暇つぶし2chat OUT
- 暇つぶし2ch200:底名無し沼さん
18/01/10 10:05:15.67 He8C3ID40.net
財とともに史跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから富
士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、864~866年に北麓
で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、
富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性
が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御
師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は
、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って
、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備
の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。
B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。山中という厳しい条件の下に所在するためたびたび破損し、1189、12
75、1475、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が行
われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後も1698年、18
67年に修復が行われていた。1973-74年には里宮の地にそのままの形で移
設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口
湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置
づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してき
た神社である。法的保護、修理・整備の経緯1973~74年に吉田口登山道二合
目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿

201:底名無し沼さん
18/01/10 10:05:45.06 drxMNnZ10.net
講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流
行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1
860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財
に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行
われた。1996~98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ
れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り
行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま
っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの
、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、
周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・
整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B
11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ
れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富
士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行
が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元
八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士
講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の
経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物
に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内
に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し
、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際

202:底名無し沼さん
18/01/10 10:11:36.32 He8C3ID40.net
御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
し、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に

203:底名無し沼さん
18/01/10 10:12:05.77 He8C3ID40.net
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や
食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこと
を業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮
冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の
御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、
敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅
の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯1976年に小
佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家
住宅の屋根の修理等が行われた。1996~98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が
行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定。B9
.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが
、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前
述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について、具体的に湖
沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの、人々の信
仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化財
とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保
護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B11.忍

204:底名無し沼さん
18/01/10 10:12:36.15 drxMNnZ10.net
に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的
保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。
富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを
し、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨


205:士山 北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯19 29年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定さ れた。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原 )角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による 約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探 検の様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたと されている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩 薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。 富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ 、長谷川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神 とする)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。ま た、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人 穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。 また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記 念碑などを建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の 浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在 地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみら れるものの1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的 保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定 される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする 数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15~1 6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えること をその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば



206:底名無し沼さん
18/01/10 10:18:38.96 He8C3ID40.net
住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥
部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類
に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建て
られ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代
表的である。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講
の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行われ
た。1996~98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた。
旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定
。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形
成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行か
らいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前述の
3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について
、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどの
ルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少なく
とも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化
財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名
勝として指定される予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水
による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関
わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御
手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、
1843年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護
、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明16
17年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指
定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を

207:底名無し沼さん
18/01/10 10:19:08.85 He8C3ID40.net
野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これら

208:底名無し沼さん
18/01/10 10:19:37.36 drxMNnZ10.net
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15~16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作

209:底名無し沼さん
18/01/10 10:25:08.64 He8C3ID40.net
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参


210: 詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として 指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15~1 6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えることを



211:底名無し沼さん
18/01/10 10:25:40.91 He8C3ID40.net
の結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者
は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942
年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年
神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるもの
の1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・整備の経緯19
99年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士

212:底名無し沼さん
18/01/10 10:26:10.29 drxMNnZ10.net
品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである
。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発展山容の
形成富士山の原型は、40~10万年前、周辺の火山とともに
活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆う
ように標高約2500mの小御岳火山が形成された。さらに約
10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、爆発的噴火、
火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山をほ
ぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1
万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火
山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約5600~35
00年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流出によ
って何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体へ
の降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各
所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や降水が
北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。ま
た、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山
頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西~南東方向に連なる側火山からの噴
火を続け、1200年前から後には少なくとも800~802
年、864~866年、937年、999年、1033年、1
083年、1435~1436年、1511年、1707年の
九つの時期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」
このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ
神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった
が、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀
後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのものある
いは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るようにもなり、各
地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一
端に位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀
麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるようになり、日

213:底名無し沼さん
18/01/10 10:31:44.74 He8C3ID40.net
その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15~16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40~1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600~3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西~南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800~802年、
864~866年、937年、999年、1033年、1083
年、1435~1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような

214:底名無し沼さん
18/01/10 10:32:15.94 He8C3ID40.net
山として指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の
流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15~16万?)の噴出が数百条の
白糸が垂れているように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連
の文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名であり
、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説
明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。15
~16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝地として数多く描か
れ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・
整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18
b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40~10万年前、周辺の火山ととも
に活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約25
00mの小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山
をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1万年前には大量
の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆い
つくし、約5600~3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流
出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体への降水を起源
とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓にお
いてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成さ
れた。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴
火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっても北西~南

215:底名無し沼さん
18/01/10 10:32:45.53 drxMNnZ10.net
本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物
語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多
くの和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる
『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に
12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加
したことで、富士山の情報は多くの人に記録され、広く知られ
るようになった。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習
合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山
は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「
修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲
得するために修行する山へと変化していった。当時一般的であ
った神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(
又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部
に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引
率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口
の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後
半に開かれたとされている。このころには参詣の道者のための
宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた
。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる
日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し
経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体
や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から
始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富
士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より
多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合
わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続的関係を
持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、
祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参

216:底名無し沼さん
18/01/10 10:37:28.54 He8C3ID40.net
噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集

217:底名無し沼さん
18/01/10 10:38:29.02 drxMNnZ10.net
拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てら
れ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者
の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ
、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年
平均1万~2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うように
なった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17~19世紀半ば)には、文学、絵画、
工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、
三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに


218:文化的衝撃を与 えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期 的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに 、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一 つとされてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からイ ンスピレーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のア イコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一 有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代 国家としての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日 本を象徴する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上1 9世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西 欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道 禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀 釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、 1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影響もあり 富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道 ・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南 麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前 後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登 山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北



219:底名無し沼さん
18/01/10 10:44:42.36 He8C3ID40.net
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設

220:底名無し沼さん
18/01/10 10:45:13.89 He8C3ID40.net
とされている。このころには参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が
登るための設備が整い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年
にわたる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的
な発展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このような中で18
世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷
川角行から始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するように
なった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・
継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や
宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的
に整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者の言
動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ、ここにおいて富士山と
周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万~2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うようにな
った。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、とりわけ江戸時代(1
7~19世紀半ば)には、文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわた
って取り上げられ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に代表される浮世絵の
数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた。19世紀後半には「ジャポニスム
」という芸術上の画期的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるととも
に、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つとされてきたの
である。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレーションを得て記述した紀行
文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日

221:底名無し沼さん
18/01/10 10:45:40.97 drxMNnZ10.net
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専
用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始ま
った。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により
、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧
れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹
までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが、197
0年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(
標高2300~2400m)を起点とした登山が主流になった

222:底名無し沼さん
18/01/10 10:52:15.48 He8C3ID40.net
本一有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。廃仏
毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代
化・西欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を
打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神
道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影

223:底名無し沼さん
18/01/10 10:52:46.03 drxMNnZ10.net
。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万~30万
人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万~43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山へ
の信仰の核心が受け継がれており、加え


224:て、現代的な富士山信 仰の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との 関わりが明らかになったことが、環境保護活動の活性化につな がった例などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財 としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山 麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は 、1936年に自然公園法により国立公園の一部として指定さ れ、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦 後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道以 下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、 特別名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大し た。山梨県は1978年(のち、1999年及び2006年に 改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理 計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神 社や御師住宅の近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたと ころだが、それらを含めた富士山に関わる記念工作物・建造物 群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897年~1 929年)、(国宝保存法(1929年~1950年))、史 蹟名勝天然紀念物保存法(1919年~1950年)、文化財 保護法(1950年~現在)により、名勝、特別天然記念物又 は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、文化財ご とに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよ く表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が払われてい る。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括的保存管 理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管理が行 われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式に よるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代) 説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士 山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光



