暇つぶし2chat OUT
- 暇つぶし2ch150:底名無し沼さん
18/01/29 16:40:33.95 BdtTryWp0.net
0-ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、
祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富士垢離」の手法
を広めている。加えて富士山をエムゾネ航海の目印とする伊豆半島
の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の
勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前
半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を背景
に一定の権威をもち、登山道及びその頂エムゾネ上部の大日堂周辺
を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復
され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913年改築
されたものを基本としている。1868年、神仏エムゾネ分離令に
より浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、
1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし
、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在
は1970年代より活発になった地域住民による伝統復活エムゾネ
のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また
、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三
重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている
。写真村山浅間神社の写真B-4須山浅間神社富士山の南東麓
、須エムゾネ山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神
とする神社である。その起源は1598年作の社伝旧記による
と110年、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社
を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとあ
る。記録上神エムゾネ社の存在が確認できるのは1524年で修築
時の棟札による。また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢
500年以上と推定されており、遅くともこの時期までに須山
浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿は1
823年の再建であるエムゾネ。1707年の宝永噴火によ

151:底名無し沼さん
18/01/29 16:41:00.94 BdtTryWp0.net
すことになる。しかし、昭和に入ると富士エムゾネ信仰のありかた
の変化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰
退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、
富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管
理が困難となって、1973年から74年にエムゾネかけて、-3
2-本殿を里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった
様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土
地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修エムゾネ理・整備の
経緯1973年本宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備さ
れた(~74年)1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要
文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995年外部
の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年エムゾネ「重要文
化財冨士御室浅間神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化
財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定
)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御
師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のためのエムゾネ一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くはエムゾネ短冊
状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路
の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧外川家
住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最エムゾネ盛
期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅
は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の
東側南端に位置する。1572年の町割によって成立した

152:底名無し沼さん
18/01/29 16:46:32.95 BdtTryWp0.net
道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山道が再興さ
れ、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者があった
。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心的
存在であり、村全体で須山口登エムゾネ山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家
に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部
で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでい

153:底名無し沼さん
18/01/29 16:46:59.11 BdtTryWp0.net
向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建てエムゾネ
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しお
のや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀
家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」
には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されてエムゾ
ネおり、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1
669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される
。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが、1962年
に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所有者が取り壊エム
ゾネす意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年か
ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
エムゾネ経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田
市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「
山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定201
1年文化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、
富エムゾネ士講によって大きく発展した御師集落である富士吉田市
上吉田地区にあって、富-33-士山に登拝する人々を宿泊させ
た宿坊として、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の
雪代の被害を避けるため、1572年に旧地である古吉田地区か
ら集エムゾネ落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北
東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられてい
る。小佐野家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが
150mほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元
亀の集エムゾネ落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられ
る。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は
小佐野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿

154:底名無し沼さん
18/01/29 16:51:40.56 BdtTryWp0.net
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ちエムゾネ、1940年頃ま
で境内で富士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。18
83年、御殿場口登山道が開設され、1899年の東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山
者を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍エムゾネ演習場と
なり使用不可能となったため、須山口は衰退した。しかし、そ
の後都市化の影響を余り受けなかったため、須山浅間神社周辺
は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真
須山浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口エムゾネ
登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来、交通の要
衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事
を行い、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地
であエムゾネるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したと
される。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、157
1年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保
護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以
降、須走浅間エムゾネ神社は当時の須走村の御師などと共に須走口
登山道を支配し、


155:山頂部薬師嶽(現-31-久須志岳)の薬師 堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これ ら山頂部の権利については八合目以上の支配権を主張する富士 山本宮浅間大社と争いエムゾネになり、須走村は1703年と17 72年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、これらの 権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御 師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権 威を高めている。社殿は、記録エムゾネの残っている範囲では16 62年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲葉氏 などの援助によって修造が行われた。しかし1707年



156:底名無し沼さん
18/01/29 16:52:09.39 BdtTryWp0.net
参詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東
側には所エムゾネ有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅
には所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表法
的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重要文
化財として指定1977年消防設備設置を行う1979年屋根の
葺替えを行エムゾネう1996年雨樋いの補修を行う1997年主
屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い20

157:底名無し沼さん
18/01/29 16:58:13.09 BdtTryWp0.net
噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に
再建された。この後もこの際の部材を使エムゾネ用し、2009年
の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路
があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に
かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が
登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800エムゾネ年の御縁
年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半
まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営し
た。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社のエムゾネ
写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅
間神社(山宮浅間神社か~)が執り行っていたが、864年~
866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が
建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸
にあエムゾネり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる
。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の
宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御
師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大
流行と、それエムゾネに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集
落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、
河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を
行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠
かすことができない資エムゾネ産である。写真河口浅間神社の写真
表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年
「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間
神社冨士御室浅間神社は吉田口エムゾネ二合目に鎮座した本宮(も
とみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されて

158:底名無し沼さん
18/01/29 16:58:42.09 BdtTryWp0.net
「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9山中湖富士
山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山の北東に位置
する。富士山エムゾネ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行わ
れたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝
地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられ
たほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある芸術家も多く
、山中湖を描いエムゾネた文学や絵画が散見する。富士山の頂上付
近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、多くの
写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火山活
動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山周
辺の湖を巡って修エムゾネ行する内八海巡りが行われたが、この河
口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で
、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのあ
る芸術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この
河口湖が最も多い。エムゾネ葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師
も、河口湖越しに見える富士山を描いている。写真河口湖の写真
表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「
山梨県富士五湖の静穏エムゾネの保全に関する条例」を制定200
6年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制
される-34-2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定
)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B1
1忍野八海富士山の北東エムゾネ、忍野村忍草にある、富士山の伏
流水による八つの湧水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧
池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を
祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者た
ちはこの水で穢れを祓ったエムゾネ。長谷川角行が行った富士八海
修行になぞられ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱え

159:底名無し沼さん
18/01/29 17:04:22.38 BdtTryWp0.net
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初
とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあ
る。富士修験の信仰拠点は南西の村山でエムゾネあるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。また、社記によると9
58年、二合目は冬季における参詣が難儀であることから河口
湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時エムゾネ代以降富
士講の隆盛にともない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとして
この二合目の役割はさらに増すことになる。しかし、昭和に入
ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの開通等
もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通エムゾネ
過する登拝者も激減する。また、富士御室浅間神社本宮を支え
てきた氏子にとっても、その維持管理が困難となって、197
3年から74年にかけて、-32-本殿を里宮地内に移転する
こととなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として
位置エムゾネづけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里
宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅間
神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿
・二合目から里宮境内地に移築、整備された(~74年)19
85年本宮本エムゾネ殿・文化財保護法の下に重要文化財として指
定1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り
直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史エムゾネ跡富士山として指定(予定)201
1年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅
御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をする
とともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御
師として代表的なのは、吉田口エムゾネ登山道の起点である

160:底名無し沼さん
18/01/29 17:04:48.42 BdtTryWp0.net
古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興さ
れたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周
辺図表法的保護、修理・整備エムゾネの経緯1934年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計
画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010年街
なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(~14
年)2011年「天然記念物忍エムゾネ野八海保存管理計画」を策
定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされる
長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津
胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考え
られる)を発見し、浅間明神を祀エムゾネった。1673年、富士
講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った
焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ
、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという
故事に倣い社号を無戸室浅間神社とエムゾネ名付けた。富士道者は
、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内
外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られてい
る。写真船津胎内樹型の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の経
緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定
2010年「山梨県南都留郡富士河口湖町町内国指定天然記念物
溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉田胎内樹
型吉田胎内本穴は、1892年に富士道エムゾネ者により整備され
た「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士
講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。樹
型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、その
下段には、さらに横穴があり左右に分かれエムゾネている。右の穴
が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開

161:底名無し沼さん
18/01/29 17:10:10.59 BdtTryWp0.net
宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状を
なし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の
奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄エムゾネ関から奥へ客室が
続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧
外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最
盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧

162:底名無し沼さん
18/01/29 17:10:37.48 BdtTryWp0.net
祀る母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、
夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。-35-本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理エムゾネしている。写
真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年
史跡名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「
天然記念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講
遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街エムゾネ道沿いに位
置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間
神社と富士講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟であ
る人穴がある。長さ約83mの人穴は約11,000~8,00
0年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものエムゾネである。
1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的
な場所であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていた
ことが記述されている。この内容は遅くとも1603年までに説
話化され、多くの人にその存在が知られていた。富エムゾネ士講関
連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお
告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よ
りお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り口とし、
「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴エムゾネは富
士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を行
う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定され
る。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあったと推定され
ている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、164エムゾネ8
年及び1665年、その前身である光~寺が富士講二世日珀(正
しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があ
り、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1
868年の神仏分離令により20世紀までには大日堂が人エムゾネ
穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年、付近

163:底名無し沼さん
18/01/29 17:15:41.34 BdtTryWp0.net
住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉エムゾネ田市上吉
田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によって成
立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷
地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩
廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住エムゾネ
し、下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「
吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」
の屋敷が記されており、外川家ではこの人物を中興の初代とし
ている。また、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋
敷とエムゾネして確認される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛
期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽
化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄
贈を受け、2006年から2007年にかけ大規模保存修理事
業を行った上エムゾネで、2008年4月から富士吉田市歴史民俗
博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住
宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全
修理を行う2008年富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設と
して一般公開を行う2エムゾネ010年「山梨県指定有形文化財旧
外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下
に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講によって大き
く発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区にあって、富
-33-士山に登拝する人々をエムゾネ宿泊させた宿坊として、代
表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を避
けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に
沿って短冊状に町割が行われたと伝えらエムゾネれている。小佐野
家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150m
ほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元

164:底名無し沼さん
18/01/29 17:16:09.16 BdtTryWp0.net
地となったため一時移転したが、1954年に現在地に復興され
た。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養
碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰によるものであエムゾ
ネる。そのほかに富士山に何回も登ったという登拝記念や大願成
就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の
講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推
定されている。碑塔で建立年代のわかる89基の内、富士講

165:底名無し沼さん
18/01/29 17:21:18.14 BdtTryWp0.net
落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御
師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当エムゾネ主は小佐
野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参
詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東
側には所有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅には
所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表エムゾネ
法的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重
要文化財として指定1977年消防設備設置を行う1979年
屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を行う1997年
主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い201
0年エムゾネ「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9
山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山
の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡
りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古
くから景勝地エムゾネとして有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかり
のある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。
富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士
と呼ばれ、多くの写真エムゾネ家を集める。写真山中湖の写真B1
0河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山
の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古く
から景勝地として有名で、20エムゾネ世紀前半には湖畔に洋式ホ
テルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材にし
た文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾北斎
や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を
描いている。写真河口湖の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の
経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の

166:底名無し沼さん
18/01/29 17:21:46.19 BdtTryWp0.net
ゾネ隆盛した18世紀末から19世紀前半(1781から185
0年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より20
世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基
)を占める。写真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5k
エムゾネmにある落差約20~25m・幅約120~210mの数
百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸溶岩流
の末端から湧き出す一日平均13万~の水を源としている。滝の
名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため
名エムゾネづけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり
、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界に降水・雪
解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間よ
り湧き出しているものである。このメカニズムが解明される前の
19エムゾネ世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を富
士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書では、
開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行った
地と記されている。-36-その後、白糸の滝は富士講を中心と
した人エムゾネ々の巡礼の場となった。その様子は1845年と1
854年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝つぼ
の中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」とし
ている。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に
描かれてエムゾネいる。そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共
にその存在が長谷川角行との関わりを通して紹介されている。ま
た、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの和歌・絵画の
題材となっている。写真B15の写真表法的保護、修理・整備の
経緯193エムゾネ6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及
び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸ノ滝」保存
管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が

167:底名無し沼さん
18/01/29 17:27:37.74 BdtTryWp0.net
富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏
の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される-3エムゾネ4-20
11年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名
勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士
山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧
水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡エムゾネ
池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信
仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞら
れ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場
と伝エムゾネえられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺
図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を
策定、忍野八エムゾネ海周辺を景観形成重点区域に指定2010年
街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(~
14年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策
定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされ
る長谷川角行が富士登エムゾネ拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼
入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひ
とつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年
、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖
が祀った焼入の地の浅間明神がエムゾネ遷宮された。浅間明神誕生
の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子
を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた
。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的なエムゾネ意義付けが

168:底名無し沼さん
18/01/29 17:28:05.80 BdtTryWp0.net
れ、これにとエムゾネもなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整
備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の南西約45kmに
位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴をなす三保半島
上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海岸線4km
を中心に繁茂しエムゾネ、その中でも樹齢約650年といわれる「
羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好まれた景観
を組み合わせて望むことができる景勝地として知られている。三
保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと考
えられ、三保の名エムゾネ前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえた
という説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀
初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集
」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は
後鳥羽上皇など中央エムゾネの権力者に富士山と組み合わされた景
勝地として認識され、14~15世紀には室町幕府将軍足利義満
と足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船
で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保
半島内海側に富士見櫓エムゾネを建設した。文学では「万葉集」以
降も和歌等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣
の松を舞台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに
成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話
の最終場面ではヒロインエムゾネの天女が富士山方向へ飛び去って
いく描写が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で
示された富士山の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えと
の関係が指摘されている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝
えられ、イェーツ、パウンエムゾネドといったモダニズムの作家に
影響を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるき
っかけを作った作品である。また、絵画でも15~16世紀には
三保松原を右に富士山を左に配する構図が描かれ、この構

169:底名無し沼さん
18/01/29 17:33:17.67 BdtTryWp0.net
るとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花
開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に
天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留エムゾネ郡富士河
口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計
画書」を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年
に富士道者により整備された「御胎内」である。吉田胎

170:底名無し沼さん
18/01/29 17:33:44.51 BdtTryWp0.net
野探幽により完成され、19エムゾネ世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世
紀には和田英作が「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描い
た。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地となり松が守ら
れてきた。江戸幕府滅亡後は内エムゾネ海側の開発が進んだが、外
海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財
に指定された。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイム
シによる松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体に
よる保護活動が行われている。写エムゾネ真三保松原(現在の写真
・静岡市)写真歌川広重の浮世絵-37-写真三保松原の写真表
法的保護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策
定1977年名勝地内の一部が指定エムゾネ解除1989年名勝「
三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追
加指定及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書
を改定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環
境を構成する諸要素世界文化遺産「富エムゾネ士山」の顕著な普遍
的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価
値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m
)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的
美しさと崇高さを基盤として日本人の自エムゾネ然に対する信仰の
在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕
著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術
活動などを通じ、時代を超えて一国の文化エムゾネの諸相と極めて
深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、
人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型と
して、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山

171:底名無し沼さん
18/01/29 17:38:47.32 BdtTryWp0.net
の奥には、石祠があって富士講にとっての富士山の祭神でエムゾネ
ある木花開耶姫が祀られている。樹型内に入ると横穴の正面に
は、食行身禄を祀る石祠があり、その下段には、さらに横穴が
あり左右に分かれている。右の穴が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る
父の胎内で、左の穴が木花開耶姫を祀る母の胎内である。富士
講講エムゾネ徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを
し、翌朝富士山に登山した。-35-本穴については、古くか
ら冨士山北口御師団が管理している。写真吉田胎内樹型の写真
表法的保護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然紀念物
法の下に天然エムゾネ紀念物として指定2010年「天然記念物吉
田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講遺跡富士山
西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街道沿いに位置する。木花開
花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間神社と富士講
の人々による約230エムゾネ基の碑塔群及び溶岩洞窟である人穴
がある。長さ約83mの人穴は約11,000~8,000年
前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものである。1300
年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的な場所
であり、地元では「浅間大菩薩エムゾネの御在所」とみられていた
ことが記述されている。この内容は遅くとも1603年までに
説話化され、多くの人にその存在が知られていた。富士講関連
の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお
告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等エムゾネを達成し、浅間大
菩薩よりお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り
口とし、「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴
は富士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修
行を行う者も見られた。その大部分は吉田口登山エムゾネ道の利用
者と推定される。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあ
ったと推定されている。人穴浅間神社の創建は明確では

