18/01/29 13:59:35.47 BdtTryWp0.net
の指導・助言エムゾネの下、201■年■月に策定した。(1)各
県における検討の経緯両県の経緯(包括的保存管理計画検討部会
と学術委員会)2007年11月29日平成19年第1回包括的
保存管理計画検討部会・包括保存管理計画の必要性・国内の世界
遺産における包エムゾネ括的保存管理計画の事例2007年12月
26日平成19年第2回包括的保存管理計画検討部会・目的と経
緯・構成資産の概要・保存管理の包括的な基本方針2008年3
月17日平成19年度第2回学術委員会・包括的保存管理計画検
討部会の審議結果エムゾネ2008年6月19日平成20年度第1
回包括的保存管理計画検討部会-6-・包括的保存管理計画の役
割・構成要素と本質的価値の明確化2009年5月20日平成2
1年度第1回包括的保存管理計画検討部会・各資産候補の概要に
ついて・構成資産、エムゾネ緩衝地帯、保存管理区域について20
10年3月19日平成21年度第2回学術委員会・保存管理計画
の考え方について山梨県の経緯2007年8月31日平成19年
第1回山梨県保存管理計画検討部会・保存管理計画の事例200
7年12月9日現地調エムゾネ査2008年1月31日平成19年
度第2回山梨県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討
部会の審議結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月
21日平成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存
管理計画検討部会の審議エムゾネ結果2008年4月16、17日
現地調査2008年5月1日平成20年度山梨県保存管理計画策
定ワーキング・山梨県保存管理計画の策定について2008年6
月10日現地調査2008年6月30日現地調査2008年7月
22日平成20年度第1回エムゾネ山梨県保存管理計画検討部会・
構成要素と本質的価値の明確化・保存管理の方法と考え方200
9年4月24日平成21年度第1回山梨県保存管理計画策定協力
者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状について・山梨
101:底名無し沼さん
18/01/29 14:04:40.28 BdtTryWp0.net
岳であり、世界文化遺産に値するものである。富士山は、有史
以前から噴火活動を続けてきた標高3776mの円錐形の独立
成層火山であり、その山体は南エムゾネの駿河湾の海浜にまで及び
、海面からの実質的な高さは世界的にも有数である。その力強
く秀麗な姿は人々に神聖なる気持ちを喚起し、古代から現代に
至るまで、時代を超えて信仰の対象となってきた。山腹及び山
嶺には神社・登山道・巡礼地等が形成さエムゾネれ、山体と
102:底名無し沼さん
18/01/29 14:05:06.15 BdtTryWp0.net
管理計画策定協力者会議につエムゾネいて2009年6月19日平
成21年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・各資産候補の概
要について・構成資産、緩衝地帯、保存管理区域について200
9年8月26日平成21年度山梨県保存管理計画策定ワーキング
・富士山世界文化遺産登録へのエムゾネ取組状況について・山梨県
保存管理計画の策定について2010年3月16日平成21年度
第3回山梨県・静岡県学術委員会・保存管理計画の考え方につい
て2010年6月30日平成22年度第1回山梨県保存管理計画
検討部会静岡県の経緯2007年エムゾネ7月5日平成19年度第
1回静岡県保存管理計画検討部会・保存管理計画について-7-
2008年1月23日現地調査2008年1月30日平成19年
度第2回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討
部会の審議結果・静岡県保存管理計エムゾネ画について2008年
2月21日平成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県
保存管理計画検討部会の審議結果2008年7月16日平成20
年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検
討部会の報告・静岡県保存管理計画にエムゾネついて2008年9
月9日平成20年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡
会議・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・静岡県保
存管理計画の策定について2009年2月12日現地調査200
9年6月1日平成21年度第1回静岡県エムゾネ保存管理計画策定
協力者部会・富士山の世界文化遺産登録推進の取組について・静
岡県保存管理計画の策定について2009年6月17日平成21
年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・静岡県保存管理計画の
策定について・富士山の緩衝地帯に関するエムゾネ考え方2009
年7月13日平成21年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁
内連絡会議2009年10月29日平成21年度静岡県保存管理
計画検討部会第2回庁内連絡会議2009年11月25日
103:底名無し沼さん
18/01/29 14:10:24.01 BdtTryWp0.net
なった比類のない文化的景観を形成した。山体のうち、五合目
以上の砂礫地は「焼山」と呼ばれて特に神聖視され、山麓に分
布する湖沼・湧水、火山活動により形成された独自の地形など
は、富士信仰の霊地として重要な役割を果たしてエムゾネきた。日
本独自の山岳民衆信仰に基づく登拝・登山の様式は現在でも命
脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる多くの登山客とともに富士
登山の特徴を成している。このように、富士山は日本人の自然
に対する信仰の在り方に関連して、山に対する固有の文化エムゾネ
的伝統を表す物証及び人間の山に対する景観認知の在り方を示
す傑出した類型となっている。また、富士山の秀麗な姿は古く
から芸術活動の対象となり、その結果生み出された「万葉集」
の和歌などの文学作品や「浮世絵」などの秀麗で独自の絵画作
品はエムゾネ、日本国内のみならず海外にも広く知られ、様々な影
響を与えてきた。それらの作品群は、地球上の特定の地域にお
いて独自の文化的伝統が形成・発展するのに当たり、富士山が
重要な源泉となった極めて強力な関連性であることを示してい
る。このようエムゾネな価値をもつ「富士山」の構成資産は、山梨
県と静岡県の二県にまたがって分布している。これら一連の構
成資産を世界文化遺産「富士山」の総体として確実に保存し、
確実に次世代へと継承するためには、両県共通の考え方を基に
、各構成資産全体を一エムゾネつの資産として包括的に保存管理し
ていくための方法を整理していく必要があることから、個別の
構成資産についての保存管理計画に加え、構成資産相互の関係
性を保全し全体の価値を継承していくための包括的な保存管理
計画を策定しておくことが必要エムゾネである。そのため、山梨県
・静岡県は、文化庁・環境省の指導・助言の下に関係市町村、
関係各機関等と調整を図り、本計画を策定した。「富士山」包
括的保存管理計画-5-各構成資産の都市計画保存管理
104:底名無し沼さん
18/01/29 14:10:53.01 BdtTryWp0.net
1年度第2回静岡県保存管理計画策定協力者エムゾネ部会2010
年1月29日平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者
部会2010年3月16日平成21年度第3回山梨県・静岡県学
術委員会・保存管理計画の考え方について2010年6月30日
平成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部エムゾネ会(2)学
術委員会・保存管理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計
画検討部会の組織は図に示すとおりである。また、その構
105:底名無し沼さん
18/01/29 14:15:34.31 BdtTryWp0.net
観光計画(環境省・山梨県・静岡県・各エムゾネ市町村)整備計画
等図包括的保存管理計画の体系2計画策定の経緯富士山包括的
保存管理計画は、構成資産に係る個別の保存管理計画を基礎と
し、世界遺産の推薦に当たって必要とされる保存管理及び整備
に係る理念・基本方針とその具体的内容についてエムゾネ明示する
ため、学術研究者等により構成される山梨県・静岡県学術委員
会及び二県学術委員による審議を経て策定されたものである。
学識経験者等により構成する各県学術委員会のもとに、保存管
理計画の原案を検討する保存管理計画検討部会を設置したエムゾネ
。原案を検討するにあたり、県庁内の関係部署との連携や共通
認識を得るため、それぞれ「山梨県保存管理計画検討プロジェ
クトチーム」(表)及び「静岡県保存管理計画検討庁内連絡会
議」(表)を設置し、連携・確認を行った。また、富士山の効
果的エムゾネかつ確実な保存管理を行うためには、地元関係者など
幅広い方々の協力・助言が不可欠であることから、関係自治体
・地域住民・観光関係者・神社関係者などで構成する「山梨県
保存管理計画策定協力者会議」及び「静岡県保存管理計画協力
者部会」を設エムゾネ置し、連携を図った。さらに、二県学術委員
会のもとに設置した「包括的保存管理計画検討部会」における
検討とあわせ、文化庁の指導・助言の下、201■年■月に策
定した。(1)各県における検討の経緯両県の経緯(包括的保
存管理計画検討部会とエムゾネ学術委員会)2007年11月29
日平成19年第1回包括的保存管理計画検討部会・包括保存管
理計画の必要性・国内の世界遺産における包括的保存管理計画
の事例2007年12月26日平成19年第2回包括的保存管
理計画検討部会・目的と経緯・エムゾネ構成資産の概要・保存管理
の包括的な基本方針2008年3月17日平成19年度第2回
学術委員会・包括的保存管理計画検討部会の審議結果2
106:底名無し沼さん
18/01/29 14:21:55.41 BdtTryWp0.net
年6月19日平成20年度第1回包括的保存管理計画検討部会
-6-・包括的保存管理計画の役割・構エムゾネ成要素と本質的価
値の明確化2009年5月20日平成21年度第1回包括的保
存管理計画検討部会・各資産候補の概要について・構成資産、
緩衝地帯、保存管理区域について2010年3月19日平成2
1年度第2回学術委員会・保存管理計画の考え方エムゾネについて
山梨県の経緯2007年8月31日平成19年第1回山梨県保
存管理計画検討部会・保存管理計画の事例2007年12月9
日現地調査2008年1月31日平成19年度第2回山梨県保
存管理計画検討部会・包括的保存管理計画検討部会の審議エムゾネ
結果・山梨県保存管理計画の基本方針2008年2月21日平
成19年度第3回山梨県・静岡県学術委員会・各県保存管理計
画検討部会の審議結果2008年4月16、17日現地調査2
008年5月1日平成20年度山梨県保存管理計画策定ワーキ
ングエムゾネ・山梨県保存管理計画の策定について2008年6月
10日現地調査2008年6月30日現地調査2008年7月
22日平成20年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・構成
要素と本質的価値の明確化・保存管理の方法と考え方2009
年4月24日エムゾネ平成21年度第1回山梨県保存管理計画策定
協力者会議・富士山の世界文化遺産登録の現状について・山梨
県保存管理計画策定協力者会議について2009年6月19日
平成21年度第1回山梨県保存管理計画検討部会・各資産候補
の概要について・構成エムゾネ資産、緩衝地帯、保存管理区域につ
いて2009年8月26日平成21年度山梨県保存管理計画策
定ワーキング・富士山世界文化遺産登録への取組状況について
・山梨県保存管理計画の策定について2010年3月16日平
成21年度第3回山梨県・静岡エムゾネ県学術委員会・保存管理計
画の考え方について2010年6月30日平成22年度
107:底名無し沼さん
18/01/29 14:22:25.38 BdtTryWp0.net
造物記念工作物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精
進湖遺跡名勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡
エムゾネ建造物記念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺
跡遺跡市史跡静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡名勝・天然
記念物静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡
市NE2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍的価
値エムゾネを表す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における
富士山体への良好な眺望を保証するために、個々の構成資産の周
囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構成
資産間の関係を良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性を保
証すエムゾネるために、緩衝地帯を含め、広く保全管理区域を設定
する。構成資産の位置及びその周辺地域である緩衝地帯、保全管
理区域の範囲については、図に示すとおりである。図「富士山」
の範囲(構成資産・緩衝地帯)富士山山体の範囲については、現
在特別エムゾネ名勝富士山に指定されている区域だけでなく、その
周辺部にあたる標高約1,500m付近までとした。この範囲に
おいて、特別名勝の区域は文化財保護法で保護され、特別名勝指
定地外から標高1,500mの区域については自然公園法と森林
法で保護エムゾネされている。緩衝地帯との境については林班によ
り線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等への影響が軽減
するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖、西湖までを富士山の
山体として考え、範囲付けしたことは、展望地点から山頂までを
連続して保エムゾネ護するための措置である。緩衝地帯の範囲につ
いては、当初国道469号から県道72号にかけての富士山側を
計画していたが、国際専門家から飛び地の資産である、富士山本
宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝地帯に含めるべきだとの指摘が
あり、市道をエムゾネ境に緩衝地帯を設定した。その際、富士山本
宮浅間大社からの富士山の眺望を確保するため、富士山に
108:底名無し沼さん
18/01/29 14:28:25.14 BdtTryWp0.net
山梨県保存管理計画検討部会静岡県の経緯2007年7月5日
平成19年度第1回静岡県保存管理計画検討部会・保存管理計
画について-7-2008年1月23日エムゾネ現地調査2008
年1月30日平成19年度第2回静岡県保存管理計画検討部会
・包括的保存管理計画検討部会の審議結果・静岡県保存管理計
画について2008年2月21日平成19年度第3回山梨県・
静岡県学術委員会・各県保存管理計画検討部会のエムゾネ審
109:底名無し沼さん
18/01/29 14:28:54.21 BdtTryWp0.net
て約36度の広がりで設定した。この範囲については、文化財保
護法以外の法律を適用し、自然公園法、森林法、景観法で保護さ
れている。保全エムゾネ管理区域の範囲については、三保松原から
富士山を眺望する際、その阻害要因を軽減させるために、溶岩が
流出した範囲を基本として設定した。そのため、静岡県側におい
ては、裾野市、御殿場市、小山町に流出している溶岩流の範囲に
ついては、保全管エムゾネ理区域とはしていない。なお、保全管理
区域についても、森林法と景観法で保護されている。富士山山体
の東に位置する、演習場(北富士演習場・東富士演習場)につい
ては、従前より大規模開発が予定されていないことから、緩衝地
帯同様に資産を緩衝エムゾネすることが可能な区域であると言える
。3構成資産の概要構成資産及び保存管理状況の概要については
、以下に記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書
本文にて説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、
構成資産毎に策定されエムゾネている個別の保存管理計画等におい
て、それぞれ具体的内容を含めた説明を行っている。なお、p1
8,19表のA~Cは次のように分類し、整理したものである。
A富士山山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺望に関
