってる現れ)
その後に義昭の槇島城籠城に毛利は兵糧支援までしてる。
>>1572年に起こった説も普通にあるんだが
それwikiのデタラメ丸パクリだろ・・・
1572年12月に篠原自遁は大和守と大山崎に禁制を出しており
大和守はおそらく長房の嫡男である以上この時点では自遁と長房は対立してないと言われてる。
だからできるだけ早く死んだと見積もっても1573年7/16以降だとされてる。
(もっとも1574年讃州繚乱まで事件らしいものの証拠はないが)

>>畿内の昨日の敵は今日の友だろ
1573年7/14に信長は保田知宗に遊佐信教を討ち果たす宣言してるんだが・・・
>>河内半国さえ怪しいから雑魚
三好三人衆と松永久秀と本願寺も協力して河内ほぼ制圧してるし
例外の高屋城がひたすら籠城で耐えてただけ。
>>朝倉に関してはそれ以前から軍役拒否が続出
そんな大身の拒否が続出してるならそもそも近江に来ることさえ無理だろ。
1573年8月にならないと朝倉景鏡、魚住景固らの拒否は無いし
何度も書くけど8/8阿閉貞征が織田に降伏したのを知った信長が至急現地へ夜中なのに急行して
山田山に布陣して越前への通路を封鎖したから戦局が大きく動き8/13での大勝利につながるだけだから。
>>毛利は山陰を安定させられなかったから尼子再興軍に付け入られたけど
1569年に丹後国・但馬国のザコが尼子に味方し出雲や伯耆の沿岸を賊船で
荒らしてるだけだと毛利側から幕府に報告があって、とても尼子がそんな深刻な状況になってない。
ちなみに信長から毛利へ出雲国・伯耆国は毛利に委任すると言ってる。
もっとも信玄上洛に合わせてそれを破って毛利は因幡や但馬へ進出するわけだが。
ちなみに1572年にも浦上を後援してる信長は陰で宇喜多を支援してる毛利に苛立ち吉川に
「宇喜多と浦上が闘ってるのを見て見ぬフリするのはどういうことだ?和睦させろ」といってる。
基本的に信玄死後の軍事バランスの変更によって起きた事象を取り上げて
信玄生前の状況を評することばかりしてるのが痛いね。

信長は鉄砲・弾薬・兵糧などの作戦物資は金子百または十両のを二百ではあまりにも足らない。
上洛の時は足らないから手当てしたい。荒木と段取りやっとけって言ってる。
それで入京するや脅迫してんだが。
しかも前年の1572年には奈良街から銀320
興福寺銀100・東大寺銀50を脅迫して上納させてるし。
乱妨狼藉の禁止・禁中御警固の役目を完全に放棄してるのは
金に困ってたからで、
事実、比叡山焼き討ち後くらいになると織田軍による公家の荘園の横領が激しくなり女房奉書が頻繁に出されるも信長が無視するから
しまいには綸旨まで出され、返還したくないから勅使から信長は逃げ回るようになる。
スレリンク(sengoku板:690番)

204:人間七七四年
14/07/06 13:14:22.53 yFSbH/Vo.net
さらに三好三人衆だけでなく
松永久秀や三好義継を許して信長に対して敵対させるし
信長も事態が切迫して義昭に対して
「自分と信忠は将軍が許してくれるなら、頭を丸めて武器も持たずに会いに赴きます」と土下座状態だったが義昭は強気を崩さず
信長はさかんに「義昭の行動を公家や御所はどう思っているのか?」と心配して聞いてる。
鯰江城がやっと落城したのも信玄死去後の1573年9月・・・
当時の琵琶湖は現在のような埋め立てられて狭くなったものではなく
信長が京への街道として確保していたのは非常に細いラインでしかなく、
相伴衆仁木義政が伊賀・甲賀衆を率いて挙兵したり
比叡山も焼失の翌年から修築され始めており
一向衆を労働力に山城守護の山岡が石山と今堅田に砦を築いて
信長も2/24には黙視できずわざわざ柴田・明智・蜂屋・丹羽の軍は派兵して
京洛への通路の確保に乗り出さざるおえなくなったり
実質的に鯰江城が陥落してないため南近江は六角支配下だったわけだが。
実際、近江経済の鍵たる琵琶湖制海権は反信長側にあったから
義景は普通に竹生島に参拝いってるからなー。
圧倒的に反信長側が有利だったろうね。
だからアチコチで敵が蜂起しては討伐されるとさっさと撤退して
また違う場所で蜂起を繰り返され
軍事費は底をついてくるわで
御所延焼も辞さない焼き討ちはもはや自暴自棄によるものだろうね。

それに焼き討ちして天皇をビビらせて義昭との和睦を斡旋してもらわないと
たった1万しか集められなかった信長は義昭が籠もった二条城を落とせない行き詰まりっぷりで焦ってた。
志賀の陣の時も信長の和議申し出を浅井朝倉六角らは猛反対してたが
信長が天皇に和睦斡旋を頼んだら魔法のように講和がなったしな。
信玄上洛の影に怯えた信長はまたこの魔法を使おうとした。


29日に信長が岐阜から上京。信長がやってきたところ二条城には三つの堀と数箇所の新しい稜堡が備えられてたという
二条城が大改造されフロイスも「とても陥落するとは思えない」と記述するなど信長完全涙目www
30日に先制攻撃で義昭が京都奉行の村井定勝の屋敷を包囲。
4/1に信長は京都吉田神社の吉田兼和に南都北嶺を滅ぼしたら朝廷の祟りがないか尋ねて
兼和が祟りになるような記述はないと解答を貰って安心してる。
4/2には1万の軍勢を指揮する柴田・明智・細川・荒木・鉢屋・中川・佐久間に下賀茂~嵯峨あたりまでの128箇所を全焼させた。
3日夜から上京の二条から北側を焼き払い、市民は大井川で大量に溺死で京洛は阿鼻叫喚の騒ぎになる。
あたり一面が焦土となりこれに危機感を持った天皇が動いて勅使が二条城で義昭を諭してから信長の元へ向かい
津田・佐久間・細川らが5日に二条城で義昭と講和交渉をはじめ
7日に講和完了し4/27に信長が和約の誓詞を差し出した。

金策命令の時に信長は丹波の宇津氏は義昭の供衆に加わったが丹波の実力者の内藤氏は義昭に味方していないと言ってるが
実際に義昭が二条城に籠城してるメンバーに射撃手1000を含む内藤5000が参加してたなど
たった1万の信長側は圧倒的不利な立場に追い込まれたために信長の予想戦略見通しは誤算の連続になった。
金策命令の時に謙信が武田の背後を突く予定だとか他力本願の希望的観測で虚勢を張ったが
義昭の甲越和与の力で信長の謙信への出兵要求を謙信はまったく聞いてないだろwww
それにいざという時は北条が北上して謙信を牽制すればいいだけだし

