雑賀衆・根来衆at SENGOKU
雑賀衆・根来衆 - 暇つぶし2ch150:人間七七四年
08/03/17 02:14:23 x1KC1jTL.net
IDも文体から感じられるものも違うし、そんな事ないんじゃね?

151:人間七七四年
08/03/17 03:07:11 sQOlcXHT.net
>>149
ほのぼのと展開しているスレに文句言っちゃいけない。

152:人間七七四年
08/03/17 04:25:12 5u2qQoIZ.net
結構面白いよ。このスレ。

153:人間七七四年
08/03/18 03:33:59 bPnXCEWH.net
>>147
とりあえず交戦した相手方のことにも触れておかないと。

154:人間七七四年
08/03/25 17:58:12 gWh77d1t.net
湯川直春起請文について教えてください


155:人間七七四年
08/03/31 13:26:34 usFVN9UX.net
あれは湯川のが立場は上なのかな

156:人間七七四年
08/04/02 05:39:35 7Fz6jVxV.net
>>154>>155
湯川氏は室町期からの畠山氏の重臣で、紀伊中部において大きな勢力を有していたことが知られている
(おそらく当時の紀伊では最大の在地勢力であり、その軍事力は畠山家中でも有数のものだったようである)
そのため、近隣の国人衆よりは上の位置にいることが多かったと思われる

で、この湯川直春起請文が書かれた時期だが、
永禄5年(1562年)7月と言われており、これは先代湯川直光が河内で戦死した少し後
つまり、この起請文は湯川氏の代替わりにおいて、近隣の国人衆が湯川氏とのこれまでの関係を再確認するために作られたと予想される
そう考えるなら、当時の紀伊の一部地域では湯川氏を中心として、ゆるい国人の連合体が構築されていたのではないかと思われる

まあ、起請文を直接現代語訳したわけじゃないんで外してるだろうけど

157:人間七七四年
08/04/02 21:33:13 6fdW78Xl.net
確かにそのようですね。
雑賀衆との関係も連合であったり時には敵対したりと、その時々で変化していますよね。
156さんのおっしゃられるように、あくまでも「ゆるい」連合体であった事が察せられます。

158:人間七七四年
08/04/04 18:40:26 XN95Pa1S.net
>>156
なるほどなるほど
あれは国人領主さんたちへのご挨拶状みたいなものか

159:人間七七四年
08/04/06 01:24:40 d1X/9FpN.net
【信長の】雑賀孫市スレッド【天敵】
スレリンク(history板:32番)

こんな人が来てるんだけど誰か相手してやってくれ

160:人間七七四年
08/04/06 03:00:19 dmK8cQn2.net
信長の野望の1582年のシナリオだと
機内は信長に制圧されてるのに、こいつだけ大名家として生き残ってて
雑賀すげえ!って思ってたな

161:人間七七四年
08/04/06 04:50:57 1vqTw7+A.net
そろそろ紀伊もあぶねーて頃に本能時で信長死んでくれたからね。
まあ結局秀吉にやられるけど

162:人間七七四年
08/04/06 11:47:58 iZoGpDVZ.net
>>160
夢を壊すのはなんだが
本能寺の変直前の鈴木孫一は親信長派です
天正十年初めに信長から織田信張の援軍を得た鈴木孫一は反信長派の土橋兄弟を
破り放逐して雑賀衆を統一
鈴木孫一ら雑賀衆は織田信孝の四国渡海に水軍と陸兵千で支援する予定だった

一方、逃れた反信長派の土橋一族の土橋平尉らは長宗我部元親の軍に加わり、勝
端城を攻めている

本能寺の変で動揺した孫一は翌六月三日に岸和田城に逃れ、織田信張の庇護下に
入った

163:人間七七四年
08/04/09 14:00:31 jEI5y+5L.net
根来寺の新史料を一堂に 和歌山県立博物館で企画展
2008.4.9 03:04

根来寺(和歌山県岩出市)周辺で約30年にわたって行われていた発掘調査を受け、
新たに見つかった史料などを集めた企画展「根来寺の今と昔」が、和歌山市吹上の
和歌山県立博物館で開催されている。20日まで。

根来寺延命院の僧侶が土地の売買をしていたことを表す紀の川市の極楽寺に伝わ
る戦国時代の文書や、根来寺旧境内で発掘された延命院の名を記した漆器椀、2石
(361リットル)入りの備前焼の大甕(おおがめ)が展示されている。根来寺大塔と同
じ藤原時吉の銘が入った戦国時代の鬼瓦や土蔵の遺構から見つかった約430年前
の金山寺みそも披露されている。

このほか、旧境内の菩提院や閼伽井(あかい)坊があったと思われる場所から発見さ
れた、あまり出土例がない中国・元時代の植木鉢など計86点が展示されている。

入館料は一般260円、大学生150円、高校生以下と65歳以上の高齢者は無料。
月曜休館。問い合わせは県立博物館((電)073・***・****)へ。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)

164:人間七七四年
08/04/09 18:14:42 XaF+1bL5.net
鉄砲伝来前は根来は僧兵集団で雑賀は水軍?

165:人間七七四年
08/04/10 01:39:00 itoOPhed.net
>>164
以前にも記しましたが、水軍といっても単なる「海賊衆」ではなく、
「さつまあきない」といって土佐沖を抜けて薩摩と往来していた貿易商人です。
当時の薩摩は対明貿易の中心地の一つで、中間交易だけでなく、時として
明国へ直接渡って交易していた事も確認されています。
これに従事していたのは所謂「雑賀衆」の五荘郷のうちでも、海側に位置した
雑賀庄の湊・雑賀・岡と十ヶ郷の松江・加太あたりです。彼らはもちろん漁業も
生業としていたようです。
対して、内陸部の三組(宮郷・中郷・南郷)は比較的に土地が肥えていたので
農業が主な生業だったようですね。
これらについても先述していますので、ご参照下さいね。

166:人間七七四年
08/04/10 09:09:02 gavwrITD.net
他でも言ったが水軍と言う名称は江戸中期以降に作られた物
この時代船を使う兵士は全て海賊と呼ぶ
海賊全員が略奪を生業としていたわけじゃない

167:165
08/04/11 00:17:39 +UpeDn00.net
>>166
ご指摘ありがとうございます。
それは承知の上での発言ですよ。
ただ、昨今は水軍という呼称が定着している感があったので
一般の方々にも判り易いように敢えて使用しました。

168:人間七七四年
08/04/18 21:35:12 YKWtYPY9.net
>>167
日本史板の孫市スレにも来てくれって・・・

169:165
08/04/19 01:53:57 y3UknymM.net
>>168
私如きが伺ってもよいのでしょうか?

170:165
08/04/19 01:57:59 y3UknymM.net
>>168
連投ですみませんw
挨拶にはお伺いしておきました。
今後ともよろしくお願いいたします!

171:人間七七四年
08/05/05 09:43:43 yebmMbTG.net
ゲームなんかで1585年の秀吉の紀州侵攻時に根来衆を勢力として出すとしたら
当主は誰に相応しいでしょうか?
津田監物照算?

172:人間七七四年
08/05/05 10:01:03 yebmMbTG.net
あ、あと
雑賀衆が傭兵家業みたいな事や
貿易に携わっていて海賊(水軍)を保有していたのは
このスレでわかったんですが、根来衆の方はどうだったんでしょうか?
そういう傭兵業みたいなことで各地へ兵を派遣したり
海運関係の利益はあったのでしょうか?

173:人間七七四年
08/05/05 10:11:15 yebmMbTG.net
まとめて質問できずに申し訳ないです。あと1つ。
本能寺の変直後の

根来衆・雑賀衆・鷺森の本願寺の関係はどのような感じだったのでしょうか?
雑賀も根来も、それぞれ諸勢力の集合体なので全体として動きはまとまっていなかったとは思うのですが
おおよそ、どのような関係であったのか?というのを知りたいです。

雑賀・本願寺-根来 敵対
雑賀-本願寺 友好

こんな感じですか?

あと、これらの勢力は本能寺後、光秀・秀吉らの戦いにどのように関わったのでしょうか?
すぐ傍には信孝・丹羽の軍勢や大和の筒井氏などがいたと思うのですが。
積極的にどこかの勢力に属したのでしょうか?それとも静観?

174:人間七七四年
08/05/05 15:58:07 fMPBhASQ.net
根来衆は今の岩出・泉南・阪南・粉河・泉佐野方面に多くの末寺を保有していました。
ほとんどの寺が城門、石垣に匹敵する堅固な砦の様式で築かれ要衝として機能していましたので、
味方する勢力に前線基地として寺の使用を許可し、
場合によっては僧兵もレンタルのような形で傭兵業を営んでいました。
敷地利用に付随する形での傭兵業なので派遣地域も自ずと自勢力内に限られていました。

海運収益は紀ノ川水域の内水系、現在の岬町付近を拠点とする外水系両方で莫大な利益をあげていました。

175:人間七七四年
08/05/06 00:48:24 nei18VZl.net
>>171-173
171のご質問に関しては根来衆という形態も手伝って諸説あり断定はできないようですね。
また172に関しては174さんが的確にご回答されていらっしゃいますので割愛いたします。

ご存知のように根来衆とは僧徒らの集団ですが、根来寺僧徒には学問・儀式を司る学侶と
寺の管理や防衛に当る行人(ぎょうにん)とがあり、僧兵となったのは主に行人でした。
彼らは○○坊と呼称される多くの子院に属していましたが、これら子院のほとんどが近隣の
土豪とかなり密接な関係を持っていたようです。例えば特定の家から子院の門主を送り込む
事も多く、泉職坊の門主などは代々が雑賀の土橋家から出ています。また古書類を見ると
根来衆が雑賀衆に加勢したとか、鈴木孫一の従兄弟が根来衆の有力者だったという記事も
見えます。
このように人的には深い関係があっても、新義真言宗の根来衆ですから一向一揆など起こす
訳もありません。石山合戦では全てとはいえないまでも信長方として雑賀衆と戦っていますよね。
石山合戦中に雑賀衆は分裂、信長の雑賀攻めにより鈴木孫一は降伏。本願寺は門徒を中心に
雑賀一向衆を再編するも、信長と講和、鷺森に移りますが、一向一揆を指導する事はなかった
ようですね。
この頃には根来衆は信長の家臣化していたようです。降伏した鈴木孫一は信長に急速に接近
していったようで、そういう観点からすれば根来衆とは同じ陣営に属してはいますよね。
ただ、おっしゃる通り「集合体」ですので、複雑な関係ではあったようです。
領地問題から、あるいは反信長の土佐長宗我部氏と通じた為か鈴木孫一は同じ雑賀衆の
土橋氏を暗殺していますが、この時には本願寺顕如が必死に説得しているようです。また、
土橋氏の縁者である根来寺泉識坊も討ち取っています。このあたりが雑賀衆・根来衆ともに
複雑な内部事情ですよね。
反信長派を一掃、雑賀衆の支配者として四国攻めの兵船を調達。そこに本能寺の変です。
鈴木孫一は雑賀から脱してしまい、土橋氏が再び実権を握ります。
この頃には雑賀衆は根来衆とも結んで和泉国へも積極的に進出していたようで、これが
秀吉との対立を生み、紀州攻めの要因ともなっていますよね。
私の知る限りでは、この間、信長の「弔い合戦」の為に組織的に動いた形跡も特にないように
見受けられます。地域土豪集団の常として、共通の外敵の出現には連合して戦いつつも内部
においては闘争も繰り返す。多分に漏れず、彼らとてそのような感が否めません。

長々と述べた割には内容が薄くて申し訳ありません。
また、本能寺の変前後の彼らの動きについて更にご存知の方、ご教授いただけましたら
幸いです。

176:人間七七四年
08/05/06 09:20:54 qDgfbdv0.net
>>174-175
ありがとうございます。大変参考になりました。
とりあえず根来の傭兵活動、経済活動、
及び、信長死去直前までの両陣営の動きはだいたいわかりました。
>>175さんの私見を参考にすると、両者とも
特に本能寺後に、積極的に明智・羽柴に属して合戦を行ったということはなく
内部抗争・様子見・空白地帯への侵攻、そんな感じだったんですかね?

177:人間七七四年
08/05/06 11:30:56 qDgfbdv0.net
すみません、追加で。
wikiなどを見ると
>本能寺の変によって信長が横死すると孫一は羽柴秀吉のもとに逃亡し、土橋派が主導権を握る。
とあるのですが
一方で、鈴木重意(佐太夫)が、1585年の紀州侵攻で抵抗して騙まし討ちされた、ともあります。
雑賀衆というか「鈴木氏」についての質問なのですが
彼らは本能寺以後、どういう行動を取っていたのでしょうか?
一度は秀吉(信孝)の領内に庇護を求めて逃げ込んでおいて
後に秀吉に抵抗して討伐されている。
いまいち、秀吉に対してどういう対応を取っていたのか
どこを拠点にしていたのかがわかりません。
(拠点を失い秀吉支領内にいたのか?雑賀に確固たる拠点を置いていたのか?)

また、鈴木氏が一度雑賀で勢力を失って
「土橋派」が勢力を盛り返していたようですが
この「土橋派」には、どのような人物が入っていたのでしょうか?
鈴木氏衰退後?の雑賀衆を率いた人物にはどのような人がいたのでしょうか?
太田党とかの事なんですかね?

