暇つぶし2chat OUT
- 暇つぶし2ch150:d要な要素が含まれて いる。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は 、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間と の精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに、芸術 的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素の分 類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2 大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山 道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、 記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺 跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B 5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9 遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B 15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮 浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走 浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素 忍野八海船津胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅 間神社御師住宅山中湖673)構成資産の説明富士山(富士山 体)・展望地点富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を 始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋 といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在 する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領 域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も 高い。特に本栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用され た写真の撮影地や富士山を描く典型的な構図に含まれる景勝地 であり、主要な展望を供する展望地点である。また推薦範囲は 、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標 高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世 界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境



151:底名無し沼さん
18/01/10 08:33:29.01 He8C3ID40.net
火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら
、山頂を中心として約15~20km(最大約30km)の範囲
に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ
、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450~680万t、現在最大の湧水は日量約
100万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環
境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を
持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教
の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず
、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化
するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・
湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設け
られ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステ
ムが作られた。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士
講(富士山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖
な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域では
さらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山
」(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「
草山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は
神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のため
に利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水
は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代においても
柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。また、

152:底名無し沼さん
18/01/10 08:34:30.54 drxMNnZ10.net
内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200~3375m)以上と、
山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。A
富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(
写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神
社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀
前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけになっ
たと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年

153:底名無し沼さん
18/01/10 08:40:34.66 He8C3ID40.net
富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖
や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多くの
人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き
立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺
の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸
術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体
の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的
にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲と
ほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を
指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲とみ
なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくな
り「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲
線を描き絵画などの対象とされることが多い範囲である。2)資
産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と
、周辺の浅間神社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹
型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要
素が含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「
富士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに
、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素
の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A
2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記
念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B
1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡
B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B1
0遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C
遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口
湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口
浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内
樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中

154:底名無し沼さん
18/01/10 08:41:04.80 He8C3ID40.net
建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た
可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本
栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典
型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500
m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より

155:底名無し沼さん
18/01/10 08:41:35.11


156:drxMNnZ10.net



157:底名無し沼さん
18/01/10 08:46:49.46 He8C3ID40.net
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200~3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富

158:底名無し沼さん
18/01/10 08:47:17.70 He8C3ID40.net
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した
目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200~3375m)以上と、山頂に近
づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂
信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には
、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半か
ら中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山
口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などが
ある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1200年の
資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登
山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随
所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は
欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道
A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝
の対象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動
の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後
の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭
祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台
とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅
間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社
(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。な
かでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利
用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案内し、宿泊の

159:底名無し沼さん
18/01/10 08:47:45.91 drxMNnZ10.net
る長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を
始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。
また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてら
し)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間
明神を祀ったことにちなんで整備された


160:船津胎内樹型や吉田胎 内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となってい る資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A 9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹 型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入 )(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に 点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能 してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建 てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や 展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の 側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖 性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500m 以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えら れた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた 八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごと に異なり標高約3200~3375m)以上と、山頂に近づく ほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、 1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、こ の理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び 宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座すると の信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は 富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ 、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼ この境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15~16 世紀ごろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたと され(1561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩 れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道とし



161:底名無し沼さん
18/01/10 08:53:26.62 He8C3ID40.net
士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世
紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11
世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞
台とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅
間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に
伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、
登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって

162:底名無し沼さん
18/01/10 08:53:58.93 He8C3ID40.net
世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2
山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社
(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・
湖沼18世紀後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に
登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地などを
巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷川角行は、人穴(富士
講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った
。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、
長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた
忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎
内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資
産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写
真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に点
在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小
屋といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は
、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の
側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
る「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界
(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされ
た八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3
200~3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。八合目以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが

163:底名無し沼さん
18/01/10 08:54:26.15 drxMNnZ10.net
て利用された。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道と
いった、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担
う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士
山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連
施設が所在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院
(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ
た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかある
ピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お
鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般
的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代
により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、
経典(12世紀末~13世紀前半と推定されるものが最古)・
懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302
年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への
散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮・村山口
山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。18
74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって
撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記
の行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富
士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口
登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし


164:、村山浅間神社を経 て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、 修行僧末代の活動により、富士山南麓における登山が本格的に 開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山 が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山 三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と



165:底名無し沼さん
18/01/10 08:59:31.65 He8C3ID40.net
大いに利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、
富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も
残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村
山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)
A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地と
なった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでな
く、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地な
どを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷
川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとし
た八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講徒はこれら
の地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、長谷川
角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と
唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったこと
にちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の
富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山
中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B
15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士
山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった
宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当
する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死
後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の
境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200~3375m)以上と、山
頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目
以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされた

166:底名無し沼さん
18/01/10 09:00:02.83 He8C3ID40.net
、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付
けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。標高約2500m
付近の森林限界より上方は富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と
呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿
い、富士山体を一周する「御中道」が15~16世紀ごろに富士講の祖とされる長
谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び1580年とされる)、その後
「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用され
た。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的
価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信
仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所
在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において
寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化
されていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケ
ン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとさ
れる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁
にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教
的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末~13世紀前半と推定されるものが最古)・懸
仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀
には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教
的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺

167:底名無し沼さん
18/01/10 09:00:33.18 drxMNnZ10.net
登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用し
て修行を行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者
を「道者」と言う。)も開始され、その様子は16世紀の作と
される「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は
18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録よ
り、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測でき
る。また1860年、初の外国人登山を行った英国公使オール
コックがこの登山道を利用した。101889年、鉄道(東海

168:底名無し沼さん
18/01/10 09:05:42.52 He8C3ID40.net
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15~16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末~13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の

169:底名無し沼さん
18/01/10 09:06:12.61 He8C3ID40.net
院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上
記の行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現
代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点
とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ
の、修行僧末代の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとさ
れ、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降

170:底名無し沼さん
18/01/10 09:06:40.80 drxMNnZ10.net
道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これ
への対策として1906年、村山を経由しない新道が建設され
たため、大宮から現在の六合目(標高2600m)までは登山
道としての機能を失った。この区間は一部除き登山道跡の推定
は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点
まで開通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推
薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富士山南東
麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道である
。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にそ
の存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されて
いた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究
が進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由
来する60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840
年代前半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約
3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年
、東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの
道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用
不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在
に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂
東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目
からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資料で
は1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも17
世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂
部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村

171:底名無し沼さん
18/01/10 09:12:36.68 He8C3ID40.net
行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信
仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道
富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南
側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代
の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたと
され、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとさ
れる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた
3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行う
とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また
、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も
開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼
羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の
増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由
しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高26
00m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高
2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道
富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486
年にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅
間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
ていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来す
る60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前
半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m)

172:底名無し沼さん
18/01/10 09:13:08.90 He8C3ID40.net
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法
寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行っ
た。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始され
、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道
者の数は18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年
で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国
人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。101889年、
鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合
目(標高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除き登
山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点まで開
通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である
。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至
る登山道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にその存
在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山
村(現裾野市須山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は
村山の修験者の行場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年に1回の
記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、186
0年(御縁年)は約3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通に
よる御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が
陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現
在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみで

173:底名無し沼さん
18/01/10 09:13:36.27 drxMNnZ10.net
は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、
権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、
これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅し
たが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道
者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされた参詣の
流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,
700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成によ
り、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほと
んどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5
.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東
部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験
者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口
は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢
の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から1
7世紀�


174:A長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀 前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自 殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も 多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登 って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓 から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体 である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟 名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年 に国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定された。19 52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定され た。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続 中)。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対す る対策に着手(継続中)。文化財保護法の下に他の文化財とと もに史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅 間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の 荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建



175:底名無し沼さん
18/01/10 09:19:18.68 He8C3ID40.net
に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八

176:底名無し沼さん
18/01/10 09:19:50.99 He8C3ID40.net
ある。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分
及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東
麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くと
も17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを
支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅
間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施
設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌
年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにさ
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人
とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約200
0m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができない区
間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.吉田
口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15
世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっ
ていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人
々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉
田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は
、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため
、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しかも、古道と
しては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体

177:底名無し沼さん
18/01/10 09:20:18.19 drxMNnZ10.net
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮
冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に
所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね
られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と
して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に
伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び
西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19
52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962~63
年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973~74年に
本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981
~82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖


178:説明富士山の火山活動によって形成され た堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡り が多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行から いつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後述 の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあ



179:底名無し沼さん
18/01/10 09:26:26.85 He8C3ID40.net
勺以上の部分及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である
)A4.須走口登山道富士山東麓の冨士浅間神社を起点とし、八
合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山道である。その
起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏
が出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認でき
る。登山道は遅くとも17世紀までに、冨士浅間神社及びその所
在地の須走村が登山道の山頂部までを支配し、散銭取得権の一部
などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅間大社と
争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕
府に裁定を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の
宝永噴火の際、これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に
覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し
、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされ
た参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に
23,700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成
により、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほ
とんどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.
吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を
目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験者だけ
でなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口は14世
紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人々が登
るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷
川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講
隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自殺)にあたって信
者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため、富士講の信者が
次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している
。しかも、古道としては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な
道である。(推薦範囲は登山道全体である。)11法的保護、修
理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名
勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)

180:底名無し沼さん
18/01/10 09:26:57.93 He8C3ID40.net
である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に名勝に仮指定された。1936年に国立公園法の下に(富士箱根)国立公
園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定さ
れた。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続中)。1996年
に国・県が台風による森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護
法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨
士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の荒ぶる神)を起
源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社
の社殿が整っていたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年
に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながりが強く、17
30年代に富士講の指導者である村上光清の寄進によって境内の建造物群の修復工
事が行われ、現在にみる境内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・
檜皮葺の本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組をもって
支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本殿・西宮本殿はともに桧皮
葺・一間社流造である。3本殿とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金
具を配して、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間
神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており、神社の管理も
御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社殿の背後には登山門があり、この
神社を起点として富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密
接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯1907
年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1929年の国
宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に伴い
、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法
の下に重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事が行われた

181:底名無し沼さん
18/01/10 09:27:26.27 drxMNnZ10.net
り、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本
の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり、
重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なか
でも、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1
935年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」と
いう写真は有名である。この写真は、1984年に採用された
五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用

182:底名無し沼さん
18/01/10 09:32:31.88 He8C3ID40.net
国立公園に指定された。1952年に文化財保護法の下に名勝、
ついで特別名勝に指定された。1969年に国が大沢崩れに対す
る砂防事業に着手(継続中)。1996年に国・県が台風による
森林の風倒被害に対する対策に着手(継続中)。文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A6
.北口本宮冨士浅間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間
明神(富士山の荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山
」の鳥居が建立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整って
いたとされる。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594
年に西宮本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつ
ながりが強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の
寄進によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境
内の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰組
をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東宮本
殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿とも、
各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して、それぞ
れの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮冨士浅間神
社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に所属しており
、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ねられていた。社
殿の背後には登山門があり、この神社を起点として富士山頂まで
吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御師と密接な関係を持
ちながら発展した神社である。法的保護、修理・整備の経緯19
07年に東宮本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定さ
れた。1929年の国宝保存法制定に伴い、本殿は国宝とされた
。1950年の文化財保護法制定に伴い、東宮本殿は重要文化財
とされた。1953年に本殿及び西宮本殿が文化財保護法の下に
重要文化財に指定された。1952年に東宮本殿の解体修理工事
が行われた。1962~63年に西宮本殿の解体修理工事が行わ
れた。1973~74年に本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工
事が行われた。1981~82年に東宮本殿の部分修理工事が行
われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保

183:底名無し沼さん
18/01/10 09:33:03.83 He8C3ID40.net
。1962~63年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973~74年に本
殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981~82年に東宮本殿の
部分修理工事が行われた。1997年に本殿の部分修理工事が行われた。文化財保
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。富
士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、

184:底名無し沼さん
18/01/10 09:33:34.33 drxMNnZ10.net
された。山体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している
本栖湖からの展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ
同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整備の経緯
文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山
本宮浅間大社説明社記によれば806年に、富士山により近い
遥拝所であった山宮浅間神社から現在の地に移転されたことを
起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心的神社であ
った。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、
広く信仰されている。創建当初は遥拝のための施設であったが
、15世紀ごろ登拝が盛んになるにつれて、富士山本宮浅間大
社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山口登山道の基
点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士
山中での諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(
約150年間の戦乱期をおさめ統�


185:齔ュ権である江戸幕府を開い た人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間造り」と呼ばれ る独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年 山頂部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社 は山頂部の管理・支配を行うようになり、1779年、幕府に よる裁判によりこの八合目以上の支配権が認められた。明治政 府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に 基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社 境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大社は 、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖なる 水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14 万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である 。なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源と する池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が 身を清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行記 でその様子が確認できる。この水垢離は1920~30年代ま で行われた。現在でも湧水を聖なる水として利用する人が多く いる。法的保護、修理・整備の経緯1907年に本殿が古社寺 保存法の下に特別保護建造物に指定された。1923~26年



186:底名無し沼さん
18/01/10 09:38:55.90 He8C3ID40.net
護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定
。A7.西湖A8.精進湖A9.本栖湖説明富士山の火山活動に
よって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行す
る内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行
の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたの
が、後述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、
日本の紙幣の図柄として何度も使用された写真の撮影地点であり
、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は、プ
ロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかで
も、生涯にわたり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、193
5年に本栖湖北西岸の峠道から撮影された「湖畔の春」という写
真は有名である。この写真は、1984年に採用された五千円札
及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山
体の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの
展望は、「湖畔の春」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現
在も残している。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大社説明社
記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅
間神社から現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古く
から富士山南麓地域の中心的神社であった。現在全国に約130
0社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰されている。創建当
初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んにな
るにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とと
もに大宮・村山口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された
。登拝の拡大に伴い、富士山中での諸権利が構築されていく中で
、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をおさめ統一政権
である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「
浅間造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとと
もに、1609年山頂部の散銭取得における優先権を得た。これ
を基に浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになり、177
9年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認められ