わるもの(1)富士山山エムゾネ体及び登山道A富士山標高377
6mを測る富士山は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗
な独立火山である。その自然的な美しさと崇高さを基盤として、
日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸術文化を育
んだ名山でもある。富士山エムゾネは山岳に対する信仰の在り方や
芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極めて深
い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、人
間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型とし
て、世界的にも類例を見ないエムゾネ顕著な普遍的価値を持つ山で
ある。世界文化遺産としての富士山とは、富士山山体の内
110:底名無し沼さん
18/01/29 14:34:00.03 BdtTryWp0.net
2008年7月16日平成20年度第1回静岡県保存管理計画
検討部会・包括的保存管理計画検討部会の報告・静岡県保存管
理計画について2008年9月9日平成20年度静岡県保存管
理計画検討部会第1回庁内連絡会議・富士山の世界文化遺エムゾネ
産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定につい
て2009年2月12日現地調査2009年6月1日平成21
年度第1回静岡県保存管理計画策定協力者部会・富士山の世界
文化遺産登録推進の取組について・静岡県保存管理計画の策定
につエムゾネいて2009年6月17日平成21年度第1回静岡県
保存管理計画検討部会・静岡県保存管理計画の策定について・
富士山の緩衝地帯に関する考え方2009年7月13日平成2
1年度静岡県保存管理計画検討部会第1回庁内連絡会議200
9年10月2エムゾネ9日平成21年度静岡県保存管理計画検討部
会第2回庁内連絡会議2009年11月25日平成21年度第
2回静岡県保存管理計画策定協力者部会2010年1月29日
平成21年度第3回静岡県保存管理計画策定協力者部会201
0年3月16日平成2エムゾネ1年度第3回山梨県・静岡県学術委
員会・保存管理計画の考え方について2010年6月30日平
成22年度第1回静岡県保存管理計画検討部会(2)学術委員
会・保存管理計画検討部会組織学術委員会及び保存管理計画検
討部会の組織は図に示すとおりエムゾネである。また、その構成は
表~のとおりである。(1)行政計画との関連・連携構成資産
及び緩衝地帯を有する山梨県・静岡県及び関係市町村では、ま
ちづくり、観光、防災などに関する各種計画を策定し、実施し
ている。これらの計画は、包括的保存管エムゾネ理計画と密接に関
連し、日常的に連携を図りつつ実施されている。表包括的保存
管理計画に関連する計画(山梨県)計画名称策定年等⑦資産に
影響する可能性がある個別の開発計画大規模集客施設等
111:底名無し沼さん
18/01/29 14:34:27.16 BdtTryWp0.net
約1500m以上の範囲である。この範囲は、富士山周辺の主要
な神社や景勝地から見た可視領域が重なり合う範囲であるととも
に、各登山道における山体の神エムゾネ聖性に関する境界の一つで
ある「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、「馬返」とは、乗馬
登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点を示す。
景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山
体」の境界として認識され、稜線エムゾネが優美な曲線を描
112:底名無し沼さん
18/01/29 14:39:57.46 BdtTryWp0.net
に関する方針(山梨県)2010年1月ゴルフ場エムゾネ造成に事
業に関する今後の取扱いについて(山梨県)1993年10月
-17-明神峠自然環境保全地域保全計画昭和50年策定静岡
県森林共生基本計画平成19年3月策定富士地域森林計画書平
成18年4月策定⑦資産に影響する可能性がある個別の開エムゾネ
発計画企業立地促進法に基づく静岡県東部地域基本計画(静岡
県及び14市町)平成21年2月策定市町村森林整備計画平成
18年4月策定-18-(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)(2)計画の実施今回提出する富士山包括的保存
管理エムゾネ計画は、20年月から既に実施され機能されているも
のである。-19-第2章構成資産の概要1構成資産の一覧世
界遺産「富士山」の構成資産の種別、位置、面積、緩衝地帯の
面積、所在地については、以下の表に示すとおりである。表構
成資産の一覧エムゾネ大種別分類小分類構成資産世界遺産条約文化
財保護法自然公園法所在地位置資産面積(ha)緩衝地帯面積
(ha)A富士山(山体)(御中道含む)遺跡特別名勝史跡山
頂信仰遺跡(奥宮、お鉢巡り)遺跡特別名勝史跡A2大宮・村
山口登山道遺跡特別名エムゾネ勝史跡A3須山口登山道遺跡特別名
勝史跡A4須走口登山道遺跡特別名勝史跡A5吉田口登山道遺
跡特別名勝史跡静岡県(富士宮市、裾野市、御殿場市、小山町
)山梨県(富士吉田市、身延町、鳴沢村、富士河口湖町)県境
未確定地″A6北口本宮冨士浅エムゾネ間神社遺跡建造物記念工作
物特別名勝史跡重要文化財A7西湖遺跡名勝A8精進湖遺跡名
勝A9本栖湖遺跡名勝BB1富士山本宮浅間大社遺跡建造物記
念工作物重文静岡県富士宮市B14人穴富士講遺跡遺跡市史跡
静岡県富士宮市NEB15白糸ノ滝遺跡エムゾネ名勝・天然記念物
静岡県富士宮市NEC三保松原文化的景観遺跡静岡県静岡市N
E2資産及び緩衝地帯等の範囲「富士山」の顕著な普遍
113:底名無し沼さん
18/01/29 14:40:24.29 BdtTryWp0.net
画などの対象とされることが多い範囲である。写真上空から見た
写真に資産範囲を線で示したもの(推薦原案と同じもの)-21
--22-標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講信
者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地エムゾネ域あるいは死後世界で
ある「他界」と考えられていた。また、登山道ごとに標高は異な
るが、1779年以降、浅間大社の境内地とされてきた八合目以
上はより強い神聖性を持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ
一致する噴火口である「内院」の底部エムゾネに浅間大神が鎮座す
るとの信仰に基づく。富士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿
された登山道が、現在の4本の登山道の起源となっている。また
、ほぼ森林限界に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15
~16世紀ごろ富士講の祖とされる長谷エムゾネ川角行によって開
かれたとされ、その後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、
富士講信者により修行の道として利用された。表法的保護、修理
・整備の経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に
仮指定1936年国立公園法の下に(富士エムゾネ箱根)国立公園
に指定1952年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指
定1969年国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)1
996年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手
(継続中)「御中道」は、標高2,300mエムゾネ付近から2,
800m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周す
る約25kmの道である。「御中道巡り」は、修験道の祖とされ
る役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基礎を築
いた長谷川角行が行ったことが記録されているエムゾネ。古くは定
まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江戸時代後
期には一定の道が整備された。富士山信仰の上では、山体西側の
大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道とされていた
。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師エムゾネに
114:底名無し沼さん
18/01/29 14:45:48.85 BdtTryWp0.net
を表す構成資産の保護を確実にし、各構成資産における富士山
体への良好な眺望を保証するために、個々の構成エムゾネ資産の周
囲に必要十分な範囲の緩衝地帯を設定する。さらに、個々の構
成資産間の関係を良好に保ち、富士山の景観の一体性・連続性
を保証するために、緩衝地帯を含め、広く保全管理区域を設定
する。構成資産の位置及びその周辺地域である緩衝地帯、エムゾネ
保全管理区域の範囲については、図に示すとおりである。図「
富士山」の範囲(構成資産・緩衝地帯)富士山山体の範囲につ
いては、現在特別名勝富士山に指定されている区域だけでなく
、その周辺部にあたる標高約1,500m付近までとした。こ
の範エムゾネ囲において、特別名勝の区域は文化財保護法で保護さ
れ、特別名勝指定地外から標高1,500mの区域については
自然公園法と森林法で保護されている。緩衝地帯との境につい
ては林班により線引きを行い、県道などの人工物の改修工事等
への影響が軽エムゾネ減するよう配慮した。そして本栖湖、精進湖
、西湖までを富士山の山体として考え、範囲付けしたことは、
展望地点から山頂までを連続して保護するための措置である。
緩衝地帯の範囲については、当初国道469号から県道72号
にかけての富士山側をエムゾネ計画していたが、国際専門家から飛
び地の資産である、富士山本宮浅間大社や山宮浅間神社を緩衝
地帯に含めるべきだとの指摘があり、市道を境に緩衝地帯を設
定した。その際、富士山本宮浅間大社からの富士山の眺望を確
保するため、富士山に向かってエムゾネ約36度の広がりで設定し
た。この範囲については、文化財保護法以外の法律を適用し、
自然公園法、森林法、景観法で保護されている。保全管理区域
の範囲については、三保松原から富士山を眺望する際、その阻
害要因を軽減させるために、溶岩が流出エムゾネした範囲を基本と
して設定した。そのため、静岡県側においては、裾野市
115:底名無し沼さん
18/01/29 14:46:14.84 BdtTryWp0.net
、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳しいもので
あった。この御中道の巡拝を無事終えると、その証である「御許
し」を御師から受けることができた。1816年の資料では年間
100人以上が御中道巡りを行っているが、197エムゾネ7年の
転落事故で通行止めとなり、現在では一周することはできなくな
っている。写真御中道の写真A1山頂信仰遺跡(富士山本宮奥宮
)富士山山頂部の火口壁沿いに、いくつかの神社及び宗教関連施
設が所在する。富士山への信仰登山が開始されると、エムゾネ修験
道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった。
登拝者は山頂周辺において「御来光」を拝み、内院と呼称される
噴火口に鎮座すると言われる神仏を拝した。また、火口エムゾネ壁
にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して
巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なう
ことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、
修行僧末代により建立された大日寺(大日堂)が最初とさエムゾネ
れ、その後、経典・懸仏・仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院
への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮・村山
口山頂部に大日堂が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された
。この様子は19世紀中ごろの絵図によって確認できる。1エムゾ
ネ874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
行為は現代の-23-登山者の多くが行っており、これらを通エム
ゾネじて富士信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の
写真表法的保護、修理・整備の経緯1924年所在地が史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公
園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地
116:底名無し沼さん
18/01/29 14:51:49.46 BdtTryWp0.net
場市、小山町に流出している溶岩流の範囲については、保全管
理区域とはしていない。なお、保全管理区域についても、森林
法と景観法で保護されている。富士山山体の東にエムゾネ位置する
、演習場(北富士演習場・東富士演習場)については、従前よ
り大規模開発が予定されていないことから、緩衝地帯同様に資
産を緩衝することが可能な区域であると言える。3構成資産の
概要構成資産及び保存管理状況の概要については、以下にエム
117:底名無し沼さん
18/01/29 14:52:15.28 BdtTryWp0.net
エムゾネ財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財
団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査が行われ、そ
の成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」が策定
された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士エムゾネ山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各峰
を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在も多くの人
々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「いたゞきに八
葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の峰々に信仰的
意義エムゾネを見出していたことが伺える。16世紀前半には地元
為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見られ、後に盛んになる
お鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが知られる。富士講
講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山頂を巡っていった。
内院にエムゾネ賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中にあるいくつか
の仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)の大日如来、最高
峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金明水などを巡礼した。写
真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間
大社及びエムゾネ村山浅間神社を起点とし、山頂大日岳に至る登山
道である。12世紀前半、富士山で修行した末代上人の開削した
登山道が起源だとされ、14世紀初め、僧の頼尊が修験者とその
活動を組織化したことで、村山を基点とする登山が行われていた
ことが推測エムゾネできる。15世紀に入ると村山での宿坊の存在
が確認でき、同世紀前半には、地元支配者である今川氏により発
心門等の施設が寄進されたとの記録がある。今川氏は1552年
、村山を神聖な地と定め、村山三坊には山役銭の徴収権を与えて
いる。この権エムゾネ利は19世紀後半まで継続し、浅間大社が登
山道の管理に関わることはなかった。一方、16世紀ごろ、浅間
大社は湧玉池での水垢離を重要な儀式と位置づけることによって
、浅間大社を経由した登拝を喧伝した。浅間大社には16
118:底名無し沼さん
18/01/29 14:57:30.38 BdtTryWp0.net
