信長包囲網はなぜ失敗したの?at SENGOKU
信長包囲網はなぜ失敗したの? - 暇つぶし2ch1:人間七七四年
14/05/28 22:59:01.77 IYzdhDyE.net
誰が悪かったんでしょうか。

2:人間七七四年
14/05/29 00:00:59.52 hmze8XB9.net
第一次 朝倉がヘタレ
第二次 武田が老いぼれ
第三次 毛利がヘタレ

3:人間七七四年
14/05/29 00:20:07.52 mNSZJ8As.net
マジレスしていいんだったら、特に誰も悪くない。
信長1人に統率される織田軍と、実質的に最高指揮官が何人もいる状態の包囲網では、結果が見えていた。
ナポレオン曰く「凡なる一将は、非凡なる二将に優る」とのことだが、この場合「一将」の信長の方が非凡なる将だったのだから、
相手側に勝ち目が薄いのは当然。

4:人間七七四年
14/05/29 00:23:58.87 Zgi2ZN1w.net
一斉侵攻だったら良かったかもしれないが足並みが悪かった

5:人間七七四年
14/05/29 02:05:37.73 fpzWp2gE.net
包囲網っつったって連携してるワケじゃないから

6:人間七七四年
14/05/29 02:41:11.30 SuF3L4nd.net
ケータイがあれば良かったのにな。

7:人間七七四年
14/05/29 03:10:14.91 hmze8XB9.net
第一次包囲網の連携は割と上手く行った方だろうな

8:人間七七四年
14/05/29 04:16:52.79 zQYWUPXD.net
明らかに武田信玄が悪いわな
反信長諸侯に「俺が行くから待ってて」「兵を出して戦力を分散して」「皆で信長をやっつけよう」
ってアピールして「やっぱ俺無理だわ、帰る」ってドタキャンしたからなw
釣られた諸侯は芋づる式に信長に滅ぼされたし
信玄が無能だったのが信長の最大の勝因。
まあでもどこもアップアップだったらしいな

9:人間七七四年
14/05/29 05:00:50.00 RmCXOJPs.net
信長はそれなりにピンチだったわけだから、尾張・美濃・近江あたりで
裏切り者がでなかったのはなんでだろ?

10:9
14/05/29 05:01:25.94 RmCXOJPs.net
近江は削除

11:人間七七四年
14/05/29 08:41:46.47 shgVhN71.net
武田に内通したらしく、池田恒興が裏切ってたから、
信長が出兵しないことを非難してる書状がある。
恒興の母が信長乳母だったから、
その縁を利用して離反されないように加増約束して阿ってた。

12:人間七七四年
14/05/29 12:06:40.02 qxo9rGeJ.net
>>9
別にピンチでは無かった、という事

13:人間七七四年
14/05/29 12:22:04.65 zQYWUPXD.net
本当にピンチなら信玄がいなくても全く問題ないしな
朝倉+浅井+足利で3万くらいは兵を動員することができるから
信長の首を取るには十分すぎる兵力
信長がガチで窮地だったら朝倉浅井足利の連合軍が
信長の首取って終わりだし

14:人間七七四年
14/05/29 19:26:33.37 iQI3qz/1.net
参考
だがによる1573年3月の状況

織田
各地守備兵を除けば金欠で1万しか動員できない。尾張や美濃の国人も
かなり調略されているし、虎御前砦の敗戦で近江の豪族は離反し伊勢湾の制海権も失う
おまけに義昭に京におびき出される。
徳川
動員できるのは4千程度、もうすぐ武田に降伏。
朝倉
2万5千を動員できる、前年虎御前砦にて上総土岐家にまで伝わる勝利を挙げ
近江蒲生家が降る砦は5月反攻を考えて落とさなかった。義昭と呼応して敦賀に駐屯。
浅井
小谷城に篭城中。朝倉さえ来れば虎御前砦など問題ではない。
六角
兵力2万以上南近江の主要街道を封鎖し、その勢力は横山城の南まで及ぶ
さらに各一揆を先導。
義昭
朝倉と連携して信長を京におびき寄せる。丹波内藤氏が5千の兵を援軍として送る。
三好三人衆・義継・松永
各自織田派と交戦。畠山や細川はおされ気味。
畿内の反織田派は完璧な連携が出来ている。
本願寺
長島一向一揆は美濃に砦を築き近隣を調略、いつでも攻勢に出られる。
北畠
1万5千を動員可能、紀伊・雑賀水軍も動かせる。
武田
兵力6万、野田に駐屯中、美濃・尾張の主要部は調略完了、水軍は伊勢湾を制圧済み。

15:人間七七四年
14/05/29 20:41:33.58 8wNhnYxi.net
>>14
何度見ても吹く
あと信長が「負けた勢いで突っ込んでいったら朝倉が滅亡した」ってのもw

16:人間七七四年
14/05/30 03:13:08.15 dgprpxQK.net
この状況から信長が勝ったってスパルタもびっくりだな

17:人間七七四年
14/05/30 08:12:51.00 3h5/iRic.net
状況的に一番苦しかったであろう志賀の陣のときでも浅井・朝倉は織田の領地
ろくに削り取れてないからなあ

18:人間七七四年
14/05/31 00:27:26.81 1gerGRu9.net
統一戦では信長はあれだけ裏切られたのに尾張では離反者は
いなかったのか

19:人間七七四年
14/05/31 00:52:31.74 /ejH/CMo.net
>>18
斯波義銀 追放

織田信勝 死亡
織田信広 組んでた斎藤家が家臣化
織田信賢 追放
織田信光 死亡

柴田勝家 信長が本領発揮したので不満無し
林美作守 死亡
林秀貞  ?



いまさら誰が離反するの???

20:人間七七四年
14/05/31 06:56:35.61 Ct3rDNgv.net
離反者っつっても、しょせん勢力の有利不利を図ってるだけだからなあ
「反信長連合が超有利」でもなけりゃ寝返ったところで踏み潰されるだけだし
実際に離反した徳川家臣の奥平の反応が全てだよ

21:人間七七四年
14/05/31 06:57:26.11 Ct3rDNgv.net
図る→はかる

22:人間七七四年
14/05/31 07:10:27.03 wGsdVOHL.net
信長は尾張以外の分国でも毎回毎回裏切りばっかりじゃん

23:人間七七四年
14/05/31 07:18:50.39 LKBRrrqu.net
国境の小大名や豪族は普通は国力的に大勢力の方につく可能性が高いが
信長は馬鹿みたいな巨大な国力を持ちながら毎回毎回離反を出しまくってるのが特徴。

24:人間七七四年
14/05/31 08:34:24.30 Ct3rDNgv.net
URLリンク(hissi.org)


ID変えた方がいいんじゃないかなw

25:人間七七四年
14/05/31 11:25:39.70 8Krlh/tI.net
いつまでを包囲網と呼ぶのかしらんが
朝廷が信長いじめんなって言ったんだから
失敗の原因は大義名分がないことだろ

26:人間七七四年
14/05/31 12:28:52.80 e566QbUC.net
単なる兵力、財力不足だろ

信長に耐えきられる程度の兵力しかなく、その内に包囲網側の財政が破綻してしまった

27:人間七七四年
14/05/31 12:33:03.66 QYmW1eP+.net
>>23
裏切りって織田家だけの現象じゃないでしょ

関東の北条と上杉の戦争でも、国人地侍たちは頻繁に裏切ってるし、
近畿の方でも、侍たちは細川や三好家、将軍家の間をうろちょろしたりしてる

大局観で主を選ぶよりは、目の前の恩賞や、その場しのぎの危機回避のために、
あちらこちらふらふらするのが、当時の侍の日常なんじゃないかな

それに、当時は譜代の家臣以外は当てにならない時代でしょ?
織田家は勢力の拡大スピードが凄かったから、歴史の浅い家臣が多く、
裏切りが多いのは仕方ないんじゃないかな

28:人間七七四年
14/05/31 12:51:52.48 FYSPuhC2.net
信長ほど領主や家臣に裏切られまくった大名は中々いないからね


尾張→水野氏虐殺 斯波義銀 織田信勝 織田信広  信賢  信光  柴田勝家 
林美作守 林秀貞 
美濃→国人蜂起(遠藤氏等)
山城→幕府衆決起
北伊勢→一向宗虐殺
南伊勢→北畠氏虐殺 (騙し討ち)
北近江→国人蜂起(浅井氏)
南近江→延暦寺焼討
越前→一向宗虐殺
摂津→国人蜂起 (荒木氏等)
河内→本願寺蜂起
和泉・紀伊→雑賀衆蜂起
大和→国人蜂起 (松永氏等)
伊賀→伊賀衆蜂起
甲賀→甲賀衆蜂起(六角氏支援)
丹波→国人蜂起 (波多野氏等)
播磨→国人蜂起 (別所氏等)
加賀→一向宗虐殺
越中→国人蜂起・一向宗虐殺
能登→国人蜂起

29:人間七七四年
14/05/31 12:55:43.56 6d6yfkbB.net
結局それが原因で光秀に殺されて死んだんだよな。
光秀といい荒木といい他の国人衆といい、信長は目をかけて恩を与えた連中や
旧領丸々安堵、自立統治を悉く認めた連中相手にすら裏切られてばかりなのが特徴。
しかも、自勢力と敵勢力の比率でいえば、圧倒的な差があるような、絶対に裏切らないような優位な状況でも普通裏切りにまくってる。

30:人間七七四年
14/05/31 12:58:32.61 EGeGmH9+.net
普通、国力的に大勢力と小勢力が衝突すると、
小勢力側から大勢力に寝返りが出るケースが多いのだが
織田の場合は敵対大名の10倍~30倍くらい国力がある状態ですらボロボロ寝返りが出たりしてる。
よほど戦に負けていたか、信長の性格に問題があったとしかいいようがないだろ

31:人間七七四年
14/05/31 13:02:31.53 2iPK+Ecw.net
武田は織田と主力決戦後は誰も寝返らなかったが
北条や徳川との抗争後、穴山や木曽などが寝返って武田崩壊となった

32:人間七七四年
14/05/31 13:07:41.61 XfU5fbnU.net
歴史上、国力が劣る側が大勢力との決戦で大敗した場合は例外なく速攻で滅ぼされてる場合が多くその原因が寝返りである場合が多い。
国力が劣る側が国力に勝る側に主力決戦で勝っても、大して勢力図には影響が出ない場合が多い。
カルタゴからローマに攻め込んで、主力決戦に連戦連勝したカルタゴだが、ローマからはほとんど寝返りは出ておらず
戦局を決定するまでは至らなかった。
大勢力は決戦で負けても、国力のゴリ押しによる戦力の補充が可能だが
小勢力側は、一度決戦に負けると、大勢力側に対抗できるような戦力の構築はまず不可能だし
だが、離反が起こらない場合もなくはない。長篠合戦なんかがその例で
織田500万石徳川40万石に対し武田100万石程度で武田の大敗だったが、その後誰も寝返ってない。

33:人間七七四年
14/05/31 13:08:39.86 2iPK+Ecw.net
長篠の戦いは引き分けだったって事でしょ。
普通なら平常状態でも徳川織田上杉で武田を圧倒できる国力差があるが
長篠合戦で一方的に虐殺が行われたのに、勢力図にもほとんど影響がないとかありえないしね。
ただ武田軍を虐殺しまくったというドラマの見解がおかしいだけ。

34:人間七七四年
14/05/31 14:21:46.05 fn+4m4M0.net
上杉謙信がスポーツマンシップにのっとって武田攻めをしなかっただけでしょ。

35:人間七七四年
14/05/31 14:27:44.28 7AeVhquF.net
信長は長篠合戦後、武田を滅ぼす気満々で、謙信に宛てて、岩村は数日のうちに落とせるので
信濃にともに討ち入ってくれなどとしきりに書いてて、上杉徳川織田共闘で
武田を滅ぼす気満々だったが
武田攻めの入り口に当たる岩村城1城に大軍を連れてきた信忠が大苦戦し
その後佐久間や信康らが援軍として駆けつけたが、結局半年かかっても自力では落とせず騙し討ちに頼ってる。
この情けない有様をみて、あきれた事により、謙信は愛想つかして越中や上野に転戦して、次第に織田と疎遠になり、対決姿勢が強まってくる

36:人間七七四年
14/05/31 14:40:58.79 Ct3rDNgv.net
あれ?菅沼君いつもの仕事しなくていいの?w

37:人間七七四年
14/05/31 22:10:32.59 fvCL1LU1.net
菅沼くん埋め立て作業の方はもういいの?