172:底名無し沼さん
18/01/29 17:39:15.31 BdtTryWp0.net
。本計画では、顕著な普遍的価値に対し、資エムゾネ産に含まれる
要素を「顕著な普遍的価値を構成する諸要素」と「顕著な普遍的
価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素」に分類し、さらに
緩衝地帯における「周辺環境を構成する諸要素」を加え、表に示
すとおり整理を行った。A富士山山体及び登山エムゾネ道B信仰に
関わる周辺のものC富士山から離れた眺望に関わるもの表富士山
の構成要素A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡・富士

173:底名無し沼さん
18/01/29 17:44:57.59 BdtTryWp0.net
、1648年及び1665年、その前身である光~寺が富士講
二世日珀(正しくは王へんに日)、三世珀心(同)によりエムゾネ
再興された記述があり、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎
により再興された。1868年の神仏分離令により20世紀ま
でには大日堂が人穴村の氏神としての浅間神社となった。19
42年、付近が軍用地となったため一時移転したが、1954
年にエムゾネ現在地に復興された。境内の碑塔は、その4分の3(
194基)が墓碑ないし供養碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富
士講の信仰によるものである。そのほかに富士山に何回も登っ
たという登拝記念や大願成就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔
などがある。エムゾネ碑塔は富士講の講毎に群を成した所があり、
その目的は講の勢力を誇るためと推定されている。碑塔で建立
年代のわかる89基の内、富士講が隆盛した18世紀末から1
9世紀前半(1781から1850年)に建立されたものが半
数(44基)、19世エムゾネ紀末より20世紀前半(1871か
ら1940年)のものが3分の1(29基)を占める。写真B
14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5kmにある落差約2
0~25m・幅約120~210mの数百の流れを持つ滝であ
る。滝は約1万年前に噴出したエムゾネ白糸溶岩流の末端から湧き
出す一日平均13万~の水を源としている。滝の名前は湧水の
噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため名づけられ
た。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり、透水性の白糸
溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界にエムゾネ降水・雪解け水が
滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間より湧き
出しているものである。このメカニズムが解明される前の19
世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を富士五湖の
伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書エムゾネでは、開
祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を

174:底名無し沼さん
18/01/29 17:45:27.62 BdtTryWp0.net
奥宮・東北奥宮(久須志神社)・金明水・銀明水・八葉(剣ヶ峰
、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆岳、朝日岳、エムゾネ浅間岳、
駒ヶ岳、三島岳)・大内院・小内院・馬の背・東安河原・西安河
原・虎岩(獅子岩)・割石・雷岩・このしろが池・荒巻・吉田須
走拝所跡・須山拝所跡・村山大宮拝所跡・三島ヶ岳経塚・外浜道
・内浜道A2大宮・村山口登山道・札打場・中宮八エムゾネ幡堂跡
(1号建物跡)・八大龍王・5号建物跡・8号建物跡・12号建
物跡・鳥居A3須山口登山道・須山御胎内(溶岩洞穴)・石像・
石燈篭・鳥居・標柱・祠A4須走口登山道・古御岳神社・迎久須
志之神社・鳥居・狛犬・石碑A5吉田口登山道・現登エムゾネ山道
・旧登山道・馬返・五合目・烏帽子岩A6北口本宮冨士浅間神社
-38--39-・本殿・東宮本殿・西宮本殿・大塚山・御鞍石
A7西湖・湖水A8精進湖・湖水A9本栖湖・湖水・中ノ倉峠か
らの展望B1富士山本宮浅間大社・神立山・湧玉池(上エムゾネ池
、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿)・透塀・楼門・手水
舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥居・桜の馬場・禊所・神
幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)・護摩堂跡(推定)・随身像・
狛犬・御神幸道首標の碑・三之宮・七之宮・鉾立石・欄干エムゾネ
橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅間神社・溶岩流地形・社叢・
籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(参道)・石塁・玉垣・遥拝所・
石鳥居・参道B3村山浅間神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ
池」・御神木(イチョウ、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・エムゾ
ネ大日堂(興法寺)・水垢離場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社
)・石鳥居・氏神社鳥居・手水舎(手水鉢)・石段(参道)・狛
犬B4須山浅間神社・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎
・参道・鳥居・石碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神エム
ゾネ社)・社叢(浅間の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上
がりモミ・社殿・楼門・参道大鳥居・裏参道鳥居・富士塚

175:底名無し沼さん
18/01/29 17:51:16.13 BdtTryWp0.net
地と記されている。-36-その後、白糸の滝は富士講を中心
とした人々の巡礼の場となった。その様子は1845年と18
54年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝エムゾネ
つぼの中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光
」としている。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書
の挿画に描かれている。そのほかの19世紀の登山記でも人穴
と共にその存在が長谷川角行との関わりを通して紹介されてい
る。エムゾネまた、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの
和歌・絵画の題材となっている。写真B15の写真表法的保護
、修理・整備の経緯1936年所在地が国立公園法の下に(富
士箱根)国立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀念物保存法
の下に名勝及エムゾネび天然紀念物に指定1987年富士宮市によ
り「白糸ノ滝」保存管理計画が策定2010年富士宮市により
保存管理計画が改定され、これにともなった整備計画に基づき
、滝周辺の景観整備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂
の南西約45kmに位エムゾネ置する駿河湾に突き出した長さ約7
kmの砂嘴をなす三保半島上の松原である。現在、5万4千本
の黒松が外海側海岸線4kmを中心に繁茂し、その中でも樹齢
約650年といわれる「羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松
という日本で好まれた景観を組エムゾネみ合わせて望むことができ
る景勝地として知られている。三保松原のある三保半島は約6
000年前に現在の形となったと考えられ、三保の名前は内海
側の三つの岬を稲穂にたとえたという説が有力である。かつて
は半島一帯に松が繁茂し、8世紀初頭にエムゾネは松原自体を景勝
地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集」に掲載された。その
後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は後鳥羽上皇など中央
の権力者に富士山と組み合わされた景勝地として認識され、1
4~15世紀には室町幕府将軍足利義満と足利義エムゾネ教

176:底名無し沼さん
18/01/29 17:51:44.33 BdtTryWp0.net
富士講講碑群B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神
社・吉田口二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石
エムゾネ)・移築された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、
小佐野家住宅)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツミチ)B9
山中湖・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出
口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・
湧エムゾネ水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石
造物群B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石造物群-
40-B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流・
溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参道跡
・道エムゾネ跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆
積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・富士講
・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の巻狩の伝
承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規制B地区・
第1種エムゾネ規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区①自然
地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞穴、樹型
等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富士山原始林及び
青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹型、鳴沢氷穴、本
栖風穴等エムゾネ)②森林、植栽樹木(山林を構成する森林、寺社
・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地、人工林・社叢
林、境内林・富士山特定地理等保護林・富士箱根伊豆国立公園富
士山管理計画区③保存管理又は公開活用を目的とした建造物(展
示館、管理エムゾネ棟、解説板など)・総合案内標識、解説板④道
路とその他の人工物(生活用道路、電柱、看板など)顕著な普遍
的価値を構成する諸要素と密接に関わる諸要素・富士山測候所・
NTT富士山頂分室・便益施設①自然的要素(山並み、河川など
)②歴史的要エムゾネ素(埋蔵文化財、社寺境内、伝承地など)成
する諸要素周辺環境を構③人文的要素(農耕地、市街地、

177:底名無し沼さん
18/01/29 17:57:36.86 BdtTryWp0.net
半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船で渡り富士山を
眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保半島内海側に
富士見櫓を建設した。文学では「万葉集」以降も和歌等の詩の
題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣の松を舞台エムゾネ
とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに成立した
。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話の最終
場面ではヒロインの天女が富士山方向へ飛び去っていく