記すとおりである。構成資産の詳細については、推薦書本文に
て説明を行っている。保存管理状況等の詳細については、構成
資産毎に策定されている個別の保存管理計画等において、それ
ぞれ具体的内容を含めた説明を行っている。なお、p18,1
9表エムゾネのA~Cは次のように分類し、整理したものである。
A富士山山体及び登山道B信仰に関わるものC富士山の眺望に
関わるもの(1)富士山山体及び登山道A富士山標高3776
mを測る富士山は、日本を代表し、象徴する日本最高峰の秀麗
な独立火山でエムゾネある。その自然的な美しさと崇高さを基盤と
して、日本人の自然に対する信仰のあり方や、日本独自の芸術
文化を育んだ名山でもある。富士山は山岳に対する信仰の在り
方や芸術活動などを通じ、時代を超えて一国の文化の諸相と極
めて深い関連性を示しエムゾネ、生きた文化的伝統の物証であるの
みならず、人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑
出した類型として、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値
を持つ山である。世界文化遺産としての富士山とは、富士山山
体の内、標高約1500m以上エムゾネの範囲である。この範囲は
、富士山周辺の主要な神社や景勝地から見た可視領域が重なり
合う範囲であるとともに、各登山道における山体の神聖性に関
する境界の一つである「馬返」の標高とほぼ一致する。なお、
「馬返」とは、乗馬登山が物理的にも、エムゾネ宗教的観点からも
不可能になる地点を示す。景観的には山体の傾斜角の変化率が
大きくなり「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線
が優美な曲線を描き、絵画などの対象とされることが多い範囲
である。写真上空から見た写真に資産範囲を線でエムゾネ示したも
の(推薦原案と同じもの)-21--22-標高約2500m
付近の森林限界より上方は富士講信者には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域あるいは死後世界である「他界」と考えられ
119:底名無し沼さん
18/01/29 14:58:00.25 BdtTryWp0.net
半に30余りのエムゾネ道者坊があったことが伝えられ、同時期の
絵図である「絹本著色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び
村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者
坊はその後統合され、19世紀前半には5坊となった。また、1
600年頃以降、エムゾネ地元支配者により、大宮を経て村山口登
山道を利用することが求められた。登山道中の宗教施設は、17
世紀初頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀
120:底名無し沼さん
18/01/29 15:02:55.94 BdtTryWp0.net
。また、登山道ごとに標高は異なるが、1779年以降、エムゾネ
浅間大社の境内地とされてきた八合目以上はより強い神聖性を
持つとされる。理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口であ
る「内院」の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。富
士山頂へ向かい、登山の歴史の中で開鑿された登山道が、現在
の4エムゾネ本の登山道の起源となっている。また、ほぼ森林限界
に沿い、富士山山体を一周する「御中道」が15~16世紀ご
ろ富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ、そ
の後「大沢崩れ」という危険箇所を通るため、富士講信者によ
り修行の道とエムゾネして利用された。表法的保護、修理・整備の
経緯1924年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定
1936年国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定19
52年文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定196
9年国が大沢崩れに対エムゾネする砂防事業に着手(継続中)19
96年国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手
(継続中)「御中道」は、標高2,300m付近から2,80
0m付近の山腹を通り、富士山の中腹部を時計回りに一周する
約25kmの道である。「御中エムゾネ道巡り」は、修験道の祖と
される役行者が始めたと伝えられ、16世紀後半、富士講の基
礎を築いた長谷川角行が行ったことが記録されている。古くは
定まった道もなく巡ったとされ、富士講が盛んになった江戸時
代後期には一定の道が整備された。富士エムゾネ山信仰の上では、
山体西側の大沢崩れを渡るという危険を伴う最大級の大行の道
とされていた。富士登山3回以上の経験を持ち、誓約書を御師
に提出し、神への伺いをたてた上でないと許可されないほど厳
しいものであった。この御中道の巡拝を無事終えエムゾネると、そ
の証である「御許し」を御師から受けることができた。181
6年の資料では年間100人以上が御中道巡りを行って
121:底名無し沼さん
18/01/29 15:03:22.64 BdtTryWp0.net
興法寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の
宝永噴火で登山道とエムゾネ共にことごとく破壊された。これらは
再建されたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設
としては発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は興
法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を含む
西日本の人々が多かっエムゾネた。なお、1532年以降不連続で
あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から19
世紀初頭の道者坊の記録より、御縁年で2,000人前後、平年
で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではその数が減少
し、村山の村落も衰退しエムゾネていたとの記述もあるが、186
0年、初の外国人登山となる英国公使オ-24-ールコックは大
宮を経由して村山に宿泊し、山頂をめざした。彼の記録では大鏡
坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認できる。明治維新以
降、女人登山の解禁もありエムゾネ、登山者は増加傾向を示すが、
1889年、東海道線の開通による御殿場口利用者の増加により
衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由せず4km
短縮された大宮新道(カケスバタ口)が建設されたため、大宮か
ら現六合目までの村山口登山エムゾネ道は登山道としての機能を失
い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建設に雨水による侵食も
加わり、一部を除き登山道跡の推定は困難な状態であり、道標、
地蔵・不動明王像、建物跡などをある程度たどることができるの
みである。写真大宮・村山口登エムゾネ山道の写真A3須山口登山
道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ
嶽)に至る登山道である。その起源は明確ではないが、1200
年の資料には大宮・村山口、吉田口、須山(珠山)口以外には登
山道がないことが述べられているエムゾネ。1486年の京都の僧
による資料(廻国雑記)では、「すはま口」の名が確認できる。
登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及び12軒の御
122:底名無し沼さん
18/01/29 15:09:02.06 BdtTryWp0.net
、1977年の転落事故で通行止めとなり、現在では一周する
ことはできなくなっている。写真御中道の写真A1山頂信エムゾネ
仰遺跡(富士山本宮奥宮)富士山山頂部の火口壁沿いに、いく
つかの神社及び宗教関連施設が所在する。富士山への信仰登山
が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造
営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行
為がエムゾネ体系化されていった。登拝者は山頂周辺において「御
来光」を拝み、内院と呼称される噴火口に鎮座すると言われる
神仏を拝した。また、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼
荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉め
ぐり)」と呼エムゾネばれる行為を行なうことが一般的であった。
山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ、修行僧末代により建立
された大日寺(大日堂)が最初とされ、その後、経典・懸仏・
仏像等の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。ま
た、遅くとも17世紀エムゾネには、大宮・村山口山頂部に大日堂
が、吉田・須走口山頂部に薬師堂が造営された。この様子は1
9世紀中ごろの絵図によって確認できる。1874年、山頂の
仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピー
クの名称も変更され、寺院は神エムゾネ社に改変された。しかし、
山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の行為は現
代の-23-登山者の多くが行っており、これらを通じて富士
信仰の核心が現代に受け継がれている。写真奥宮の写真表法的
保護、修理・整備の経緯1924年所在エムゾネ地が史蹟名勝天然
紀念物保存法の下に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園
法の下に(富士箱根)国立公園に指定1952年所在地が文化
財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定2008年財団法
人静岡県埋蔵文化財調査研究所により現地調査がエムゾネ行われ、
その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計
123:底名無し沼さん
18/01/29 15:09:32.09 BdtTryWp0.net
心とした須山村により管理されていた。ただし、銀明水の管理を
巡り、須走村と争いになった際は浅エムゾネ間大社の裁定を仰いで
いる。登山道には宝永噴火前の状況を描いた絵図で須山御胎内に
附属する御胎内神社等の宗教施設と山室がみられる。これらの施
設及び登山道はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御
縁年の1740年に復興したが永続せエムゾネず、1780年によ
うやく復興した。また、1880年代の記録では御室浅間神社、
中宮浅間社、御胎内等の宗教施設と4箇所の石室があることが確
認できる。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場
としても使用された。登拝者についてはエムゾネ詳しい研究が進ん
でいないが、西日本・東日本両方からの登山者があったことが、
宿帳及び案内立札の立地から確認できる。登拝者数は御縁年に当
たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均約
1,700人、続く1860年の御縁年にエムゾネは約3,600
人であった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883
年、須山口二合八勺に接続する御殿場口登山道が開鑿された。ま
た、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便性の向上
により須山口からの登拝者や登山者が減少すエムゾネることとなっ
た。1912年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使用不可
能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っ
ている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一
部のみである。また、1999年、地元住民にエムゾネより須山口
下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された。写真須山口
登山道の写真A4須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点
とし、八合目で吉田口登山道と合流して山頂久須志岳に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、六合目かエムゾネらは13
84年の銘のある掛仏が出土している。文献からは「勝山記」の
1500年6月の項に、関東地方での戦乱を避け、吉田口
124:底名無し沼さん
18/01/29 15:15:11.41 BdtTryWp0.net
策定された2010年文化財保護法の下に他の文化財とともに
史跡富士山として指定山頂の噴火口の周囲を一周し、頂上の各
峰を巡る行為は、古くから「お鉢巡り」と呼ばれ、現在もエムゾネ
多くの人々に受け継がれている。13世紀後半の資料には「い
たゞきに八葉の嶺あり」との記載があり、このころには山頂の
峰々に信仰的意義を見出していたことが伺える。16世紀前半
には地元為政者が「八要メサルヽ也」との記述も見られ
125:底名無し沼さん
18/01/29 15:15:40.62 BdtTryWp0.net
すべき登拝者が須走口に集中したことが確認できる。遅くとも1
7世紀までに、冨士浅間神社及び須走村が登山道山エムゾネ頂部ま
でを支配し、薬師嶽(現久須志岳)における石室建設の独占、薬
師堂の開帳・入仏などを行った。また、内院および薬師堂の散銭
取得権も浅間大社に次ぐ権利を有していた。冨士浅間神社及び須
走村は、1703年と1772年の2回幕府に訴え、エムゾネこれ
らの権利について八合目以上の支配権を主張する浅間大社と争い
、正式に権利を認められた。-25-登山道の施設は1683年
の資料等で詳細が確認でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社
等の宗教施設と共に、小屋・石室が山頂部まで設置されエムゾネて
いる。1707年の宝永噴火では、これらの施設及び麓の浅間神
社、須走村は約3mの降砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援
を受け、翌年の登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集
めた。18世紀半ばには800名前後に減少したとの資料エムゾネ
があるが、18世紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセッ
トにされた参詣の流行で登拝者数は増加し、年平均約1万人、1
800年の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は
関東地方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見エムゾ
ネられる。講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した
須走口へ下山する形をとった。また、1831年、須走口山頂部
に宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加
した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19エム
ゾネ03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が
長い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道として利用され続
けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、1916年に
は、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以上は浅間
エムゾネ大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。また
、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されてい