178:人間七七四年
08/05/06 12:11:53 wRyOeG3Y.net
別回答者登場

>>177
そこらへんはいかんせん雑賀衆等の記録がなかったり、うさんくさかったりで
正確なところがはっきりしてないところが多いために断言が難しいところではあります

まず本能寺後ですが、分裂状態ではあるものの、基本的に主流であったのは太田党や雑賀郷土橋氏であり、
土橋家では明智光秀との書状のやりとりがあったことから比較的光秀よりの立ち位置を取っており、
また、長宗我部家と共同歩調をとり、讃岐への出兵の記録もあるようです
さらに秀吉は根来衆らが和泉や紀伊に持つ権益を認めなかったこともあり、
根来衆や雑賀衆は反秀吉的性質が強かったと予想されます
ただ、秀吉の視線が基本的に東を向いていたこともあり、比較的緊張した不戦状態に近かったかと思います

しかし、小牧・長久手の前後になると家康の誘いもあり、雑賀・根来衆は明確に家康方につき、
秀吉勢を後方から牽制、大阪周辺まで兵を進めたと言われています
で、その小牧・長久手が予想以上に早く終結すると、秀吉は後方を攪乱できる位置にある紀州の重要性から
紀州討伐へと動くわけです

179:人間七七四年
08/05/06 12:25:09 wRyOeG3Y.net
続き

で、鈴木家ですが、まず著名な孫市(一)、これが問題になります
というのは孫市というのは雑賀鈴木家の人物の多くが名乗った名乗りであり、
そもそも孫市が全て同一人物であるという考え方をまず捨てる必要があります

で、本能寺後の鈴木家ですが、基本的に紀伊に残ったのが大勢かと思われます
というのも、紀州討伐の際に雑賀城にこもった雑賀衆の中に鈴木姓が複数見られるからです
(ちなみにこの雑賀城は鈴木左兵ヱ、鈴木孫六(重意の子と言われている)らが本願寺顕如からの書状を受け開城した)
なので鈴木家全体が親秀吉派であったということが一つの間違いであるのかもしれません

180:人間七七四年
08/05/06 12:27:51 wRyOeG3Y.net
さらに続き

で、お次は土橋氏ですが、土橋氏は雑賀荘の中核をなす家の一つであると同時に、
根来寺との関わりが非常に深く、結果として土橋家は
比較的一向衆徒の多かった雑賀荘・十ヶ郷と根来寺及びそれに近い残りの雑賀衆を結びつける橋渡し的存在であったようです
その性質故か、石山合戦の際も本願寺支援に積極的であった鈴木家とは行動を別にしていたようです
逆に雑賀討伐、石山退去後になると鈴木家が親信長派に近く、土橋家は反信長派となり対立、
雑賀勢によって土橋若太夫が殺害されています

その後本能寺の変が起こり鈴木家の勢力が後退すると、土橋家は太田党や根来衆と行動をともにするようになります
おそらくこのころの土橋家は土橋若太夫の子土橋平次郎(守重?)が中心であったと予想されます

181:人間七七四年
08/05/06 12:42:29 wRyOeG3Y.net
これで最後

最後に本能寺後の雑賀衆ですが、
基本的にその中枢を占めたのは太田党と言われる宮郷の太田城主太田氏を中心とする親根来勢力であったようです
(元々、宮・中・南郷の三郷は根来寺との繋がりが強い)
その中心にいたのが太田左近という人物で紀州討伐では太田城で最後まで抵抗、最終的には切腹し、没落しています

さて、紀州討伐後の雑賀勢力ですが、
鈴木家は秀吉に仕えていた孫市だけでなく、雑賀城を早々に開城した鈴木孫六は所領を得て
秀吉の統治下に納まり、関ヶ原後は鈴木重秀(朝)の流れが水戸徳川家に仕えるなど後世にその名を継いでいったことがわかります
一方、土橋家は紀州討伐で強く抵抗した結果、土橋平次郎は太田城で討ち死に、
その他の一族のほとんども戦死もしくは帰農と武士としては後世に残らなかったようです
その他でも紀州討伐で強く抵抗した勢力はほとんどが没落し、帰農なり国外へ移るなどがあったものと予想されます
というのは日前国懸両神宮の神職を勤める紀氏すら一時は零落というほどの処置が行われたことから
基本的に中世紀伊北部の勢力・統治構造を完全に破壊するほどの後処理が行われたと予想されるためです

182:人間七七四年
08/05/06 12:57:27 qDgfbdv0.net
ふむふむ。参考になります。
じゃあ、実際は本能寺後に雑賀で実権を握っていたのは
根来寄りの土橋氏や太田氏であり、
鈴木氏がリーダーシップを取ってはいなかった、という事で
おおよその情勢把握は良いんですかね?
一部、そのまま残った鈴木一族もいたけども、と。
よくゲームなんかでは、鈴木氏が大名扱いになってるけども
1582年に雑賀衆という勢力を出すのなら、太田氏や土橋氏が
本来は代表なわけですよね?(少なくとも鈴木氏よりは)

じゃあ、本能寺~紀州侵攻の間
鈴木重意(佐太夫)やら、重朝やらは
どこで何をやってたんだろう?
彼らは残った「鈴木一族」の中に入るんですかね?

183:人間七七四年
08/05/06 21:34:04 wRyOeG3Y.net
>>182
これも難しいところですが、元々一揆衆であり、一つのまとまった勢力ではない雑賀衆において、
鈴木家はさらに特殊な家の1つであったことは間違いないかと思います

その最たる例が石山本願寺支援であり、
根来衆やそれに近い雑賀衆勢力が軒並み織田方についていることと比べるとその違いが歴然としています
そして、その対応の違いが雑賀衆の分裂・内紛の引き金の一つであったことはこれまでにも書いてきたことです

さて、本願寺顕如の石山退去の際、その和睦交渉の中継ぎ役として実は雑賀衆が出てきます
どうやら、このことを境にして雑賀鈴木家は織田信長との繋がりを持つようになり、
その後は織田信長の勢力を後ろ盾に土橋家との抗争状態に入ります
しばらくは織田家の後ろ盾のある鈴木家が優位にことを進めたようですが、
本能寺の変で織田信長が死に、鈴木家の後ろ盾を失うと事態は一転し、
土橋氏が鈴木家の居城である鈴木城に放火するなど、鈴木家の勢力の後退と土橋氏の伸長が目立ちます

その後の根来・雑賀衆の一体となった反秀吉的行動をみる限り、
本能寺以降の雑賀衆の中心は根来寺に近い太田党であったとみるのが自然です

さて、ここで問題になるのは本能寺の変の後に織田家領へ逃れたという鈴木孫一の存在です
彼が鈴木家中の誰を指すかというところが最初の問題となりますが、
実のところは明確に誰という結論はなさそうです
というのは>>179にも書いたとおり、鈴木孫一が一人の人物である可能性は、
その名が長い期間にわたって史料に出てくること、
さらに石山における戦死者の名前にも同様の名乗りが表れることからも低いことが想定できます

ただ、本能寺後の鈴木家の人物を見ると、鈴木重秀が秀吉に重用されたことがうかがえ、
彼が本能寺以降秀吉に仕えたという孫一である可能性が高いのではないかと思われます
一方、その他の鈴木一族がその頃に秀吉に出仕した様子はまず見あたらないことから、
彼以外の鈴木氏のほとんどは以前同様、雑賀荘に残ったとみるのが自然ではないかなと思います

184:人間七七四年
08/05/06 22:19:05 qDgfbdv0.net
>>183
なるほど。ありがとうございます。
可能性としては孫一(おそらく重秀)が秀吉に仕えていて
残りの鈴木一族は雑賀に残った、だが
実権を握っていたのは、太田・土橋などの親根来の勢力で
雑賀・根来一体となって秀吉に抗していた、そんな感じでしょうか?

じゃあ、もしかしたら佐太夫と重秀が敵味方に別れて戦っていた、
なんて可能性もあるっちゃーあるわけですね・・・

結局のところ、鈴木氏は「孫一」で、その活躍をまとめられちゃって
個人的な動きや活躍みたいなのはハッキリしない人が多いんですかね?

185:人間七七四年
08/05/06 23:03:05 wRyOeG3Y.net
>>184
基本的にその通りです

ただし、本能寺以降の雑賀衆が基本的に反秀吉であったとはいえ
やはり一揆衆の性格ゆえ、完全に一枚岩というわけでもなく
紀州討伐の際に根来寺が陥落し、秀吉勢が雑賀荘に入る頃には一部地域では既に焼き討ちが行われていたり、
雑賀城が開城するや、一部の雑賀衆の城が同様に開城してしまうなど、
やはり内部分裂・崩壊が生じた様子がうかがえます

186:人間七七四年
08/05/06 23:50:19 qDgfbdv0.net
>>185
その辺はいろいろ回って調べたので把握しました。
秀吉の紀州侵攻の時は
根来衆の方が徹底抗戦派が多く
雑賀の方は、すぐに降伏したり、寝返ったりみたいな連中が多かったんですよね。

ただ、鈴木氏の動向が実際はどうだったのかってのが
結構、あんまり知られていないような気がしたので
質問してみました。(実際私も知らなかったですし)
ありがとうございました!

187:人間七七四年
08/05/17 21:19:44 8p8J5Dvy.net
根来衆についてですが、火薬の貯蔵庫や鉄砲の生産工場の遺構が
未だに発見されてないと聞きます。
また、雑賀衆の同様な遺構はどうでしょうか?
ご存知の方、ご教示下さいませ。

188:人間七七四年
08/05/18 05:50:31 2bXRId8j.net
>>187
自分はそこまでは詳しくはないから参考にはならんが

そういう話は聞いたことはないなぁ
正直、あそこらへん一帯は紀伊討伐の際に徹底的に破壊されてしまったようなものだし
日本でも有数の歴史を持つとされる日前神宮・國懸神宮の社殿すら破壊されたと記録に残ってるほど
そう考えると、秀吉が雑賀衆の勢力の源とも言える鉄砲運用技術を野放しにはしてないと思うんだが
どうだろうか

189:人間七七四年
08/05/19 02:27:56 Bi2pRDox.net
>>188
ありがとうございます。
自分なりにも調べてみました。
近年の発掘調査では20ヶ所ほどの半地下式倉庫が見つかっているようですが
火薬庫ではなく食料類の貯蔵庫の可能性が高いと判断されているようですね。
何度か行なわれた調査でも鉄砲鍛冶の遺構と証明されるものは未だに発見されて
いないようです。鉛弾の製造跡や野鍛冶跡は見つかっているようですが、鉄砲を
大量生産したらしい痕跡はないということでした。
同時代の他の城跡からは煙硝蔵は必ずといっていいほど発見されているのに。
泉州地域で根来衆に味方した寺や村も徹底的に破壊されているようですし、
やはり秀吉軍によって金属片ひとつ残らず破壊されてしまったのでしょうか。
ただ発掘調査報告書によれば、貯蔵庫跡と推測される半地下式倉庫の壁は
防湿や壁面の強化の為と思われる意図的な焼付け加工の痕跡があるとの事。
その辺を更に綿密に研究してもらえば・・・もしやとは思うのですが・・・。
雑賀における同様な遺構については現時点では不詳でした。

190:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/03 09:11:01 h3Hehu+7.net
良スレ

191:人間七七四年@全板トナメ開催中
08/06/04 01:42:25 69//jgmx.net
秀吉めちゃくちゃに破壊しまくりやがったんだな。ちくしょう
血が残らなかったのは神罰が当たったんだな

192:人間七七四年
08/06/22 19:13:40 yya21IYh.net
堀内氏善などの新宮党は、本能寺の変の時に光秀方についたんだろうか?
はたまた秀吉方についたんだろうか?
それとも、どちらにも属さず中立を貫いたんだろうか?

本能寺の変の前年(1581年)に氏善は信長の傘下に入って、
1585年の紀伊征伐で秀吉軍に抵抗後、降伏したみたいだけど…

誰か詳しい人、教えて下さい。

193:人間七七四年
08/06/22 21:25:35 gLJg+Jnm.net
想像でしかないけど
地理的条件を考えると、どっちにも属さないで静観。
光秀・秀吉も当てにするような勢力・地域ではないと思う。

どうしてもどちらかに属す、となったら
紀州征伐でも早期に秀吉方に降って一揆勢の駆逐に参じているし
九鬼氏との繋がりも深いので、秀吉に加担したんじゃなかろうか。

194:人間七七四年
08/06/22 23:15:46 yiP9wq/J.net
堀内氏善という人物はかなり野心があったようですね。
信長の傘下に入ったのは九鬼氏の勧めもあったようですが、
その実、信長という天下人の名をかりて熊野全域から南紀を
手中にしようと西進。本能寺の変の頃は高川原氏や小山氏らと
戦っていた頃ですね。
光秀側からの誘いがあったかは不明ですが、地理的に見ても
山崎合戦の報も相次いで受け取ったと思え、どちらにつくか
考える間もなかったのでは、と思います。


195:人間七七四年
08/06/22 23:57:58 gLJg+Jnm.net
堀内氏善って
ゲームなんかじゃ雑魚武将扱いだけど
結構、能力的にそこいらの有象無象扱いするのはどうかと思う武将の1人。

196:人間七七四年
08/06/23 01:33:01 qrXOq2Dm.net
有象無象とはこれまた難解な言い回しをされる御仁ですなw
確かに雑魚とは言い難いようですよね。
智謀もあり策略も謀り熊野一円を一時的にでも治めたわけですから。
故に熊野地方では最近まであまり好意的には語られなかった将のようですが
活躍した場所と時間が少し違っていたら面白かったかも知れませんよね。

197:人間七七四年
08/06/23 13:42:01 NwvLi+cE.net
ただ、大概の武将がそこそこ活躍したからこそ登場してるわけで
そんな中で比べると特にぬきんでても居ないというところか

198:人間七七四年
08/06/23 15:01:52 fjD+N5XF.net
少なくとも「無能」ではなかったと思うんだけどね。
それなりの実績はあるわけで。>堀内氏

でもゲームでの扱いは凡将以下の扱い。

199:人間七七四年
08/06/23 16:51:53 Zu92lYBy.net
>>193
>>194
意見ありがとうございます。

なるほど、確かに本能寺の変と山崎の合戦はそんなに日が離れていませんし、
氏善が何か手を打つ前に大勢が決してしまったのかもしれませんね。
やはり中立をせざるを得なかったのが実情ですかね?

