【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】at SENGOKU
【河野・安芸】四国の戦国大名 その2【長宗我部】 - 暇つぶし2ch617:人間七七四年
15/12/29 17:34:22.16 R9pI3yDz.net
>>616
すまない。わかりません。

618:人間七七四年
15/12/31 14:56:31.71 eAQwv1fp.net
山内氏は、一介の地侍から土佐20万石を徳川将軍家から賜り、大きな恩がある。
土佐では、前の主君・長宗我部氏が一両具足という常備軍を作っている。一両具足は、長宗我部元親により百姓身分から武士階級に取り立てたことから、長宗我部氏への忠誠度が半端じゃない。
関ヶ原では国主・盛親が徳川方と一戦も交えることなく敗れた。そのため、盛親に対する処分は、斬首とするわけにもいかず、改易ととなった。盛親は一国の大名から突然、土地を持たない浪人として、京で隠居することになった。
家康は、関ヶ原で功労のあった山内氏に、国主が去り、空いた国となった土佐一国を賜る。しかし、忠義心半端ない一両具足達が本来の主君と奉ずる盛親が存命のまま、敵から強要された新たな主を素直に迎え入れるわけがない。
家康は、山内氏に土佐一国を与えたように見えて、同時に厄介な一両具足を押し付けたとも言える。
20万石もの領地を突然得ることになった山内氏は、土佐全土を治めるには明らかに家臣不足だった。そのため、城に仕える武士には主に譜代の家臣を用いて、これを上士とし、土佐山村部の支配には長宗我部からの武士を用いて、これを下士とした。
このため、土佐藩の武士は家系で上下の身分が定まり、上士は生涯上士、逆に下士は如何なる功があっても生涯下士のままという特有の制度が生まれた。
ただし、山内氏支配確立の過程で長宗我部氏の家臣ながら山内氏の支配を支持し、功績のあった武士には白札という事実上の上士階級が与えられた。
こうした経緯が後の世まで続く土佐の複雑な立場を形作る。

619:人間七七四年
16/01/05 17:45:07.25 RY7Ww6yZ.net
城仕えには主に少数の上士と白札が
山村の支配は、長宗我部からの武士である下士がそれぞれ任されていた。
しかし、江戸後期からは非生産階級である武士階級の財政もひっ迫し始め、
財ある地主や商人を養子に入れるなど、身分をカネで売るようなことが頻発した。
坂本龍馬の家系がこれに相当する。
長く支配階級だった武士は、商いなんていう、人に頭を下げて利益を得るような行為を毛嫌いしていたが、
下士階級だった坂本家は、上士だけを顧客に高利貸しを営んでいた。
上士が相手なら、いくら頭下げても恥じることはない。それどころか、秩序を重んじる武士らしい。
上士も江戸後期になれば、藩の財政事情が厳しい時は高利貸しの世話にならないとやっていけなかった。
藩に必要な財を調達して利益を得るなら、武士としても恥と感じるところはない。
これが明治の世になって生まれる政商の考え方の元になる。

620:人間七七四年
16/01/05 18:59:29.79 QSw35lSR.net
三好長慶を、人気作家に小説にしてもらい、花の慶次みたいに人気マンガにできたら徳島の文化が変わる。