126:底名無し沼さん
18/01/29 15:20:33.04 BdtTryWp0.net
盛んエムゾネになるお鉢巡りの古態と思われる習俗があったことが
知られる。富士講講中の多くは、頂上に着くと、時計回りに山
頂を巡っていった。内院に賽銭を投じ、御来光を礼拝し、途中
にあるいくつかの仏像や石碑を拝みながら、大日寺(現奥宮)
の大日如来、エムゾネ最高峰の剣ヶ峰、釈迦割石、霊泉とされた金
明水などを巡礼した。写真お鉢めぐりの写真A2大宮・村山口
登山道富士山南西麓の浅間大社及び村山浅間神社を起点とし、
山頂大日岳に至る登山道である。12世紀前半、富士山で修行
した末代上人の開削しエムゾネた登山道が起源だとされ、14世紀
初め、僧の頼尊が修験者とその活動を組織化したことで、村山
を基点とする登山が行われていたことが推測できる。15世紀
に入ると村山での宿坊の存在が確認でき、同世紀前半には、地
元支配者である今川氏により発エムゾネ心門等の施設が寄進された
との記録がある。今川氏は1552年、村山を神聖な地と定め
、村山三坊には山役銭の徴収権を与えている。この権利は19
世紀後半まで継続し、浅間大社が登山道の管理に関わることは
なかった。一方、16世紀ごろ、浅間大エムゾネ社は湧玉池での水
垢離を重要な儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由
した登拝を喧伝した。浅間大社には16世紀前半に30余りの
道者坊があったことが伝えられ、同時期の絵図である「絹本著
色富士曼荼羅図」には浅間大社・湧玉池及び村山エムゾネ浅間神社
を経由して登山する人々の姿が描かれている。道者坊はその後
統合され、19世紀前半には5坊となった。また、1600年
頃以降、地元支配者により、大宮を経て村山口登山道を利用す
ることが求められた。登山道中の宗教施設は、17世紀初エムゾネ
頭までに建設され、石室などの施設は主に17世紀後半、興法
寺から許可を受けた先達により建設されたが、1707年の宝
永噴火で登山道と共にことごとく破壊された。これらは
127:底名無し沼さん
18/01/29 15:20:59.04 BdtTryWp0.net
959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成により、五合
目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道としての確認ができ
なエムゾネい区間がある。写真須走口登山道の写真A5吉田口登山
道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目指す道である
。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一
般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世紀後半には参詣
の道エムゾネ者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登る
128:底名無し沼さん
18/01/29 15:26:04.54 BdtTryWp0.net
れたが、その復興は須走口より遅かった。主要な宗教施設とし
てはエムゾネ発心門、中宮八幡堂、室大日などがあった。登拝者は
興法寺の檀所や浅間大社の道者場としていた静岡県西部地方を
含む西日本の人々が多かった。なお、1532年以降不連続で
あるが、登拝者の記録が残され、その数は18世紀後半から1
9世紀初頭のエムゾネ道者坊の記録より、御縁年で2,000人前
後、平年で数百名程度と推測できる。1826年の記録ではそ
の数が減少し、村山の村落も衰退していたとの記述もあるが、
1860年、初の外国人登山となる英国公使オ-24-ールコ
ックは大宮を経由してエムゾネ村山に宿泊し、山頂をめざした。彼
の記録では大鏡坊、中宮八幡堂の存在や登山道の様子が確認で
きる。明治維新以降、女人登山の解禁もあり、登山者は増加傾
向を示すが、1889年、東海道線の開通による御殿場口利用
者の増加により衰退し、これへエムゾネの対策として1906年、
村山を経由せず4km短縮された大宮新道(カケスバタ口)が
建設されたため、大宮から現六合目までの村山口登山道は登山
道としての機能を失い、その歴史を閉じた。現在は、林道の建
設に雨水による侵食も加わり、一部を除エムゾネき登山道跡の推定
は困難な状態であり、道標、地蔵・不動明王像、建物跡などを
ある程度たどることができるのみである。写真大宮・村山口登
山道の写真A3須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起
点とし、山頂部浅間嶽(駒ケ嶽)に至る登山道でエムゾネある。そ
の起源は明確ではないが、1200年の資料には大宮・村山口
、吉田口、須山(珠山)口以外には登山道がないことが述べら
れている。1486年の京都の僧による資料(廻国雑記)では
、「すはま口」の名が確認できる。登山道および山頂部銀エムゾネ
明水は須山浅間神社及び12軒の御師を中心とした須山村によ
り管理されていた。ただし、銀明水の管理を巡り、須走
129:底名無し沼さん
18/01/29 15:32:55.39 BdtTryWp0.net
いになった際は浅間大社の裁定を仰いでいる。登山道には宝永
噴火前の状況を描いた絵図で須山御胎内に附属する御胎内神社
等のエムゾネ宗教施設と山室がみられる。これらの施設及び登山道
はその中腹より噴火した宝永噴火により壊滅し、御縁年の17
40年に復興したが永続せず、1780年にようやく復興した
。また、1880年代の記録では御室浅間神社、中宮浅間社、
御胎内等の宗エムゾネ教施設と4箇所の石室があることが確認でき
る。中宮浅間社や水呑浅間は村山修験の富士峯修行の行場とし
ても使用された。登拝者については詳しい研究が進んでいない
が、西日本・東日本両方からの登山者があったことが、宿帳及
び案内立札の立地からエムゾネ確認できる。登拝者数は御縁年に当
たる1800年に約5,400人、1840年代前半は年平均
約1,700人、続く1860年の御縁年には約3,600人
であった。登拝者は神仏分離令後も継続していたが、1883
年、須山口二合八勺に接続するエムゾネ御殿場口登山道が開鑿され
た。また、1889年に東海道本線が開通し、御殿場口の利便
性の向上により須山口からの登拝者や登山者が減少することと
なった。1912年には、登山道の一部が陸軍演習場となり使
用不可能となったため、須山口からの登エムゾネ拝(登山)は衰退
し現在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認
できる部分は一部のみである。また、1999年、地元住民に
より須山口下山歩道の名でかつての登山道の一部が復興された
。写真須山口登山道の写真A4須走口登山道富士エムゾネ山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流して山
頂久須志岳に至る登山道である。その起源は明確ではないが、
六合目からは1384年の銘のある掛仏が出土している。文献
からは「勝山記」の1500年6月の項に、関東地方でのエムゾネ
戦乱を避け、吉田口を利用すべき登拝者が須走口に集中
130:底名無し沼さん
18/01/29 15:39:09.53 BdtTryWp0.net
とが確認できる。遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及び
須走村が登山道山頂部までを支配し、薬師嶽(現久須志岳)に
おける石室建設の独占、薬師堂の開帳・入仏などを行った。ま
た、エムゾネ内院および薬師堂の散銭取得権も浅間大社に次ぐ権利
を有していた。冨士浅間神社及び須走村は、1703年と17
72年の2回幕府に訴え、これらの権利について八合目以上の
支配権を主張する浅間大社と争い、正式に権利を認めら
131:底名無し沼さん
18/01/29 15:39:39.37 BdtTryWp0.net
が詠われたほか、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西
湖の写真A8精進湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で
、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修-27-
行する内八海巡りが行われたが、このエムゾネ精進湖にも多くの富
士講徒が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖畔
に建てられ、多くの西洋人が訪れた。20世紀初頭には、絵葉書
に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんどだっ
た。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山エムゾネの火山活動により
形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の湖
を巡って修行する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多く
の富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も
使用された写真の撮影地点であり、重要なエムゾネ展望地点(vi
ewpoint)である。富士山は、プロ・アマを問わず多くの
写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわたり富士
山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の
峠道から撮影された「湖畔の春」という写真エムゾネは有名である
。この写真は、1984年に採用された5千円札及び2004年
に採用された千円札の図柄として使用された。山体の裾野が湖ま
で広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔
の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のままエムゾネ現在も残し
ている。写真本栖湖の写真表法的保護、修理・整備の経緯(A7
・A8・A9)1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱根
)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏の保全に関
する条例」を制定2006年自然公園法の下に本エムゾネ栖湖の湖
面全域での動力船の使用が規制される2011年文化財保護法の
下に名勝に指定(予定)2011年「名勝富士五湖保存管理計画
」を策定(予定)(2)信仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南
西麓に位置する神社であり、この神社とともに発展エムゾネ
132:底名無し沼さん
18/01/29 15:45:34.11 BdtTryWp0.net
-25-登山エムゾネ道の施設は1683年の資料等で詳細が確認
でき、大日堂、御室浅間神社、古御岳神社等の宗教施設と共に
、小屋・石室が山頂部まで設置されている。1707年の宝永
噴火では、これらの施設及び麓の浅間神社、須走村は約3mの
降砂に覆われ壊滅したエムゾネが、江戸幕府の支援を受け、翌年の
登拝期までには復興を完了し、多くの登拝者を集めた。18世
紀半ばには800名前後に減少したとの資料があるが、18世
紀後半、相模の大山石尊や関本の道了尊とセットにされた参詣
の流行で登拝者数は増加し、年エムゾネ平均約1万人、1800年
の御縁年に23,700人とピークを迎えた。登拝者は関東地
方の富士講関係者が多く、東北地方からの登拝者も見られる。
講によっては吉田口から登山し、砂道で下山に適した須走口へ
下山する形をとった。また、1831年エムゾネ、須走口山頂部に
宝経塔が作られたことにより、日蓮宗の信徒による登拝も増加
した。1889年の東海道線開通による御殿場口、および19
03年の中央線開通による吉田口の利便性の向上で、距離が長
い須走口は敬遠されるが、御殿場口の下山道としエムゾネて利用さ
れ続けた。1909年より登山道の周囲に石垣を築き、191
6年には、八合目まで馬による登山が可能になった。八合目以
上は浅間大社境内地という理由で馬の利用は行われなかった。
また、1923年に皇太子(昭和天皇)の登山に利用されエムゾネ
ている。1959年、バス道路(現ふじあざみライン)の完成
により、五合目以下の登山道の利用は減少し、一部登山道とし
ての確認ができない区間がある。写真須走口登山道の写真A5
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を目
指すエムゾネ道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者
だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は
14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、
133:底名無し沼さん
18/01/29 15:46:02.95 BdtTryWp0.net
た富士宮市の中央部に所在する。富士山の神とされる木花之佐久
夜毘売命を主祭神とし、現在全国に約1300社ある浅間神社の
総本宮とされている。境内には登拝の際に水垢離場として使用さ
れた湧玉池がある。浅間大社は7世紀ごろ、富士山にエムゾネより
近い遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたとさ
れる。創建当時は富士山の噴火が盛んであり、これを畏れ鎮める
ことを信仰の目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よ
134:底名無し沼さん
18/01/29 15:50:55.41 BdtTryWp0.net
人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17
世紀、長谷川エムゾネ角行が吉田口を利用して修行を行い、18世
紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的
自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。この
ため、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、年
間数万人を数える富士エムゾネ講の道者が登拝したとされる。19
64年に富士山有料道路が開通した後は、ほとんどの登山者が
新五合目(小御岳)を起点として登るようになったため、五合
目以下の道を利用する登山者は激減したが、六合目以上につい
ては、現在残る登山道の中で最エムゾネも多くの道者(外の登山口
の合計と同程度)が吉田口登山道を上って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要
な道である。写真吉田口登山道の写真表法的保護、修理・整備
の経緯1924年所在地が史蹟名勝天然エムゾネ紀念物保存法の下
に名勝に仮指定1936年所在地が国立公園法の下に(富士箱
根)国立公園に指定1952年所在地が文化財保護法の下に名
勝、ついで特別名勝に指定1978年「特別名勝富士山保存管
理計画」策定(1999年、2006年改訂)1エムゾネ996年
歴史の道整備活用事業により馬返~1合目区間を発掘調査・整
備1999年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2006
年「特別名勝富士山保存管理計画」を改訂2011年文化財保
護法の下に他の文化財とともに登山道の一部を史跡富士山エムゾネ
として指定-26-2011年「史跡富士山保存管理計画」を
策定(予定)A6北口本宮冨士浅間神社富士山北麓、吉田口登
山道の起点に位置し、祭神として木花開花姫命、天津彦彦火瓊
瓊杵命、大山祇命を祀る神社である。富士山の遙拝所に祀られ
ていエムゾネた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、148
0年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばに
135:底名無し沼さん
18/01/29 15:51:24.62 BdtTryWp0.net
い神階を与えることで崇敬の念を示した。12世紀後半エムゾネご
ろには、浅間大神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹であ
る「浅間大菩薩」と見なされるようになり、12世紀頃より政治
の実権を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世
紀ごろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間エムゾネ
神社とともに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建
設された。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池での水垢離を重要な
儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧伝
した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間エムゾ
ネ大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が
描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築さ
れていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、1604年現在
の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散銭取得にエム
ゾネおける優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・
支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登山道と頂上部
の大日堂周辺は-28-村山浅間神社が支配し、廃仏毀釈以降、
村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神社を経由しない登
エムゾネ山道の開削などにより、浅間大社には多くの参拝者が訪れ
た。また、明治政府の政策により、一時国有地とされていた八合
目以上の土地は1974年の最高裁判決に基づき、2004年浅
間大社に譲渡(返還)された。写真本殿・拝殿+富士山表法的保
護エムゾネ、修理・整備の経緯1907年本殿が古社寺保存法の下
に特別保護建造物に指定1925年本殿・拝殿・楼門等の補修1
929年本殿は国宝保存法制定に伴い国宝に名称変更1934年
楼門の修理1936年袖廊・廻廊を附した1950年本殿は文化
財保エムゾネ護法制定に伴い重要文化財に名称変更1952年本殿
の屋根の修理等が行われた1970年本殿の屋根の修理等が行わ
れた1988年本殿の屋根の修理等が行われた1996年
136:底名無し沼さん
18/01/29 15:56:44.01 BdtTryWp0.net
市教育委員会が調査を行った2002年富士宮市教育委員会が調
査を行エムゾネった2005年本殿の屋根の修理等が行われた20
08年財団法人静岡県埋蔵文化財調査研究所により境内の発掘調
査が行われ、その成果に基づき2010年に「史跡富士山保存管
理計画」を策定2010年文化財保護法の下に他の文化財ととも
に史跡富エムゾネ士山として指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内
に所在する面積約2,500㎡の池である。池は約1万年前に噴
出した万野溶岩流の末端から湧き出す一日平均14万~(200
8年)の水を源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高
1000mエムゾネ前後ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ
込み、何層もある溶岩層の間にはさまれて充満し、それが押し出
されるようにして末端から湧出したものである。浅間大社の位置
は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる
水源の山としエムゾネて崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧
玉池のほとりに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水として
の役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神と
しての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由来
には、地底からエムゾネ玉が湧き出るように湧水しているためとい
う説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世
紀後半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は167
0年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大社に参拝
し、富士山をめざエムゾネす登拝者が身を清める場として使用され
た。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼荼羅図
」、17世紀初頭の登山記で確認できる。この絵図では現在の形
状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やそのための施設が見
られる。登拝者の水エムゾネ垢離は1920~30年代まで行われ
、現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承されている。また
、湧水は聖なる水として現在でも利用する人が多い。湧玉
137:底名無し沼さん
18/01/29 16:01:28.41 BdtTryWp0.net
西湖と精進湖はかつて「~の海(せのうみ)」と呼ばれる一つ
の湖だったが、日本最古の歌集・万葉集で~の海が詠われたほ
か、いくつかの文学作品ともゆかりがある。写真西湖の写真A
8精進湖富士エムゾネ山の火山活動により形成された堰止湖で、富
士山の北西に位置する。富士山周辺の湖を巡って修-27-行
する内八海巡りが行われたが、この精進湖にも多くの富士講徒
が訪れた。富士山北麓で最初の洋風ホテルはこの精進湖
138:底名無し沼さん
18/01/29 16:07:28.08 BdtTryWp0.net
てられ、多くの西洋人エムゾネが訪れた。20世紀初頭には、絵葉
書に使われた富士山の写真はこの精進湖からのものがほとんど
だった。写真精進湖の写真A9本栖湖富士山の火山活動により
形成された堰止湖で、富士山の北西に位置する。富士山周辺の
湖を巡って修行する内八海巡りエムゾネが行われたが、この精進湖
にも多くの富士講徒が訪れた。本栖湖は、日本の紙幣の図柄と
して何度も使用された写真の撮影地点であり、重要な展望地点
(viewpoint)である。富士山は、プロ・アマを問わ
ず多くの写真家に愛され、撮影されてきエムゾネた。なかでも、生
涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年
に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写真
は有名である。この写真は、1984年に採用された5千円札
及び2004年に採用された千円札の図柄としてエムゾネ使用され
た。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖
湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ
姿のまま現在も残している。写真本栖湖の写真表法的保護、修
理・整備の経緯(A7・A8・A9)1936年所在地がエムゾネ
国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「山
梨県富士五湖の静穏の保全に関する条例」を制定2006年自
然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制され
る2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011
年「エムゾネ名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)(2)信
仰B1富士山本宮浅間大社富士山の南西麓に位置する神社であ
り、この神社とともに発展してきた富士宮市の中央部に所在す
る。富士山の神とされる木花之佐久夜毘売命を主祭神とし、現
在全国に約1エムゾネ300社ある浅間神社の総本宮とされている
。境内には登拝の際に水垢離場として使用された湧玉池がある
。浅間大社は7世紀ごろ、富士山により近い遥拝所であ
139:底名無し沼さん
18/01/29 16:07:56.04 BdtTryWp0.net
村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士山南麓に張り出
した標高約500mのバルコニー状地エムゾネ形に位置し、木花開
花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲には、
現在別の宗教法人となった大日堂・水垢離場・護摩壇などが存在
している。これらは1868年の神仏分離令までは一体のもので
あり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼エムゾネばれていた。なお
、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊の村
140:底名無し沼さん
18/01/29 16:12:30.24 BdtTryWp0.net
宮浅間神社から現在の地に移転されたとされる。創建当時は富
士山の噴火が盛んであエムゾネり、これを畏れ鎮めることを信仰の
目的としていた。朝廷も浅間大神に他の山よりも高い神階を与
えることで崇敬の念を示した。12世紀後半ごろには、浅間大
神は本地垂迹説の影響を受け大日如来の垂迹である「浅間大菩
薩」と見なされるようになり、エムゾネ12世紀頃より政治の実権
を掌握した武士階級に戦勝の神として信仰された。15世紀ご
ろ、登拝が盛んになるにつれて、浅間大社は村山浅間神社とと
もに大宮・村山口登山道の起点となり、宿坊が周辺に建設され
た。16世紀ごろ、浅間大社は湧玉池でエムゾネの水垢離を重要な
儀式と位置づけることによって、浅間大社を経由した登拝を喧
伝した。同時期の絵図である絹本著色富士曼荼羅図には、浅間
大社・湧玉池及び村山浅間神社を経由して登山する人々の姿が
描かれている。登拝の拡大に伴い、富士山中でのエムゾネ諸権利が
構築されていく中で、浅間大社は徳川家康の庇護の下、160
4年現在の社殿が造営されるとともに、1609年山頂部の散
銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の
管理・支配を行うようになった。ただし、大宮・村山口登エムゾネ
山道と頂上部の大日堂周辺は-28-村山浅間神社が支配し、
廃仏毀釈以降、村山浅間神社の衰退と1906年の村山浅間神
社を経由しない登山道の開削などにより、浅間大社には多くの
参拝者が訪れた。また、明治政府の政策により、一時国有地と
されエムゾネていた八合目以上の土地は1974年の最高裁判決に
基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。写真本殿
・拝殿+富士山表法的保護、修理・整備の経緯1907年本殿
が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定1925年本殿・
拝殿・楼門等エムゾネの補修1929年本殿は国宝保存法制定に伴
い国宝に名称変更1934年楼門の修理1936年袖廊
141:底名無し沼さん
18/01/29 16:12:59.27 BdtTryWp0.net
(池西坊・大鏡坊・辻之坊の三箇所)の跡が発掘調査によって確
認されている。その起源は、1149年の記録に見える修行僧末
代上人による富士山頂への大日寺の建立にエムゾネあるとされる。
末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建立したとの記録も
残されている。これらの記録等から、12世紀中ごろに村山周辺
において修験道または密教系の宗教活動が行われていたと推測で
きる。1259年には、現存する大日如来がエムゾネ寄進されたこ
とを仏像の銘で確認できる。末代以後、その流れを汲み富士山で
修行する人々が現れ、村山が富士山修験道(富士行)の拠点とな
ったと考えられる。14世紀初めには僧の頼尊が修験者とその活
動を組織化し、興法寺を再興したとされる。1エムゾネ5世紀に入
ると興法寺とそれを支える宿坊の存在が現存する大日如来の銘(
1478)で確認できる。1482年には修験道本山派の本寺で
ある聖護院と関係を持ち、その権威を高めた。16世紀中には十
数軒あった道者坊が村山三坊に統合され、その活エムゾネ動を資料
で確認できる。坊に所属する山伏は夏に「富士峯修行」を山中及
び山頂で行った。また、富士山への一般の登拝者も増加し、夜間
に白装束をまとい、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の
様子が「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。エムゾネ村山の
山伏は、富士峰修行の際に東麓、南麓の村を年一回巡回し加持祈
祷等を行った。また18世紀、富士講の隆盛に対抗し西日本の一
般登拝者中の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図
ると-30-ともに、登拝が困難な人々に対しては川エムゾネ辺で
垢離を取り、祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富士垢
離」の手法を広めている。加えて富士山を航海の目印とする伊豆
半島の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺
の勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた1エムゾネ6
世紀前半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院
142:底名無し沼さん
18/01/29 16:18:52.85 BdtTryWp0.net
を附した1950年本殿は文化財保護法制定に伴い重要文化財
に名称変更1952年本殿の屋根の修理等が行われた1970
年本殿の屋根の修理等エムゾネが行われた1988年本殿の屋根の
修理等が行われた1996年富士宮市教育委員会が調査を行っ
た2002年富士宮市教育委員会が調査を行った2005年本
殿の屋根の修理等が行われた2008年財団法人静岡県埋蔵文
化財調査研究所により境内の発エムゾネ掘調査が行われ、その成果
に基づき2010年に「史跡富士山保存管理計画」を策定20
10年文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山とし
て指定湧玉池は富士山本宮浅間神社境内に所在する面積約2,
500㎡の池である。池は約1万年前にエムゾネ噴出した万野溶岩
流の末端から湧き出す一日平均14万~(2008年)の水を
源としている。湧水のメカニズムは、富士山の標高1000m
前後ないしそれ以上の高所の降水が地下にしみ込み、何層もあ
る溶岩層の間にはさまれて充満し、それが押し出エムゾネされるよ
うにして末端から湧出したものである。浅間大社の位置は、富
士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる水源
の山として崇める考え方から、豊富な湧水量を持つ湧玉池のほ
とりに置かれたとされる。この湧水には灌漑用水としてのエムゾネ
役割もあり、浅間大社境内の神田の宮では水徳の神・農業神と
しての浅間大神に感謝する祭礼が行われている。池の名前の由
来には、地底から玉が湧き出るように湧水しているためという
説や湧く霊たま(神霊)との説等があり、わく玉の名は10世
紀後エムゾネ半の地元支配者による和歌に見られ、湧玉池の名称は
1670年作成の「社頭古絵図」に見られる。湧玉池は浅間大
社に参拝し、富士山をめざす登拝者が身を清める場として使用
された。その様子は「絹本著色富士曼荼羅図」や「富士浅間曼
荼羅図」、1エムゾネ7世紀初頭の登山記で確認できる。こ
143:底名無し沼さん
18/01/29 16:19:23.14 BdtTryWp0.net
背景に一定の権威をもち、登山道及びその頂上部の大日堂周辺を
支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復され
、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ばエムゾネ
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913年改築さ
れたものを基本としている。1868年、神仏分離令により浅間
神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、1906年
の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、富士峰エムゾ
ネ修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在は197
0年代より活発になった地域住民による伝統復活のための活動が
見られ、水垢離等の行事が行われている。また、村山浅間神社の
影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三重県南伊勢町等でエム
ゾネは現在でも富士垢離の行事が継続されている。写真村山浅間