187:底名無し沼さん
18/01/10 09:39:27.12 He8C3ID40.net
長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが、後
述の山中湖及び河口湖とこの3湖である。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作
品とゆかりが深い。12特に本栖湖は、日本の紙幣の図柄として何度も使用された
写真の撮影地点であり、重要な展望地点(viewpoint)である。富士山は
、プロ・アマ問わず多くの写真家に愛され、撮影されてきた。なかでも、生涯にわ
たり富士山を追い続けた岡田紅陽によって、1935年に本栖湖北西岸の峠道から
撮影された「湖畔の春」という写真は有名である。この写真は、1984年に採用
された五千円札及び2004年に採用された千円札の図柄として使用された。山体
の裾野が湖まで広がり一体の景観を構成している本栖湖からの展望は、「湖畔の春
」に撮影された富士山とほぼ同じ姿のまま現在も残している。法的保護、修理・整
備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B1.富士山本宮浅間大
社説明社記によれば806年に、富士山により近い遥拝所であった山宮浅間神社か
ら現在の地に移転されたことを起源とする神社で、古くから富士山南麓地域の中心
的神社であった。現在全国に約1300社ある浅間神社の総本宮であり、広く信仰
されている。創建当初は遥拝のための施設であったが、15世紀ごろ登拝が盛んに
なるにつれて、富士山本宮浅間大社は村山浅間神社(興法寺)とともに大宮・村山
口登山道の基点となり、宿坊が周辺に建設された。登拝の拡大に伴い、富士山中で
の諸権利が構築されていく中で、浅間大社は徳川家康(約150年間の戦乱期をお
さめ統一政権である江戸幕府を開いた人物)の庇護の下、1604年現在の「浅間
造り」と呼ばれる独特な構造を持った社殿が造営されるとともに、1609年山頂
部の散銭取得における優先権を得た。これを基に浅間大社は山頂部の管理・支配を
行うようになり、1779年、幕府による裁判によりこの八合目以上の支配権が認
められた。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高裁判決に基
づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅間大社境内には富士山の湧水

188:底名無し沼さん
18/01/10 09:39:58.47 drxMNnZ10.net
に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保
存法制定に伴い、本殿は国宝とされた。1933~34年に楼
門の修理を行った。1936年に袖廊・廻廊を附した。195
0年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とされた。
1951~52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修
理等が行われた。1969~70年に本殿の屋根の修理等が行
われた。1987~88年に本殿の屋根の修理等が行われた(
部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行われた。1
3文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の
社伝によれば、浅間大社の前身とされ、拝殿・本殿等が位置す
べき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設置されるの
みという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めている
と推定されている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いてい
る。具体的な創建年代は不詳だが、発掘調査では神事に使用さ
れたと推定される12~15世紀の土器が出土し、文献上では
1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577
年までには浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が
開始された。これは4月と11月に神の宿った鉾を持ち、浅間
大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現時点では神が4
月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神とし
て里へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行
われていた。な�


189:ィ、「山宮御神幸」に使用される経路を御神幸 道という。道には1691年に置かれた距離を示す石碑が少な くとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていな い。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡 に指定される。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富 士山として指定される予定。B3.村山浅間神社説明12世紀 前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており 、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興 法寺(富士山興法寺または村山興法寺)と呼ばれていた(資産 範囲には浅間神社と寺院である大日堂が含まれる)。富士山に



190:底名無し沼さん
18/01/10 09:45:08.94 He8C3ID40.net
た。明治政府によりここは国有地とされたが、1974年の最高
裁判決に基づき、2004年浅間大社に譲渡(返還)された。浅
間大社境内には富士山の湧水を起源とする湧玉池がある。浅間大
社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考えや、富士山を聖な
る水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。
なお湧玉池は、浅間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする
池である。16世紀前後、湧玉池は浅間大社により道者が身を清

191:底名無し沼さん
18/01/10 09:45:36.95 He8C3ID40.net
を起源とする湧玉池がある。浅間大社は、富士山の噴火を湧水によって鎮める考え
や、富士山を聖なる水源の山として崇める考え方から、豊富な湧水量(日平均14
万?)を持つ湧玉池のほとりに置かれたとする説が有力である。なお湧玉池は、浅
間大社内に所在する富士山の湧水を起源とする池である。16世紀前後、湧玉池は
浅間大社により道者が身を清める場と位置づけられたとされ、同時期の絵図や旅行
記でその様子が確認できる。この水垢離は1920~30年代まで行われた。現在
でも湧水を聖なる水として利用する人が多くいる。法的保護、修理・整備の経緯1
907年に本殿が古社寺保存法の下に特別保護建造物に指定された。1923~2
6年に本殿・拝殿・楼門等の補修が行われた。1929年の国宝保存法制定に伴い
、本殿は国宝とされた。1933~34年に楼門の修理を行った。1936年に袖
廊・廻廊を附した。1950年の文化財保護法制定に伴い、本殿は重要文化財とさ
れた。1951~52年、1970年、1988年に本殿の屋根の修理等が行われ
た。1969~70年に本殿の屋根の修理等が行われた。1987~88年に本殿
の屋根の修理等が行われた(部分補修)。2005年に本殿の屋根の修理等が行わ
れた。13文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予
定。B2.山宮浅間神社説明富士山本宮浅間大社の社伝によれば、浅間大社の前身
とされ、拝殿・本殿等が位置すべき場所に石列でいくつかに区分された遥拝所が設
置されるのみという特異な形態は古代からの富士山祭祀の形を止めていると推定さ
れている。この遥拝所の主軸は富士山方向を向いている。具体的な創建年代は不詳
だが、発掘調査では神事に使用されたと推定される12~15世紀の土器が出土し
、文献上では1551年にその存在が確認できる。また、遅くとも1577年まで
には浅間大社との間で「山宮御神幸」といわれる儀式が開始された。これは4月と
11月に神の宿った鉾を持ち、浅間大社と山宮浅間神社を往復する行事である。現
時点では神が4月に旧跡に戻るという解釈と、山にいる神が4月に田の神として里

192:底名無し沼さん
18/01/10 09:46:04.24 drxMNnZ10.net
おける修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動が
組織化された。15~16世紀には一般の道者の登拝も増加し
、その様子が16世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図
」に描かれている。1868年、神仏分離令により浅間神社と
大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両者と
も衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続さ
れた。また、村山の修験者の影響を受けた地域では現在でもそ
の宗教行事が継続されている。法的保護、修理・整備の経緯2
001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会により発
掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とと
もに史跡富士山として指定される予定。B4.須山浅間神社説
明須山口登山道の起点として遅くとも1524年には存在して
いた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は登山道も
含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建された
ものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わ
りを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈祷が
行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に
社殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社であ
る。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部
の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火
で崩壊し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使
用し、2009年の修理も含め何回かの修理がおこなわれてい
る。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心
に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約
80基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社
殿が小山町の有形文化財となる。2009年に本殿・参道の修
理が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富
士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから
富士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、8
64~866年に北麓で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間