氏善が雑魚かどうかの話ですが…
ある程度の能力・勢力だったからこそ、ゲームでは「独立勢力」として
登場しているのでしょう。
ただ、ある程度の能力・勢力しか無かったからこそ、
「大名」扱いではなく「独立勢力」扱いになってしまった。
その辺りが、氏善の限界を示しているのでは…と思います。

200:人間七七四年
08/06/23 22:25:39 fjD+N5XF.net
まあ、そんな事言い出したら地方の大名とか
九鬼氏も似たようなもんなんだけど
信長・秀吉・家康とか、その辺のメジャーどころと
接点があったかなかったかでも、扱いは変わるよね。

201:194
08/06/24 01:29:01 B9Px6fvw.net
>>199
堀内氏善の最盛期で当時の6万石ぐらいといわれていますよね。
当時の熊野地方で堀内氏に属さなかったのは比較的奥地の
色川氏ぐらいらしいですし。
ただ南紀を西進した堀内氏勢力を現在の古座町辺りで食い止めた
のは、高川原氏や小山氏・安宅氏等の土豪の連合軍という事からも
それが堀内氏の力の限界といわざるを得ないかも知れませんよね。
もちろん地理的条件もあり、>>200さんのおっしゃるような条件も
関係あるのでしょうね。
堀内氏が秀吉から熊野総支配を命ぜられたのは、その観点から言えば
ラッキーな事だったのかも知れません。

202:人間七七四年
08/06/24 19:35:26 fDxBFGa+.net
今度は堀内氏ですか

色々な話があるみたいですが、
1581年に信長から本領を一旦安堵されているという説はあり、
また、本能寺の変に関しても、秀吉方についたという説もある
ただ、これらの説の信憑性については正直疑わしいとは思う
(前者は、1576年に伊勢長島城を落としたことで、伊勢北畠家=織田家との接点は生じているのでありえないくはないかもしれないが)

明確なのは1585年の紀州討伐の際に秀吉に降り、
それ以降秀吉の臣下として働いたことぐらいですね

ゲームで扱いが悪いのは、紀伊半島南部自体が巨大な空白地扱いされることが多いからでしょうな
(まあ、実際大勢力が発生しなかった地域なので、ゲーム的に重要性が低いのは否めんが)

堀内氏の最盛期の所領は、北はツヅラト・荷坂峠、南は今の旧古座町のあたりですな
ただ、色川氏の抵抗に苦杯をなめ続けたり、高河原・小山氏に抵抗され南進を断念するなど、
その勢力は当地において盤石のものであったとは言い難いことだけは確かですな

203:人間七七四年
08/06/24 21:39:09 c820vcFe.net
>>201
>>202
意見ありがとうございます。

当時の6万石と聞いてもピンと来なかったので、
試しに地図で、北はツヅラト・荷坂峠、南は旧古座町の範囲で調べてみると…
思ったより大きい領域だったんですね、紀伊東部はほぼ掌握してたのか…。
まあ、あくまで「最盛期」の領域なのでしょうが。
ただし、皆さんも指摘している通り、周辺の諸豪族の激しい抵抗を受け、
それらを完全に屈服出来ず、それ以上の領域拡大を出来なかった所が
氏善の能力・勢力の限界なんでしょうね。

>>200さんの事に関しては、九鬼家を通じて織田家と誼を通じてるかと。
(↑氏善の正室は九鬼嘉隆の養女)

204:人間七七四年
08/06/25 02:09:27 XRgYilK1.net
スレチながら興味深いお話で面白かったですw
良スレですね。

205:人間七七四年
08/06/27 01:04:15 fKufn3rU.net
雑賀崎あたりに末裔なんていないよね
秀吉が壊滅させてひどい状態になってたんだから地元なんかにいたら皆殺しになってるよね
秋葉山の池から当時のものすごい数の骨が出てきたって言うし
有力な家はみんな各地に離散してるしさ

206:人間七七四年
08/06/28 18:52:41 QXUm1idq.net
>>205
雑賀衆の有力家は他地方に逃げ延びてるね
その先がたいてい海の近くなので、自前の水軍で海路移動したのかもしれない
移動が出来ず地元に残らざるを得なかったのは
雑賀衆ではなく雑賀衆が治めてた領地の民じゃないかな

207:人間七七四年
08/06/29 16:23:38 OsaHMYfQ.net
>>205>>206
例外もいないわけでもないだろうが、どうなんだろ
雑賀地域の有力家で、雑賀近郊に続いたことがはっきりしてるのは
日前国懸神宮の宮司だった紀氏ぐらいだねぇ

これも厳密には高野山の寺領に逃げ込んだ後、秀長に仮殿を建てた時に戻ってこれたという展開だが

208:人間七七四年
08/06/30 12:33:56 9dkcs5vs.net
紀氏は歴史が古いから、別格かな?

209:人間七七四年
08/06/30 19:52:01 W2VhIvgl.net
日前宮も危うく秀吉に潰されるとこだったんだっけ


210:人間七七四年
08/06/30 20:03:35 9IdHa53G.net
日前宮を潰すというのは牽制球というか威嚇ではないか。

秀吉は神社に甘い。

211:人間七七四年
08/06/30 22:20:02 4fGUJDEp.net
>>209>>210
きっちり社領没収+社殿破壊されとります

当時の当主紀忠雄は神霊持って山奥に逃げ延びるのが精一杯
かつては広大な境内を持った日前宮も一時は見る影もなく荒れ果ててた

元の場所に戻って来たのは徳川頼宣のころだが
その敷地はさみしいぐらいに狭くなってしまったそうな

212:人間七七四年
08/07/01 08:35:32 l9aiqPPP.net
でも官位の面ではそこそこ優遇してもらえたのではなかったか?紀氏は。

213:人間七七四年
08/07/02 02:53:26 +9bLjRQC.net
鑑定団に丸亀藩京極家家老
雑賀の岡織部の2尺玉が出ていたが、
皆さんご覧になりましたか?

214:人間七七四年
08/07/02 03:16:42 BwPaED5p.net
>>210
古代からある和歌山の神社は秀吉に縁起も神宝も焼かれ海に沈められ粉砕されましたが何か
それによって神事の縁起がまったくわからなくなってしまった


215:人間七七四年
08/07/02 03:23:01 BwPaED5p.net
>>212
徳川の世になって再建したからね。けど社領はやっぱ狭くなってる
日前宮に限らず、紀北の古い神社はどこもそんな感じじゃないかな

216:人間七七四年
08/07/04 02:56:22 l1l7yOCH.net
やはり良スレですな!

217:人間七七四年
08/07/04 07:59:44 Im+awR5o.net
信長はなぜ紀伊制圧をあとまわしにしたんだろ?

普通は四国出兵よりも紀伊制圧を優先しそうなもんだが。地理的に。

218:人間七七四年
08/07/04 08:47:44 jVmOEP5P.net
勢力は伸びそうなとこから叩くのが常識だからでは?
四国統一を果たしそうな日の出の勢いの長曽我部と、
小勢力の集まりの紀伊土豪なら
長曽我部が先だろ。
三好がうまいこと取り入って救援求めたのもあるだろうし

219:人間七七四年
08/07/04 19:19:58 rS1mjKcS.net
>>218
理由はいくつかあるだろうが、
当時の雑賀衆では織田家の後ろ盾のある鈴木家が強い力を持った
というのがあるかと

東西に敵対する大勢力(毛利と上杉・武田)のあった織田家としては、
雑賀衆内の親信長派を抱え込めただけでも十分な成果だったかと

雑賀衆が分裂し内部抗争状態になっただけでも
南からの直接の脅威は格段に薄れるから

後は親信長派に援助して潰されないようにしておけばOKというわけ

220:人間七七四年
08/07/05 10:30:32 xipa8yVO.net
>>217
>>110
一般的流れはこう
織田側としては親織田派の鈴木重秀が紀伊を掌握したと見ていたのでは?

221:人間七七四年
08/09/05 01:22:02 C1sX0JLC.net
良スレage

222:関連スレ
08/09/27 04:16:06 D68452Mw.net
次々と通説を打ち砕く鈴木真哉・藤本正行について 3
スレリンク(sengoku板)

末裔のスレが再興


223:人間七七四年
08/09/27 09:51:38 uFjkpPlS.net
>>222
鈴木ってよくあんな恣意的な資料の読み方で学者を名乗れるよな。

224:人間七七四年
08/10/20 21:37:30 3KfHBT9I.net
良スレage

225:八咫烏
08/10/22 04:21:12 0zh8IXWA.net
今「尻啖え」を読んでるんですが、
結構エロくて、これじゃあドラマ化は難しいですねぇw

これ以外で孫市や雑賀衆の原作小説は無いのでしょうか?
大河は無理としても、他の時代劇枠(民放含め)で取り上げてほしいものですが。。

226:人間七七四年
08/10/23 21:07:21 Bdf9cMN9.net
鈴木佐太夫
鈴木重朝
鈴木重秀
鈴木義兼
鈴木ヒロミツ

227:人間七七四年
08/10/24 19:31:39 I2MDx01O.net
>>225
「尻啖え孫市」って昔の東映で映画化されたよね
萬屋錦之介が主演で結構楽しく脚色もされていたっけな
今でもCS東映チャンネルで放送されてるから時々観てしまうw
今の時代なら深夜枠とかでドラマ化しても面白いと思うんだけどなあ

小説はPHP文庫の二宮氏版、あとは短編で幾つか見た覚えがあったけど
今すぐに思い出せなくてごみん!
ウェブや携帯小説の類でもよければ、ググッてみれば出てくるはずだよ
中途半端で申し訳ない!w

228:八咫烏
08/10/27 23:02:59 Jnn/srCL.net
>>227
そうか。なるほど。
どうもありがとう。

229:人間七七四年
08/11/03 18:55:54 FL9aRVQF.net
敏腕だが女にゃ弱い快男児。

「尻啖え」の雑賀孫市は
ルパン、コブラ、冴羽獠に似てる希ガス。

230:人間七七四年
08/12/14 03:43:58 HHGCDr2Y.net
紀氏の話が出てたんでついでにちょっと聞きたいんですけど
雑賀衆の的場源四郎って紀氏の家系なんでしょうか?

というのも、的場源四郎の子孫が残した
『源四郎昌長真宗本山御助力実記』という本に

「紀州名草郡中之島村住人的場源四郎紀昌長(きのまさなが)
【源四郎紀昌長ハ人皇第八代 孝元天皇第四皇子彦太忍信命の曽孫
武内宿弥の孫盾人宿弥第四十八代の孫従五位上左京亮紀保輝の孫
紀六郎左エ門保詮十二代の孫にして當郡の郷長なり】」

という一文があるんで。

それと、何かの本で読んだことがあるんですが、的場源四郎は雑賀滅亡後、
大和の桑山氏に食客として召され、その後関ヶ原に参戦したあと、
若い娘と結婚、堺に移住し、紀伊に里帰りする道中自害したという話が
あるんですが(このとき、60歳前後だったという話も)
だいぶ昔に読んだので詳しくは覚えていないんですが。

的場源四郎に詳しい方、ぜひご教授を…

231:人間七七四年
09/01/27 01:22:38 Erzl4ojq.net
茨城の浄光寺に「雑賀孫一郎の墓」ってのがあるんだよね。。。

232:人間七七四年
09/01/28 01:15:37 AirtYIdu.net
孫一に子供がいた事は確かで、秀吉のもとへ人質として出されたと
「佐武伊賀働書」にもあります。この子が後に豊臣家の鉄砲頭となった
鈴木孫一郎某と考えられているようです。
専門家なども主張する説としては、その豊臣家の鉄砲頭が関ヶ原の戦
の前哨戦でもある伏見城攻撃で功名を成し、後に水戸徳川家に仕えて
名を「雑賀孫市」と改めたというものがありますね。ただ、伏見城戦で活躍
したのは「鈴木孫三郎重朝」という人物で孫一とは全くの別人だというのは
史料によっても確かなようです。

233:人間七七四年
09/01/28 05:47:50 uXpvKDJD.net
鈴木孫一(重秀?)の兄弟子孫は、いろいろ謎が多い。
鈴木孫六(孫一の弟)、鈴木孫助(孫一の孫)、中嶋孫太郎(孫一の兄)なんてのもいるらしい。

234:人間七七四年
09/01/28 09:30:59 N1c0ZMg/.net
孫六しか知らんかった

235:人間七七四年
09/01/28 10:53:13 ZpIS7J+L.net
有名どころでは他に孫八、孫十郎、孫三もいる。

236:人間七七四年
09/01/28 16:20:26 sISBvCpS.net
孫八、孫十郎は知らなかったナア

孫三は孫三郎重朝と別人?
伏見城の孫一郎と朝鮮出兵の孫一郎は
別人という説もあるし、石山軍記や陰徳太平記で
事績が重なる鈴木伊賀守(源左衛門)と佐武伊賀守
(こちらも源左衛門)も別人らしいから、
一概に同一人物とは言えないけど。

孫十郎はもしかすると、1563年に三好氏と
畠山・紀伊勢連合軍(雑賀衆・根来衆・湯川党)
が戦った和泉久米田合戦で戦死した、
鈴木孫九郎重宗の近しい人物かな?

232の「佐武伊賀働書」に出てくる根来衆の玉宝というのも、
鈴木孫一の従兄弟らしい。この資料に出てくる孫一は、
佐竹義昌(佐武伊賀守)と同世代なので、多分重秀だと思う。

玉宝は、1570年の河内古橋城の戦いで、織田方の三好義継、
畠山昭高に属したキリシタン大名の結城忠正
(実際は忠正の甥で同じキリシタンの結城弥平次らしい。
「佐武伊賀働書」は、佐武伊賀守の記憶違いが結構多い)
と共に古橋城の守将として、300~400の兵を率いて
三好三人衆に組みした鈴木孫一、佐竹義昌ら雑賀衆と
戦ったらしく、従兄弟の鈴木孫一(重秀)の降伏勧告にも
応じなかった。

雑賀衆の中でも根来衆に縁の深かった土橋氏(専識坊氏人)、
岩橋氏(威徳院氏人)は有名だけど、鈴木氏をはじめ、
雑賀衆の面々には、根来寺に入って行人僧兵として活動した
人物もけっこういたようだ。
前述の佐武伊賀守も、若い頃は根来寺専識坊配下の福宝院で
修行してそうだし。

237:人間七七四年
09/01/31 00:18:48 ptRhlBd+.net
ネゴシックス?

238:人間七七四年
09/03/07 15:26:49 ltk2h41G.net
おもしろいのであげ

239:人間七七四年
09/03/11 21:07:51 HzXckFBD.net
>>189
こないだ根来寺に行ってきたきたけど、受付のおばちゃんが、
寺から1キロくらい離れた郵便局を作るときに鉄砲とかが出土したって言ってた。
それが鉄砲工場かどうかはわからないけど、
あの辺で郵便局と言ったら上岩出小の当りだから、やっぱりそのくらいはなれたところが怪しいんでないかなあ。
復元地図とかを見ても、愛宕山のラインより北は全部寺そのものだから、そういうものがあったとは思えない。

240:人間七七四年
09/03/16 23:29:59 uUc1HeiO.net
寺から離れた場所で鉄砲作る必要もないだろに・・・・

241:人間七七四年
09/04/03 08:35:14 GbCmhnbR.net
甲冑衣装の110人が武者行列 「孫市まつり」開催
2009.3.30 02:50

戦国時代の和歌山で、雑賀衆と呼ばれる鉄砲隊を率いて奮戦した雑賀孫市の往時をしのんで
和歌山市の活性化を図ろうと29日、本願寺鷺森別院(同市鷺ノ森)などを舞台に「第5回孫市
まつり」が開かれた。
市内の商店街連合会などでつくる「孫市の会」の主催。午後0時10分、戦国時代の甲冑(かっ
ちゅう)や衣装に身を包んだ同会の会員ら約110人が、同寺院から南海和歌山市駅周辺まで
練り歩く武者行列がスタート。
ほら貝や陣太鼓を打ち鳴らしながら、刀や槍(やり)、火縄銃の模造品を持ち、戦国時代をほう
ふつさせる重厚な手作りの鎧(よろい)や兜(かぶと)を身に着けた勇壮な行進に観光客や市民
らは、携帯電話で撮影するなどして楽しんでいた。

また、寺院の境内で雑賀衆鉄砲隊による迫力満点の火縄銃射撃が行われたほか、「孫市鍋」
と称した鍋が振る舞われた。通行規制した路上ではスポーツチャンバラなどのイベントも行われ、
観光客や市民らでにぎわった。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)

242:人間七七四年
09/04/03 19:50:49 MaNvbMIJ.net
雑賀は有名な武将が多いけど根来は杉谷善住坊くらいしか知らないな

243:人間七七四年
09/04/03 21:12:48 6/n9bZjR.net
>>242
「武将」という表現はおかしいのでは?