178:底名無し沼さん
18/01/29 17:58:04.00 BdtTryWp0.net
その他人工物)上表において分類した諸要素について、以下に提
示する。(1)顕著な普遍的価値を構成する諸要素①富士山山体
及び登山道A富エムゾネ士山富士山体のうち、標高約1500m以
上の範囲である。この範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見
た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重
が最も高い。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つ
である「馬返」(エムゾネ乗馬登山が物理的にも、宗教的観点から
も不可能になる地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地
元住民が、とりわけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又
は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。
景観的には山体の傾エムゾネ斜角の変化率が大きくなり「平野部」
と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画
などの対象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートに
は、現在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿
って、富士山体を一周エムゾネする。15~16世紀ごろ富士講の
祖とされる長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ-
41-を通るため富士講信者により修行の道として利用された。
写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信仰遺
跡の分布図・富士山本宮エムゾネ奥宮富士宮口登山道頂上に位置し
、7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命
である。『本朝世紀』には、久安5年(1149)「富士上人末
代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺と称し、
写経を埋納下した」とあるエムゾネ。江戸時代には、村山三坊所有
の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈により山
中の仏像を取り除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅間大神を祭っ
た。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)蹲虎の碑(高さ
139×幅64×厚さ18㎝エムゾネ)奥宮の裏手、浅間岳の麓に
所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵が彫ら

179:底名無し沼さん
18/01/29 18:03:33.32 BdtTryWp0.net
る。天保年間(1830-34)に、岸岱が作ったとされる。(
b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ31㎝)奥宮の前に所
在する。碑面に「鎮國之山」とエムゾネ彫られている。明治31年
(1898)に書家の中林梧竹により建碑された。後年、落雷に
より破壊されたが、昭和42年(1967)に再建された。・東
北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮の末社で、大名牟遅命、少彦
名命を祀る。須走口登山道、吉田エムゾネ口登山道の終点に

180:底名無し沼さん
18/01/29 18:14:37.66 BdtTryWp0.net
栖湖・湖水・中ノ倉峠からの展望B1富士山本宮浅間大社・神
立山・湧玉池(上池、下池)・社叢・社殿(本殿・拝殿・幣殿
)・透塀・楼門・手水舎・廻廊・灯籠・石鳥居・東鳥居・西鳥
居・エムゾネ桜の馬場・禊所・神幸橋(湧玉橋)・輪橋(太鼓橋)
・護摩堂跡(推定)・随身像・狛犬・御神幸道首標の碑・三之
宮・七之宮・鉾立石・欄干橋(神路橋、神路枚橋)B2山宮浅
間神社・溶岩流地形・社叢・籠屋(参籠所)・鉾立石・石段(
参道)・石塁エムゾネ・玉垣・遥拝所・石鳥居・参道B3村山浅間
神社・元村山溶岩流・水源地「竜頭ヶ池」・御神木(イチョウ
、大スギ)・社叢・浅間神社社殿・大日堂(興法寺)・水垢離
場・護摩壇・氏神社(高嶺総鎮守社)・石鳥居・氏神社鳥居・
手水舎(手水鉢)・石エムゾネ段(参道)・狛犬B4須山浅間神社
・社叢・社殿・神輿殿・狛犬・灯籠・手水舎・参道・鳥居・石
碑・古宮神社B5冨士浅間神社(須走浅間神社)・社叢(浅間
の杜)・ハルニレ・エゾヤマザクラ・根上がりモミ・社殿・楼
門・参道大鳥居・裏参道鳥居・エムゾネ富士塚狛犬・富士講講碑群
B6河口浅間神社・社殿、鳥居B7冨士御室浅間神社・吉田口
二合目(拝殿の一部、行者堂跡、定善院跡、建物礎石)・移築
された二合目本殿B8御師住宅(旧外川家住宅、小佐野家住宅
)・主屋・離座敷・中門・屋敷地(タツエムゾネミチ)B9山中湖
・湖水B10河口湖・湖水B11忍野八海・八つの池(出口池
、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡池、菖蒲池)・湧
水B12船津胎内樹型・溶岩樹型・無戸室浅間神社、石造物群
B13吉田胎内樹型・溶岩樹型・洞内の石祠、石エムゾネ造物群-
40-B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)・犬涼み溶岩流
・溶岩洞穴・社叢(周辺の植生)・碑塔群・参道・建物跡・参
道跡・道跡・炭焼窯跡・井戸跡B15白糸ノ滝・古富士泥流堆
積物・白糸溶岩流・白糸の滝・音止の滝・鬢撫水・植物・エム

181:底名無し沼さん
18/01/29 18:15:06.91 BdtTryWp0.net
お鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。なお、浅間
大社では、伊豆岳以外の8つをもって「八神峰」としている。図
八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m)]かつては剣ノ峰
、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると剣を立てエムゾネたよう
にそびえ立っているためにこの名があるという。道者たちはあま
りに険しいこの峰を恐れて多くは登らなかったという。この峰の
石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を禁じられたが、麓からの石
と取り替えるということが行われていた。写真剣ヶ峰エムゾネの写
真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山岳(標高約3,756m
)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた。現在は一般の立入は禁止さ
れている。頂上には鳥居が立ち、また二等三角点が存在する。[
久須志岳(標高約3,725m)]かつては薬師岳ともエムゾネ呼
ばれた。現在の久須志神社の裏手にあたる。他の峰々と比べ傾斜
はなだらかである。頂上には鳥居が火口の方向に向けて建てられ
ている。頂上付近には石造物が残存し、首から上と手首から先が
欠損している。台座正面に「食行」「身禄」の文字が確認エムゾネ
できる。写真久須志岳の石造物の写真[成就岳(標高約3,73
4m)]かつては大日岳とも呼ばれ、大小2つの鳥居が、噴火口
の方角を向いて建てられている。[伊豆岳(標高約3,748m
)]かつては勢至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社のエムゾ
ネ歴史』には、「中腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を
越え、成就岳にいたるまで、至る所に蒸気を噴出する」とある。
頂上には鳥居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]
伊豆岳と同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。エム
ゾネ頂上に鳥居は存在しない。石積みがあるが時期は不明


182:である 。他の峰々と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳(標高約3, 722m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現 在は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,



183:底名無し沼さん
18/01/29 18:20:08.49 BdtTryWp0.net
富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の
巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規
制B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区
①自然地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞
穴、エムゾネ樹型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富
士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹
型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)②森林、植栽樹木(山林を

184:底名無し沼さん
18/01/29 18:20:37.36 BdtTryWp0.net
エムゾネm)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息
をとったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存在する。峰
全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m)]
-43-かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居と、「
三エムゾネ島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島岳
の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見された付近
に、10体の石像が安置されている。これらは原位置を留めてお
らず、周辺にあったものが集められたと考えられる。いずれも頭
部をエムゾネ欠損している。・大内院山頂の火口中央に存在する穴
で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院(噴火口)
は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪)は雷岩の下の小
さな火口を指す。神や仏の居る所であると信じられ、登山者は各
登山口エムゾネに設けられた拝所あるいは初穂打場から、噴火口に
向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立入は禁止されてい
る。写真大内院の写真・小内院西安河原から白山岳に向かう途中
にある大きな窪地で、大内院との対比で小内院と呼ばれる。かつ
ては噴火エムゾネ口だったと考えられる。写真小内院の写真・馬の
背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の急斜面である。お鉢巡り
の道中で最大の難所である。現在はブルドーザーが通れるよう整
地されている。火口に向けて傾斜しており、その険しさから道者
たちの多くエムゾネは剣ヶ峰に登らなかったといわれる。・東安河
原須山口拝所東側にあり、山頂部では稀な広い平坦部である。か
つては現世と来世の境である「賽の河原」になぞらえて、道者た
ちが溶岩礫を積み上げ石塔を作った。また「初穂打場」とも呼ば
れ、火口に向エムゾネけて賽銭が投げ込まれた場所とされる。・西
安河原東安河原と対をなす、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦
部である。火口の外壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐
点に位置する。・虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た