193:底名無し沼さん
18/01/10 09:52:35.18 He8C3ID40.net
へ降りるという解釈がある。この行事は1874年まで行われていた。なお、「山
宮御神幸」に使用される経路を御神幸道という。道には1691年に置かれた距離
を示す石碑が少なくとも四箇所残っているが、正確な道筋は現在確認されていない
。法的保護、修理・整備の経緯1985年に富士宮市の史跡に指定される。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B3.村山浅
間神社説明12世紀前半から中ごろの修行僧末代の活動が創建の起源とされており
、1868年の神仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺院である大日堂が
含まれる)。富士山における修験道の中心地であり、14世紀初めには、その活動
が組織化された。15~16世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16
世紀の制作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年、神仏
分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の登山道の変化にも伴い両
者とも衰微した。ただし、修験者の活動は1940年代まで継続された。また、村
山の修験者の影響を受けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的
保護、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市教育委員会に
より発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B4.須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅く
とも1524年には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿は
登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再建されたものである
。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者とも関わりを持ち、1940年頃まで境
内で修行の一環としての祈祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14B5.富
士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社殿を造営したとされ、須走
口登山道の起点となった神社である。16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を

194:底名無し沼さん
18/01/10 09:53:05.58 drxMNnZ10.net
神社が建てられることとなった。それが、富士山を望む河口湖
の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性
が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く
官道の宿駅という役割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半
から御師集落として発展を遂げた。しかし、江戸における富士
講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御師
集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし
、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事

195:底名無し沼さん
18/01/10 09:58:51.47 He8C3ID40.net
の修行僧末代の活動が創建の起源とされており、1868年の神
仏分離令までは神仏習合の宗教施設として興法寺(富士山興法寺
または村山興法寺)と呼ばれていた(資産範囲には浅間神社と寺
院である大日堂が含まれる)。富士山における修験道の中心地で
あり、14世紀初めには、その活動が組織化された。15~16
世紀には一般の道者の登拝も増加し、その様子が16世紀の制作
とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。1868年
、神仏分離令により浅間神社と大日堂は分離され、1906年の
登山道の変化にも伴い両者とも衰微した。ただし、修験者の活動
は1940年代まで継続された。また、村山の修験者の影響を受
けた地域では現在でもその宗教行事が継続されている。法的保護
、修理・整備の経緯2001年から2003年にかけて富士宮市
教育委員会により発掘を含む調査が行われた。文化財保護法の下
に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B4.
須山浅間神社説明須山口登山道の起点として遅くとも1524年
には存在していた神社である。1707年、宝永噴火により社殿
は登山道も含め大きな被害を受け、現在の社殿は1823年に再
建されたものである。神社は村山浅間神社(興法寺)の修験者と
も関わりを持ち、1940年頃まで境内で修行の一環としての祈
祷が行われていた。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の
下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。14
B5.富士浅間神社(須走浅間神社)説明社伝では807年に社
殿を造営したとされ、須走口登山道の起点となった神社である。
16世紀には地元支配者(武田氏)の保護を受け、山頂部の散銭
取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊し
1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、20
09年の修理も含め何回かの修理がおこなわれている。神社には
富士講道者が多く立ち寄り、20世紀前半を中心に登拝回数の達
成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80基造営した。
法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文
化財となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財
保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予

196:底名無し沼さん
18/01/10 09:59:20.60 He8C3ID40.net
受け、山頂部の散銭取得権の一部を得ている。社殿は1707年の宝永噴火で崩壊
し1718年に再建された。この後もこの際の部材を使用し、2009年の修理も
含め何回かの修理がおこなわれている。神社には富士講道者が多く立ち寄り、20
世紀前半を中心に登拝回数の達成(33回がひとつの区切り)等の記念碑を約80
基造営した。法的保護、修理・整備の経緯2006年に社殿が小山町の有形文化財
となる。2009年に本殿・参道の修理が行われた。文化財保護法の下に他の文化

197:底名無し沼さん
18/01/10 09:59:49.84 drxMNnZ10.net
を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信仰を語る上で
欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備の経
緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指
定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社
は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえたのが
最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文献
もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二
合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点と
して役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件
の下に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1
475、1525年と加修され、1564には地元領主による
大修理が行われている。現在の本殿は1612年建立と認めら
れ、その後も1698年、1867年に修復が行われていた。
1973-74年には里宮の地にそのままの形で移設された。
里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するた
めに河口湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々
な富士信仰の拠点として位置づけられる二合目の本宮と、土地
の産土神としての里宮が一体となって機能してきた神社である
。法的保護、修理・整備の経緯1973~74年に吉田口登山
道二合目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985
年に移築された二合目本殿が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士
山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に
宿や食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝
の指導や祈祷を行うことを業とした。富士山御師として代表的
なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮冨士浅間神社の北
西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田
の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面し
て引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建
物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥部には神殿が
設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士

198:底名無し沼さん
18/01/10 10:04:43.38 He8C3ID40.net
定。B6.河口浅間神社説明古くから富士山に関わる祭祀は南麓
の浅間神社が執り行っていたが、864~866年に北麓で起こ
った噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった
。それが、富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかっ
た河口浅間神社である可能性が高い。浅間神社を中心とした河口
の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役割に加え、富士登
拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛
により、河口の御師集落としての機能は、19世紀以降衰退して
しまった。ただし、河口浅間神社は、現在も富士山と密接に結び
ついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って、富士山信
仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理
・整備の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山
として指定される予定。B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅
間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合目に祭場をしつらえた



199:が最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとする文 献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二 合目、御室浅間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点とし て役行者堂が整備されたようである。山中という厳しい条件の下 に所在するためたびたび破損し、1189、1275、1475 、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が 行われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後 も1698年、1867年に修復が行われていた。1973-7 4年には里宮の地にそのままの形で移設された。里宮は、二合目 の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口湖畔に建 てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点と して位置づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮 が一体となって機能してきた神社である。法的保護、修理・整備 の経緯1973~74年に吉田口登山道二合目にあった本殿が里 宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿が 文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下 に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。B8.