38:人間七七四年
14/06/01 03:02:29.74 tRgEpASR.net
親に見つかったのかな?

39:人間七七四年
14/06/01 09:00:14.59 9bbg4fvX.net
武田水軍と伊勢水軍が共同して織田徳川を海上封鎖をしていたのが
やっと解除でき経済活動が再開出来たのは、
出銭之船数之分の記録から、
天正元年10/15にやっと尾張三河からの船が大湊に入港できるようになったことで
証明できる。
翌年には通常に戻り8月吉日に尾張三河からの船が大湊に入っている。

40:sage
14/06/01 10:07:17.54 ve8w8q3p.net
熱田~伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。

武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

41:sage
14/06/01 11:55:26.50 ve8w8q3p.net
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

元亀4年10月朔日の勝頼書状の
戦武2184において
小浜氏は3000貫文と書かれ、
他に同心や被官を束ねて水軍を組織してるし、
天正7年10月16日の勝頼書状の
戦武3178において向井氏が1000貫文と書いてる。
また幕府旗本の中島与五郎家には
天正4年10月に三河大崎の
中島与五郎重次が
武田水軍に敗れ相良浦で討ち死にしたと記録されている。
武田水軍が織田や徳川水軍を圧倒しており、
伊勢から駿河の制海権を得ていたのは間違いないだろう。

42:人間七七四年
14/06/01 12:41:03.58 BCWWgKvO.net
>>40>>41
これで長島を滅ぼしたのが武田水軍であったと完全に証明されたわけだ。

43:人間七七四年
14/06/01 15:26:30.05 Ptm4pzrm.net
これでなんで天下が取れなかったんだろうね、武田家。
菅沼くんに教えてもらいたいわぁ。

44:sage
14/06/01 16:35:00.89 ve8w8q3p.net
金も米も尽き兵も集まらなかった織田軍w
元亀4年3/7 信長→幽斎
鉄砲・玉薬・兵糧・金が足らないと嘆いていたり、
畿内諸侍の覚悟が(味方かどうか)見分けられない体で通路も同じ状況だと
完全に畿内の諸将が離反しまくりで泣き言を言っている信長www

元亀4年5/24 信長→池田恒興
恒興とその与力に年貢滞納と軍役怠惰を咎める書状www
しかもそんな離反寸前の池田を咎めたことを後悔した信長は
6/18に恒興の母に対して丹羽郡の一部を加増してるほど家臣に対して土下座外交っぷりw
しかもこれ超レアな天下布武の印まで押してあるしwwwwwwwwww

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

45:人間七七四年
14/06/01 17:08:38.64 EScj/et4.net
東京電機大学中学校評判
URLリンク(tn.en.fishki.net)
東京電機大学中学校評判

46:人間七七四年
14/06/01 22:11:14.68 Mwr8+BQH.net
>>43
そら信玄と勝頼が糞みたいに無能だったからだろ
強かったのは武田の家臣だけというオチ

47:人間七七四年
14/06/01 22:42:34.15 p30623i3.net
>>44
恒興が離反ってソースは?

48:人間七七四年
14/06/02 02:55:28.44 52Zl5EHB.net
本来であれば、一番頑張るべき存在だった朝倉のやる気の無さが悪い

49:人間七七四年
14/06/02 07:54:56.42 MuIiJz1I.net
蒲生内応の話の中で、織田の大身が2.3内応してるとも書いており、
事実、尾張犬山城の池田の他、美濃の斎藤や遠藤が武田に内応していた。
信玄が東美濃から岐阜を襲う計画をしていた時に、
信長滅亡の時がきたと言っていたのはこれらの理由から。
また長島も岐阜近くまで勢力圏を拡げ、岐阜城近くに日根野が砦を作ってたし、
山城の山崎の畿内全域の油流通を支配していた団体も信玄上洛は確実とみて、
武田から安堵状を出してくれるように乞うてた。

50:人間七七四年
14/06/02 08:11:06.67 pQkro7ff.net
中世日本最大規模の油座であった大山崎油座の情報諜報能力とその意向と影響力・経済力は高く
山崎の合戦で明智が守ろうとした山崎の地は戦後に、秀吉が築城し大坂城ができるまでここを根拠地に政戦略を策していたほど。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。


二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。

蒲生の織田からの離反の契機は元亀2年10月あたりからだな。
11/3付で穴山→蒲生賢秀宛に書状を出してるから。
その内容は信長には秘密裏に蒲生が馬が欲しいと言ってきたことに対する返礼で、
蒲生の望み通りの乗り心地の栗毛の馬を馳走してる。
また関東と越後と戦っているが伊豆と武蔵の過半が
信玄の本意になるのは疑いないと書いている点は、
11/7の書状で信玄が書いている内容と同じで、
10/3に氏康が死んだことを知った上で、再度の小田原攻撃を宣言し、
氏政を恫喝していたので12/17には北条が武田との和睦を受託していた。
またこの書状には文書には書けないことを柱蔵司に演説させるとも書いていて
武田の威勢に驚いた蒲生が、武田への急接近を始めている証拠となっている。

51:人間七七四年
14/06/02 08:13:21.09 pQkro7ff.net
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

52:人間七七四年
14/06/02 08:14:25.00 pQkro7ff.net
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。

53:人間七七四年
14/06/02 08:15:59.09 pQkro7ff.net
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
山岡家の領地は栗太郡と志賀領であるが、すでに志賀郡が失われているのか、
山岡家が反織田側に内通していたのがわかる。
信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで?と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。 公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。

信長は援軍として西に兵力派兵する余裕がまったく無かったから、勝頼は非常に有利な状況だった。
丹波の赤井直正も勝頼に書状を出してたし、
赤井忠家や内藤如安や宇津頼重らが反織田で丹波も毛利や武田に協調してる。これ信玄の大きな遺産だな。
5月に長篠で武田が無謀な決戦で大敗した為に、
信長は余裕が生まれてしまい、8月越前一向衆を壊滅させてから、光秀に丹波侵攻を開始させてる。
まぁ波多野ら丹波衆の反撃で光秀は大敗したが。
実際、天正三年3/4には芸但和与が正式に発足したことに対する織田→小早川への返信で、
信長は但馬はかねてから申し入れているように織田分国であることを承知してるはずだ。
近年はずっと山名祐豊から連絡が来なくなったのは無念だが(信長が上洛した時に軍を播磨や但馬へ派兵して攻略していた)
出雲や伯耆の安定の為に、尼子のいる但馬出兵がどうしても必要なら仕方が無いと
背後で尼子を支援してる信長もしぶしぶ毛利の但馬での勝手な行動を認めてる。
それだけ信長には余裕が無かったから露骨に毛利に開戦したく無かった。信長は毛利に対して内心激怒してたが土下座外交を続けていた。
すでに天正元年12月までに元春が信玄西上のドサクサに丹波国衆と呼応して織田分国但馬を平定して出雲に帰国しており、
毛利は朝山日乗や安国寺らを織田に派遣し、秀吉を窓口に信長に媚びて敵対行動の誤魔化しをしてた。
うまく信長との間を誤魔化せたのは秀吉と朝山のおかげだと安国寺が12/12に書状を出してる。
以前の但馬窓口は志賀の陣で討死した坂井政尚だった(山名祐豊が帰国し交代するまで但馬此隅山城を占領して但馬統治していた。
朝倉軍が坂井を討死させて織田但馬窓口消失の大金星を挙げる)
天正4年5月までに尼子残党を京へ逃亡させ毛利は山陰再平定に成功してる。
その一方で山陽道でも織田に内応した備中の三村を毛利は天正3年5月までに平定に成功。

54:人間七七四年
14/06/02 08:16:56.57 pQkro7ff.net
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

比叡山座主覚恕法親王は正親町天皇の弟で延暦寺炎上後は洛中曼殊院や禁中に滞在して
比叡山再興を掲げる信玄の権僧正任官の斡旋活動をして信玄も僧正号宣下のお礼状を元亀3年10/3に出している。
信長追討綸旨発給の衝撃・・・・本人が関わる綸旨・宣旨を纏めていた勧修寺晴豊の旧蔵記録には
蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→四辻大納言李遠宛て元亀3年9/20付書状
今度叡山炎上のこと、非常に嘆かわしく思っていたところ、法性院僧正が再び叡山を隆盛させるべく
入洛を計画しているとのことを聞き及びました。
叡山復興によって朝家の盛興するべく忠勤を励むとのこと。使者として直接談じ合ってくるように。

蔵人頭左中弁勧修寺晴豊→恵林寺(武田氏菩提寺)・長禅寺(信玄生母墓所)宛て元亀3年9/20付書状
あなたたちの寺を天皇の勅願所に決めましたので、宜しく国家安全と長久を祈り奉ってください。
これにより天皇は信長に与えた決勝綸旨を破棄し、将軍義昭に呼応する信玄の官軍認定をしたのである。
このことで物資と人の両面で困窮し追い詰められた朝敵信長の自暴自棄の報復が
御所まで類炎するのも辞さない上京焼き討ちによる公家・寺社への乱暴狼藉である。
謙信→長景連宛て元亀4年3/19付け書状を読むと
謙信も信長へ叡山再興をするように約束すれば信玄の大義名分が立たなくなると諭し
朝敵信長がそれを承諾しているのがわかるように、朝敵信長は比叡山の報復圧力に土下座しているのがわかる。
このように官軍武田軍が威風堂々と徳川・織田連合軍を瞬殺して上洛を目指していたのがわかる。

元亀4年1/11に僧正法性院信玄→将軍足利義昭側近上野中務大夫(秀政)宛てで
朝敵信長追討を受けた信玄は
義兵を起こし大軍が靡かせ発向し家康の大半の要害を破却したと宣言し、
信長・家康ら逆党を誅伐し天下を静謐にすると言上してる。
そして叡山での乱逆や、他者を軽んじ公家や寺社の人々を侮り、放言の数々
洛中洛外を徘徊しみだりに徳分の課役をして砂金財宝を横領しまくり、
朝倉と信長を和睦させたかたじけない天皇の勅命とそれに類する複数の起請文を捧げたのを
破って延暦寺を壊滅させるなど悪逆無道を為すなど5か条に渡って
信長の大罪を弾劾し讒巨乱国を救うと誓っている。

その檄文を将軍から入手した天皇は日本を救う救世主に感動して、
信玄の大義名分を筆写し醍醐寺理性院に納めて祈願したほど。
いかに信長が悪逆無道だったかがわかる。
醍醐寺理性院に残る天皇の写の日付は1/11だが、甲陽軍鑑では1/7とされている。
実際に書かれたのは1/7で出されたのが1/11なのかも知れない。

55:人間七七四年
14/06/02 08:20:45.44 pQkro7ff.net
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。

織田軍なんて、惣村ですら一揆を組んで、織田に反抗していたほどザコで
誰も恐れていた記述が存在しないしな。
そもそも長篠の戦いで武田が弱過ぎるなら、そのまま武田領へ侵攻すりゃあいいけど
謙信に武田を攻めない理由を追求されて、いいわけ三昧の態度をだして
あまりのヘタレぶりに、謙信から織田とは絶交!とか言われて
能登や加賀を奪われたヘタレ信長だし
近甲同盟交渉を長引かせて、ひたすら武田の鋭鋒から逃げ回ってただけだし。


信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、80万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。

信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。


天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城日了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。
信長は武田本隊による岩村城救援の報を聞くと、
急いで岩村側へ和睦したと詐術を弄して秋山を殺した。

いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。

烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。

56:人間七七四年
14/06/02 08:21:26.93 pQkro7ff.net
謙信が生きていたら下記の状況からして上洛成功は間違いないな。
信長って天皇がいなかったら三回は反織田連合に捕縛されて自決させられてたよな。
志賀の陣・義昭二条城籠城。そして下記の荒木籠城。
天正6年2月東播磨を中心として実高43万石とされる別所氏が信長へ謀反。
美嚢郡淡河城・加東郡金鑵山城・加古郡高砂城・印南郡中道寺山城・明石郡枦谷城・明石郡林城・
飾西郡英賀城・加古郡野口城・印南郡志方城・印南郡神吉城など播磨一円蜂起。御着城主の小寺氏などもこれに呼応の構えを取る。
まさに謙信の上洛戦を待つばかり。だが3月に謙信死去・・・さらに光秀を粉砕した丹波の赤鬼赤井直正まで死去。赤井兄弟は吉川元春に太刀や馬を贈り、上洛と急援を要望していた。
謙信死すとの確定情報が届くと上杉へ備えていた信忠の大軍が開放され播磨へ移動可能になる。上月城攻略後に義昭と隆景が毛利全兵力を播磨に集結させて織田を播磨から追い出し陸路で摂津の本願寺を救おうと考えていたが
7月元就死後に隆景と対立するようになった元春が但馬へ移動しての山陰再平定を主張して出発してしまった。10月に荒木村重が本願寺と毛利に人質を出して挙兵してることも考えれば
小寺政職と協調してる東播磨別所の三木城を攻撃中の織田を毛利全軍で攻め寄せて雌雄を決した方が良かった。義昭側の池田知正の失脚により荒木の摂津国での指導が確立した矢先に荒木謀反で
有岡城・尼崎城・大和田城・吹田城・高槻城・茨木城・多田城・能勢城・三田城・花隈城ら対本願寺包囲のために固められた諸城が織田に対して摂津一円一斉挙兵。摂津の大半が再び義昭側へひっくり返ったため織田の別所包囲軍が孤立するどころか
対赤井・波多野の丹波戦線も再度崩壊し本願寺と相手をすることすら不可能に陥り、またしても戦略の大破綻を招いてしまい
相次いで信長家臣団を派遣し荒木の再考を促す説得や宣教師を脅迫しての調略をする。
がもうまくいかず信長は荒木を説得する時間を稼ぐために天皇に土下座した信長は11/4に正親町天皇の勅命を出させて
輝元と本願寺に信長と和睦するように伝えさせるほど危機的状況に追い込まれていた。
信長は天皇を使って時間を稼いでるうちに荒木配下の高山右近や中川清秀を降伏させる事に成功し
高槻城・茨木城・大和田城・能勢城・三田城を織田側へ寝返らせ荒木を孤立させるのに成功した。
これで最大のチャンスが消えて一転して毛利が圧されていく。謙信が生きていたら、勝頼も健在になるし
信忠を秀吉への援軍に派兵できないから毛利の攻勢により播磨戦線が崩壊しその影響で本願寺のいる摂津(荒木時限爆弾もある)明智がボロ負けした丹波戦線まで(丹後もセットで爆発)
紀伊・河内・和泉・伊賀・伊勢南部・大和南部このあたり一円も高野山を始めとして反織田だし(本能寺の変まで高野山は織田軍を山内侵入を許さなかった)再度崩壊するから織田は詰むよ。

57:人間七七四年
14/06/02 10:23:49.25 Ach1ZqnB.net
>>48
いやいや敵前逃亡して本国帰った武田が一番悪いから
他の連中は皆武田のためにお膳立てしてやったのに
病気でトンズラとか笑い話にもならん
勝頼が総大将なら戦闘続行できたのに
義信の二の舞を恐れて権力を与えなかった信玄が100%悪い

58:人間七七四年
14/06/02 11:14:24.11 se4mQaPF.net
「朝倉義景と武田勝頼が無能だった」で終わっちゃうのか

59:人間七七四年
14/06/02 14:40:11.96 mPDslQQ4.net
一番無能なのは毛利。
永禄末期から天正7年頃まで何回も織田を討つチャンスがあったが
毛利がバカすぎて兵を出さなかったりしてて何回も天が与えたチャンスを悉く潰してる。

60:人間七七四年
14/06/02 14:42:54.78 go9n/6C8.net
包囲網と呼べるような横の繋がりが弱かったからにつきる。
武田は武田の都合、朝倉は朝倉の都合で勝手に動いただけ。

61:人間七七四年
14/06/02 22:42:57.22 wh5Itu8V.net
だがによる各勢力の最後
足利義昭
信長が乞食兵1万を率いて岐阜からワープしてくる。
東には山岡氏と六角氏南には松永氏・西には三好氏・北には内藤氏と周囲を完全に
包囲されていたが、堅城の二条城から金銀兵糧すべてを使ってボロ城の槇島城に
移ったからか1万の兵がいたにもかかわらず速攻で土下座降伏した。

朝倉義景
包囲されている虎御前山砦に信長が乞食兵1万とともにワープしてくる。
北を朝倉2.5万・西を浅井3千・南と東を六角2万と蒲生に包囲されているにもかかわらず
なぜか山本山城の阿閉氏が信長に降伏。
 若狭守護は知らないうちに消滅したので将軍直轄地になっていた若狭で
なぜか反朝倉で騒乱が起こりその鎮圧に全軍を向かわせたところ背後から
奇襲を受け2.5万が一瞬に壊滅朝倉滅亡。浅井・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

浅井
取って返してきた信長に瞬殺。江北一揆・六角・蒲生(朝倉配下)は
まさに見てただけだった。

62:人間七七四年
14/06/03 00:45:49.50 C+kPqNu8.net
その見方にたった論文は?

63:人間七七四年
14/06/03 00:46:13.46 hBVSqy3e.net
>>61
朝倉は「信長に勝ったのに信長が負けた勢いで突っ込んできたので滅亡」の方が面白いから変更して

64:人間七七四年
14/06/03 01:11:14.31 tAbCRGZ9.net
>>61
ま、まさかこれは瞬間物質転送機?…ハッ!
わかったぞ、織田信長はデスラーだったんだよ!!

ΩΩΩナ、ナンダッテー!

65:人間七七四年
14/06/03 10:04:48.25 BOZPcN8A.net
菅沼遼太理論だと織田軍1万は信長含めてサイヤ人だからな
ワープしたり数倍の敵を瞬殺するくらい朝飯前
信玄が来ても勝てない

66:人間七七四年
14/06/03 12:09:07.53 5dZqdVxJ.net
そうじゃなくて彼の理論は矛盾が面白いんだよ
朝鮮刀と日本刀のコピペみたいにね

67:人間七七四年
14/06/03 12:47:44.28 tAbCRGZ9.net
>>66
そのコピペ知らない。教えてください。

68:人間七七四年
14/06/03 17:18:28.90 /FiCmgNU.net
>>67
自分で調べろ。すぐ出てくる

69:人間七七四年
14/06/03 20:28:50.40 zoS1Sgmy.net
だがによる各勢力の最後
六角
知らないうちに消滅

北畠
朝敵なのになぜか蘭奢待の切り取りが許されるという事が起こり
信雄を人質取っていたにもかかわらずびっくりして織田に降伏した。

長島一向一揆
第二次で現在の海津市いったいまで勢力を広げ岐阜の足元まで迫るも
伊勢湾を制圧している武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され信長に占領された。

三好三人衆・義継・松永
完璧な連携ができていたため義昭が倒れるとドミノ倒しのように倒れたた。

70:人間七七四年
14/06/03 21:15:41.30 +Mno1EBF.net
>>69
六角は「近江を奪還したにも関わらず信玄が死んだせいで滅亡」ってとこだなw

71:人間七七四年
14/06/03 22:11:46.73 LTjITYtk.net
>武田水軍に徹底的に焼き討ち・虐殺され
なにやってんだ武田wwwwww

72:人間七七四年
14/06/04 12:15:04.37 C43/4BGe.net
武田
6万の兵力がありながら1万の乞食兵しか持てない信長を攻めず
道中寄り道していたらな信玄が急死して撤退。その後勝頼は長篠に
なぜか6千の兵しか率いてこず、織田徳川をボコボコにしたが夕暮れで
戦争止めようとしたところ反撃にあい被害甚大。温存した5万4千の兵は
知らない間に消滅して、北条が無傷で済んだ浅間山噴火で遠く甲斐が被害甚大、混乱の中滅亡


これも追加で

73:人間七七四年
14/06/04 14:04:07.39 PUEXisA7.net
どうしてそうなった・・・

74:人間七七四年
14/06/04 14:36:37.19 yZSMS3UK.net
キリシタンの暗躍

75:人間七七四年
14/06/04 14:55:19.27 QtqHaa4Z.net
なにこの歴史()面白い
だがwikiにまとめてやれよwwww

76:人間七七四年
14/06/04 15:48:53.82 Vt1t7Oo8.net
だがを知ってる人間ならみんな知ってるし、コロコロ変わるからまとめてもしょうがない

77:人間七七四年
14/06/04 19:07:14.09 gmvG8u8L.net
なんで武田は信玄が死んだくらいで軍を引き上げたの?
織田は滅亡寸前まで追い込まれてたんだろ?
そのまま軍を進めてりゃ良かったのに。

武田が引き上げたおかげで武田が参戦するまで頑張って信長を追い込んでた義昭は追放、朝倉・浅井は滅ぼされ包囲網は瓦解。
半年も経たずに…

78:人間七七四年
14/06/04 20:01:04.21 gUjnC2qU.net
甲斐府中に戻り安堵状の発給作業など家中掌握と相続儀式があったから動けない。

79:人間七七四年
14/06/04 20:31:42.02 PUEXisA7.net
戦時中に安堵状の発給や相続儀式ですか

80:人間七七四年
14/06/04 20:55:24.41 pYoCfjBr.net
現代ですら遺産相続を巡って兄弟が憎みあって裁判沙汰になるのに、
その裁判をやる幕府すら崩壊してんだから、武力あるヤクザ親族の統制や、
新当主側近団と旧当主側近団の世代交代で下手打つわけにいかねーんだよ。
お前の父親が死んだのと同じに考えんなよ低脳。

81:人間七七四年
14/06/04 21:51:03.21 C43/4BGe.net
最初っから勝頼が継いだ状態で軍を起こさなかった信玄が原因だわな
義信事件にビビって勝頼に強大な権力を与えられなかった

82:人間七七四年
14/06/04 22:44:30.39 qCSRN+2q.net
>>77
封建制を理解してから書き込もうな
総大将が死んで撤退しなかった例なんて何処にもないから

83:人間七七四年
14/06/04 23:30:26.01 zDykTv9p.net
よほど高度に完成されたシステムでない限り、権力の空白が生じたら戦争を続けることはできないね

84:人間七七四年
14/06/04 23:41:24.65 SbLxEUzC.net
80
上野は徐々に侵食した武田だが、安堵やらは箕輪落としたあたりでまとめて発給してる
駿河遠江も落ち着いてからまとめて発給
つまり、有る程度落ち着いてからでも十分間に合うしそういう実績がある
そんなことも知らないで人を煽る精神性は感心しないな
まるで菅沼じゃないか

82
総大将の死亡撤退と封建制は関係無いな
総大将が常に主従性の上に立つものとは限らないからな

85:人間七七四年
14/06/05 00:31:56.73 pQbxvjBy.net
>>84
他人をお前と一緒にするな菅沼

86:人間七七四年
14/06/05 08:39:19.92 OYcfjR5g.net
信玄が隠居し勝頼の代になったと公言した時点で、
信玄が発給した安堵状は役に立たなくなる。
甲相同盟ですら、新たに勝頼と継続確認をしたくらいだ。
外交の取次役の変更を含めて再構築される。
勝頼な場合、信玄が生きていて、
その信玄が後見役の名の元に実権を持つ傀儡政権ではないのだから、
刷新改革が落ち着くまで勝頼は動けない。
だからこそ援軍を出さない姿をみて信玄が死んだと察したのが家康だし。

87:人間七七四年
14/06/05 09:52:49.27 B22hWKkk.net
陪臣やら小さな家臣にまで大名として全て発給してたわけじゃないぞ?
郡代あたりの安堵状で納得する奴もいたし、信玄のが欲しいという奴もいた
ただ後者でもお願いだからな?
戦でクソ忙しい時にまで我を通すようなkyじゃ無いんだよね