225:底名無し沼さん
18/01/10 10:57:49.86 He8C3ID40.net
況の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、
富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、196
4年に中腹までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが
、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、
中腹(標高2300~2400m)を起点とした登山が主流にな
った。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万~30
万人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万~43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への
信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わり
が明らかになったことが、環境保護活動の活性化につながった例
などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財としては、
1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地
域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に
自然公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の
対象となっている。さらに、第二次世界大戦後の1952年には
、新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び
一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定さ
れ、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(
のち、1999年及び2006年に改定)、静岡県は2006年
に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存と活
用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修理や
保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺
保存法(1897年~1929年)、(国宝保存法(1929年
~1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年~1
950年)、文化財保護法(1950年~現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定
され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの
価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が
払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括
的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管

226:底名無し沼さん
18/01/10 10:58:26.05 He8C3ID40.net
響もあり富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道・自動車道
の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南麓へは1889年に東海道線が
開通し、北麓へは1900年前後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東
京からの登山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北口本宮冨
士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専用道路が開削され、1937
年には大型バスによる輸送も始まった。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況
の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧れを主
な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹までの自動車道として、北
麓の富士山スバルラインが、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、こ
れ以降、中腹(標高2300~2400m)を起点とした登山が主流になった。こ
の結果富士山への登山者は急増し、年平均20万~30万人に達するに至った(2
007年からはさらに増加し年間35万~43万人)。これらの登山者の行動様式
の中には富士山への信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰
の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わりが明らかになっ
たことが、環境保護活動の活性化につながった例などがある。最近の保全の歴史2
0富士山体は文化財としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山
麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に自然
公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の対象となっている。さ
らに、第二次世界大戦後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道
以下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)
指定され、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(のち、19
99年及び2006年に改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存
管理計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の
近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に

227:底名無し沼さん
18/01/10 10:58:53.27 drxMNnZ10.net
寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入
水する往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁
起絵絵巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を
越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢
物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の
主人が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち
小屏風15世紀十二月風俗図の一場面。


228:鎌倉初期に行われた富 士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼 羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風 景、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵 野図屏風17世紀武蔵野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の 一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山梨県立博物館曽我物 語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に 果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室 町時代水墨画によるもの指定所在作品名形式時代(年代)説明 東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸15世紀現存最古の水 墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされる 。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、 建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。 東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世紀世界的に著名な 日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典型作 。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中 心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作 品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京都相国寺 の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手に日輪 を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山 指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清 東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名 な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する 。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派 の祖、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静 岡県立美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子とし



229:底名無し沼さん
18/01/10 11:04:29.93 He8C3ID40.net
理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様
式によるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代
)説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士
山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光寺
外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水す
る往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵

230:底名無し沼さん
18/01/10 11:05:08.20 He8C3ID40.net
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897
年~1929年)、(国宝保存法(1929年~1950年))、史蹟名勝天然紀
念物保存法(1919年~1950年)、文化財保護法(1950年~現在)によ
り、名勝、特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、
文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよく表れる時
代の状態が保たれるように細心の注意が払われている。、また、周辺に位置する個
々の文化財は、「包括的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存
・管理が行われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式によるもの
(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代)説明東京国立博物館聖徳太子
絵伝屏風1069現在最古の富士山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。
神奈川清浄光寺外一遍聖絵絵巻1299一遍が全国遍歴の途中、富士川に入水する
往生者を見送る背後に富士山。兵庫・真光寺遊行上人縁起絵絵巻1323他阿上人
が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河口に進む背後に富士山。大阪・久保惣
記念美術館伊勢物語絵巻絵巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人
が富士山麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀十二月風
俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題材とする。富士山本宮浅間
大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊山である富士山に参拝する行者達の登山風景
、山頂に三尊あり。狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵
野の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山がそびえる。山
梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源頼朝が主催した富士の巻狩最中に
果された曽我兄弟による仇討ちを題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画による
もの指定所在作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆掛軸
15世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で、鎌倉画派の祖とされ
る。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸1490仲安真康の弟子、建長寺の書記を勤

231:底名無し沼さん
18/01/10 11:05:35.40 drxMNnZ10.net
て京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良
・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に
著名な代表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画
派池大雅東京芸術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図(
南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を信仰登山し、
三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤
美術館松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人
者。俳人としても高名で、俳画を大成した名手。文人画派野呂
介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀
州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まっ
た富士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図
屏風1835江戸文人画の大家。諸国諸山の風景を写実的に描
いた写


232:生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・白鶴美術館富士三 保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境 を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田 県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。日本で最初に西洋画 を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折の作。洋風画派司 馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図1804平賀源内らと 蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第 一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図 (18世紀)長崎に渡来した清人画家より写生的花鳥画を学び 、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分・ 自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍 歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎 山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な浮世 絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響し た。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景( 19世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十 三次など風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい 。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕 末の浮世絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂 之図など多くの作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家



233:底名無し沼さん
18/01/10 11:10:40.56 He8C3ID40.net
巻1323他阿上人が全国遍歴の途中、甲斐の御坂峠を越えて河
口に進む背後に富士山。大阪・久保惣記念美術館伊勢物語絵巻絵
巻14世紀伊勢物語現存最古の絵巻。第九段物語の主人が富士山
麓を進む場面。東京国立博物館月次風俗図のうち小屏風15世紀
十二月風俗図の一場面。鎌倉初期に行われた富士山麓の巻狩を題
材とする。富士山本宮浅間大社富士参詣曼荼羅図掛軸16世紀霊
山である富士山に参拝する行者達の登山風景、山頂に三尊あり。
狩野派の祖元信筆。東京国立博物館武蔵野図屏風17世紀武蔵野
の状景を装飾的に描いた名所図屏風の一。ススキ野の奥に富士山
がそびえる。山梨県立博物館曽我物語図屏風17世紀鎌倉将軍源
頼朝が主催した富士の巻狩最中に果された曽我兄弟による仇討ち
を題材。富士山の美術(2)室町時代水墨画によるもの指定所在
作品名形式時代(年代)説明東京・根津美術館富岳図仲安真康筆
掛軸15世紀現存最古の水墨による富士山図。鎌倉建長寺の僧で
、鎌倉画派の祖とされる。東京国立博物館富岳図祥啓筆掛軸14
90仲安真康の弟子、建長寺の書記を勤めた禅僧万里集九や雪舟
とも交友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸15世
紀世界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富
士山の一典型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸15
30東国を中心に活躍した水墨画家。瀟湘八景にあやかって連作
に挑んだ作品。個人(?)富士三保松原図是庵筆掛軸16世紀京
都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手
に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富
士山指定流派著名な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁
清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉(17世紀)世界的にも著名
な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造型化する。
狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派の祖
、第一人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静岡県立
美術館富士三保松原図屏風(17世紀)山楽の養子として京狩野
派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾形光琳奈良・大和文華
館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に著名な代表的
画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画派池大雅東京芸

234:底名無し沼さん
18/01/10 11:11:09.41 He8C3ID40.net
めた禅僧万里集九や雪舟とも交友があった。東京永青文庫富士清見寺図雪舟集掛軸
15世紀世界的に著名な日本を代表する水墨画家の作。水墨画による富士山の一典
型作。静岡県立美術館富士八景図式部輝忠筆掛軸1530東国を中心に活躍した水
墨画家。瀟湘八景にあやかって連作に挑んだ作品。個人(?)富士三保松原図是庵
筆掛軸16世紀京都相国寺の僧で、画をよくした。下辺に三保松原、富士山の左手
に日輪を描く。22富士山の美術(3)江戸時代諸派の作家と富士山指定流派著名
な作家名所在代表作(年代)説明陶芸野々村仁清東京・鼻山美術館銹絵富士山香炉
(17世紀)世界的にも著名な京焼の第一人者。富士山の朝昼晩の三つの景色を造
型化する。狩野派狩野探幽静岡県立美術館富士山図1670江戸狩野派の祖、第一
人者。富士山連作の緒を開いた。狩野派狩野山雪静岡県立美術館富士三保松原図屏
風(17世紀)山楽の養子として京狩野派を継ぐ。装飾性と抒情性に富む。琳派尾
形光琳奈良・大和文華館富岳図(扇面貼交手箱内)(18世紀)世界的に著名な代
表的画家。工芸デザイナーとしても卓越する。文人画派池大雅東京芸術大学富士十
二景図(18世紀)日本文人図(南画)の大成者、第一人者。富士・立山・白山を
信仰登山し、三岳道者と自称。その体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤美術館
松林富士図(18世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人者。俳人としても高名で、
俳画を大成した名手。文人画派野呂介石和歌山・田辺市立美術館(寄託)紅玉芙蓉
峰図1821紀州藩の役人で、大雅にも師事した。早春の明け方の朱に染まった富
士、赤富士の魁。文人画派谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835江戸文人画
の大家。諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応挙兵庫・
白鶴美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性とを融合し、独自の画境を
開いた、いかにも応挙らしい作品。洋風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図
1777秋田藩士。日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の
折の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図1804平賀源内らと