621:人間七七四年
16/01/10 19:36:03.36 zR5wV1Js.net
十河の町起こししたいんだけどアイディア貰えんかな
板違いで申し訳ないけど、ここに来るような人が一番この話題に関心ありそうでアイディアも的を射そうかなって
十河の人たちは、その郷土に戦国大名がいたなんて知ってる人すら3%くらいのもので知名度もまったくないんだ
最近、十河の公民館に「戦国武将の町」って横断幕を掲げ出して俄かにアピールしだしたけど、まだまださっぱりだろう
天正10年から天正12年まで丸2年の籠城戦だった十河城の戦いとか、押し出したいところだけどあんま詳細に記録残ってないよね、戦記も
その時に城を守ってた十河隼人が実休の子の十河存保なのか、鬼十河の庶子の存之なのかすら誤記も多くてよくわかんないし
十河や前田の小学校で郷土史の授業やってて最近の子どもには多少は郷土の英雄を知る機会があるようだけどね
小説でも作ろうかと思っても、この籠城戦で戦果を挙げてるの十河側で前田甚之丞宗清と十河(池内)主殿助孝晴くらいかな、結局最後は開城だしね
鬼十河の活躍はほぼ畿内だし、
存保は秀吉の四国征伐の後に山田郡2万石に復してすぐ戸次川で戦死だし、司馬遼太郎さんの「夏草の賦」では長宗我部憎さに勝ち目のない仙石の渡河作戦に同意したことにされてるし、
存保の嫡子の千松丸は生駒親正に毒殺されて大名家としては廃絶だし、
存保の子とされてる存英は大坂の陣でそれまで匿ってくれてた宇喜多の軍に属して(と十河では言われてるけど、秀家出てこないから明石全登かな)落城後は尼崎で討死だし、
物語性に欠けるというか、まあこの辺は筆先ひとつなんだろうか
司馬さんの「十一番目の志士」みたいな手法も良さそう
どの方面から行くべきなんだろう
十河関係のお土産を開発するのか(ゆるキャラ路線とか?)
まず小説などのメディアで有名にするのか(まだ十河が主役の有名どころは海音寺潮五郎さんの「十河物語」くらいしかない)
JTBさんとかの旅行会社に頼んで十河のネタを仕込ませてもらうのか
市役所や県庁で援助頼むのか
まずもっと郷土史の資料を掘り起こすべきなんだろうか(出てくるのか?)
民間の有志の集まりは60代以上の人ばかりみたいだから、若手で興味ある人を探す必要もありそう
三好長慶は徐々に有名になりつつあるね
三好長慶会さんとか、最近よく本見る天野忠幸さんのおかげかえ
ただ劇的には展開できてないし、町起こしに有効策を打ててるかはクエスチョン
三好長慶会さんのHPはかなり有効な気はする
十河にこの手のページはないし
まずは三好にスポットライトが当たってからじゃないと十河まで光が届かんやろうか
長宗我部は元親も信親も戦国BASARAの影響なのか人気爆上がりだよね
十河もおこぼれに預かってるけどさ、、
宮下秀樹さんの「センゴク」ももうじき戸次川の戦いだし、戦国時代好きに十河存保の名前が売れるチャンスではあるか
でも三好三郎として出てるんだっけ
十河じゃなくて三好が売れそう

622:人間七七四年
16/01/10 20:45:54.93 N6XhJTvX.net
三好十河は諦めて篠原長房を宣伝しまくる

623:人間七七四年
16/01/11 13:08:54.34 5uC8YP9x.net
>>621
最低でも三好と十河で連携しないと駄目。
さらに
・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
・三好氏、十河氏のHP作成
ここまでは個人で出来る。
その後、
・十河氏子孫会の結成
・十河氏研究会の結成
・各家庭の史跡保護
・お土産開発
・政治家への陳情
・香川県・和歌山県の連携
・テレビ番組の誘致
・小説の執筆
・他県との連携(和歌山、大阪?)
ここまでがよくあるパターン。
その先は
・十河氏博物館の建設
・十河城の観光地化
・十河氏の菩提寺
で最低3箇所(1日分)のハードが揃わないと
観光地としての成功はしていないのが現状。

624:人間七七四年
16/02/10 05:08:49.95 ijhC9ro3.net
URLリンク(www.youtube.com)(パトカーサービス不足)
URLリンク(www.youtube.com)
URLリンク(www.youtube.com)
ニューヨーク従業員英産プルトニウムチャイニーズオージービーフステーキ(キッペイ武田

625:人間七七四年
16/04/10 20:02:38.96 7FkcP0YB.net
高知は長宗我部の中央政権への影響力や豊富な歴史資料と戦国ゲームの描かれ方に恵まれてる
愛媛は河野村上水軍の歴史と明治~現代に紡がれる歴史、風光明媚なしまなみ海道に恵まれてる
十河はあんまり聞かないけどね三好は結構アイデンティティ大事にしてる三好さんいるんだよ四国~関西
でも近畿圏の中央政権による排除に飲み込まれた感じあるしよく分かってないことも多い
子孫会の結成であったり魅力の発信は>>623と同じ意見