244:人間七七四年
09/04/05 19:36:33 fN46FZ4q.net
>>239
根来寺内の遺構からは鉄砲の鍛冶場が出てないらしいから、
もし国内で鉄砲を生産していたとしたら、寺外で精製していた
可能性がかなり高いと思う。
種子島をコピーした西坂本の芝辻清右衛門妙西も
根来寺の門前町の住人だったし、雑賀庄では雑賀鉢や
刀剣の精錬が盛んで、鉄製技術がかなり発達してたらしいし。

>>242
スレの最初のほうでも書き込んだけど、根来衆は基本的に
南泉や紀伊雑賀五郷、那珂郡の土豪や国人、地侍が根来寺の坊院に
一族を送り込んで有力な武装集団に発展していった。
だから根来衆の実態は、和泉南部から紀伊北部にかけて行人傭兵として
根来寺に入ったゆるやかな土豪連合の側面が顕著で、雑賀衆や
高野山、南和泉の動向にかなり関与している。

南泉の有名な雑賀衆は根来寺成真院の熊取大納言坊(熊取中氏)
那賀郡では吐前の津田氏から興った根来寺杉ノ坊の杉ノ坊照算
(津田自由斉、鉄砲を伝えた津田監物算長の子)、
那賀郡荊本邑田中荘の田中氏から興った根来寺岩室坊の岩室坊清誉や
関ヶ原で毛利氏に味方した岩室坊清祐、同じく那賀郡奥家の往来左京
(久米田合戦で三好実休義賢を討ち取った人物)、その兄弟といわれる
奥大蔵(小道茶といわれている豪傑)
雑賀五郷では雑賀庄の有力土豪土橋平治守重の息子、根来寺専識坊の
土橋専識坊なんかが根来衆の有名どころ。

杉谷善住坊は甲賀五十三家の出というのが有力な説らしいけど、
もしかしたら根来で修行していた可能性もあるかもしれない。
根来衆の一人に亀井重堅という人物がいるけど、彼はもともと
細川氏の家臣だったが、若い頃家中で殺人を犯して根来寺に入り、
石山合戦では織田方と戦ったりしている。

杉谷善住坊もそういった過程があって、根来寺に入ったのかも。

245:人間七七四年
09/04/13 01:55:51 EdujjmRz.net
寺社勢力は総合スレ立てた方が分りやすそうな気がする。

246:人間七七四年
09/04/16 00:36:53 rv85SWyl.net
>>245
スレ建よろしく

247:人間七七四年
09/04/16 13:55:44 NP7bEiBo.net
雑賀衆と根来集は土地的にも人的にもかなり重なる部分が多いので、一緒にしといたほうがいいとおもう。
(鈴木氏や岡氏の中にも、根来衆の有力者がいたので)

248:人間七七四年
09/04/17 17:17:40 IK1+ug2V.net
>>246
立ててみた

スレリンク(sengoku板)

249:人間七七四年
09/04/18 19:36:56 SpkmgXzs.net
「陽炎の辻3」で悪役で出るようだが
江戸時代に雑賀衆なんて残ってるか?

250:人間七七四年
09/05/16 18:43:39 wjZhPw+S.net
雑賀泰造

て、誰やねん

251:人間七七四年
09/05/17 00:57:24 15S6m7Zb.net
ネプチューンにいたような?

252:人間七七四年
09/06/08 08:26:02 IhhKUB43.net
保守

253:人間七七四年
09/06/21 20:30:20 FqnOuK/D.net
単体だと厳しそうなんで、雑賀鈴木中心の本でも構わないんだけど
雑賀でも土橋氏とか根来衆の人物についても詳しい書籍ってないですかね?


254:人間七七四年
09/06/21 22:07:56 kWdDB0VB.net
>>253
安価な入門書
URLリンク(www.7andy.jp)

255:人間七七四年
09/06/21 23:46:59 yoSGNcVS.net
>>254
ありがとう、とりあえず図書館で探してみる

256:人間七七四年
09/06/27 04:34:51 CczoHW4e.net
地元です。
土橋氏血縁、兄弟から根来の僧院に僧として出ています。
種子島を本土に持ち込んだ津田監物算長も紀伊国小倉吐前の出自=雑賀党 しかし所属は根来衆です。
雑賀党は一向衆=浄土宗ですが、
根来衆は新義真言宗、つまり真言宗です。
雑賀と根来は領地の境界線が隣合うための争いが多いみたいですが、雑賀党内でも連合国家だった為に争いが絶えなかったとか...
例えば、本郷(鈴木一派)と宮郷(太田党=親根来派)の中の悪さとか...

257:人間七七四年
09/06/27 04:48:12 CczoHW4e.net
>>225

雑賀、根来関連小説

尻くらえ孫市
海のかや琴
天かける倭寇
草笛の剣
雑賀六字の城
鉄砲無頼記...

まだあると思う。



258:人間七七四年
09/06/27 09:29:19 5Jp/LkC4.net
>>256
雑賀党ってのはそもそも一枚の看板に見えるが、
たくさんの土豪が緩い協力関係を持っていただけというのが実際であって、
地域全体が一つの勢力として存在したというのはかなりの拡大解釈

ここらへんはスレをさかのぼると色々書かれてはいるがもう一回

雑賀党でも一向宗徒が多かったのは
海沿いで土地も農業には向いていなかったため、漁業や海運業が盛んであった雑賀庄や十ヶ郷
(ただし、これらの地域でも100%一向宗というわけではない)

一方残りの宮郷・中郷・南郷は紀ノ川沿いの肥沃な土地に位置し、農業が主体
これらの郷は根来寺とのつながりが深く、真言宗徒が多数を占めていた
なので、これらの地域はどちらかというと根来寺と一体とまでではないが、かなり連動した動きを見せている

雑賀衆の内紛の多くはこの地域一帯での根本的な宗教的基盤の違いに立脚してる

石山戦争時で雑賀衆が一致した動きしてるので、一見全体が一向宗徒に見えるのは仕方ないが、
雑賀衆が一致して石山本願寺に協力姿勢を示したのは、反信長という当時の雑賀衆の立ち位置が重なったからであり、
実際の動き見てみると、本願寺に入るなど積極的に動いていた十ヶ郷鈴木氏(一向宗)や
逆に表立った動きの少ない雑賀庄土橋氏(浄土宗)など結構違いが見られるし、
本願寺降伏後は鈴木氏を代表とする一向宗徒の中からは親織田派に転ずるものもいたが、
他の雑賀衆は反織田の姿勢を保持し続けるなど、宗教的基盤の違いがあからさまに表に出てきている

259:人間七七四年
09/06/27 09:41:13 5Jp/LkC4.net
おまけ

結果論的に見れば、歴史的に目立つのは十ヶ郷鈴木氏ではあるが、雑賀衆全体をひもといていけば、
彼らが歴史的に目立つことになったのは雑賀衆の中では異端な存在であったからこそとも言える

少なくとも1580年頃には雑賀衆でも鈴木氏の一部は明らかに親織田派であり、他の雑賀衆から孤立していた
彼らは織田家の後ろ盾をもって対立する雑賀衆をうまく抑え込んでいたようだが、
それゆえ本能寺の変が起こるや、彼らは他の雑賀衆から攻撃を受け、逃げ出さざるをえなくなっている

その後の歴史に名前の残る鈴木氏はこの本能寺後に雑賀から逃げ出した勢力がほぼ全てになる
ちなみにこのとき紀伊に残った他の鈴木氏の中にも
(解釈は色々あるだろうが、石山戦争後の本願寺自体が
 潜在的に親織田、反織田に分裂気味だったことから、雑賀衆内の一向宗徒も分裂していたのかもしれない)
秀吉の紀州討伐の際に、本願寺からの開城を求める書状を受けあっさり開城するものが出るなど、
やっぱり他の雑賀衆とは異なる動きを見せている

それゆえ、雑賀衆の代表格として扱われることの多い鈴木氏であるが、
実際は雑賀衆の中では異端な存在であり、彼らをもって雑賀衆全体を語るのは無理であると言えるだろう

260:人間七七四年
09/07/14 23:58:05 Itrci/v9.net
あげ

261:人間七七四年
09/07/20 13:34:14 YliOVTsR.net
鈴木氏って滅亡しても伊達家に客将?鉄砲指南?のため滞在してたけど
何してたのかな?

262:人間七七四年
09/07/20 23:15:46 LLg0JwIO.net
水戸徳川家に仕えたのは有名だがな>雑賀一族

263:人間七七四年
09/07/25 23:40:07 0j5mKzY6.net
>>254
近くの図書館に同じ著者の「紀州雑賀衆 鈴木一族(昭和59年刊)」てのがあったんで
借りたんだけど内容ほとんど一緒かな?違うなら新しい方も買ってみようかなって思ってるんだけど。


264:人間七七四年
09/07/28 15:20:32 sJP5EL0R.net
>>263
多分新しい方は単行本を新書化した増補版では?
内容の差異はよく分からんけど。

265:人間七七四年
09/07/28 18:22:30 m0Q4oS4l.net
武将一人が強かったわけではなく
このような衆団の様な一団がいたからこそ
その筆頭だった武将が目立った訳で
 
雑賀衆のような集団こそ注目を集めるべき
 
織田豊臣徳川のような武将だけ目立つのは
いかがかと。

266:人間七七四年
09/07/28 18:30:40 m0Q4oS4l.net
戦国武将だけがめだつのではなく
雑賀衆のような集団こそ注目をあつめるべき

267:人間七七四年
09/07/28 23:25:46 nWispiJ6.net
>>264
ありがとう、とりあえず古い方読み終わってから調べてみるよ

268:人間七七四年
09/08/02 22:03:39 zLkd45Y4.net
【日韓】韓国に日本武将の子孫が住む集落、好転する日韓関係を反映し観光開発の動き[08/02]
スレリンク(news4plus板)

269:人間七七四年
09/08/04 05:15:54 Yg9sInhl.net
なんだか、コーエーのゲームとか、諸々のサイトなどでは

鈴木重秀、重朝は、鈴木重意(左太夫)の子であるというのが定説のようになっているみたいですが
そもそも、重秀・重朝が兄弟であるという説も仮説の域を出ず、
重意(左太夫)が父であるという部分に至っては、何にも確証が無いと思われるのですが
どうなのでしょう?

270:人間七七四年
09/08/05 02:38:07 rdParJ2H.net
>>269
答えから言うと実際のところは全く不明と言わざるをえない

少なくとも水戸藩に仕えた鈴木重朝は重秀の子であると明記された事実はない(参照:水府系簒)
そもそも鈴木孫一なる人物の扱い自体がきわめて難しく、時代によって指す人物が異なるのは確かではあろうが、
それが誰であるかということに関しては一切史料がないと言っても過言ではないのよね

271:人間七七四年
09/08/05 06:39:23 vnE947ll.net
やっぱりそうですか。
そもそも左太夫=重意ってのも明確ではないんですよね?
この人物の詳細すら明確でないのに、重朝・重秀の父である、鈴木氏の前当主である、ってのは
すべて推測に過ぎないわけですよね?

272:人間七七四年
09/08/06 04:56:49 tsY72N4r.net
>>271
鈴木左太夫という人物があり、それと同時代に鈴木重意がいるので
現状他に比定できる人物がいないことから、重意=左太夫とするのが限りなく自然と思われるという感じでしょう
(この手の比定は歴史では特段珍しい話ではないですし、間違った方法と見なされるものでもないですね)

重朝、重秀についても同様に、同時代の人物として孫一(市)と比定されているという感じでしょう

雑賀衆は後世にその集団の名前としては残りましたが、実際の記録は全くというほど存在しないので、
今後も比定中心の研究にならざるをえないでしょうねぇ…

273:人間七七四年
09/08/09 19:01:23 VzcU1sFf.net
司馬の尻食らえ孫市なんかも左太夫・重秀・重朝・重幸らの逸話がごちゃまぜに
なってたからな。

274:人間七七四年
09/08/26 14:48:50 qS67b4+s.net
「ひこにゃん」に負けぬ、鉄砲集団雑賀孫市「まごりん」


戦国時代、織田信長に立ちはだかった紀州鉄砲集団・雑賀(さいか)衆の頭領、雑賀孫市。そのゆるキャラ「まごりん」の
着ぐるみができ、22日に和歌山市の祭りに登場した。

 製作したのは、地元住民らでつくる「孫市の会」。滋賀県彦根市の「ひこにゃん」が大人気なのを見て、闘争心を燃やした。

 孫市の定紋「やたがらす」をモデルにした「ヤタっち」も一緒に着ぐるみにする予定だったが、予算不足でできず。「まごりん」
だけが火縄銃ならぬ募金箱を持って街を練り歩く。

URLリンク(www.asahi.com)
URLリンク(www2.asahi.com)

275:人間七七四年
09/08/26 14:53:38 /8Q5N03G.net
>>274
これ・・・可愛くないよなぁ

276:人間七七四年
09/08/26 16:03:14 uuZ/lLZm.net
目がいけない

277:人間七七四年
09/08/26 16:19:18 0ifol8aI.net
やたっちならまだしも
まごりんはだめだろ

278:人間七七四年
09/08/26 16:35:47 vq6Ux5F1.net
根来マンセーしたいなら確かパタリロ・ド・マリネール8世が根来忍術の免許皆伝だったから、そのままキャラ使わせてもらえばいいんだけどな

279:人間七七四年
09/09/08 00:57:21 vTTu4wKJ.net
伊達の騎馬鉄砲隊は雑賀衆が教えた!

プロ野球パのコミッショナーは信長を狙撃した根来氏の末裔w

280:人間七七四年
09/09/08 01:13:23 pXYVDl1d.net
善住坊さん?