200:底名無し沼さん
18/01/10 10:05:15.67 He8C3ID40.net
財とともに史跡富士山として指定される予定。B6.河口浅間神社説明古くから富
士山に関わる祭祀は南麓の浅間神社が執り行っていたが、864~866年に北麓
で起こった噴火を契機に、北麓にも浅間神社が建てられることとなった。それが、
富士山を望む河口湖の北岸にあり、溶岩の届かなかった河口浅間神社である可能性
が高い。浅間神社を中心とした河口の地は、甲府盆地から続く官道の宿駅という役
割に加え、富士登拝が大衆化した中世後半から御師集落として発展を遂げた。しか
し、江戸における富士講の大流行と、それに伴う吉田御師の隆盛により、河口の御
師集落としての機能は、19世紀以降衰退してしまった。ただし、河口浅間神社は
、現在も富士山と密接に結びついた宗教行事を行っており、歴史的背景と相俟って
、富士山信仰を語る上で欠かすことのできない資産である。法的保護、修理・整備
の経緯文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定される予定。
B7.冨士御室浅間神社説明冨士御室浅間神社は、8世紀初めに吉田口登山道二合
目に祭場をしつらえたのが最初とされ、富士山中に祀られた最初の神社であるとす
る文献もある。富士修験の信仰拠点は南西の村山であるが、北面の二合目、御室浅
間神社が鎮座する御室の地にも山内の信仰拠点として役行者堂が整備されたようで
ある。山中という厳しい条件の下に所在するためたびたび破損し、1189、12
75、1475、1525年と加修され、1564には地元領主による大修理が行
われている。現在の本殿は1612年建立と認められ、その後も1698年、18
67年に修復が行われていた。1973-74年には里宮の地にそのままの形で移
設された。里宮は、二合目の本宮(もとみや)が冬季の参拝に苦渋するために河口
湖畔に建てられたとされる。修験や登拝といった様々な富士信仰の拠点として位置
づけられる二合目の本宮と、土地の産土神としての里宮が一体となって機能してき
た神社である。法的保護、修理・整備の経緯1973~74年に吉田口登山道二合
目にあった本殿が里宮の地に移築された。151985年に移築された二合目本殿

201:底名無し沼さん
18/01/10 10:05:45.06 drxMNnZ10.net
講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代表的で
ある。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講の流
行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では1
860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財
に指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行
われた。1996~98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行わ
れた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定さ
れる予定。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動
によって形成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修
行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷
川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数え
られたのが前述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。こ
の巡礼行為について、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り
行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったかは、定ま
っていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの
、人々の信仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、
周辺地域も含めた範囲が文化財とされている。また、景勝の地
でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保護、修理・
整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B
11.忍野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、そ
れぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関わる巡拝地であった。富
士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った。長谷川角行
が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元
八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士
講道者によって再興されたとされる。法的保護、修理・整備の
経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物
に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷
川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内
に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を発見し
、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって現船
津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際

202:底名無し沼さん
18/01/10 10:11:36.32 He8C3ID40.net
御師住宅説明御師は、道者に宿や食事を始め登拝のための一切の
世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うことを業とした。
富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口
本宮冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な
集落を形成した吉田の御師である。御師屋敷の多くは短冊状をな
し、表通りに面して引き込み路を設け、敷地を流れる水路の奥に

203:底名無し沼さん
18/01/10 10:12:05.77 He8C3ID40.net
が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。文化財保護法の下に他の文化財と
ともに史跡富士山として指定される予定。B8.御師住宅説明御師は、道者に宿や
食事を始め登拝のための一切の世話をするとともに、登拝の指導や祈祷を行うこと
を業とした。富士山御師として代表的なのは、吉田口登山道の起点である北口本宮
冨士浅間神社の北西に、北東方向の傾斜面に沿って大規模な集落を形成した吉田の
御師である。御師屋敷の多くは短冊状をなし、表通りに面して引き込み路を設け、
敷地を流れる水路の奥に住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き
、最奥部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類に数えられ
る旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建てられ富士講最盛期の御師住宅
の典型例とされる小佐野家住宅が代表的である。1861年に新築された小佐野家
住宅同様、富士講の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経緯1976年に小
佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。1979年に小佐野家
住宅の屋根の修理等が行われた。1996~98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が
行われた。旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定。B9
.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形成された堰止湖である。
富士山周辺の湖を巡って修行する内八海巡りが多くの富士講徒によって行われたが
、長谷川角行の水行からいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前
述の3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について、具体的に湖
沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどのルートを辿って各湖を巡ったか
は、定まっていなかった(少なくとも、明らかになっていない)ものの、人々の信
仰心を駆り立てた湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化財
とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆかりが深い。法的保
護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名勝として指定される予定。B11.忍

204:底名無し沼さん
18/01/10 10:12:36.15 drxMNnZ10.net
に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとっ
ての富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的
保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明
1892年に富士道者によって整備された「お胎内」である。
富士講講徒は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りを
し、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨


205:士山 北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯19 29年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定さ れた。B14.人穴富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原 )角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による 約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探 検の様子が描かれ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたと されている。この内容は遅くとも1603年までに、浅間大菩 薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られていた。 富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ 、長谷川角行が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神 とする)の啓示を得た場であり、入滅した場だとしている。ま た、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これらの結果人 穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。 また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記 念碑などを建立した。1942年付近が軍用地となり、人穴の 浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年神社は現在 地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみら れるものの1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的 保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡となる。 文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として指定 される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする 数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15~1 6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えること をその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば



206:底名無し沼さん
18/01/10 10:18:38.96 He8C3ID40.net
住宅兼宿坊の建物が建っている。玄関から奥へ客室が続き、最奥
部には神殿が設けられている。1768年に建てられ最古の部類
に数えられる旧外川家住宅や、格式的な構えが確立した頃に建て
られ富士講最盛期の御師住宅の典型例とされる小佐野家住宅が代
表的である。1861年に新築された小佐野家住宅同様、富士講
の流行に伴い増加する宿泊者に対応するため、旧外川家住宅では
1860年代に離座敷が増築された。法的保護、修理・整備の経
緯1976年に小佐野家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に
指定された。1979年に小佐野家住宅の屋根の修理等が行われ
た。1996~98年に小佐野家住宅の腐敗修理等が行われた。
旧外川家住宅が文化財保護法の下に重要文化財に指定される予定
。B9.山中湖B10.河口湖説明富士山の火山活動によって形
成された堰止湖である。富士山周辺の湖を巡って修行する内八海
巡りが多くの富士講徒によって行われたが、長谷川角行の水行か
らいつの時代も変わらず巡拝の対象として数えられたのが前述の
3つの湖とこの山中湖及び河口湖である。この巡礼行為について
、具体的に湖沼のどこで修行や巡礼が執り行われたか、またどの
ルートを辿って各湖を巡ったかは、定まっていなかった(少なく
とも、明らかになっていない)ものの、人々の信仰心を駆り立て
た湖沼の水そのものを核心として、周辺地域も含めた範囲が文化
財とされている。また、景勝の地でもあり、多くの芸術作品とゆ
かりが深い。法的保護、修理・整備の経緯文化財保護法の下に名
勝として指定される予定。B11.忍野八海説明富士山の伏流水
による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士信仰に関
わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れ
を祓った。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御
手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、
1843年に富士講道者によって再興されたとされる。法的保護
、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明16
17年長谷川角行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指
定範囲内に点在する小規模な溶岩樹型のひとつと考えられる)を