235:底名無し沼さん
18/01/10 11:11:37.81 drxMNnZ10.net
と富士山文化勲章指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代
)説明油画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図
1878明治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作
品。明治初期の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の
富士1881父芳柳と共に早く油彩技法に目覚めた開拓者の一
人。明治初期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料センター富
士(河口湖)1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者
の一人。写生の確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館

236:底名無し沼さん
18/01/10 11:17:57.05 He8C3ID40.net
蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋風写生画の第一人者となる。南蘋
派宋紫石東京国立博物館日金山富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家よ
り写生的花鳥画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴大分
・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国を遍歴、布教した。禅
画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北斎山梨県立博物館版画富岳三十六景18
31世界的に著名な浮世絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影

237:底名無し沼さん
18/01/10 11:18:37.19 drxMNnZ10.net
朝陽1945ルノアールに学び、日本洋画に存在感ある独特の
装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作。〃田崎広助
長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に
新しい一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻
の森美術館赤富士1967主として第二次大戦以後洋画壇をリ
ードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠画(日本画)富
岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最
後の文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神
聖性をダイナミックに表現した。〃横山大観東京国立近代美術
館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉天心と共に日本画
壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士
山が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風
1919横山大観とともに明治日本画壇を背負った作家が伝統
的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東京・大田区立龍子記
念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁
三の丸尚蔵館富岳茶園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統
的日本画に透明感のある新しい表現技法を示す。〃徳岡神泉京
都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本画
壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立す
る富士。24〃横山操東京・五島美術館朱富士1966第二次
大戦後の日本画壇をリードした新星。多くの富士を描いたが、
赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士19
82第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた
。郷土山形や大自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代
美術館面構葛飾北斎数年前に没したが、最も現代日本画界をリ
ードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリーズの
一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチ
ュアながら当時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念
に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨・岡田紅陽写真美術館忍野赤
富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあらゆる表情
を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六

238:底名無し沼さん
18/01/10 11:18:50.69 He8C3ID40.net
術大学富士十二景図(18世紀)日本文人図(南画)の大成者、
第一人者。富士・立山・白山を信仰登山し、三岳道者と自称。そ
の体験を描く。文人画派与謝蕪村富山佐藤美術館松林富士図(1
8世紀)大雅と並ぶ日本文人画の第一人者。俳人としても高名で
、俳画を大成した名手。文人画派野呂介石和歌山・田辺市立美術
館(寄託)紅玉芙蓉峰図1821紀州藩の役人で、大雅にも師事
した。早春の明け方の朱に染まった富士、赤富士の魁。文人画派
谷文晁静岡県立美術館富士山図屏風1835江戸文人画の大家。
諸国諸山の風景を写実的に描いた写生派の草分け。円山派円山応
挙兵庫・白鶴美術館富士三保松原図屏風1784装飾性と写実性
とを融合し、独自の画境を開いた、いかにも応挙らしい作品。洋
風画派小田野直武秋田県立近代美術館富岳図1777秋田藩士。
日本で最初に西洋画を学んだ、秋田蘭画の創始者。江戸出府の折
の作。洋風画派司馬江漢静岡県立美術館薩?山富士遠望図180
4平賀源内らと蘭学を研鑚、後に小田野直武の影響を受けて、洋
風写生画の第一人者となる。南蘋派宋紫石東京国立博物館日金山
富岳展望図(18世紀)長崎に渡来した清人画家より写生的花鳥
画を学び、また平賀源内らを通じて蘭学に通じた。禅画白隠慧鶴
大分・自性寺富士見大名行列図日本臨済禅を確立した禅僧。全国
を遍歴、布教した。禅画の大成者としても著名。浮世絵派葛飾北
斎山梨県立博物館版画富岳三十六景1831世界的に著名な浮世
絵師。富岳三十六景に見る象徴主義は欧米文芸に大きく影響した
。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19
世紀)北斎とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次な
ど風景画に新境地を開き、印象派に与えた影響は大きい。浮世絵
派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図1849幕末の浮世絵
師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲
章指定ジャンル著名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画
)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の原望岳図1878明治維新以
降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初期の貴重作
。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共

239:底名無し沼さん
18/01/10 11:24:02.10 He8C3ID40.net
響した。23浮世絵派歌川広重山梨県立博物館版画不二三十六景(19世紀)北斎
とともに世界的に著名な浮世絵師。東海道五十三次など風景画に新境地を開き、印
象派に与えた影響は大きい。浮世絵派歌川貞秀神戸市立博物館三国第一山之図18
49幕末の浮世絵師。自ら富士山に登り、その感動を本図や富士絶頂之図など多く
の作品を残した。富士山の美術(4)近現代作家と富士山文化勲章指定ジャンル著
名な作家名所在代表作(年代)説明油画(洋画)高橋由一金刀比羅宮宝物語館牧の
原望岳図1878明治維新以降、最初に油彩技法を習得した先覚者の作品。明治初
期の貴重作。〃五姓田義松東京都現代美術館清水の富士1881父芳柳と共に早く
油彩技法に目覚めた開拓者の一人。明治初期の貴重作。〃和田英作鹿児島歴史資料
センター富士(河口湖)1926日本近代洋画を技法的に確立した先駆者の一人。
写生の確かさを見よ。〃梅原龍三郎岡山・大原美術館朝陽1945ルノアールに学
び、日本洋画に存在感ある独特の装飾技法を樹立した。その金字塔とも言うべき作
。〃田崎広助長野・田崎美術館箱根朱富士1975日本独特の平面的装飾に新しい
一頁を開いた田崎ならではの自然景観。〃林武箱根彫刻の森美術館赤富士1967
主として第二次大戦以後洋画壇をリードした。豪快な技法で富士連作に挑んだ。膠
画(日本画)富岡鉄斎兵庫・清荒神清澄寺富士山及び山頂全図屏風1898最後の
文人画家とも言われる思想家。自ら富士山に登り、その神聖性をダイナミックに表
現した。〃横山大観東京国立近代美術館或る日の太平洋1952フェノロサ、岡倉
天心と共に日本画壇を復興した巨匠。日本の象徴と意識して多くのテーマに富士山
が描かれた。〃下村観山秋田県立近代美術館三保富士図屏風1919横山大観とと
もに明治日本画壇を背負った作家が伝統的テーマに新風を吹き込む。〃川端龍子東
京・大田区立龍子記念館怒る富士1944強烈な個性で大作に挑んだ激情の画家。
激しい気象現象を示す富士に挑戦した作品。〃松岡映丘宮内庁三の丸尚蔵館富岳茶
園1928昭和天皇即位記念の作品。伝統的日本画に透明感のある新しい表現技法

240:底名無し沼さん
18/01/10 11:24:39.5


241:7 ID:drxMNnZ10.net



242:底名無し沼さん
18/01/10 11:30:14.61 He8C3ID40.net
・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真
家。富士山のあらゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英
雄山梨県立美術館三十六富士1926本県出身の日本を代表する
木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山の文学歴史
書「六りっ国史こくし」(奈良-平安)菅野すがのの真ま道みち
ら「続日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみち
のり「本朝ほんちょう世紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶
桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未詳「吾妻鏡あづまかが

