暇つぶし2chat OUT
- 暇つぶし2ch350:底名無し沼さん
18/02/06 09:33:04.40 e+tsvdfn0.net
富士講・白糸の滝の勝景・音止の勝景・富士山の展望・富士の
巻狩の伝承・歌碑・標識C三保松原・特別規制A地区・特別規
制B地区・第1種規制地区・第2種規制地区・第3種規制地区
①自然地形(山林、河川など)・宝永山(宝永火口)・溶岩洞
穴、エムゾネ樹型等富士山体・側火山からの噴出物による地形・富
士山原始林及び青木ヶ原樹海・国指定天然記念物(鳴沢溶岩樹
型、鳴沢氷穴、本栖風穴等)②森林、植栽樹木(山林を構成

351:底名無し沼さん
18/02/06 09:38:35.16 e+tsvdfn0.net
る森林、寺社・遺跡等の植栽樹木など)・自然林、森林施業地
、人工林・社エムゾネ叢林、境内林・富士山特定地理等保護林・富
士箱根伊豆国立公園富士山管理計画区③保存管理又は公開活用
を目的とした建造物(展示館、管理棟、解説板など)・総合案
内標識、解説板④道路とその他の人工物(生活用道路、電柱、
看板など)顕著な普遍エムゾネ的価値を構成する諸要素と密接に関
わる諸要素・富士山測候所・NTT富士山頂分室・便益施設①
自然的要素(山並み、河川など)②歴史的要素(埋蔵文化財、
社寺境内、伝承地など)成する諸要素周辺環境を構③人文的要
素(農耕地、市街地、道路、そエムゾネの他人工物)上表において
分類した諸要素について、以下に提示する。(1)顕著な普遍
的価値を構成する諸要素①富士山山体及び登山道A富士山富士
山体のうち、標高約1500m以上の範囲である。この範囲は
、周辺の浅間神社や展望地点から見た可エムゾネ視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山
道における山体の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(
乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能になる地点)
の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民エムゾネが、とり
わけこの「馬返」より上を目指して「オヤマ」又は「オヤマサ
マ」と呼び、富士山の範囲と見なす地域もあった。景観的には
山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の境
界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対エムゾネ
象となることが多い範囲である。御中道巡りのルートには、現
在も石碑が一部残存している。ルートはほぼ森林限界に沿って
、富士山体を一周する。15~16世紀ごろ富士講の祖とされ
る長谷川角行によって開かれたとされその後大沢崩れ-41-
を通エムゾネるため富士講信者により修行の道として利用された。
写真標高約1500m以上の写真A1山頂信仰遺跡図山頂信

352:底名無し沼さん
18/02/06 09:43:42.42 e+tsvdfn0.net
遺跡の分布図・富士山本宮奥宮富士宮口登山道頂上に位置し、
7、8月の開山期にのみ開かれる。祭神は木花之佐久夜毘売命
である。『本エムゾネ朝世紀』には、久安5年(1149)「富士
上人末代は、富士山に数百度登り、山頂に仏閣を構え、大日寺
と称し、写経を埋納下した」とある。江戸時代には、村山三坊
所有の大日堂があったが、明治7年(1874)、廃仏毀釈に
より山中の仏像を取りエムゾネ除き、大日堂跡へ奥宮を建立し、浅
間大神を祭った。写真奥宮の写真[奥宮周辺の石碑群](a)
蹲虎の碑(高さ139×幅64×厚さ18㎝)奥宮の裏手、浅
間岳の麓に所在する。一方の面に漢文が、もう一方には虎の絵
が彫られている。天保年間(1エムゾネ830-34)に、岸岱が
作ったとされる。(b)鎮國之山(高さ146×幅61×厚さ
31㎝)奥宮の前に所在する。碑面に「鎮國之山」と彫られて
いる。明治31年(1898)に書家の中林梧竹により建碑さ
れた。後年、落雷により破壊されたが、エムゾネ昭和42年(19
67)に再建された。・東北奥宮(久須志神社)浅間大社奥宮
の末社で、大名牟遅命、少彦名命を祀る。須走口登山道、吉田
口登山道の終点にある。室町時代以降、頂上の一つである久須
志岳(旧薬師ヶ嶽)に薬師堂があり、道者の登山エムゾネ切手を改
めた。古くは山役銭の徴収場であった。薬師堂は奥宮の場合と
同様に廃仏毀釈により破却され、久須志神社と改称した。写真
東北奥宮の写真・金明水雪解け水が湧く泉で、その湧き水は霊
験あらたかな「御霊水」として珍重された。大正期の写真エムゾネ
をみると、井戸は石組みや木製の柵で囲われ、旗や幟などもみ
られる。・銀明水金明水とおなじく、富士山頂の霊験あらたか
な湧き水として珍重された。『富士の歴史』によれば、「如何
なる旱にも水の涸れることはない」と記している。写真銀明水
の写エムゾネ真[銀明水の石碑群](a)石碑①(高さ112×

353:底名無し沼さん
18/02/06 09:49:42.89 e+tsvdfn0.net
62㎝)銘文には「明治三拾九年」と「大正五年」の2つの年
代が確認できる。富士講の人々が建碑したものと考えられる。
(b)石碑②(高さ162×下幅76×上幅63㎝)表面に龍
が、裏面にはエムゾネ文字が刻まれている。(c)石碑③(未計測
)「大正十三年八月」と刻してある。写真銀明水の石碑群の写
真-42-・八葉(剣ヶ峰、白山岳、久須志岳、成就岳、伊豆
岳、朝日岳、浅間岳、駒ヶ岳、三島岳)山頂部の直径約800
mの火口を囲む峰々のエムゾネ総称で、それぞれの峰に仏が住むと
された。文永年中(1264~1275)の作である『万葉集
註釈』には「いたゞきに八葉の嶺あり」とあることから、鎌倉
時代中期には山頂の峰々を蓮の「八葉」に見立てていたと考え
られる。江戸時代後期の地誌でエムゾネある『駿河国新風土記』に
は「ソノ名一定ノ説ナク、又峰ノ数八ツアルニアラズ。コマカ
ニカゾヘバ、十二バカリナリト言フ。」とあり、八葉を構成す
る峰も、またその名称も一定でないことがわかる。峰の名称は
、明治8年に廃仏毀釈により仏教色を払エムゾネ拭したものに変更
された。以下、平成20年度の静岡県埋蔵文化財調査研究所に
よる発掘調査報告書で示された9つの峰について、最高峰の剣
ヶ峰からお鉢巡りの回り方である時計回りの順に、記述する。
なお、浅間大社では、伊豆岳以外の8つをもってエムゾネ「八神峰
」としている。図八葉の配置図[剣ヶ峰(標高約3,776m
)]かつては剣ノ峰、阿弥陀岳とも呼ばれた。遠くから見ると
剣を立てたようにそびえ立っているためにこの名があるという
。道者たちはあまりに険しいこの峰を恐れて多くは登らなエムゾネ
かったという。この峰の石は「神の惜ミ給ふ」とされ、採取を
禁じられたが、麓からの石と取り替えるということが行われて
いた。写真剣ヶ峰の写真図気象庁測候所跡周辺の平面図[白山
岳(標高約3,756m)]かつては釈迦ヶ岳とも呼ばれた

354:底名無し沼さん
18/02/06 09:55:18.83 e+tsvdfn0.net
現在エムゾネは一般の立入は禁止されている。頂上には鳥居が立ち
、また二等三角点が存在する。[久須志岳(標高約3,725
m)]かつては薬師岳とも呼ばれた。現在の久須志神社の裏手
にあたる。他の峰々と比べ傾斜はなだらかである。頂上には鳥
居が火口の方エムゾネ向に向けて建てられている。頂上付近には石
造物が残存し、首から上と手首から先が欠損している。台座正
面に「食行」「身禄」の文字が確認できる。写真久須志岳の

355:底名無し沼さん
18/02/06 10:00:58.89 e+tsvdfn0.net
造物の写真[成就岳(標高約3,734m)]かつては大日岳
とも呼ばれ、大小2つエムゾネの鳥居が、噴火口の方角を向いて建
てられている。[伊豆岳(標高約3,748m)]かつては勢
至ヶ嶽、観音嶽とも呼ばれた。『浅間神社の歴史』には、「中
腹より地中に熱気を感じ、下りて荒巻の険を越え、成就岳にい
たるまで、至る所に蒸気を噴出エムゾネする」とある。頂上には鳥
居は見られない。[朝日岳(標高約3,733m)]伊豆岳と
同様、かつては地中から蒸気を発していたとされる。頂上に鳥
居は存在しない。石積みがあるが時期は不明である。他の峰々
と比べ、文献の言及が乏しい。[浅間岳エムゾネ(標高約3,72
2m)]浅間大社奥宮の裏手にあり、頂上に鳥居がある。現在
は一般の立入が制限されている。[駒ヶ岳(標高約3,718
m)]聖徳太子が黒駒に乗って登山した際に、ここで休息をと
ったという伝説のある峰である。山頂に鳥居が存エムゾネ在する。
峰全体が岩石からできている。[三島岳(標高約3,734m
)]-43-かつては文殊岳とも呼ばれた。頂上に木製の鳥居
と、「三島岳」と刻まれた白い角材の木杭が立っている。三島
岳の石仏群として、三島岳のふもと、かつて経塚が発見さエムゾネ
れた付近に、10体の石像が安置されている。これらは原位置
を留めておらず、周辺にあったものが集められたと考えられる
。いずれも頭部を欠損している。・大内院山頂の火口中央に存
在する穴で、ここより雲が生じ、風が起きるとされた。大内院
(噴エムゾネ火口)は中央にある大きな火口、小内院(阿弥陀ヶ窪
)は雷岩の下の小さな火口を指す。神や仏の居る所であると信
じられ、登山者は各登山口に設けられた拝所あるいは初穂打場
から、噴火口に向けて賽銭を投げ入れた。現在、噴火口への立
入は禁止されエムゾネている。写真大内院の写真・小内院西安河原
から白山岳に向かう途中にある大きな窪地で、大内院との対

356:底名無し沼さん
18/02/06 10:06:41.00 e+tsvdfn0.net
で小内院と呼ばれる。かつては噴火口だったと考えられる。写
真小内院の写真・馬の背剣ヶ峰に通じる坂道で、火山礫と砂の
急斜面である。お鉢巡エムゾネりの道中で最大の難所である。現在
はブルドーザーが通れるよう整地されている。火口に向けて傾
斜しており、その険しさから道者たちの多くは剣ヶ峰に登らな
かったといわれる。・東安河原須山口拝所東側にあり、山頂部
では稀な広い平坦部である。かエムゾネつては現世と来世の境であ
る「賽の河原」になぞらえて、道者たちが溶岩礫を積み上げ石
塔を作った。また「初穂打場」とも呼ばれ、火口に向けて賽銭
が投げ込まれた場所とされる。・西安河原東安河原と対をなす
、剣ヶ峰から北側に下りた付近の平坦部エムゾネである。火口の外
壁を行く外浜道と内壁を行く内浜道との分岐点に位置する。・
虎岩(獅子岩)大内院の南岸に突き出た大岩で、形状が虎(獅
子)のうずくまる姿に似ていることから名付けられた。・割石
かつては「釈迦の割石」と呼ばれた溶岩で、溶岩エムゾネが急速に
冷えて固まったため割れていた。高さが15m程あったが、現
在は崩壊してしまっている。古くから行者の修行場として知ら
れ、食行身禄がここで入定しようとしたが、大宮浅間の社人か
らの許可が得られず、吉田口七合五勺の烏帽子岩で入定しエムゾネ
たとされる。写真割石の写真・雷岩白山岳の西側にある岩で、
この方角から強い雷雲がくる事からこう呼ばれたとされる。ま
た、文化年間の初め、岩より雷鳴がとどろいて雷獣が出現し、
8合目の石室に走り入った。これを石室に居合わせた人々が生
け捕エムゾネりにしたとも伝えられる。・このしろが池三島岳の雪
解け水が窪地に溜まってできる季節的な池で、6月から7月に
姿を現し、雪解け水の供給が無くなると消えてしまう。・荒巻
-44-かつては勢至ヶ窪と呼ばれ、強い風が吹き付ける富士
山頂の難所とエムゾネして知られた。道の火口側には、火山礫を