神社の写真B-4須山浅間神社富士山の南東麓、須山口登山道の
入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である。その
起源は1598年作の社伝旧記によると110年、日本武尊が蝦
エムゾネ夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社を創起し、さらに55
2年有力豪族の蘇我稲目が再興したとある。記録上神社の存在が
確認できるのは1524年で修築時の棟札による。また、市天然
記念物である境内の杉は、樹齢500年以上と推定されており、
遅エムゾネくともこの時期までに須山浅間神社が現在の地に存在し
たと推測できる。現在の社殿は1823年の再建である。170
7年の宝永噴火により登山道も含め大きな被害を受けたが、17
80年に登山道が再興され、1800年の御縁年には約5,40
0人エムゾネの登拝者があった。須山浅間神社は12軒の御師とと
もに当時の須山村の中心的存在であり、村全体で須山口登山道と
山頂部銀明水を管理した。また、京都吉田家より神道裁許状を得
たり、朝廷・公家に銀明水を献上したりする等して権威を高めて
いるがエムゾネ、山頂部で発生した問題については、浅間大
144:底名無し沼さん
18/01/29 16:24:25.50 BdtTryWp0.net
では現在の形状に近い湧玉池が描かれ、水垢離する人々やその
ための施設が見られる。登拝者の水垢離は1920~30年代
まで行われ、現在では山開きの恒例行事に形を変えて継承され
ている。また、湧水はエムゾネ聖なる水として現在でも利用する人
が多い。湧玉池および周辺には様々な宗教に係わる施設がある
が、特に池の南端にある「神幸橋」は、御神幸道の基点であり
、現在でも1691年に作られた石碑がたもとに残され
145:底名無し沼さん
18/01/29 16:24:54.60 BdtTryWp0.net
断を仰いでいる。須山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ち、1
940年頃まで境内で富士峯修行の一環としての祈祷が行われて
いた。1883年、御殿場口登山道が開設され、1899年の東
海道本線エムゾネ開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの
登拝者や登山者を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍演
習場となり使用不可能となったため、須山口は衰退した。しかし
、その後都市化の影響を余り受けなかったため、須山浅間神社周
辺は日本的エムゾネ伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い
。写真須山浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口
登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社である
。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来、交通の要衝で
あった。社伝エムゾネでは802年、噴火の鎮火祈願のために祭事
を行い、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地で
あるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したとされる。
その他の文書で確実に存在が確認できるのは、1571年のもの
である。16世エムゾネ紀には地元支配者である武田氏の保護を受
け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以降、須走
浅間神社は当時の須走村の御師などと共に須走口登山道を支配し
、山頂部薬師嶽(現-31-久須志岳)の薬師堂開帳の権利及び
山頂部の散銭取得エムゾネ権の一部を得ていた。これら山頂部の権
利については八合目以上の支配権を主張する富士山本宮浅間大社
と争いになり、須走村は1703年と1772年の2回、幕府に
裁定を求めている。この結果、これらの権利は幕府によって認め
られた。また、冨士エムゾネ浅間神社神主や御師は須山の場合と同
じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権威を高めている。社殿
は、記録の残っている範囲では1662年、地元領主である沼津
城主大久保氏や小田原藩主稲葉氏などの援助によって修造が行わ
れた。しかし1707エムゾネ年の宝永噴火では3m以上の
146:底名無し沼さん
18/01/29 16:29:36.81 BdtTryWp0.net
。-29-写真沸玉池の写真Bエムゾネ2山宮浅間神社浅間大社の
北北東約5kmに位置し、木花之佐久夜毘売命を主祭神とする
神社である。その起源は「富士本宮社記」によれば、山足の地
に祀られていた浅間大神を、神話上の英雄である日本武尊が大
神の神威により難を逃れた謝礼に山宮にエムゾネ祀ったこととされ
、これが802年に再び遷され浅間大社となったとする。具体
的な創建年代は不詳だが、文献上での初見は1551年である
。神社は神事の際に使用する籠屋以外の建物施設を持たず、拝
殿・本殿等が位置すべき場所には石列でいくつかエムゾネに区分さ
れた遥拝所が設置されるのみという特異な形態を示している。
この形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定され
ており、遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。発掘調査で
は12~15世紀にかけての神事に使用されたと推定されエムゾネ
る破砕された土器が遥拝所北側から多数出土し、当神社での宗
教活動を裏付けている。また、遅くとも1577年までには浅
間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。
これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社から山宮
浅間エムゾネ神社へ行き、神事を行った後、翌日未明に浅間大社へ
戻る行事である。行事の意味として、現時点では神が4月に旧
跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神として里へ
降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われて
いた。なお、エムゾネ「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸道
と称し、浅間大社湧玉池横より発し、約600m東へ向かった
後、ほぼ直角に曲がり直線状に北上して山宮浅間神社に至る。
道の出発点及び途中には1691年に置かれた距離を示す石碑
が少なくとも四箇所残エムゾネっている。写真山宮浅間神社の写真
B3村山浅間神社山宮浅間神社の南東約4km、富士山南麓に
張り出した標高約500mのバルコニー状地形に位置し
147:底名無し沼さん
18/01/29 16:30:04.82 BdtTryWp0.net
埋もれ崩壊したため、1718年に再建された。この後もこの際
の部材を使用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこな
われている。境内には水路があり、水垢離に利用された。18世
紀末から19世紀初頭にエムゾネかけて富士講が隆盛を迎えると須
走口にも関東からの登拝者が登山又は下山の際立ち寄った。その
数は1800年の御縁年の際に約27,300名であった。同時
期から20世紀前半まで富士講信者は境内に登山回数等の
148:底名無し沼さん
18/01/29 16:35:22.66 BdtTryWp0.net
開花姫命を主祭神とする神社である。神社と一体化した範囲に
は、現在別の宗教法人となったエムゾネ大日堂・水垢離場・護摩壇
などが存在している。これらは1868年の神仏分離令までは
一体のものであり、富士山興法寺(村山興法寺)と呼ばれてい
た。なお、周辺には興法寺の維持・運営にあたっていた道者坊
の村山三坊(池西坊・大鏡坊・辻之坊のエムゾネ三箇所)の跡が発
掘調査によって確認されている。その起源は、1149年の記
録に見える修行僧末代上人による富士山頂への大日寺の建立に
あるとされる。末代上人が富士山中又は村山の地に興法寺を建
立したとの記録も残されている。これらの記録等エムゾネから、1
2世紀中ごろに村山周辺において修験道または密教系の宗教活
動が行われていたと推測できる。1259年には、現存する大
日如来が寄進されたことを仏像の銘で確認できる。末代以後、
その流れを汲み富士山で修行する人々が現れ、村山が富士エムゾネ
山修験道(富士行)の拠点となったと考えられる。14世紀初
めには僧の頼尊が修験者とその活動を組織化し、興法寺を再興
したとされる。15世紀に入ると興法寺とそれを支える宿坊の
存在が現存する大日如来の銘(1478)で確認できる。14
82エムゾネ年には修験道本山派の本寺である聖護院と関係を持ち
、その権威を高めた。16世紀中には十数軒あった道者坊が村
山三坊に統合され、その活動を資料で確認できる。坊に所属す
る山伏は夏に「富士峯修行」を山中及び山頂で行った。また、
富士山への一エムゾネ般の登拝者も増加し、夜間に白装束をまとい
、仏がいるとされた山頂を目指す多くの人々の様子が「絹本著
色富士曼荼羅図」に描かれている。村山の山伏は、富士峰修行
の際に東麓、南麓の村を年一回巡回し加持祈祷等を行った。ま
た18世紀、富士講のエムゾネ隆盛に対抗し西日本の一般登拝者中
の有力者に対して「先達」の免許を発行し組織化を図る
149:底名無し沼さん
18/01/29 16:35:52.64 BdtTryWp0.net
を約80基造営した。またエムゾネ、神社には神社神官や御師が発
行した木版印刷による神影や神符の版木が保管されている。写真
冨士浅間神社の写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭
祀は南麓の浅間神社(山宮浅間神社か~)が執り行っていたが、
864年~866年に北麓でエムゾネ起こった噴火を契機に、北麓
にも浅間神社が建てられることとなった。それが、富士山を望む
河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であると
される。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官
道の宿駅という役割に加え、富エムゾネ士登拝が大衆化した中世後
半から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士
講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集
落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河
口浅間神社は、現在も富士山と密エムゾネ接に結びついた宗教行事
を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠
かすことができない資産である。写真河口浅間神社の写真表法的
保護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定(エムゾネ予定)2011年「史
跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間神社冨
士御室浅間神社は吉田口二合目に鎮座した本宮(もとみや)と、
河口湖畔に建立された里宮から構成されている。8世紀初めに吉
田口登山道二合目に祭場をしつらえたエムゾネのが最初とされ、富
士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もある。富士修験
の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅間神社
が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備さ
れたようである。また、社記によると9エムゾネ58年、二合目は
冬季における参詣が難儀であることから河口湖畔の現在地に里宮
が建立されたという。江戸時代以降富士講の隆盛にともない、吉
田口登山道の信仰拠点の一つとしてこの二合目の役割はさ
150:底名無し沼さん
18/01/29 16:40:33.95 BdtTryWp0.net
0-ともに、登拝が困難な人々に対しては川辺で垢離を取り、
祈ることで登拝と同等の利益があるとする「富士垢離」の手法
を広めている。加えて富士山をエムゾネ航海の目印とする伊豆半島
の漁業者に対しては航海安全と大漁の祈願を行った。興法寺の
勢力は地元支配者である今川氏の支援を受けていた16世紀前
半が最も強かったが、それ以降衰退しつつも聖護院の力を背景
に一定の権威をもち、登山道及びその頂エムゾネ上部の大日堂周辺
を支配した。社殿については、1697年徳川幕府により修復
され、現在の大日堂は建築様式や部材の状況から19世紀半ば
に建立されたと推定される。また、浅間神社は1913年改築
されたものを基本としている。1868年、神仏エムゾネ分離令に
より浅間神社と興法寺(大日堂)は分離され、山伏は還俗し、
1906年の登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし
、富士峰修行と加持祈祷は1940年代まで継続された。現在
は1970年代より活発になった地域住民による伝統復活エムゾネ
のための活動が見られ、水垢離等の行事が行われている。また
、村山浅間神社の影響を受けた地域のうち、滋賀県甲賀市、三
重県南伊勢町等では現在でも富士垢離の行事が継続されている
。写真村山浅間神社の写真B-4須山浅間神社富士山の南東麓
、須エムゾネ山口登山道の入り口に位置し、木花開花姫命を主祭神
とする神社である。その起源は1598年作の社伝旧記による
と110年、日本武尊が蝦夷征伐の際、この地を訪れ浅間神社
を創起し、さらに552年有力豪族の蘇我稲目が再興したとあ
る。記録上神エムゾネ社の存在が確認できるのは1524年で修築
時の棟札による。また、市天然記念物である境内の杉は、樹齢
500年以上と推定されており、遅くともこの時期までに須山
浅間神社が現在の地に存在したと推測できる。現在の社殿は1
823年の再建であるエムゾネ。1707年の宝永噴火によ
151:底名無し沼さん
18/01/29 16:41:00.94 BdtTryWp0.net
すことになる。しかし、昭和に入ると富士エムゾネ信仰のありかた
の変化や、富士スバルラインの開通等もあって吉田口登山道は衰
退する。それに伴い二合目を通過する登拝者も激減する。また、
富士御室浅間神社本宮を支えてきた氏子にとっても、その維持管
理が困難となって、1973年から74年にエムゾネかけて、-3
2-本殿を里宮地内に移転することとなる。修験や登拝といった
様々な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土
地の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。写真冨士御室浅間神社の写真表法的保護、修エムゾネ理・整備の
経緯1973年本宮本殿・二合目から里宮境内地に移築、整備さ
れた(~74年)1985年本宮本殿・文化財保護法の下に重要
文化財として指定1983年回廊修理工事を行う1995年外部
の漆塗の塗り直しほか一部補修を行う2010年エムゾネ「重要文
化財冨士御室浅間神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化
財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定
)2011年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御
師住宅御師は、道者に宿や食事を始め登拝のためのエムゾネ一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くはエムゾネ短冊
状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路
の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧外川家
住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最エムゾネ盛
期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧外川家住宅
は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉田市上吉田・下宿の
東側南端に位置する。1572年の町割によって成立した
152:底名無し沼さん
18/01/29 16:46:32.95 BdtTryWp0.net
道も含め大きな被害を受けたが、1780年に登山道が再興さ
れ、1800年の御縁年には約5,400人の登拝者があった
。須山浅間神社は12軒の御師とともに当時の須山村の中心的
存在であり、村全体で須山口登エムゾネ山道と山頂部銀明水を管理
した。また、京都吉田家より神道裁許状を得たり、朝廷・公家