205:人間七七四年
14/07/06 13:53:16.86 fvqyjs66.net
結局そんな圧倒的勢いの反織田勢を寡兵で撃退し滅ぼした織田信長がチート才能だったって事か。

206:人間七七四年
14/07/06 14:04:31.26 yFSbH/Vo.net
☆慈敬寺文書の顕如書状2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
2/15松永久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが
10日付で義昭に帰参しさらに静原に山本城を築いて織田に反抗する。
近衛家文書の2/16浅井長政→伊勢七郎左衛門宛てでは信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆(義昭軍)合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/19の義昭書状では★山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
浅井長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べている。
琵琶湖最大の商業地の堅田村の郷士達が本願寺や浅井の味方になってしまい
坂本を居城とする明智軍は大津で苦戦し立ち往生しているのがわかる。

2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後にすぐ筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと明智への援軍も上洛できないほど街道封鎖は深刻になっており
大津や草津の関も機能してないはずで近江戦線は崩壊してるのがわかる。
捏造軍記信長公記は柴田と明智らが石山と堅田砦を破り西近江を平定すると書くが、
によると☆のような情勢であるのがわかる。
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き(柴田軍が大津に到着したのか?)
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶(山岡景友)ら西近江で挙兵。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。

207:人間七七四年
14/07/06 14:06:06.17 yFSbH/Vo.net
3月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してるので攻撃開始したのだろう。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
★のように戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
信長は伊丹氏により摂津において中島城の細川が堺へ敗走(信長はさてもさても惜しいことだと悔しがってる)
に続き3/7にはさらに賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを
慈敬寺から報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で急ぎ加勢した近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/21には義景→馬場宛でも敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞して、
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
(佐々木左馬頭とは義昭側の仁木義政で明智軍記では義政は山岡らと石山・堅田に籠城したと書いてある)
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで織田を粉砕した大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は、義昭らに敗北を重ねて信長が兵を集めて援軍に来るのを待っている現実が見える。
大商業地堅田村を一向宗側が取り込んでいるため、
今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで織田軍が大敗している。
また明智軍が崩壊していた現状から手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながら兵力が全然集まらずまったく出馬できないありさま。
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。

今堅田・石山・佐左馬要害・木戸城十乗坊攻めで柴田が落とせずに苦戦してるじゃんw
坂本の明智軍はすでに崩壊してるし。すでに琵琶湖西岸はことごとく義昭側。
大津で柴田が立ち往生して入京すら出来ず。
2/23に信玄撤退したから上洛する発言してた信長だが、戦況悪化と兵力が集まらず
まったく動けず義昭に土下座交渉を継続する始末。
義昭が信長の人質を突っ返し断交するに及んで、
やっと3月末に信長は上洛するも味方は細川と荒木だけでみんな離反。
1万しか兵が集まらない自暴自棄の信長は京を地獄にして略奪殺戮しつつ、天皇に和睦斡旋哀願。
和睦したら即日、背後の六角と一揆衆を攻撃しに帰るほど切迫した情勢
(和睦できたので家康の横山城への援軍はいらなくなったと書いていて、和睦ができなければ横山城の秀吉3000も抽出するつもりだった)
しかも六角を攻め落とせない。そのうち信玄死亡情勢が流れる。
すると情勢は織田優位に一変。天皇の威光と信玄死亡に助けられただけなのが信長

208:人間七七四年
14/07/06 14:07:53.23 yFSbH/Vo.net
三方が原で大敗してる家康に六角と四十九院の照光房が率いた一揆ら箕作城・観音寺城がいるから
瀬田から草津の間を守ってくれって懇望要請する信長www

元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www
元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww天下布武で家臣へ土下座書状wwww
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。

公記が隠蔽して一切書かない山陰戦線
信長は援軍として西に兵力派兵する余裕がまったく無かったから、勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
まぁ波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。
勝頼が長篠で大敗したのはガチでバカ過ぎ。
天正2年正月の公記→朝倉義景や浅井長政らのキンピカ骸骨を酒の肴に宴会した。
史実の信長は?→義昭→六角義賢書状
信長が帰ってきて下さいとか頼んできたけど拒否ってやったわw
そして越前が一向宗に奪われ、勝頼に明智城を奪われ 織田の攻勢期は半年持たず…
さらに公記4月に石山本願寺再挙兵につづいて、石部城を雨に紛れて夜に六角義賢が逃れたと書いてるが、
義賢書状では、信楽表で大勝利し感状まで出してる。続いて高天神城も勝頼に落とされるなど織田は連戦連敗・・・

209:人間七七四年
14/07/06 14:14:59.28 yFSbH/Vo.net
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

謙信が江北へ行こうとしていた加賀門徒を足止めしてなかったから信長完全終了だったしwww
のちに北畠家重臣鳥屋尾満栄が信玄に使いし信玄の上洛の時は岡崎まで大船団を派遣し迎えると約していたことが発覚。
1576年正月に鳥屋尾が岐阜に国司の使いとして年賀の挨拶に来るや信長は挑発しまくって威嚇してた。


美濃国も一向宗の巣窟。
また信長の長島攻撃には美濃真宗門徒が一揆を組織し長島参加している。
元亀三年7/13に信長は専福寺に対して大坂にいる門徒たちを引き払わせるように命じてる。
本願寺の下間頼龍も濃州坊主衆宛に専福寺の忍悟が戦死したので跡目を忍勝に認めている。
また天正四年に安八郡長久寺が本願寺から感謝されていたり
河野門徒が濃尾門徒を指揮して石山にいたり
教徳寺の六代賢正が石山や加賀に出陣するなど
美濃本願寺教団の兵糧輸送やら出陣やらの断片的記録が遺る。
美濃国中支配者51人の僧を本願寺護持に任命している。
岐阜市内では末寺や門徒の力に応じて上中下と序列している。
川之方 上
専勝寺 上
浄土寺 中
上宮寺 下
教徳寺 中下
勅命二度目で教如もさすがに断念し信長と和睦したが美濃の一向一揆衆の戦力は非常に大きく
信玄本隊の美濃進軍は彼らの一斉蜂起により
信長は致命的ダメージを受けて壊滅するだろう。

連絡斡旋してるのは郡上八幡城だよ。
長政が遠藤に三河や遠江での信玄の情報を聞いてて、
甲州からの使者が届いたと11/15付けで感謝してるし、
信玄も遠藤に江北にいる越前陣までの通路の保障を11/19付けで出してる。
また越中勝興寺にも長政は天正元年2/26に書状を出してたりする。
長政には湖北十ヶ寺一揆が味方してるから
書状も補給も可能だったし、
永禄3年8/3長政→島秀安で
伊勢長島一揆軍が北上し
今須(関ヶ原)と柏原口(米原)の隘路を封鎖し
不破口から美濃を突く作戦について触れている書状があり、
9/5にも島に信玄出馬と大君畑(多賀町)への伊勢長島一揆軍の侵攻の話を書いてたり、
天正元年6月にも伊勢長島一揆軍は濃尾国境を襲ってる。
基本的に武田や越中勝興寺だけでなく南方の石山本願寺や
伊勢長島一揆にも書状交換を普通にやってる。
信玄が美濃へ進軍したら当然、
伊勢長島一揆軍も美濃を突くのは間違いない。
明らかに小谷城を押さえる秀吉軍の慢性的兵力不足が原因だろうね。