626:人間七七四年
16/04/19 03:03:52.35 yM8GD0Pi.net
返信大変遅くなって申し訳ないです。
622です。
>>622
また天野忠幸さんの新しい本出てて、三好一族と織田信長、っていうのね。
これ読んで篠原長房のことこれまでより詳しく知って、なるほどなかなか劇的だとは思ったんだけど、
三好長慶、義継、松永久秀あたりがいての篠原長房だとは感じたよ。
この本読んで自分の中で評価が上がったのが三好義継、松永久秀、篠原長房、三好長治、長宗我部元親。
松永久秀、全然不忠者じゃないね。
元親は最初からずっと信長に付いてたのね。
土佐物語とかの軍記でよく見かけた、切り取り次第~云々、のくだりは物語くさいと思ってたけど、
それ以外の実際の書簡や物品の遣り取りで念入りに友好関係築いていたのがよく分かった。
ほぼ四国制覇していたのも間違いないね。
それが秀吉のために土佐一国のみになり、秀吉の子の秀頼のために土佐すら失う没落っぷりはまさに悲劇。
逆に下がったのは羽柴秀吉かな。
讃岐山田郡二万石を十河存保にくれたけど、どうやら大名とは認めてなかったっぽい。
常に存保を十河孫六郎としか呼ばず、戸次川の戦いでは討死の後は十河家を改易したの、
後者はもちろん以前から知ってたけど改易は初めから秀吉の既定路線だったように感じる。
十河存保はプラマイゼロ。
一存は大体堺にいたの知ってたけど、存保もそうやったんやね。
十河家を継いでるのにほとんど三好姓ばかり名乗ってたみたいだなあ。
三好を継ごうとするなら一存の庶子で、母方不明だけどおそらく十河の人間を母に持つ十河存之に十河家を継がせて欲しかったよ。
十河としての売りがなくなるじゃない。
ここマイナス。
特にこの書籍で言及無かったけど、十河城は存之が城代で、存保は勝瑞から帰った後ずっと虎丸城で籠城してたんだなと思う。
存之が天正12年6月に十河城を脱出した後も、虎丸城がしばらく残っていたのは複数の一次資料があることからほぼ確信。
でもその後落城してるだろうね。
最近になって香川県埋蔵文化財センターのページに紹介されてるけど、発掘の結果土佐軍の改修の跡が見つかったようだし。
ここ若干プラス。
あと信長とはずっと敵対してたようだね。
どこかで三好咲岩とかに説得されて信長に服属してるんだと思ってたよ。
阿波・讃岐の国人の糾合や戦略も思っている以上に評価されるべきと思えるくらいには成果あったみたいだし。
ここの気骨ある感じはプラス。
どうでもいいとこでは土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)の「蠧」の字が、
「蠢」(うごめ・く、シュン)になってるところが4か所はあったのが気になったね。
少なくとも2か所は「蠧」の字だったのに。
著者さんは手書きで、編集さんか誰かが活字に起こしてるのだろうか。

627:人間七七四年
16/04/19 03:06:16.30 yM8GD0Pi.net
>>623
詳細にご返信くださり真に痛み入ります。
これだけの価値あるご回答への返事が遅くなり自責の念に堪えません。
> ・三好氏、十河氏関連史跡の観光MAP作成
> ・三好氏、十河氏のHP作成
三好氏、十河氏関連の史跡は実はあまり存じておりません。
地元にあんまりそういうの紹介されてないんだよね。
なかなか知れない。
だからこそ作ればいいってことでしょうけど、自分の持ってる情報だけじゃ全然不足してるんだ。
香川県の県立図書館の郷土史料は粗方漁ったんだけどね。勉学の傍ら8年ほど。
情報系の学科も出てるからHP作成は勉強すればどうにかなるかな。
今後どうやって情報収集するかが課題。
> ・十河氏子孫会の結成
これは実はあるんだ。十河同族会が昭和の時代から。
でも私が生まれてからは活動してるの見たことない。
うちは十河城のあったとこで、小字は城なんだよね。
昔は武者行列とかやってたみたいだけど。
会報も十何年止まってるだろう。香川県立図書館や国立国会図書館で初めて見た程度。
有効活用させていただくとして、今はどれだけのマンパワーが得られるかな。
> ・十河氏研究会の結成
これも、十河氏に限らず地元の研究してたり、史跡保護をしてる団体が複数あるんだ。
勧誘していただいたこともある。
私が県外就職してしまったので残念がられましたが。
70-90歳くらいのお爺様がたなので電話でアポ取るのも大変で、
メールをできる人に会ったことがないです。
地元に帰るタイミングじゃないと交流が難しそう。
三好長慶会はIT化されててメールで遣り取りできるのに。
> ・各家庭の史跡保護
これに就きましては十河城跡の周囲だけでもなかなか、なかなか。。
言い伝えはほぼ消滅してまして、史跡だったのに処分されてしまったパターンをいくつか知ってます。
2代前までは言い伝えられてたはずの家が今は何も伝承されてなかったり。。
うちも古文書で残ってなかったら消滅してた。親戚の誰も内容わかってなかったし。
ここ実は急務かもね。
古文書は活字で残しましょう。内容は失われないようにネットの海に撒きましょう。
と研究者としては言いたいところだけど、伝えてきた家としては共有財産にしたくはないんだろうなあ。
家系図とか特に。十河氏の系図も群書類従のしか公開されてないし、植田家譜、前田家譜はどこにある。
史跡のことを知っている人がいないから守れないっていう負のスパイラルもあります。
知っている人に情報の供出を促す、情報を出しやすくする仕組み作りが必要かもしれない。
そしてその仕組みそのものに知名度がなければ、その仕組みが利用されることはないんだよね。
> ・お土産開発
この辺りしようとすると組織で運用する必要があるかな。
鬼十河饅頭。月代を頭の後ろまで剃ったスタイルのデザイン。うん普通の饅頭じゃないかなこれ。
資金調達は最近はやりのクラウドファンディングでしょうか。
若輩の身では自己資産の捻出は高が知れてるもの。
もう少しで定年って人なら資産運用や年金とか、
人生のノウハウなんかを利用して趣味でできそうだけど、定年までまだ40年あるし。
組織の持続的運用には継続的な収入がいる訳で、
法人化するなら企業勤めのままじゃ社規違反で懲戒になりそうだね。
この年明けからの長期出張中に簿記2級の勉強して2月末に受けてみたけど試験難しかったです。
教科書レベルの基礎的は内容は把握できたけど、今後もし機会があっても財務会計は専門家に任せよう。。

