08/04/02 05:39:35 7Fz6jVxV.net
>>154>>155
湯川氏は室町期からの畠山氏の重臣で、紀伊中部において大きな勢力を有していたことが知られている
(おそらく当時の紀伊では最大の在地勢力であり、その軍事力は畠山家中でも有数のものだったようである)
そのため、近隣の国人衆よりは上の位置にいることが多かったと思われる
で、この湯川直春起請文が書かれた時期だが、
永禄5年(1562年)7月と言われており、これは先代湯川直光が河内で戦死した少し後
つまり、この起請文は湯川氏の代替わりにおいて、近隣の国人衆が湯川氏とのこれまでの関係を再確認するために作られたと予想される
そう考えるなら、当時の紀伊の一部地域では湯川氏を中心として、ゆるい国人の連合体が構築されていたのではないかと思われる
まあ、起請文を直接現代語訳したわけじゃないんで外してるだろうけど