281:人間七七四年
09/09/09 00:19:38 d8UjdyOG.net
雑賀衆、根来衆の集団的な傭兵稼業は、河内、和泉、阿波、
土佐、讃岐、播磨等で確認されていて、特に四国には
長期的かつ積極的に派兵してたらしい。
長曾我部元親の初陣になった永禄3年(1560年)の長浜の戦いでは、
長曾我部氏・本山氏双方に相当数の雑賀衆・根来衆が従い、
本山方についた佐武伊賀守はこの戦いで、長曾我部方についた
阿弥陀院大弐という顔見知りの根来者を討ちとったり、
かと思えば、長曾我部方についた雑賀衆・根来衆と共に
紀伊に戻ったりしている。

こういう話は雑賀衆・根来衆にとても多くて、たとえば
前述の河内古橋城の戦いで鈴木孫一が従兄弟の根来者・玉宝と戦ったり、
同じ戦いで佐武伊賀守が、同郷の友人と思われる中之島の六郎太郎が
討ち死にした際、敵方についていた根来衆の大夫という男と共に、
激戦の中、六郎太郎を埋葬して負傷したりしている。


282:人間七七四年
09/09/09 01:06:30 d8UjdyOG.net
雑賀衆の勢力のひとつである湊衆に、佐々木刑部助という人物がいる。
湊衆は鈴木氏、岡氏と共闘したり争ったりした集団で、今の和歌山市の
北西部沿岸を支配し、海運業や海賊に従事した集団として知られている。

この湊衆の実力者の一人、佐々木刑部助は、元亀3年(1572)
細川真之・三好長好の依頼で雑賀衆の大将の一人として阿波に渡海し、
三好氏の軍記『昔阿波物語』には「湊の大将植松平大夫、久保町の才助、
湊の形部(佐々木刑部助)、鷺森の源左衛門(佐武伊賀守)」として
記されている。

この一年後、阿波では三好家の重臣篠原紫雲(長房)が討たれる
「紫雲の乱」という事件があり、渡海した雑賀衆は、この事件に
関与していた可能性がかなり高い。
現に、雑賀衆は篠原長房の子を紀伊に連れ帰って育て上げ、
天正5年(1577)再び阿波に渡海した時、篠原長房の子を擁立したいう
記述が『昔阿波物語』にも記されている。

さらにこの佐々木刑部助については、天正14年(1586)に小田原の
後北条氏と海上交易した記録が残っている。
この文書を発給したのは、後北条氏の海賊衆で紀伊国西部有田郡の
出である梶原備前守で、かつて後北条氏には根来金石斎という根来者が
軍師をしていたこともあり、後北条氏と紀伊の雑賀衆・根来衆は
かなり昔から深い関係があったと思われている。

天正14年(1586)というと、前年に雑賀衆・根来衆ら紀伊の勢力は
豊臣秀吉の紀州攻めでほぼ滅ぼされていて、その中にあって湊衆は、
秀吉の庇護によって海運業を継続していたこともわかる。

283:人間七七四年
09/09/09 02:09:41 p60ASD3s.net
いや、なかなかのご博学!
特に長浜合戦のお話、勉強になりました。

284:人間七七四年
09/09/09 08:36:54 d8UjdyOG.net
>>283
ありがとうございます。
これで雑賀衆・根来衆に興味を持ってもらえれば。

湊衆の話にちなんで、もうひとつ。
前述の『昔阿波物語』(十河氏に仕えた二鬼島道智の作)に、
雑賀党の湊衆を指して「紀州の者は土佐前を船に乗り、
さつまあきない計仕る」とあって、雑賀の人々は、当時対明貿易の
拠点だった薩摩坊ノ津あたりまで活発に交易していたことが
知られている。実際、根来衆の津田監物算長も、この交易によって
種子島に向かい、鉄砲を持ち帰ったことが知られているが、
その中にはさらに中国や琉球、朝鮮やフィリピンやマラッカまで
到達した紀州の集団もあったようで、明代後期に鄭若曾が倭寇の
事件を細かく記した『籌海図編』には後期倭寇の拠点であった
福建月港や浙江双嶼港に入港、あるいは居住していた生粋の倭寇、
つまり日本人たち(主に薩摩、大隈、肥前の人々)の中に
「乞奴苦芸(きのくに・紀伊国)の人もしばしば入寇する」と
記されていて、雑賀衆の海上での活動範囲は国内だけではなく、
かなり広域だったことがわかっている。

ここで重要なのは、雑賀衆・根来衆は対明貿易や海外貿易を行った
ほかの大名(たとえば薩摩の島津氏や周防の大内氏)と違い、
緩やかな地縁の武力集団、かつ紛争著しい惣国の中で、この貿易を長く
行っていたということ。
これは、紀伊北部の雑賀衆・根来衆が、戦国時代でもかなり異質な
マージナルマン(境界を超えた人々、主に海洋民族に使われる用語)
的素養を多分に持っていて、そういう要素を含む集団のために、
一部は深く宗教に帰依してつながりを保ったり、かと思えば
宗教の戒律を無視して寺領の坊院に子弟を送り、田畑や加地子
(在地の租税や年貢)を蓄えて、鉄砲をいち早く所有し、
損得勘定の戦を雑賀荘内外で行ったり、惣内でも共闘したり
争ったりする、稀有な集団に形成されていったと思う。

285:283
09/09/10 01:54:05 Ky+r91fg.net
>>284
このスレにも今年春から参加していたのですが
最近は忙しくてなかなか来られませんでした。
当方、雑賀衆や根来衆とも縁浅からぬ土佐は
長宗我部氏の元家臣の子孫でしてw
今後とも興味尽きないお話を楽しみに
いたしております。

286:人間七七四年
09/09/10 22:43:14 w4W2i4zw.net
>>285
ありがとうございます。
自分は雑賀・根来とはなんの縁もない百姓の子孫ですが、
趣味で雑賀衆・根来衆の事跡をたどっている素人者です。

土佐というと、土佐に逃れ長曾我部氏に謀殺されたという
根来衆の鈴木平十郎と土橋泉式坊を祭る社があると聞いています。
この鈴木平十郎、鈴木を称しておりますが『平』を冠した名前のため
自分は土橋一族と縁浅からぬ人物と考えております。
(粟村の土橋氏は平大夫、平之允(平尉、平之丞)、平次(平治)、
平次郎、平三郎…と、代々一族で『平』を名乗っている者が大勢いるので)
まあ、これも素人考えなのですが…

287:人間七七四年
09/09/17 02:41:42 xcmTyZ0n.net
>>286
残念ながら、その社の事は存じません・・・。
泉式坊(専式坊)が蟄居していたのは高知の和食(わじき)とか。
調べてみますね。

ところで、秀吉の命令で長宗我部元親が討伐を指示したのは山川氏・吉田氏・黒岩氏です。
この黒岩治部の弟に我が先祖は討たれていますので因縁浅からぬ話題でした(苦笑

288:人間七七四年
09/12/07 18:33:17 06GQaX7a.net
土橋って、「つちはし」と読むのか?

289:人間七七四年
09/12/11 22:06:36 ViZVllDd.net
戦場に恋の花を咲かせましょう―
「戦国BASARA3」の雑賀孫市は女性だった!
URLリンク(gamez.itmedia.co.jp)

290:人間七七四年
09/12/11 22:15:20 FF7fJGRO.net
戦国時代の峰不二子とかw

291:人間七七四年
09/12/12 12:32:18 knd6b6Lv.net
人気出そうだね

292:人間七七四年
09/12/12 21:19:14 XqvEEQRT.net
>>289
中の人が「大原さやか」なのは期待出来るな。

293:人間七七四年
09/12/18 23:16:29 An+RPhTT.net
「戦国BASARA3」”煙鳥翔華” 雑賀孫市と
“絢麗豪壮” 前田慶次の固有技/バサラ技を紹介
URLリンク(www.4gamer.net)

294:人間七七四年
10/01/06 17:59:31 yxXWaNkl.net
新年あげ

295:人間七七四年
10/01/12 18:39:37 RyYuGTsC.net
この地がまとまるような強力な指導者が出ていれば、天下取れたかもね

296:人間七七四年
10/01/12 18:55:15 cAdOvON+.net
クマー

297:人間七七四年
10/02/15 01:01:44 AICHP1yq.net
ちょっと鈴木で全国統一してくる

298:人間七七四年
10/02/15 08:23:44 B8kG3ic+.net
>>295
> この地がまとまるような強力な指導者が出ていれば、天下取れたかもね


天下取るのは無理。

299:人間七七四年
10/03/06 19:53:49 Ht3AjzLj.net
   /:,イ.:.:.:.:./.:.:.:.:.:.|i.:.:.:.:.::.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\.:ヽ
  // |.:.:.:./.:.:.:.:.|.:.| |`、.:.:\.:.:.:.:.、.:.:.:.:.:.:.:.:..:.、.:.:.:.:.`、:i
  ´   |.:.:./|.:.:.:.:.:|.:.| !.:.i、.:.:!\.:.:.:\:.\.:.:、.:.:ヽー:、:.ヽ
     |.:./ !.:.:.:.:.|`、| ヽ:| \i/´`ヽ.:.ヽ、\:`7ヽ`ー,\:ヽ
     |:/   !.:.:.:|:!.:.:|  \_∠.,,   \| `ヽ_ノ `ヾ.|! |ヽ| 弾幕薄いぞ!
    |     !.:.:|:.\| ! ー´ハ、j/           ヽ/ |.:.:
         |.:/ヽ:|、`〉  ヽ´         |   /   j.:.:.
        |´  \`i               i    ,.ィ´.:.:.
                |                |    ! .|.:.!:.
             i    〉、         |     ||/:|.:
             ヽ- 、´           |     ||,.―
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                    /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
                   /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

300:人間七七四年
10/03/07 09:42:15 aJNaADJW.net
何となく雑賀っぽいAAだねぇ。

301:人間七七四年
10/06/27 14:56:02 FOSTjSa8.net
良スレ保持age

302:人間七七四年
10/07/01 23:09:12 VnmY4np7.net
尻くらえって尻から弾丸を発射するのかアナルを敵に差し出して油断させるのか…

303:人間七七四年
10/07/08 17:04:43 HEjWvjWi.net
鈴木孫一を調べてるといつも疑問に思うんだが
孫一って親織田派だったん?それとも敵対派だったん?

304:人間七七四年
10/07/12 12:15:46 JUnCZf4M.net
傭兵だから感情ではなくゼニで動いたのではないだろうか?

305:人間七七四年
10/07/14 23:22:13 fSgnPd63.net
遅レスになるが

>>303
基本的に本願寺派として動いた雑賀衆鈴木氏の織田家への立場は本願寺のそれに追随する形で動いてます
つまり、石山戦争の間は鈴木氏は明確な本願寺派でそれに従う形で反織田勢力で、
本願寺と織田信長が講和を結び、蓮如が紀伊へ移ると鈴木氏もそれに従う形で矛を収めた

その後、雑賀衆内で内部対立が拡大すると、鈴木氏(の一部)は敵対勢力を抑え込むため織田家の後ろ盾を求めるようになった
で、織田家の力をバックに対立する勢力を抑えつけてたが本能寺で信長が死んで後ろ盾を失い、
反対勢力から一気に攻められて紀伊から逃走

大まかにはこんな流れになります

306:人間七七四年
10/07/14 23:34:52 fSgnPd63.net
続き

一方、この流れを雑賀衆の中で見ると少し複雑になる
まず、雑賀衆には本願寺派であった勢力と浄土宗の根来寺とのつながりが深い勢力という風に、
内部に宗教的な違いが古くから存在し、一部有力者が橋渡しする形でゆるい連合体として成り立っていた

しかし石山本願寺との関係から、織田の圧力が強まるとこの宗教的な違いがずれを産み、
最終的には浄土宗派の織田への寝返りという事態になる(根来寺が織田方であった影響も大きいと思われる)
で、これから紀州攻めへと発展するが、これは一向宗派が形式上降伏するだけという実利のない結果に終わり、
織田の圧力が弱まると一向宗派はすぐに反織田の態度を取り戻し、雑賀衆内の浄土宗派に対しても反攻を仕掛け、
最終的には雑賀衆において一向宗派が勢力を強める結果に終わったと考えられます

で、本願寺が織田に屈服した後もこの内部対立はなくなったわけではなく、
一向宗派の十ヶ郷の鈴木氏と雑賀荘の根来寺に近しい土橋氏の対立が先鋭化する
(十ヶ郷と雑賀荘はともに一向宗徒が多い地域であり、上に従うのであればこれは雑賀衆における主導権争いであったものと思われる)
この争いにおいて鈴木氏の一部は織田家の後ろ盾を求めるようになり(本願寺との繋がりから織田家とはパイプができていた)、
織田家も雑賀衆の親織田派を支援すれば不安定要素を減らせることから利害が一致し、
鈴木氏は織田家の後ろ盾をえる形で対立していた土橋若太夫を殺害する等雑賀衆の主導権争いで優位に立った
で、本能寺で信長が死に後ろ盾を失うと、反鈴木派が一斉に反攻に出、抵抗しきれなくなり織田領に逃走する他なくなった

ただし、全ての鈴木一族が駆逐されたわけではなく、秀吉の紀州討伐において雑賀衆に多くの一向宗徒の鈴木氏の名が見られること、
土橋若太夫殺害には土橋氏の一部が関与している等、この主導権争いは一族内対立等相当入り組んだものであったと考えられます

307:人間七七四年
10/07/15 20:30:13 2KAcUQQE.net
ダウト!
根来寺は真言宗だろーが!

308:人間七七四年
10/07/17 13:34:57 uNQPP6K/.net
根来寺は真言宗だがアンチ高野山(開祖は高野山のトップだったが追われた)。

309:人間七七四年
10/07/19 02:58:04 qLgaJXRn.net


サンデー連載の「戦国八咫烏」て、どうよ?


310:JFA
10/07/19 06:32:11 Bqt91wev.net
先月、八咫烏の神孫伝説がある雑賀衆の守護神、
矢宮神社で必勝祈願したら、日本勝った~~ ( ^ω^)

311:人間七七四年
10/07/19 16:09:49 aPXCQYoO.net
>>305
蓮如?

顕如じゃないの?

312:人間七七四年
10/07/27 08:18:53 FH3p4yKq.net
八咫烏と雑賀との関連性が載ってある資料探してるんだけど何かありませんか?