628:人間七七四年
16/04/19 03:08:40.05 yM8GD0Pi.net
> ・政治家への陳情
現職じゃないけど元市議会議長が十河にいて、
同窓に孫がいて昔何度か遊びに行ったこともあるという伝手もあるし、手がなくはないかな。
コネがなくても、郷土振興は市の利するところでしょうし、市民の望むところでしょう。
十分な活動をして行動力を示し、説得力を上げた後にはこの一手だろうね。
> ・香川県・和歌山県の連携
和歌山県と連携できる点はどこなのでしょう。
県外、特に四国外の歴史には疎くて申し訳ないです。
本願寺や、篠原長房の子の松満が逃げ込んだ絡みでしょうか。
三好氏流十河氏を称する一族が代々紀州の寺の住職か何かをやっていたような気もします。
> ・テレビ番組の誘致
> ・小説の執筆
テレビで放送して反響を期待できるレベルまで行けば小説を書く方も出てくるでしょうね。
地元放送局のリポータにも親しい友人がいるので、継続的に活動できれば企画も組んでくれそう。
> ・他県との連携(和歌山、大阪?)
十河歴史資料館の十河さんは、高知県の長宗我部祭や大分県の大野川合戦祭には毎年参加されてるけど、
徳島や大阪での活動は聞いたことないね。
長慶会さんとはお知り合いのよう。
十河さんからは長慶会さんを、長慶会さんからは十河さんを紹介されたので。
少なくとも徳島では三好十河関連で何かはしてるんだろうなあ。
でも大阪は何かご存知でしょうか?
今大阪に住んでるんだけどね。出張でほとんどいなくて、今も出張先からコメントしてますが。
> ・十河氏博物館の建設
これは十河歴史資料館の拡充のことだね。
古文書をネットで仕入れて読んでみて、関係ありそうなものは寄付したりしてるけど、
まだまだ所蔵点数が微々たるものだ。先は長そう。
展示物は研究家さんたちの研究成果が多いし。
> ・十河城の観光地化
これは、うーん、生駒氏が移してきた称念寺が本丸跡に建って400年経ってるんだよね。今は墓石も無数に。
縄張りに就いては江戸時代の東十川村の庄屋の池内武存が遺してる図があるし、
棚田や水路や池が往時を残してるらしいのでそれっぽくはできるのかな。
ここが土塁で、ここが大手門で、ここが北門、ここが長宗我部親政の陣所、とかって。
> ・十河氏の菩提寺
そういや十河氏の菩提寺ってどこだっけ。
称念寺は生駒氏が十河家の怨念を鎮めるために移築したもので菩提寺じゃなかったはず。
北東450mくらいのとこにある朔方寺もできたの1580-90年くらいで西本願寺系列かなんかだっけ。
十河の分家らしい池内武存の墓は朔方寺境内にあったけど、十河姓の檀家は1つしかなかったような。
三好氏から嗣子が入った前後で菩提寺も替わってそうな気はするけど。
これは次帰った時に調べよう。
技術職やってると平素忙しすぎて帰りも遅く、夜中寝る間を惜しんで勉強するしかないってのが大変。
今後海外出張もあると思うと今の仕事しながらでは首突っ込む程度で、町興しを主動するのは無理なのだろうか。