357:底名無し沼さん
18/02/06 10:11:59.76 e+tsvdfn0.net
み上げた石組みがある。・吉田須走拝所跡須走口登山道を登り
きったところにあったとされる。拝所は初穂打場とも呼ばれ、
登山者たちが賽銭を噴火口の大内院に投げ入れる、そこに鎮座
する浅間大菩薩を拝むエムゾネ場所であった。また、御来光を拝む
場所でもあった。現在は、付近に鳥居がなく痕跡も残っていな
いため、場所を特定することはできない。写真吉田須走拝所跡
の写真・須山拝所跡銀明水の裏手の火口を臨む位置にあったと
される。大正2年(1913)エムゾネの登山スタンプが押された
写真では、銀明水裏手の火口の縁に立っている鳥居が確認でき
る。現在その地点には、2つの目印の石が存在している。写真
須山拝所跡の写真・村山大宮拝所跡『隔掻録』は、大日堂の裏
手に建つ鳥居を「大宮拝所」としているエムゾネ。『富士山明細図
』は、このしろが池の裏手の鳥居を影拝所としている。このし
ろが池から剣ヶ峰の登山道に沿って3体の大日如来があり、そ
れぞれ延徳2年(1490)、天文12年(1543)、寛永
元年(1624)の銘があったとされる。昭和初エムゾネ期の絵葉
書にも、剣ヶ峰の手前の火口を臨む位置に鳥居が建っている。
写真村山・大宮拝所跡の写真・三島ヶ岳経塚昭和4年(192
9)、頂上の神官が銅仏の破片と一石経を採集して下山、それ
を受けて昭和5年に三島岳のふもとを調査したところ、経エムゾネ
巻が詰まった経筒や木槨、土器片などの遺物が出土した。富士
山本宮浅間大社には、現在10巻分の経巻が残っており、うち
5巻は開かれていて内容を確認できる。経巻のスタイルや計測
値から平安時代後期までさかのぼる可能性が考えられる。写真
出土エムゾネ遺物の写真・外浜道・内浜道山頂を周回し八葉を巡る
「お鉢巡り」を行う道である。剣ヶ峰を下り西安河原の北側で
道が二手に分かれるが、峰の外を回り雷岩、割石を経て白山岳
に至る道が外浜道で、峰の内側を大内院に沿って回り金明水

358:底名無し沼さん
18/02/06 10:18:18.07 e+tsvdfn0.net
至る道が内浜エムゾネ道である。沿道には信仰に関わる工作物や自
然物が数多く存在する。外浜道は近年崩落が著しく、現在は立
入禁止となっている。A2大宮・村山口登山道図登山道に要素
が点在している平面図・札打場村山浅間神社の北東約3.5㎞
、天照教社の西南西約エムゾネ1㎞の地点(標高約830m)に、
東西約7m、南北約10mの平場がある。南側に1本の大きな
ケヤキの巨木があり、ここが札打場であった。札打とは、自

359:底名無し沼さん
18/02/06 10:23:23.72 e+tsvdfn0.net
の院号を記した札を打ちつけることである。村山で修験道が盛
んであった頃、山伏が峰入修行エムゾネに先立ち札打を行った。昭
和30年(1955)頃までは、木に打ちつけた札が見られた
という写真札打場の写真・中宮八幡堂跡(1号建物跡)村山口
登山道跡と富士山スカイラインが交差する地点から南西方向に
約500mの地点に位置する。標高は約エムゾネ1,280mであ
る。東側を走る沢から一段上がった平坦面に所在している。平
坦面は2段あり、上-45-段には小さな祠が建てられている
。また下段には、南東から北西方向に石列が伸びている。江戸
時代には馬返しと呼ばれ、駒立小屋があったとさエムゾネれる。ま
た、ここからは女人は登山道を登ることを許されず、駒立小屋
は女人堂として使われた時期もあったと考えられる。下段平坦
面の南側には溝が東西方向に延び、西側の森林に突き当たって
痕跡をたどれなくなる。木馬道である可能性が指摘されるエムゾネ
。写真中宮八幡堂の写真・八大龍王中宮八幡堂跡より北東に約
100mの地点に「八大龍王」と刻まれた石碑と水神の祠が並
んで建てられている。水神祠には「文化十三年寅年六月日」、
八大龍王には「文化七年七月十七日」との銘が刻まれている。
駿河エムゾネ国大宮町神田の横関家の主人が、天保14年(184
3)から文久3年(1863)にかけて記録した『袖日記』に
は、安政7年(1860)5月11日の条に「中宮八幡堂の井
戸を掘ったので山が荒れた」との記述がある。この「中宮八幡
堂の井戸」とエムゾネは、八大龍王前にある井戸跡を指すものと考
えられている。井戸跡は幅80㎝、深さ50㎝ほどである。・
5号建物跡4号建物跡から登山道跡を登りしばらくすると一面
の倒木帯となり、その中に5号建物跡がある。標高は約1,8
65mである。平成5エムゾネ年の富士宮市による調査では、平場
の北側の斜面の縁に3体の石像が発見されていたが、平成2

360:底名無し沼さん
18/02/06 10:28:53.88 e+tsvdfn0.net
年の静岡県埋蔵文化財調査研究所による調査では石像が4体見
つかっている。木が倒れた際に地面が掘り起こされ、地中にあ
った石像が地上に現われたと考エムゾネえられる。うち1体の不動
明王像には、文化7年(1810)の銘がある。背面には「瀧
本前」と刻まれており、ここが「富士山表口南面路次社堂室有
来之次第絵図」でいう「瀧本・笹垢離」跡であると推測できる
。4体の石像には破壊された痕跡が確認エムゾネできる。廃仏毀釈
によるものと考えられる。なお、明治末の登山案内では5号建
物跡に該当する施設の記載がなくなっている。・8号建物跡7
号建物跡から北西に約220m(標高約2,170m)の位置
にある。中宮八幡堂跡より標高の高い位置に所在エムゾネする建物
跡の中で最も大規模なものである。2つの平場により構成され
、南西部の平場は東西約25m、南北約10mである。入口に
石段が残存しており、石段の東西には石垣が組まれている。ま
た平場中央部よりやや西に護摩壇と思われる石組も残存しエムゾネ
ている。もう一つの北東部の平場は北西から南東に傾斜する斜
面上に、長軸約15m、短軸約6mの三角形で、北西側斜面の
縁と南側斜面の縁に石組が確認できる。昭和時代の地図には「
一ノ木戸」として載っており、「富士山表口南面路次社堂室有
来之エムゾネ次第絵図」に描かれた「室大日堂・木戸堂・茶屋堂」
にあたると考えられる。室大日堂は大日如来と役行者像が祀ら
れていたとの記述が『駿河国新風土記』にあり、また末代上人
が建てた往生寺があったところだともいわれている。写真8号
建物跡の写真エムゾネ・12号建物跡村山口登山道跡に残る遺構の
うちで、一番標高の高い位置(約2,390m)にある。11
号建物跡から北に50mの地点に所在する。東西約8m、南北
約5mの方形の区画が石組によって作られている。東側には直
径約90㎝の丸い穴がエムゾネ二つある。(同様の穴は他の建物

361:底名無し沼さん
18/02/06 10:34:09.55 e+tsvdfn0.net
でも見られ、)便所跡と考えられる。-46-・鳥居登山道跡
の8合目上に、自然木により構築された鳥居が設置されている
。「昭和五十二年七月吉日」と刻まれており、個人が設置した
ものである。A3須山口登山道エムゾネ図登山道に要素が点在して
いる平面図・須山御胎内(溶岩洞穴)旧須山口登山道1合目(
標高1,440m付近)にある全長10m余の溶岩洞穴である
。洞穴の直径は約1mで南東側と北西側に入口があり、内部を
通り抜けることができる。


362:登山者は、こエムゾネの洞穴を通って登 山するのがならわしであった。かつて洞穴の延長は数10mあ ったが、関東大震災により天井部分が崩落し、現在の長さにな った。崩落した部分は、長さ約30mのU字型の溝状の溶岩地 形として須山御胎内の南東側に残っている。このエムゾネ付近の溶 岩は須山胎内溶岩と呼ばれている。年代測定では1030~1 230年という結果が出ており、永保3年(1083)の噴火 時に噴出した可能性がある。平成21年に実施した測量調査で は、須山胎内溶岩は須山口登山道脇の標高1,485m付エムゾネ 近から認められており、須山口登山道がこの溶岩流に沿って形 成されていることが判明した。写真須山御胎内の写真・石像須 山御胎内の洞穴内部に、「木花咲耶姫」の石像が安置されてい る。地元在住の彫刻家、杉山拓氏の作品。須山口登山道復興後 の平エムゾネ成12年に作られたものである。・石燈篭須山御胎内 の南東側入口の両脇に、石燈篭が設置されている。・鳥居須山 御胎内の南東側入口前に高さ3m前後の木製の鳥居が建てられ ている。・標柱鳥居脇に、「旧須山口登山道一合目(須山御胎 内)」と記さエムゾネれた標柱が、富士山須山口登山道保存会によ って設置されている。・祠須山御胎内から南東に続くU字状の 溶岩地形脇に、石造りの祠が設置されている。写真祠の写真A 4須走口登山道図登山道に要素が点在している平面図・古御



363:底名無し沼さん
18/02/06 10:39:20.25 e+tsvdfn0.net
神社冨士浅間神社の境エムゾネ外末社で、5合目の登山道登り口に
ある。現在の社殿は、昭和54年(1979)に建立され、間
口九尺、奥行九尺の規模である。その際、御室浅間神社を合祀
した。神社の前には鳥居がある。かつては3000坪の境内地
を持ち、本殿、拝殿、庁舎を備エムゾネえていたという。写真古御
岳神社の写真・迎久須志之神社冨士浅間神社の境外末社で、9
合目(3,570m付近)に建てられている。かつては向薬

364:底名無し沼さん
18/02/06 10:44:27.57 e+tsvdfn0.net
、向ヒ薬師、手引薬師と呼ばれ、石室の中に薬師如来が祀られ
冨士浅間神社の神主が管理していた。元エムゾネ禄16年(170
3)-47-の文書「大宮司富士信安等返答下書」に「前薬師
之小屋」の記述があることから、江戸時代初期以降にはすでに
祀られていたものと考えられる。道者はここで薬師に線香を手
向けたという。廃仏毀釈によって仏像は山を降ろエムゾネされ迎久
須志神社と改められた。祭神は大己貴命と少彦名命である。以
前は登山道が建物の西側を通るルートであったが、現在は建物
の東側を通るようになっている。迎久須志神社の直下には、「
日ノ見御前」「日ノ御子」と呼ばれる日の出を遥拝する場エムゾネ
所があり、江戸時代には「日ノ御子石」という富士山型の石が
置かれていた。富士講の講中が大きな平石の上で朝日を拝した
という。現在「日ノ御子石」はないが、祠と鳥居が建てられて
いる。写真迎久須志之神社の写真・鳥居登山道の浅間大社東北
奥宮エムゾネ(久須志神社)前(登山道終点)、9合目、本8合目
、本7合目、7合目、本5合目、古御嶽神社前に自然木などに
より構築された鳥居が設置されている。・狛犬登山道終点の鳥
居前に狛犬2体が設置されている。この場所は「鳥居御橋」(
とりいおはしエムゾネ)と呼ばれていた。・石碑7合目付近の登山
道脇に富士講関連の石碑がある。以前はもっと標高の高い場所
にあったが、雪崩によって流されて別の場所に転がっていたも
のを山小屋関係者で運び、現在の場所に設置したという。日付
は「七月吉日」とあるエムゾネのみで、上部が欠損している。A5
吉田口登山道図登山道に要素が点在している平面図・登山道吉
田口登山道は、北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂を
目指す道である。18世紀後半以降は、最も多くの道者が吉田
口登山道を目指している。しかエムゾネも、古道としては唯一徒歩
で麓から頂上まで登れる重要な道である。顕著な普遍的価値