185:底名無し沼さん
18/01/29 18:26:32.03 BdtTryWp0.net
る森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地
、人工林・社エムゾネ叢林、境内林・富士山特定地理等保護林・富
士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区③保存管理又は公開活用
を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案
内標識、解説板④道路とその他の人工物(生活用道路、電柱、
看板など)顕著な普遍エムゾネ的価値を構成する諸要素と密接に関
わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設①
自然的要素(山並み、河川など)②歴史的要素(埋蔵文化財、
社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構③人文的要
素(農耕地、市街地、道路、そエムゾネの他人工物)上表において
分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍
的価値を構成する諸要素①富士山山体及び登山道A富士山富士
山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範囲は
、周辺の浅間神社や展望地点から見た可エムゾネ視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山
道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)
の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民エムゾネが、とり
わけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサ
マ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には
山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境
界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対エムゾネ
象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現
在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って
、富士山体を一周する。15~16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ-41-
を通エムゾネるため富士講信者により修行の道として利用された。
写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山

186:底名無し沼さん
18/01/29 18:26:59.03 BdtTryWp0.net
、形状が虎(獅エムゾネ子)のうずくまる姿に似ていることから名
付けられた。・割石かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、
溶岩が急速に冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あ
ったが、現在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場と
して知られ、食行エムゾネ身禄がここで入定しようとしたが、大宮
浅間の社人からの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で
入定したとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側に

187:底名無し沼さん
18/01/29 18:32:07.88 BdtTryWp0.net
遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、
7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命
である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士
上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺
と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊
所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅
間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)
蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18㎝)奥宮の裏手、浅
間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵
が彫られている。天保年間(1エムゾネ830-34)に、岸岱が
作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ
31㎝)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて
いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ
れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19
67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田
口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須
志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改
めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と
同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真
東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊
験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ
をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ
られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか
な湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何
なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水
の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑①(高さ11

188:底名無し沼さん
18/01/29 18:32:35.93 BdtTryWp0.net
で、この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。
また、文化年間の初エムゾネめ、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出
現し、8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々
が生け捕りにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪解
け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に姿を
現し、雪解け水の供給エムゾネが無くなると消えてしまう。・荒巻
-44-かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士山
頂の難所として知られた。道の火口側には、火山礫を積み上げた
石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登りきったとこ
ろにあったとされる。拝エムゾネ所は初穂打場とも呼ばれ、登山者
たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座する浅間
大菩薩を拝む場所であった。また、御来光を拝む場所でもあった
。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていないため、場所を特
定することはできない。写エムゾネ真吉田須走拝所跡の写真・須山
拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったとされる。大正2
年(1913)の登山スタンプが押された写真では、銀明水裏手
の火口の縁に立っている鳥居が確認できる。現在その地点には、
2つの目印の石が存在していエムゾネる。写真須山拝所跡の写真・
村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏手に建つ鳥居を「大宮
拝所」としている。『富士山明細図』は、このしろが池の裏手の
鳥居を影拝所としている。このしろが池から剣ヶ峰の登山道に沿
って3体の大日如来があり、そエムゾネれぞれ延徳2年(1490
)、天文12年(1543)、寛永元年(1624)の銘があっ
たとされる。昭和初期の絵葉書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む
位置に鳥居が建っている。写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ
岳経塚昭和4年(1929)、頂エムゾネ上の神官が銅仏の破片と
一石経を採集して下山、それを受けて昭和5年に三島岳のふもと
を調査したところ、経巻が詰まった経筒や木槨、土器片な

189:底名無し沼さん
18/01/29 18:37:58.83 BdtTryWp0.net
62㎝)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年
代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。
(b)石碑②(高さ162×下幅76×上幅63㎝)表面に龍
が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑③(未計測
)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写
真-42-・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆
岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800
mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それ�


190:シれの峰に仏が住むと された。文永年中(1264~1275)の作である『万葉集 註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉 時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は 、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更 された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣 ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。 なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰 」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m )]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると 剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという 。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を 禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山 岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ば



191:底名無し沼さん
18/01/29 18:38:28.66 BdtTryWp0.net
物が出土した。富士山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が
残っており、うち5巻は開かれていエムゾネて内容を確認できる。
経巻のスタイルや計測値から平安時代後期までさかのぼる可能性
が考えられる。写真出土遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回
し八葉を巡る「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河
原の北側で道が二手に分かれるが、峰エムゾネの外を回り雷岩、割
石を経て白山岳に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って
回り金明水に至る道が内浜道である。沿道には信仰に関わる工作
物や自然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在
は立入禁止となっている。A2大宮・村エムゾネ山口登山道図登山
道に要素が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3
.5㎞、天照教社の西南西約1㎞の地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きなケ
ヤキの巨木があり、ここが札打場であったエムゾネ。札打とは、自
分の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行に先立ち札打を行った。昭和30
年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られたという写
真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡エムゾネ)村山口登山
道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に約50
0mの地点に位置する。標高は約1,280mである。東側を走
る沢から一段上がった平坦面に所在している。平坦面は2段あり
、上-45-段には小さな祠が建てられているエムゾネ。また下段
には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸時代には馬返
しと呼ばれ、駒立小屋があったとされる。また、ここからは女人
は登山道を登ることを許されず、駒立小屋は女人堂として使われ
た時期もあったと考えられる。下段平坦面の南側エムゾネには溝が
東西方向に延び、西側の森林に突き当たって痕跡をたどれなくな
る。木馬道である可能性が指摘される。写真中宮八幡堂の

192:底名無し沼さん
18/01/29 18:43:12.95 BdtTryWp0.net
現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち
、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725
m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手
にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥
居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石
造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正
面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志

193:底名無し沼さん
18/01/29 18:43:43.02 BdtTryWp0.net
八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約100mの地点に「八大龍王
」と刻まれた石碑と水神の祠が並んで建てられていエムゾネる。水
神祠には「文化十三年寅年六月日」、八大龍王には「文化七年七
月十七日」との銘が刻まれている。駿河国大宮町神田の横関家の
主人が、天保14年(1843)から文久3年(1863)にか
けて記録した『袖日記』には、安政7年(1860)エムゾネ5月
11日の条に「中宮八幡堂の井戸を掘ったので山が荒れた」との
記述がある。この「中宮八幡堂の井戸」とは、八大龍王前にある
井戸跡を指すものと考えられている。井戸跡は幅80㎝、深さ5
0㎝ほどである。・5号建物跡4号建物跡から登山道跡エムゾネを
登りしばらくすると一面の倒木帯となり、その中に5号建物跡が
ある。標高は約1,865mである。平成5年の富士宮市による
調査では、平場の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていた
が、平成20年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査エムゾネ
では石像が4体見つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こ
され、地中にあった石像が地上に現われたと考えられる。うち1
体の不動明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面に
は「瀧本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次エムゾ
ネ社堂室有来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推
測できる。4体の石像には破壊された痕跡が確認できる。廃仏毀
釈によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7エム
ゾネ号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位
置にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在する建物跡の
中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され、南西
部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に石段が残
エムゾネ存しており、石段の東西には石垣が組まれている。また平
場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存してい

194:底名無し沼さん
18/01/29 18:49:27.32 BdtTryWp0.net
造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳
とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建
てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢
至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中
腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい
たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥
居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と
同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥
居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々
と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72
2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在
は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと
ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。
峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m
)]-43-かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居
と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島
岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ
れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置
を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる
。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院
(噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪
)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信
じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場
から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立
入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原
から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内院と

195:底名無し沼さん
18/01/29 18:49:56.33 BdtTryWp0.net
う一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜面上に、長軸
約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の縁と南側斜面の
縁エムゾネに石組が確認できる。昭和時代の地図には「一ノ木戸」
として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有来之次第絵図
」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」にあたると考えられ
る。室大日堂は大日如来と役行者像が祀られていたとの記述が『
駿河エムゾネ国新風土記』にあり、また末代上人が建てた往