629:人間七七四年
16/04/19 03:18:23.24 yM8GD0Pi.net
>>624
土佐は言わずもがなだよね。長宗我部元親も坂本龍馬もあるもん。
伊豫も河野氏や西園寺氏はもちろん、海には村上水軍や日本総鎮守の大山祇神社の鶴姫伝説もある。
秋山好古や真之、正岡子規は司馬遼太郎さんに坂の上の雲で描かれてるし、羨ましい限り。
阿波も古代最大級の穀倉地帯か集落かの遺跡がここ1,2年内くらいに出てきてたような
阿波忌部氏は四国の歴史の曙だし、三好氏の本領あるしで前面に押し出せるとこいっぱいあるよね。
隣の芝生は青いのか、讃岐はヤマトタケル伝説、大明法家讃岐永直、弘法大使佐伯真魚というか空海、
源平屋島合戦、応仁の乱(細川方、舞台は京都だけど)、あとは十河氏、
うーんと水戸光圀の兄の松平頼重から始まる讃岐松平家、金刀比羅宮、平賀源内に、菊池寛、壺井栄、、。
ああここ四国の戦国大名板だし、やっぱ応仁の乱と十河氏くらいしかないのかな。
ヤマトタケルの弟の神櫛王の家系で、奈良時代には讃岐永直を介して連なる十河氏ならちょっとは絡めさせられるかも。
羽床氏や香西氏は祖の藤原章隆の母方が、ヤマトタケルの息子の武殻王の後裔氏族の綾氏だし。
香川は戦国時代もまとまりなかったから、全体を巻き込む方向がよさそうなんかな。

630:人間七七四年
16/04/19 03:19:13.54 yM8GD0Pi.net
先のコメント >>625 でした。ごめんなさい。

631:人間七七四年
16/04/23 08:35:58.92 VrlY6kXf.net
伊予の人ごめんね
マジゴメン
爺さんに聞いたら、なんと俺の家系は戸田勝隆の家臣兼親族の戸田豊前守重治って人の子孫らしい

632:人間七七四年
16/05/01 15:17:13.95 Py9oMGle.net
祭には早いが、初めて岡豊城に行ったわ。
なんつーか、関東平野にざらにある山城と変わらんな。
こんな小領主が四国統一しようとしてたのか。
一方、浦戸、長浜まで行くと完全に漁師町の雰囲気だな。
土佐は、山と海両方揃った南国の地でした。

633:人間七七四年
16/05/03 11:23:09.86 KBPVU1vl.net
大名じゃないけど吉田政重は過小評価だと思う

634:人間七七四年
16/05/03 13:33:38.63 LNvQ9i9N.net
>>628
なんで和歌山なんだろう?全く思い出せない。
十河一存の足跡で考えるなら岸和田城だよねぇ。
子孫会や研究会は消滅する前に史料を回収しないといけない。
でもネットで拡散してしまうのもよくない。
会報にして売るのが保存、継続に繋がって、最終的に皆の利益になると思う。

635:人間七七四年
16/05/29 21:33:58.94 LEGDxyrT.net
長宗我部遺臣末裔の土佐藩上士って吉田氏、谷氏、本山氏、吉松氏、明神氏、
横山氏、高島氏、中山氏(中山田氏←香宗我部氏)、馬場氏、町氏、
植木氏(正確には津野遺臣末裔)、上村氏(上林氏だったかな?)、志和氏、ぐらい?
鹿持氏、平井収二郎の家、武市半平太みたいに下士や白札から新留守居や留守居に
昇格した家は別として

636:人間七七四年
16/05/30 21:24:29.88 Z8AD0xKC.net
>>589
負け戦というのが氷見高尾城の籠城戦の事だったら
言い伝えなど、聞いてる事を教えてくれると有り難いんだけど…

637:人間七七四年
16/06/03 15:44:43.08 H7vXFhQy.net
>>635
直参は必然的に山内直轄地の中の家になるから県中央部の家になるんじゃないかな。地理的な部分が大きいと思うよ。中央部から離れたとこの家だと家老の封地になるから陪臣=郷士になるし。


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