210:人間七七四年
14/07/06 14:17:05.35 yFSbH/Vo.net
元亀元年の兵力について
浅井の裏切りで敦賀から戻ってきた信長。
怒って出陣して浅井に呼応した六角軍2万(常楽寺文書)に対して
5/9信長も2万で闘っている(言継卿記)
浅井軍・市原野一揆も出陣してきて信長を挟撃しようとしたので
まだ佐和山城が浅井方だったので
信長は近江南東から千草越えで退却(六角のゴルゴ13に信長が狙撃される)
この間、六角と信長が決戦したとされる。
信長公記では織田の圧勝のように書かれているが
姉川の戦いでは三河物語で朝倉軍3万・織田軍1万とされ
あきらかに六角と同様に織田軍もかなりのダメージを受けてるのがわかる。

近江で信長が支配していたのは主なところで
佐和山・横山・観音寺(一時奪回されたりしてるが)・大津・坂本など
琵琶湖南岸に沿った街道沿いだけであり、その南は六角支配下である。
また天野川以北は湖北十ヶ寺一揆支配圏を構成しており
姉川南部ですら、いまだに安定統治が為されていないのが織田。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末。
秀吉が旧浅井領の一職支配を任されたわけだが
実際は浅井が支配していた全域を任されたわけじゃなくて
浅井が滅亡した時点で浅井が実効支配していた地のみの支配だった。
そのため先の天正元年8月に降伏した山本山城の阿閉氏
(伊香郡の一部・浅井郡菅浦&大浦下庄)
については秀吉には与えられず、阿閉氏は信長直参扱いになっている。
よって秀吉が与えられたのは坂田郡(天野川以北)から
浅井郡を挟んで伊香郡(木之本町)以南の地域でのみ秀吉発給文書がある。
この部分はそのまま湖北十ヶ寺一揆支配圏内であり、
要するに秀吉がいた横山城や虎御前城は敵中に孤立した
大海に囲まれた小島のようなものでしかなかった。
「織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように」と書いてるわけだが読めないのか?
さて朝倉は西近江幕府奉公衆高島七頭と抵抗し背後の敦賀へ織田軍が進撃できないようにしてる。
浅井は湖北十ヶ寺一揆から軍事&兵糧支援をしてもらい篭城。
六角は三雲氏など南近江国人達(蒲生を除く)や一揆衆に支えられ、
天正元年4/11鯰江城の六角と挙兵した百済寺を攻撃のため義昭と和睦するや即進撃。
9月鯰江城が落城するも石部城へ後退。
天正2年4/13六角義賢が石部城で抵抗後に三雲氏の本拠地の信楽に向けて退城し、
この時に敵を追い払った山中山城に感状を12/24に出してる。
(この間に勝頼が美濃明智城と遠江高天神城を攻略し、信長は越前での一揆を危惧)
信長が近江で維持してるのは面では無く点でしかない。
ちなみに伊賀守護は六角氏綱から養子に入った仁木義政の領地で
北伊勢の一向宗が暴れてるのも実は仁木氏の領土。
実際、近江はほとんど反織田方でしょ。
織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように
織田が近江で支配してたのは街道に位置した城を織田武将が
維持してただけに過ぎないし。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末だし。
高島七頭が朝倉と書状交換してるように、近江の西岸を北上して
小谷に出てくる朝倉の背後を付いて敦賀攻撃もできないのが織田。
義昭挙兵の時も六角と一揆に背後を閉じられ、朝廷和睦斡旋で
信長公御名代として信広が義昭と会談した翌日にはすぐに六角と百済寺を攻撃に出撃してるし。
これで蒲生が武田に内通したら、近江がほぼ敵になったと考えて間違いないし、
織田が一万しか兵を集められなかったとするソースを、さらに裏付けることになる。

211:人間七七四年
14/07/06 14:25:35.78 yFSbH/Vo.net
1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)

元亀2年5/11朝廷が信玄に比叡山再興を頼んだ
7/16朝廷が続けて東大寺大仏殿の再興も頼んだ
どちらに正義があるかなんて明らかじゃないか。

比叡山延暦寺は信長と敵対して志賀の陣などの戦乱で荒廃した。
そこで王城鎮護の比叡山の再興を朝廷が信玄に頼み、
信長が攻撃したり金を出させていた南都の東大寺の復興も頼むのは
重大なことだろうね。

戦国遺文武田の4043(延暦寺再興)と4044(東大寺の再興)がソース
信長の御勘気をこうむっていた教如を顕如が義絶していたが
本能寺の変の20日後にはさっそく正親町  後陽成天皇が
待ってましたとばかりに教如を赦免するように顕如を諭してる。

摂津では伊丹親興や池田重成も義昭に呼応して挙兵していて
反織田で染まっている。荒木や細川が領国を維持できていたソースは存在しない。
>>752
>>「最有力国人」とか言ってるのか知らないが
信長本人がを義昭が宇津を傘下に加えたが
同国の実力者内藤は参加してないと細川への書状に書いている。
しかし二条城へ来た信長は内藤が兵5000(射手1000)で二条城にいたのを見て驚愕。
赤井は織田配下の但馬山名を攻めたり、
但馬へ侵攻する吉川元春に呼応したりと完全に反織田。

信玄が摂津表までは来る予定だったのは本願寺書状でも
今春令上洛、摂河表可出馬之由明らかだし、
大山崎の離宮八幡宮も信玄上洛成功は間違いないとして、
制札を信玄に要求してる。

212:人間七七四年
14/07/06 14:35:22.02 mRNY/0VN.net
しかしそんな状況を乞食兵一万だけでひっくり返した信長は戦の天才だな
そうだよね?菅沼君