196:底名無し沼さん
18/01/29 18:55:05.26 BdtTryWp0.net
で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写
真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の
急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾
斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな
かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部
では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ
る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石
塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭
が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす
、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外
壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・
虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅
子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石
かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に
冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現
在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら
れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か
らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ
たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、
この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま
た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、
8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生
け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪
解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に
姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻
-44-かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士
山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火山

197:底名無し沼さん
18/01/29 18:55:34.31 BdtTryWp0.net
あったところだともいわれている。写真8号建物跡の写真・12
号建物跡村山口登山道跡に残る遺構のうちで、一番標高の高い位
置(約2,390m)にある。11号建物跡から北に50mの地
点に所エムゾネ在する。東西約8m、南北約5mの方形の区画が石
組によって作られている。東側には直径約90㎝の丸い穴が二つ
ある。(同様の穴は他の建物跡でも見られ、)便所跡と考えられ
る。-46-・鳥居登山道跡の8合目上に、自然木により構築さ
れた鳥居エムゾネが設置されている。「昭和五十二年七月吉日」と
刻まれており、個人が設置したものである。A3須山口登山道図
登山道に要素が点在している平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧
須山口登山道1合目(標高1,440m付近)にある全長10m
余の溶岩洞エムゾネ穴である。洞穴の直径は約1mで南東側と北西
側に入口があり、内部を通り抜けることができる。登山者は、こ
の洞穴を通って登山するのがならわしであった。かつて洞穴の延
長は数10mあったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現
在の長さになエムゾネった。崩落した部分は、長さ約30mのU字
型の溝状の溶岩地形として須山御胎内の南東側に残っている。こ
の付近の溶岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では10
30~1230年という結果が出ており、永保3年(1083)
の噴火時に噴出エムゾネした可能性がある。平成21年に実施した
測量調査では、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485
m付近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って
形成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須
山御胎内の洞穴内エムゾネ部に、「木花咲耶姫」の石像が安置され
ている。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興
後の平成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内の南
東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山御胎内
の南東側入口前に高エムゾネさ3m前後の木製の鳥居が建て

198:底名無し沼さん
18/01/29 19:00:21.60 BdtTryWp0.net
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登り
きったところにあったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、
登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座
する浅間大菩薩を拝むエムゾネ場所であった。また、御来光を拝む
場所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていな
いため、場所を特定することはできない。写真吉田須走拝所跡
の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったと
される。大正2年(1913)エムゾネの登山スタンプが押された
写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認でき
る。現在その地点には、2つの目印の石が存在している。写真
須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏
手に建つ鳥居を「大宮拝所」としているエムゾネ。『富士山明細図
』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このし
ろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、そ
れぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初エムゾネ期の絵葉
書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。
写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(192
9)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それ
を受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経エムゾネ
巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士
山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が残っており、うち
5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタイルや計測
値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真
出土エムゾネ遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る
「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の北側で
道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山岳
に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金

199:底名無し沼さん
18/01/29 19:00:51.47 BdtTryWp0.net
いる。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎内)
」と記された標柱が、富士山須山口登山道保存会によって設置さ
れている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の溶岩地形脇に
、石造りの祠が設置さエムゾネれている。写真祠の写真A4須走口
登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御岳神社冨士浅
間神社の境外末社で、5合目の登山道登り口にある。現在の社殿
は、昭和54年(1979)に建立され、間口九尺、奥行九尺の
規模である。その際、御エムゾネ室浅間神社を合祀した。神社の前
には鳥居がある。かつては3000坪の境内地を持ち、本殿、拝
殿、庁舎を備えていたという。写真古御岳神社の写真・迎久須志
之神社冨士浅間神社の境外末社で、9合目(3,570m付近)
に建てられている。かつてエムゾネは向薬師、向ヒ薬師、手引薬師
と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ冨士浅間神社の神主が管
理していた。元禄16年(1703)-47-の文書「大宮司富
士信安等返答下書」に「前薬師之小屋」の記述があることから、
江戸時代初期以降にはすでにエムゾネ祀られていたものと考えられ
る。道者はここで薬師に線香を手向けたという。廃仏毀釈によっ
て仏像は山を降ろされ迎久須志神社と改められた。祭神は大己貴
命と少彦名命である。以前は登山道が建物の西側を通るルートで
あったが、現在は建物の東側をエムゾネ通るようになっている。迎
久須志神社の直下には、「日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる
日の出を遥拝する場所があり、江戸時代には「日ノ御子石」とい
う富士山型の石が置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上
で朝日を拝したという。現在「日エムゾネノ御子石」はないが、祠
と鳥居が建てられている。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山
道の浅間大社東北奥宮(久須志神社)前(登山道終点)、9合目
、本8合目、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然
木などにより構築された鳥居が設置エムゾネされている。・

200:底名無し沼さん
18/01/29 19:06:53.16 BdtTryWp0.net
至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自
然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立
入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素
が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5㎞
、天照教社の西南西約エムゾネ1㎞の地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは

201:底名無し沼さん
18/01/29 19:07:21.17 BdtTryWp0.net
山道終点の鳥居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥
居御橋」(とりいおはし)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の
登山道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場
所にあったが、雪崩によって流されてエムゾネ別の場所に転がって
いたものを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。
日付は「七月吉日」とあるのみで、上部が欠損している。A5吉
田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉田口
登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点エムゾネとし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田口
登山道を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から
頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値を構成する要
素として、現存する吉田口登山道や沿道のエムゾネ宗教施設や山小
屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから急坂とな
り馬が使えなくなることからこの名がついた。この一体は草山か
ら木山への境でもあり、ここからが御山の聖地ということにもな
る。富士山有料道路が開通する以前の馬返のエムゾネ周辺は、本格
的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、登拝者たちがい
ったん休憩を取る場所として賑わった。登山期間には4軒の茶屋
が営業され、登拝者の便に供された。写真馬返周辺の写真・五合
目ここは木山と焼山の境界でもあるこの地は天エムゾネ地境(てん
ちのさかい)とも言われる場所である。役場、中宮の社、小屋等
がおかれていた。ここの役場は、古くは中宮三社の神供料として
役銭を納めた場所である。後年は登山切手改め所となった。小屋
については、江戸後期には4軒があったが、すでエムゾネに武田信
玄の1566年の文書に「中宮之室」という名称があり、戦国時
代からこの地に小屋が設けられ-48-ていたことがわかる。最
盛期には18軒が所在したと伝えられている。写真五合目周辺の
写真・烏帽子岩七合五勺に烏帽子の形をした岩があエムゾネ

202:底名無し沼さん
18/01/29 19:12:24.84 BdtTryWp0.net
の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭
和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた
という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口
登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に
約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ
る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平
坦面は2段あり、上-45-段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸
時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま
た、ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋
は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦
面の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって
痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘されるエムゾネ
。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約
100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並
んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、
八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。
駿河エムゾネ国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(184
3)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』に
は、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井
戸を掘ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡
堂の井戸」とエムゾネは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考
えられている。井戸跡は幅80㎝、深さ50㎝ほどである。・
5号建物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面
の倒木帯となり、その中に5号建物跡がある。標高は約1,8
65mである。平成5エムゾネ年の富士宮市による調査では、平場
の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平

203:底名無し沼さん
18/01/29 19:12:55.04 BdtTryWp0.net
れを烏帽子岩という。ここにて富士講中興の祖と称される食行身
禄が、1733年に31日間の断食修行を経て入定した。「甲斐
国志


204:」にも「享保十八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小 屋アリ身禄ノ木像ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝スエムゾネ」と あり、江戸後期にはすでに身禄の聖地として信者が登拝していた ことがわかる。現在も富士講の聖地として重要な地である。写真 烏帽子岩の写真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要



205:底名無し沼さん
18/01/29 19:17:27.95 BdtTryWp0.net
年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見
つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ
った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動
明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧
本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有
来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる
。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈
によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7
号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置
にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物
跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され
、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に
石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま
た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜
面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の
縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「
一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有
来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」
にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら
れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人
が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の
うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11
号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北
約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直
径約90㎝の丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の