243:底名無し沼さん
18/01/10 11:30:46.86 He8C3ID40.net
を示す。〃徳岡神泉京都国立近代美術館富士1965福田平八郎と共に昭和の日本
画壇に独自の新風を吹き込んだ。茫漠たるモノトーンの中に立する富士。24〃横
山操東京・五島美術館朱富士1966第二次大戦後の日本画壇をリードした新星。
多くの富士を描いたが、赤富士と電光の対比の妙。〃小松均京都市立美術館白富士
1982第二次大戦後の日本画壇に詩的な大画面で新境地を開いた。郷土山形や大
自然に魅せられて。〃片岡球子神奈川県立近代美術館面構葛飾北斎数年前に没した
が、最も現代日本画界をリードした女流画家。本図は女史のライフワーク面構シリ
ーズの一つ。写真鹿島清兵衛宮内庁三の丸尚蔵館富士1894アマチュアながら当
時の技術を駆使した大版写真を御成婚25年記念に皇室に託した。〃岡田紅陽山梨
・岡田紅陽写真美術館忍野赤富士1894文字通り富士山の写真家。富士山のあら
ゆる表情を写真に収め、広めた。木版画萩原英雄山梨県立美術館三十六富士192
6本県出身の日本を代表する木版画家。新しい視点からの富士山シリーズ。富士山
の文学歴史書「六りっ国史こくし」(奈良-平安)菅野すがのの真ま道みちら「続
日本しょくにほん紀ぎ」(平安)藤原通憲ふじわらのみちのり「本朝ほんちょう世
紀せいき」(平安)伝皇こう円えん「扶桑ふそう略記りゃっき」(平安)※作者未
詳「吾妻鏡あづまかがみ」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ね
んぴょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち国のくに風土
記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊異記りょういき」(平安)※作
者未詳「今昔こんじゃく物語集ものがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおと
ものやかもち「万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之きの
つらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらかみ天皇てんのう「後
撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集
しんこきんわかしゅう」(鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院し
てんのういん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼくわかし

244:底名無し沼さん
18/01/10 11:31:18.19 drxMNnZ10.net
)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とう
ゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日
記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平安)「更級
さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記いざよい
にっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう
(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡
部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸-昭和)「
大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安
)紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わ
かむらさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太
子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平
安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語もの
がたり」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉
)※作者不詳「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未
詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い
「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室
町)「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽
草紙「富士の人穴ひとあな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作
者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返舎一九じっぺんし
ゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざく
りげ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸-明治)「滑稽富士詣
こっけいふじもうで」26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門
えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田たけだ出雲いずも・三
好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)
「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや
小波さざなみ(明治-大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山
」)海野うんの厚あつし(明治-昭和)「背せいくらべ」随想
・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しばの
記」田山たやま花袋かたい(明治-昭和)「富士を望む」小島
烏水こじまうすい(明治-昭和)「すたれ行く富士の古道」、
「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治-昭和)「日

245:底名無し沼さん
18/01/10 11:36:48.09 He8C3ID40.net
み」(鎌倉)斎藤月岑さいとうげっしん「武江ぶこう年表ねんぴ
ょう」(江戸)風土記元明天皇げんめいてんのう詔「常陸ひたち
国のくに風土記」(奈良)談話集景戒きょうかい「日本にほん霊
異記りょういき」(平安)※作者未詳「今昔こんじゃく物語集も
のがたりしゅう」(平安)和歌集大伴家持おおとものやかもち「
万葉集まんようしゅう」(奈良)紀淑望きのよしもち・紀貫之き
のつらゆき「古今和歌集こきんわかしゅう」(平安)村上むらか
み天皇てんのう「後撰和ごせんわ歌集かしゅう」(平安)後鳥羽
ごとば上皇じょうこう「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」(
鎌倉)後鳥羽院ごとばいん「最勝さいしょう四天王院してんのう
いん障子しょうじ和歌わか」(鎌倉)藤原長清「夫木和歌抄ふぼ
くわかしょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺
和しんしゅういわ歌集かしゅう」(室町)25記録・紀行文都良
香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさんき」※作者不詳(
鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行とう
かんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじ
きこう」堯孝ぎょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎ
ょうえ(室町)「北国紀行ほっこくきこう」※作者不詳(室町)
「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(室町)「廻国
かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行
きこう」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小
堀遠州こぼりえんしゅう(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこ
う」浅井了意あさいりょうい(江戸)「東海道名所記とうかいど
うめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国道の記
」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹か
がわかげき(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江
戸)「東遊とうゆう雑記ざっき」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「
東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ(平
安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条に
じょう(鎌倉)「とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)
「岡部日記おかべにっき」永井ながい荷風かふう(江戸-昭和)

246:底名無し沼さん
18/01/10 11:37:18.40 He8C3ID40.net
ょう」(鎌倉)藤原ふじわらの為ため明あきら「新拾遺和しんしゅういわ歌集かし
ゅう」(室町)25記録・紀行文都良香みやこのよしか(平安)「富士山記ふじさ
んき」※作者不詳(鎌倉)「海道記かいどうき」※作者不詳(鎌倉)「東関紀行と
うかんきこう」飛鳥井あすかい雅世まさよ(室町)「富士紀行ふじきこう」堯孝ぎ
ょうこう(室町)「覧らん富士記ふじき」堯恵ぎょうえ(室町)「北国紀行ほっこ
くきこう」※作者不詳(室町)「富士御覧日記ふじごらんにっき」道興どうこう(
室町)「廻国かいこく雑記ざっき」宗牧そうぼく(室町)「東国とうごく紀行きこ
う」紹巴じょうは(室町)「富士見ふじみ道記みちのき」小堀遠州こぼりえんしゅ
う(江戸)「東海道紀行とうかいどうきこう」浅井了意あさいりょうい(江戸)「
東海道名所記とうかいどうめいしょき」岩佐いわさ又兵衛またべえ(江戸)「迴国
道の記」松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「野ざらし紀行」香川景樹かがわかげき
(江戸)「中空の日記」古川古松こしょう軒けん(江戸)「東遊とうゆう雑記ざっ
き」藤とう惺せい梅ばい(江戸)「東海紀行」日記文学菅原孝標女すがわらのたか
すえのむすめ(平安)「更級さらしな日記」阿仏尼あぶつに(鎌倉)「十六夜日記
いざよいにっき」「うたたね」後ご深ふか草院くさいんの二条にじょう(鎌倉)「
とはずがたり」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「岡部日記おかべにっき」永井なが
い荷風かふう(江戸-昭和)「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり
物語ものがたり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)紫式部
むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむらさき)」(平安)藤原
兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※
作者不詳(平安)「平中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり
」(鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳「源平げんぺ
い盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょうきゅうき」(鎌倉)浅井あさ
い了りょう意い「東海道名所記」(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)

247:底名無し沼さん
18/01/10 11:37:46.79 drxMNnZ10.net
和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治-昭和)「富嶽
百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明治-大
正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治-昭和)「
少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)「
富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治-昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合
直文おちあいなおぶみ(江戸-明治)「たかねの雪ゆき」夏目
漱石なつめそうせき(明治-大正)「三四郎さんしろう」「虞