88:人間七七四年
14/06/05 13:59:17.94 AV3b5unw.net
つっかそういう体制はさっさとしておくもんだけどな本来は
甲相同盟だって最初っから勝頼の名前で結んでおけば再確認しなくて済むし
義信が廃嫡された時点で後継者を早急に決めるべきだったのだから
その段階で既にやっておくべきだった話
結局信玄は義信事件に対して完全にトラウマを持っていて
いつ自分が、かつて信虎を無理やり追放させたように
後継者となるべき存在の人間に下剋上されるかという恐怖に怯えていて
ついに信玄存命の間は他の人間に大きな権力を与えられないという人間不信に陥っていた

89:人間七七四年
14/06/05 16:42:13.17 71ROXN4s.net
普通は早めに隠居とかして権力を少しずつ移譲していくもんな
後継者が本当に年少とかなら仕方が無いんだが信玄-勝頼はその例に当たらないし

90:人間七七四年
14/06/05 21:40:33.33 7aFe9f/+.net
>>89
義信廃嫡してから何年もたってるもんな。
それなのに根回し足らな杉。もう自分50過ぎだってのに。
実権はともかく家督はあらかじめ譲っとくべき。

91:人間七七四年
14/06/06 01:15:06.48 M2gKAwcK.net
信玄としては、まだ反・信玄でくすぶってる家臣がいる(かもしれない)と思ってたんだろうな

92:人間七七四年
14/06/06 03:19:41.64 HbLPAadm.net
包囲網なんてんな簡単に成功するもんじゃねーし
現代だって中国封じ込めようとしてできてねーのと同じ
戦前のABCD包囲網はバカ日本が勝手に網に入ったせいだからなw

93:人間七七四年
14/06/06 10:44:13.71 nfNzrA70.net
堅田衆が信長に着いたのが大きいな
あれで包囲は不可能になり、京都も
信長の影響下に置かれた

94:人間七七四年
14/06/06 17:53:54.99 6leX4n2H.net
URLリンク(www26.atwiki.jp)

連投埋め立て事件とは、2014年5月下旬から発生した
だがスレを含むスレを巡る埋め立て工作の事件の総称
アスペルガーだがが住民に煽られ、だがスレなどを埋め立てた。
5月27日~5月31日までの5日間に 約950のレス を投下する
発狂ぶりがスレ住民の話題となった

95:人間七七四年
14/06/07 14:19:13.12 cZZe1BDr.net
相変わらず根拠ゼロの願望妄想がソースの織田ちょんのレスwww

96:人間七七四年
14/06/07 15:51:37.76 w0kxMu2z.net
菅沼遼太wwwwwwww

97:人間七七四年
14/06/07 18:08:12.88 8pcSIwN9.net
だがチョ~ン

98:人間七七四年
14/06/12 13:12:01.05 oR+6AH9e.net
>>84
封建制じゃなければ総大将が死んだくらいで即時撤退はしないだろう
朝鮮戦争中にアメリカの大統領が死んだとして即時撤退はしなかったと思うぜ

99:人間七七四年
14/06/12 13:48:38.36 D/QF6tfg.net
太平洋戦争中にルーズベルト死んだけどなんも影響なかったしな。

100:人間七七四年
14/06/12 14:01:35.61 fx8Oimyq.net
>>98-99
それはアメリカ合衆国の政治制度が高度にシステム化されてるからで、封建制かどうかと関係が無い

101:人間七七四年
14/06/12 18:56:52.33 9pq0/oyO.net
菅沼遼太は嘘吐きなんだからロムってろ

102:人間七七四年
14/06/12 19:57:33.06 xVtfTFYX.net
惣領制だから惣領が死んだら、
統制がとれないから帰る。

103:人間七七四年
14/06/12 22:12:41.22 LLBbHyOl.net
>>101
これについちゃだがの方が正しいよ。

104:人間七七四年
14/06/13 11:49:45.87 vzJmMQ2w.net
>>99
講話条件が緩和され本土決戦が回避された
ルーズベルトの死によって和平派が勢力を拡大させたから

105:人間七七四年
14/06/14 20:01:46.52 mJU+cCj+.net
和平どころか、むしろ最悪なことに
トルーマンになったから原爆落とされたんだけどな。
ルーズヴェルトなら原爆落としてなかったと言われてるし。

大統領が死んでも副大統領がすぐに大統領職を継げるから、
権力の空白は起きないし、選挙の信認を受けた議会があるから大統領への取次が変わるわけでも、
大統領に領地安堵の発給を受ける必要もなければ、
相続を認めてもらう必要もない。

106:人間七七四年
14/06/24 22:04:32.18 wyByXDxC.net
清原真衡が陣中で急死したため
清衡家衡は助かったよね。

107:バカは氏んでも名乗らない
14/06/24 22:08:27.19 JzqWdYBz.net
清原はクスリやってたんだろお前?

108:人間七七四年
14/06/26 19:37:06.57 N873KyQt.net
菅沼遼太  男

所在

神奈川県

職業

正義のヒーロー「スガヌマン」

活動内容

悪の軍団オダチューの退治
掲示板で啓蒙活動(闇に隠蔽された真の歴史(だが史観)の伝授)
麻生太郎氏をはじめ日本の中枢にいる保守派政治家をバッシング
2ちゃんねる運営を批判(別名義「うんこ」を使用)



これで菅沼君にも職歴が増えたよ、やったね

109:人間七七四年
14/06/26 23:52:01.09 U8VYYSN4.net
>>105
つーかルーズヴェルトとその陣営はトルーマンにヤルタなど外交の引き継ぎろくにしてないんだよ
だからトルーマンは外交的にソ連にしてやられてる
その挽回もあっての原爆投下であり、元を辿れば無能ルーズヴェルト陣営のせいと言えるんだわ
勿論、引継ぎがスムーズに行われなかったのはコミンテルンのスパイ工作の賜物
ちなみにルーズヴェルトなら原爆落とされなかった「かも」しれないが
晩年はスターリンに良い様にされてるから北海道の分割とか賛成したかもしれんぞ

110:人間七七四年
14/06/29 00:08:13.28 mrRIvHKr.net
諸悪の根源はヘタレ朝倉

111:人間七七四年
14/06/29 00:23:31.72 oFtx0Xct.net
対信長包囲網の主力と言っていいほど戦った朝倉が言われる筋合いの話ではないわなあ。
もし>>110が最後の方にチョロっとだけ参加した武田だとしたら、な。

112:人間七七四年
14/06/29 00:30:38.72 11bhii2Z.net
当時も菅沼みたいな奴がいて、そこら中に信玄を絶賛するコピペ立看板置きまくるもんだから、ウンザリして朝倉が帰っちゃったんだよ。

113:人間七七四年
14/06/29 16:26:42.57 /A1mjJHy.net
コピペは1日1回まで。

114:人間七七四年
14/06/30 22:54:29.58 JCEt6Xga.net
けど朝倉が三方ケ原の後動いてくれてたら信長滅ぼせたかもしれんだろ

115:人間七七四年
14/06/30 23:41:39.49 bdv6ifaC.net
そもそも織田包囲網ってせいぜい90万石程度しかないだろ。
武田はほとんど徳川が抑えてたし、背後に上杉もいるから抑えの兵力も置いてた。
浅井・朝倉・本願寺・長島一揆じゃ100万石も行かないんじゃね。
300万石の織田が90万石の包囲網相手に戦って
苦戦していたが、
そのうち包囲網は信玄の死や、物資不足や自壊などが起きて、織田が優勢になったというだけの
当たり前の現象。

116:人間七七四年
14/07/01 00:14:11.47 qYUedJmL.net
機内・四国の三好勢や足利派は無視なんだ。

しかし篠原長房や足利勢によって機内から完全に追い出され、
贔屓目に見ても、美濃、尾張、北伊勢くらいしか統治できてなく、
近江も失いかけて危なかったのに300万石もあるなんてどういう計算なんだろう。

117:人間七七四年
14/07/01 00:58:34.76 9pNJJvXU.net
信長の当時の領国は尾張・美濃・伊勢の大部分・南近江・山城・河内・摂津の大部分・大和・丹波(帰属)・播磨(帰属)・但馬(帰属)
山城や河内や丹波や播磨但馬は完全に従ってたわけではないが
それでも300万石くらいは軽くいくだろ。
北近江では浅井が抗戦しているが
浅井の支配拠点なんてせいぜい12万石程度だろうし

118:人間七七四年
14/07/01 01:05:02.13 mGy9ufO9.net
畿内では若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。

119:人間七七四年
14/07/01 01:12:53.56 bO5qr2K2.net
三好は後背むしして全軍で信長ぬ突撃かますとでも?w

120:人間七七四年
14/07/01 05:22:24.02 Obn+5DJH.net
三好には後背あまり関係ないんじゃないかな。本拠地は阿波だし渡海ルートは本願寺が味方であれば大丈夫
ただ朝倉と同様、そんな行動起こすほど武田を信じていたのかという根本的な問題がある
武田が岐阜まで取れるような情勢になれば乗るかも。要するに様子見だよ

石高での比較は無意味だね。本願寺の兵力は石高で測れないから
包囲網なんて結局、その中で1番強い勢力の行動力次第である
太平洋戦争のABCDもアメリカ動かなけりゃ意味なかったのと同じ

元亀の武田、元正の上杉も撤退した時点でオシマイなのだ

121:人間七七四年
14/07/01 10:12:36.55 mbWVDaEl.net
そもそも三好は権力闘争でそれどころじゃない
>>116の篠原長房もこの年に殺されている。
当主であった三好義継が攻められているときに、
四国側の救援が乏しい時点で、統一行動は不可能に近かった。

>>115
というか、戦力だけなら織田方が圧倒的有利なので、下策を打たなければ勝てる計算だった。
包囲網側は戦力が分散しており、総合的な国力でも織田には及ばないわけで
織田に勝つには、戦勝に乗って一気に織田を攻め続けて、速攻で織田を倒すしか道はなかった。
だから包囲網側は史実でも、とにかく武田信玄が来るぞ来るぞとせっつき、なんとか短期決戦に持ち込もうとしている。

ところが、織田方からすれば、防備に徹していれば相手は勝手に音を上げてくれるわけで、
守りの戦をし続ければ勝手に包囲網側が自壊する計算。所詮包囲網側は勢いに任せて我武者羅に突っ込んでるだけだしな。
史実でも天正元年の5月頃には包囲網側の空元気もつきて大勢が決し、同年中に足利、浅井、朝倉、三好と多くの勢力が信長の餌食になってる。

122:人間七七四年
14/07/01 10:48:58.15 fED1JXj9.net
>>120
本願寺の支配拠点は摂津の中でもほんの4分の1程度。
他は荒木らが支配する織田方拠点。
本願寺の動員兵力が国力では測れないとかそんな妄想には興味ない。
実際本願寺は外征能力が全くなく、毛利らの支援なしにはすぐ物資も尽きるのでろくに戦えてない。

123:人間七七四年
14/07/01 10:51:23.37 N5+087Wa.net
包囲網勢はよく見て100万石いくかいかないかだよ。
浅井なんて北近江の2郡程度しか支配してない10万石程度だし
織田は直轄領以外にも
畿内の織田方諸侯含めれば350万石程度はいく。
武田は徳川が抑えてたからほとんど織田領にはせめよせて来れなかったし。

124:人間七七四年
14/07/01 10:54:02.81 N5+087Wa.net
織田350万石と包囲網90万石の戦いってことだな

125:人間七七四年
14/07/01 10:59:43.74 B3CBo8NE.net
三好についても後ろから長宗我部が頑張ってたし無理だな
第一次の頃は上杉も味方だし、毛利との関係も悪くない

126:人間七七四年
14/07/01 18:21:45.14 26oGHg/5.net
>>121に付け加えるとこの時期の三好は毛利と東瀬戸内の支配圏巡って争っている時期で
こっちの方が信長より差し迫った問題

127:人間七七四年
14/07/01 19:52:57.45 Obn+5DJH.net
>>122
妄想も糞も本願寺の兵力は石高関係ないからな。大名じゃねーし
外征能力なんかあるわけない、というかする気も必要も名分もない
ただ各地にいる門徒が暴れてるだけだから
その暴れてるだけの門徒相手に随分殺されちゃった織田兵