206:底名無し沼さん
18/01/29 19:17:58.00 BdtTryWp0.net
在している平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのエムゾネつ
ながりが強く1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄
進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神
社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。エムゾネ
富士講や吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である
。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点などが
ある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守エムゾ
ネ成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向拝一間をつけた
形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に漆塗り、
極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装飾を展開エム
ゾネし、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに、すぐ
れた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写真図本殿の図
・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創建とも伝えられ
るが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社として造営したも
エムゾネのである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で正面に一間の
向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿は、本社本殿は
もとより西宮本殿に比較してやや小規模であるが、構造形式や蟇
股に挿入した彫刻などに室町時代の手法を示しており、三殿中最
もエムゾネ古い建物である。写真東宮本殿の写真図東宮本殿の図・
西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主浅野左右衛門佐氏重に
より東宮に替わる本殿として建立されたが、1615年、鳥居成
次の本殿建立により現在地に移され西宮となった。本殿の形式は
東宮エムゾネと同じ一間社流造であるが、両側面と背面は二間で一
間の向拝をつける。西宮本殿は、桃山時代の装飾的要素を多分に
取り入れていて、やがて豪華な本社本殿建築へと発展する

207:底名無し沼さん
18/01/29 19:23:14.84 BdtTryWp0.net
でも見られ、)便所跡と考えられる。-46-・鳥居登山道跡
の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した
ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して
いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(
標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である
。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を
通り抜けることができる。登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登
山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ
ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな
った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地
形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶
岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030~1
230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火
時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で
は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ
近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形
成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須
山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい
る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後
の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内
の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山
御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ
ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎
内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ
って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の
溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A
4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図・

208:底名無し沼さん
18/01/29 19:23:42.02 BdtTryWp0.net
、両者並べて鑑賞できる貴重な建物である。-49-写真西宮本
殿の写エムゾネ真図西宮本殿の図・大塚山社誌では、日本武尊が富
士山を遙拝した地であり、ここを浅間明神の創建にかかわる場所
と位置づけている。さらに、788年には新たに浅間明神を建て
、この大塚山には、大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられ
る。現在エムゾネこの地は、流山状の小高い丘をなしており、日本
武尊を祀る祠が建てられている。写真大塚山の写真図大塚山の図
・御鞍石吉田火祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日
にこの御鞍石上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読ま
れる祝詞のエムゾネ一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる
。写真御鞍石の写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点
在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが
多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝
の対象としてエムゾネ数えられている。また、景勝の地でもあり、
多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8
精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を
巡って修行するエムゾネ内八海巡りが多くの富士講徒によって行わ
れたが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている
。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕
著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)など
がある。写真精進エムゾネ湖の写真A9本栖湖図以下に示す要素が
点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多く
の芸術作品とゆかりエムゾネが深い。顕著な普遍的価値を構成する
諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの展望などがあ
る。写真本栖湖の写真②信仰に関わる周辺のものB1富士

209:底名無し沼さん
18/01/29 19:29:27.41 BdtTryWp0.net
神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に
ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀
した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地
を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御
岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9
合目(3,570m付近)に建てられている。かつては

210:底名無し沼さん
18/01/29 19:29:56.39 BdtTryWp0.net
浅間大社図以下に示す要素が点在している平面図・神立山本殿の
北側にある丘陵地一帯エムゾネは神立山と称される。神立山及び富
士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、新富士火山旧期溶岩
流に分類される富士宮溶岩流と、溶岩流直上に広がる扇状地堆積
物の層で-50-構成され、溶岩流の末端部にあたる。そのため
指定地内の一部では溶岩エムゾネ礫が露出し、縄状溶岩も散見され
る。また、当該地区は風致地区・保安林にも指定され、渋沢堀沿
いの散策路以外は立ち入りが禁止されている。寛文10年(16
70)の浅間大社境内絵図では神立山に信仰関連の様々な建築物
が描かれ、発掘調査で石畳エムゾネや護摩堂跡が確認されている。
写真神立山の写真・湧玉池(上池、下池)本殿東側の「湧玉池」
は、国指定特別天然記念物となっている。湧玉池は、富士山に降
った雨や雪が地下水となり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層
間を流れ、溶岩流末端で湧出エムゾネして池になったものである。
禊所付近を境に上池と下池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、
下池から下流を御手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で
心身を清めた後山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池
であった。現在も富士山山開きエムゾネの7月1日には、湧玉池で
禊神事が行われる。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山
表層部は約3万8千㎡にわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生
育しており、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の
生息に適した環境でもあり、「野エムゾネ鳥の森」碑が建てられて
いる。・社殿(本殿・拝殿・幣殿・透�


211:サ・楼門)浅間大社は、社 伝によれば大同元年(806)に造営されたという。かつての駿 河国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として 崇められている。現在の社殿は、慶エムゾネ長9~11年(160 4~06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写 真図社殿平面図[本殿]本殿は国指定重要文化財である。



212:底名無し沼さん
18/01/29 19:35:18.63 BdtTryWp0.net
、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ
冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170
3)-47-の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師
之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに
祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手
向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久
須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以
前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物
の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「
日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ
所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が
置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した
という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて
いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北
奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目
、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに
より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥
居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」(
とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山
道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所
にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも
のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付
は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5
吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉
田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩
で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的

213:底名無し沼さん
18/01/29 19:35:45.72 BdtTryWp0.net
造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見ない。
1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟エムゾネ造、2階上層は桁行
3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40年(
1907)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定
され、以後、国指定重要文化財として保護されている。写真本殿
全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平エムゾネ面図(幣殿・拝殿
含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間・梁

214:底名無し沼さん
18/01/29 19:40:59.59 BdtTryWp0.net
構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設
や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから
急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ
の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地
ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の
周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、
登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登
山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写
真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ
の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古エムゾネ
くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は
登山切手改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒
があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室
」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ-
48エムゾネ-ていたことがわかる。最盛期には18軒が所在した
と伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここに
て富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日
間の断食修行エムゾネを経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十
八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像
ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはす
でに身禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在
も富士講の聖地としてエムゾネ重要な地である。写真烏帽子岩の写
真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している
平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1
730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行わエムゾネれ、現在にみる境内

215:底名無し沼さん
18/01/29 19:41:27.55 BdtTryWp0.net
の両下造、屋根は檜皮葺、寛文年間の古絵図には幣殿は描かれて
いないが、現在幣殿として使われている部分に「作合三間四間ひ
はだぶき」と書き込まれており、本殿の全エムゾネ景がよく見える
ように描かれたと推測される。県指定文化財として保護されてい
る。[拝殿]桁行5間・梁間3間で、床は幣殿より2段高くなっ
ている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、屋根は檜皮葺、正面
に1間の向拝が付いている。三方に縁を巡らエムゾネせ、背面は幣
殿に接続している。県指定文化財として保護されている。[透塀
]本殿周囲を囲む1棟と、その外側、本殿横に並ぶ三之宮及び七
之宮を含めたより広い範囲を囲む1棟-51-の計2棟で、総延
長は36間に及ぶ。県指定文化財として保護さエムゾネれている。
[楼門]三間一戸、重層入母屋造で、屋根は檜皮葺、正面・左右
脇に扉がついている。楼門の左右には随身像が安置してある。静
岡県指定文化財として保護されている。写真楼門全体の写真図楼
門平面図・廻廊楼門から東西に伸びる回廊は、昭エムゾネ和9年(
1934)に付加されたものである。・手水舎楼門の南西側に、
参拝者が参拝前に身を清めるために手や口をすすぐ、手水舎があ
る。・灯籠大小それぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・
石鳥居本殿へ続く参


216:道に石造りの鳥居が建てられてエムゾネいる。 昭和33年3月に寄進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の 馬場の東端と西端にそれぞれ朱塗りの鳥居が建てられている。・ 桜の馬場浅間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡 って東西に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩をエムゾネ行っ た際、流鏑馬を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期 にはすでに神事が行われていたとの記録が残っている。馬場に沿 って両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と 下池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組エムゾネま れている。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流