213:人間七七四年
14/07/06 14:38:10.76 yFSbH/Vo.net
日根野弘就が弟の盛就を長政のところへ派遣し
伊勢長島との一揆兵力の融通や城普請の協力もしてるなど
各地の反織田勢力は互いに密接に連絡を取り合っているのがわかる。
12/12に信玄は当年過半任存分候と言っていて
美濃の過半は武田方になったといってるし。
だからこそ来春の岐阜攻撃だからね。
信玄が言ったように、まさに信長滅亡の時がきたんだよ。
2/23に信長は信玄が野田表から撤収したから
上洛して畿内平定するって細川に書状出してるのは
過去にさんざん書かれてる内容だし、
その後に武田が津保城や加治田城を手に入れたとする長政書状を裏付けるように
信長は上洛出来なくなり、
2/29には何としてでも信長は和睦したくて、
信長が人質を出すことで義昭と和睦出来そうだと喜ぶが、
3/6に義昭が信長の人質を返却して強気になる。
その後も和睦を信長は試みるもダメ。
3/11には荒木や高山らが細川が世話役してる和田惟長を襲撃してるのが京にも届き完全に信長の意向を無視。
結局、3/18になり信長が岐阜を出て上洛する。
3/29に信長は京で細川と荒木に会って大喜びして贈り物し、
荒木が和田を襲った話を詰問すらしない。
4/6に横山城への援軍がいらなくなったと家康の使者小栗に言ってるから、
この時点より前に家康には援軍出すように命令してんだろ。
元亀3年10/2には六角義堯が三好甚五郎に四国衆の渡海準備を命じたと承禎に言ってる。
そのため三好の本国の四国から大規模兵力の上陸が予定されているのがわかり
三好康長・篠原自遁・岩成友通らの動きが止まってるのも、これらの上陸軍待ちなのがわかる。

3/7の細川宛信長書状なんて、金も兵糧も玉薬も足らないって嘆いているわ、
摂津中嶋城が落ちたことをさてもさても惜しきことなどと嘆いているし、畿内諸侍の覚悟が見分けられない体であり、
通路も同様だと言って次々とドミノのように離反が相次ぐから信長は疑心暗鬼になってるし、
摂津賀嶋城が落城したのは伊丹が離反の覚悟をしたせいで絶言語と茫然自失なのが信長www
だから石成が離反する恐怖に怯えて、細川へ機遣い専一にしろなどと、慎重に気遣いするも裏切られるwwww
丹波の内藤にも馳走を命じているも、二条城篭城参加組になる始末wwww
最後は謙信が富山に立てこもる越中一揆を足止めしていることを書いてるが、
これが唯一、信長にとって細川へ報せるわが軍が有利なことを印象づける大ニュースwwww

214:人間七七四年
14/07/06 15:02:57.95 WW2x9O7i.net
菅沼というのが相当ヒマなのだ、ということは判った
しかしこちらはヒマでは無いので読めない

215:人間七七四年
14/07/06 15:47:10.19 yFSbH/Vo.net
信玄西上でたった1万しか動員出来なかった織田w
長篠の戦いで家康5000と合わせて3万しか動員出来なかった織田。
越前一向一揆討伐で北陸の織田方国人を合流させて限界3万動員するも維持できる兵糧が無いので越前で大量虐殺して物資略奪大会w
隣国信濃出兵で食料が足りるように人数調整した織田。
しかも武田滅亡を確認したら速攻で軍を解いて急いで帰ろうとするも諏訪で大量に栄養失調で兵が寒気に耐える熱量が体に無く死にまくる織田www
現地調達なのだから、その駐留地から離れたら途端に兵糧不足になるのが織田。
それを解消するには、国主なしになった越前で補給を兼ねてやった
越前府内は見渡す限り生きている者は見当たらないと信長が喜んだ超大虐殺による世紀の大略奪大会。
謙信には兵糧がなくて勝頼の追撃ができない理由を兵糧が尽きたからと言っていたが、
その解決策が釜茹、磔などで越前を無人にしての食料財産没収。
秀吉のような規格外の圧倒的な戦力を一戦線に集中する位攻め戦略が最後まで使えなかった信長www
よって信長が大敗した紀伊一揆共和国を、位攻めでわずか一ヶ月かからず秀吉は制圧し、
そのまま四国まで一気に制圧。
秀吉自身が紀伊にも四国にも行く必要がまるでない楽勝ぶりだったから、
手持ち無沙汰な秀吉自身は越中へ向かう余裕っぷり。
信長があんだけ苦労したのは兵站概念欠如し位攻めが使えなかったからに他ならない。
だから信長は天下など統一出来ない。
そもそも国力を正当に活かせられない張り子の虎が織田。
兵站概念がない織田は総力を集めた決戦用で一戦線に集中できる兵力上限3万が限界。
織田は一国亡国平均政策のもとに、
軍を各地に駐屯させて恐喝略奪放火虐殺をして兵を養うため、
各地に駐屯するしか維持することが出来ない。
南北朝や源平での数十万動員なんてのは軍記話であって一次史料では存在しない誇張表現にすぎない。
略奪軍は一次的に兵力増大は可能だがすぐに枯渇し長続きしないため現実的じゃない。
だから知将名将はそういうダメ戦略を用いない。
日本と大陸では比較対象にならない。
中国のような兵糧を集積した施設や、
富が集中した長期籠城に対応した城郭都市からの補給が可能な地域では長く兵力を維持し養うことが可能。
しかし、日本には城郭都市は無いし、兵糧集積地も無いし、
通商キャラバン商隊との合流や、
遊牧民族のような燃やし奪い移動する廃都遺棄前提の略奪移動型のような馬による大移動型軍隊ではない。
まあ信長のやっていたことは遊牧民族のような行為であったのは事実だが、
それを逃げることが出来ない土地に依存していた農民相手にやったら喰えなくなった領民に支えられる領主も含めて、
一揆謀反だらけになるだけで、
まともな統治は行えないから撫で切り根絶政策に陥り、次から次へと敵が増えるだけ。
結局、信長は石山本願寺を支えていた、
高野山、粉河、根来、雑賀などの4大宗教団体で組織構成された
フロイス曰く紀伊共和国に敗北し謀反死した。
しかし兵站概念を持つ秀吉は規格外の大兵力を投入した位攻め戦略で彼らを速攻で降伏に追い込み、
彼らに船を出させて四国すら瞬く間に制圧してみせた。
家康は彼ら同盟者を見捨てて震えあがりビビっていた。

216:人間七七四年
14/07/06 15:48:46.35 yFSbH/Vo.net
>>天正3年5/15奥平書状 天正3年5/15奥平書状で織田徳川で7万騎動員してるのがわかる
おいおい愛知県史ですら検討の余地ありとして、この写を偽書状認定してるだろ…
いやいやあんな戦国時代に思えない違和感バリバリの単語使った文章で
(信長卿とか、盟約や婚姻など神仏に誓う文面じゃないのに、わざわざ天正とか書いてたり)
さらに徳川が2万余騎を動員してるとかあり得ないし、
しかも信長が岡崎に着いた日も間違えてる書状の写なんて…
検討の余地ありって言い回しを使うのは、
それを持つ人の手前、はっきり断ずることを避けて配慮してるからだし。
アンチ秀吉キチガイのお前の主張はいつも無理やり過ぎるわ。
偽書状の話か。
そういや高天神城落城を喜ぶ3/25信長→家康書状も偽書状らしいね。
これ高天神城皆殺しして勝頼の威信を失墜させたことを証明する書状で、
一人も洩らさず討ち果たさるの由って書いてる。
でも、宛名は三河守殿などと不審極まるもんだし、
なにより天正4年以降の信長は天下布武の朱印か黒印による印判を使っていて花押を書いたりしてない。
さらにこの信長花押は非常に珍しい形で類例がないそうだ。
排便などの衛生管理は非常に重大な問題で
北九州の戦国研究で有名な吉永正春氏も
毛利や大友などを調査しても
一戦場に3万が限界だと言ってる。
一次史料を見ると信長も1万~3万くらいだよな。