248:底名無し沼さん
18/01/10 11:43:00.46 He8C3ID40.net
「大窪だより」伝説・物語※作者不詳「竹取たけとり物語ものが
たり」(平安)※作者不詳「伊勢いせ物語ものがたり」(平安)
紫式部むらさきしきぶ「源氏げんじ物語ものがたり(若紫わかむ
らさき)」(平安)藤原兼輔ふじわらのかねすけ「聖徳太子伝暦
しょうとくたいしでんりゃく」(平安)※作者不詳(平安)「平
中へいちゅう物語ものがたり」「平家へいけ物語ものがたり」(
鎌倉)※未詳「曽我そがの物語ものがたり」(鎌倉)※作者不詳
「源平げんぺい盛衰記せいすいき」(鎌倉)※未詳「承久記じょ
うきゅうき」(鎌倉)浅井あさい了りょう意い「東海道名所記」
(江戸)能(謡曲)伝世阿弥ぜあみ原作(室町)「富士山ふじさ
ん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひと
あな草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ち
くさい」滑稽本十返舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道
中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくりげ」仮名垣魯文かなかきろ
ぶん(江戸-明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」26浄瑠
璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記
」竹田たけだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳
なみきせんりゅう(江戸)「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうし
んぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治-大正)「富士山ふ
じさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治-昭和)「
背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折
おりたく柴しばの記」田山たやま花袋かたい(明治-昭和)「富
士を望む」小島烏水こじまうすい(明治-昭和)「すたれ行く富
士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風かふう(明治-
昭和)「日和ひより下駄げた」太宰だざい治おさむ(明治-昭和
)「富嶽百景ふがくひゃっけい」大町桂月おおまちけいげつ(明
治-大正)「富士の大観」中村星湖なかむらせいこ(明治-昭和
)「少年行しょうねんこう」北村きたむら透谷とうこく(明治)
「富嶽ふがくの詩し神しんを思おもふ」深田ふかだ久弥きゅうや
(明治-昭和)「日本にほん百名山ひゃくめいざん」小説落合直
文おちあいなおぶみ(江戸-明治)「たかねの雪ゆき」夏目漱石
なつめそうせき(明治-大正)「三四郎さんしろう」「虞美人草

249:底名無し沼さん
18/01/10 11:43:31.73 He8C3ID40.net
「富士山ふじさん」※未詳(室町)「羽衣はごろも」御伽草紙「富士の人穴ひとあ
な草紙ぞうし」(江戸)仮名草紙※作者不詳(江戸)「竹斎ちくさい」滑稽本十返
舎一九じっぺんしゃいっく(江戸)「東海道中膝栗毛とうかいどうちゅうひざくり
げ」仮名垣魯文かなかきろぶん(江戸-明治)「滑稽富士詣こっけいふじもうで」
26浄瑠璃近松門ちかまつもん左ざ衛門えもん(江戸)「聖徳太子絵伝記」竹田た
けだ出雲いずも・三好松洛みよししょうらく・並木千柳なみきせんりゅう(江戸)

250:底名無し沼さん
18/01/10 11:43:51.07 drxMNnZ10.net
美人草ぐびじんそう」泉鏡花(明治-昭和)「婦おんな系図け
いず」「春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」
徳富とくとみ蘆花ろか(明治-昭和)「冨士ふじ」「自然しぜ
んと人生じんせい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治-昭
和)「新帰朝者日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治-昭和
)「富士山頂ふじさんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治-
平成)「岳麓点描がくろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじ
ゅん(大正-昭和)「富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大
正-昭和)「富士日記ふじにっき」新田にった次郎じろう(大
正-昭和)「強力伝ごうりきでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙
蓉ふようの人ひと」「富士ふじに死しす」「着氷ちゃくひょう
」「冬山ふゆやまの掟おきて」「富士ふじ山頂さんちょう」川
端康成かわばたやすなり(明治-昭和)「東海道とうかいどう
」白井喬二しらいきょうじ(明治-昭和)「富士ふじに立たつ
影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明治-昭和)「神州纐纈城
しんしゅうこうけつじょう」松本まつもと清せい張ちょう(明
治-昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せりざわこう治じ良ろう
(明治-平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命
うんめい」幸田文こうだあや(明治-平成)「崩くずれ」27
詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥-奈良)「柿本
集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集まんようしゅ
う」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「
清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「業平
集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集」
藤原ふじわらの定家さだいえ(平安-鎌倉)「内裏名所百首」
「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね
(平安-鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊
とし成なり(平安-鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)
右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守
為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安-鎌倉)「拾玉集」西行さ
いぎょう(鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実

251:底名無し沼さん
18/01/10 11:49:45.17 He8C3ID40.net
ぐびじんそう」泉鏡花(明治-昭和)「婦おんな系図けいず」「
春しゅん昼ちゅう」「春しゅん昼ちゅう後刻ごこく」徳富とくと
み蘆花ろか(明治-昭和)「冨士ふじ」「自然しぜんと人生じん
せい」(随筆)永井ながい荷風かふう(明治-昭和)「新帰朝者
日記」橋本英吉はしもとえいきち(明治-昭和)「富士山頂ふじ
さんちょう」井伏鱒二いぶせますじ(明治-平成)「岳麓点描が
くろくてんびょう」武田泰淳たけだたいじゅん(大正-昭和)「
富士ふじ」武田百合子たけだゆりこ(大正-昭和)「富士日記ふ
じにっき」新田にった次郎じろう(大正-昭和)「強力伝ごうり
きでん」「怒いかる富ふ士じ」「芙蓉ふようの人ひと」「富士ふ
じに死しす」「着氷ちゃくひょう」「冬山ふゆやまの掟おきて」
「富士ふじ山頂さんちょう」川


252:端康成かわばたやすなり(明治- 昭和)「東海道とうかいどう」白井喬二しらいきょうじ(明治- 昭和)「富士ふじに立たつ影かげ」国枝くにえだ史郎しろう(明 治-昭和)「神州纐纈城しんしゅうこうけつじょう」松本まつも と清せい張ちょう(明治-昭和)「波なみの塔とう」芹沢光せり ざわこう治じ良ろう(明治-平成)「我が入道にゅうどう」「人 間にんげんの運命うんめい」幸田文こうだあや(明治-平成)「 崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもとの人麻呂ひとまろ(飛鳥- 奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「万葉集ま んようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫 麻呂たかはしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平 安)「清きよ正ただ集」在原業平ありわらのなりひら(平安)「 業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安)「公きん任とう集 」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安-鎌倉)「内裏名所百首」 「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね( 平安-鎌倉)「明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし 成なり(平安-鎌倉)「(藤原兼ふじわらのかね実ざね)右う大 臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹後守為忠朝臣 家百首」慈じ円えん(平安-鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう( 鎌倉)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとの さねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ



253:底名無し沼さん
18/01/10 11:50:18.06 drxMNnZ10.net
朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金槐和歌集きんかいわかしゅ
う」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条
しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(
室町)「梅香無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水
無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃山-江戸)「水無瀬殿富士百
首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ
(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙
辰へいしん紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝
かとうえ直なお(江戸)「うけらが花」賀茂真淵かものまぶち
(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが(江戸)「
石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(
江戸)「詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴
後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ(明治-大正)土井ど
い晩翠ばんすい(明治-昭和)「大敵迫る」斉藤さいとう茂吉
もきち(明治-昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆう
ぐれ(明治-昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい
(明治-昭和)「海の声」北原きたはら白秋はくしゅう(明治
-昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつはる(明治
-昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺい(明治
-昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治-平成
)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばしょう
(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こばや
し一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(
明治-昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治-昭和)「山りょ集
」富安風生とみやすふうせい(明治-昭和)水原みずはら秋桜
子しゅうおうし(明治-昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう
(明治-昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治
-昭和)「旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治-昭和
)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(明治-平成)「寒雷」
「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)
評価基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、

254:底名無し沼さん
18/01/10 11:50:37.72 He8C3ID40.net
「仮名かな手本でほん忠臣蔵ちゅうしんぐら」童謡巌谷いわや小波さざなみ(明治
-大正)「富士山ふじさん」(「ふじの山」)海野うんの厚あつし(明治-昭和)
「背せいくらべ」随想・随筆新井あらい白石はくせき(江戸)「折おりたく柴しば
の記」田山たやま花袋かたい(明治-昭和)「富士を望む」小島烏水こじまうすい
(明治-昭和)「すたれ行く富士の古道」、「不二山ふじさん」永井ながい荷風か