207:底名無し沼さん
18/01/10 10:19:08.85 He8C3ID40.net
野八海説明富士山の伏流水による八つの湧水地で、それぞれに八大竜王を祀る富士
信仰に関わる巡拝地であった。富士登山を目指す行者たちはこの水で穢れを祓った
。長谷川角行が行った富士八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」
と唱えられた古跡の霊場と伝えられ、1843年に富士講道者によって再興された
とされる。法的保護、修理・整備の経緯1934年に史蹟名勝天然紀念物保存法の
下に天然紀念物に指定された。16B12.船津胎内樹型説明1617年長谷川角
行が富士登拝の際、北麓に洞穴(船津胎内樹型指定範囲内に点在する小規模な溶岩
樹型のひとつと考えられる)を発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講
道者によって現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の際に
、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間に宗教的な意義付けが
行われるとともに、奥には富士講にとっての富士山の祭神である木花開耶姫などが
祀られている。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存
法の下に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892年に富士道
者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒は、昼までに御師の家に着き
、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士山に登山した。本穴については、古くから冨士
山北口御師団が管理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴富士講遺跡説明富
士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとされる溶岩洞窟の人穴と富士講信者に
よる約230基の碑塔群が残る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描か
れ、「浅間大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅くとも1
603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、その存在が広く知られて
いた。富士講関連の文書によれば人穴は16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行
が修行により浅間大菩薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、
入滅した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と述べ、これら

208:底名無し沼さん
18/01/10 10:19:37.36 drxMNnZ10.net
長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、
富士講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景
勝地としても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。
法的保護、修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物
保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原
説明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」
の舞台となった。15~16世紀以降富士山を描く際の典型的
な構図に含まれる景勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作

209:底名無し沼さん
18/01/10 10:25:08.64 He8C3ID40.net
発見し、浅間明神を祀った。1673年には富士講道者によって
現船津胎内樹型が発見され、浅間明神が遷宮された。富士登拝の
際に、樹型に入って身を清める風習があり、洞穴内外の地形空間
に宗教的な意義付けが行われるとともに、奥には富士講にとって
の富士山の祭神である木花開耶姫などが祀られている。法的保護
、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下
に天然紀念物に指定された。B13.吉田胎内樹型説明1892
年に富士道者によって整備された「お胎内」である。富士講講徒
は、昼までに御師の家に着き、夕方まで胎内巡りをし、翌朝富士
山に登山した。本穴については、古くから冨士山北口御師団が管
理している。法的保護、修理・整備の経緯1929年に史蹟名勝
天然紀念物保存法の下に天然紀念物に指定された。B14.人穴
富士講遺跡説明富士講の開祖長谷川(藤原)角行が修行したとさ
れる溶岩洞窟の人穴と富士講信者による約230基の碑塔群が残
る遺跡である。「吾妻鏡」では人穴探検の様子が描かれ、「浅間
大菩薩の御在所」とみられていたとされている。この内容は遅く
とも1603年までに、浅間大菩薩の霊験譚として説話化され、
その存在が広く知られていた。富士講関連の文書によれば人穴は
16世紀から17世紀にかけ、長谷川角行が修行により浅間大菩
薩(富士講では仙元大日神とする)の啓示を得た場であり、入滅
した場だとしている。また、角行は人穴を「浄土(浄土門)」と
述べ、これらの結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を
行う者も見られた。また、信者は人穴への分骨埋葬などを望み、
墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942年付近が軍用地
となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954
年神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参


210: 詣者はみられるものの1964年以降碑塔の建設は行われていな い。法的保護、修理・整備の経緯1999年に富士宮市の史跡と なる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士山として 指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とす る数百の流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15~1 6万?)の噴出が数百条の白糸が垂れているように見えることを



211:底名無し沼さん
18/01/10 10:25:40.91 He8C3ID40.net
の結果人穴には熱心な富士講信者が参詣し、修行を行う者も見られた。また、信者
は人穴への分骨埋葬などを望み、墓碑、供養碑、記念碑などを建立した。1942
年付近が軍用地となり、人穴の浅間神社や周辺の住民は一時移転した。1954年
神社は現在地に復興されたが、冨士講自体が衰退したことで参詣者はみられるもの
の1964年以降碑塔の建設は行われていない。法的保護、修理・整備の経緯19
99年に富士宮市の史跡となる。文化財保護法の下に他の文化財とともに史跡富士

212:底名無し沼さん
18/01/10 10:26:10.29 drxMNnZ10.net
品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである
。法的保護、修理・整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念
物保存法の下に名勝に指定された。18b)歴史と発展山容の
形成富士山の原型は、40~10万年前、周辺の火山とともに
活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆う
ように標高約2500mの小御岳火山が形成された。さらに約
10万年前、そのふもとに古富士火山が誕生し、爆発的噴火、
火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山をほ
ぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1
万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火
山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約5600~35
00年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流出によ
って何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体へ
の降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各
所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や降水が
北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された。ま
た、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山
頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西~南東方向に連なる側火山からの噴
火を続け、1200年前から後には少なくとも800~802
年、864~866年、937年、999年、1033年、1
083年、1435~1436年、1511年、1707年の
九つの時期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」
このような噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ
神秘的な山と考えられたために、古くから遥拝の対象であった
が、日本における古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀
後半以降は、繰り返す噴火を鎮めるため、富士山そのものある
いは富士山に鎮座する神を浅間神として祀るようにもなり、各
地に遥拝所としての浅間神社が建立され、国家の宗教政策の一
端に位置づけられるようになった。また、富士山の神々しく秀
麗な姿と周辺の自然環境が芸術の対象とされるようになり、日

213:底名無し沼さん
18/01/10 10:31:44.74 He8C3ID40.net
その起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連の文書によれば長谷
川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士講
を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地とし
ても有名であり、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、
修理・整備の経緯1936年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に
名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説明三保松原は
、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。
15~16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景
勝地として数多く描かれ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広
く知られている(又は海外に影響を与えた)芸術作品の視点場、
又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・整備の
経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定さ
れた。18b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40~1
0万年前、周辺の火山とともに活動をはじめ、先小御岳火山が形
成された。その後これを覆うように標高約2500mの小御岳火
山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り
返し、小御岳火山をほぼ山体に納める形で3000mを超える火
山に成長した。約1万年前には大量の溶岩を噴出する形で現在の
富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆いつくし、約
5600~3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶
岩の流出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部
には山体への降水を起源とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出す
る形で各所に形成された。富士山北麓においてはこれらの湧水や
降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成された
。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。
山頂からの噴火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが
、歴史時代になっても北西~南東方向に連なる側火山からの噴火
を続け、1200年前から後には少なくとも800~802年、
864~866年、937年、999年、1033年、1083
年、1435~1436年、1511年、1707年の九つの時
期の噴火が確認されている。神々しい山容と「鎮爆」このような