365:底名無し沼さん
18/02/06 10:49:40.38 e+tsvdfn0.net
構成する要素として、現存する吉田口登山道や沿道の宗教施設
や山小屋等信仰の拠点などがある。・旧登山道・馬返ここから
急坂となり馬が使えなくなることからこエムゾネの名がついた。こ
の一体は草山から木山への境でもあり、ここからが御山の聖地
ということにもなる。富士山有料道路が開通する以前の馬返の
周辺は、本格的な登り勾配の坂道が始まる直前の平地であり、
登拝者たちがいったん休憩を取る場所として賑わエムゾネった。登
山期間には4軒の茶屋が営業され、登拝者の便に供された。写
真馬返周辺の写真・五合目ここは木山と焼山の境界でもあるこ
の地は天地境(てんちのさかい)とも言われる場所である。役
場、中宮の社、小屋等がおかれていた。ここの役場は、古エムゾネ
くは中宮三社の神供料として役銭を納めた場所である。後年は
登山切手改め所となった。小屋については、江戸後期には4軒
があったが、すでに武田信玄の1566年の文書に「中宮之室
」という名称があり、戦国時代からこの地に小屋が設けられ-
48エムゾネ-ていたことがわかる。最盛期には18軒が所在した
と伝えられている。写真五合目周辺の写真・烏帽子岩七合五勺
に烏帽子の形をした岩があり、これを烏帽子岩という。ここに
て富士講中興の祖と称される食行身禄が、1733年に31日
間の断食修行エムゾネを経て入定した。「甲斐国志」にも「享保十
八六月十三日富士行者身禄ガ入定ノ地ナリ小屋アリ身禄ノ木像
ヲ安置ス流レヲ汲者年々此に登拝ス」とあり、江戸後期にはす
でに身禄の聖地として信者が登拝していたことがわかる。現在
も富士講の聖地としてエムゾネ重要な地である。写真烏帽子岩の写
真A6北口本宮冨士浅間神社図以下に示す要素が点在している
平面図北口本宮冨士浅間神社は、富士講とのつながりが強く1
730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境
内の建造物群の修復工事が行わエムゾネれ、現在にみる境内の景

366:底名無し沼さん
18/02/06 10:55:08.22 e+tsvdfn0.net
の礎が形成された。社殿の背後には登山門があり、この神社を
起点として富士山頂まで吉田口登山道が延びている。富士講や
吉田御師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。顕著
な普遍的価値を構成する諸要素として、エムゾネ富士信仰の拠点で
もある本殿などの建造物群や境内地、吉田口登山道の起点など
がある。・本殿本殿は、1615年、都留郡の領主鳥居土佐守
成次によって建立された。桁行一間・梁間二間の規模で、入母
屋造の建物を身舎としてその前面に唐破風造の向エムゾネ拝一間を
つけた形式をとり、独自な本殿形式が採用されている。各部に
漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して豪華絢爛な装
飾を展開し、桃山式建築の装飾的技法の多様性を示すとともに
、すぐれた意匠をみせる顕著な建物である。写真本殿の写エムゾネ
真図本殿の図・東宮本殿東宮本殿は、1223年北条義時の創
建とも伝えられるが、現社殿は1561年武田信玄が浅間本社
として造営したものである。本殿は身舎梁間一間、桁行一間で
正面に一間の向拝をつける一間社流造の形式である。東宮本殿
は、エムゾネ本社本殿はもとより西宮本殿に比較してやや小規模で
あるが、構造形式や蟇股に挿入した彫刻などに室町時代の手法
を示しており、三殿中最も古い建物である。写真東宮本殿の写
真図東宮本殿の図・西宮本殿西宮本殿は、1594年谷村城主
浅野左右衛門エムゾネ佐氏重により東宮に替わる本殿として建立さ
れたが、1615年、鳥居成次の本殿建立により現在地に移さ
れ西宮となった。本殿の形式は東宮と同じ一間社流造であるが
、両側面と背面は二間で一間の向拝をつける。西宮本殿は、桃
山時代の装飾的要素をエムゾネ多分に取り入れていて、やがて豪華
な本社本殿建築へと発展する過程を、両者並べて鑑賞できる貴
重な建物である。-49-写真西宮本殿の写真図西宮本殿の図
・大塚山社誌では、日本武尊が富士山を遙拝した地であり、

367:底名無し沼さん
18/02/06 11:00:30.15 e+tsvdfn0.net
こを浅間明神の創建にかかわるエムゾネ場所と位置づけている。さ
らに、788年には新たに浅間明神を建て、この大塚山には、
大塚社として日本武尊を分祀したと伝えられる。現在この地は
、流山状の小高い丘をなしており、日本武尊を祀る祠が建てら
れている。写真大塚山の写真図大塚山のエムゾネ図・御鞍石吉田火
祭(鎮火祭)の際の御輿行在所。吉田火祭の本日にこの御鞍石
上に御輿が安置され、神事が行われる。ここで読まれる祝詞

368:底名無し沼さん
18/02/06 11:06:09.47 e+tsvdfn0.net
一節から、この地が諏訪明神旧鎮座地とされる。写真御鞍石の
写真図御鞍石の図A7西湖図以下に示す要素が点エムゾネ在してい
る平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの
富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡拝の対
象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多くの芸
術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸要エムゾネ
素として、自然地形(湖水)などがある。写真西湖の写真A8
精進湖図以下に示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖
を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われ
たが、いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられている
。まエムゾネた、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深
い。顕著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖
水)などがある。写真精進湖の写真A9本栖湖図以下に示す要
素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八
海巡りが多くエムゾネの富士講徒によって行われたが、いつの時代
も変わらず巡拝の対象として数えられている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値
を構成する諸要素として、自然地形(湖水)や中ノ倉峠からの
展望などがある。写真エムゾネ本栖湖の写真②信仰に関わる周辺の
ものB1富士山本宮浅間大社図以下に示す要素が点在している
平面図・神立山本殿の北側にある丘陵地一帯は神立山と称され
る。神立山及び富士山本宮浅間大社の基盤を構成する地形は、
新富士火山旧期溶岩流に分類さエムゾネれる富士宮溶岩流と、溶岩
流直上に広がる扇状地堆積物の層で-50-構成され、溶岩流
の末端部にあたる。そのため指定地内の一部では溶岩礫が露出
し、縄状溶岩も散見される。また、当該地区は風致地区・保安
林にも指定され、渋沢堀沿いの散策路以エムゾネ外は立ち入りが禁
止されている。寛文10年(1670)の浅間大社境内絵図

369:底名無し沼さん
18/02/06 11:12:18.93 e+tsvdfn0.net
は神立山に信仰関連の様々な建築物が描かれ、発掘調査で石畳
や護摩堂跡が確認されている。写真神立山の写真・湧玉池(上
池、下池)本殿東側の「湧玉池」は、国指定特別エムゾネ天然記念
物となっている。湧玉池は、富士山に降った雨や雪が地下水と
なり、被圧によって富士宮溶岩流の溶岩層間を流れ、溶岩流末
端で湧出して池になったものである。禊所付近を境に上池と下
池に分かれ、以前は上池のみを湧玉池、下池から下流を御エムゾネ
手洗川と呼んだ。登山者や道者が湧玉池の水で心身を清めた後
山中へ向かうという、富士山信仰と関連の深い池であった。現
在も富士山山開きの7月1日には、湧玉池で禊神事が行われる
。写真湧玉池の写真図詳細平面図・社叢神立山表層部は約3万
8千エムゾネ㎡にわたってスダジイ、ケヤキ等の樹木が生育してお
り、富士宮市保存樹林に指定されている。また、野鳥の生息に
適した環境でもあり、「野鳥の森」碑が建てられている。・社
殿(本殿・拝殿・幣殿・透塀・楼門)浅間大社は、社伝によれ
ば大同元年(エムゾネ806)に造営されたという。かつての駿河
国の一宮で、現在は全国1300余の浅間神社の総本社として
崇められている。現在の社殿は、慶長9~11年(1604~
06)に徳川家康が造営したものである。写真社殿全体の写真
図社殿平面図[本殿]エムゾネ本殿は国指定重要文化財である。「
浅間造」と称する棟高45尺の二重の楼閣造構造で他に例を見
ない。1階下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、2階上層は桁
行3間・梁間2間の三間社流造で共に桧皮葺である。明治40
年(1907)5月27日古社エムゾネ寺保存法により特別保護建
造物に指定され、以後、国指定重要文化財として保護されてい
る。写真本殿全体の写真(幣殿・拝殿含む)図本殿平面図(幣
殿・拝殿含む)[幣殿]本殿と拝殿をつなぐ部分で、桁行3間
・梁間3間の両下造、屋根は檜皮葺、寛エムゾネ文年間の古絵図

370:底名無し沼さん
18/02/06 11:18:48.70 e+tsvdfn0.net
は幣殿は描かれていないが、現在幣殿として使われている部分
に「作合三間四間ひはだぶき」と書き込まれており、本殿の全
景がよく見えるように描かれたと推測される。県指定文化財と
して保護されている。[拝殿]桁行5間・梁間3エムゾネ間で、床
は幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻
造で、屋根は檜皮葺、正面に1間の向拝が付いている。三方に
縁を巡らせ、背面は幣殿に接続している。県指定文化財として
保護されている。[透塀]本殿周囲を囲む1棟と、その外エムゾネ
側、本殿横に並ぶ三之宮及び七之宮を含めたより広い範囲を囲
む1棟-51-の計2棟で、総延長は36間に及ぶ。県指定文
化財として保護されている。[楼門]三間一戸、重層入母屋造
で、屋根は檜皮葺、正面・左右脇に扉がついている。楼門の左
右にエムゾネは随身像が安置してある。静岡県指定文化財として保
護されている。写真楼門全体の写真図楼門平面図・廻廊楼門か
ら東西に伸びる回廊は、昭和9年(1934)に付加されたも
のである。・手水舎楼門の南西側に、参拝者が参拝前に身を清
めるために手エムゾネや口をすすぐ、手水舎がある。・灯籠大小そ
れぞれの灯籠が境内各所に設置されている。・石鳥居本殿へ続
く参道に石造りの鳥居が建てられている。昭和33年3月に寄
進されたものである。・東鳥居・西鳥居桜の馬場の東端と西端
にそれぞれ朱塗りの鳥エムゾネ居が建てられている。・桜の馬場浅
間大社流鏑馬式が執り行われる馬場が約200mに渡って東西
に伸びている。源頼朝が富士の裾野で巻狩を行った際、流鏑馬
を奉納したことに始まると言われ、室町時代の初期にはすでに
神事が行われていたとの記録がエムゾネ残っている。馬場に沿って
両側に御神木の桜が植えられている。・禊所湧玉池の上池と下
池の境部分が禊所とされ、池に下りるための石段が組まれてい
る。・神幸橋(湧玉橋)湧玉池南側の神田川への流出口に石

371:底名無し沼さん
18/02/06 11:24:39.58 e+tsvdfn0.net
りの橋が架けられている。春秋の大祭にエムゾネはこの橋を通って
山宮御神幸が出発したとされる。寛文10年(1671)の絵
図では橋に屋根が葺かれている。・輪橋(太鼓橋)本殿へと向
かう参道に、鏡池を渡る輪橋が架けられている。寛文10年の
絵図には既に描かれているが、大正4年(191エムゾネ5)に石
造りに改められた。写真輪橋の写真図輪橋の平面図絵図寛文1
0年の絵図・護摩堂跡(推定)平成20年の発掘調査により

372:底名無し沼さん
18/02/06 11:30:32.71 e+tsvdfn0.net
護摩堂跡と考えられる溶岩礫で構成された石垣と建物跡が検出
された。石垣は樵石積みで組まれ、平面形は正方形となっエムゾネ
ている。また、石垣で正方形に囲繞された敷地内で建物跡の礎
石が確認された。桁行3間・梁間4間で、南側に入口を有して
いたと考えられる。発掘調査後に、江戸時代終わり頃の地誌で
この建物跡を「本地堂」とする記載が確認されており、最終的
に護エムゾネ摩堂から本地堂へ造作し直された可能性がある。写真
護摩堂の発掘調査時の完掘写真(平面写真)図平面図・随身像
慶長19年(1614)2月に建立された。背銘には、左側の
像は「甲州河内下山住番匠石川清助作」、右-52-側の像は
「大工山城國エムゾネ上原住櫻井三蔵作」と記さ