255:底名無し沼さん
18/01/10 11:55:33.88 He8C3ID40.net
尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいんの四条しじょう五百首ご
ひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香無尽蔵
」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじな
り(安土桃山-江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはま
おみ(江戸)田安宗たやすむね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草
」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん紀行」石川いしか

256:底名無し沼さん
18/01/10 11:56:01.31 He8C3ID40.net
わこう治じ良ろう(明治-平成)「我が入道にゅうどう」「人間にんげんの運命う
んめい」幸田文こうだあや(明治-平成)「崩くずれ」27詩歌伝柿本かきのもと
の人麻呂ひとまろ(飛鳥-奈良)「柿本集」山部赤人やまべのあかひと(奈良)「
万葉集まんようしゅう」高橋たかはしの虫むし麻呂まろ(奈良)「高橋虫麻呂たか
はしのむしまろ歌集」藤原ふじわらの清きよ正ただ(平安)「清きよ正ただ集」在
原業平ありわらのなりひら(平安)「業平集」藤原ふじわらの公きん任とう(平安
)「公きん任とう集」藤原ふじわらの定家さだいえ(平安-鎌倉)「内裏名所百首
」「名号みょうごう七字十題和歌」飛鳥あすか井い雅まさ経つね(平安-鎌倉)「
明日香あすか井い和歌集」藤原ふじわらの俊とし成なり(平安-鎌倉)「(藤原兼
ふじわらのかね実ざね)右う大臣家だいじんけ百首ひゃくしゅ」「五社百首」「丹
後守為忠朝臣家百首」慈じ円えん(平安-鎌倉)「拾玉集」西行さいぎょう(鎌倉
)「新古今和歌集しんこきんわかしゅう」源実朝みなもとのさねとも(鎌倉)「金
槐和歌集きんかいわかしゅう」阿仏あぶつ尼に(鎌倉)「安嘉門院あんかもんいん
の四条しじょう五百首ごひゃくしゅ」万里ばんり集九しゅうきゅう(室町)「梅香
無尽蔵」堯ぎょう恵え(室町)「下葉和歌集」水無瀬みなせ氏成うじなり(安土桃
山-江戸)「水無瀬殿富士百首」清水浜臣しみずはまおみ(江戸)田安宗たやすむ
ね武たけ(江戸)「悠然院様御詠草」林羅山はやしらざん(江戸)「丙辰へいしん
紀行」石川いしかわ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣もとおりのり長なが
(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すずのや集」契沖けいちゅう(江戸)「
詠富士山百首和歌」村田むらた春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しま
ぎあかひこ(明治-大正)土井どい晩翠ばんすい(明治-昭和)「大敵迫る」斉藤
さいとう茂吉もきち(明治-昭和)「赤光」「箱根路」前田まえだ夕暮ゆうぐれ(
明治-昭和)「富士を歌ふ」若山わかやま牧水ぼくすい(明治-昭和)「海の声」

257:底名無し沼さん
18/01/10 11:56:17.67 drxMNnZ10.net
世界遺産条約第1条及び『


258:世界遺産条約履行のための作業指針 』(以下、『作業指針』という。)第45項に規定にする「記 念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2)評価 基準への適合性証明以下に示す理由に基づき、「富士山」には 、世界遺産一覧表への記載のための評価基準のうち(ⅲ)、( ⅳ)、(ⅵ)が適用できる。評価基準(ⅲ)現存するか消滅し ているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承 する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。 評価基準(ⅲ)の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自 然環境を背景とし、山頂への参詣などの特徴を持った山に対す る宗教的な儀礼・活動が成立し、18~19世紀にかけて大規 模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその 周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、 登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊地・巡礼地と なった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そこでの儀礼 や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心 が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴 する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」である 。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし、 時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統 を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における 山に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂 部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10 世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あ るいは他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富 士山の神(※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動と ともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された) に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参 詣する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山 活動によって生成され神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹 型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行することで治病・除 災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる



259:底名無し沼さん
18/01/10 12:02:16.75 He8C3ID40.net
わ丈山じょうざん(江戸)加藤枝かとうえ直なお(江戸)「うけ
らが花」賀茂真淵かものまぶち(江戸)「賀茂翁家集」本居宣も
とおりのり長なが(江戸)「石いその上稿かみこう」「鈴屋すず
のや集」契沖けいちゅう(江戸)「詠富士山百首和歌」村田むら
た春海はるみ(江戸)琴後ことじり集」島木赤彦しまぎあかひこ
(明治-大正)土井どい晩翠ばんすい(明治-昭和)「大敵迫る
」斉藤さいとう茂吉もきち(明治-昭和)「赤光」「箱根路」前
田まえだ夕暮ゆうぐれ(明治-昭和)「富士を歌ふ」若山わかや
ま牧水ぼくすい(明治-昭和)「海の声」北原きたはら白秋はく
しゅう(明治-昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴みつ
はる(明治-昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺ
い(明治-昭和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治
-平成)「重油富士」「風景詩抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばし
ょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(江戸)小林こば
やし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀
行」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明
治-昭和)飯田いいだ蛇笏だこつ(明治-昭和)「山りょ集」富
安風生とみやすふうせい(明治-昭和)水原みずはら秋桜子しゅ
うおうし(明治-昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう(明治-
昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治-昭和)「
旗」「変身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治-昭和)「富士」加
藤楸邨かとうしゅうそん(明治-平成)「寒雷」「慟哭」「都塵
抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a)評価基準への適合
性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1条
及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針
』という。)第45項に規定にする「記念工作物」、「建造物群
」及び「遺跡」に該当する。2)評価基準への適合性証明以下に
示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧表への記載の
ための評価基準のうち(ⅲ)、(ⅳ)、(ⅵ)が適用できる。評
価基準(ⅲ)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化
的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なく
とも希有な存在)である。評価基準(ⅲ)の適用富士山では神聖

260:底名無し沼さん
18/01/10 12:02:41.91 He8C3ID40.net
北原きたはら白秋はくしゅう(明治-昭和)「雲母集」「不尽抄」金子かねこ光晴
みつはる(明治-昭和)「富士」「五つの湖」草野心平くさのしんぺい(明治-昭
和)「富士山」小野おの十とお三郎ざぶろう(明治-平成)「重油富士」「風景詩
抄」28俳句松尾まつお芭蕉ばしょう(江戸)「奥の細道」与謝蕪村よさぶそん(
江戸)小林こばやし一茶いっさ(江戸)蝶夢ちょうむ(江戸)「宇良うら富士紀行
」正岡まさおか子規しき(明治)高浜虚子たかはまきょし(明治-昭和)飯田いい
だ蛇笏だこつ(明治-昭和)「山りょ集」富安風生とみやすふうせい(明治-昭和
)水原みずはら秋桜子しゅうおうし(明治-昭和)「葛飾」永井ながい荷風かふう
(明治-昭和)「名所方角集」西東さいとう三鬼さんき(明治-昭和)「旗」「変
身」渡辺わたなべ水すい巴は(明治-昭和)「富士」加藤楸邨かとうしゅうそん(
明治-平成)「寒雷」「慟哭」「都塵抄」「雪後の天」293.登録の価値証明a
)評価基準への適合性証明1)条約上の遺産種別「富士山」は、世界遺産条約第1
条及び『世界遺産条約履行のための作業指針』(以下、『作業指針』という。)第



261:S5項に規定にする「記念工作物」、「建造物群」及び「遺跡」に該当する。2) 評価基準への適合性証明以下に示す理由に基づき、「富士山」には、世界遺産一覧 表への記載のための評価基準のうち(ⅲ)、(ⅳ)、(ⅵ)が適用できる。評価基 準(ⅲ)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在 を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。評価基準(ⅲ )の適用富士山では神聖なる気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣 などの特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18~19世紀にか けて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在となった。山体とその周辺の地域 には、体系化された儀礼・活動の場となった神社、登山道、及びその沿道に分布す る関連遺跡群、霊地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そ こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信仰の核心が継承さ