128:人間七七四年
14/07/01 21:29:59.50 bp7Y4klo.net
>>127
本願寺って石山だけの事じゃないの?
石山以外の一揆勢を本願寺とするなら、
当然長島一向一揆越前一向一揆などは、包囲網から除外して「本願寺」として計上するんだから
やっぱり>>115のようになるだけ。
外征能力のない勢力なんて、放置してれば問題ないから全く脅威ではないよ。
他の敵から片付けて、後回しにしてればいいだけだし
物資も毛利などに依存してるだけだから、包囲しいて、他勢力の介入を防げば自然に絶ち枯れる。

129:人間七七四年
14/07/01 23:10:31.84 EM0jzXlG.net
三好時代を見てると外征しないわけではないが、信長相手では位置的に無理だな
あと随分殺されたとかいうのは捏造だね

130:人間七七四年
14/07/02 02:05:20.48 x1ADMcW5.net
横から失敬させてもらいますが、
>>121
織田が戦力で圧倒的優位とか一体どこの世界の話ですか…?
三五〇万石とか言ってますけど、史実でも当時はそんなにないはずですが…。
っていうか、たった二年あるかないかくらい前の志賀陣で
土下座降伏宣言出してる信長が楽勝とか、マジでどこの世界の話なのでしょうか…?
>>129
本願寺には随分と殺されてるはずですが。
長島には重臣も一族も随分殺されてますし、大阪本願寺にも随分武将や兵が殺されてますが。
北陸一揆勢にも随分やられてますし、一体どこが捏造とかいう話なのでしょうか?
ご説明願いたいのですが。

131:人間七七四年
14/07/02 02:08:27.08 x1ADMcW5.net
>>128
本願寺に外征能力ないとかどこの世界の話なのでしょうか。
普通に北陸一揆も長島も外征してるのですが。
脅威じゃないとか言ってるのは、「脅威じゃないとしたい」貴女だけでは
ないでしょうか。
ついでに>>115はとてもまともな計上とは言えないと思います。

132:人間七七四年
14/07/02 05:53:54.03 wEvPeLK6.net
その「外征能力のない勢力」とやらに織田兵は何度も敗退してるからね。
一族含め随分殺されてる。
それと俺も基本的に「外征」するとまではいかない存在だとは思うけど、確証はないよね。
人間が集団で固まれば暴走もありえる。絶対はないんだよ。
攻めてこないから放置してても問題ない、なんて戦後日本教育の弊害にかかっておいでと見た。

133:人間七七四年
14/07/02 06:03:13.85 wEvPeLK6.net
もう1つ、戦国時代の国力は石高では計れないもの
徳川幕府の生み出した石高制の理念を戦国に持ち込んでも意味ない
例えば上杉。現代では日本有数の米どころであり、ゲーム等でも越後はそれが反映されてる
だが16世紀時点の越後は石高全然ないからな
上杉・・いや長尾家の収入源は海運業

便宜的に使ってるとしても350vs90とか根拠のない比較はよした方がいい

134:人間七七四年
14/07/02 09:32:32.94 aeyB7ZJy.net
>>133
石高制は太閤検地時代の検地によって計測したものだが
それまでの収入体系と
それ以降の収入体系で、収入の中身そのものが変化したという事はない。
ちなみに石高以外の副収入含めるなら
堺や尾張の津島港など、ダントツの経済力を有するので石高以上にその実質は富裕だと思われる。

135:人間七七四年
14/07/02 09:35:26.45 B95TQIYv.net
>>133
戦国時代の日本の収入は米+副収入なので
基本は石高で測るもの。
石高で出てる国力にグダグダケチをつけて、妄想で国力を測ろうとか、ただの馬鹿。
上杉領国は元々非常に貧しく
米どころになったのは、江戸中期以降の話。
これは上杉氏軍役帳や、小田原合戦時の陣立書での上杉軍の動員兵力の少なさからわかる。

136:人間七七四年
14/07/02 09:37:55.18 aeyB7ZJy.net
>>133
石高があてにならんとか相当馬鹿だな。
だったら何を元に各国の国力や動員能力を語るんだよアホ。
織田の敵対勢力は実は強大だったとか
織田家は大して国力が強大じゃなかったとか
お前の都合いい妄想なんぞ知らん。
太閤検地での石高が戦国期の国力を語る上での唯一の指標なんだから
それを元に測るのが当たり前。

137:人間七七四年
14/07/02 09:39:37.44 I4qLyqup.net
信長の当時の領国は尾張・美濃・伊勢の大部分・南近江・山城・河内・摂津の大部分・大和・丹波(帰属)・播磨(帰属)・但馬(帰属)
山城や河内や丹波や播磨但馬は完全に従ってたわけではないが
それでも300万石くらいは軽くいくだろ。
北近江では浅井が抗戦しているが
浅井の支配拠点なんてせいぜい12万石程度だろうし
畿内では若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。

138:人間七七四年
14/07/02 09:40:57.60 aeyB7ZJy.net
石高以外の副収入入れたら
織田は500万石前後行くんじゃないの。
津島港や堺など経済の中枢押さえてたし
逆に包囲網勢は貧相な副収入なしのショボイ国力の土地ばかり。

139:人間七七四年
14/07/02 09:53:48.61 B95TQIYv.net
織田包囲網

・武田…背後に上杉もいるから抑えの兵力も置いてた。対織田ではほとんど不参加。徳川がほとんど抑えてたから計上する必要なし。
・浅井…北近江2郡10万石前後
・朝倉…越前46万石前後
・本願寺…摂津のうち数郡 14万石前後?
・長島一揆…北伊勢数郡 15万石前後 

やっぱりよく見ても90万石前後にしかならんじゃん。

140:人間七七四年
14/07/02 09:57:23.98 Vo8I7p01.net
350万石の国力で90万石の敵対勢力を倒したのを凄いとかねつ造するのが織田厨クオリティ。
本願寺も長島一向一揆も外征能力がないから、最低限の守備兵を置いて放置しても可なので
実質的に織田は浅井朝倉戦に集中できたので、ラクな戦いができただけ。
浅井朝倉57万石前後に対して
織田が250~300万石の国力を使って、当初は苦戦をしてたので持久戦をしかけ
浅井朝倉から離反が相次いで、自壊に助けられただけ。

141:人間七七四年
14/07/02 10:45:45.81 KL85x1eN.net
>>137
伊勢の北畠は従属していなかったと言ってなかったか?菅沼君

142:人間七七四年
14/07/02 11:47:18.80 XnPwWb+K.net
また菅沼遼太が妄想史観垂れ流してるのか

143:人間七七四年
14/07/02 12:22:57.37 nRzjeNEU.net
妄想垂れ流してるのは織田厨じゃん

144:人間七七四年
14/07/02 12:24:56.91 rqHggJTK.net
石高があてにならんとか織田厨大好きなアホ妄想。
石高以外の副収入入れるなら
織田分国は堺や尾張津島港のチート収入入るからさらにチートになるのに

145:人間七七四年
14/07/02 12:48:32.62 KL85x1eN.net
菅沼理論だと信長は一万の乞食兵しかいなかったから石高はせいぜい30万石程度
そうだよね?菅沼君

146:人間七七四年
14/07/02 17:35:02.34 X848mW+B.net
取りあえずみんな何年の織田の勢力の話をしているのかはっきりしてくれ。
1573年辺りなら確かに織田の国力は圧倒的と言っていいかもしれんが、
これが1571年初めとかだと織田の国力を圧倒的と言うのは難しいと思うぞ。

あと石山本願寺に外征能力が無いというが過去山城や大和なんかに侵入しているので、
近距離であれば外征能力は存在しているはず。
もっとも山城や大和なんかに侵入したら織田以外の勢力も敵に回すだろうが。

長島も外征しているというのはちょっとわからないな、一体何のことだろ。

147:人間七七四年
14/07/02 18:54:01.96 I3jRYmZv.net
荒らしを相手にすんなカス

148:人間七七四年
14/07/02 20:35:07.31 KL85x1eN.net
別に国力とかはどうでもいい
菅沼理論だと乞食兵一万だけで朝倉浅井三好らをあっという間に粉砕してしまった
また同じく菅沼理論によると大地震と火砕流で滅茶苦茶になっている甲信を自衛隊を軽く超える能力で進軍
こんな天才率いる不死身の軍団に包囲網など役に立つわけがない
そうだよね?菅沼君

149:人間七七四年
14/07/02 23:44:15.33 D1MUHxv7.net
>>146
あのー、1573年の時点で織田の国力が圧倒的とか笑い話にも
ならないと思うのですが。1573年の何月ですか?
越前を攻略してもすぐに取り返されてるのはスルーですか?

近距離どころか、普通に天文一揆では畿内で総力戦やってますけど。
しかも、遠征能力あるといいつつ、そうやって予防線を張るのも
いただけないですねー。

伊勢長島は北伊勢を制圧してますし、そこから北上して尾張美濃国境に
放火もしてますね。

150:人間七七四年
14/07/02 23:44:54.38 D1MUHxv7.net
>>148
その不死身の天才が敗戦数十敗とかしょっぱいですなー。

151:人間七七四年
14/07/02 23:46:45.02 I3jRYmZv.net
>>150
どの戦いのことを言ってるの?名前挙げてw

152:人間七七四年
14/07/02 23:47:05.25 1png42hz.net
1573年時点の織田の国力は
尾張美濃伊勢の大部分、近江全域山城大和河内和泉の大部分丹波の大部分
これに摂津の4分の3に播磨・但馬の織田方が加わるから
全部で450万石前後はいくんじゃね。

153:人間七七四年
14/07/02 23:48:14.97 D1MUHxv7.net
>>146
ついでに、志賀陣でも普通に一揆勢が朝倉浅井勢に参戦して遠征してるので、
一揆勢に遠征能力がないなんて事はまずないです。

154:人間七七四年
14/07/02 23:53:39.40 1png42hz.net
遠征するには物資と兵站網と継続的な収入が必要。
一揆勢らはそれを持ち合わせていないので
外征など不可能。
城に篭もって迎撃してるだけ。

155:人間七七四年
14/07/02 23:53:41.34 D1MUHxv7.net
>>152
正気で言ってるんですか…。1573年の何月なんですか?
信玄が生きてる時点でいいんですか?
1573年の時点では伊勢長島も健在どころか、伊勢長島に北伊勢自体が呼応してますし、
北畠宗家に味方して織田を主君と認めてない者とかも普通にいるわけで、
伊勢での動員力は大部分とはとてもいえないです。
近江全域って、浅井や一揆はどこにいったんですか。
大和も宗教勢力や信長に服属してない勢力いますし、河内や和泉も大部分か微妙ですし、
丹波が支配されるのってまだまだ先ですよね。
播磨・但馬の織田方って…。当時は動員にも入りゃしないくらいの関係でしょ。

156:人間七七四年
14/07/02 23:55:28.45 D1MUHxv7.net
>>154
いや、だからそれ貴女の妄想でしょ。
北陸一揆とかは何回も越前とかに攻め込んでますし、
大阪も天文一揆とかでは大暴れ、志賀陣でも普通に朝倉浅井について遠征してますし、
マジで一揆が遠征不可能とか、「それを員数に入れられると困る」人が
必死になってるだけでしょ。

157:人間七七四年
14/07/02 23:56:24.06 I3jRYmZv.net
>>152>>155
自演はもう少し考えてやろうね、菅沼クン


関ヶ原、西軍勝利 その2
453 :人間七七四年[sage]:2014/07/02(水) 23:43:53.31 ID:1png42hz
実際この掲示板のアホ書き込みのほとんどは1人の馬鹿織田厨によるものだからな。
頼るもクソもない。