373:れ、市指定有形文 化財として保護されている。写真随身像全体の写真・狛犬参道 の石鳥居両側に、狛犬が建てられている。大正7年5月に奉献 されたものである。・御神幸道首標の碑明治以前に行われてい た「山宮御神幸」におエムゾネける、御神幸道の首標が、池畔に立 てられている。造立年は元禄年(1691)未年十一月とされ 、「自当社山宮御神幸道五十丁証碑首也」と刻まれている。昭 和59年(1984)に浅間大社境内の土中から発見され、現 在地に再建された。・三之宮本エムゾネ殿横西側に、淺間第三御子 神を祀る境内社「三之宮浅間神社」が建てられている。・七之 宮本殿横東側に、淺間第七御子神を祀る境内社「七之宮浅間神 社」が建てられている。・鉾立石楼門前の石段には、鉾立石が 置かれている。明治の初めまで行われてエムゾネいた山宮御神幸の 際、神の宿った鉾を立てて休めた自然石である。・欄干橋(神 路橋、神路枚橋)池畔と川中島を結ぶ橋が2本架けられている 。島の西側が神路橋、東側が神路枚橋であるが、寛文10年( 1670)の絵図では西側にのみ架けられているエムゾネ。写真橋 全体の写真絵図寛文10年の絵図B2山宮浅間神社図以下に



374:底名無し沼さん
18/02/06 11:35:39.26 e+tsvdfn0.net
す要素が点在している平面図・溶岩流地形山宮浅間神社の石鳥
居から参道を経て参籠所に至るまでの区域は北山溶岩流上に展
開している。また、遥拝所が位置する小高い丘陵は青沢溶エムゾネ
岩流の先端部である。さらに、涸れ沢の西岸には、天母山(二
子山)溶岩流、万野風穴溶岩流で構成される丘陵地が展開する
。よって、山宮浅間神社周辺には、籠屋付近の北山溶岩流を含
め、4つの異なる溶岩流地形が広がっていることになる。遥拝
所のエムゾネ基盤となっている青沢溶岩流は、約2,000年前の
噴火によって流出した比較的新しい溶岩流であるため、この部
分は他の区域と比べて植生の回復は遅れていたと考えられる。
そのために、樹木等に遮られることなく富士山の山頂まで見渡
せていたためエムゾネ、この場所で山を遥拝する行為が行われたと
考えられる。写真溶岩流地形の写真図溶岩流の拡散している模
式図・社叢目通りの幹周が3mを超える巨木4本を含むスギ林
が、約9,780㎡の社叢を形成しており、富士宮市の保存樹
林に指定されている。エムゾネ・籠屋(参籠所)遥拝所へ登る手前
の平坦な土地に籠屋が建てられている。籠屋は、神の宿った御
鉾が浅間大社と山宮浅間神社を往復する祭儀「山宮御神幸」に
おいて、これに同行した大宮司以下の諸職が一夜参籠した場所
である。-53-・鉾立石籠屋エムゾネをくぐり遥拝所へ続く参道
に、「山宮御神幸」で神の宿った鉾を休めるための「鉾立石」
が置かれている。石は火山弾であり、籠屋をくぐってすぐの位
置に1つ、石段の手前に1つの計2つが置かれている。・石段
(参道)遥拝所が位置する丘陵へ登るたエムゾネめの石段が組まれ
ている。現在あるものは戦中もしくは戦後に改築されたものと
考えられる。・石塁遥拝所の周辺約45m四方が石塁により方
形に区切られている。青沢溶岩流の溶岩塊上に溶岩礫を積み上
げて構築され、部分的に遺物を含む土層上に構築エムゾネされて

375:底名無し沼さん
18/02/06 11:41:34.23 e+tsvdfn0.net
る。石塁下から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土して
いるため、それらが用いられた12世紀から15世紀、もしく
は後の時代に築造されたものと推定される。写真石塁の写真図
石塁の平面図・断面図・玉垣遥拝所の周囲にはコンクリーエムゾネ
ト製の玉垣が設置されている。戦中もしくは戦後に設けられた
ものと考えられる。また、遥拝所入口には鉄製の門扉が取り付
けられている。・遥拝所富士山を直接拝礼し、祭儀を行うこと
を目的として築造されたと推定される施設である。南北約15
.2エムゾネm、東西約7.6mの長方形で、30~40㎝程度の
溶岩を用いて石列等によって組まれている。富士山を拝む方向
に祭壇が位置し、祭壇に向かって左側に祭儀を行う際の大宮司
席、公文・案主席、献饌所が、向かって右側に別当・供僧席が
設けられていエムゾネる。写真遥拝所の写真図遥拝所の平面図・石
鳥居境内地の南端に、石鳥居が建てられている。昭和6年(1
931)に建立されたものである。・参道石鳥居から籠屋まで
参道が続いている。B3村山浅間神社図以下に示す要素が点在
している平面図・元村エムゾネ山溶岩流村山浅間神社は、新富士旧
期溶岩の元村山溶岩流末端部付近にあたる。見付の間は平地で
、両見付から先は急傾斜地となっている。村山地区は標高が高
く、他の集落と急傾斜地で隔絶された一段高い場所に位置する
。・水源地(竜頭ヶ池)社叢東エムゾネ側に「竜頭ヶ池」と呼ばれ
る湧水池があり、水垢離や生活用水として利用されてきた。ま
たこの湧水を水源とする村山沢は南流して渓谷を刻み神社西側
から大沢川となる。これらの水源は、村山の集落を成立させた
要因の一つである。・御神木(イチョウエムゾネ、大スギ)[イチ
ョウ]-54-昭和43年(1968)7月2日に県天然記念
物に指定された。目通り8m、根回り9.15m、樹高26m
、枝張り東西19m南北14mで、樹勢よく乳状下垂気根の

376:底名無し沼さん
18/02/06 11:47:54.80 e+tsvdfn0.net
達も著しい。気根が数多く垂下する。気根の先端エムゾネに針を刺
して祈願すると妊産婦の乳の出がよくなると伝えられ、女性の
信仰を集めていた。また以前はウロの中に大日如来が祀られて
いたといわれ、現在でも祭祀でしめ縄を張る。[大スギ]昭和
31年5月24日に県天然記念物に指定された。村山浅間エムゾネ
神社の御神木と称される巨木である。境内の多くのスギの中で
最大のもので目通り9.9m、枝張り東西17.5m、南北

377:底名無し沼さん
18/02/06 11:54:01.25 e+tsvdfn0.net
1m、樹高47mもある。中心部には高さ8mに及ぶ空洞があ
る。案内板では約1,000年の樹齢とされるが、実際にはお
よそエムゾネ400~600年と推定される。・社叢境内には胸高
直径0.7m以上のスギが39本ある。アカガシ3本、スダジ
イ1本などの大樹も見られるが、裏山の大半は戦後植樹された
ヒノキやスギである。富士宮市の保存樹林に指定されている。
・浅間神社社エムゾネ殿村山浅間神社社殿は、神仏分離令によって
境内社富士浅間七社を相殿として造られ、中座に木花開耶姫命
、左座に大山祗命、彦火々出見命、瓊々杵命、右座に大日霊貴
(天照大神)・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀っている。現在の社殿
は大正2年(1913エムゾネ)に改築されたものだが、幣殿と拝
殿は老朽化したため、その後さらに鉄筋コンクリート一部木造
に建替えられている。写真社殿の写真図社殿の図面・大日堂(
興法寺)鎌倉時代の文保年間(1317~1318)に、末代
上人の流れをくむ頼尊が村山にエムゾネ興法寺を開いたと伝えられ
ている。その興法寺の建物として現存する唯一の堂で、富士山
の本尊である大日如来を主尊とする。現在の建物は、部材の状
況や絵様彫刻の特徴などから江戸時代末期の建造と考えられる
が、外壁は波鉄板板張りに変えられていエムゾネる。桁行5間・梁
間7間、入母屋造、鉄板葺きで、南面に出入り口を開き、前面
と両側面に幅一間の回り縁を巡らしている。写真社殿の写真図
社殿の図面・水垢離場山伏修行者及び修験者が、富士登拝の道
者が垢離をとって身を浄めた場所で、間口約6.エムゾネ5m、奥
行き約4mの長方形で、深さ約0.6mに掘り込み、底に石を
敷きつめ周囲は石積みとなっている。造成年代は不明。水


378:垢離 場へは社叢裏手の沢に湧く龍頭池湧水を引き、上の段から樋で 落とし垢離を取るようにしてある。水の落ち口には山伏修エムゾネ 行のときの主尊とされる不動明王の石像が安置されている。



379:底名無し沼さん
18/02/06 12:05:35.30 e+tsvdfn0.net
・渡邊対馬守安吉の社伝旧記によれば、天元4年(961)に
駿河国司・平兼盛が社殿を修理したとの記録がある。その後の
記録として社殿の存在が確認できるのは、大永4年(1524
)と記された修築時の棟札による。現在の社殿は、文政6年(
18エムゾネ23)に再建されたとされている。写真社殿の写真図
社殿の図面・神輿殿須山浅間神社の例大祭で使用される神輿を
納めた神輿殿が、境内地西側に建てられている。・狛犬境内に
は、社殿前と石段手前の参道脇に計二対の狛犬が設置されてい
る。社殿前のエムゾネ一対は平成12年に、参道脇の一対は平成1
3年に奉納されたものである。・灯籠参道の両脇に灯籠が建て
られている。登り口のものは平成13年に、階段を登ったとこ
ろにあるものは、それぞれ寛保2年(1742)、文政6年に
奉納されたものであるエムゾネ。・手水舎石段に至る参道の脇と、
社務所西側の2箇所に、手水舎が建てられている。社務所そば
には、文政7-56-年と刻まれた水盤も置かれている。・参
道鳥居から10mほどは石畳が敷かれ、その後社殿の位置する
高台へ登るためにコンクリートエムゾネ製の階段が続いている。・
鳥居参道入口には、朱塗りのコンクリート製の鳥居が建てられ
ている。昭和41年(1966)に奉納されたものである。・
石碑鳥居の東側に、郷社として奉幣を受けていたことを示す碑
が建てられている。・古宮神社八坂大神エムゾネ、八幡大神、愛鷹
大神、子安大神、疱瘡守護神を祀る境内社である。覆屋の中に
あり、旧本殿と推測される建物である。B5冨士浅間神社図以
下に示す要素が点在している平面図・社叢(浅間の杜)社殿周
囲と、参道の南側に社叢が広がっている。特に参エムゾネ道南側の
部分を浅間の杜と呼び、静岡県や小山町の天然記念物である大
樹が生育している。・ハルニレ昭和38年(1963)2月1
9日に静岡県の天然記念物に指定された。根回り約6m、目

380:底名無し沼さん
18/02/06 12:11:06.20 e+tsvdfn0.net
り4m、樹高24.50m、枝張東西28.10m、南北エムゾネ
23.50m、樹齢約500年。北日本の山地に多い落葉高木
で、静岡県では極めて少なく当社以外の小山町内では数本しか
見当たらないが、境内には10本が生育している。・エゾヤマ
ザクラ昭和58年5月1日に小山町の天然記念物に指定された
。樹エムゾネ齢約130年で、根回り2.08m、目通り1.75
m、樹高約10m、枝張東西13.8m、南北9.5m。別