262:底名無し沼さん
18/01/10 12:03:00.35 drxMNnZ10.net
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為
(儀礼・活動)が成立し、18~19世紀にかけて富士山は体
系化された登拝のための宗教施設も含め、大規模な大衆による
宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然への
畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)
や仏教(特に密教)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表
する遥拝及び登拝・登山の様式は今日でも命脈を保ち、特に夏
季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士登山

263:底名無し沼さん
18/01/10 12:08:34.32 He8C3ID40.net
なる気持ちを喚起する自然環境を背景とし、山頂への参詣などの
特徴を持った山に対する宗教的な儀礼・活動が成立し、18~1
9世紀にかけて大規模な大衆による宗教的登山の代表的存在とな
った。山体とその周辺の地域には、体系化された儀礼・活動の場
となった神社、登山道、及びその沿道に分布する関連遺跡群、霊
地・巡礼地となった風穴・湧水地・湖沼などが残されている。そ
こでの儀礼や活動を通じて、人々の生活の中に富士山に対する信
仰の核心が継承されている。また、今日でも富士山は日本を代表
し象徴する最高峰として老若男女を問わず憧れ親しむ「名山」で
ある。したがって、富士山は山頂への参詣という形態を中心とし
、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統
を顕著に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山
に対する固有の文化的伝統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一
帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗な姿、及び10世紀頃
まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あるいは他
界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(
※1)を祀った山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下
の絵図(類似の登山案内図が数多く作成された)に示されたよう
に、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣する「登拝」を
中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成さ
れ神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地
などを巡礼し、修行することで治病・除災などの超自然的力を獲
得し、罪や穢れを消して生まれ変わる(擬死再生)と考える「富
士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成立し、1
8~19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施
設も含め、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっ
ていた。このような自然への畏敬という日本の宗教観の根本を基
盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教)なとど融合した日
本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日で
も命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山
客とともに富士登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分
は各地の浅間神社に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼・活動

264:底名無し沼さん
18/01/10 12:08:59.23 He8C3ID40.net
れている。また、今日でも富士山は日本を代表し象徴する最高峰として老若男女を
問わず憧れ親しむ「名山」である。したがって、富士山は山頂への参詣という形態
を中心とし、時代を超えて今日まで継承された山に対する固有の文化的伝統を顕著
に表わす物証として稀有な存在である。・日本における山に対する固有の文化的伝
統を顕著に表わす物証富士山の山頂部一帯は、山に対する日本の宗教観とその秀麗
な姿、及び10世紀頃まで盛んであった火山活動などに基づき神仏の世界、あるい

265:底名無し沼さん
18/01/10 12:09:14.85 drxMNnZ10.net
の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社
に対する信仰や今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継
がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知られている。
(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習合の影
響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神
に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持
ついくつかの神または仏が信仰されていた。(※2)「禅定」
とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状態
、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、そ
の後、主に修験道において富士山などの霊山に登って修行する
ことも意味するようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」
(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16
世紀ごろ)評価基準(ⅳ)歴史上の重要な段階を物語る建築物
、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕
著な見本である。評価基準(ⅳ)の適用富士山では、富士山信
仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂
に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15~16世紀に
かけて発達し、18~19世紀にかけて完成された。この過程
において、日本における山に対する固有の文化的伝統や富士山
により生み出された芸術活動を背景として、富士山の宗教施設
、そこでの儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教
的な意味を持つ景観として認知され、これが宗教的絵画等で表
現されることにより、多くの人々に富士山が神聖な山であると
の認識がより強固に定着し、日本写真上図拡大部分宗教施設水
垢離場における山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。
したがって、富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士
山の景観認識は近代工業社会以前の段階における山と人間との
精神的関係を表す景観の顕著な見本である。・山と人間との精
神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化し
た12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15~1
6世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆に
も拡大した。この過程で富士山は、矮小な存在である人間が山

266:底名無し沼さん
18/01/10 12:15:34.99 He8C3ID40.net
によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖な山として知
られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神
仏習合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は
一つの神に限定されず、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名
称を持ついくつかの神または仏が信仰されていた。(※2)「禅
定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑想・状
態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、そ
の後、主に修験道において富士山などの霊山に登って修行するこ
とも意味するようになった。写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部
分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅図」(16世紀ご
ろ)評価基準(ⅳ)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本で
ある。評価基準(ⅳ)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中
で神社等の建築群・登山道・宗教施設を経て山頂に参詣する体系
化された宗教的儀礼・活動が15~16世紀にかけて発達し、1
8~19世紀にかけて完成された。この過程において、日本にお
ける山に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された芸
術活動を背景として、富士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動は
富士山の自然環境と一体となって宗教的な意味を持つ景観として
認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより、多くの
人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定着し、日
本写真上図拡大部分宗教施設水垢離場における山と人間の良好な
関係の形成に影響を与えた。したがって、富士山への信仰の形成
過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工業社会以前の段
階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な見本であ
る。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山
では噴火が沈静化した12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開
始され、15~16世紀には「富士山禅定」と呼ばれた登拝様式
が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小な存在で
ある人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれ
た)にある神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「
深山」などと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、砂

267:底名無し沼さん
18/01/10 12:15:59.13 He8C3ID40.net
は他界(死後世界)とされてきた。このため富士山では富士山の神(※1)を祀っ
た山麓の浅間神社における遥拝活動とともに、以下の絵図(類似の登山案内図が数
多く作成された)に示されたように、雲上の神仏の世界へ一定の儀礼に従って参詣
する「登拝」を中心に、富士山体・周辺にある富士山の火山活動によって生成され
神聖な意味を持つとされた風穴・溶岩樹型・湖沼・滝・湧水地などを巡礼し、修行
することで治病・除災などの超自然的力を獲得し、罪や穢れを消して生まれ変わる
(擬死再生)と考える「富士山禅定」(※2)と呼ばれる行為(儀礼・活動)が成
立し、18~19世紀にかけて富士山は体系化された登拝のための宗教施設も含め
、大規模な大衆による宗教的登山を代表する存在となっていた。このような自然へ
の畏敬という日本の宗教観の根本を基盤とし、神仙思想(道教)や仏教(特に密教
)なとど融合した日本独特の山岳信仰を代表する遥拝及び登拝・登山の様式は今日
でも命脈を保ち、特に夏季を中心に訪れる外国人を含む多くの登山客とともに富士
登山の特徴を成している。また、信仰の核心部分は各地の浅間神社に対する信仰や
今日も続く宗教的な儀礼・活動によって受け継がれ、富士山は日本を代表する神聖
な山として知られている。(※1)この神は、1868年の神仏分離令まで神仏習
合の影響を受け仏の化身と考えられていた。また、この神は一つの神に限定されず
、信仰の種類や時代ごとに異なる性格と名称を持ついくつかの神または仏が信仰さ
れていた。(※2)「禅定」とは本来は心を静めて一つの対象に集中する宗教的瞑
想・状態、あるいはその結果仏と一体化することを示す言葉であり、その後、主に
修験道において富士山などの霊山に登って修行することも意味するようになった。
写真「絹本著色冨士曼荼羅図」(部分:16世紀ごろ)30「絹本著色冨士曼荼羅
図」(16世紀ごろ)評価基準(ⅳ)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集
合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。評価基準(
ⅳ)の適用富士山では、富士山信仰の形成の中で神社等の建築群・登山道・宗教施