214:底名無し沼さん
18/01/10 10:32:15.94 He8C3ID40.net
山として指定される予定。B15.白糸ノ滝説明富士山の湧水を起源とする数百の
流れを持つ滝である。滝の名前は湧水(日平均15~16万?)の噴出が数百条の
白糸が垂れているように見えることをその起源とする。17白糸ノ滝は富士講関連
の文書によれば長谷川角行が人穴での修行と合わせて水行を行った地とされ、富士
講を中心とした人々の巡礼・修行の場となった。また、景勝地としても有名であり
、和歌・絵画の題材にもなっている。法的保護、修理・整備の経緯1936年に史
蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝及び天然紀念物に指定された。C.三保松原説
明三保松原は、万葉集以降和歌の題材となり、謡曲「羽衣」の舞台となった。15
~16世紀以降富士山を描く際の典型的な構図に含まれる景勝地として数多く描か
れ、歌川広重等の作品をはじめ海外にも広く知られている(又は海外に影響を与え
た)芸術作品の視点場、又は舞台となった場所のひとつである。法的保護、修理・
整備の経緯1922年に史蹟名勝天然紀念物保存法の下に名勝に指定された。18
b)歴史と発展山容の形成富士山の原型は、40~10万年前、周辺の火山ととも
に活動をはじめ、先小御岳火山が形成された。その後これを覆うように標高約25
00mの小御岳火山が形成された。さらに約10万年前、そのふもとに古富士火山
が誕生し、爆発的噴火、火山礫・火山灰の噴出、山体崩壊を繰り返し、小御岳火山
をほぼ山体に納める形で3000mを超える火山に成長した。約1万年前には大量
の溶岩を噴出する形で現在の富士山(新富士火山)が成長を始め、古富士山を覆い
つくし、約5600~3500年前に現在の規模となった。繰り返された溶岩の流
出によって何層にもわたる溶岩層が形成され、その先端部には山体への降水を起源
とする湧水が各溶岩層の隙間より湧出する形で各所に形成された。富士山北麓にお
いてはこれらの湧水や降水が北側の山地との間の低地にたまり、湖や湿地が形成さ
れた。また、溶岩層の中には数多くの風穴、溶岩樹型が形成された。山頂からの噴
火は2200年前の噴火を最後に起こっていないが、歴史時代になっても北西~南

215:底名無し沼さん
18/01/10 10:32:45.53 drxMNnZ10.net
本最古の歌集である『万葉集』(8世紀半ば)や日本最古の物
語とされる『竹取物語』(9世紀後半)をはじめとして、数多
くの和歌・物語など文学の題材となったほか、現存最古となる
『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)をはじめ、数多くの絵画作
品の題材として取り上げられるようになった(表参照)。特に
12世紀後半以降、日本の政治的中心が京都から鎌倉に移動し
、この二つの都市を結び富士山南麓を通る街道の交通量が増加
したことで、富士山の情報は多くの人に記録され、広く知られ
るようになった。修験道―日本古来の山岳信仰と外来宗教の習
合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化したことで富士山
は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した「
修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、霊力を獲
得するために修行する山へと変化していった。当時一般的であ
った神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世界(
又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂部
に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引
率された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口
の設置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後
半に開かれたとされている。このころには参詣の道者のための
宿坊もでき始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた
。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる
日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し
経19済的な発展もあってより多くの人が富士山を目指すよう
になった。このような中で18世紀後半、16世紀に富士山体
や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から
始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富
士講」と呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より
多くの人々が登拝するようになった。富士講や他の登拝者(合
わせて「道者」という。)は原則として固定的・継続的関係を
持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、
祈祷や宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参

216:底名無し沼さん
18/01/10 10:37:28.54 He8C3ID40.net
噴火や溶岩の流出を繰り返す富士山は恐ろしくかつ神秘的な山と
考えられたために、古くから遥拝の対象であったが、日本におけ
る古代国家の統治システムがほぼ整った8世紀後半以降は、繰り
返す噴火を鎮めるため、富士山そのものあるいは富士山に鎮座す
る神を浅間神として祀るようにもなり、各地に遥拝所としての浅
間神社が建立され、国家の宗教政策の一端に位置づけられるよう
になった。また、富士山の神々しく秀麗な姿と周辺の自然環境が
芸術の対象とされるようになり、日本最古の歌集である『万葉集

217:底名無し沼さん
18/01/10 10:38:29.02 drxMNnZ10.net
拝した後、頂上を目指した。登山道には茶屋や山小屋が建てら
れ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的に整備されたの
もこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者
の言動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ
、ここにおいて富士山と周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民
の信仰の場として定着し、山の結界が開放される二ヶ月間に年
平均1万~2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うように
なった。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、
とりわけ江戸時代(17~19世紀半ば)には、文学、絵画、
工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわたって取り上げられ、
三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に
代表される浮世絵の数々は、西洋の画家たちに


218:文化的衝撃を与 えた。19世紀後半には「ジャポニスム」という芸術上の画期 的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるとともに 、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一 つとされてきたのである。日本を訪れた外国人が富士山からイ ンスピレーションを得て記述した紀行文の中でも、富士山のア イコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日本一 有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代 国家としての体制を整えるにつれて、日本を代表する山から日 本を象徴する山へと変貌した。廃仏毀釈と登山の利便性向上1 9世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代化・西 欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道 禁止の方針を打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀 釈の運動により、仏教的施設は神道系の施設に再編されたが、 1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影響もあり 富士山への登拝は継続ないし拡大した。19世紀末以降の鉄道 ・自動車道の開通も、登山者の利便性を格段に向上させた。南 麓へは1889年に東海道線が開通し、北麓へは1900年前 後に馬車鉄道と中央線が開通したことによって、東京からの登 山がさらに活発になった。自動車道としては、1929年に北



219:底名無し沼さん
18/01/10 10:44:42.36 He8C3ID40.net
』(8世紀半ば)や日本最古の物語とされる『竹取物語』(9世
紀後半)をはじめとして、数多くの和歌・物語など文学の題材と
なったほか、現存最古となる『聖徳太子絵伝』(11世紀制作)
をはじめ、数多くの絵画作品の題材として取り上げられるように
なった(表参照)。特に12世紀後半以降、日本の政治的中心が
京都から鎌倉に移動し、この二つの都市を結び富士山南麓を通る
街道の交通量が増加したことで、富士山の情報は多くの人に記録
され、広く知られるようになった。修験道―日本古来の山岳信仰
と外来宗教の習合―また、12世紀頃より噴火活動が沈静化した
ことで富士山は日本古来の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が
習合した「修験道」の道場ともなり、修験者が山中に分け入り、
霊力を獲得するために修行する山へと変化していった。当時一般
的であった神仏習合思想(本地垂迹説)により、山頂部は仏の世
界(又は仏が神の形となって現れる場所)として認識され、山頂
部に至ることが重要な意味を持つようになった。この結果15~
16世紀には登拝する山として一般に広く知られ、修験者に引率
された武家・庶民等による信仰登山が盛んになった。登山口の設
置はいずれも室町時代のことで、14世紀から15世紀後半に開
かれたとされている。このころには参詣の道者のための宿坊もで
き始め、大勢の登山者が登るための設備が整い始めた。登拝の大
衆化―富士講―17世紀前半、約150年にわたる日本国内での
戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的な発
展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このよ
うな中で18世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで
修行し、宗教的覚醒を得た長谷川角行から始まったとされる富士
信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と呼ばれる信仰集
団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するよう
になった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は
原則として固定的・継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する
神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や宗教的指導を受け、湧水で
水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した。登山道
には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設