158:人間七七四年
14/07/02 23:57:58.65 D1MUHxv7.net
>>151
とりあえずざっと
斎藤義龍相手に大良河原で完敗
・斎藤龍興相手に14条で敗戦
・斎藤龍興相手に騙し討ちを仕掛けても防がれ、
逆に河野島で壊走
・第一次伊勢長島攻めで攻略できずに引き上げる所を追撃され、敗退。殿軍を務めた柴田は負傷して交代、後退した氏家が部隊もろとも全滅という大敗。
・第2次伊勢長島攻めでも攻略できずに退く所を追撃され、
殿軍を務めた一の重臣である林新次郎が
その与力武将もろとも部隊ごと壊滅して大敗。
・尾張小口城攻めで敗北し側近死亡
・1569年の北畠攻めで敗北
・1560年に美濃を攻めて2回斎藤義龍に撃退される。
・新加納で斎藤勢に敗北
・1565年に東美濃で武田勢と接触して戦闘になり、織田勢が兵を退く。
・堂々砦攻防戦。信長公記では見事な撤退、となっているが、
実際は「死人を先に出した」とかおかしな記述が目立ち、
信長公記特有の提灯記事の可能性が指摘される。
武功夜話では明確にこの退却戦は「前方は広野、支え様手立相無し、敵方信長様近々に寄せ来る」「高名も手柄も外聞も無く逃れ候」と
信長の近くにまで敵が迫り、高名も外聞もなく敗走した戦いだったと
記されている。
・朝倉浅井に挟撃され、金ヶ崎崩れとなる。越前攻略に失敗。
・野田福島の戦いにおいて本願寺勢に撃破され、佐々成政負傷、
野村越中討ち死に。
・志賀陣において堅田に坂井勢を派遣して朝倉浅井の陣に楔を
打ち込む事を狙うが、朝倉浅井の反撃を受けて敗退し坂井勢壊滅。
・1572年、朝倉浅井と対峙するが、越前勢の奇襲を受け、
陣地を700以上焼き討ちされる。
・朝倉浅井勢、織田勢を攻撃して大利を挙げる。
常陸の土岐氏からの朝倉宛の答弁の内容、朝倉の返答書状、
武田家の書状、など複数の同時代的資料及び根拠あり。
・1573年5月に浅井を攻撃するが撃退される。
・1574年東美濃攻防。明知城の救援に赴くが、武田の山県勢に険路を抑えられ、進むに進めないうちに明智城が陥落。
退くところを山県に追撃されて敗走。

159:人間七七四年
14/07/02 23:59:26.02 D1MUHxv7.net
>>157
あのー、それって例によって貴女が都合悪いレスを認定してるだけで
何の根拠にもなりゃしないと思うのですが。
っていうか、本当に都合悪い相手はなんでも菅沼なのですなあ。

160:人間七七四年
14/07/03 00:06:53.86 uGnBNOqn.net
>>139
っていうか、それいつごろの話をしてるんですかねえ。
っていうか、朝倉の領域に若狭とか入ってないですし、
一揆勢は人口を召集して数万単位の規模をつくる勢力なので、
石高ではかるのは意味がないはずですが。
実際に、湖北・長島・大阪・北陸、いずれも数万単位の兵力を動かしてますね。
他にも普通に織田包囲網に入って戦ってる足利やら土一揆やら幕臣やら三好やら、その他の
勢力を含めないのもおかしいですし、武田も織田の東美濃を攻略したりしてます。
どう見ても動員兵力とかで見れば、織田は不利な状況では。

161:人間七七四年
14/07/03 00:12:57.61 uGnBNOqn.net
>>134 >>135 >>136
>>160にも書きましたけど、普通に一揆勢は数万単位で動くので
石高だけではかったところで意味ないです。

>>137
その計上方法でどうして包囲網勢に味方した土一揆だの、幕臣だの、三好だの、
六角だの、足利だの、雑賀だの、その他色々だの、を入れないのでしょうかねー。
っていうか、300万石余裕とかマジないっしょ。

162:人間七七四年
14/07/03 01:24:01.41 Y+xiHRh9.net
畿内では若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
他にも但馬や丹波など織田方に帰参してる国人は多く
普通に300万石は余裕でオーバーする。
近江の中で浅井の支配拠点はわずか2郡だし
朝倉には一門からもボロボロ寝返りが出てる始末。
山岡もあっさり織田に従属したりしてるし
六角義秀はハナから織田方で斉藤攻略や上洛戦で多いに織田の戦をお膳立てまでやってる。
武田はほとんど徳川が抑えてて、東美濃には5000程度がほんの一時期ちょろっと攻めかかってきただけ。
包囲網勢は贔屓目に見ても110万石前後しか対織田に参加してない。

163:人間七七四年
14/07/03 02:15:34.59 uGnBNOqn.net
>>162
とりあえず、時系列がいつの事なのかわかりにくいです。
但馬なんか当時は動員兵力にもならないでしょうし、
丹波が攻略されるのってこれから数年たってからの事でしょうに。
多くって誰の事言ってるのですかね。
若狭には朝倉の味方もいるわけで。大和も完全掌握とはいかないですし、
細川・畠山・荒木もその国全部を抑えてるわけではないですし
っていうか、この時期にはまだ普通に三好が健在ですけど。それらの地域で。
どう考えても300万石余裕でオーバーとかありえないでしょ。

近江の浅井には一揆勢とか味方にいますし、
朝倉も普通に1万数千から2万近い兵を動かしてるわけで。
なんで六角といって六角義賢が出てこないのか謎すぎですが、
こっちの方は普通に信長に敵対してます。
武田も普通に東美濃で岩村を攻略した後は織田方を上村合戦で
撃破したりしてますし、勝頼時代には東美濃攻防もしてます。
というか、友好勢力、とやらを含めつつ、武田が入るのは嫌だから
徳川関係ノーカウントとかされてもですねえ…。
っていうか、大阪・北陸・湖北・長島といった一揆勢それぞれ数万単位の
動きがあるので、石高だけでとらえてもしょうがないですし、
山岡をはじめ他にも織田に敵対してる勢力はいくつもありますが、
それらはノーカウントで110万石(キリ)とか言われても
こちとら失笑でして。マジで一体いつの事を話してるのか
謎杉なので、定義出してくださいよ。

っていうか、あちこちでID変えながら発狂してますけど、
こんな時間に文体も論旨も行動パターンも一緒で
一斉にレスし出す時点で、色々と明白なのが分からないあたり
やっぱり長篠スレで複アカ多数派工作してる事を自白してる、
腐女系おばちゃん織田厨のネット廃人カス子さんだけはあるなあ、
と思ったりしますね。

164:人間七七四年
14/07/03 09:10:12.71 m+C9J1Ru.net
尾張・美濃で100万石
あとは伊勢と近江でどんだけ支配してるかだけど・・・畿内が反旗を翻してる状況じゃ兵を動かせない
結局のところ動かせる兵は尾張・美濃だけ

165:人間七七四年
14/07/03 09:24:40.20 Y+xiHRh9.net
尾張 57万石
美濃ほぼ一国 49万石
刈谷の水野12万石
伊勢の6割~7割計30~35万石
近江の大部分60万石
大和のほぼ一国40万石
摂津7割26万石
河内何割か 16万石
但馬(元亀時点では織田方。織田に謁見を願ってるし、山名は元々織田の支援を受けて但馬入りしてる)11.5万石
播磨(永禄末期の経略で一旦平定)36万石
丹波(元亀時点では織田方) 22万石前後

浅井・朝倉滅亡前でも330万石前後
浅井・朝倉滅亡後で400万石前後といった所。
長島平定・伊勢平定後だと450万石前後いく。

166:人間七七四年
14/07/03 09:42:40.42 xa3oz6bh.net
>>165
尾張一国で57万石は疑問だな
江戸時代でも47万石しか無かったのに
刈谷の水野はもっと少ないぞ。徳川が三河の半分しか支配していない事になる
浅井の勢力と寺社の支配地域、六角の残党が割拠する近江も40万石程度
大和も武家の勢力が及ぶのは半分程度

167:人間七七四年
14/07/03 09:45:02.14 xa3oz6bh.net
>>162
浅井の拠点は浅井、伊香、坂田の三郡に
犬上、高島の二郡にも勢力は及ぶ

168:人間七七四年
14/07/03 09:45:55.82 vRi/0HzM.net
尾張の国力が太閤検地によれば57万石。
刈谷の水野氏は水野い得譜によれば20万石。
近江の中で浅井の支配拠点はわずか2郡の10万石前後。
一揆勢は支配拠点が皆無なので計上する必要なし。
六角も残党なので、支配拠点はなし。
大和は一職支配を筒井がやってるからほぼ一国支配。
ついでにうと筒井以外に織田方に抗戦してる勢力なぞいない。

169:人間七七四年
14/07/03 09:52:38.20 pmkGCfGa.net
近江国人のうち
蒲生・後藤・青地・池田・永田・進藤・永原・山岡らは信長の上洛戦で既に帰属
さらに浅井との対戦時でも
堀・多賀・高宮・久徳・宮部・新庄・林・磯野といった国人らがあっさり浅井を見限って
織田に帰参してきてる。
浅井の支配拠点はせいぜい2郡の10万石前後でしかない。

170:人間七七四年
14/07/03 09:53:31.91 xa3oz6bh.net
>>168
だから何で浅井の勢力を勝手に二郡に減らすんだよ
おまけに水野の勢力圏が尾張、三河内なのだから
水野の石高を増やして計算すれば、相対的に徳川、織田の石高が減る

大和は武家支配だけでは無いぞ
争いに参加していない寺社や吉野郡の郷士の領土だってある
世の中全て武士というわけでは無いからな、特に近畿は

171:人間七七四年
14/07/03 09:57:48.80 xa3oz6bh.net
>>168
江戸時代の尾張藩の記載だと、尾張国内は47万石しか無いだろうが

172:人間七七四年
14/07/03 10:04:39.17 4I3Gfbvt.net
看羊録によると尾張国は地が厚く、土地が肥えていて
種を蒔くだけで放置してても1000倍を得ることができ
里の多さでも日本国でも抜群に優れており大上国であると
尾張国のチートぶりを超絶賛!
(ちなみに三河国は土の層が浅く一尺ばかりしかないので
五穀があまり熟さないので下下の小国と書いているので
信玄が三河占領に興味が無かった理由もわかる)
尾張は、昔から畿内覇権に関与してる。
継体天皇、大海人皇子は、尾張氏のバックアップが決定打とか言われてるし

173:人間七七四年
14/07/03 11:08:05.78 ftnIbka+.net
なるほど、そんな極小な織田を滅せなかった武田信玄情けねえと
全くの同意だ

174:人間七七四年
14/07/03 11:45:19.10 GlvfWau6.net
菅沼くんはまだ水野20万石とか言ってるの?
三河の7割も水野が持ってたら徳川の土地なんてほとんどないじゃん。
そんな弱小徳川すら潰しきれなかった信玄どんだけ弱いんだよ。

175:人間七七四年
14/07/03 13:28:00.34 1FmoHVrL.net
自衛隊を軽く凌駕する不死身の織田軍団に他が勝てるわけない
そうだよね?菅沼君

176:人間七七四年
14/07/04 23:04:42.68 DYeS8h3T.net
石高なんて表向きの数値なのに信じきっちゃってるアホたち
平和やね

177:人間七七四年
14/07/05 02:55:23.78 YXtGkgcA.net
参考にはなるだろ

178:人間七七四年
14/07/05 07:50:50.55 QoXZSZI9.net
石高以外に戦国時代の各国の経済力を指し示すデータはないのだからそれを参考にするのが普通。
石高が参考にならんとか馬鹿な妄想はどうでもいい。
石高以外に副収入入れると
津島港の収益や京や堺や南近江などを掌握してる織田はさらに有利だし。

179:人間七七四年
14/07/05 08:52:16.86 oFzhTRXm.net
ある程度信頼出来て客観性もあるデータとなると石高だけだからな、
絶対視はできないにしても、他のデータよりははるかにマシってことだ。

180:人間七七四年
14/07/05 16:08:28.97 lcNdQmJX.net
さんざん信じきっちゃってて否定されると「参考になる(キリ」とかトーンダウンするアホたち

平和だね^^

181:人間七七四年
14/07/05 16:26:15.75 CNQl3zAD.net
?負け菅沼の遠吠え

182:人間七七四年
14/07/05 19:53:50.33 iPM5ds3j.net
石高が参考にならんとかアホ妄想垂れ流してるのは馬鹿織田厨だけだからな。
各国の経済力を推し量る唯一の判断材料なんだからそれを元にして語るのが普通。
まあ、史料を無視して妄想垂れ流すのが好きな織田厨は認めたくないだろうが。

183:人間七七四年
14/07/05 20:39:55.80 +ibiw37m.net
菅沼「自分に都合の悪いデータは信用ならないニダ」
まで読んだ

184:人間七七四年
14/07/05 22:28:37.22 AAtDq9B9.net
確か軍記物だと織田の兵力が多い、そもそも信用できないから国力から判断しようぜ
商業利権考えると国力は織田が圧倒的だろ、商業工業とか客観性ないから石高から判断しようぜ
石高で考えると国力は織田の方が、石高だけじゃ判断つかないから(ry

これが上洛スレの流れだった
最終的に石高だけで国力兵力判断するのが一番武田に有利だから基本石高での比較に落ち着いたと

185:人間七七四年
14/07/05 23:27:15.67 LReklZfm.net
次は領土から取れるドングリの数を比べようと言い出すな

186:人間七七四年
14/07/06 00:48:59.49 mRNY/0VN.net
仮に織田が300万石だったとしても兵力は乞食兵一万しかいないのだから確かに関係ないわな
そうだよね?菅沼君
君が言い出したことだよ?無視しないで答えなさい
それとも負けを認めるかね?