268:底名無し沼さん
18/01/10 12:16:16.50 drxMNnZ10.net
麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にある
神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」な
どと呼ばれた)の山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯
(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あるい
は他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵画
や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識
が成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さ
らに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼
ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、1
8世紀後半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の
神聖な山としての景観認識が定着した(※4)。この認識は近
代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間
との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富
士山は神仙思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏
教における世界の中心である「須弥山」に見立てられた。また
、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識を立体化し
た「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登
拝ができない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者
には登山口の浅間神社や御師の発行する富士山の信仰上の景観
認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起の良いものと
して富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右
「富士山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(ⅵ)顕著
な普遍的意義を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信
仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連
がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ま
しい)。評価基準(ⅵ)の適用富士山と周辺の特徴的な自然が
醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、日本人の山に対
する信仰の形成の一翼を担い、


269:今日まで継承されている山頂へ の遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地域に顕著で ある山を神聖視する文化と深い関りを有している。写真写真焼 山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、これらの



270:底名無し沼さん
18/01/10 12:21:22.33 He8C3ID40.net
礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれた)の神仏の世界あ
るいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に絵
画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に
、「絹本著色冨士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が
成立した。17世紀以降はこれらの典型的な認識を基に、さらに
多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講」と呼ばれる
富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後
半から19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山と

271:底名無し沼さん
18/01/10 12:21:45.57 He8C3ID40.net
設を経て山頂に参詣する体系化された宗教的儀礼・活動が15~16世紀にかけて
発達し、18~19世紀にかけて完成された。この過程において、日本における山
に対する固有の文化的伝統や富士山により生み出された芸術活動を背景として、富
士山の宗教施設、そこでの儀礼・活動は富士山の自然環境と一体となって宗教的な
意味を持つ景観として認知され、これが宗教的絵画等で表現されることにより、多
くの人々に富士山が神聖な山であるとの認識がより強固に定着し、日本写真上図拡
大部分宗教施設水垢離場における山と人間の良好な関係の形成に影響を与えた。し
たがって、富士山への信仰の形成過程を通じて定着した富士山の景観認識は近代工
業社会以前の段階における山と人間との精神的関係を表す景観の顕著な見本である
。・山と人間との精神的な関係を表す景観の顕著な見本富士山では噴火が沈静化し
た12世紀ごろから山頂への宗教的登山が開始され、15~16世紀には「富士山
禅定」と呼ばれた登拝様式が整い、大衆にも拡大した。この過程で富士山は、矮小
な存在である人間が山麓の草原地帯(「草山」、「カヤ原」などと呼ばれた)にあ
る神社・水垢離場で身を清め、森林地帯(「木山」、「深山」などと呼ばれた)の
山中の宗教施設等を順に経ながら、砂礫地帯(「焼山」、「ハゲ山」などと呼ばれ
た)の神仏の世界あるいは他界に至るイメージで認知されるようになり、同時期に
絵画や文学作品において典型的な富士山像が成立したことを背景に、「絹本著色冨
士曼荼羅図」を代表例とする信仰上の景観認識が成立した。17世紀以降はこれら
の典型的な認識を基に、さらに多様な信仰上の認識(※3)が模索され、「富士講
」と呼ばれる富士山信仰集団の隆盛や交流人口の拡大などにより、18世紀後半か
ら19世紀にかけてほとんどの日本人に富士山の神聖な山としての景観認識が定着
した(※4)。この認識は近代工業社会の自然に対する考え方が一般化する以前の
山と人間との良好な精神的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙
思想における不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中心である「

272:底名無し沼さん
18/01/10 12:22:01.73 drxMNnZ10.net
富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、「万
葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句、
物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは
海外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えて
きた。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた
伝統、芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある
景観である。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的
・実質的関連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を
持った山岳の空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙
思想)、儒教と結びついて修行の場や宗教施設を設置する場と
した。これらの伝統は6世紀~8世紀を中心に日本に伝えられ
、日本固有の山岳信仰や神道と結びつき修験道などの信仰を生
んだ。現在の富士山においてはこれらの信仰の核心部分が登拝
などの形態や儀式に伝えられている。また、富士山のみならず
日本各地の山岳やアジア地域の山岳においても形態は異なると
はいえ山を神聖視することをその根本に据えた文化的伝統が数
多く行われている。したがって、富士山は顕著な普遍的価値を
持つ生きた伝統と直接的・実質的に関連がある景観である。・
顕著な普遍的意義を持つ芸術作品との直接的・実質的関連独立
峰である富士山の周囲には湖や海と組み合わされた富士山の優
れた景観を望む展望地があり、今日に至るまで多くの芸術作品
を創造する場となった。これらの富士山を題材にした芸術作品
のうち、最も海外に影響を与えた作品は葛飾北斎の浮世絵「冨
嶽三十六景」である。19世紀前半に作成されたこの一連の作
品は、日本の開国に伴い西洋に輸出され、他の浮世絵とともに
その構図や表現方法がジャポニスムと呼ばれた西洋における日
本芸術の流行を生み、モネ、ゴッホといった印象派の画家に大
きな影響を与え、アールヌーボーが発生する一因となった。そ
のほか、富士山と三保松原を舞台に富士山に関わる伝説をモチ
ーフとした能(謡曲)「羽衣」は文学におけるモダニズムに影
響を与えた作品である。また、19世紀後半から20世紀初頭

273:底名無し沼さん
18/01/10 12:27:16.77 He8C3ID40.net
しての景観認識が定着した(※4)。この認識は近代工業社会の
自然に対する考え方が一般化する以前の山と人間との良好な精神
的関係を示すものであった。、31(※3)富士山は神仙思想に
おける不老不死の象徴である「蓬莱山」や仏教における世界の中
心である「須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半よ
り富士山の信仰上の景観認識を立体化した「富士塚」が東京を中
心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができない人にとっての
代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布され
るとともに、縁起の良いものとして富士山やその図像を拝したり
、眺めることが行われた。右「富士山のゾーニング」左「三尊九
尊図」評価基準(ⅵ)顕著な普遍的意義を有する出来事(行事)
、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と
直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用
いられることが望ましい)。評価基準(ⅵ)の適用富士山と周辺
の特徴的な自然が醸成する優秀な景観美や火山としての活動は、
日本人の山に対する信仰の形成の一翼を担い、今日まで継承され
ている山頂への遥拝と参詣を中心とした文化的伝統は、アジア地
域に顕著である山を神聖視する文化と深い関りを有している。写
真写真焼山(ハゲ山)木山(深山)草山(カヤ原)32また、こ
れらの富士山の特色は古くから様々な芸術活動の母胎ともなり、
「万葉集」や「竹取物語」をはじめとする日本固有の和歌、俳句
、物語文学やこれらを主題とする絵画などの対象として日本人に
良く知られていた。特に富士山を題材にした「浮世絵」などは海
外にも広く知られ、近現代の西洋芸術に様々な影響を与えてきた
。したがって、富士山は、顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統、
芸術的作品・文学的作品と直接的・実質的に関連がある景観であ
る。・顕著な普遍的意義を持つ生きた伝統との直接的・実質的関
連アジア地域、特に東アジア地域では特異な形態を持った山岳の
空間を神聖視し、仏教(特に密教)や道教(神仙思想)、儒教と
結びついて修行の場や宗教施設を設置する場とした。これらの伝
統は6世紀~8世紀を中心に日本に伝えられ、日本固有の山岳信

274:底名無し沼さん
18/01/10 12:27:58.31


275:drxMNnZ10.net



276:底名無し沼さん
18/01/10 12:28:18.39 He8C3ID40.net
須弥山」に見立てられた。また、主に18世紀後半より富士山の信仰上の景観認識
を立体化した「富士塚」が東京を中心に建設され、女性を含め山頂への登拝ができ
ない人にとっての代参施設となった。(※4)登拝者には登山口の浅間神社や御師
の発行する富士山の信仰上の景観認識を描いた宗教画が配布されるとともに、縁起
の良いものとして富士山やその図像を拝したり、眺めることが行われた。右「富士
山のゾーニング」左「三尊九尊図」評価基準(ⅵ)顕著な普遍的意義を有する出来


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