381:底名無し沼さん
18/02/06 12:17:19.69 e+tsvdfn0.net
をオオヤマザクラと称するヤマザクラの北方型で、静岡県が南
限である。県内ではまれな樹種である。・根上がりモミ平成3
年5月1日にエムゾネ小山町の天然記念物に指定された。樹齢約3
00年で、根回り4.61m、目通り3.07m、樹高27m
。この根上り群は約150年生のモミの根本にブナ、イヌシデ
の種子が生え、宝永噴火の火山灰土が、降雨により流亡しなが
らモミが成長したためエムゾネ、根が爪を立てた状態で生育し、根
上がりになったと考えられる。縁結びの木とも呼ばれている。
・社殿平成18年8月24日に小山町の文化財(建造物)に指
定された。宝永噴火により大きな損害を受けたが、享保3年(
1718)に再建された。そのエムゾネ後蟻害や老朽化により改修
したものの、部材は享保年間(1716~36)のものが今な
お使用されている。社殿は本殿・幣殿・拝殿が連結した権現造
である。拝殿は入母屋造で千鳥破風を据え、本殿は享保年間の
遺構を残した流造りとなっている。-5エムゾネ7-構造は、拝殿
が桁行5間・梁間2間の入母屋造で、向拝1間、正面千鳥破風
付。幣殿が桁行3間・梁間2間の両下造。本殿が三間社流造、
向拝1間、屋根は全て銅板葺きとなっている。写真社殿の写真
図社殿の図面・楼門二階建ての随神門で、上層のエムゾネ周囲に高
欄付きの縁を巡らしている。北の櫛岩窓神、南の豊岩窓神が随
神として配神されている。宝永噴火により社殿とともに大破し
ており、現在のものは明和4年(1767)随神が寄贈された
当時に再建されたものと考えられる。楼門の構造は、三間エムゾネ
一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に
組物は出組で、腰組も二手先としている。・参道大鳥居参道入
口には、花崗岩の石鳥居が建てられている。春日造で、額束に
は「不二山」と刻まれている。明治33年(1900)に奉納
されエムゾネた。・裏参道鳥居西側駐車場から本殿へ至る裏参道

382:底名無し沼さん
18/02/06 12:23:24.01 e+tsvdfn0.net
入口に石鳥居が建てられている。・富士塚狛犬楼門前参道の両
側に、富士塚が築かれ、その上に狛犬が置かれている。・富士
講講碑群明治より昭和にかけて、各地の富士講より寄進された
記念碑が多くエムゾネ残されている。多くは、数多く富士登山が成
就されたことを感謝し、先達や講名を高く掲げ信仰の証とした
もので、境内地の西側部分裏参道周辺に、多くの碑塔が建てら
れている。写真富士講講碑群の写真図富士講講碑群の配置図B
6河口浅間神社図以下エムゾネに示す要素が点在している平面図河
口浅間神社は、864~866年に北麓で起こった噴火を契機
に、北麓でも浅間神社が建てられることになったが、その神社
である可能性が高い。現在も富士山と密接に結びついた宗教行
事を行っており、歴史的背景とエムゾネ相俟って、富士山信仰を語
る上で欠かすことのできない資産である。顕著な普遍的価値を
構成する諸要素として、富士信仰の拠点でもある本殿などの建
造物群や境内地などがある。・社殿、鳥居河口浅間神社創建は
、平安時代の865年に遡る可能性があエムゾネる。建立目的は富
士山の噴火を鎮めるためであり、当時の富士山及び噴火という
ことに対する当時の考え方を理解することができる。鳥居は1
697年に谷村藩主秋本喬知の再建。銅製の扁額に記された「
三国第一山」の書は輪王寺宮公弁親王の筆とされエムゾネる。写真
社殿の写真図社殿の図面B7冨士御室浅間神社図以下に示す要
素が点在している平面図-58-冨士御室浅間神社は、8世紀
初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが最初とされ
、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献もあるエムゾネ
。二合目本宮(もとみや)へは冬季の参拝に苦渋するため、9
58年、河口湖畔に現在の里宮が建立されたという。現在は二
合目にあった社殿も里宮の広い境内に敷地内に移設されている
。修行や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置づけ

383:底名無し沼さん
18/02/06 12:29:07.80 e+tsvdfn0.net
れるエムゾネ二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体と
なって機能してきた。顕著な普遍的価値を構成する諸要素とし
ては、信仰拠点である二合目や本殿などがある。・吉田口二合
目吉田口登山道二合目に御室浅間名字(本宮)が鎮座した。御
室浅間神社はエムゾネ木花開耶姫を祭神とし、創立年代は詳らかで
ないが、社殿には和銅元年(708)に祭場をしつらえたのが
最初とされる。冨士山中最初の社という。なお、平安末期には
浅間神の信仰に修験道が習合して、富士山が霊験所の一として
広く知られていた。冨エムゾネ士修験の信仰拠点は南口の村山であ
るが、北口の二合目、御室の地にも山内の信仰拠点として行者
堂が設置されていた。・本殿本殿は、1612年に当時の甲斐
国都留郡領主であった鳥居土佐守成次によって桃山時代建築様
式の神社建物に再建されたことエムゾネが棟札から明らかにされて
いる。大規模な入母屋造りの一間社で棟の高さは9.3m、屋
根は檜皮葺形の銅板葺である。蟇股や軒唐破風妻などにも彫刻
を飾るなど、桃山建築様式の特色が見られる。内部の色彩も当
初のものを良く残しており、建築年代のエムゾネ確実なこの時期の
遺構としては大変貴重な建造物である。写真本殿の写真図本殿
の図面B8御師住宅図御師住宅の位置図御師住宅は、富士講徒
の案内をし、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅兼宿坊であ
る。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面エムゾネして引き
込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に建物がある。顕著な普
遍的価値を構成する諸要素として、最古の部類に入る旧外川家
住宅などがある。・旧外川家主屋、離座敷、中門主屋は妻入り
形式の典型的な御師住宅であり、棟札から1768年に建エムゾネ
設されたものであることが判明している。また、主屋は「平面
座敷型」をとっており、近世になって御師住宅の様式が確立さ
れる以前の御師住宅として最古の部類の建築物である。離座

384:底名無し沼さん
18/02/06 12:34:13.83 e+tsvdfn0.net
は、富士講が盛んになるととともに主屋だけでは収容人数に限
りがエムゾネあるなどの理由から主屋の東側に増設されたとみられ
る。ただし、御神殿が上段・下段の続きの手前に配置され、上
吉田の一般的な御師住宅に比して独自の構成を有している。写
真主屋等の写真図旧外川家住宅現状平面図等・小佐野家主屋、
蔵主屋は一部エムゾネ二階、切妻造、妻入の居室及び座敷部の前面
北寄りに台所部を背面南寄りに神殿部を付設した形式になる

385:底名無し沼さん
18/02/06 12:40:30.35 e+tsvdfn0.net
居室及び座敷部は間口11.8m、奥行き15.5m、正面南
寄りに式台、背面北寄りに庇、北側面には下屋を設ける。蔵は
主屋台所の前方に建つエムゾネ。土蔵造りであるが、東西に庇を付
けた切妻造、板張りの覆屋をかけてい-59-る。この住宅は
、部分的な改変や増設がみられるほか保存がよく、富士講御師
の住宅としての形態を、屋敷地も含めてそのまま残している。
全国でも比較的少ない社家の一エムゾネ遺例として重要である。写
真主屋外観写真図小佐野家住宅現状平面図B9山中湖図以下に
示す要素が点在している平面図富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、いつの時
代も変わらず巡拝の対象として数えられエムゾネている。また、景
勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍
的価値を構成する諸要素として、自然地形(湖水)などがある
。写真山中湖の写真B10河口湖図以下に示す要素が点在して
いる平面図富士山周辺の湖を巡って修行する内八エムゾネ海巡りが
多くの富士講徒によって行われたが、いつの時代も変わらず巡
拝の対象として数えられている。また、景勝の地でもあり、多
くの芸術作品とゆかりが深い。顕著な普遍的価値を構成する諸
要素として、自然地形(湖水)などがある。写真河口湖のエムゾネ
写真B11忍野八海図以下に示す要素が点在している平面図忍
野八海は、富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに
八大竜王を祀る冨士信仰に関わる巡拝地(霊場)であった。顕
著な普遍的価値を構成する諸要素として、自然地形(湧水)が
あるエムゾネ。B12船津胎内樹型図以下に示す要素が点在してい
る平面図船津胎内樹型は、1673年に富士講の指導者である
村上光清により発見され、富士講の開祖である長谷川角行が洞
穴に祀った浅間明神が遷宮された溶岩樹型である。顕著な普遍
的価値を構成エムゾネする諸要素には、宗教的な意義付けがされ

386:底名無し沼さん
18/02/06 12:46:58.89 e+tsvdfn0.net
いる地形空間(溶岩樹型)などがある。・胎内樹型船津胎内樹
型は、承平噴火(937)で流出した剣丸尾第1溶岩流の西縁
に所在する。本穴自体も大小様々な樹型が複雑に交叉して形作
られている。本穴の側エムゾネ面では垂れ下がった溶岩が肋骨のよ
うに見え、そのうえ溶岩は鉄分のため赤色を帯び、あたかも内
臓を摘出したあとの胸控の如く見える。胎内の名称はこれに基
づくものであり、極めて貴重な形態と言える。・無戸室浅間神
社・石造物群1673年、富士エムゾネ講道者村上光清により現船
津胎内樹型が発見され、開祖が祀った焼入の地の浅間明神が遷
宮された。浅間明神誕生の地ともいわれ、無戸室(むつむろ)
に火を放ち、無事に御子を出産したという故事に倣い社号を無
戸室浅間神社と名付けた。-60-B1エムゾネ3吉田胎内樹型図
以下に示す要素が点在している平面図吉田胎内樹型は、189
2年に富士道者によって整備された「お胎内」(溶岩樹型)で
ある。顕著な普遍的価値を構成する諸要素には、宗教的な意義
付けがされている地形空間(溶岩樹型)などがあエムゾネる。・胎
内樹型吉田胎内樹型は、承平噴火(937)で流出した剣丸尾
第1溶岩流の東縁に所在する。本穴の側面では垂れ下がった溶
岩が肋骨のように見え、母の胎内に似ているため、浅間大菩薩
(木花開耶姫)出世の御胎内として信仰の対象となった。エムゾネ
・洞内の石祠、石造物群吉田胎内の本穴の奥には、石祠があっ
て富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫が祀られて
いる。樹型内に入ると横穴の正面には、食行身禄を祀る石祠が
ある。B14人穴富士講遺跡(人穴浅間神社)図以下に示す要
素がエムゾネ点在している平面図・犬涼み溶岩流人穴付近は、新富
士火山旧期溶岩(約11,000年前から約5,000年前)
に属する犬涼み溶岩流の末端部近くに位置している。犬涼み溶
岩流は、標高1,206mの犬涼み山から噴出し、西方に約

387:底名無し沼さん
18/02/06 12:52:42.01 e+tsvdfn0.net
㎞、標高差にエムゾネして約700mの扇状地をつくる溶岩流であ
る。写真溶岩流の写真図溶岩流の詳細図・溶岩洞穴人穴溶岩洞
穴は、天正年間に富士講の開祖、長谷川角行が千日の行を行っ
たとされる洞穴である。犬涼み溶岩流の中に存在する19箇所
の溶岩洞穴のうち、西エムゾネ端部の最も低い位置にあり、溶岩が
流れ下るとき溶岩表面が冷やされて固化した後、内部の溶けた
溶岩が抜けて空洞ができたものである。洞穴の南西の端が進入
口となり、洞穴中央部でくの字型に曲がっている。入口から約
30mの屈曲部手前中央には、エムゾネ直径約5mの溶岩柱がある
。全体として幅広く、奥に入ると広々として平坦な空間となっ
ている。最奥部までは約80mで、そのまま閉塞していると考
えられる。写真溶岩洞穴の写真図洞穴の図面・社叢(周辺の植
生)人穴集落では主に製炭と農業を中心エムゾネとした生活が営ま
れたため、薪炭材のコナラ・クヌギ等を中心に育林していた。
しかし、昭和30年代に薪炭の消費が減少し、境内地とその周
辺は建材としてのヒノキ・スギに改植された。御神木に相当す
る大樹等は存在しない。・碑塔群人穴浅間神社のエムゾネ境内地に
は、富士講信者が建立した232基の碑塔が存在する。そのう
ち碑塔に建立年が刻まれたもの89基についてみると、一番古
い碑塔は寛文4年(1664)建立のものである。建立目的に
よって大きく分類すると、個人の戒名や行名を記した墓碑エムゾネ
・供養碑である「墓碑供養碑」、修行による大願成就を祈願す
る「祈願奉納碑」、個人の富士登拝や講の人穴参拝を記念する
「顕彰記念碑」の3種とそれ以外に整理される。「墓碑供養碑
」が最も多い。-61-写真碑塔群の写真図碑塔群の配置図・
参道エムゾネ洞穴入口や浅間神社社殿のある平場へ至る参道が、境
内地内を南から北へ伸びている。現在はコンクリートで覆われ
ている。・建物跡大小2つの建物跡が人穴洞穴直上の平場で