313:人間七七四年
10/07/27 11:23:59 kQz+8uPI.net
俺もちょっと気になって前に調べたけど伝承レベルしか根拠はないな

314:人間七七四年
10/08/24 15:54:59 iU/HgBBq.net
>>303
「世襲の名前としての鈴木孫一」という概念を省いて
永禄~天正年間に石山合戦や雑賀庄の争乱で活躍した
鈴木氏の有力者の一人としての鈴木孫一と考察すると…

鈴木孫一は反信長→親信長→秀吉配下、となる。
さらに石山合戦や紀州防衛で信長に抵抗し、最後は信長に
組みしたという鈴木孫一は、鈴木重秀の可能性が極めて高い。

鈴木孫一の名が記録として歴史上初めて登場するのは、
永禄五年(1562)の湯河党と雑賀衆の間に交わされた
「湯河直春起請文」中の誓紙の記帳。

それ以前の記録では、雑賀衆の一人、佐竹義昌が覚書として
書き残した「佐武伊賀守働書」中にある弘治三年頃(1557)
雑賀荘中之島で起こったという、中郷と雑賀荘の争乱
(発端は中郷の和佐荘と岩瀬荘の土地争いが根来寺や雑賀荘に
飛び火したらしい)に、鈴木孫一が一党を率いて戦ったという
記述がある。
このあたりが、鈴木孫一の事跡を辿れる最古の記録。

これとは別に、天文十九年(1550)に法主本願寺証如を
黒江に迎えた「伏山孫一」という名が登場するが、
これは多分孫一重秀の父親か、一世代前の有力な鈴木氏の
頭目と思われていて、伏山の名は当時の鈴木一族の拠点の
一つだったと思われている。
(伏山は現在の和歌山城が建つ虎伏山近隣)

このように雑賀鈴木氏は年代を追うごとに
藤白→妙見山(雑賀城)→弥勒山→伏山→鷺森→宇治→平井谷と
その本拠が北上していて、これは紀伊国の一向門徒の中心地の
北上(清水→黒江→弥勒山→鷺森)と年代的に合致していて
とても興味深い。

弘治~永禄年間頃に文献に現れる孫一は、まだ10~20代の青年で、
当然、信長との接点も無かったと考えられる。
孫一がはっきり信長と敵対するようになったのは、
信長が根来衆&中郷、宮郷太田党、南郷の大野十番頭を
次々と味方につけることに成功し、雑賀衆の切り崩しを
はじめた永禄十二年(1569)前後。

孫一はこの後十年続く石山合戦、信長による
二度の紀州攻め、雑賀庄の内紛(信長に組みした南郷の
春日大社を鎮護する旧地頭集団・大野十番頭との対決
【井ノ松原の戦い】、宮郷太田党・根来衆・中郷連合軍
との戦い【第一次太田城攻防戦】)を経て、一貫して
反信長の姿勢だったが、天正八年(1580)法主顕如の
石山本願寺開城に従い、これを機に顕如と共に親信長に
傾倒していく。

315:人間七七四年
10/08/24 15:57:58 PJB6XvcD.net
長文乙!
参考にします!

316:人間七七四年
10/08/24 16:05:37 iU/HgBBq.net
つづき

この孫一の転向にはいくつかの複雑な事情がからんでいて、
その一つに十ヶ郷・雑賀荘の二郷の雑賀衆の中心人物として
古くから雑賀衆や根来衆を率いてきた土橋若大夫(平次守重)
との確執がある。

土橋若大夫は、最後まで信長との徹底抗戦を唱えた反信長派の
顕如の息子・教如に賛同したため、親信長の顕如に従う鈴木孫一と
対立した、というのが一般的な見方であるけど、この対立の奥底には、
雑賀衆での主導権争いの可能性が十分考えられる。
(実際、それを察した顕如は、その後幾度か両人を諌めたりしている)

またこの二人、これまた複雑なことに、実はかなり近しい相婿関係で、
孫一の嫁は土橋若大夫の娘ないし妹、或いは土橋氏の氏族、福島村の
藤木氏(歴史研究家の藤木久志の先祖の家)の娘といわれており、
孫一の姉妹たちも、それぞれ土橋若大夫の息子や弟に嫁に入っている
という間柄で、次第に深まる二人の対立は、共闘と離反を繰り返す、
雑賀衆の人間関係の複雑さと気質、性質を象徴する代表的事例でもある。

そんな鈴木孫一と土橋若大夫の対立の激化の結末が、
天正十年(1582)一月に起きた鈴木孫一とその一党(土橋一族の一部)
による雑賀衆の反信長派の頭目・土橋若大夫殺害事件。
(実際には、土橋若大夫を切腹に追いやったという)

この事件の翌日、孫一は泉州の織田勢を紀州に招きいれ、
親信長派として土橋氏や湊衆、根来を攻撃してこれを破り、
反信長派の多くを紀州から追い出して、織田勢と共に雑賀荘を掌握する
(この時、孫一と共に織田勢と戦い続けた弟の鈴木孫六や佐武伊賀守、
的場源四郎といった面々は、 孫一が招き入れた織田勢や孫一の手勢と
戦ったことになる)が、 天正十年(1582)6月に起こった本能寺の変で、
信長が横死すると孫一の立場は逆転して、反信長派の雑賀衆・根来衆の
反撃にあい、紀州を追われて泉州の織田信張、次いで秀吉の元に身を寄せた。

その後の孫一の動向は、どうも秀吉の家臣になったようだが、実際は
食客のような扱いだったようで、一応秀吉の鉄砲頭という記録も
残っているが、名ばかりの名誉職みたいなものだったのかもしれない。
ただ、秀吉からはかなり気に入られていたらしい。
もしかすると重秀の「秀」は、このときに秀吉から拝領された
可能性も考えられる。
(孫一の実名の候補に、重元、重治、重行というのもあって、秀吉に
仕えて秀を拝領し、重秀となった…かもしれない)

最後に孫一が歴史の表舞台に登場するのは、天正十三年(1585)三月の
秀吉の紀州攻めで、多くの雑賀衆・根来衆が最後に立て篭もった
宮郷の太田城に、孫一は降伏勧告の使者として秀吉方の中村一氏と共に
太田城に参じて降伏を促したが、断られている。

この降伏勧告は、顕如や秀吉からずいぶんお願いされて、孫一も
しぶしぶ承知したらしいが、どうもこのとき、案の定というか、
太田城に篭った顔馴染みや秀吉勢と戦った紀州勢や同門の鈴木氏、
土橋氏から、だいぶ反感を買ったらしく、その後孫一は結局紀州に
帰ることなく没したと思われます。

このように鈴木孫一は、一貫して反信長、反秀吉だった大部分の
雑賀衆や鈴木一族に反して、かなり特異な行動とっていた人物。


317:人間七七四年
10/08/24 17:36:03 iU/HgBBq.net
雑賀衆の構成員について

一般的に雑賀衆は、現在の和歌山市北東にあった五つの郷、すなわち
十ヶ郷・雑賀荘・中郷、宮郷(社家郷)・南郷(三上郷)の国人、
土豪、地侍、百姓の武力集団・商工集団を指すが、五郷のうち、
十ヶ郷・雑賀荘と、他の三郷は別の勢力として考えたほうがいいかも
しれない。

ただ、この五郷のいずれも、基本的に紀伊守護の畠山氏の被官として
位置づけられていたが、その実態は独自の経済活動・対外活動を行う
強力な惣国で、永禄年間までの動員には従うものの、畠山氏との
結びつきは、かなり希薄なものだったと考えられている。

十ヶ郷・雑賀荘の人々は、特に紀伊の対外戦争や紀州の防衛戦の
中心となった集団で、さらにこの地域の勢力はかなり複雑だった。
鈴木氏、岡氏、松江氏、宮本氏、島本氏といったいわゆる
一向門徒衆やそれに組した十ヶ郷の土豪庄司氏、木本氏などをはじめ、
雑賀荘粟村を本拠とし、根来衆と深い関係を持つ雑賀衆の中心となった
土橋氏とその氏族粟村氏、幸仏氏、弾塚氏、藤木氏、小倉氏ら土橋一門、
雑賀荘の交易や海運業を独占していた紀ノ川流域の二つの湊衆、
十ヶ郷の海運業を独占した加太(賀田)氏など
独自の勢力が離反・共闘を繰り返し雑賀衆の中心として活動した。

中郷はその有力な土豪・地侍に津田氏、田中氏、湯橋氏など、
根来寺に一族を送り込み深い関係を持つ家が多くあったが、中には、
熱狂的な一向門徒の岡崎氏や熊野信仰の田辺氏、林氏、湯河党被官の
山本氏などもあって、中郷全体の動員や自立性は雑賀衆の中で
ほとんどなかったと思われている。
また、隣接する那賀郡の土豪や高野山との活発な交流があったことも
知られている。

宮郷は、その郷全体が日本最古の神宮の一つといわれる
國懸宮・日前宮の両神宮(一説には紀元前の建立といわれている)の
社領で、そのため別名を社家郷、或いは神宮郷といい、神宮社領の
鎮護のため、15世紀に宮司の紀氏の呼びかけによって、在郷の太田氏を
中心に黒田氏、神前氏、島田氏、中島氏、秋月氏、吉田氏など
社領の地侍から成る太田党と言われる武力集団が結成され、
同じ時期に建設された太田城を中心に、宮郷を外敵の侵入から防衛した。
特に十ヶ郷の鈴木氏と雑賀荘の岡氏とはとても仲が悪く、記録によると、
國懸・日前宮の社領に雑賀荘の鈴木・岡の衆が勝手に畑を作って
水を横領したため、太田党と鈴木・岡氏の大規模戦闘に発展したことも
あるらしい。

南郷は別名を三上郷といって、大野にある奈良春日大社の分社を
数百年にわたって鎮護した、大野十番頭とよばれる神官十氏
(稲井、藤田、中山、宇野辺、三上、田嶋、坂本、井口、石倉、尾崎)が、
数年に一度の順番で宮司を務め、政治的、宗教的に古くから南郷を
牽引して世襲化した。この神官集団も戦国時代になると南部の湯川氏や
雑賀衆、太田党に匹敵する武力集団に成長し、16世紀になると
雑賀荘との紛争を起こしたりした。

このように雑賀衆を形成した五つの郷の人々は、宗教や血縁よりも、
地縁や権益に順じた惣国だったらしい。

318:人間七七四年
10/08/24 18:03:42 iU/HgBBq.net
>>312
鈴木孫一を輩出した雑賀鈴木氏は、熊野八庄司を祖とする
藤白鈴木氏の傍流で、そのつながりは不明な点が多いけど、
おそらく鎌倉末~室町初期に藤白から次第に北上し、戦国期に
雑賀地方に定住した鈴木氏庶流の一集団だったと思われます。

藤白は現在の和歌山県海南にある土地で、そこに定住した
鈴木氏は熊野別当の藤原氏の流れとして藤白鈴木氏と呼ばれています。
藤白鈴木氏は奈良時代末にすでに藤白に定着し、源平の頃、
九郎判官義経に従った鈴木三郎重家・亀井六郎重清兄弟が出た
ことで有名な家です。

その家紋は代々穂積鈴木氏に関連ある稲穂に熊野と縁深い
八咫烏で構成されていることが多く、平井の蓮乗寺に現存する
鈴木一族の墓にも「平井孫市郎藤原義兼」とあるので、
雑賀の鈴木氏は、熊野三山→八庄司→藤白と続く熊野系の八咫烏を
シンボルにしていた可能性はかなり高いと思う

319:人間七七四年
10/08/24 18:39:16 iU/HgBBq.net
まあ、これも伝承や断片的な資料を推測した形なんですけどね

320:人間七七四年
10/08/24 22:04:07 PJB6XvcD.net
お疲れ様でした!

321:人間七七四年
10/08/25 16:27:42 1QFVXCHR.net
>>205
遅レスになるけど、秋葉山は当時、弥勒寺山城といって、
本願寺の別当として御坊が立てられ、鷺森移動後も
鈴木一党や門徒衆の拠点として戦国末期まで機能した山城。
弥勒寺山(秋葉山)のそばに和歌川(雑賀川)が流れていることから、
小雑賀の守りの要として雑賀衆がよく立て篭もったため、
信長や秀吉の紀州攻めでは激戦地となり、秋葉山周辺は
敵味方多くの死傷者が出た。
今でも秋葉山周辺で沢山の人骨が出てくるのはそのためだろう

322:人間七七四年
10/08/25 23:51:52 k8HUGuNa.net
お、中々面白いですね。

ただ、>>316の重秀が秀吉の一字拝領というのは無理があるような。
もしそうであれば秀重と乗っているはずで…秀吉からもらった秀を名前の下につけた人いましたでしょうか。

323:人間七七四年
10/08/26 11:35:57 6wgwLZ6z.net
ちょっとお訪ねします。
「根来寺焼討太田責細記」って成立時期いつごろなんでしょうか?
信頼性とかどうなんですかね?

324:人間七七四年
10/08/27 00:29:24 gWUbsr1j.net
>>323
「根来寺焼討太田責細記」の書目データでは
謄写本とあるので、個人蔵の古文書を
書き写したものが残ってるようだよ

本の文字が肉筆で昔の漢字使ってるから、ちゃんと
書き正せてるかはあやしいけど
(特に「寫了」の部分)最後のページに

根来寺焼討太田責細記
右紀伊國和歌山市高市伊兵衛氏所蔵明治三十
八年六月寫了

とあるから、明治38年に和歌山市の高市伊兵衛さんの
家に伝わる「根来寺焼討太田責細記」を写本したみたいだね
雑賀衆・根来衆の研究は郷土に残る伝承や古文の謄写本や
江戸時代にまとめられた風土記を元にしてることが多いから
明治以降に粉飾された立川文庫とかの読み物・軍記物よりも
(たとえば石山軍記とか)信頼性は高いんじゃないかな

しかしネットはすごいね…なんでもあるなあ
「根来寺焼討太田責細記」は前からちゃんと読んでみたいと
思っていたから、時間あるときじっくり読んでみたい

325:人間七七四年
10/08/27 00:53:41 /q8byRDl.net
>>324
解説ありがとうございます。
なるほどなぁ、他の史料ともいろいろ見比べて読んでみたいと思います。
「根来寺焼討太田責細記」は描写が細かくて面白いんだよな。

326:人間七七四年
10/08/31 22:48:14 nUb+KaQ6.net
>>322
秀の字が下どころか、上についてる人でも貰えたのは一門とか大大名の子弟の一部しかいない
だからまったく関係ないと思う



327:人間七七四年
10/09/16 01:22:46 knQ8ByGj.net
根来寺は信長に対しては味方したのに、秀吉に対しては抵抗したのは何故?

