09/09/09 08:36:54 d8UjdyOG.net
>>283
ありがとうございます。
これで雑賀衆・根来衆に興味を持ってもらえれば。
湊衆の話にちなんで、もうひとつ。
前述の『昔阿波物語』(十河氏に仕えた二鬼島道智の作)に、
雑賀党の湊衆を指して「紀州の者は土佐前を船に乗り、
さつまあきない計仕る」とあって、雑賀の人々は、当時対明貿易の
拠点だった薩摩坊ノ津あたりまで活発に交易していたことが
知られている。実際、根来衆の津田監物算長も、この交易によって
種子島に向かい、鉄砲を持ち帰ったことが知られているが、
その中にはさらに中国や琉球、朝鮮やフィリピンやマラッカまで
到達した紀州の集団もあったようで、明代後期に鄭若曾が倭寇の
事件を細かく記した『籌海図編』には後期倭寇の拠点であった
福建月港や浙江双嶼港に入港、あるいは居住していた生粋の倭寇、
つまり日本人たち(主に薩摩、大隈、肥前の人々)の中に
「乞奴苦芸(きのくに・紀伊国)の人もしばしば入寇する」と
記されていて、雑賀衆の海上での活動範囲は国内だけではなく、
かなり広域だったことがわかっている。
ここで重要なのは、雑賀衆・根来衆は対明貿易や海外貿易を行った
ほかの大名(たとえば薩摩の島津氏や周防の大内氏)と違い、
緩やかな地縁の武力集団、かつ紛争著しい惣国の中で、この貿易を長く
行っていたということ。
これは、紀伊北部の雑賀衆・根来衆が、戦国時代でもかなり異質な
マージナルマン(境界を超えた人々、主に海洋民族に使われる用語)
的素養を多分に持っていて、そういう要素を含む集団のために、
一部は深く宗教に帰依してつながりを保ったり、かと思えば
宗教の戒律を無視して寺領の坊院に子弟を送り、田畑や加地子
(在地の租税や年貢)を蓄えて、鉄砲をいち早く所有し、
損得勘定の戦を雑賀荘内外で行ったり、惣内でも共闘したり
争ったりする、稀有な集団に形成されていったと思う。