388:底名無し沼さん
18/02/06 12:58:16.00 e+tsvdfn0.net
出されている。西側に規模の大きな1棟と、その東側にやや小
規模の1棟がエムゾネあり、大規模なものの方がより古い遺構とみ
られる。また建物跡の周辺には石積みが施されている。・参道
跡建物跡へ向かう参道跡が、建物跡南側の平場から斜面を下り
、井戸跡の所在する平地まで約34m続いている。溶岩角礫や
露出している溶岩を利エムゾネ用して21段の石段が構築されてい
る。・道跡2本の道跡と思われる石列が参道跡の上り口、石

389:底名無し沼さん
18/02/06 13:03:42.77 e+tsvdfn0.net
の西側に位置する。建物跡と洞穴や碑塔群などを結ぶ機能を有
していたと考えられる。・炭焼窯跡指定地の北側を通る林道に
沿って、5箇所の炭焼窯跡が検エムゾネ出されている。昭和初期ま
で使用されていたものであるが、富士講に関わる遺構は検出さ
れていない。・井戸跡参道跡の南側に位置する。内部が溶岩角
礫や土砂によって埋没し、涸れ井戸となっている。B15白糸
ノ滝図以下に示す要素が点在している平エムゾネ面図・古富士泥流
堆積物山体が崩壊した際に崩れた土砂が堆積した地層であり、
古富士火山の一部を形成するものである。この地層は、塊状礫
岩と平行層理を持つ砂岩が不規則に互層しているものである。
写真写真・白糸溶岩流新富士火山の土台となってエムゾネいる溶岩
流のひとつであり、白糸ノ滝付近0.3平方キロメートル程度
にある。白糸溶岩流は4枚の溶岩流層からなると考えられてお
り、白糸ノ滝では2枚の溶岩流層が確認できる。溶岩流層の境
目にはマグマの急冷時に形成された粉砕部(クリンカー)エムゾネ
が発達している。また、溶岩流内部には、マグマが冷え固まっ
た際の収縮により形成された縦方向の割れ目(柱状節理)が存
在する。白糸ノ滝は、地質の特徴上、次のようなメカニズムで
崩落を繰り返していると考えられている。白糸の滝は、最近1
0年エムゾネ間の平均で日量約15.6万トンの湧水量が見積もら
れており、この多量の水の落下は、白糸溶岩流に比して軟弱な
古富士泥流堆積物を次第に浸食する。やがて、下部が抉り取ら
れることで上部の溶岩流はオーバーハング状態となり、自重に
耐えられなくエムゾネなった時点で自然崩落する。この作用が繰り
返され、崖線が後退し続けていると考えられる。また、白糸溶
岩流内の柱状節理は浸食に弱く、滝の後退を早める一因と指摘
されている。白糸ノ滝は、1年に約2センチメートルの割合で
北側に後退しているとエムゾネいう計算もある。音止の滝も、白

390:底名無し沼さん
18/02/06 13:09:57.07 e+tsvdfn0.net
ノ滝と同様の地質であり、同様のメカニズムで崩落-62-を
繰り返していると考えられている。写真溶岩流の写真図溶岩流
の拡散図・白糸ノ滝白糸の滝は、高さ約20メートル、長さ約
120メートルに渡り馬蹄状にエムゾネ広がる崖面の各所から湧出
した水が、数多の白い糸を垂らしたように流れ落ち、滝となっ
たものである。白糸ノ滝周辺の地質は、下部に不透水層である
古富士泥流堆積物があり、上部に透水性のある白糸溶岩流があ
ると考えられている。富士山麓に降ったエムゾネ雨水は、上部の溶
岩流を透過し、下部の不透水層との境目を流れ下っていると考
えられている。白糸の滝は、両層が崖面として露出しており、
両層の境目や上部の溶岩流の間から水が湧出している様子が確
認できる。写真滝の写真(音止の滝も同時に掲載エムゾネ)・音止
の滝音止の滝は、「音無の滝」とも呼ばれ、白糸の滝と台地を
隔てた東側に位置する。主瀑は落差約25メートルを流れ落ち
る芝川の本流であり、轟音を轟かせている。崖面では、白糸の
滝同様の地層が観察され、湧水が見られるが、白糸の滝にエムゾネ
比して水量は少ない。・鬢撫水鬢撫水は、「お鬢水」とも呼ば
れ、白糸の滝の崖上にある。鬢撫水は、湧水が池となったもの
であり、その水は白糸の滝の一部として流れ落ちている。また
、ここには「駒繋石」、「弁当(行厨)石」、「杓子石」等の
名前エムゾネのついた石があったとされるが、現在は不詳である。
・植物白糸の滝の両岸の崖上には樹木が生い茂っている。また
指定地内には、メヤブソテツ、ユリワサビ等特色ある植物相が
ある。・富士講「白糸ノ滝」には、江戸時代中期以降江戸で隆
盛した富士講エムゾネの祖長谷川角行にまつわる伝承がある。角行
は白糸の滝で垢離をとり


391:修行を行ったとされ、富士講の信者の 中には白糸の滝を訪れる者や、白糸の滝で修行を行う者がいた ことが知られている。幕末の資料には、白糸の滝で垢離をと



392:底名無し沼さん
18/02/06 13:15:31.01 e+tsvdfn0.net
修行を行った富士講のエムゾネ信者の記録がある。指定地内には富
士講の信者が建てた石碑があり、「仙元大神」と記されたもの
(市道沿い)や、「食行身禄」と記されたもの(白糸の滝滝つ
ぼ右岸)等がある。・白糸の滝の勝景白糸の滝の、数多の白い
糸を垂らしたように落ちる優美エムゾネな勝景がある。写真景勝の
写真・音止の勝景音止の滝の、轟音をたてて落ちる雄大な勝景
がある。写真景勝の写真・富士山の展望指定地では、白糸の滝
と音止の滝の勝景とともに、見事な富士山が望まれる。写真展
望の写真・富士の巻狩の伝承「白糸ノ滝エムゾネ」には、建久4年
(1193)に源頼朝が行ったいわゆる富士の巻狩にまつわる
伝承がある。音止の滝の名前は、富士の巻狩に関係する曽我兄
弟の仇討ち伝承に由来するもので、兄弟が仇討ちの相-63-
談をしている間は水音を止めたことから名づけらエムゾネれたとい
う。また、鬢撫水には、富士の巻狩の折に源頼朝がここで鬢の
ほつれを直したという伝承がある。・歌碑「白糸ノ滝」の勝景
は古くから詩歌に詠まれてきており、白糸の滝滝つぼ右岸には
白糸の滝の勝景を詠んだ歌碑がある。・標識名勝及び天然エムゾネ
記念物であることを明示する標識がある。③眺望C三保松原図
以下に示す要素が点在している平面図三保松原は、静岡市清水
区南東部に位置する三保半島にあり、半島の東岸真崎から海岸
線に沿い、南北に約4キロメートルに及ぶ松林と内陸部に散在
するエムゾネ松林が主体をなしている。真崎から海岸線に沿う松林
は、国有地又は市有地が大半を占めているが、内陸部の松林と
松林の景観を維持している背後地については、ほとんどが民有
地となっている。松林には、300年を経た老木から幼令木が
約54,00エムゾネ0本、幅広く分布している。図三保松原の地
区区分図表地区区分詳細表地区境界①特別規制A地区真崎灯台
の内海側の第2種規制地区との境界は、隣接する特別規制B

393:底名無し沼さん
18/02/06 13:21:15.10 e+tsvdfn0.net
区と第2種規制地区との境界(松が途切れる所)の延長線上と
する。②特別規制B地エムゾネ区特別規制A地区との境界は防潮堤
外側とし、その他の規制地区との境界は、羽衣参道は道路外側
、それ以外は平成元年4月1日現在において松原を形成してい
る地区、ただし、真崎先端の境界は真崎灯台と建設省財産、運
輸省財産及び民地側の境界を結エムゾネんだ線とする。③第1種規
制地区真崎付近の第2種規制地区及び第3種規制地区との境

394:底名無し沼さん
18/02/06 13:27:23.52 e+tsvdfn0.net
は、都市計画道路の中心線とし、字広道の第2種規制地区との
境界、字羽衣脇の三保第一小学校を中心とする第2種規制地区
との境界及び大字折戸地区における第2エムゾネ種規制地区との境
界は、隣接する道路の中心を境界とする。ただし、羽衣参道西
側の第2種規制地区との境界は、羽衣参道中心より25mの位
置とする。④第2種規制地区真崎付近第3種規制地区との境界
は、市道本村海岸58号線の中心の延長を境界とエムゾネする。そ
の他の地区との境界は、①②③を参照。⑤第3種規制地区各地
区との境界は②③④を参照。(2)顕著な普遍的価値を構成す
る諸要素と密接に関わる諸要素①自然地形構成資産の土地には
、山並み、湧水や富士山及び側火山の噴火等の火山活動にエムゾネ
よって形成された溶岩樹型などの自然地形が見られ、構成資産
を成立させる重要な要素となって存在しているものもある。ア
富士山山体及び登山道A富士山-64-・テフラ噴火の際、山
頂火口から粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多
量にエムゾネ噴出したため、山頂付近はテフラに覆われている。・
大沢崩れ「八百八沢」と呼ばれる多くの浸食谷の中で最も大き
なもので、富士山西斜面の山梨県との県境に位置する。山頂直
下から標高2,200m付近まで延長2.1㎞、最大幅約50
0m、最大深エムゾネさ約150mに渡る。崩壊は現在も進行中で
年平均約15万~の岩石・土砂を流出し、大沢川流域に扇状地
を形成している。写真大沢崩れの写真図大沢崩れの図面A1山
頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口登山道・日沢(浸食谷)日沢
は富士山の浸食谷の1エムゾネつで、村山口登山道跡とほぼ並行に
山腹を南下していく。村山口登山道跡とは、中宮八幡堂跡の東
側(標高1,280m付近)及び、6号建物跡と7号建物跡の
間(標高2,015m付近)で交差する。2,015m付近に
は、日沢の上に巨石があり、自エムゾネ然の橋のような地形にな

395:底名無し沼さん
18/02/06 13:32:41.19 e+tsvdfn0.net
ており、横渡と呼ばれる。登山道はここで日沢の左岸から右岸
に渡る。写真日沢の写真A3須山口登山道起伏に富んだ自然地
形をなし、粘性の小さい玄武岩質のテフラと溶岩を繰り返し多
量に噴出したため、テフラに覆われていエムゾネる。A4須走口登
山道起伏に富んだ自然地形をなし、粘性の小さい玄武岩質のテ
フラと溶岩を繰り返し多量に噴出したため、テフラに覆われて
いる。A5吉田口登山道二合目から三合目にかけて見られる古
富士火山からの泥流堆積物、二合目付近で見られエムゾネる玄武岩
溶岩の滑床及び縄状溶岩など様々な地質・地形が火山活動によ
り形成されている。A6北口本宮冨士浅間神社A7西湖A8精
進湖A9本栖湖地質学的にみると湖の北側、西側、南側は御坂
基盤層により構成されているが、東側新富士火山の旧期のエムゾネ
溶岩、さらにそれらを覆う形で青木ヶ原溶岩が分布している。
この溶岩流については水中に流入して形成された水底溶岩の可
能性も指摘されている。(久野久(1968)水中自破砕溶岩
)また本栖湖畔のボーリング調査において43mより上位は新
富士エムゾネ火山の特徴が示され、それより深いところは古富士火
山の特徴を示している。その時期は概ね30,000年前以降
の溶岩主体の富士山起源の火山活動が確認-65-されている
。イ信仰B1富士山本宮浅間大社・鏡池楼門前の池で一名眼鏡
池とも言われエムゾネる。参道を挟んで両側に丸く池が広がってい
る。寛文10年(1670)の絵図では、ここから流れる水が
御手洗川に流れ込んでいる。写真鏡池の写真B2山宮浅間神社
構成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成
資産を成立させる重要エムゾネな要素となって存在しているものが
ある。B3村山浅間神社構成資産の土地には丘陵や河川などの
自然地形が見られ、構成資産を成立させる重要な要素となって
存在しているものがある。B4須山浅間神社構成資産の土地

