雑賀衆・根来衆at SENGOKU
雑賀衆・根来衆 - 暇つぶし2ch316:人間七七四年
10/08/24 16:05:37 iU/HgBBq.net
つづき

この孫一の転向にはいくつかの複雑な事情がからんでいて、
その一つに十ヶ郷・雑賀荘の二郷の雑賀衆の中心人物として
古くから雑賀衆や根来衆を率いてきた土橋若大夫(平次守重)
との確執がある。

土橋若大夫は、最後まで信長との徹底抗戦を唱えた反信長派の
顕如の息子・教如に賛同したため、親信長の顕如に従う鈴木孫一と
対立した、というのが一般的な見方であるけど、この対立の奥底には、
雑賀衆での主導権争いの可能性が十分考えられる。
(実際、それを察した顕如は、その後幾度か両人を諌めたりしている)

またこの二人、これまた複雑なことに、実はかなり近しい相婿関係で、
孫一の嫁は土橋若大夫の娘ないし妹、或いは土橋氏の氏族、福島村の
藤木氏(歴史研究家の藤木久志の先祖の家)の娘といわれており、
孫一の姉妹たちも、それぞれ土橋若大夫の息子や弟に嫁に入っている
という間柄で、次第に深まる二人の対立は、共闘と離反を繰り返す、
雑賀衆の人間関係の複雑さと気質、性質を象徴する代表的事例でもある。

そんな鈴木孫一と土橋若大夫の対立の激化の結末が、
天正十年(1582)一月に起きた鈴木孫一とその一党(土橋一族の一部)
による雑賀衆の反信長派の頭目・土橋若大夫殺害事件。
(実際には、土橋若大夫を切腹に追いやったという)

この事件の翌日、孫一は泉州の織田勢を紀州に招きいれ、
親信長派として土橋氏や湊衆、根来を攻撃してこれを破り、
反信長派の多くを紀州から追い出して、織田勢と共に雑賀荘を掌握する
(この時、孫一と共に織田勢と戦い続けた弟の鈴木孫六や佐武伊賀守、
的場源四郎といった面々は、 孫一が招き入れた織田勢や孫一の手勢と
戦ったことになる)が、 天正十年(1582)6月に起こった本能寺の変で、
信長が横死すると孫一の立場は逆転して、反信長派の雑賀衆・根来衆の
反撃にあい、紀州を追われて泉州の織田信張、次いで秀吉の元に身を寄せた。

その後の孫一の動向は、どうも秀吉の家臣になったようだが、実際は
食客のような扱いだったようで、一応秀吉の鉄砲頭という記録も
残っているが、名ばかりの名誉職みたいなものだったのかもしれない。
ただ、秀吉からはかなり気に入られていたらしい。
もしかすると重秀の「秀」は、このときに秀吉から拝領された
可能性も考えられる。
(孫一の実名の候補に、重元、重治、重行というのもあって、秀吉に
仕えて秀を拝領し、重秀となった…かもしれない)

最後に孫一が歴史の表舞台に登場するのは、天正十三年(1585)三月の
秀吉の紀州攻めで、多くの雑賀衆・根来衆が最後に立て篭もった
宮郷の太田城に、孫一は降伏勧告の使者として秀吉方の中村一氏と共に
太田城に参じて降伏を促したが、断られている。

この降伏勧告は、顕如や秀吉からずいぶんお願いされて、孫一も
しぶしぶ承知したらしいが、どうもこのとき、案の定というか、
太田城に篭った顔馴染みや秀吉勢と戦った紀州勢や同門の鈴木氏、
土橋氏から、だいぶ反感を買ったらしく、その後孫一は結局紀州に
帰ることなく没したと思われます。

このように鈴木孫一は、一貫して反信長、反秀吉だった大部分の
雑賀衆や鈴木一族に反して、かなり特異な行動とっていた人物。



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