217:底名無し沼さん
18/01/29 19:46:52.45 BdtTryWp0.net
の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を
起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や
吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著
な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など
がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守
成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装
飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに
、すぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写エムゾネ
真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創
建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社
として造営したものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で
正面に一間の向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿
は、エムゾネ本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法
を示しており、三殿中最も古い建物である。写真東宮本殿の写
真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主
浅野左右衛門エムゾネ佐氏重により東宮に替わる本殿として建立さ
れたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移さ
れ西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流造であるが
、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西宮本殿は、桃
山時代の装飾的要素をエムゾネ多分に取り入れていて、やがて豪華
な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴
重な建物である。-49-写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図
・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地であ

218:底名無し沼さん
18/01/29 19:47:22.47 BdtTryWp0.net
石造りの橋が架けられている。春秋の大祭にはこの橋を通って山
宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵図で
は橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向エムゾネ
かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の絵
図には既に描かれているが、大正4年(1915)に石造りに改
められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文10年の絵図
・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により、護摩堂跡エムゾ
ネと考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出された。
石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっている。また、
石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎石が確認された。
桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有していたと考えられるエム
ゾネ。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌でこの建物跡を「
本地堂」とする記載が確認されており、最終的に護摩堂から本地
堂へ造作し直された可能性がある。写真護摩堂の発掘調査時の完
掘写真(平面写真)図平面図・随身像慶長19年(1614)2
エムゾネ月に建立された。背銘には、左側の像は「甲州河内下山住
番匠石川清助作」、右-52-側の像は「大工山城國上原住櫻井
三蔵作」と記され、市指定有形文化財として保護されている。写
真随身像全体の写真・狛犬参道の石鳥居両側に、狛犬が建てられ
てエムゾネいる。大正7年5月に奉献されたものである。・御神幸
道首標の碑明治以前に行われていた「山宮御神幸」における、御
神幸道の首標が、池畔に立てられている。造立年は元禄年(16
91)未年十一月とされ、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也
」とエムゾネ刻まれている。昭和59年(1984)に浅間大社境
内の土中から発見され、現在地に再建された。・三之宮本殿横西
側に、淺間第三御子神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てら
れている。・七之宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社
「七之エムゾネ宮浅間神社」が建てられている。・鉾立石楼

219:底名無し沼さん
18/01/29 19:52:37.46 BdtTryWp0.net
こを浅間明神の創建にかかわるエムゾネ場所と位置づけている。さ
らに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、
大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は
、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てら
れている。写真大塚山の写真図大塚山のエムゾネ図・御鞍石吉田火
祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石
上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる

220:底名無し沼さん
18/01/29 19:53:07.51 BdtTryWp0.net
石段には、鉾立石が置かれている。明治の初めまで行われていた
山宮御神幸の際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・
欄干橋(神路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けら
れているエムゾネ。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、
寛文10年(1670)の絵図では西側にのみ架けられている。
写真橋全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下
に示す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石
鳥居から参エムゾネ道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流
上に展開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶
岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二子
山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する。よ
って、山宮浅エムゾネ間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含
め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝所
の基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の噴火によ
って流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部分は他の区
域と比べて植生エムゾネの回復は遅れていたと考えられる。そのた
めに、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡せていた
ため、この場所で山を遥拝する行為が行われたと考えられる。写
真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模式図・社叢目通り
の幹周が3mを超エムゾネえる巨木4本を含むスギ林が、約9,7
80㎡の社叢を形成しており、富士宮市の保存樹林に指定されて
いる。・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前の平坦な土地に籠屋が
建てられている。籠屋は、神の宿った御鉾が浅間大社と山宮浅間
神社を往復する祭儀エムゾネ「山宮御神幸」において、これに同行
した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所である。-53-・鉾
立石籠屋をくぐり遥拝所へ続く参道に、「山宮御神幸」で神の宿
った鉾を休めるための「鉾立石」が置かれている。石は火山弾で
あり、籠屋をくぐってエムゾネすぐの位置に1つ、石段の手

221:底名無し沼さん
18/01/29 19:58:23.35 BdtTryWp0.net
一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の
写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点エムゾネ在してい
る平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの
富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対
象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸
術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要エムゾネ
素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8
精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖
を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている
。まエムゾネた、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深
い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖
水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八
海巡りが多くエムゾネの富士講徒によって行われたが、いつの時代
も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値
を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの
展望などがある。写真エムゾネ本栖湖の写真②信仰に関わる周辺の
ものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在している
平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称され
る。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、
新富士火山旧期溶岩流に分類さエムゾネれる富士宮溶岩流と、溶岩
流直上に広がる扇状地堆積物の層で-50-構成され、溶岩流
の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出
し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安
林にも指定され、渋沢堀沿いの散策路以エムゾネ外は立ち入りが禁
止されている。寛文10年(1670)の浅間大社境内

222:底名無し沼さん
18/01/29 19:58:51.35 BdtTryWp0.net
つの計2つが置かれている。・石段(参道)遥拝所が位置する丘
陵へ登るための石段が組まれている。現在あるものは戦中もしく
は戦後に改築されたものと考えられる。・石塁遥拝所の周辺約4
5m四方が石塁により方エムゾネ形に区切られている。青沢溶岩流
の溶岩塊上に溶岩礫を積み上げて構築され、部分的に遺物を含む
土層上に構築されている。石塁下から祭祀に用いられたと思われ
る土師器が出土しているため、それらが用いられた12世

223:底名無し沼さん
18/01/29 20:03:44.77 BdtTryWp0.net
は神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳
や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上
池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別エムゾネ天然記念
物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末
端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下
池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御エムゾネ
手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後
山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現
在も富士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる
。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万
8千エムゾネ㎡にわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育してお
り、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に
適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社
殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれ
ば大同元年(エムゾネ806)に造営されたという。かつての駿河
国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として
崇められている。現在の社殿は、慶長9~11年(1604~
06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写真
図社殿平面図[本殿]エムゾネ本殿は国指定重要文化財である。「
浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見
ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁
行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40
年(1907)5月27日古社エムゾネ寺保存法により特別保護建
造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されてい
る。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣
殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間
・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛エムゾネ文年間の古

224:底名無し沼さん
18/01/29 20:04:13.77 BdtTryWp0.net
15世紀、もしくは後の時エムゾネ代に築造されたものと推定され
る。写真石塁の写真図石塁の平面図・断面図・玉�


225:_遥拝所の周囲 にはコンクリート製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後 に設けられたものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門 扉が取り付けられている。・エムゾネ遥拝所富士山を直接拝礼し、 祭儀を行うことを目的として築造されたと推定される施設である 。南北約15.2m、東西約7.6mの長方形で、30~40㎝ 程度の溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む 方向に祭壇が位置し、祭壇に向エムゾネかって左側に祭儀を行う際 の大宮司席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供 僧席が設けられている。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石 鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(19 31)に建立されたものである。エムゾネ・参道石鳥居から籠屋ま で参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在 している平面図・元村山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧期溶岩 の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で、両見付 から先は急傾斜地となっている。村エムゾネ山地区は標高が高く、 他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する。・水 源地(竜頭ヶ池)社叢東側に「竜頭ヶ池」と呼ばれる湧水池があ り、水垢離や生活用水として利用されてきた。またこの湧水を水 源とする村山沢は南流して渓谷を刻みエムゾネ神社西側から大沢川 となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた要因の一つで ある。・御神木(イチョウ、大スギ)[イチョウ]-54-昭和 43年(1968)7月2日に県天然記念物に指定された。目通 り8m、根回り9.15m、樹高26mエムゾネ、枝張り東西19 m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の発達も著しい。気根が 数多く垂下する。気根の先端に針を刺して祈願すると妊産婦の乳 の出がよくなると伝えられ、女性の信仰を集めていた。ま




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