396:底名無し沼さん
18/02/06 13:38:56.71 e+tsvdfn0.net
は丘陵や河川などの自然地形がエムゾネ見られ、構成資産を成立さ
せる重要な要素となって存在しているものがある。B5須走浅
間神社・信しげの滝(清めの滝)境内地の池で汲み上げた水が
、石鳥居南側の「信しげの滝」まで流れている。B6河口浅間
神社B7冨士御室浅間神社B8御師住宅エムゾネ中門をくぐると川
(水路)が流れており、かつては当家に宿泊する富士講の禊ぎ
の場となっていた。B9山中湖B10河口湖B11忍野八海B
12船津胎内樹型・構成岩石質、地質学的形状(平面的、立体
的)等B13吉田胎内樹型溶岩流の流出時の表面エムゾネの状態が
ほぼ保たれている。地域を覆う玄武岩溶岩流をはじめ、スコリ
アなどの火山活動に伴う噴出物が顕著に見られる。B14人穴
富士講遺跡(人穴浅間神社)-66-構成資産の土地には丘陵
や河川などの自然地形が見られ、構成資産を成立させる重エムゾネ
要な要素となって存在しているものがある。B15白糸の滝構
成資産の土地には丘陵や河川などの自然地形が見られ、構成資
産を成立させる重要な要素となって存在しているものがある。
ウ眺望C三保松原なし②森林、植栽樹木構成資産の土地には、
富士エムゾネ山の景観を構成している天然林、富士山原始林及び青
木ヶ原樹海、人工林などからなる森林が存在しているほか、社
叢林・境内林などが存在している。ア富士山山体及び登山道A
富士山標高3,300m付近より上方の地域にコケ類・地衣類
が生育していエムゾネる。A1山頂信仰遺跡なしA2大宮・村山口
登山道・草山部分の植物村山浅間神社から中宮八幡堂跡の下ま
でにあたり、植物の垂直分布では、丘陵帯から山地帯にあたる
。戦後、スギ・ヒノキ・モミなどの植林が行われ、道沿いはほ
とんどが人工林であるエムゾネが、天照教社から富士山麓山の村を
経て中宮八幡堂跡に至る道沿いには、ブナ・ミズナラ・カエデ
などの落葉広葉樹の自然林が残っている。林の下にはササ(

397:底名無し沼さん
18/02/06 13:44:49.94 e+tsvdfn0.net
ズタケ)が視界を遮るほど生い茂っている。・木山部分の植物
中宮八幡堂跡付近から新5合目エムゾネの森林限界(2,400m
付近)までにあたり、植物の垂直分布では、山地帯から亜高山
帯にあたる。高所に上がるにつれてブナ・カエデなどの広葉樹
からウラジロモミ・シラビソなどの針葉樹に変わり、標高1,
600m付近で落葉樹とササがなくなるエムゾネ。・焼山部分の植
物森林限界である標高2,400m付近から上で、植物の垂

398:底名無し沼さん
18/02/06 14:11:41.87 e+tsvdfn0.net
富士山(ふじさん、英語:Mount Fuji)は、静岡県
(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、駿東郡エムゾネ小山町)
と、山梨県(富士吉田市、南都留郡鳴沢村)に跨る活火山であ
る。標高3776.12 m、日本最高峰(剣ヶ峰)の独立峰
で、その優美な風貌は日本国外でも日本の象徴として広く知ら
れている。数多くの芸術作品の題材とされ芸術面で大きなエムゾネ
影響を与えただけではなく、気候や地層など地質学的にも

399:底名無し沼さん
18/02/06 14:17:15.06 e+tsvdfn0.net
な影響を与えている。懸垂曲線の山容を有した玄武岩質成層火
山で構成され、その山体は駿河湾の海岸まで及ぶ。古�


400:�霊峰と され、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視 されエムゾネた。噴火を沈静化するため律令国家により浅間神社が 祭祀され、浅間信仰が確立された。また、富士山修験道の開祖 とされる富士上人により修験道の霊場としても認識されるよう になり、登拝が行われるようになった。これら富士信仰は時代 により多様化エムゾネし、村山修験や富士講といった一派を形成す るに至る。現在、富士山麓周辺には観光名所が多くある他、夏 季シーズンには富士登山が盛んである。日本三名山(三霊山) 、日本百名山、日本の地質百選に選定されている。また、19 36年(昭和11年)エムゾネには富士箱根伊豆国立公園に指定さ れている。その後、1952年(昭和27年)に特別名勝、2 011年(平成23年)に史跡、さらに2013年(平成25 年)6月22日には関連する文化財群とともに「富士山-信仰 の対象と芸術の源泉」の名で世エムゾネ界文化遺産に登録された。 日本の文化遺産としては13件目である。富士の山とは詠んだ としても、「ふじやま」という呼称は誤りであり、愛媛県大洲 市柚木にある冨士山(とみすやま)とは字も呼び方も異なる。 富士山についての最も古い記録は『常陸エムゾネ国風土記』におけ る「福慈岳」という語であると言われている。他にも多くの呼 称が存在し、不二山もしくは不尽山と表記する古文献もある。 また、『竹取物語』における伝説もある。「フジ」という長い 山の斜面を表す大和言葉から転じて富士山と称さエムゾネれたとい う説もある。近代以降の語源説としては、宣教師・バチェラー は、名前は「火を噴く山」を意味するアイヌ語の「フンチヌプ リ」に由来するとの説を提示した。しかし、これは囲炉裏の中 に鎮座する火の姥神を表す「アペフチカムイ」からきた誤エムソ



401:底名無し沼さん
18/02/06 14:22:22.59 e+tsvdfn0.net
解であるとの反論がある。その他の語源説として、マレー語説
・マオリ語説・原ポリネシア語説等がある。明確に「富士山」
と表記されるに至るにおいては駿河国富士郡に由来するとする
ものがあり、記録としては都良香の『富士山記』に「山を富士
と名エムゾネづくるは、郡の名に取れるなり」とある。富士山に因
む命名富士山が日本を代表する名峰であることから、日本の各
地に「富士」の付く地名が多数存在している。富士山の麓とし
て静岡県に富士市・富士宮市、富士郡、山梨県に富士吉田市・
富士河口湖町エムゾネ・富士川町があるほか、よくあるものとして
富士山が見える場所を富士見と名づけたり(例:埼玉県富士見
市)、富士山に似ている山(主に成層火山)に「富士」の名を
冠する例(信濃富士など)がある。日本国外に移住した日本人
たちも、居住地付近のエムゾネ山を「○○富士」と呼ぶことがある
。詳細は「富士見」および「富士街道」を参照また、全国各地
には少なくとも、321座を超える数の富士と名の付く山があ
り、それらを郷土富士と呼ぶ。詳細は「郷土富士」を参照なお
、地名以外にも「富士」を冠しエムゾネた名称は多く存在する。詳
細は「フジ」を参照また、異名として芙蓉峰とも言う。詳細は
「芙蓉」を参照地質学上の富士山富士山周辺の地形図富士山の
構造図地質学上の富士山は典型的な成層火山であり、この種の
火山特有の美しい稜線を持つ。現在の富エムゾネ士山の山体は、大
きく分けて下記の4段階の火山活動によって形成されたものだ
と考えられている。先小御岳(せんこみたけ)火山小御岳(こ
みたけ)火山古富士(こふじ)火山新富士(しんふじ)火山こ
の中で先小御岳が最古であり、数十万年前の更新エムゾネ世にでき
た火山である。東京大学地震研究所が2004年4月に行った
ボーリング調査によって、小御岳の下にさらに古い山体がある
ことが判明した。安山岩を主体とするこの第4の山体は「

402:底名無し沼さん
18/02/06 14:28:47.37 e+tsvdfn0.net
御岳」と名付けられた。古富士は8万年前頃から1万5千エムゾネ
年前頃まで噴火を続け、噴出した火山灰が降り積もることで、
標高3,000m弱まで成長した。山頂は宝永火口の北側1~
2kmのところにあったと考えられている。2009年10月
に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これ
は1エムゾネ996年4月の観測開始以来初めてのことである。こ
の地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士
吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活
火山である)現れとされている。プレートの観点からは、ユー
ラシアプレーエムゾネト外縁部で、北アメリカプレート又はオホー
ツクプレートと接するフォッサマグナ(すぐ西に糸魚川静岡構
造線)に南からフィリピン海プレートが沈み込む位置であり(
ほぼ、相模トラフと駿河トラフ及び伊豆・小笠原・マリアナ島
弧を陸上に延長した交エムゾネ点)、3個のプレートの境界域(三
重会合点(英語版))となっている。富士山下で沈み込んでい
るフィリピン海プレートのさらに下に太平洋プレートが沈み込
んでおり、富士山のマグマは、東日本にある島弧火山と同様に
太平洋プレートに由来するものエムゾネである。富士山の火山上の
特徴は、日本列島の陸上で他にない均整のとれた山体であるこ
と、日本の火山のほとんどが安山岩マグマを多く噴出している
のに対し、富士山は玄武岩マグマを多く噴出すること、側火山
が非常に多いことがある。富士山頂山頂エムゾネ火口を上空より山
頂火口山頂には火口(お鉢)がありこれを「大内院」と呼ぶ。
これを囲むようにして8つの峰がありこれを八神


403:峰と呼ぶ。火 口の南西側に最高点の剣ヶ峰があり二等三角点(点名は、富士 山。標高3775.51m2014年4月1日改エムゾネ算)、火 口の北側には二等三角点(点名は、富士白山。標高3756. 23m2014年4月1日改算)が設置されている。火口



404:底名無し沼さん
18/02/06 14:33:55.10 e+tsvdfn0.net
造は、国土地理院によると、最深部の標高が3538.7m、
火口の深さは約237m、山頂火口の直径は780m、火エムゾネ
口底の直径は130mとある。登山道を除く8合目より上は、
富士宮市にある富士山本宮浅間大社の私有地であるが、県境と
市町村境界は未確定である。2014年1月の富士山世界文化
遺産協議会後の記者会見でも静岡県知事の川勝平太と山梨県知
事のエムゾネ横内正明は県境を定めないことを明言している。

405:底名無し沼さん
18/02/06 14:39:24.16 e+tsvdfn0.net
地理院がインターネット上で公開している地形図では2013
年10月から地図上の地点を指定すると住所、緯度・経度、標
高が表示される機能が加わったが、帰属未確定の地点の場合に
は近くの帰属エムゾネが確定している住所が表示されるという設定
になっているため、富士山頂(剣が峰)を指定すると静岡県富
士宮市として表示されることが山梨県などから指摘され、これ
を受けて富士山頂の住所表示については非表示になるよう変更
された。宝永山宝永山エムゾネと宝永噴火口宝永山(ほうえいざん
)は宝永4年(1707年)の宝永大噴火で誕生した側火山(
寄生火山)である。富士山南東斜面に位置し標高は2,693
mである。宝永山の西側には巨大な噴火口が開いている。これ
らを間近で見ることができる登エムゾネ山コースも整備されている
。詳細は「宝永山」を参照富士山と火山活動富士山の噴火詳細
は「富士山の噴火史」を参照最終氷期が終了した約1万1千年
前、古富士の山頂の西側で噴火が始まり、溶岩を大量に噴出し
た。この溶岩によって、現在の富士山のエムゾネ山体である新富士
が形成された。その後、古富士の山頂が新富士の山頂の東側に
顔を出しているような状態となっていたと見られるが、約2,
500~2,800年前、風化が進んだ古富士の山頂部が大規
模な山体崩壊(「御殿場岩なだれ」)を起こしてエムゾネ崩壊した
。新富士の山頂から溶岩が噴出していたのは、約1万1千年前
~約8,000年前の3,000年間と、約4,500年前~
約3,200年前の1,300年間と考えられている。山頂部
からの最後の爆発的噴火は2300年前で、これ以降は山エムゾネ
頂部からの噴火は無いが、長尾山や宝永山などの側火山からの
噴火が散発的に発生している。延暦19年-21年(800年
-802年)に延暦噴火、貞観6年(864年)に青木が原溶
岩を噴出した貞観大噴火。最後に富士山が噴火したのは宝