328:人間七七四年
10/09/16 04:08:20 X0824n1N.net
>信長に味方した
信長の支援を受けて土橋氏を倒して優勢となった
雑賀鈴木氏が信長寄りだったから

>秀吉に敵対した
本能寺の変で信長の支援を失って
長宗我部氏らの支援を受けた土橋氏に逆襲され
雑賀鈴木氏が追い出されて失脚したから

土橋氏と根来寺は親密な関係にあり
その盛衰を一体にしているというわけ

329:人間七七四年
10/09/16 14:05:10 36YbqXh+.net
>>327
信長は根来寺の泉南経営を黙認していたというのがあるね。
泉南に権益拠点を構えていた根来寺にとっては、ありがたい上口だった
ようで、大部分の根来衆は、石山合戦、長篠合戦、高屋城合戦にもこぞって
信長に味方して参戦してます。
俗に言う紀州の「日傭鉄砲(鉄砲傭兵)」の真実はこのことかと。
一方秀吉の方は、徹底して泉南の返還を強く求めたため、根来衆に
反感を買い、対立を深めていったようです。

細かく言うと、根来衆と秀吉の対立の発端は主に二つあります。

一つは、和泉国泉南の根来寺領の権益保持と秀吉の勧告。
根来衆は15世紀末から和泉国泉南に進出し、その土豪中氏、奥氏、
行氏、目氏、毛氏、赤井氏、大谷氏、藤田氏などの泉南の有力土豪の
子弟を根来寺の行人方子院の門主に迎えて、泉南土豪・根来寺行人衆、
お互いの権益を堅守するため武装化し、戦国期には根来寺から増援部隊
や砦建設の人足、加地子(寺領の租税)や収益を管理する仲人(奉行職)
が派遣されて、泉南の根来勢力が巨大化していく。
これが戦国期の泉南地方の根来衆の発展に繋がっていて、天正末頃に
岸和田以北を領していた秀吉との対立を生み、秀吉は1583年に家臣の
長谷川秀一を根来寺に送って泉南の寺領の返還と権益の破棄を勧告
したが交渉が決裂し、1585年の紀州攻めの口実となった。

あと一つは、小牧・長久手前後に徳川家康に組した根来衆が大勢いたこと。
根来衆は以前から徳川氏との縁もけっこうあったようで、小牧長久手の
際にそれが決定的になったようです。

あくまで中立を保つ根来衆もいたようですが(杉ノ坊、弥勒院、池上坊など)
特に成真院熊取大納言(中盛重、根来大膳・右京、泉南日根郡熊取荘の中氏)
田中福永院和泉坊、鳴神愛染院算長、土橋泉識坊、田中岩室坊清伝、
赤井坊少納言といった大部分の連中はこぞって徳川に味方したため、
秀吉の怒りを買っています。
このうち、熊取大納言、福永院和泉坊、鳴神愛染院などは、根来滅亡を
免れて徳川家康に仕官し、後の根来組同心の中核構成員として、それぞれ
根来姓を称しています。
ほかにも岩室坊は毛利氏、土橋泉識坊の子孫は会津或いは土佐に出仕したと
いう記録もあって根来衆は雑賀衆同様、全国に散らばっていったと
考えるのが妥当です。そのほとんどは、根来姓を名乗っています。

330:人間七七四年
10/09/16 14:13:47 36YbqXh+.net
>>328
石山合戦集結以降(1580年)の対立~土橋若太夫殺害事件(1582)に
関しては、土橋氏vs鈴木氏という構図より、鈴木孫一vs土橋若大夫
(平次守重?)の個人同士の対立と考えたほうがいい。
この事件では土橋氏に加担した鈴木氏の一族もいたし(鈴木某)
鈴木氏に加担した土橋氏(土橋兵大夫、土橋小左衛門、幸仏某)も
いた。必ずしも土橋・鈴木の両氏の総意で起こった対立とは
考えにくい。

こういった例は、鈴木氏・土橋氏に限らず、雑賀衆・根来衆を含めた
紀伊国北部の惣国に非常に多い。

例を挙げると雑賀荘・十ヶ郷と長年抗争していた宮郷の太田党にも
鈴木氏や岡氏ら門徒衆や紀ノ川流域の湊衆の構成員を多く出した領域の
住人がいる。

たとえば、鈴木孫一の一党を支えた雑賀荘中之島の住人
(島田新三郎、川村新三郎など)も太田党にいたし、十ヶ郷坂井
(栄谷・境谷)の住人(藤田六郎左衛門、藤田長藏)もいた。
さらに宗派や立場が違う南郷出身者(山本荒熊丸・鹿之助兄弟、若林万助)
の者もいる。あげくには鈴木氏支流と思われる人物(亀井対馬守、
藤白鈴木氏の支流)が副将的立場で太田党を率先してりもしていた。
これらの人々は本来、血縁的、位置的、立場的に太田党と対立するべき
人々だけど、太田党滅亡まで宮郷の太田氏に従って、最後まで奮戦
している。

この傾向は根来衆にもあてはまる
基本的に織田方についた根来衆の中にも、雑賀荘・十ヶ郷と共に
石山合戦で一貫して戦った者(渡辺藤左衛門、土橋泉識坊、浄法院)や、
どうも紀伊国那賀郡(雑賀五郷の中郷の東)の高野山系地侍と
思われる山東孫之丞、山東三之右衛門、乾源内太夫といった連中も
雑賀荘・十ヶ郷に従って信長、秀吉と戦い続けているので、
雑賀衆・根来衆はこういった血縁・宗教・勢力図にとらわれない
立場をとった人々が大勢いたらしい。
ここらへんの考証がとてもややこしいのもこの地域の特徴。

あと、孫一の居住地も注目するべき
孫一の実父といわれる鈴木重意(佐太夫、左兵ヱ?)や
その子孫六、その他の多くの鈴木一族は雑賀荘(本郷)南西の
雑賀崎妙見山(雑賀城)を終始拠点としていたらしいけど、
鈴木孫一とその郎党は、紀ノ川の北にあたる十ヶ郷平井谷にずっと
居住していて、孫一道場なる門徒の集会場まで建立していた。
平井谷のすぐ東隣には土橋氏の拠点である粟村があるので、
相婿関係だったという孫一と土橋若大夫の関係も、孫一が
雑賀鈴木氏の拠点である妙見山から離れていた原因の一つかもしれない。
そんな二人が最終的には殺害事件という形で破局するんで、やっぱり
この土地の人間関係は複雑だったんだろう。

331:人間七七四年
10/09/16 15:57:52 36YbqXh+.net
あと一つ、長くなって申し訳ない
雑賀鈴木氏のかなりまとまった系図を見つけたので貼っておきます。
「日本氏族大鑑」というHPです。
歴代の鈴木孫一・雑賀孫市も雑賀鈴木氏の当主として記述されていて
大変興味深い内容です。

URLリンク(www.k2.dion.ne.jp)

ここで気になるのが、重意(佐太夫)の兄とされている長重とその子重行の
存在。このどちらかが「信長公記」に記されている石山合戦で討ち取られた
という鈴木孫一なのでは…と推測しています。
また、重意の父は「穂積鈴木氏系図」等で長らく重長と思われていたので
すが、この系図を見る限り違うようでこれも新発見。
それとも養子に入ったのか?

さらに石山合戦等で活躍したとされる五代目雑賀孫市(鈴木孫一)が
平井蓮乗寺に埋葬されている鈴木重兼、その弟孫六を重秀としているのも
大変興味深い(自分はずっと重秀が石山合戦で活躍した鈴木孫一だと
思っていたので)
これが事実だとすると、伝承にある出家した佐太夫長男の中嶋孫太郎を含め
「七郡地士名寄」「ますをのすヽき・海士郡」等に記された
「孫市の父佐太夫に三男あり」という伝承が信憑性を帯びてきます。

そして最後に、徳川家康に仕えたという鈴木孫三郎重朝(六代目孫市)
いろいろ調べてみるとどうも彼は三河鈴木氏から出て重秀の養子に
入ったらしく、さらに徳川家康の庶子という伝承もあるようです。
(鈴木一蔵重康というらしい)

最後にこの系図を元に歴代の雑賀孫市をざっと書き綴ってみました
ただこれは決定的なものではないので(伝承・系図の混乱があるので)
あくまでも歴代雑賀孫市の目安として見てください


   鈴木重國(雑賀一郎、四代前重吉の時雑賀に住す)
   鈴木重郷(雑賀小一郎)
初代 鈴木重村(雑賀孫一郎)
二代 鈴木重家(雑賀孫一郎)
三代 鈴木長重(雑賀孫一、鈴木佐太夫重意兄、伏山孫一?)
四代 鈴木重行(雑賀孫一、長重の子、石山合戦で戦死した鈴木孫一?)
五代 鈴木重兼(雑賀孫市、孫一入道、良固、義方、三吉?、佐太夫重意子、孫六重秀兄)
六代 鈴木重朝(雑賀孫市、孫三郎、重秀養子、水戸藩旗本)
七代 鈴木重次(雑賀孫市、豊若丸、孫三郎、重兼の子?重朝養子、水戸藩家老)
八代 鈴木重義(雑賀孫市、養子、水戸藩主徳川頼房十一男)

332:人間七七四年
10/09/20 23:38:50 PWdqE/m7.net
重秀(重兼?)孫一や、重朝孫一の容姿や身長、性格等について書いてある本や伝承などを、知ってる人いませんか?

333:人間七七四年
10/09/22 11:02:34 dPlKoG9R.net
頼れるのが伝承だけ?

334:人間七七四年
10/09/27 22:17:04 FFcuhHaV.net
>>332
残念ながら、鈴木孫一の容姿や身長については伝わっていない
ただ、鈴木孫一の鎧や鑓と伝わる遺物は現存している。
鎧のサイズを見てみると、当時の平均的なサイズなので
155~165センチぐらいだったのでは
それと、石山合戦の中期に「孫一入道」の記述があるので
剃髪していた可能性がある

335:人間七七四年
10/09/30 13:47:55 VeRqImOf.net
朝鮮征伐で、朝鮮側に寝返った雑賀衆はどこの人間なんだろう。
NHKの歴史群像だったかな?では、金忠善の名を与えられ、戦後は済州島で畑を耕し、余生を過ごした。と朝鮮側の記録にあると言ってたけど

336:人間七七四年
10/09/30 13:54:35 7tJ9webC.net
>>335
沙也可の事なら別に雑賀衆とは断定されてないんでは?

337:人間七七四年
10/09/30 16:55:07 VeRqImOf.net
えっ違うの?だったら何者?

338:人間七七四年
10/09/30 23:06:22 NXxmmKLY.net
>>337
沙也可(金忠善)研究は最近かなり進んでいて、
wikiやネットのブログを探せばすぐに説明に
いきつく。詳しくは検索されたし。
簡略に言うと、その沙也可の正体は、加藤清正の
家臣岡本越後守や原田信種という部将の説が有力。

あとは鈴木佐大夫の兄弟や叔父、甥と言われる
鈴木善之という人物の説があるが、実在は年代的にも
記録的にも不明瞭で、さらに朝鮮の役に参加した記述が
見つからないこと、伝承がとぼしいことから、これは
信憑性が薄いらしい。
(鈴木孫一の息子や甥は名護屋城の在番となっている
事実はあるけど、朝鮮には渡っていない)

あとは雑賀衆の岡(岡本)氏の出自という説もあるが、
これも怪しい。雑賀衆、根来衆の残党の幾人かは、兵卒や
足軽頭として出征した伝承があるがこれも確定はされてない。

とにかく降倭の日本人が朝鮮で名族となったのは
確かだけど、雑賀衆や鈴木氏の可能性は極めて
低いそうだ。新しい発見が待たれるね

339:人間七七四年
10/11/11 04:18:02 BQbDVtsA.net
孫市のレクイレム動画 ~ダチ~
URLリンク(www.youtube.com)

ただの神だったわ・・


340:人間七七四年
10/11/26 16:42:54 mpGTQx0n.net
保守

341:人間七七四年
10/11/27 22:43:04 4gJJAmxF.net
>鈴木孫一の鎧や鑓と伝わる遺物

どこで見られるの?


342:人間七七四年
10/12/20 13:05:50 o7DaV66X.net
神奈川にさいか屋ってデパートあるんだけど、あれ雑賀の末裔が始めたんだな


343:人間七七四年
10/12/20 18:50:48 BYYbOUUP.net
それは知らなかった。藤沢だっけ?

344:人間七七四年
10/12/31 16:57:37 EV/+W1HI.net
>>343
横須賀

345:人間七七四年
11/03/25 06:43:50.28 t8Uu6Qvk.net
4月27日
雑賀孫市祭り公式サイト

URLリンク(magoichi.fc2web.com)




346:人間七七四年
11/03/26 19:57:15.16 p31EVjB8.net
鈴木重秀 足(E)、騎(B)、鉄(S)、水(E)
鈴木重朝 足(E)、騎(E)、鉄(A)、水(E)
鈴木佐大夫

347:345
11/03/31 02:45:53.34 6tLFtxIU.net

3月だったorz

348:人間七七四年
11/04/01 01:29:33.24 dF1R99BN.net
雑賀の里が被災者の受け入れを表明してるな




349:人間七七四年
11/04/01 04:57:20.88 z72TSxGU.net
雑賀の里の平井はBちく

350:人間七七四年
11/04/01 08:23:01.99 B/CW4G/C.net
URLリンク(jam2.minnahp.jp)

351:人間七七四年
11/08/13 19:01:25.16 fRJBYrsX.net
>>202
あるゲームでは能力は酷いが一応織田家の城主任されてるな
九鬼と関係が深いみたいだけどとくに興味わかなかった

352:人間七七四年
11/10/08 03:06:06.61 pXEggs3m.net
保守あげ

353:人間七七四年
11/10/09 18:48:00.73 1nvm4mrS.net
太田城の太田党
太田左近は範疇外?

354:人間七七四年
11/11/22 03:19:02.47 6A4eOQA7.net
>>353
宮郷(社家郷、神郷)の太田党も雑賀衆。
ただ、十ヶ郷、雑賀荘の雑賀衆(鈴木、岡、土橋、
宮本(湊)、島本(狐島)、松江など)とは
河川の中州の芝と呼ばれる耕作に適した土地や
塩浜(塩田)、農業用水の争奪、境界の土地争いで、
鎌倉時代末期から領民の争いが続いていたらしい。
太田党は宮郷の日前宮・國懸宮の宮司で紀元前から
続く国衙・国司の末裔紀氏の私兵で、頭領は代々
紀氏の氏族である太田氏が勤めていた。
太田党は弘治年間に根来衆、次いで元亀年間に
織田信長と軍事同盟を結んで十ヶ郷の鈴木孫一や
雑賀荘の土橋守重と戦った記録があって、
これも古くからの境界争いに起因している。
ただ、天正年間の信長や秀吉の紀州討伐では
鈴木孫一らと休戦し、これらの外敵と戦った
という史料もある。

355:人間七七四年
12/01/15 14:27:44.37 u2+mRcgO.net
イチローは、鈴木重秀の息子の生まれ変わりか?