187:人間七七四年
14/07/06 09:06:01.85 turVc+nE.net
>>186
それだと菅沼君は織田は40万石以下しか実質支配していないというだけだと思う。

188:人間七七四年
14/07/06 09:29:46.60 ezm8eRqo.net
そしてそれだと

そこから盛り返した信長すげー
そんな相手を滅ぼせなかった信玄マジ無能

にしかならないんだよな

189:人間七七四年
14/07/06 11:54:16.22 e3bP7OKx.net
信長は実際にそれだけ有能で、信玄はそれだけ無能だったんだろ。

190:人間七七四年
14/07/06 11:56:05.23 yFSbH/Vo.net
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞と織田軍の大和衆が恐れていたので
戦国最強だったのは間違いないところで
その武遺武徳ゆえに江戸時代には将軍家の軍法として甲州流
それに対して御三家や福井藩などは越後流を研鑽してた。
しかし織田流なんてもんは一切生まれなかったのは
それを唱えたところで誰も学ぼうなんて気持ちが起きなかったからだろう。

織田軍なんて、惣村ですら一揆を組んで、織田に反抗していたほどザコで
誰も恐れていた記述が存在しないしな。
そもそも長篠の戦いで武田が弱過ぎるなら、そのまま武田領へ侵攻すりゃあいいけど
謙信に武田を攻めない理由を追求されて、いいわけ三昧の態度をだして
あまりのヘタレぶりに、謙信から織田とは絶交!とか言われて
能登や加賀を奪われたヘタレ信長だし
近甲同盟交渉を長引かせて、ひたすら武田の鋭鋒から逃げ回ってただけだし。

信長→尾張南西部を伊勢長島一揆に奪われ、
美濃北部と東部は信玄の調略で内応され、
近江は街道すら寸断されまくり、
実質、80万石前後まで低下。
兵糧足らず自暴自棄のあまり京で放火虐殺略奪をやり始めキチガイ化。

信玄→120万石ぐらいで朝敵信長征伐戦を開始。
一年間もの間、戦をせず内政に力を入れており家中は充実。

3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。

天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

家康の織田裏切り行為
家康の領国の三河からは、盛んに石山本願寺へ兵糧や兵員の輸送が
円滑に行われており天正6年になってさえ、
織田軍が本願寺に呼応した荒木によって大敗し12/12尾張知多郡の水野忠分が敗死するなどしてる裏で
10/13に上宮寺(岡崎市)や本證寺(安城市)や勝鬘寺(岡崎市)へ
石山本願寺が書状を出して支援要請してる。
10/28にも三河の浄妙寺・慈光寺・無量寿寺・願照寺にも支援要請してる。
家康は一向宗の叛乱を恐れ石山支援を事実上容認していたのがわかる。
謙信が死んだことで御館の乱が発生し
信長が北陸戦線防衛に必死になることなく
勝頼の遠江侵攻への支援が可能になる余裕が出てくると
9月に信康の岡崎へ三河国衆が出仕するのを禁止して
万が一の時の武田との交渉チャンネルである
信康の排除へ家康が動き出す。
そして家康と北条の同盟が成立する天正7年9月に切腹。
それと同時に徳川領での石山本願寺支援も消えていく。

191:人間七七四年
14/07/06 11:58:04.48 yFSbH/Vo.net
結局、最後まで徳川は高天神とセットで攻撃していた田中城を自力で落とせなかったくらいだし、
武田崩れを誘発した穴山の離反がなければ諏訪で織田軍を壊滅させられたよな。
なんせ北条如きに大敗した滝川とか地侍に破れて殺される河尻とか
織田軍の弱さはハンパねぇからな。

いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。

天正7年8月末に北条高広が後北条を離反
それを受けて9/5に北条と徳川の同盟が成立し
家康も武田窓口の信康を9/15に切り
対武田の全面戦争開始。
同時期、佐竹を通じて武田と織田の同盟交渉がなされており
家康は信長の娘を尾張に送り返し甲江同盟に対して不満をぶちまけている。
しかし当時の信長は本願寺と毛利と別所に呼応して摂津荒木が挙兵し危機的状態にいた。

蘭奢待の切り取りで天皇権威を背景に大和の帰順をしたから北畠支配も可能になっただけだし
そもそも勝頼が穂貸し美濃で大規模攻勢をかけて明智城が落ちたり(苗木城は勝頼の子の信勝の祖父の城だから攻撃してない)
毛利が東進する危機に信長はビビりまくり公家らに略奪してた荘園を
返却したり、自分で燃やした京の復興をしたりの
朝廷への土下座外交をしたから長篠の勝利を得ただけだし。
他力本願ばっかじゃん信長。
虎狼のように手に平返しして天皇をあからさまに軽視した瞬間に家臣に討ち殺されて終了w

天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城日了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。

192:人間七七四年
14/07/06 11:59:52.00 yFSbH/Vo.net
山城の山崎の畿内全域の油流通を支配していた団体も信玄上洛は確実とみて、
武田から安堵状を出してくれるように乞うてた。
中世日本最大規模の油座であった大山崎油座の情報諜報能力とその意向と影響力・経済力は高く
山崎の合戦で明智が守ろうとした山崎の地は戦後に、秀吉が築城し大坂城ができるまでここを根拠地に政戦略を策していたほど。

熱田~伊勢の商業通商ルートを武田水軍と伊勢水軍に封鎖され
破綻財政だった織田軍は金も兵糧も火薬も尽き周囲は離反三昧で1万しか兵を集められなくなり自暴自棄となった信長は京で虐殺略奪を開始。
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた(戦国遺文武田1496・1515・1625)
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ(本光国師日記)
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが(1748・1789)
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている(1995)
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる(当代記)
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に押収され
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる(静岡県史資料8の773・785)
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は(3178)
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており(3331・3332)
北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる(3534・3535・3536・3372)(静岡県史資料8の1394)
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。

第二次長島侵攻直前の天正元年(1573年)9月20日付けの塙直政の書状
信玄の西上中にも岐阜にほど近い新砦の守備をしていた日根野弘就に協力してた
伊勢大湊自由商業町の山田三方の福島親子が船を出していたことが発覚し、のち殺される。
このことからも織田に伊勢水軍が従っていたなかったことがわかる。
茶筅が「具豊」と名前を改めて文書発給を開始したのは天正元年9/20が初見。
大湊中に宛てたものだ。これは長島一向宗攻撃のために伊勢水軍に桑名派遣を命じてる。
そこには「本所よりも固く御申し付けあるべく」とあり、本所とは具教もしくは具房を指しており
信雄より先に本所からも命令文書が発給されているのがわかる。
まさに面従腹背の北畠と伊勢水軍である。
そして林通政を討たれ逃亡中に凍死続出で大敗する織田軍・・・これを受け信雄も天正2年に発給文書ゼロ。

その記述や天正元年9月の第二次長島侵攻での織田軍の退却での追撃で、
元亀2年の退却同様に大打撃を受けて、
信長公の一の長の林新次郎(道政)討ち死にも含めて、
一向一揆論の金龍静氏も、
すでに尾張国海津郡一体はほぼ全てが一向衆化していたと書いてる。
第二次侵攻時において恐怖とパニックで周りが全て敵に見える信長は、
深谷部の近藤氏は禅宗に帰依してたのに一向衆と誤認して攻撃してる体たらく。
海津郡失陥は重大な事件で、
これにより尾張から近江へ行く街道が封鎖されてしまい蒲生は敵中孤立。
蒲生が朝倉に帰属するのもうなづける。
また伊勢大湊に伊豆の大船が着岸していた事実から、
甲相同盟に基づき、
北条水軍まで伊勢湾に支援に来ていた。

193:人間七七四年
14/07/06 12:01:51.47 yFSbH/Vo.net
蒲生賢秀の娘2人の旦那の関盛信と神戸具盛は
信長によって幽閉されていたから怒ってたんだろうな。
脱走した際に不憫に思って助けたのが賢秀だろ。
大体蒲生は六角侵攻の時に素早く織田に鞍替えるような人間
信長が滅亡寸前で鞍替えしても不思議ではない。
実際、蒲生の後援がなければ六角氏が生き延びられるわけがなかったからな。
元亀3年11/27の山縣書状に
朝倉軍が織田軍を大破したし尾張・美濃衆が数多討死って書いてある
織田が朝倉に大敗して近江勢が寝返ったと書かれている。 嘘長公記はこれを隠蔽。
この大敗で信長は岐阜へ引きこもり震えていた。
で、この書状の最後に日野蒲生が朝倉に寝返ったとあり、手紙の内容と合わせて
織田の敗北、武田の躍進を山県が強調している。
元亀3年10/5の朝倉景亮書状(書状には「朝倉」の文字がかき消されている)
先日以◯◯◯◯ 入候之処、御懇之御報、
殊御一書披見本望候、其已後重而可申入之処ニ、
延引非本意ニ候、仍其表如何ニ御座候哉、承度候、乍御六借敷、南方辺之儀、示預候者、
畏可存候、委細林権介可申候之条、不能詳候、恐々謹言
蒲生下野入道殿御陣所

天正4年の木津川の戦いと天正6年の第二次木津川の戦いの間である
天正5年にも織田軍は毛利と海戦して大敗してるのを公記は隠蔽してる。
謙信の上洛戦に言及があるため天正5年9月23日の手取川の戦いが始まる寸前の書状。

龍谷大学大宮図書館蔵 光佐披露状 江戸浄林寺文書 顕如上人文書簒所収

急度令啓上候 仍今度芸州警護船 早速被相催 歴々衆渡海候
殊為合力 兵糧等厳重之儀 囘申謝候 随而於海上及一戦 敵船悉被打果候事
無比類高名 併上意御威光之故候 当寺門下・紀州兵船相共ニ 抽戦■候
可然様御執成専用候 其節之儀 加太豊前守存知之事候条 可有言上候
就中御太刀一腰金・御馬一疋鹿毛進上之候
聊表祝儀計候 於此上 播州陸路之行 肝要存候 弥可被上意候
北国謙信事 近日越前表 可有出張候 猶以三和之儀 此刻候 甲州之儀
八月中尾濃江必定出馬■■ 一両日已前も申越候 諸国之儀■■分急申候
吉事近々可申入候 此等之旨 宜有披露候 怖々謹言

            七月廿八日 光佐(花押)
  一色駿河守殿
  真木嶋玄蕃頭殿

194:人間七七四年
14/07/06 12:02:30.60 yFSbH/Vo.net
加太豊前守=鹿伏兎豊前守宗心の血統か?
亀山城主関盛信に従って関軍の先鋒を勤めていた鹿伏兎城(白鷹城)主
信孝が神戸家の養子になると関氏を通じて織田に仕えたが、のち反織田挙兵。
姉川での討死説あり?子の四郎盛氏も天正2年に長島で討死説あり。