秀吉はそういったシステムを作る天才だから
速攻で全国制覇したし、海外遠征まで実現できた。
秀吉は兵站補給概念を持っていて奉行衆による計画的な物資管理や
大軍進駐に伴う排便処理による衛生管理を編み出すことで
信長には不可能だった「位攻め」戦略を多用し瞬く間に天下を統一してしまった。
位攻めとは、圧倒的大軍を用いて相手の軍の士気を崩壊させ服属を強要する戦略。
信長の現地調達方式では大軍の集中は不可能であり、
戦力崩壊を起こす攻勢限界点が存在する。
すでに美濃の隣国信濃への出陣である武田攻めにおいて、
遠陣だから率いる人数を抑えることで兵糧が続くように。
しかし戦力ダウンにならないように剛力の者を選んで引き連れよと人数調整をしていた時点でお察し。
信濃より遥かに遠い備中への遠陣である毛利攻めで旧来の遅れた兵制の信長は討死していただろう。

217:人間七七四年
14/07/06 16:17:21.69 OHKupoLC.net
自然に増える玉薬

218:人間七七四年
14/07/06 16:26:54.55 yFSbH/Vo.net
第二次木津川口の戦い自体は兵糧搬入成功している以上勝利だからね
毛利側にも本願寺側にも証拠がある
毛利家文書834 小早川隆景書状写
「去六日至木津諸警固乗入、大坂衆申談候、敵船雖罷出候、舟軍等勿論此方得勝利候」
毛利家文書832 下間頼廉書状写
「諸警固一昨日六日木津浦御着岸候、当寺大慶此事候」
「兵粮両度被入 信長公より九鬼大隅守に被命以大船 川口被塞 雖然打破り 兵粮を入る」
毛利家日記より

池上裕子著「織豊政権と江戸幕府」より
>
> 「(佐久間盛信への)折檻状から読み取れるように、信長自身は所領の大きさに比例して、
> 家臣一人ずつの軍役数を定めると言う方法をとっていない。家臣をどれだけ抱えるかは
> 各自に任されていた。
> これは鎌倉・室町期の武士たちの有り方と類似で、北条・武田らが所領貫高に比例して
> 軍役数を決定した方法といちじるしい対照を成す。
> 従って武篇道と戦果が問題となる。
>
> (中略)
>
> 信長は信盛親子に続いて、家老の林通勝(秀貞)、安藤守就親子、丹羽右近も追放した。
> それは信長の権力強化の表れのようにも見える。これをもって中世の武家権力と違って、
> 信長が家臣の所領に対し干渉しているとか、領域統治能力を問うているとかと評価して、
> 信長の権力は新しいとみる見方もあるがいかがであろうか。
>
> 信長は家臣を大名に任じて分国を統治させ、各方面ごとの総大将を任命して統一戦争を
> 戦っていかなければならない。
> 拡大する家臣団と支配領域に対応した家臣団編成、軍役賦課・軍事力編成が
> なされていないからこそ生じた問題であろう。
> それを武篇道の督励で対応しようとしたのが追放策であろう。
> それは、信長自身が武篇道に邁進して土地支配制度と知行制の整備を怠ってきたことに
> 原因があるのであって、逆に信長の限界を示すべきものとみるべきであろう。
>
> この問題の解決は秀吉の課題となる。

219:人間七七四年
14/07/06 16:31:38.31 yFSbH/Vo.net
丹波守護代内藤を筆頭に、 宇津や萩野らが最有力国人らが反織田。
そもそも将軍義昭の名の元に従っていたのであり、
織田軍の丹波介入が開始されたのは、
天正3年6月以降であって、丹波は織田領では無い。
しかもその侵攻では波多野まで敵対し敗走。
その後、籾井綱利を降して京から丹波への入口にあたる 丹波南東部にやっと亀山城を築いて、
丹波に根拠地設営成功しての天正6年から天正7年10月の第二次丹波侵攻による丹波丹後平定までは織田領になってないわ。
山城北部は義昭配下の山本・磯貝・渡辺ら 南は淀城に石成友通 南山城は真木島 木津川辺は松永
元亀3年12月には三好康長・篠原自遁・大和守らが大山崎で禁制出す。
山城東部は義昭に山城半国守護に補任された山岡道阿弥が一揆と連合してるし、
山城西部の西岡一揆の主力は36国人で構成する西岡被官衆だし、
どう考えても荒木や細川が領地を維持していたとは思えない。

堺会合衆だが、一般には永禄12年に信長に屈服したと言われるが、事実は違う。
会合衆の長老格天王寺屋津田宗及は日記(天王寺茶会記)によると、 元亀争乱期を
通じて、何度か本願寺や三好と会い、信長が天満森で敗走した直後に本願寺にも
訪問し、御茶を点てている。 逆に織田方とは全く会っておらず、津田が仲間の
会合衆と共に初めて信長に会うのは、天正元年11月京妙覚寺においてである。
元亀期、堺会合衆は二派に分かれ、津田が長老格に対し、信長派今井は新参なので、
反信長派が優勢だったと考えられる。 むしろ今井を残しておいて、裏目が出た時に
対処する商人らしいやり口だったのだろう。 また津田は元亀2年2~3月京へ赴き、
京町衆と数度会合をもっている。
天正元年4月信長は上京を焼き、町衆の多い下京に自分に従えと命じているため、
京町衆も反信長派になっていたかと。 畿内一円の商人逹は「矢銭」をかけた信長を
嫌い、反信長派の動きをしていたと推定。 資金流通や弾薬物資も、信長よりも反信長
陣営に有利に回っていたと考えられる。
和泉
三好分国として安定。配下領主松浦・寺田・沼間・眞鍋など。
讃岐十河存保が織田に通じた後、誘降を受け入れる。