356:人間七七四年
12/01/16 23:52:17.72 IBRMQfA4.net
雑賀孫一って組織の名称じゃないのかね
個人をさした名ではなく団体をさしたもんだと思われ

357:人間七七四年
12/01/19 18:58:22.52 1xyY51SG.net
根拠もなさそうなので流させてもらいます

358:人間七七四年
12/01/20 08:38:17.38 hlPoMMw/.net
団体じゃなくて、集合的人格だろ。
伝説の人物には、そういうのが多いよ。

359:人間七七四年
12/02/18 00:51:44.30 5ZVc5VOX.net
もっと確実な資料があればなぁ。

織豊政権に抵抗、自主独立の紀州武士の気風が、
徳川時代の支配を受け容れ、泰平の世を迎えるまで・・・。
大河ドラマに普通に使える題材だろうに。
孫市伝説も所詮言い伝えレベルじゃ、説得力に欠けるんだよな。。

360:人間七七四年
12/02/20 12:09:32.44 J/kzGsEu.net
【山岳民族】山・高地の習俗・伝説【山の民】
スレリンク(min板)l50

361:人間七七四年
12/02/23 03:24:32.96 WFsVtXec.net
小説なんかだと忍者みたいな扱いになってること多いよね

362:人間七七四年
12/03/16 06:51:50.53 JwFSPSlp.net
URLリンク(www.youtube.com)

363:人間七七四年
12/03/16 07:35:03.93 kWx59lZ9.net
>>361
伊賀も甲賀もやってることも出自も形態も根来とあんまり変わらんからねw
忍者と思われてもしかたない。
そもそも、忍者の線引きをどこに引くかによるよね。

364:人間七七四年
12/03/16 22:42:14.71 CXjg5n6c.net
昔鉄砲の達人
今は法律の大家

365:人間七七四年
12/03/16 23:38:29.72 yHBMxIIQ.net
以前プロ野球のコミッショナーやってた根来氏はこの末裔と有名ですぞ

366:人間七七四年
12/03/23 01:29:32.07 79NXszDt.net
根来検事総長ですぞ!

367:人間七七四年
12/05/07 23:01:47.30 RWlAjm+4.net
九度山の真田祭へ
雑賀衆の応援参加に違和感ねぇか?

URLリンク(sankei.jp.msn.com)

368:人間七七四年
12/05/08 16:26:32.02 w41BcUNX.net
>根来氏

海草中学、
前に甲子園出てた和歌山向陽OBか

369:人間七七四年
12/06/08 03:36:59.45 Vd9R8TVy.net
>>359
史料や家譜、家伝は少ないが残ってはいる
研究者やまとめる人が非常に少ないので
総括的・全国的なまとまった研究や総論がなされていない
今の武家史観傾向だとどうしても惣村の到達点の一つである
雑賀衆研究は、ないがしろにされる

370:人間七七四年
12/06/08 03:41:37.80 Vd9R8TVy.net
>>363
成立の傾向は近い。
伊賀や北紀、和泉あたりは南北朝の頃から
惣村が発達して早くから荘園領主や地方武家の与力、
傭兵として契約を結び、これが稼業になっていった

371:人間七七四年
12/06/08 03:54:31.55 Vd9R8TVy.net
>>365
元プロ野球コミッションの根来広光氏は1585年の秀吉の紀州討伐の後、
関ヶ原で毛利氏に味方して戦功を立て、そのまま長州に残った
紀伊那賀郡荊本邑田中荘龍門山の土豪、根来寺岩室坊田中氏の子孫。
岩室坊田中氏のルーツは楠木正成の三男・楠木正儀の嫡子・楠木正祐が、
南北朝の動乱の折、二歳で龍門山に捨てられ、田中荘の人々に
拾われ育てられて土着し、その後成人して根来寺に入山したことに由来する。
岩室坊田中氏は、1600年に正式に毛利氏に仕えた際、姓を根来氏に改名し、
以後子孫は長州根来氏を名乗る

372:人間七七四年
12/06/08 04:09:30.57 Vd9R8TVy.net
>>358
雑賀孫一は雑賀鈴木氏の頭領の名称。
源義経に仕えた紀伊藤白の鈴木三郎重家、亀井六郎重清兄弟の父、
鈴木庄司次郎重倫の直系の子孫、鈴木一郎重國が、南北朝の頃に
雑賀地方に土着してその子供は小一郎重郷、その孫が
孫一郎重村と名乗り、重村以降、雑賀鈴木氏の頭領は
孫一郎や孫一を名乗り、重村は初代鈴木孫一として家譜を繋いだ
雑賀鈴木氏の頭領が雑賀孫市を名乗るようになるのは江戸時代からで、
石山合戦で活躍した五代目鈴木孫一の重兼(重秀)の養子
鈴木孫三郎重朝が水戸藩に仕えた際、雑賀の武名を残すため
鈴木を改め雑賀孫市を名乗った

373:人間七七四年
12/06/10 23:32:54.60 +wQHPgqX.net
やっぱり雑賀孫市は二人(以上)いたのか

374:人間七七四年
12/06/11 14:13:08.93 WFn/orgF.net
>>373
前にも書き込んだけど、藤白鈴木氏、雑賀鈴木氏の家譜では
こういう位置づけらしい

    鈴木重國(藤白鈴木庄司雑賀一郎、四代前重吉の時雑賀に住す)
    鈴木重郷(雑賀小一郎)
初代 鈴木重村(雑賀孫一郎)
二代 鈴木重家(雑賀孫一郎)
三代 鈴木長重(雑賀孫一、鈴木佐太夫重意の兄)
四代 鈴木重行(雑賀孫一、長重の子、石山合戦で戦死した鈴木孫一?)
五代 鈴木重兼(雑賀孫市、孫一入道、良固、義方。佐太夫重意子、孫六重秀兄)
六代 鈴木重朝(雑賀孫市、孫三郎、三河鈴木氏出身、重秀養子、水戸藩旗本)
七代 鈴木重次(雑賀孫市、豊若丸、孫三郎、重朝養子、水戸藩家老)
八代 鈴木重義(雑賀孫市、養子、水戸藩主徳川頼房十一男)

三代目鈴木孫一の鈴木長重の頃にすぐ下の弟の鈴木佐大夫重意が、
五代目鈴木孫一の鈴木重兼の頃に末弟の鈴木孫六重秀が、
それぞれ鈴木孫一を名乗っていた時期もある

375:人間七七四年
12/06/14 23:05:56.73 BQ1uAtf3.net
雑賀孫市は国盗り物語で全国区

376:人間七七四年
12/06/16 11:46:53.11 Ho93kZoF.net
和歌山には岩橋姓が多いけど、中郷岩橋氏の子孫なの?

377:人間七七四年
12/06/17 04:43:53.80 lDluPcEQ.net
>>376
多分そうでしょう
室町期の岩橋荘は湯橋とも呼ばれ、根来寺の坊院・威徳院にも
氏人を送った雑賀衆の有力氏族の一つだった。
戦国時代には岩橋源大夫という有力者がいて、
隣接する和佐荘の和佐氏とは、昔から境界争いが絶えず、
岩橋氏と盟約を結んだ土橋・鈴木孫一と敵対する
和佐や根来衆との抗争を繰り広げていたらしい

378:人間七七四年
12/06/18 09:23:59.88 bYSZHAYg.net
どうでもいいけど、近所に鈴木さんと雑賀さんが一緒に住んでる
よくある2世帯系の表札で「鈴木 雑賀」と

379:人間七七四年
12/06/19 01:01:27.35 lzCmJUO8.net
>>378
雑賀は屋号の感覚に近い
近世の頃、雑賀衆の一向門徒の子孫だった
鈴木、岡(岡本)、島本、宮本、松江、このあたりが
仕官のクチを求めて全国に散らばり、先々で本来屋号だった
雑賀姓を名乗るようになった
最も多いのが鈴木→雑賀の変遷で、明治の戸籍登録や昭和のはじめ、
それと終戦後の頃に雑賀→鈴木に姓を戻した家も多い
雑賀姓=鈴木姓という検証もある
さいか屋デパートの雑賀さんは岡(岡本)の末裔

380:人間七七四年
12/07/04 22:03:38.02 FZjflDH3.net
孫市は何人いたんだ?

381:人間七七四年
12/07/16 15:58:29.17 Orn/HqUl.net
宮郷住みです(中郷寄り)
今じゃほとんど住宅街です


382:人間七七四年
12/07/16 19:54:01.01 oM7dZORd.net
重朝が一時期伊達家で何してたのか?
ホイホイ銃術伝授してたのか

383:人間七七四年
12/07/20 18:12:35.49 9LPLkYLf.net
この時代の紀南には何があったの?
那智あたりはわかるけど串本あたりとか何もなかったのかな?

384:人間七七四年
12/07/21 11:56:44.11 jl/1O8ep.net
>>381
今も宮郷、中郷って呼び方で通じるんだな
宮郷は戦国時代末期までは神郷、神宮郷、社家郷とも呼ばれ、
郷の領域がそのまま紀伊国造の子孫、紀氏が代々宮司を司った
日前神宮・國懸神宮の神領だった
この神領を鎮護していたのが、同じく紀氏の一族で雑賀衆の一派の太田党
宮郷の歴史はとても古くて、紀元前に木ノ国といわれた頃から
古代豪族紀氏の本拠地として、宮郷一帯は木ノ国の中心地だったらしい

385:人間七七四年
12/07/21 12:15:03.32 jl/1O8ep.net
>>382
鈴木重朝が伊達氏に庇護されたのは、おそらく西軍に加勢したからでしょう
では、なぜ庇護されたかというと、この鈴木孫三郎重朝というのは
実は徳川家康の庶子という伝説が昔から伝わっているのだ
重朝の別名は鈴木一蔵重康といい、はじめ徳川氏の重臣・三河鈴木氏に
養育され、雑賀衆の一部が徳川家康と盟約を結んだ1580年前後に
雑賀十ヶ郷平井の鈴木孫一の養子に出されたと推測されている
雑賀鈴木氏と三河鈴木氏は、共に紀伊国藤白穂積鈴木庄司を祖とする
遠縁の同族にあたり、その縁によって遠方に養子に出された可能性もある
重朝が後に水戸に使えた後、その子供や同族に一蔵の名前が見えたり、
水戸藩主徳川頼房の息子が重朝の家(雑賀孫市家)に養子に入ったりするのを見ると
重朝はかなりワケありな人物だったと考えられる

386:人間七七四年
12/07/21 12:34:42.06 jl/1O8ep.net
>>383
戦国時代の南紀地方には、熊野八庄司(八庄司といいながら、実は
たくさんある、10~20家ぐらい)とよばれた平家由来の御家人の末裔や
熊野別当の宮司・国人が割拠していた
串本や古座などの牟婁郡あたりには、山本氏、小山氏、高河原氏、
周参見氏、安宅氏、野長瀬氏、愛洲氏らが割拠して、
守護畠山氏や伊勢の北畠氏に属し、当時南紀で勢力をのばしていた
新宮熊野三山の堀内氏と戦っていた
那智の滝のあたりは、これも熊野別当の色川氏というのがいて、
前述の山本氏や小山氏と同盟して堀内氏と戦っていた
この新宮堀内氏と熊野八庄司連合の戦いでも、多くの雑賀衆や
根来衆が敵味方に分かれて参戦していて、中之島の佐武伊賀守は
堀氏氏の軍師として数年間出仕している
また、このあたりの土豪・国人の一族の一部は、家元を離れて
雑賀衆に属して石山合戦で織田信長と戦ったりもしている
特に山本氏、小山氏は一族の多くが雑賀地方に移住して石山合戦に
従軍したことが知られている

387:人間七七四年
12/07/21 12:56:26.06 jl/1O8ep.net
紀伊中部の有田郡には守護畠山氏が本拠地を構えていたが
戦国時代になるとその勢力は衰えた
替わって台頭したのが、鎌倉以来の御家人の末裔、熊野八庄司の
面々で、畠山氏の被官の立場を保ちつつ、国人領主としての道を歩んでいた
その中心が畠山氏の紀伊国支配の代理人になった有田郡の湯川氏で、
それに続くのが日高郡の玉置氏、目良氏、横矢氏、真砂氏、竜神氏、
貴志氏など、これらもすべて守護畠山氏の被官でありながら、湯川氏の
有力な家臣として三好氏や織田信長、豊臣秀吉と戦った
この紀中の湯川氏を中心とする集団は「湯川党」といわれ、紀伊国人衆の
有力な外征部隊として、雑賀衆、根来衆と共に戦った

388:人間七七四年
12/07/21 13:52:31.32 rKZ76MaG.net
>>384
正確には宮地区と呼ばれ、宮のほか太田など5地区で旧宮郷だと思われます
かつて治めていた土豪の名前がそのまま地名で残っています
旧宮郷と旧中郷の間には現在でも住所が飛び地になってる場所も存在したりします


389:人間七七四年
12/07/21 15:33:49.53 0NrcMUru.net
>>386
詳しくありがとう!ぐぐっても情報少ないし気になってたんだ!!

390:人間七七四年
12/07/21 22:19:34.95 4Y/C9SZK.net
>>388
太田党の有力な土豪は十ヶ郷や雑賀荘の境界争いになると、
太田氏の太田城や、堀内氏の秋月城などに集まって、戦を行っていたらしい
特に仲が悪かったのが、十ヶ郷の鈴木氏、雑賀荘の岡氏や湊衆
それとご指摘の通り、中郷や雑賀荘、南郷にも飛び地があり、
太田城を中心とする地域一帯は上宮といわれ太田氏の太田党がこれを治め、
雑賀荘の毛見、南郷の吉礼といった飛び地は下宮と呼ばれてそれぞれの在地の
土豪が神領鎮護の任務にあたっていた
太田党は岩出の根来衆とも関係が深く、鳴神氏や神前氏などが根来寺に氏人を
派遣していた関係もあるらしい
また、敵対する雑賀衆や湊衆からも、雑賀に反目する人々を受け入れていた
(湊衆の植松彦次郎、雑賀荘の嶋掃部、藤田六郎などの名が伝わっている)


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