神戸具盛(妻は蒲生定秀の娘)
養子信孝を冷遇していた為に元亀2年に山路弾正など家臣が大虐殺され
信長により幽閉されるも義父を頼り日野城へ逃亡し、元亀3年に神戸家は信孝が家督を継ぐ。
ちなみに永禄11年の観音寺城の戦いで蒲生賢秀を降伏させたのはこの人

関盛信(妻は蒲生定秀の娘)
亀山城主。信孝との不和が原因で
元亀4年に信長により幽閉され義父を頼り日野城へ逃亡
嫡子の関盛忠は天正2年の長島討伐で信孝や蒲生賢秀に従い従軍し討死。

織田信孝
信雄は長島滅亡後の天正3年信意に改名するまで
北畠家での支配実績がまったく書状で確認できない。
そのために織田家へ突っ返されていたとする見解もある。
神戸家での信孝はほとんど不明で、信雄以上に謎。

鹿伏兎豊前守宗心・神戸具盛・関盛信・蒲生定秀は反織田でつながっていた。
しかし義昭降伏と浅井・朝倉滅亡を契機に蒲生は織田へ鞍替えし関氏の嫡男も従う。


蒲生の織田からの離反の契機は元亀2年10月あたりからだな。
11/3付で穴山→蒲生賢秀宛に書状を出してるから。
その内容は信長には秘密裏に蒲生が馬が欲しいと言ってきたことに対する返礼で、
蒲生の望み通りの乗り心地の栗毛の馬を馳走してる。
また関東と越後と戦っているが伊豆と武蔵の過半が
信玄の本意になるのは疑いないと書いている点は、
11/7の書状で信玄が書いている内容と同じで、
10/3に氏康が死んだことを知った上で、再度の小田原攻撃を宣言し、
氏政を恫喝していたので12/17には北条が武田との和睦を受託していた。
またこの書状には文書には書けないことを柱蔵司に演説させるとも書いていて
武田の威勢に驚いた蒲生が、武田への急接近を始めている証拠となっている。


まー肝心の山岡氏がもう信長から離反開始だからね。そりゃ蒲生だって裏切るわな。


信長公記は山岡景隆が山岡家の惣領で
瀬田を支配していたように捏造してるけど、
実際は元亀3年7/18の山岡景祐(景友・暹慶)→飯川・曽我ら幕府側近宛てで
将軍が甲州へ送る使者の真下入道殿が此渡乗船之儀の仰せ付けのこと、
畏まって其の意を得候、
只今に限らず諸公・御衆・其外、下々に至るまで~と書いていて
明らかに瀬田の支配は山岡景祐なんだよね。
公記では景隆が瀬田を維持してたなどと捏造してるのが笑える。
そんなら天正元年には何で滋賀郡周辺で大苦戦してる光秀への援軍に柴田は陸路が使えず船で行かざるを得なくなってんだw
あきらかに瀬田大橋が織田軍の通行を許さなかったからだろw

完全に自演発狂しながら織田厨はデタラメを書き散らして喚いているな。

195:人間七七四年
14/07/06 12:03:26.23 yFSbH/Vo.net
二股城はあと3日中には落とせる予定です。
尾張の熱田からやってきた者が申すごとく
朝倉軍と信長が江北で戦い、尾張・美濃の者が数多討たれたとのことです。
これによって織田軍では大身の2人3人と越前への内通をしております。
これは自然なことでしょう。なお、事実である証明の使者を届けるので重ねてお聞きください。
徳川の田原表を水軍で焼き討ちしました。
あなたが出陣するときは何事でも秋山に相談ください。
こちらには御気遣いなく滞在してくださるのはもっともです。
息子の信昌殿や源次郎殿やその他の親類の歴々の方々が
こちらに在陣してくださる話がまとまり喜んでいます。
追伸ですが、こちらに蒲生殿が朝倉殿へ同意なされたとのこと。
この上はそちらにこの使者を届けさせますので、待っていてください。
山縣→奥平貞能宛て書状。

もう勝敗はついてるよ。
フロイスは日本史において、
初めて岐阜へ向かったときに
「信長の軍勢の総司令官である佐久間殿」を最初に訪問してる。
その後に「信長の最高の武将4人の中の一人である柴田」を訪問。

そして信玄は三方が原で織田軍総司令官佐久間を怯えさせて戦わずして勝ちを得ている。
謙信は織田軍総司令官の下にいる四天王の1一人である柴田を怯えさせ戦わずして勝ちを得てる。

孫子が主張する戦わずして勝ちを得る最高級の勝ち方を示している。

貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
上杉も天正3年軍役帳があるから兵・槍・手明・鉄砲・大小旗・馬の比率がちゃんとわかる。
織田とかデタラメで全然わからん(末期の明智はわかる)
利家や信盛とか蓄財に必死で兵をあまり雇わなかったようで、
足らん分だけ国人や与力などをコキ使って軍功上げてたようだし。
長篠直後ですら家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
武田軍は輪番制や村請、印判衆がいるので軍役衆は農業の暦に合わせて帰る必要が無い
北条は天正9年7月に前年に氏政が家督を氏直に譲渡したこともあり
軍役に関して記された改定着到之事を施行して
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで、
それまでの基準を改定し、軍役を課す基本台帳たる
着到帳も氏政から正式に渡されてる。
また翌月には段銭増分を設定し村郷の代官に納入を命じてる。
織田にはこんな内治政策などまったくない。
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していたのは 軍事関係者の間では高く評価されているが
中央で言えば、小牧長久手での秀吉が一番最初。
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込む戦争史の画期といえるもので
これを以って中世の軍隊との決別する新たなる公儀的軍隊編成となったとされている。
これにより、特定の戦争を想定し、自己の軍勢を最も効率的に配置し布陣することが徹底されることになる軍事革命である。
これが可能になる条件は徹底した検地を通じて軍役や普請役の統一的賦課基準を確立しなければならない。
いい加減丸投げ統治の信長には最後まで考えつくことはできなかった。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地 興福寺大乗院跡750石 興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。

196:人間七七四年
14/07/06 12:04:30.04 yFSbH/Vo.net
岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて
城主にしたことで信玄は怒っていた。それで11月には岩村城が武田に取り返され、11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。完全に信玄が情勢を操ってる。
遠山氏は一向宗の美濃安養寺や飛騨照蓮寺の影響を受け、西美濃は大垣を中心に湖北の湯次誓願寺や福勝寺の影響下にあった。
加治田(富加町)・津保(関市)・鉈尾(美濃市)を帰属させた信玄と伊勢門徒による岐阜城までわずか三里に新要害建設し日根野を入れたりと
美濃織田領国は崩壊前夜にあった。また信長方の反撃に対して3/6に信玄が秋山虎繁に東美濃へ出陣命令を下し
当代記によると信長の息子の御坊丸を甲府へ送ったとする。そしてこの時期において松原信之氏が著書で義景本人の元亀4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
同時に近江甲賀では武田信虎が義昭の命を奉じて軍勢を募り始めていた。
8/18三好義継と本願寺宗徒が信長配下の細川昭元が守る摂津中島城を攻める。
8/28松永久秀父子が上洛を目指し山城木津を攻める。
9月是月に信長が義昭を批判し異見十七箇条と出す。
朝倉が丁野山に要害を築くのに信長は邪魔することもできず城が完成する(総見記)
11月に信長は虎御前山砦から美濃へ逃走したので12月3日に朝倉は越前へ引く(年代記抄節)
ちなみに朝倉記には虎御前山砦に火をかけたと記されている。
12/20義継・久秀ら再度、昭元の中島城を攻める。
元亀4年(天正元年)
2/26信長が義昭に和睦を乞うた。
2/27義継、久秀らがまたまた昭元攻め、ついに昭元が堺に敗走(尋憲記)
3/6義昭が義継と久秀を赦し盟を結んだことを受けて
久秀が京に赴かんとし河内津田に進出(日本耶蘇会年報)
3/7義昭、信長の質子を斥け、之と絶つ(尋憲記)
3/11荒木村重、和田惟長の臣高山重友を誘ひ、惟長を其居城摂津高槻城に攻む、
惟長は山城伏見に敗走する(兼見卿記)
ちなみに3月の細川家記によると義昭が信長追討の御教書の下した先に謙信も含まれる。

197:人間七七四年
14/07/06 12:05:29.46 yFSbH/Vo.net
2/15久秀や岩倉の山本対馬、山中の磯貝、和邇の金蔵坊、勢多の山岡、田中の渡邊らが10日付で帰参。
静原に山本城を築いて織田に反抗する。
2/23筒井城の順慶が春日社参詣に3000人を引き連れてきたため
松永久通が警戒し小規模な衝突もあったようだ。
大神楽や神馬を奉納して成身院に宿泊後に筒井へ帰る。
2/23信長→細川宛で信長自身が信玄が去る17日に野田表から撤退したので、志賀の一揆蜂起について
蜂屋・柴田・丹羽を出征させ湖を渡らせる。成敗に手間がかかれば世間聞合なので
自分も近日中に佐和山へ出て上洛し畿内を平均すると述べている。
すでに湖経由でないと上撃烽ナきないほど近江戦線は崩壊してるのがわかる。
2/26義昭に同調し三井寺の光浄院暹慶ら西近江で挙兵し
柴田と明智が彼らの石山と堅田砦を破り西近江を平定すると
信長公記録は書くが、慈敬寺文書の顕如書状によると
2/14付けで慈敬寺が伊藤城を攻略し其の表の面々は此方一味であり
堅田まで属理運、還住由になったとして黄金三十両を進呈している。
小林吉長も2/17付けで堅田村の郷士達への書状で慈敬寺との入魂専要之旨と述べている。
2/27には顕如→信玄宛てで江州西路事、
此方當門家中慈敬寺以調略属本意候と書いている。
2/19の義昭書状でも山本対馬守・渡辺宮内少輔・磯貝新右衛門らまで
悉く取除、明智光秀は儀無正躰候、近邊大略属本意候と書いていて
(2/13における木戸表(大津市木戸)御働として光秀が革島忠宜へ感状を出してる)
近衛家文書の2/16長政→伊勢七郎左衛門宛てでも信玄が近日尾・濃に馬を進めるし、
当表之儀堅固だし、義景当月中に進発とし、志賀郡の儀は此方に加担しており
京衆合手し志賀之在所穴太放火候として長政が京衆と志賀郡まで出張してるのがわかる。
さらに越中勝興寺文書には2/26長政書状において、
志賀郡は自分の手に属したと述べ、東美濃の加治田、津保、鉈尾が信玄と申し談じて
甲州先勢が東美濃へ乱入すると述べている。
長政→穴山信君2/22書状でも志賀郡が自分に属したと述べ
2/24に革島宛てに光秀が明日から今堅田を攻めると書き
三月朔日で柴田が革島宛てに今堅田成敗申し付けと報告してる。
やはり明智軍(光秀は配下の18将を供養してる)は
戦力としては崩壊しているようで、主力は柴田が担っているようだ。
3/7の信長は伊丹により摂津において中島城の細川が堺へ敗走に続き
賀嶋城まで落ちて絶言語と動揺している。
3/18に義景が木戸城主佐野十乗坊秀方へ早船で加勢した
近江高島郡の多胡宗右衛門を褒めていて
3/13には下間頼充が馬場宛で今堅田に篭もっていた馬場親子が敵が取詰にきた時に一戦し粉骨したのを慈敬寺から
報告を受けたと戦功を感謝しているし
3/21には義景→馬場宛に敵が相働くも十乗坊に立て篭もり粉骨したのを賞している。
佐左馬要害と同等の価値あると言っている。
4/2には長政も馬場に木戸籠城を褒め称えていて、相次いで大勝利を褒めている。
この状況から見るに柴田ら織田軍は今堅田は何とか攻め落とせた可能性はあるが、
堅田村を一向宗側が取り込んでいるため無力化にはほど遠く、
しかも今堅田に続く十乗坊攻めでは逆に織田軍は大敗しているのがわかる。
また手間取ると外聞が悪いと気にするほど劣勢の信長は
信玄が帰ったし信長自身が出馬すると言いながらまったく出馬できないありさま。


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