元亀2年には駿河の富士金山・安部金山・井川金山などが武田金堀衆により本格稼動し始めてる。
といっても、もともと採掘してる武田領の長畑金山を駿河側から掘ったり(井川金山)
武田の早川金山を駿河側から掘ったり(安部金山)
武田の中山金山を駿河側から掘ったり(富士金山)
要するに武田氏が従来の金脈を駿河側から掘って採掘力を2倍に強化したと言うこと。
これで武田の財力基盤はさらに強化されている。
信長公記では松永降伏が昨年冬(元亀3年~天正元年)となっているけれど、
今年冬(天正元年~天正二年)の間違い。 三好義継が11月に死んでいるので久秀の降伏はやむなしだろうし。
遠江国高天神城を勝頼に奪われた際の天正2年6/29の書状で信長は勝頼は若輩だが
信玄の掟を遵守しており表裏も心得ているので油断ならないと
恐れていることからも信玄の武遺は充分すぎるくらいに
信長を警戒させている。元亀4年の信玄西上のトラウマを 信長は引きずっているのがわかる。
その後も織田軍は伊勢・越前・大和・摂津・和泉・河内で
石山本願寺・三好康長・遊佐信教・一向宗と相変わらず戦い続けてる。
しかも荒木軍が石山本願寺側の中島砦で大半の者が討たれた際の信長は
本願寺を撫で切りできれば、どんだけ被害を受けても構わないなどと書いてるように
軍役をかけてる下々の負担を一切かえりみないアスペ暴君ぶりを発揮。
これでは荒木や松永らが信長に謀反するのも仕方が無いことだ。
多聞院日記3/11でも信長の攻撃で摂津と河内の田地が過分損亡と嘆いている。

220:人間七七四年
14/07/06 16:34:38.08 yFSbH/Vo.net
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。

221:人間七七四年
14/07/06 17:44:52.67 aKqo2kTd.net
菅沼遼太の埋め立て作戦

222:人間七七四年
14/07/06 19:31:07.26 BwNuBveg.net
>>217
ウンコと一緒にもりもり作ってるんだよ

223:人間七七四年
14/07/06 21:55:39.82 OqCgFa6g.net
アンチ秀吉の織田チョン死亡。

224:人間七七四年
14/07/06 22:02:59.85 aKqo2kTd.net
と思う菅沼遼太であった

225:人間七七四年
14/07/06 22:12:04.67 61KhqTVB.net
なぜ失敗したのか?
信長が超天才だったということで結論が出たな
菅沼理論でいけば

226:人間七七四年
14/07/06 22:56:44.71 AtNQ/tB5.net
>>221
菅沼遼太はまずくなるとこればっかだなw

227:人間七七四年
14/07/06 23:31:33.72 FUsald6M.net
もっと建設的な議論がしたい(爆)

228:人間七七四年
14/07/07 02:19:37.88 warthkz8.net
といっても>>3-5ですでに結論に達してるからなぁ

229:人間七七四年
14/07/07 02:27:15.96 pNmWgUqX.net
その上で、信玄が朝倉に送ったという「なに勝手に撤退してるんだよカスが」って書状
あれメチャメチャ失礼だと思う

230:人間七七四年
14/07/07 08:34:46.80 Kkj0l24l.net
信玄は田舎大名だから仕方ない

231:人間七七四年
14/07/07 08:46:31.86 j+wFEsi4.net
菅沼くんは信長の野望から来てるから、同盟軍はそれぞれの思惑で動いているのであって、誰も他人の成功の為に犠牲になんかならない、という単純な事実がわからないんだよ。
アレ、基本的に1人でやるゲームだから。

それで毛利がヘタレとか朝倉がバカとか言い出す。

232:人間七七四年
14/07/07 09:03:44.06 DULMUTmV.net
信玄が西上を決意し激文を出し天皇感動。
それに力を得て、ついに義昭挙兵。
信玄死去確定し義昭戦わず降伏。
湖西~若狭の将軍奉公衆瓦解したため、
朝倉が支援し安定していた湖西より若狭へ至る道が不安定になり、
背後を襲われ本国に帰れなくなるリスクが生まれた
織田に連戦連勝中の朝倉が無理な撤退を強行し大敗。

233:人間七七四年
14/07/07 21:52:14.18 F5JfHt5O.net
>>232
菅沼君コピペする力は尽きたのかい。

234:人間七七四年
14/07/08 02:04:46.06 bPO4Wwqy.net
信玄が西上してる最中でも細川荒木が義昭を見限ってる時点で
包囲網はそれほど評価されてなかったんだろう

235:人間七七四年
14/07/08 07:45:46.35 eIP5UKJ1.net
.
【テレビ】 大河ドラマ「軍師官兵衛」
第27話の視聴率16.7%、好調はまだまだ続く・・・次回はついに本能寺の変
スレリンク(mnewsplus板)

27 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2014/07/08(火) 07:14:22.60 ID:BvGRJxAz0
やはり朝廷黒幕説を採用したか

75 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2014/07/08(火) 07:28:57.21 ID:SQ9Lpjjw0
軍師官兵衛だと光秀を謀反に走らせた決め手は信長が天皇制廃止を
示唆したからってなってたな。時節柄から考えてもかなり大胆な解釈。
これってネトウヨ的にはどうなんだ?

80 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2014/07/08(火) 07:31:15.50 ID:PG3K6dfp0
>>75
信長が天皇を滅ぼそうとしてたなんて話は割りと有名な仮説でしょ
だいたい信長は自分を神に見立てて拝ませてたんだからそうなるのは自然な成り行き

88 :名無しさん@恐縮です@転載は禁止:2014/07/08(火) 07:33:28.23 ID:r6SGtg/U0
>>80
政治権力に口出しさえしなければそんな手荒なことしないと思うけどな
そんなことやったら一向宗どころの抵抗じゃすまないことぐらい
信長だってわかってたはずだから

236:人間七七四年
14/07/08 08:49:24.38 DY2Dj4P9.net
荒木は逃げてきただけだな。
なんせ三好軍がすでに山城の山崎にまで進駐してるくらいだしな。
細川は兄たちがみんな義昭に付いたから、
嫡男でない幽斎は一か八かで信長にかけただけ。
まあ三好が細川を攻めないあたり密約ぐらいあった
のかもな。

フロイスの記録には信長が自分が内裏だから天皇に会う必要性なんてない
って宣言してるくらいだしなー。
そりゃ天皇にとって変わる気まんまんでしょ。

237:人間七七四年
14/07/08 23:42:00.38 tqNUA9aT.net
三好は危機感が無くなって内部崩壊したのでは無いだろうか。
山崎から阿波までの広大な領土を手に入れ、
河内の遊佐やら大和の松永まで味方になってしまったから、
近江まで退いた信長を脅威に感じなくなってしまったんだと思う。

238:人間七七四年
14/07/08 23:45:30.88 tqNUA9aT.net
信長包囲網の本当の主力は三好・足利連合であって、
武田勢は後から挟撃に参加したとういのが実情だよな。
三好・足利連合だけで100万石くらい行くし。

239:人間七七四年
14/07/09 00:33:40.47 0OysQcEG.net
また珍説が現れた

240:人間七七四年
14/07/09 23:21:01.93 NAv0pqqs.net
浅井・朝倉・足利・三好・六角
網がボロボロすぎた

241:人間七七四年
14/07/10 03:30:50.08 AFoj4ykk.net
三好がいて朝倉がいるんだからそれだけでそうとう強力に思えるんだけどなぁ

242:人間七七四年
14/07/10 12:57:05.92 g7Qp29U2.net
強力そうで強力ではないということだ

243:人間七七四年
14/07/10 16:28:15.64 fiIC2VKV.net
三好・本願寺・朝倉で結構押し込んだところまで行ったのが限界だったな
後は徐々に差がついて終了、武田出て来た時なんてもう手遅れだった