220:底名無し沼さん
18/01/10 10:45:13.89 He8C3ID40.net
とされている。このころには参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の登山者が
登るための設備が整い始めた。登拝の大衆化―富士講―17世紀前半、約150年
にわたる日本国内での戦乱状態が終了し、江戸幕府の下で治安が安定し経19済的
な発展もあってより多くの人が富士山を目指すようになった。このような中で18
世紀後半、16世紀に富士山体や周辺の風穴などで修行し、宗教的覚醒を得た長谷
川角行から始まったとされる富士信仰が江戸(現在の東京)を中心に「富士講」と
呼ばれる信仰集団を形成して大いに盛んになり、より多くの人々が登拝するように
なった。富士講や他の登拝者(合わせて「道者」という。)は原則として固定的・
継続的関係を持った「御師(宿坊を経営する神職)」の家や宿坊に宿泊し、祈祷や
宗教的指導を受け、湧水で水垢離をとり、浅間神社に参拝した後、頂上を目指した
。登山道には茶屋や山小屋が建てられ、多くの登拝者の活動を支える施設が体系的
に整備されたのもこの頃である。また、富士講においては長谷川角行ら指導者の言
動にならって周辺の風穴や湖沼・滝なども修行の地とされ、ここにおいて富士山と
周辺の宗教施設・霊地・巡礼地は庶民の信仰の場として定着し、山の結界が開放さ
れる二ヶ月間に年平均1万~2万人の人々が信仰を目的とした登山を行うようにな
った。芸術作品の多様化とジャポニスム芸術面においても、とりわけ江戸時代(1
7~19世紀半ば)には、文学、絵画、工芸、庭園等のモチーフとして多岐にわた
って取り上げられ、三保松原と富士山を描いた絵画など多様な表現が追究されるよ
うになった。(表参照)特に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」に代表される浮世絵の
数々は、西洋の画家たちに文化的衝撃を与えた。19世紀後半には「ジャポニスム
」という芸術上の画期的な転機を惹き起こし、印象派の作品に影響を与えるととも
に、その富士山を含んだ構図は海外において日本のイメージの一つとされてきたの
である。日本を訪れた外国人が富士山からインスピレーションを得て記述した紀行
文の中でも、富士山のアイコン的側面を綴ったものが多い。近世以前も富士山は日

221:底名無し沼さん
18/01/10 10:45:40.97 drxMNnZ10.net
口本宮冨士浅間神社から馬返(標高1450m)まで自動車専
用道路が開削され、1937年には大型バスによる輸送も始ま
った。第二次大戦以降、日本の価値観や経済状況の変化により
、富士山への登山は信仰を中心としたものから、富士山への憧
れを主な動機とするものに変化した。また、1964年に中腹
までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが、197
0年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、中腹(
標高2300~2400m)を起点とした登山が主流になった

222:底名無し沼さん
18/01/10 10:52:15.48 He8C3ID40.net
本一有名な山であったが、19世紀後半の開国によって日本が近代国家としての体
制を整えるにつれて、日本を代表する山から日本を象徴する山へと変貌した。廃仏
毀釈と登山の利便性向上19世紀半ばより、明治政府を中心に行われた日本の近代
化・西欧化政策は富士山にも影響を与えた。政府が神仏分離や修験道禁止の方針を
打ち出したことや、これを契機に発生した廃仏毀釈の運動により、仏教的施設は神
道系の施設に再編されたが、1872年の(信仰の山における)女人禁制解禁の影

223:底名無し沼さん
18/01/10 10:52:46.03 drxMNnZ10.net
。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万~30万
人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万~43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山へ
の信仰の核心が受け継がれており、加え


224:て、現代的な富士山信 仰の形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との 関わりが明らかになったことが、環境保護活動の活性化につな がった例などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財 としては、1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山 麓の幅広い地域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は 、1936年に自然公園法により国立公園の一部として指定さ れ、現在も保全の対象となっている。さらに、第二次世界大戦 後の1952年には、新たに文化財保護法によって、御中道以 下500mより上及び一部の登山道などが名勝として(同年、 特別名勝として)指定され、1966年には指定区域を拡大し た。山梨県は1978年(のち、1999年及び2006年に 改定)、静岡県は2006年に「特別名勝富士山」の保存管理 計画を策定し、適切な保存と活用を図っている。周辺の浅間神 社や御師住宅の近代以前の修理や保存の状況は2bで述べたと ころだが、それらを含めた富士山に関わる記念工作物・建造物 群・遺跡は、1907年以降、古社寺保存法(1897年~1 929年)、(国宝保存法(1929年~1950年))、史 蹟名勝天然紀念物保存法(1919年~1950年)、文化財 保護法(1950年~現在)により、名勝、特別天然記念物又 は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定され、文化財ご とに保存管理計画が策定されており、それぞれの価値が最もよ く表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が払われてい る。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括的保存管 理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管理が行 われている。21表富士山の美術(1)日本古来の伝統様式に よるもの(国宝重要文化財)指定所在作品名形式時代(年代) 説明東京国立博物館聖徳太子絵伝屏風1069現在最古の富士 山。聖徳太子が馬で富士山を越える物語の状景。神奈川清浄光



225:底名無し沼さん
18/01/10 10:57:49.86 He8C3ID40.net
況の変化により、富士山への登山は信仰を中心としたものから、
富士山への憧れを主な動機とするものに変化した。また、196
4年に中腹までの自動車道として、北麓の富士山スバルラインが
、1970年に南麓の富士山スカイラインが開通し、これ以降、
中腹(標高2300~2400m)を起点とした登山が主流にな
った。この結果富士山への登山者は急増し、年平均20万~30
万人に達するに至った(2007年からはさらに増加し年間35
万~43万人)。これらの登山者の行動様式の中には富士山への
信仰の核心が受け継がれており、加えて、現代的な富士山信仰の
形態として、静岡県の柿田川のように、新たに富士山との関わり
が明らかになったことが、環境保護活動の活性化につながった例
などがある。最近の保全の歴史20富士山体は文化財としては、
1924年に史蹟名勝天然紀念物保存法により、山麓の幅広い地
域が名勝に仮指定された。これとほぼ同じ範囲は、1936年に
自然公園法により国立公園の一部として指定され、現在も保全の
対象となっている。さらに、第二次世界大戦後の1952年には
、新たに文化財保護法によって、御中道以下500mより上及び
一部の登山道などが名勝として(同年、特別名勝として)指定さ
れ、1966年には指定区域を拡大した。山梨県は1978年(
のち、1999年及び2006年に改定)、静岡県は2006年
に「特別名勝富士山」の保存管理計画を策定し、適切な保存と活
用を図っている。周辺の浅間神社や御師住宅の近代以前の修理や
保存の状況は2bで述べたところだが、それらを含めた富士山に
関わる記念工作物・建造物群・遺跡は、1907年以降、古社寺
保存法(1897年~1929年)、(国宝保存法(1929年
~1950年))、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年~1
950年)、文化財保護法(1950年~現在)により、名勝、
特別天然記念物又は天然記念物、重要文化財、史跡等として指定
され、文化財ごとに保存管理計画が策定されており、それぞれの
価値が最もよく表れる時代の状態が保たれるように細心の注意が
払われている。、また、周辺に位置する個々の文化財は、「包括
的保存管理計画」によって、富士山体も含めた統一的な保存・管


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