に銀明水を献上したりする等して権威を高めているが、山頂部
で発生した問題については、浅間大社の判断を仰いでい
153:底名無し沼さん
18/01/29 16:46:59.11 BdtTryWp0.net
向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷地に建てエムゾネ
られている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩廼屋(しお
のや)と号し、富士信仰における上吉田に居住し、下総地域を檀
家とした富士山御師である。1572年の「吉田宿屋敷割帳写」
には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」の屋敷が記されてエムゾ
ネおり、外川家ではこの人物を中興の初代としている。また、1
669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋敷として確認される
。御師としての活動は江戸末期頃隆盛期を迎えるが、1962年
に御師を廃業している。建物の老朽化に伴い、所有者が取り壊エム
ゾネす意向であったが、富士吉田市が寄贈を受け、2006年か
ら2007年にかけ大規模保存修理事業を行った上で、2008
年4月から富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開
されている。写真旧外川家住宅の写真表法的保護、修理・整備の
エムゾネ経緯2006年大規模保全修理を行う2008年富士吉田
市歴史民俗博物館の附属施設として一般公開を行う2010年「
山梨県指定有形文化財旧外川家住宅保存活用計画」を策定201
1年文化財保護法の下に重要文化財として指定小佐野家住宅は、
富エムゾネ士講によって大きく発展した御師集落である富士吉田市
上吉田地区にあって、富-33-士山に登拝する人々を宿泊させ
た宿坊として、代表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の
雪代の被害を避けるため、1572年に旧地である古吉田地区か
ら集エムゾネ落ごと移転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北
東方向の傾斜面に沿って短冊状に町割が行われたと伝えられてい
る。小佐野家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが
150mほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元
亀の集エムゾネ落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられ
る。代々御師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当主は
小佐野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿
154:底名無し沼さん
18/01/29 16:51:40.56 BdtTryWp0.net
山浅間神社は村山三坊とも関わりを持ちエムゾネ、1940年頃ま
で境内で富士峯修行の一環としての祈祷が行われていた。18
83年、御殿場口登山道が開設され、1899年の東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口からの登拝者や登山
者を奪い、加えて1912年登山道の一部が陸軍エムゾネ演習場と
なり使用不可能となったため、須山口は衰退した。しかし、そ
の後都市化の影響を余り受けなかったため、須山浅間神社周辺
は日本的伝統に基づく村落景観を保っている部分が多い。写真
須山浅間神社の写真B5冨士浅間神社富士山東麓、須走口エムゾネ
登山道の起点に位置し、木花開花姫命を主祭神とする神社であ
る。境内西側には鎌倉往還が通り、神社周辺は古来、交通の要
衝であった。社伝では802年、噴火の鎮火祈願のために祭事
を行い、翌年噴火が収まったことから、807年に祭事の跡地
であエムゾネるとされる現在の地にお礼のために社殿を造営したと
される。その他の文書で確実に存在が確認できるのは、157
1年のものである。16世紀には地元支配者である武田氏の保
護を受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。17世紀以
降、須走浅間エムゾネ神社は当時の須走村の御師などと共に須走口
登山道を支配し、
155:山頂部薬師嶽(現-31-久須志岳)の薬師 堂開帳の権利及び山頂部の散銭取得権の一部を得ていた。これ ら山頂部の権利については八合目以上の支配権を主張する富士 山本宮浅間大社と争いエムゾネになり、須走村は1703年と17 72年の2回、幕府に裁定を求めている。この結果、これらの 権利は幕府によって認められた。また、冨士浅間神社神主や御 師は須山の場合と同じく、京都吉田家より神道裁許状を得て権 威を高めている。社殿は、記録エムゾネの残っている範囲では16 62年、地元領主である沼津城主大久保氏や小田原藩主稲葉氏 などの援助によって修造が行われた。しかし1707年
156:底名無し沼さん
18/01/29 16:52:09.39 BdtTryWp0.net
参詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東
側には所エムゾネ有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅
には所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表法
的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重要文
化財として指定1977年消防設備設置を行う1979年屋根の
葺替えを行エムゾネう1996年雨樋いの補修を行う1997年主
屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い20
157:底名無し沼さん
18/01/29 16:58:13.09 BdtTryWp0.net
噴火では3m以上の降砂に埋もれ崩壊したため、1718年に
再建された。この後もこの際の部材を使エムゾネ用し、2009年
の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。境内には水路
があり、水垢離に利用された。18世紀末から19世紀初頭に
かけて富士講が隆盛を迎えると須走口にも関東からの登拝者が
登山又は下山の際立ち寄った。その数は1800エムゾネ年の御縁
年の際に約27,300名であった。同時期から20世紀前半
まで富士講信者は境内に登山回数等の記念碑を約80基造営し
た。また、神社には神社神官や御師が発行した木版印刷による
神影や神符の版木が保管されている。写真冨士浅間神社のエムゾネ
写真B6河口浅間神社古くから富士山に関わる祭祀は南麓の浅
間神社(山宮浅間神社か~)が執り行っていたが、864年~
866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が
建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖の北岸
にあエムゾネり、溶岩の届かなかった河口浅間神社であるとされる
。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の
宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御
師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士講の大
流行と、それエムゾネに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師集
落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、
河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を
行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で欠
かすことができない資エムゾネ産である。写真河口浅間神社の写真
表法的保護、修理・整備の経緯2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史跡富士山として指定(予定)2011年
「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B7冨士御室浅間
神社冨士御室浅間神社は吉田口エムゾネ二合目に鎮座した本宮(も
とみや)と、河口湖畔に建立された里宮から構成されて
158:底名無し沼さん
18/01/29 16:58:42.09 BdtTryWp0.net
「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9山中湖富士
山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山の北東に位置
する。富士山エムゾネ周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが行わ
れたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝
地として有名で、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられ
たほか、別荘地としても整備された。ゆかりのある芸術家も多く
、山中湖を描いエムゾネた文学や絵画が散見する。富士山の頂上付
近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士と呼ばれ、多くの
写真家を集める。写真山中湖の写真B10河口湖富士山の火山活
動により形成された堰止湖で、富士山の北に位置する。富士山周
辺の湖を巡って修エムゾネ行する内八海巡りが行われたが、この河
口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古くから景勝地として有名で
、20世紀前半には湖畔に洋式ホテルが建てられた。ゆかりのあ
る芸術家も多く、湖を題材にした文学や絵画は、富士五湖中この
河口湖が最も多い。エムゾネ葛飾北斎や歌川広重といった浮世絵師
も、河口湖越しに見える富士山を描いている。写真河口湖の写真
表法的保護、修理・整備の経緯(B9・B10)1936年所在
地が国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定1988年「
山梨県富士五湖の静穏エムゾネの保全に関する条例」を制定200
6年自然公園法の下に本栖湖の湖面全域での動力船の使用が規制
される-34-2011年文化財保護法の下に名勝に指定(予定
)2011年「名勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B1
1忍野八海富士山の北東エムゾネ、忍野村忍草にある、富士山の伏
流水による八つの湧水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧
池、濁池、鏡池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を
祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者た
ちはこの水で穢れを祓ったエムゾネ。長谷川角行が行った富士八海
修行になぞられ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱え
159:底名無し沼さん
18/01/29 17:04:22.38 BdtTryWp0.net
8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初
とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあ
る。富士修験の信仰拠点は南西の村山でエムゾネあるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。また、社記によると9
58年、二合目は冬季における参詣が難儀であることから河口
湖畔の現在地に里宮が建立されたという。江戸時エムゾネ代以降富
士講の隆盛にともない、吉田口登山道の信仰拠点の一つとして
この二合目の役割はさらに増すことになる。しかし、昭和に入
ると富士信仰のありかたの変化や、富士スバルラインの開通等
もあって吉田口登山道は衰退する。それに伴い二合目を通エムゾネ
過する登拝者も激減する。また、富士御室浅間神社本宮を支え
てきた氏子にとっても、その維持管理が困難となって、197
3年から74年にかけて、-32-本殿を里宮地内に移転する
こととなる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として
位置エムゾネづけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里
宮が一体となって機能してきた神社である。写真冨士御室浅間
神社の写真表法的保護、修理・整備の経緯1973年本宮本殿
・二合目から里宮境内地に移築、整備された(~74年)19
85年本宮本エムゾネ殿・文化財保護法の下に重要文化財として指
定1983年回廊修理工事を行う1995年外部の漆塗の塗り
直しほか一部補修を行う2010年「重要文化財冨士御室浅間
神社本殿保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下に
他の文化財とともに史エムゾネ跡富士山として指定(予定)201
1年「史跡富士山保存管理計画」を策定(予定)B8御師住宅
御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の世話をする
とともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御
師として代表的なのは、吉田口エムゾネ登山道の起点である
160:底名無し沼さん
18/01/29 17:04:48.42 BdtTryWp0.net
古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興さ
れたとされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周
辺図表法的保護、修理・整備エムゾネの経緯1934年史蹟名勝天
然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計
画を策定、忍野八海周辺を景観形成重点区域に指定2010年街
なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(~14
年)2011年「天然記念物忍エムゾネ野八海保存管理計画」を策
定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされる
長谷川角行が富士登拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼入(船津
胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考え
られる)を発見し、浅間明神を祀エムゾネった。1673年、富士
講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖が祀った
焼入の地の浅間明神が遷宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ
、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子を出産したという
故事に倣い社号を無戸室浅間神社とエムゾネ名付けた。富士道者は
、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習があり、洞穴内
外の地形空間に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富
士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られてい
る。写真船津胎内樹型の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の経
緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に天然紀念物として指定
2010年「山梨県南都留郡富士河口湖町町内国指定天然記念物
溶岩洞穴等保存管理・整備活用計画書」を策定B13吉田胎内樹
型吉田胎内本穴は、1892年に富士道エムゾネ者により整備され
た「御胎内」である。吉田胎内本穴の奥には、石祠があって富士
講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られている。樹
型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠があり、その
下段には、さらに横穴があり左右に分かれエムゾネている。右の穴
が天津彦彦火瓊瓊杵命を祀る父の胎内で、左の穴が木花開
161:底名無し沼さん
18/01/29 17:10:10.59 BdtTryWp0.net
宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状を
なし、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の
奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄エムゾネ関から奥へ客室が
続き、最奥部には神殿が設けられている。最古の部類に入る旧
外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最
盛期の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。旧
162:底名無し沼さん
18/01/29 17:10:37.48 BdtTryWp0.net
祀る母の胎内である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、
夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。-35-本穴に
ついては、古くから冨士山北口御師団が管理エムゾネしている。写
真吉田胎内樹型の写真表法的保護、修理・整備の経緯1929年
史跡名勝天然紀念物法の下に天然紀念物として指定2010年「
天然記念物吉田胎内樹型保存管理計画」を策定B14人穴富士講
遺跡富士山西麓、静岡県側と山梨県側を結ぶ街エムゾネ道沿いに位
置する。木花開花姫命・角行祖霊・徳川家康を主祭神とする浅間
神社と富士講の人々による約230基の碑塔群及び溶岩洞窟であ
る人穴がある。長さ約83mの人穴は約11,000~8,00
0年前に流出した犬涼山溶岩流中に生成したものエムゾネである。
1300年前後に成立した文書である吾妻鏡によれば人穴は霊的
な場所であり、地元では「浅間大菩薩の御在所」とみられていた
ことが記述されている。この内容は遅くとも1603年までに説
話化され、多くの人にその存在が知られていた。富エムゾネ士講関
連の文書では1558年、開祖とされる長谷川角行が役行者のお
告げにより人穴に至り、洞窟内で立行等を達成し、浅間大菩薩よ
りお告げを得たとしている。角行は人穴を浄土への入り口とし、
「西の浄土」と呼んだため、主に19世紀以降、人穴エムゾネは富
士講の人々より聖地として信仰を集め、参詣だけでなく修行を行
う者も見られた。その大部分は吉田口登山道の利用者と推定され
る。また、塔頭の碑文から村山三坊との関係もあったと推定され
ている。人穴浅間神社の創建は明確ではないが、164エムゾネ8
年及び1665年、その前身である光~寺が富士講二世日珀(正
しくは王へんに日)、三世珀心(同)により再興された記述があ
り、19世紀前半に同寺の大日堂が僧空胎により再興された。1
868年の神仏分離令により20世紀までには大日堂が人エムゾネ
穴村の氏神としての浅間神社となった。1942年、付近
163:底名無し沼さん
18/01/29 17:15:41.34 BdtTryWp0.net
住宅は、富士北麓の信仰登山口集落である富士吉エムゾネ田市上吉
田・下宿の東側南端に位置する。1572年の町割によって成
立した東西方向の奥行きが150mほどの長大な短冊形の屋敷
地に建てられている。外川家は、屋号を塩屋ないし大外川、塩
廼屋(しおのや)と号し、富士信仰における上吉田に居住エムゾネ
し、下総地域を檀家とした富士山御師である。1572年の「
吉田宿屋敷割帳写」には、外川家の位置に「仁科六郎ゑもん」
の屋敷が記されており、外川家ではこの人物を中興の初代とし
ている。また、1669年の「検地帳」では、塩屋多兵衛の屋
敷とエムゾネして確認される。御師としての活動は江戸末期頃隆盛
期を迎えるが、1962年に御師を廃業している。建物の老朽
化に伴い、所有者が取り壊す意向であったが、富士吉田市が寄
贈を受け、2006年から2007年にかけ大規模保存修理事
業を行った上エムゾネで、2008年4月から富士吉田市歴史民俗
博物館の附属施設として一般公開されている。写真旧外川家住
宅の写真表法的保護、修理・整備の経緯2006年大規模保全
修理を行う2008年富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設と
して一般公開を行う2エムゾネ010年「山梨県指定有形文化財旧
外川家住宅保存活用計画」を策定2011年文化財保護法の下
に重要文化財として指定小佐野家住宅は、富士講によって大き
く発展した御師集落である富士吉田市上吉田地区にあって、富
-33-士山に登拝する人々をエムゾネ宿泊させた宿坊として、代
表的な御師住宅である。上吉田地区は、富士の雪代の被害を避
けるため、1572年に旧地である古吉田地区から集落ごと移
転し、北口本宮冨士浅間神社の北西隅から北東方向の傾斜面に
沿って短冊状に町割が行われたと伝えらエムゾネれている。小佐野
家住宅は、南北の間口が16m、東西方向の奥行きが150m
ほどの長大な屋敷地に建てられている。小佐野家は、元
164:底名無し沼さん
18/01/29 17:16:09.16 BdtTryWp0.net
地となったため一時移転したが、1954年に現在地に復興され
た。境内の碑塔は、その4分の3(194基)が墓碑ないし供養
碑で人穴への分骨埋葬を望んだ富士講の信仰によるものであエムゾ
ネる。そのほかに富士山に何回も登ったという登拝記念や大願成
就の碑塔や角行二百年忌の宝篋印塔などがある。碑塔は富士講の
講毎に群を成した所があり、その目的は講の勢力を誇るためと推
定されている。碑塔で建立年代のわかる89基の内、富士講
165:底名無し沼さん
18/01/29 17:21:18.14 BdtTryWp0.net
落移転に合わせて現在地に移転してきたと伝えられる。代々御
師を勤め、屋号を堀端屋と号し、江戸時代には当エムゾネ主は小佐
野壱岐あるいは小佐野大隈と名乗っていた。当家に宿泊する参
詣者は年間1,000人に達したとされる。現在、屋敷地の東
側には所有者が住む住居が建築されており、小佐野家住宅には
所有者の親族が居住している。写真小佐野家住宅の写真表エムゾネ
法的保護、修理・整備の経緯1976年文化財保護法の下に重
要文化財として指定1977年消防設備設置を行う1979年
屋根の葺替えを行う1996年雨樋いの補修を行う1997年
主屋、蔵の修理を行う1998年主屋、蔵の修理を行い201
0年エムゾネ「重要文化財小佐野家住宅保存活用計画」を策定B9
山中湖富士山の火山活動によって形成された堰止湖で、富士山
の北東に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡
りが行われたが、この山中湖にも多くの富士講徒が訪れた。古
くから景勝地エムゾネとして有名で、20世紀前半には湖畔に洋式
ホテルが建てられたほか、別荘地としても整備された。ゆかり
のある芸術家も多く、山中湖を描いた文学や絵画が散見する。
富士山の頂上付近に日の入りが重なる様子はダイアモンド富士
と呼ばれ、多くの写真エムゾネ家を集める。写真山中湖の写真B1
0河口湖富士山の火山活動により形成された堰止湖で、富士山
の北に位置する。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り
が行われたが、この河口湖にも多くの富士講徒が訪れた。古く
から景勝地として有名で、20エムゾネ世紀前半には湖畔に洋式ホ
テルが建てられた。ゆかりのある芸術家も多く、湖を題材にし
た文学や絵画は、富士五湖中この河口湖が最も多い。葛飾北斎
や歌川広重といった浮世絵師も、河口湖越しに見える富士山を
描いている。写真河口湖の写真表法的保エムゾネ護、修理・整備の
経緯(B9・B10)1936年所在地が国立公園法の
166:底名無し沼さん
18/01/29 17:21:46.19 BdtTryWp0.net
ゾネ隆盛した18世紀末から19世紀前半(1781から185
0年)に建立されたものが半数(44基)、19世紀末より20
世紀前半(1871から1940年)のものが3分の1(29基
)を占める。写真B14の写真B15白糸ノ滝人穴の北方約5k
エムゾネmにある落差約20~25m・幅約120~210mの数
百の流れを持つ滝である。滝は約1万年前に噴出した白糸溶岩流
の末端から湧き出す一日平均13万~の水を源としている。滝の
名前は湧水の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えるため
名エムゾネづけられた。湧水のメカニズムは、湧玉池と同様であり
、透水性の白糸溶岩流と不透水性の古富士泥流の境界に降水・雪
解け水が滞水し、三層の溶岩の隙間、及び溶岩流と泥流層の間よ
り湧き出しているものである。このメカニズムが解明される前の
19エムゾネ世紀半ばの資料「不二山道知留邊」ではその起源を富
士五湖の伏流水としていた。白糸ノ滝は富士講関連の文書では、
開祖とされる長谷川角行が人穴での立行と合わせて水行を行った
地と記されている。-36-その後、白糸の滝は富士講を中心と
した人エムゾネ々の巡礼の場となった。その様子は1845年と1
854年にこの地を訪れた富士講先達の記録で確認でき、滝つぼ
の中で垢離をとる信者の周囲に虹が出来る現象を「御来光」とし
ている。また、周辺にある食行身禄の碑や不動尊が同書の挿画に
描かれてエムゾネいる。そのほかの19世紀の登山記でも人穴と共
にその存在が長谷川角行との関わりを通して紹介されている。ま
た、白糸ノ滝は景勝地としても有名であり、多くの和歌・絵画の
題材となっている。写真B15の写真表法的保護、修理・整備の
経緯193エムゾネ6年所在地が国立公園法の下に(富士箱根)国
立公園に指定1936年史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及
び天然紀念物に指定1987年富士宮市により「白糸ノ滝」保存
管理計画が策定2010年富士宮市により保存管理計画が
167:底名無し沼さん
18/01/29 17:27:37.74 BdtTryWp0.net
富士箱根)国立公園に指定1988年「山梨県富士五湖の静穏
の保全に関する条例」を制定2006年自然公園法の下に本栖
湖の湖面全域での動力船の使用が規制される-3エムゾネ4-20
11年文化財保護法の下に名勝に指定(予定)2011年「名
勝富士五湖保存管理計画」を策定(予定)B11忍野八海富士
山の北東、忍野村忍草にある、富士山の伏流水による八つの湧
水地(出口池、御釜池、底抜池、銚子池、湧池、濁池、鏡エムゾネ
池、菖蒲池)の愛称である。それぞれに八大竜王を祀る富士信
仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの
水で穢れを祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞら
れ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場
と伝エムゾネえられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。写真忍野八海の写真(どれか1つ)図忍野八海周辺
図表法的保護、修理・整備の経緯1934年史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に天然紀念物に指定2010年忍野村景観計画を
策定、忍野八エムゾネ海周辺を景観形成重点区域に指定2010年
街なみ環境整備事業により忍野八海周辺環境の整備を行う(~
14年)2011年「天然記念物忍野八海保存管理計画」を策
定(予定)B12船津胎内樹型1617年、富士講の祖とされ
る長谷川角行が富士登エムゾネ拝の際、現船津胎内樹型の南方に焼
入(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひ
とつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年
、富士講道者村上光清により現船津胎内樹型が発見され、開祖
が祀った焼入の地の浅間明神がエムゾネ遷宮された。浅間明神誕生
の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)に火を放ち、無事に御子
を出産したという故事に倣い社号を無戸室浅間神社と名付けた
。富士道者は、富士登拝の際に、樹型を入って身を清める風習
があり、洞穴内外の地形空間に宗教的なエムゾネ意義付けが
168:底名無し沼さん
18/01/29 17:28:05.80 BdtTryWp0.net
れ、これにとエムゾネもなった整備計画に基づき、滝周辺の景観整
備が行われた(3)眺望C三保松原富士山頂の南西約45kmに
位置する駿河湾に突き出した長さ約7kmの砂嘴をなす三保半島
上の松原である。現在、5万4千本の黒松が外海側海岸線4km
を中心に繁茂しエムゾネ、その中でも樹齢約650年といわれる「
羽衣の松」付近は、富士山と砂浜の松という日本で好まれた景観
を組み合わせて望むことができる景勝地として知られている。三
保松原のある三保半島は約6000年前に現在の形となったと考
えられ、三保の名エムゾネ前は内海側の三つの岬を稲穂にたとえた
という説が有力である。かつては半島一帯に松が繁茂し、8世紀
初頭には松原自体を景勝地として捉えた和歌が詠まれ、「万葉集
」に掲載された。その後遅くとも13世紀初頭までに三保松原は
後鳥羽上皇など中央エムゾネの権力者に富士山と組み合わされた景
勝地として認識され、14~15世紀には室町幕府将軍足利義満
と足利義教が三保半島と対岸(現静岡市清水区興津)との間を船
で渡り富士山を眺める行事を行い、16世紀には徳川家康が三保
半島内海側に富士見櫓エムゾネを建設した。文学では「万葉集」以
降も和歌等の詩の題材となると共に、地元の伝説を基にし、羽衣
の松を舞台とした謡曲(能)「羽衣」が遅くとも16世紀までに
成立した。降臨した天女と漁師との出会いと別れを描いたこの話
の最終場面ではヒロインエムゾネの天女が富士山方向へ飛び去って
いく描写が見られる。これはすでに成立していた「竹取物語」で
示された富士山の噴煙が天上と地上とを結んでいるとする考えと
の関係が指摘されている。この作品は、19世紀後半、海外へ伝
えられ、イェーツ、パウンエムゾネドといったモダニズムの作家に
影響を与えるとともに、伝統芸能である「能」が世界に広まるき
っかけを作った作品である。また、絵画でも15~16世紀には
三保松原を右に富士山を左に配する構図が描かれ、この構
169:底名無し沼さん
18/01/29 17:33:17.67 BdtTryWp0.net
るとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花
開耶姫などが祀られている。写真船津胎内樹型の写真表法的保
護、修理・整備の経緯1929年史跡名勝天然記念物法の下に
天然紀念物として指定2010年「山梨県南都留エムゾネ郡富士河
口湖町町内国指定天然記念物溶岩洞穴等保存管理・整備活用計
画書」を策定B13吉田胎内樹型吉田胎内本穴は、1892年
に富士道者により整備された「御胎内」である。吉田胎
170:底名無し沼さん
18/01/29 17:33:44.51 BdtTryWp0.net
野探幽により完成され、19エムゾネ世紀に至るまで日本画・浮世
絵において富士山を描く際の典型的構図とされた。また、20世
紀には和田英作が「羽衣の松」付近から見た富士山を数多く描い
た。三保松原は16世紀以降、江戸幕府の直轄地となり松が守ら
れてきた。江戸幕府滅亡後は内エムゾネ海側の開発が進んだが、外
海側の景観は保たれ、1922年、国内初の名勝として国文化財
に指定された。現在、砂礫の供給減による海岸侵食とマツクイム
シによる松の枯死が進んでいるため、静岡市及び地元民間団体に
よる保護活動が行われている。写エムゾネ真三保松原(現在の写真
・静岡市)写真歌川広重の浮世絵-37-写真三保松原の写真表
法的保護、修理・整備の経緯1922年史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に名勝に指定1976年名勝「三保松原」管理計画書を策
定1977年名勝地内の一部が指定エムゾネ解除1989年名勝「
三保松原」保存管理計画書を改定1990年名勝地内の一部が追
加指定及び指定解除2011年名勝「三保松原」保存管理計画書
を改定第3章保存管理の基本方針1顕著な普遍的価値及び周辺環
境を構成する諸要素世界文化遺産「富エムゾネ士山」の顕著な普遍
的価値は以下に示すとおりである。「富士山」の顕著な普遍的価
値富士山は、日本を代表し象徴する日本最高峰(標高3776m
)の秀麗な独立した火山として世界的に著名であり、その自然的
美しさと崇高さを基盤として日本人の自エムゾネ然に対する信仰の
在り方や、海外に影響を与えた葛飾北斎や歌川広重などによる顕
著な普遍的価値を持つ「浮世絵」などの日本独自の芸術文化を育
んだ「名山」である。富士山は山岳に対する信仰の在り方や芸術
活動などを通じ、時代を超えて一国の文化エムゾネの諸相と極めて
深い関連性を示し、生きた文化的伝統の物証であるのみならず、
人間と自然との良好で継続的な関係を示す景観の傑出した類型と
して、世界的にも類例を見ない顕著な普遍的価値を持つ山