244:人間七七四年
14/07/10 16:56:52.09 Bf/5nNew.net
信玄の初動が遅すぎる

245:人間七七四年
14/07/10 17:03:37.35 fWQk28Ge.net
というか信玄はかなり後の方まで信長におんぶにだっこ状態だったからな。
それで土壇場になって掌返ししたら寿命がつきて勝頼にしわ寄せ行きまくりという。

246:人間七七四年
14/07/10 19:45:20.22 O6tktW8c.net
弱小連合は最初に一気に勝ちきれなかった時点で終了するのが常だわな

247:人間七七四年
14/07/10 21:29:23.80 8VwV5mpZ.net
家康が武田ageキャンペーンしてなかったら上杉によるネガキャンだけで武田はずっとアホ扱いだったかも
信玄厨は家康に感謝しないといかん

248:人間七七四年
14/07/10 23:10:24.41 ZrGKhH/v.net
その序盤に結構押し込めたのも突如参戦とか裏切りとかで
織田家が無警戒、想定外のところを上手く不意を突けたからみたいなものだしな

249:人間七七四年
14/07/11 22:22:05.16 KS1lpkKb.net
本願寺を恫喝しながら三好三人衆を攻めてたら、
本願寺が敵勢力になって阿波三好家が上陸し、
京都の手前の淀城まで三好家に奪われて、信長が任命した摂津三守護も崩壊。
結局、淀城は阿波の篠原長房が誅殺された天正元年7月まで三好家のものだった。
弱小連合云々というより、強大な三好家が勝手に転んで織田家にまた覇権が戻ったのが実情では?

250:人間七七四年
14/07/12 00:35:25.14 bbnvToDM.net
本願寺が敵勢力にならなければ終わってた三好三人衆
本願寺が敵勢力にならなければ上陸できなかった阿波三好家
強大ですな

251:人間七七四年
14/07/12 01:27:27.69 ly3e9kIP.net
いくら内部の統制ができなかったと言っても
あそこまであっさり崩されるのはな
特に畿内の三好勢力は1574年までにほぼ掃討されているのを見ると
朝倉レベルの勢力しかなかったとしか

252:人間七七四年
14/07/12 03:16:37.54 5X/pgIOB.net
義継、三人衆、長治ってそれぞれ連携取れてたの?

253:人間七七四年
14/07/12 10:38:38.58 DQEhKB1j.net
>>252
三好系で連携とれてたのは三人衆、篠原長房、松永久秀あたり。
連携して筒井や和田を破っている。
更に義継は久秀と常時連携していたんだけど、これが長治の不満に繋がったのかも。

254:人間七七四年
14/07/12 11:24:43.23 DQEhKB1j.net
ついでに三好家はあっさり崩れてはない。
河内の高屋城は天正3年まで保っているし、
本拠の四国を失ったのは天正12年あたり。

255:人間七七四年
14/07/12 12:18:51.27 W9PHpkUU.net
三好三人衆とかひとくくりにされるからその他大勢な印象強いけど
普通に国持ち大名レベルの奴らだからな

256:人間七七四年
14/07/12 23:55:22.09 DQEhKB1j.net
野田城・福島城の戦いは、阿波三好家が荒木村重を調略し、
阿波に逃げていた三好三人衆を先遣隊として
摂津に送り込んだ事が発端だから、
阿波・讃岐勢が兵庫浦に上陸することは、本願寺の参戦に関係無く、
既定路線だったのでは無いだろうか?

257:人間七七四年
14/07/12 23:57:53.41 2uJcS8SH.net
信長協奏曲(のぶながコンツェルト) 1
スレリンク(anime板)

258:人間七七四年
14/07/13 00:18:23.09 DezYQP2t.net
滅んでないだけで永禄年間、畿内を席巻した頃からすりゃあっさり崩れた感はあるわな
最も応仁の乱以降畿内情勢ってずっとそんな流れなんだけど
周りの勢力は「今度は織田か、いつダメになるかな」って思ってたんじゃないか

259:人間七七四年
14/07/13 00:27:07.39 fHF89XbX.net
え?
応仁の乱以降畿内情勢って、畿内で敗れた阿波細川・三好家が四国から上陸して、
毎回巻き返す流れだろ。

260:人間七七四年
14/07/14 01:58:17.40 c1/0KO0q.net
尾張(うち水野氏と同盟)・美濃(うち遠藤氏と婚姻)・伊勢(南伊勢の実権は北畠氏、北伊勢は長島一向一揆に苦戦)・
南近江(旧六角領を支配。なお甲賀勢等が六角氏を支援、延暦寺と敵対)・
山城(将軍家が離反)・
河内(三好・遊佐の勢力下)・
摂津(大部分が三好の勢力下)・
大和(筒井が織田方だけど、大部分が三好・松永の勢力下)・
丹波(将軍家と友好関係)・
播磨(最大勢力の浦上、宇喜多が三好と同盟)・
但馬(実権の大半を失った山名氏を織田家が支援)

こうしてみると大和の筒井が孤軍奮闘していることと、
荒木村重の三好からの離反が奇跡か。

261:人間七七四年
14/07/14 16:08:06.51 T9iCxGWK.net
お前ほんとバカかデタラメ吐きのどちらかだな。
武田を毛利が後援して因幡山名を但馬に追い出して毛利勢力圏に編入したんじゃねーか。
それに対して織田が尼子残党と山名惣領の但馬山名に続いて因幡山名の鳥取復帰を狙って攻防開始した。
信玄西上戦で織田が山陰地方への連絡線たる山名と敵対してる丹波の赤鬼赤井直正にも手を焼きまくり派兵すら不可能。
その隙に元春が東進して因幡山名と但馬山名は「毛利が武田を見捨てることを条件に降伏」を申し出て了承された。
その際に塩治高清が毛利に武田の助命嘆願を執拗にしてるが両山名氏の版図を従える為に許さなかった。
毛利は三村などと同様に武田もさんざん利用した挙げ句に傲慢に扱ったことが国人たちの不信感につながり南条や宇喜多の織田への離反につながる。

織田厨は常に大うそつきだから無視推奨。
>>信長は織田配下になった浦上に播磨・美作・備前の領地を認めてたのに
毛利は裏で宇喜多支援して播磨浸食していったように
元亀3年9/12の時点で毛利は宇喜多を支援して、
美作の三星表に兵糧を送ったり、備前にも鉄砲衆だけでなく
弾や火薬もどんどん増援するって輝元が元春や隆景に言ってるところからも
信玄の西上作戦開始前は織田支援の浦上・尼子を相手に
美作や備前で一進一退の攻防している毛利・宇喜多は
信玄の死から数ヶ月で播磨での戦いにまで戦線を一気に前進させることに成功してる。

それに伴い三村への背反行為でもある宇喜多と毛利の連合えお容認させるべく
毛利派の三村親成による三村内での調整が、信玄死後の織田の西国への派兵による
軍事バランス変化が原因で破綻し三村が毛利を離反し織田と結ぶや
天正2年に備中兵乱が起き、毛利が三村を滅亡させ備中を支配すると

262:人間七七四年
14/07/14 16:09:22.94 T9iCxGWK.net
天正3年9/7に輝元への書状で秀吉が
「信長が義昭を上洛させるために義昭の側近の上野秀政らも異議はないから調えたい」と言ってきてるが、
天正3年5/13の時点で輝元が義昭を奉ずることに対する返書が義昭から出てるし,
翌年には義昭が備後の鞆にやってきてる。
織田と毛利は本音と建前がまったく違う反面で毛利と秀吉の間柄は親密になってきてる。
信長はおそろしい上司といった感じの秀吉だが中国大返しでの毛利の協力の下地が出来てきている。
6/7には織田へ転んだ山名に対して元春が因幡へ再出陣するのが確定しているようで
同陣を願っていた八木但馬守が許可され
11/24にはそれに伴い八木へ元春から誓詞が出されているようで返書を出してる
翌天正4年5/7の八木→元春書状によれば因幡の鬼城も開城され平定してる。
これは信玄死後に朝倉を滅ぼし越前一向一揆を鎮圧して帰ってきての
天正4年1月における丹波征討の光秀の大軍が
赤井直正への呼応による波多野秀治の裏切りによる大敗における
丹波攻略失敗による秀吉の孤立によるところが大きい。
越前一向一揆の壊滅は加賀越中一向一揆と謙信の協調体制につながり、
謙信による上洛作戦の開始に繋がり天正5年の手取川における謙信による織田の排除になる。
このことは信玄の上洛の時よりもさらに信長を窮地に追い詰めるも
翌年に謙信や赤井直正が相次いで死去した超ラッキーのおかげで最大の危機だった天正6年を乗り切ることができた。

たしかに織田軍を引きつけていた信玄が死ななきゃ三村が織田を頼って毛利を離反することは無かっただろうな。
2万を率いる信玄が生きてたら春になればまた朝倉が2万5000を率いて浅井に合流すべく近江にやってくるわけだし、
織田は当分の間は西国戦線放棄だろうし、
そうすれば備中兵乱で時間浪費せずに播磨も平定できて本願寺との陸路での協調も夢では無くなってたな。
史実での毛利の後年における播磨での小寺や別所や摂津の荒木や本願寺らへの支援に苦労する事態が避けれたよな。
まあ三村を滅亡させ備中を毛利が支配できたから良しとするべきなのかも知れないが。

263:人間七七四年
14/07/14 16:10:56.64 T9iCxGWK.net
毛利は武田や三村を先兵として山名や宇喜多を攻めて
彼らが毛利に屈するやすでに殺戮合いで遺恨だらけの武田や三村を切り捨てるような真似をしてきてる。
だから毛利が織田に屈する和議を結んで宇喜多を捨てる機先を制して先に宇喜多が織田に降って毛利攻めをする。
あと但馬は毛利と織田の生野銀山争奪戦の戦場となってるからね。
織田も尼子残党を利用してでも保持したい。丹波の赤鬼によって但馬が封鎖されてしまったので
秀吉を姫路に配置してその真北の生野銀山への道を確保してる。

尼子は毛利打倒のためには悪く言えば誰からでも支援を受けて回っている。
1569年2月(6月?)毛利方により美作の要衝高田城落城、三浦貞盛自刃。
香川光景と牛尾・安達等元尼子家臣が入り、城兵五百程度。
隠岐から上陸し7月尼子勝久旗挙げにより尼子旧臣の多い城内は動揺。
8月10日毛利の九州遠征から香川春継百八十騎が帰国入城。
宇喜多加勢三千騎、三浦勢千余人が布陣。城内の尼子旧臣の一部が内応するが露見。
10月5日三浦勢が高田城下で合戦、玉串討死。後方の宇喜多勢は参戦せずそのまま引き揚げ。
宇喜多と呼応しての浦上挟撃で播磨の大半を平定した別所や池田や秀吉はさらに北上し但馬へ進撃し
此隅山城を落とされた山名惣領家の但馬守護山名祐豊は逃走し、
まもなく堺の豪商・今井宗久の仲介により京で信長に一千貫の礼銭で謝罪し但馬復帰を許されてる。
山名豊国を後援する織田方の但馬芦屋城の塩治高清を毛利方の高信が攻撃するも撃退。
播磨の織田軍は朝倉討伐のために近江へ移動するや浦上の反撃が開始される。
美作三浦氏は大友宗麟から鹿介経由で塩硝を援助してもらい(1569年11月19日の書状)
宗麟に使者を派遣して高田硯を贈っている(1570年)
大友も引き続き尼子残党を支援している。

1570年10月尼子加勢により美作の高田城奪還。
三浦貞広は出雲尼子氏の元で育った。三浦勢の主将は三浦重臣の牧尚春と美作中部の国人(田口氏一門、本来は
三浦家臣ではない)玉串昭則の二人で両人ともかつては尼子に従軍し各地の合戦に参加した経歴の持ち主で
千の軍勢も三浦単独と言うより周辺の尼子残党をかき集めた感じか。
その後も周辺大名が毛利や織田に飲み込まれて次々滅んで行く中、六年間抗戦し続け降伏後も貞広の命は助かった。

美作三浦氏と備前浦上宗景と尼子再興を目指す尼子勝久は大友の支援も受けていた。
これがじわじわと効果が現れ、1571年には尼子残党と浦上宗景が同盟を結んでいた
織田方の三好氏の重臣だった篠原長房と協力して備前児島で毛利氏に勝利。
同年秋以降、備中の佐井田城、松島城などで毛利・三村の軍勢を撃退して毛利を破り
大友側が北九州で孤立無援の龍造寺から今山の戦い後に和議の申し出を受けるなど
1580年の田原親貫が反乱での国東半島沖海戦まで毛利の介入を防止し
若林鎮興の大友水軍育成の時間を稼ぎ毛利水軍を大敗させるなど有利に戦を展開させるのに成功してる。

1570年 12月には志賀の陣で信長が朝倉に屈服
1571年 西伯耆の浄満原で毛利方の杉原盛重が尼子氏残党(信長の支援で但馬因幡の山名氏を復興させた)と戦い敗れる。
    東伯耆の毛利方の南条宗元が孤立奮闘
    織田方の山名祐豊が丹波国氷上郡の山垣城を攻撃したので赤井直正と対立し
    祐豊は竹田城や此隅山城を直正に奪われたので新城の有子山城に居城を移す。
    6月元就死去
1572年 11月東美濃の岩村城落城。12月三方ヶ原の戦い(信長は岐阜城から動けず)


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