406:底名無し沼さん
18/02/06 14:45:52.71 e+tsvdfn0.net
年(エムゾネ1707年)の宝永大噴火で、噴煙は成層圏まで到達
し、江戸では約4cmの火山灰が降り積もった。また、宝永大
噴火によって富士山の山体に宝永山が形成された。その後も火
山性の地震や噴気が観測されており、今後も噴火の可能性が残
されている。エムゾネ噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『
続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山
より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹
取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを
窺わせる記述がある。エムゾネ平安時代の歴史書『日本三代実録』
には貞観大噴火の状況が迫力ある文体で記載され、平安時代中
期の『更級日記』には、富士山の噴気や火映現象を表した描写
がある。宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折り
たく柴の記』をはじめとした文エムゾネ書、絵図等により多数残さ
れている。その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが
、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測
される。宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしてい
ないこともあり、1990年代まで小学エムゾネ校などでは富士山
は休火山と教えられていた。しかし先述の通り富士山にはいま
だ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区
分を廃止したことも重なり、現在は活火山に区分されている。
2013年7月20日、産業技術総合研究所は、エムゾネ1999
年から約15年分の踏査データや地質調査データをまとめ富士
火山地質図第2版(Ver.1)として発表し、2016年に
は修正加筆が終了した。同時に、溶岩が流れ出す規模の噴火は
過去2000年間に少なくとも43回あったとしている。エムゾネ
山体崩壊の発生地震および噴火活動にともなう山体崩壊(岩屑
がんせつなだれ)が発生年代が不明確なものも含めて南西側に
5回、北東側に3回、東側に4回の計12回起きたとされ

407:底名無し沼さん
18/02/06 14:52:08.29 e+tsvdfn0.net
る。また、直下に存在が示唆されている活断層の活動によるマ
グニエムゾネチュード7クラスの地震による崩壊も懸念されている
。主な発生歴約2900年前(御殿場泥流):東斜面で大規模
(約18億立方メートル)な山体崩壊が発生し、泥流が御殿場
周辺から東へは足柄平野へ、南へは三島周辺を通って駿河湾へ
流下、山体崩エムゾネ壊の発生原因は不明。1331年の元弘地震
に伴い発生。1891年濃尾地震に伴い発生。災害対策火山噴
火予知連絡会(気象庁)-富士山のみを限定するものではない
が、日本の火山活動についての検討を実施する。状況に応じて
見解を発表するが、噴エムゾネ火の日時を特定して発表することは
ない。定例会は年3回実施されるが、噴火時には随時開催され
る。2000年10月に富士山の低周波地震が増加した際は、
ワーキンググループが設置され、富士山に関する基礎データの
収集・整理、監視体制の検討、エムゾネ火山情報発信の方法などが
集中的に検討された。富士山ハザードマップ検討委員会(内閣
府防災担当)-噴火時の広域避難のために必要なハザードマッ
プの作成が、検討委員会を通じて進められている。富士直轄砂
防事業(国土交通省)-大沢崩れを源にエムゾネして発生する大規
模な土石流から、下流の保全対象を守る砂防事業を実施中。山
梨県は2015年6月11日、「富士山噴火時避難ルートマッ
プ」を作成した。「静岡市市長の田辺信宏は2016年1月2
2日の定例記者会見で、市消防航空隊が2013エムゾネ年、富士
山で滑落した登山者を救助中にヘリコプターから落下させ、こ
の登山者が死亡した事故を受け、再発防止策として、市消防局
がヘリで救助できる山の高さに3200メートルと上限を設け
たことを明らかにした。」。地殻変動の観測国の機関(防エムゾネ
災科学技術研究所、気象庁、国土地理院、産業技術総合研究所
)及び大学(東京大学地震研究所)などにより観測が行わ

408:底名無し沼さん
18/02/06 14:58:28.23 e+tsvdfn0.net
いる。国土地理院:地磁気観測点が、鹿野山測地観測所、水沢
測地観測所および江刺観測場に設置されている。また、山頂に
はGエムゾネPSの電子基準点。気象庁観測所:地震計(山頂、御
殿場口8合目、吉田口6合目、鳴沢塒塚東、太郎坊)、傾斜計
(太郎坊)、空振計(太郎坊、上井出)、GSP(太郎坊)、
望遠カメラ(萩原)防災科学技術研究所:火山活動可視情報化
システム(VエムゾネIsualizationsystem

409:底名無し沼さん
18/02/06 15:03:34.78 e+tsvdfn0.net
rVolcanicActivity)噴出物災害などへの対
策国土交通省、富士砂防事務所:静岡県、山梨県と連携し火砕
流、溶岩流などの火山活動に伴う災害を防ぐための調査・検討
を実施しハザードマッエムゾネプが作成されている。しかし、山体
崩壊を想定したハザードマップは2012年現在未作成である
。富士山と気象気候山頂は最暖月の8月でも平均気温が6℃し
かなく、ケッペンの気候区分では最暖月平均気温が0℃以上1
0℃未満のツンドラ気候に分類エムゾネされる。太平洋側の気候の
ため1月や2月は乾燥し、3月、4月、5月、6月が最深積雪
トップ10を占める。観測史上最低気温は-38.0℃で最高
気温が-30℃未満の日も過去に数回観測されていて-30℃
を上回ることがない1日というのは北海エムゾネ道でも例がない。
富士山での気象観測かつて気象庁東京管区気象台が富士山頂剣
ヶ峯に設置していた気象官署が富士山測候所である。現在は富
士山特別地域気象観測所となっており、自動気象観測装置によ
る気象観測を行っている。詳細は「富士山測候所エムゾネ」を参照
気象現象山体に強風が吹くと砂が巻き上げられ、周辺の自治体
に降ることがある。2010年12月15日には、神奈川県の
西部から南部にかけて黒い砂が積もり、その状況から富士山の
砂が巻き上げられ、西風に乗り降り積もったと考えられるエムゾネ
と報道された。富士山北麓の一部農地(現在の山梨県富士吉田
市など)では、富士山の標高2600m付近に現れる農鳥(鳥
の形に見える残雪)の出現する時期によって、農作物が豊作に
なる・凶作となるという言い伝えがある。富士山では山岳波が
発生エムゾネすることもあり墜落事故も起きている(英国海外航空
機空中分解事故など)。富士山麓の自然環境富士山麓の天然記
念物として、「富士山原始林及び青木ヶ原樹海」(天然記念物
:1926年2月24日指定、2010年3月8日追加指

410:底名無し沼さん
18/02/06 15:09:51.45 e+tsvdfn0.net
名称変更)、エムゾネ「富士風穴」(天然記念物:1929年12
月17日指定)などがある。伏流水白糸の滝(静岡県)富士山
に降った雨や雪は、長い年月をかけ伏流水として地下水脈を流
れ湧き出てくる。最も高い地点から湧き出す湧水として確認さ
れている例は標高16エムゾネ70m(富士宮口二合目付近)とさ
れ、その他山麓を帯状に分布している。富士山麓における湧水
の総湧出量は1968年で1日あたり154万立方メートル以
上だという。しかし、近年湧出量の減少が確認されている例が
ある。地域名称南東麓されていエムゾネ柿田川(日本三大清流)、
小浜池南麓吉原湧泉群西麓湧がってい玉池(特別天然記念物)
、白糸の滝(国指定の名勝及び天然記念物)、猪之頭湧泉群北
麓忍野八海(国指定の天然記念物)またの、一部で駿河湾や富
士五湖の西湖(水深25m付近)で湧出エムゾネがあるとされてい
る。富士山を源とする伏流水を利用し、周辺地域で製紙業や医
薬関連の製造業などの工業が活発に行われている。また、富士
山の伏流水はバナジウムを豊富に含んでいるため、ミネラルウ
ォーターとして瓶詰めされ販売されている。溶岩エムゾネ洞窟西湖
コウモリ穴入口富士山麓周辺には大小100以上の溶岩洞窟が
形成されている。その中でも総延長2139mの三ツ池穴(静
岡県富士宮市)は溶岩洞窟として日本一の長さを誇る。また、
山麓周辺で最大規模の溶岩洞窟として西湖コウモリ穴(山エムゾネ
梨県南都留郡富士河口湖町)があり、国の天然記念物に指定さ
れている。その他、鳴沢氷穴(山梨県南都留郡鳴沢村)も国の
天然記念物に指定されている。植生富士山は標高は高いが、日
本の他の高山に比較すると高山植物などの植生に乏しい。これ
は富エムゾネ士山が最終氷期が終了した後に山頂から大規模な噴火
が繰り返したために山の生態系が破壊され、また独立峰である
ため、他の山系からの植物の進入も遅れたためである。し

411:底名無し沼さん
18/02/06 15:15:00.31 e+tsvdfn0.net
、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部では
タデ科オンタエムゾネデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科ア
ザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯
の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例
であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマ
ツ林が広がっている。エムゾネ人間史富士山本宮浅間大社古代古代
より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、
また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言わ
れるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅
間大神とコノハナノサクヤビメエムゾネを主祭神とするのが浅間神
社であり全国に存在する。浅間神社の総本宮が麓の富士宮市に
ある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にあ
る「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っ
ている。詳細は「富士信仰」を参照古代エムゾネでは富士山は駿河
国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高
く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富
士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)
まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)エムゾネ、「駿河
の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるも
のである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国と
こちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・
甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴エムゾネ
重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジョアン・
ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属
している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とエムゾネし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われ
る村山口である。これにより富士修験が成立したとされる

412:底名無し沼さん
18/02/06 15:20:53.44 e+tsvdfn0.net
第に他の登山道も開削されてゆき、大宮・村山口、須山口、須
走口が存在してる。神仏習合は富士山も例外ではなかった。山
頂部は仏の世エムゾネ界と考えられるようになり、特別な意味を持
つようになった。遺例としては正嘉3年(1259年)の紀年
銘である木造坐像が古いとされ、これは大日堂(村山)の旧本
尊であった。鎌倉時代の書物である『吾妻鏡』には神仏習合に
よる「富士大菩薩」やエムゾネ「浅間大菩薩」という呼称が確

413:底名無し沼さん
18/02/07 13:11:14.05 9nWTm38Q0.net
、宝永山周辺ではいくらか高山植物が見られる。山の上部では
タデ科オンタエムゾネデ属のオンタデ(御蓼)、山腹ではキク科ア
ザミ属のフジアザミ(富士薊)が自生している。中部山岳地帯
の高山の森林限界の上にはハイマツ帯が広がっているのが通例
であるが、富士山にはハイマツ帯は欠如し、その代替にカラマ
ツ林が広がっている。エムゾネ人間史富士山本宮浅間大社古代古代
より富士山は山岳信仰の対象とされ、富士山を神体山として、
また信仰の対象として考えることなどを指して富士信仰と言わ
れるようになった。特に富士山の神霊として考えられている浅
間大神とコノハナノサクヤビメエムゾネを主祭神とするのが浅間神
社であり全国に存在する。間神社の総本宮が麓の富士宮市に
ある富士山本宮浅間大社(浅間大社)であり、富士宮市街にあ
る「本宮」と、富士山頂にある「奥宮」にて富士山の神を祭っ
ている。詳細は「富士信仰」を参照古代エムゾネでは富士山は駿河
国のものであるとする考え方が普遍的であった。これらは「高
く貴き駿河なる富士の高嶺を」(山部赤人『万葉集』)や「富
士山は、駿河国に在り。」「富士山は駿河の国の山で(省略)
まっ白な砂の山である」(都良香『富士山記』)エムゾネ、「駿河
の国にあるなる山なむ」(『竹取物語』)など広く見られるも
のである。しかし「なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国と
こちごちの」(「高橋虫麻呂」『万葉集』)のように駿河国・
甲斐国両国を跨ぐ山であるという共有の目線で記された貴エムゾネ
重な例もある。それより後期の時代、イエズス会のジョアン・
ロドリゲスは自著『日本教会史』にて「富士山は駿河国に帰属
している」としているため、帰属は駿河国という関係は継続さ
れていたと考えられる。登山口は末代上人が開いた登山道を起
源とエムゾネし、登山道が完成されたそれが最初の登山道と言われ

414:過去ログ ★
[過去ログ]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています


最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch