18/01/10 06:59:01.69 He8C3ID40.net
勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯すものであるというもの
、3つ目は内院の散銭取得における2番拾いは須走側が得るという慣例となってい
るとし、それを浅間大社が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた
浅間大社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂の入仏につ
いては浅間大社側が造営したものであるので権利は浅間大社にあること、散銭の2
番拾いの慣例は根拠がないということを主張した。それらは第三者に委ねる内済と
101:底名無し沼さん
18/01/10 06:59:34.04 drxMNnZ10.net
配権は同村の支配にあるとして浅間大社を相手として訴えた争
論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側の富士民済
も反論を起こし�
102:ス。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確 定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と 須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行なども関わ る大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越されるこ ととなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉して いたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行 のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目より 上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この 2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山 頂の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に 定められることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士 山富士山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に 指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山 梨県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・ 中野村(現・山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中 道に囲まれる地域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御 殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域 、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山 道および須走口登山道(小山町)が範囲となっている。富士山 の眺望ウィキメディア・コモンズには、各地点からの富士山の 眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望が 得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が 関東の富士見百景として、2005年(平成17年)に選定し た。羽田空港から西に向かう国内便などでは富士山の上空を通 過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをするこ とが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行 される。富士山の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智 勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(妙法山とは別)は、 富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も西にあ るとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島
103:底名無し沼さん
18/01/10 07:04:35.42 He8C3ID40.net
9年(慶長14年)に徳川家康が内院散銭を浅間大社に寄進し、
内院散銭の取得の優位権を得ている。浅間大社の大宮司が村山よ
り登る際は山役銭を取られたので、村山を避け「須走」から登拝
する慣例などもあった。新規に出来た登山道である現富士吉田口
は、登山道を管理している「須走」に許可なく、浅間大社の大宮
司富士信安など富士氏が自分たちに山役銭を支払えば、「須走」
の登山道を利用するにも関わらず勝手に山がけ(登山道を作り山
小屋を建てる)の許可を与えたことで論争となり、「河口」と「
吉田」は1810年に登山ルートや山役銭の徴収方法で論争を起
こし、「大宮」と「吉田」では薬師堂における役銭の配分で争っ
ている過去などがある。元禄の争論元禄16年(1703年)に
散銭や山小屋経営を巡り須走村が富士浅間神社本宮(浅間大社)
を訴えた争論が元禄の争論である。須走村側は東口本宮冨士浅間
神社の神主や御師らが、浅間大社の大宮司富士信安など富士氏ら
を相手取り寺社奉行に訴え出た。訴えは三か条であった。1つは
浅間大社が吉田村の者に薬師嶽の小屋掛けを認めたことへの不服
、2つ目は浅間大社側が造営した薬師堂の棟札に「富士本宮が入
仏を勤める」という旨の記述があることを、須走の既得権を犯す
ものであるというもの、3つ目は内院の散銭取得における2番拾
いは須走側が得るという慣例となっているとし、それを浅間大社
が取得しているという訴えである。これに対し訴えられた浅間大
社側は江戸に赴き、薬師嶽は須走村の地内ではないこと、薬師堂
の入仏については浅間大社側が造営したものであるので権利は浅
間大社にあること、散銭の2番拾いの慣例は根拠がないというこ
とを主張した。それらは第三者に委ねる内済という扱いとなり、
その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:
4で分け、2番拾いは須走が得るものとする」という決定となり
、以後これらは遵守された。安永の争論安永元年(1772年)
に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして浅間大社を
相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間
大社側の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社と
104:底名無し沼さん
18/01/10 07:05:04.38 He8C3ID40.net
いう扱いとなり、その内済にて「他の者に小屋掛けさせないこと」「薬師堂の入仏
は須走村が行うこと」「内院散銭は一番拾いを大宮と須走で6:4で分け、2番拾
いは須走が得るものとする」という決定となり、以後これらは遵守された。安永の
争論安永元年(1772年)に、須走村が山頂の支配権は同村の支配にあるとして
浅間大社を相手として訴えた争論が安永の争論である。またこれをみた浅間大社側
の富士民済も反論を起こした。さらに吉田村と浅間大社とで支配地域を確定する争
論もあったため、ここに大宮・新規参入である吉田と須走の争いの決着が望まれる
こととなり、勘定奉行なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持
ち越されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信奉していたと
いう幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社奉行のいわゆる三奉行による裁
許で、最終的に富士山の8合目より上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決
定された。この2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂の
支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定められることとなった
。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士山は昭和27年(1952年)10月
7日に「名勝」に指定され、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨
県側は富士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・山中湖村
)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地域全部および富士宮口登山
道(富士宮市)と御殿場口登山道(御殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域
、またこれと重複しない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山
道(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・コモンズには、
各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリがあります。富士山への良好な眺望
が得られる128景233地点を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景
として、2005年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内便な
どでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案内するアナウンスをす
105:底名無し沼さん
18/01/10 07:11:07.64 He8C3ID40.net
で支配地域を確定する争論もあったため、ここに大宮・新規参入
である吉田と須走の争いの決着が望まれることとなり、勘定奉行
なども関わる大論争となった。安永8年(1779年)に持ち越
されることとなった。結論は徳川家康が富士山本宮浅間大社を信
奉していたという幕府側の配慮があり、勘定奉行・町奉行・寺社
奉行のいわゆる三奉行による裁許で、最終的に富士山の8合目よ
り上は、富士山本宮浅間大社持ちとすることが決定された。この
2者の争論を起因とする裁判により、これまで曖昧であった山頂
106:底名無し沼さん
18/01/10 07:11:38.94 He8C3ID40.net
ることが多い。また、新年のご来光を見るための遊覧飛行便も運行される。富士山
の眺望の最遠は2013年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士
見峠(妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一番遠く最も
西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1月16日に福島県川俣町と飯
舘村にまたがる花塚山(標高919m)と日本地図センターにより認定された(富
士山からは308kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能とされていた京都
府から2014年に撮影に成功したことにより、20都道府県となった。様々な表
情の富士山富士山の表情は、見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する
。富士と名が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝、露出
した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめとした画家が「赤富士」
を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧した富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。
「モルゲンロート」(ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆
さ富士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の裏の図案に、
本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)から望む日の出時のダイヤモン
ド富士(2015年12月5日撮影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時
、太陽が富士山の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る現
象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることができる。影富士朝日
や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出される風景。富士山登山時に山の上部か
ら、雲海の上に見られる場合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に
傘をかぶせた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になることが多
い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏富士』現在も富士山の山小
屋や登山道の道標として「表口」や「裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県
から見た富士山を表富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これ
107:底名無し沼さん
18/01/10 07:12:06.32 drxMNnZ10.net
がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般
的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」という言
葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身延
川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など
、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術に
おける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(
伝)峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリ
ーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名
所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はない
ものの、記録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題と
して描かれていたと考えられている。現存する最古の富士図は
法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵
伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒
駒に乗った聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士
は中国山水画風の山岳図として描かれている。楽焼白片身変茶
碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分かれた三峰型
富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩
図』など物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富
士信仰の成立に伴い礼拝画としての『富士曼陀羅図』も描かれ
た。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に着色された他の
山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在とし
て認識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼
羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要文化財)には富士山と
その富士山に登る人々や、禊ぎの場であった浅間神社や湧玉池
が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富
士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸
時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵本『百富士』
を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した。浮世絵の
ジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画
『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。多様
な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料を
108:底名無し沼さん
18/01/10 07:16:48.48 He8C3ID40.net
の支配権やその他権利の所在などが、江戸幕府により明確に定め
られることとなった。富士山と眺望特別名勝としての富士山富士
山は昭和27年(1952年)10月7日に「名勝」に指定され
、同年11月22日に「特別名勝」に指定された。山梨県側は富
士吉田市・船津村(現・富士河口湖町)・鳴沢村・中野村(現・
山中湖村)の範囲が指定された。静岡県側は御中道に囲まれる地
域全部および富士宮口登山道(富士宮市)と御殿場口登山道(御
殿場市)を挟む標高1,500m以上の地域、またこれと重複し
ない一合目以上御中道に至る富士宮口登山道および須走口登山道
(小山町)が範囲となっている。富士山の眺望ウィキメディア・
コモンズには、各地点からの富士山の眺望に関連するカテゴリが
あります。富士山への良好な眺望が得られる128景233地点
を、国土交通省関東地方整備局が関東の富士見百景として、20
05年(平成17年)に選定した。羽田空港から西に向かう国内
便などでは富士山の上空を通過する。その際、機長が富士山を案
内するアナウンスをすることが多い。また、新年のご来光を見る
ための遊覧飛行便も運行される。富士山の眺望の最遠は2013
年現在、和歌山県那智勝浦町である。那智勝浦の色川富士見峠(
妙法山とは別)は、富士山頂からの距離は322.9キロで、一
番遠く最も西にあるとされる。また、眺望の北限は2017年1
月16日に福島県川俣町と飯舘村にまたがる花塚山(標高919
m)と日本地図センターにより認定された(富士山からは308
kmの距離にある)。南東方向に約271Km離れた八丈島の三
原山からも眺望される。富士山の見える都道府県は、理論上可能
とされていた京都府から2014年に撮影に成功したことにより
、20都道府県となった。様々な表情の富士山富士山の表情は、
見る場所・角度・季節・時間によって様々に変化する。富士と名
が付く、いくつかの姿がある。画像富士山の姿解説赤富士夏の朝
、露出した山肌が朝焼けにより赤くなった姿。葛飾北斎をはじめ
とした画家が「赤富士」を描いた絵画を残した。紅富士雪化粧し
た富士山が朝日や夕日で紅色に染まる姿。「モルゲンロート」(
ドイツ語Morgenrot)が用いられる場合がある。逆さ富
109:底名無し沼さん
18/01/10 07:17:16.88 He8C3ID40.net
には歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八葉九尊図』では
既に「するが口表」という表記がある。他に『甲斐国志』巻35ではこのような記
述がある。登山路ハ北ハ吉田口、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略
)南面ヲ表トシ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通した
記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方は一般的な認識であっ
たと言える。これとは別に「裏富士」という言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏
不二』『冨嶽三十六景身延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士
』など、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術における富士山
三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝)峰型富士の例(上図)と同じ
構図の実写富士は、ギャラリーに掲載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた
諸国の名所を描く名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記
録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれていたと考えられて
いる。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物である延久元年(1069年)の『
聖徳太子絵伝』(東京国立博物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗っ
た聖徳太子が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳図とし
て描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉時代には山頂が三峰に分
かれた三峰型富士の描写法が確立し、『伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』な
ど物語文学の成立とともに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画
としての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反弧状で緑色に
着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態で描かれ、特別な存在として認
識されていた。室町時代の作とされる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間
大社所蔵、重要文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であった
浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるものである。また、富士
山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1
110:底名無し沼さん
18/01/10 07:17:48.24 drxMNnZ10.net
活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大
波と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌
川広重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士
三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実
地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』
でも、富士山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らは
これらの連作により、それまで富士見の好スポットと認識され
111:底名無し沼さん
18/01/10 07:23:10.67 He8C3ID40.net
士波立ちが少ない水面に映る逆さの富士山の光景。D五千円券の
裏の図案に、本栖湖の逆さ富士が使用された。竜ヶ岳(山梨県)
から望む日の出時のダイヤモンド富士(2015年12月5日撮
影)ダイヤモンド富士太陽が昇った時又は沈む時、太陽が富士山
の頂上と重なり、富士山の頂上付近がダイヤモンドのように光る
現象。富士山が見える西又は東の場所から、年に2回見ることが
できる。影富士朝日や夕日で富士山の山容の影が周囲に映し出さ
れる風景。富士山登山時に山の上部から、雲海の上に見られる場
合がある。笠雲笠雲とレンズ雲を伴う。富士山の頂上に傘をかぶ
せた雲がある風景。その際は、次第に麓では曇りまたは雨になる
ことが多い。「表富士」と「裏富士」『不二三十六景甲斐夢山裏
富士』現在も富士山の山小屋や登山道の道標として「表口」や「
裏口」という表現がみられ、一般的に静岡県から見た富士山を表
富士、山梨県からの姿を裏富士として認知されているが、これに
は歴史的背景がある。延宝8年(1680年)に作成された『八
葉九尊図』では既に「するが口表」という表記がある。他に『甲
斐国志』巻35ではこのような記述がある。登山路ハ北ハ吉田口
、南ハ須走口・村山口・大宮口ノ四道ナリ、(中略)南面ヲ表ト
シ、北面ヲ裏トスレドモ、…??『甲斐国志』他の資料にも共通
した記述がみられ、このように南麓を表、北麓を裏とする考え方
は一般的な認識であったと言える。これとは別に「裏富士」とい
�
112:、言葉があり、葛飾北斎の『富嶽百景裏不二』『冨嶽三十六景身 延川裏不二』や歌川広重の『不二三十六景甲斐夢山裏富士』など 、作品名に採用されている例がみられる。富士山の文化美術にお ける富士山三峰型富士の例絹本着色富士曼荼羅図狩野元信(伝) 峰型富士の例(上図)と同じ構図の実写富士は、ギャラリーに掲 載富士山絵画は平安時代に歌枕として詠まれた諸国の名所を描く 名所絵の成立とともにはじまり、現存する作例はないものの、記 録からこの頃には富士を描いた名所絵屏風の画題として描かれて いたと考えられている。現存する最古の富士図は法隆寺献納宝物 である延久元年(1069年)の『聖徳太子絵伝』(東京国立博 物館)で、これは甲斐の黒駒伝承に基づき黒駒に乗った聖徳太子
113:底名無し沼さん
18/01/10 07:23:38.79 He8C3ID40.net
767年)に河村岷雪が絵本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを
提示した。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響を受けた
葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連作版画『冨嶽三十六景』(
天保元年1831年頃)を出版した。多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠
近法に加え舶来顔料を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き
、夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波と富士を描いた
114:底名無し沼さん
18/01/10 07:24:08.14 drxMNnZ10.net
ていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓
していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の
茶碗に富士山の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。5
0銭政府紙幣(1938年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山か
らの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、
写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われてい
る。日本画においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本
を象徴する意匠として位置づけられ美術をはじめ商業デザイン
などに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き継ぎつつ近
代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道
路網など交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や
保養地としての富士山麓に滞在し富士を題材とした作品を製作
しているが、富士を描いた風景画などを残している画家として
富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチ
ーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、
このことから富士山もヨーロッパで広く知られていた。189
3年(明治26年)、日本を旅行していたオーストリア=ハン
ガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、
日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いった
い、この日本の象徴―ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ば
れる―を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでもっ
とも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染み
だ。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴
として位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描か
れた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
た「日本のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子
らが富士を描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的
画題へのアンチテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして
富士を描く傾向も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で
富士山を「小細工を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも
富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こず
115:底名無し沼さん
18/01/10 07:29:32.72 He8C3ID40.net
が富士を駆け上る姿を描いたもので、富士は中国山水画風の山岳
図として描かれている。楽焼白片身変茶碗銘不二山(国宝)鎌倉
時代には山頂が三峰に分かれた三峰型富士の描写法が確立し、『
伊勢物語絵巻』『曽我物語富士巻狩図』など物語文学の成立とと
もに舞台となる富士が描かれ、富士信仰の成立に伴い礼拝画とし
ての『富士曼陀羅図』も描かれた。また絵地図などにおいては反
弧状で緑色に着色された他の山に対して山頂が白く冠雪した状態
で描かれ、特別な存在として認識されていた。室町時代の作とさ
れる『絹本著色富士曼荼羅図』(富士山本宮浅間大社所蔵、重要
文化財)には富士山とその富士山に登る人々や、禊ぎの場であっ
た浅間神社や湧玉池が描かれており、当時の様子を思わせるもの
である。また、富士山は三峰型富士で描かれている。凱風快晴、
葛飾北斎作江戸時代には明和4年(1767年)に河村岷雪が絵
本『百富士』を出版し、富士図の連作というスタイルを提示した
。浮世絵のジャンルとして名所絵が確立すると、河村岷雪の影響
を受けた葛飾北斎は晩年に錦絵(木版多色摺)による富士図の連
作版画『冨嶽三十六景』(天保元年1831年頃)を出版した。
多様な絵画技法を持つ北斎は大胆な構図や遠近法に加え舶来顔料
を活かした藍摺や点描などの技法を駆使して中でも富士を描き、
夏の赤富士を描いた『凱風快晴』や『山下白雨』、荒れ狂う大波
と富士を描いた『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広
重も北斎より後の1850年代に『不二三十六景』『冨士三十六
景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅して実地のスケ
ッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士
山を題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作
により、それまで富士見の好スポットと認識されていなかった地
点や、甲斐国側からの裏富士を画題として開拓していった。工芸
品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山の風情
を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(193
8年発行)岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富
士は日本画をはじめ絵画作品や工芸、写真、デザインなどあらゆ
る美術のモチーフとして扱われている。日本画においては近代に
116:底名無し沼さん
18/01/10 07:30:01.84 He8C3ID40.net
『神奈川沖浪裏』などが知られる。また、歌川広重も北斎より後の1850年代に
『不二三十六景』『冨士三十六景』を出版した。広重は甲斐国をはじめ諸国を旅し
て実地のスケッチを重ね作品に活かしている。『東海道五十三次』でも、富士山を
題材にした絵が多く見られる。北斎、広重らはこれらの連作により、それまで富士
�
117:ゥの好スポットと認識されていなかった地点や、甲斐国側からの裏富士を画題とし て開拓していった。工芸品としては本阿弥光悦が自ら制作した楽焼の茶碗に富士山 の風情を見出し、「不二山」と銘打っている。50銭政府紙幣(1938年発行) 岡田紅陽が撮影した愛鷹山からの富士山がモデル。富士は日本画をはじめ絵画作品 や工芸、写真、デザインなどあらゆる美術のモチーフとして扱われている。日本画 においては近代に殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画においては伝統を引き 継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制作された。また、鉄道・道路網など 交通機関の発達により数多くの文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞 在し富士を題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残してい る画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがいる。富士山をモチーフと した美術品は当時のヨーロッパでも多く流通しており、このことから富士山もヨー ロッパで広く知られていた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオー ストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は、日記 に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。いったい、この日本の象徴―― ヨーロッパではふつうフジヤマと呼ばれる――を知らない者などいるのだろうか? ヨーロッパでもっとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、金 属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ。??8月15日付 戦時下には国家により富士は国体の象徴として位置づけられ、富士は国家のシンボ ルとして様々に描かれた。戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放され
118:底名無し沼さん
18/01/10 07:30:30.21 drxMNnZ10.net
っている」という。日本画全般の題材として「富士見西行」が
あり、巨大な富士山を豆粒のような人物(僧、西行法師)が見
上げるという構図で、水墨画や彫金でも描かれている。千円札
、旧五千円札のモデルとなった本栖湖からの富士山近代では紙
幣や切手のデザインにも用いられている。富士山が紙幣のデザ
インに用いられる例は数多くある。古くは1913年発行の5
0銭政府紙幣があり、愛鷹山からの富士山でる。その後の19
51年と1969年発行の旧五百円札は大月市の雁ヶ腹摺山か
らの富士山を元にしている。1984年発行の旧五千円札と2
004年発行の千円札は本栖湖の湖畔からの富士山である。富
士山を描写した切手が郵便局から発売された。河口湖、西湖、
精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成11年))葛飾北
斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグサ・山梨県(
2005年(平成17年))文学における富士山富士山は和歌
の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』の中には
、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子の浦ゆ
うち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(3.
318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また、
この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・3
19・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、
(山頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時
の富士山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今
和歌集』から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙
の空にきえてゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都
人にとって富士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学で
は都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『
竹取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや
姫から贈られた不老不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じ
て天に一番近い山の山頂で燃やしたことになっている。それか
らその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市
119:底名無し沼さん
18/01/10 07:36:33.43 He8C3ID40.net
殖産興業などを通じて富士が日本を象徴する意匠として位置づけ
られ美術をはじめ商業デザインなどに幅広く用いられ、絵画にお
いては伝統を引き継ぎつつ近代的視点で描かれた富士山絵画が制
作された。また、鉄道・道路網など交通機関の発達により数多く
の文人・画家が避暑地や保養地としての富士山麓に滞在し富士を
題材とした作品を製作しているが、富士を描いた風景画などを残
120:底名無し沼さん
18/01/10 07:37:34.20 drxMNnZ10.net
比奈地区には、「竹採塚」として言い伝えられている場所が現
存している。ほか、『源氏物語』や『伊勢物語』でも富士に言
及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少ない
。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、
古代においては駿河国に帰属していたため古典文学においては
駿河側の富士が題材となることが多いが、『堤中納言物語』で
は甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲瓏」
という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見て
も整った美しい形を表している。�
121:�世から近世には富士北麓地 域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸として俳諧が盛 んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾野の観 光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的など で富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學ら が富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多くの紀 行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり、 武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書 いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の 記録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託 の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ 激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を 記した。また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の 中村星湖や戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ 作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも 務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小 説『富嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」 はよく知られ、山梨県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建 っている。直木賞作家である新田次郎は富士山頂測候所に勤務 していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を 描いた直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の 富士にまつわる作品を執筆している。高浜虚子は静岡県富士宮 市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見て歌を詠んだ。駅 前にはその歌碑が建てられている。「とある停車場富士の裾野
122:底名無し沼さん
18/01/10 07:42:53.20 He8C3ID40.net
している画家として富岡鉄斎、洋画においては和田英作などがい
る。富士山をモチーフとした美術品は当時のヨーロッパでも多く
流通しており、このことから富士山もヨーロッパで広く知られて
いた。1893年(明治26年)、日本を旅行していたオースト
リア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント
大公は、日記に次のように書いている。フジサン、フジノヤマ。
いったい、この日本の象徴―ヨーロッパではふつうフジヤマと
呼ばれる―を知らない者などいるのだろうか?ヨーロッパでも
っとも好まれる日本工芸のデザインとして漆器、陶磁器、和紙、
金属などに描かれているから、もう、わたしたちにはお馴染みだ
。??8月15日付戦時下には国家により富士は国体の象徴とし
て位置づけられ、富士は国家のシンボルとして様々に描かれた。
戦後には国体のシンボルとしてのイメージから解放された「日本
のシンボル」として、日本画家の横山大観や片岡球子らが富士を
描いた。また、現代美術の世界ではこれらの伝統的画題へのアン
チテーゼとしてパロディや風刺、アイコンとして富士を描く傾向
も見られる。深田久弥は『日本百名山』の中で富士山を「小細工
を弄しない大きな単純」と評し、「幼童でも富士の絵は描くが、
その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている」という。日
本画全般の題材として「富士見西行」があり、巨大な富士山を豆
粒のような人物(僧、西行法師)が見上げるという構図で、水墨
画や彫金でも描かれている。千円札、旧五千円札のモデルとなっ
た本栖湖からの富士山近代では紙幣や切手のデザインにも用いら
れている。富士山が紙幣のデザインに用いられる例は数多くある
。古くは1913年発行の50銭政府紙幣があり、愛鷹山からの
富士山でる。その後の1951年と1969年発行の旧五百円札
は大月市の雁ヶ腹摺山からの富士山を元にしている。1984年
発行の旧五千円札と2004年発行の千円札は本栖湖の湖畔から
の富士山である。富士山を描写した切手が郵便局から発売された
。河口湖、西湖、精進湖、本栖湖、山中湖(1999年(平成1
1年))葛飾北斎(1999年(平成11年))オオマツヨイグ
サ・山梨県(2005年(平成17年))文学における富士山富
123:底名無し沼さん
18/01/10 07:43:21.39 He8C3ID40.net
され、古典文学では都良香『富士日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹
取物語』は物語後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老不
死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山頂で燃やしたことに
なっている。それからその山は数多の士に因んでふじ山(富士山)と名付けられた
とする命名説話を記している。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹
採塚」として言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語』や『伊
勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要な舞台となるケースは少な
い。富士は甲駿の国境に位置することが正確に認識されており、古代においては駿
河国に帰属していたため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多い
が、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。また、「八面玲
瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、どの方角から見ても整った美しい
形を表している。中世から近世には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期に
は地域文芸として俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富士裾
野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑目的などで富士へ訪れ
るようになり、新田次郎や草野心平、堀口大學らが富士をテーマにした作品を書き
、山岳文学をはじめ多くの紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多
くおり、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書いており、
妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記録を『富士日記』として記し
ている。津島佑子は山梨県嘱託の地質学者であった母方の石原家をモデルに、富士
を望みつつ激動の時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や戦後の在日朝鮮人
文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富士を描いており、中村星湖は地域文
芸の振興にも務めている。太宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富
嶽百景』の一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨県富士
124:底名無し沼さん
18/01/10 07:43:52.77 drxMNnZ10.net
で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興
富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登山を目的とする観光客相
手の観光業も活発に行われている。しかし、富士山麓には温泉
地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、
山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、山頂所有権問題
、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺産登録問題等
、過去から現在に至るまでの折々�
125:ナ双方の思惑の相違が表面化
126:底名無し沼さん
18/01/10 07:48:50.11 He8C3ID40.net
士山は和歌の歌枕としてよく取り上げられる。また、『万葉集』
の中には、富士山を詠んだ歌がいくつも収められている。「田子
の浦ゆうち出でてみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」(
3.318)は山部赤人による有名な短歌(反歌)である。また
、この反歌のその次には作者不詳の長歌があり、その一節に「…
燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ…」(巻3・31
9・大意「(噴火の)燃える火を(山頂に降る)雪で消し、(山
頂に)降る雪を(噴火の)火で消しつつ」)とあり、当時の富士
山が火山活動を行っていたことがうかがえる。『新古今和歌集』
から。富士の煙が歌われている。風になびく富士の煙の空にきえ
てゆくへもしらぬ我が心かな西行(#1613)都人にとって富
士は遠く神秘的な山として認識され、古典文学では都良香『富士
日記』が富士の様子や伝承を記録している。『竹取物語』は物語
後半で富士が舞台となり、時の天皇がかぐや姫から贈られた不老
不死の薬を、つきの岩笠と大勢の士に命じて天に一番近い山の山
頂で燃やしたことになっている。それからその山は数多の士に因
んでふじ山(富士山)と名付けられたとする命名説話を記してい
る。なお、富士山麓の静岡県富士市比奈地区には、「竹採塚」と
して言い伝えられている場所が現存している。ほか、『源氏物語
』や『伊勢物語』でも富士に言及される箇所があるものの、主要
な舞台となるケースは少ない。富士は甲駿の国境に位置すること
が正確に認識されており、古代においては駿河国に帰属していた
ため古典文学においては駿河側の富士が題材となることが多いが
、『堤中納言物語』では甲斐側の富士について触れられている。
また、「八面玲瓏」という言葉は富士山から生まれたといわれ、
どの方角から見ても整った美しい形を表している。中世から近世
には富士北麓地域に富士参詣者が往来し、江戸期には地域文芸と
して俳諧が盛んであった。近代には鉄道など交通機関の発達や富
士裾野の観光地化の影響を受けて、多くの文人や民俗学者が避暑
目的などで富士へ訪れるようになり、新田次郎や草野心平、堀口
大學らが富士をテーマにした作品を書き、山岳文学をはじめ多く
の紀行文などに描かれた。富士山麓に滞在した作家は数多くおり
127:底名無し沼さん
18/01/10 07:49:20.36 He8C3ID40.net
河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家である新田次郎は富士山
頂測候所に勤務していた経験をもとに、富士山の強力(ごうりき)の生き様を描い
た直木賞受賞作『強力伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執
筆している。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美しい富士山を見
て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている。「とある停車場富士の裾野で
竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設
128:底名無し沼さん
18/01/10 07:49:49.73 drxMNnZ10.net
している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経
験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の山開き
から9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。期間
外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。と
くに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登
山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場
所は著名な観光地となっていることが多い。箱根-箱根は富士
山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の
乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶
えない。また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖-富
士五湖は富士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ
富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝-白糸の滝は上
流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す
非常に珍しい形成をしている滝である。また、音止めの滝と共
に日本の滝百選に指定されている。朝霧高原-朝霧高原は富士
山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自然と広大な
土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている
。ダイヤモンド富士-ダイヤモンド富士などがはっきりと拝め
る田貫湖や山中湖といったスポットも有名で、特に写真撮影を
目的として訪れる観光客もいる。ドライブ-富士スバルライン
や富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで
上がることができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり
、冬期は閉鎖される。富士山の日(2月23日)2月23日を
「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで読み「富士山の
日」として制定している自治体がある。2001年(平成13
年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。
2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県
の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2009年(平
成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決
。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富
士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当たり前」
の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、各自
129:底名無し沼さん
18/01/10 07:54:29.32 He8C3ID40.net
、武田泰淳は富士山麓の精神病院を舞台とした小説『富士』を書
いており、妻の武田百合子も泰淳の死後に富士山荘での生活の記
録を『富士日記』として記している。津島佑子は山梨県嘱託の地
質学者であった母方の石原家をモデルに、富士を望みつつ激動の
時代を過ごした一族の物語である『火の山―山猿記』を記した。
また、北麓地域出身の文学者として自然主義文学者の中村星湖や
戦後の在日朝鮮人文学者の李良枝がおり、それぞれ作品の中で富
士を描いており、中村星湖は地域文芸の振興にも務めている。太
宰治が昭和14年(1939年)に執筆した小説『富嶽百景』の
一節である「富士には月見草がよく似合ふ」はよく知られ、山梨
県富士河口湖町の御坂峠にはその碑文が建っている。直木賞作家
である新田次郎は富士山頂測候所に勤務していた経験をもとに、
富士山の強力(ごうりき)の生き様を描いた直木賞受賞作『強力
伝』や『富士山頂』をはじめ数々の富士にまつわる作品を執筆し
ている。高浜虚子は静岡県富士宮市の沼久保駅で降りた際、美し
い富士山を見て歌を詠んだ。駅前にはその歌碑が建てられている
。「とある停車場富士の裾野で竹の秋/ぬま久保で降りる子連れ
花の姥」富士山と地域振興富士山一帯の宗教施設や避暑、富士登
山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しか
し、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出してい
130: ない。富士山の利用について、静岡県側が自然・文化の保護を重 視するのに対し、山梨県側は伝統的に観光開発を重視しており、 山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題、世界遺 産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相 違が表面化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の 知識や経験、装備が不可欠である。一般的には、毎年7月1日の 山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、登山が可能である。 期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている。 とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登 山」を参照その他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所 は著名な観光地となっていることが多い。箱根-箱根は富士山が 望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や各種の乗り物
131:底名無し沼さん
18/01/10 07:54:58.51 He8C3ID40.net
や避暑、富士登山を目的とする観光客相手の観光業も活発に行われている。しかし
、富士山麓には温泉地として成立する規模の湯量は湧出していない。富士山の利用
について、静岡県側が自然・文化の保護を重視するのに対し、山梨県側は伝統的に
観光開発を重視しており、山頂所有権問題、山小屋トイレ問題、マイカー規制問題
、世界遺産登録問題等、過去から現在に至るまでの折々で双方の思惑の相違が表面
化している。富士山と観光富士登山富士登山には登山の知識や経験、装備が不可欠
である。一般的には、毎年7月1日の山開きから9月上旬の山じまいまでの期間、
登山が可能である。期間外は、万全な準備をしない者の登山は原則禁止されている
。とくに積雪期・残雪期の登山は自殺行為である。詳細は「富士登山」を参照その
他の観光その優美な姿から、富士山が見える場所は著名な観光地となっていること
が多い。箱根-箱根は富士山が望めるうえに、東京から近く温泉や歴史・美術館や
各種の乗り物が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。また
、夏は避暑地としても有名である。富士五湖-富士五湖は富士山周辺の観光地とし
て著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀行券に採用されている。白糸の滝-白糸
の滝は上流に川は存在せず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍し
い形成をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指定されてい
る。朝霧高原-朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポットとして著名であり、その自
然と広大な土地もあり過去に第13回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤ
モンド富士-ダイヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる。ドライブ-富士
スバルラインや富士山スカイラインなどを利用して、5合目までマイカーで上がる
ことができる。シーズン中はマイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士
山の日(2月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合わせで
読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2001年(平成13年)
132:底名無し沼さん
18/01/10 07:55:25.90 drxMNnZ10.net
治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せ
て富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したい
との期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に
対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休
業日とするよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があ
るなか、麓である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日
とすることはなじまない」という理由で、2011年以降休業
日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる
場の提供や、富士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館な
どの社会教育施設にも富士山の日にちなんだ事業実施を要請し
ている。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソコン通
信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォー
ラム(FYAMAP)」で、1996年1月1日にネット上で
発表した。富士山ナンバー静岡運輸支局管内の4市2町と山梨
運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆるご当地ナ
ンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付
が開始された。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは
珍しい。富士山検定「富士山検定実行委員会」が主催する富士
山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、静岡新聞社
・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検
定協会の5者により行われている。地域間交流富士山頂の湧水
を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年
以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続けられている
。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になっ
た」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐこ
とを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを
「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中華民
国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結されて
いる。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉
133:底名無し沼さん
18/01/10 08:00:22.21 He8C3ID40.net
が楽しめることもあり、年間を通じて内外の観光客が絶えない。
また、夏は避暑地としても有名である。富士五湖-富士五湖は富
士山周辺の観光地として著名であり、本栖湖の逆さ富士が日本銀
行券に採用されている。白糸の滝-白糸の滝は上流に川は存在せ
ず、富士山の雪解け水が溶岩断層から湧き出す非常に珍しい形成
をしている滝である。また、音止めの滝と共に日本の滝百選に指
定されている。朝霧高原-朝霧高原は富士山を綺麗に臨むスポッ
トとして著名であり、その自然と広大な土地もあり過去に第13
134:底名無し沼さん
18/01/10 08:00:51.50 He8C3ID40.net
山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)にて条例を制定。2002年(平成14年
)山梨県富士吉田市を中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承
。2009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会一致で可決。
同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どちらも、富士山は普段の生活に溶
け込み過ぎており、「あって当たり前」の空気のような存在である。そのため「富
士山の日」に、各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加する
事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルとしても名高い名峰と
して再認識する機会としている。また併せて富士山の世界遺産登録に向けた動きを
地元から活発化したいとの期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村
135: に対して2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とするよう要 望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓である富士市教育委員会で は「特定日を学校休業日とすることはなじまない」という理由で、2011年以降 休業日としていない。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富 士山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設にも富士山の日に ちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山の日を最初に宣言したのは、パソ コン通信「NIFTY-Serve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYA MAP)」で、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静岡運 輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を対象とした、いわゆる ご当地ナンバーとして2008年11月4日から富士山ナンバーの交付が開始され た。管轄支局が二県にまたがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検 定実行委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商工会議所、 静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、NPO法人富士山検定協会の 5者により行われている。地域間交流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富 士山頂へ注ぐ交流が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
136:底名無し沼さん
18/01/10 08:01:18.81 drxMNnZ10.net
山(台湾)-日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であ
った。標高3,952メートル。雪山(台湾)-日本統治時代
は次高山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,
886メートル。北岳-日本で2番目に高い山。標高3,19
3メートル。日和山(仙台市)-日本で最も低い山。標高3メ
ートル。エベレスト-世界最高峰。標高8,844メートル。
文字この節には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示でき
ない文字(Unicode6.0の絵文字)が含まれています
。和文通話表で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文
字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ
ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI
」として富士山も含まれている。続けられている。これは「近
江の土を掘り富士山を作りその穴が琵琶湖になった」という伝
説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖へ注ぐことを「お水返
し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐことを「お水取り」
という[82][83]。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結さ
れている[84]。標高3,952メートルの玉山は台湾の日
本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他
[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)-日本統治時代は新
高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,952メートル
。雪山(台湾)-日本統治時代は次高山と呼ばれ、日本で2番
目に高い山であった。標高3,886メートル。北岳-日本で
2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(仙台市)
-日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト-世界最高
峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、一部
のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unico
de6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのU
nicode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字
も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士
山も含まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静
137:底名無し沼さん
18/01/10 08:06:43.11 He8C3ID40.net
回世界ジャンボリーも開催されている。ダイヤモンド富士-ダイ
ヤモンド富士などがはっきりと拝める田貫湖や山中湖といったス
ポットも有名で、特に写真撮影を目的として訪れる観光客もいる
。ドライブ-富士スバルラインや富士山スカイラインなどを利用
して、5合目までマイカーで上がることができる。シーズン中は
マイカー規制の期間があり、冬期は閉鎖される。富士山の日(2
月23日)2月23日を「2:ふ・2:じ・3:さん」と語呂合
わせで読み「富士山の日」として制定している自治体がある。2
001年(平成13年)山梨県富士河口湖町(当時は河口湖町)
にて条例を制定。2002年(平成14年)山梨県富士吉田市を
中心に、山梨県の富士山麓10市町村、2恩賜林組合が了承。2
009年(平成21年)12月21日静岡県議会にて条例を全会
一致で可決。同年12月25日条例を制定。静岡県、山梨県どち
らも、富士山は普段の生活に溶け込み過ぎており、「あって当た
り前」の空気のような存在である。そのため「富士山の日」に、
各自治体や県内企業などがさまざまなイベント等を催し、参加す
る事など通じて、身近すぎる富士山を改めて、日本のシンボルと
しても名高い名峰として再認識する機会としている。また併せて
富士山の世界遺産登録に向けた動きを地元から活発化したいとの
期待も込められている。静岡県教育委員会で、各市町村に対して
2011年(平成23年)より「富士山の日」を学校休業日とす
るよう要望した。休業日として組み込んだ自治体があるなか、麓
である富士市教育委員会では「特定日を学校休業日とすることは
なじまない」という理由で、2011年以降休業日としていない
。ただし富士山の日の意義から、学校で学べる場の提供や、富士
山こどもの国の無料開放、図書館や博物館などの社会教育施設に
も富士山の日にちなんだ事業実施を要請している。なお、富士山
の日を最初に宣言したのは、パソコン通信「NIFTY-Ser
ve」内の「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」で
、1996年1月1日にネット上で発表した。富士山ナンバー静
岡運輸支局管内の4市2町と山梨運輸支局管内の1市2町4村を
対象とした、いわゆるご当地ナンバーとして2008年11月4
138:底名無し沼さん
18/01/10 08:07:43.83 drxMNnZ10.net
岡県学術日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士
山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、
日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦す
る資産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から
成り、現行の行政区分に基づく各構成資産の所在地については
以下に記すとおりである。構成資産所在地No.所在地座標計
測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場
市・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口
139:底名無し沼さん
18/01/10 08:13:46.10 He8C3ID40.net
日から富士山ナンバーの交付が開始された。管轄支局が二県にま
たがるナンバープレートは珍しい。富士山検定「富士山検定実行
委員会」が主催する富士山検定が、富士商工会議所、富士吉田商
工会議所、静岡新聞社・静岡放送、山梨日日新聞社・山梨放送、
NPO法人富士山検定協会の5者により行われている。地域間交
流富士山頂の湧水を琵琶湖へ、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ交流
が昭和三十二年以降静岡県富士宮市と滋賀県近江八幡市の間で続
けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りその穴が琵
琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水を琵琶湖
へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山頂へ注ぐ
ことを「お水取り」という。2014年には日本富士山協会と中
華民国山岳協会との間で、富士山と玉山の友好山提携が締結され
ている。標高3,952メートルの玉山は台湾の日本統治時代に
新高山と呼ばれ、日本の最高峰であった。その他他山の標高玉山
(台湾)-日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった
。標高3,952メートル。雪山(台湾)-日本統治時代は次高
山と呼ばれ、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メ
ートル。北岳-日本で2番目に高い山。標高3,193メートル
。日和山(仙台市)-日本で最も低い山。標高3メートル。エベ
レスト-世界最高峰。標高8,844メートル。文字この節には
、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Uni
code6.0の絵文字)が含まれています。和文通話表で、「
ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUnico
de6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追加され
たが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含まれて
いる。続けられている。これは「近江の土を掘り富士山を作りそ
の穴が琵琶湖になった」という伝説からである。富士山頂の湧水
を琵琶湖へ注ぐことを「お水返し」といい、琵琶湖の水を富士山
頂へ注ぐことを「お水取り」という[82][83]。2014
年には日本富士山協会と中華民国山岳協会との間で、富士山と玉
山の友好山提携が締結されている[84]。標高3,952メー
トルの玉山は台湾の日本統治時代に新高山と呼ばれ、日本の最高
140:底名無し沼さん
18/01/10 08:14:16.04 He8C3ID40.net
ートル。エベレスト-世界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節
には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unicode6.
0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
141:で、「ふ」を送る際に「富士 山のフ」という。文字コードのUnicode6.0では、携帯電話などで使われ ていた絵文字も追加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含 まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術日本政府が世界遺
142:底名無し沼さん
18/01/10 08:14:48.43 drxMNnZ10.net
湖町)県境未確定地富士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地
帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲を示す図面、並びに
資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びそ
の緩衝地帯の面積、資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積に
ついては、以下に記すとおりである。構成資産面積:緩衝地帯
面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積(
ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、
標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増
すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線を呈し、類まれ
な優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山である
。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的
な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中
央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレート、北
アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその下に
東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に
存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御
岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さら
にそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の
火口はおよそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリ
ピン海プレートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から
押し続けているため割れ目が発生することによって、山頂を通
って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以
降も火山活動を行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩など
の火山噴出物は、適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の
山容を形成しながら、山頂を中心として約15~20km(最
大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴・溶
岩樹型等の地形が見られ、溶岩流の末端部では富士山の中腹以
上への降水を起源とする豊富な湧水(日量約450~680万
t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田川)が見られる
。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点在
143:底名無し沼さん
18/01/10 08:20:50.94 He8C3ID40.net
峰であった。その他[編集]他山の標高[編集]玉山(台湾)-
日本統治時代は新高山と呼ばれ、日本最高峰であった。標高3,
952メートル。雪山(台湾)-日本統治時代は次高山と呼ばれ
、日本で2番目に高い山であった。標高3,886メートル。北
岳-日本で2番目に高い山。標高3,193メートル。日和山(
仙台市)-日本で最も低い山。標高3メートル。エベレスト-世
界最高峰。標高8,844メートル。文字[編集]この節には、
一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Unic
ode6.0の絵文字)が含まれています(詳細)。和文通話表
で、「ふ」を送る際に「富士山のフ」という。文字コードのUn
icode6.0では、携帯電話などで使われていた絵文字も追
加されたが、その中に「MOUNTFUJI」として富士山も含
まれている。富士山世界文化遺産平成22年度第1回静岡県学術
日本政府が世界遺産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東
アジアの東端に当たる日本列島の本州島の中央部、日本の東海地
方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資産は17個
の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政
区分に基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりで
ある。構成資産所在地No.所在地座標計測位置緯度経度A静岡
県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市・小山町)山梨県(富
士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富士山
(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の
位置及び範囲を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分
を示す図面は以下のとおりである。f)資産面積及び緩衝地帯の
面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、資産の総面積及
びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。
構成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(h
a)緩衝地帯の面積(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全
体の説明富士山は、標高3776mと日本一の高さを誇る独立峰
である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい懸垂曲線
を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成
層火山である。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面か
144:底名無し沼さん
18/01/10 08:21:21.15 He8C3ID40.net
産一覧表への記載を推薦する「富士山」は、東アジアの東端に当たる日本列島の本
州島の中央部、日本の東海地方の東部及び関東地方の西部に位置する。推薦する資
産は17個の構成資産(26個の構成要素(後述))から成り、現行の行政区分に
基づく各構成資産の所在地については以下に記すとおりである。構成資産所在地N
o.所在地座標計測位置緯度経度A静岡県(富士宮市・富士市・裾野市・御殿場市
・小山町)山梨県(富士吉田市・身延町・鳴沢村・富士河口湖町)県境未確定地富
士山(山頂剣ヶ峰)資産範囲及び緩衝地帯の範囲図資産と緩衝地帯の位置及び範囲
を示す図面、並びに資産近傍における法的保護区分を示す図面は以下のとおりであ
る。f)資産面積及び緩衝地帯の面積各構成資産の面積及びその緩衝地帯の面積、
資産の総面積及びその緩衝地帯の総面積については、以下に記すとおりである。構
成資産面積:緩衝地帯面積:合計:No.構成資産の面積(ha)緩衝地帯の面積
(ha)合計説明a)資産の説明1)資産全体の説明富士山は、標高3776mと
日本一の高さを誇る独立峰である。高度を増すごとに山腹の傾斜が急になる美しい
懸垂曲線を呈し、類まれな優美さを持つ円錐形の山容を有した玄武岩質成層火山で
ある。その山体は南の駿河湾の海浜にまで及び、海面からの実質的な高さは世界的
にも有数である。富士山は、日本列島のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート
、ユーラシアプレート、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにそ
の下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点に存在する。富
士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴出物からなる地層の上に第四紀更
新世に造り上げられた先小御
145:岳火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富 士、さらにそれを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口はおよ そ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プレートが北進しユーラ シアプレートを南南東方向から押し続けているため割れ目が発生することによって 、山頂を通って北北西に向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山
146:底名無し沼さん
18/01/10 08:21:49.36 drxMNnZ10.net
している。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然
物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の
念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合した信仰の対象と
された。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えら
れた山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体
及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・湧水といった自然
物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設けられ、登山のた
めの道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山
信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域な
いし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域ではさらに
、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」(
森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草
山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯
は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活の
ために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られ
る湧水は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代に
おいても柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われてい
る。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた
姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代
を超えて多くの人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的
な創造意欲を掻き立てた。富士山体のうち、標高約1500m
以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が
重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い
。各登山道における山体の神聖性に関する境界の一つである「
馬返」(乗馬登山が物理的にも、宗教的観点からも不可能にな
る地点)の標高以上の範囲とほぼ一致している。地元住民が、
とりわけこの「馬返」より上を指して「オヤマ」又は「オヤマ
サマ」と呼び、富士山の範囲とみなす地域もあった。景観的に
は山体の傾斜角の変化率が大きくなり「平野部」と「山体」の
境界として認識され、稜線が優美な曲線を描き絵画などの対象
147:底名無し沼さん
18/01/10 08:27:11.96 He8C3ID40.net
らの実質的な高さは世界的にも有数である。富士山は、日本列島
のほぼ中央に位置し、フィリピン海プレート、ユーラシアプレー
ト、北アメリカプレートの三つのプレートが会合し、さらにその
下に東側から巨大な太平洋プレートが沈み込んでいる特異な地点
に存在する。富士山は、新生代第三紀中新世のおもに海底火山噴
出物からなる地層の上に第四紀更新世に造り上げられた先小御岳
148:底名無し沼さん
18/01/10 08:27:40.08 He8C3ID40.net
活動を行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、適度な粘度
を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら、山頂を中心として約15~
20km(最大約30km)の範囲に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型
等の地形が見られ、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450~680万t、現在最大の湧水は日量約100万tの柿田
川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水や降水を起源とする湖沼が点在して
いる。上記のような自然的環境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信
仰の伝統を持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教の融合
した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず、神仏の在所と考えられ
た山頂への登山という宗教行為が一般化するとともに、山体及び山麓周辺に神社な
どの宗教施設や風穴・湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が
設けられ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステムが作られた
。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士講(富士山信仰の集団の一つ)
信者には「焼山」と呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた
。北麓地域ではさらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山」
(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「草山」)と死の世界
(「焼山」)を往復することでこの世の罪と穢れを消すという富士登拝の区分と関
連付けていた。森林地帯は神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生
活のために利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水は登山前
に身を清めるために必須のものであり、現代においても柿田川をはじめ各所で「霊
水」として取り扱われている。また、富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を
戴いた姿、周辺の湖や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多く
の人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き立てた。富士山
体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可
149:底名無し沼さん
18/01/10 08:28:09.54 drxMNnZ10.net
とされることが多い範囲である。2)資産の構成推薦資産は、
日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と、周辺の浅間神社や
御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹型・湖沼、芸術作
品の視点場(又は舞台)となった地点から構成される。富士山
体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの�
150:d要な要素が含まれて いる。これらの構成資産が一体となった推薦資産「富士山」は 、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山と人間と の精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに、芸術 的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素の分 類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A2 大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山 道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、 記念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺 跡B1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B 5遺跡B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9 遺跡B10遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B 15遺跡C遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮 浅間神社河口湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走 浅間神社)河口浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素 忍野八海船津胎内樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅 間神社御師住宅山中湖673)構成資産の説明富士山(富士山 体)・展望地点富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を 始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋 といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在 する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領 域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も 高い。特に本栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用され た写真の撮影地や富士山を描く典型的な構図に含まれる景勝地 であり、主要な展望を供する展望地点である。また推薦範囲は 、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標 高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世 界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境
151:底名無し沼さん
18/01/10 08:33:29.01 He8C3ID40.net
火山とそれに重なる小御岳火山を土台として、古富士、さらにそ
れを覆う新富士山の4層構造で構成されている。山頂部の火口は
およそ2200年前を最後に噴火していないが、フィリピン海プ
レートが北進しユーラシアプレートを南南東方向から押し続けて
いるため割れ目が発生することによって、山頂を通って北北西に
向かう方向にほぼ直線的に側火山が並び、有史以降も火山活動を
行ってきた。富士山が過去に流出した溶岩などの火山噴出物は、
適度な粘度を持つために美しいコニーデ型の山容を形成しながら
、山頂を中心として約15~20km(最大約30km)の範囲
に広がった。山麓には数多くの風穴・溶岩樹型等の地形が見られ
、溶岩流の末端部では富士山の中腹以上への降水を起源とする豊
富な湧水(日量約450~680万t、現在最大の湧水は日量約
100万tの柿田川)が見られる。富士山北麓ではこれらの湧水
や降水を起源とする湖沼が点在している。上記のような自然的環
境を持つ富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を
持っていた日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教
の融合した信仰の対象とされた。遥拝や山中での修行のみならず
、神仏の在所と考えられた山頂への登山という宗教行為が一般化
するとともに、山体及び山麓周辺に神社などの宗教施設や風穴・
湧水といった自然物・自然現象を起源とする霊地・巡礼地が設け
られ、登山のための道や施設及びそれを支援する包括的なシステ
ムが作られた。標高約2500m付近の森林限界より上方は富士
講(富士山信仰の集団の一つ)信者には「焼山」と呼ばれ、神聖
な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。北麓地域では
さらに、山体を上方から順に「焼山」(森林限界以上)、「木山
」(森林地帯)、「草山」(草原地帯)と呼び習わし、俗界(「
草山」)と死の世界(「焼山」)を往復することでこの世の罪と
穢れを消すという富士登拝の区分と関連付けていた。森林地帯は
神聖な地域の入口の一つとされる一方で木材の伐採等生活のため
に利用される地域でもあった。また、富士山山麓に見られる湧水
は登山前に身を清めるために必須のものであり、現代においても
柿田川をはじめ各所で「霊水」として取り扱われている。また、
152:底名無し沼さん
18/01/10 08:34:30.54 drxMNnZ10.net
内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200~3375m)以上と、
山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。A
富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(
写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の浅間神
社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀
前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけになっ
たと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
153:底名無し沼さん
18/01/10 08:40:34.66 He8C3ID40.net
富士山の稜線、冬季に一般的に見られる雪を戴いた姿、周辺の湖
や海岸線などの展望地から眺めた景観などが時代を超えて多くの
人々に神秘的な美しさとして賞賛され、芸術的な創造意欲を掻き
立てた。富士山体のうち、標高約1500m以上の範囲は、周辺
の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸
術・鑑賞の側面における比重が最も高い。各登山道における山体
の神聖性に関する境界の一つである「馬返」(乗馬登山が物理的
にも、宗教的観点からも不可能になる地点)の標高以上の範囲と
ほぼ一致している。地元住民が、とりわけこの「馬返」より上を
指して「オヤマ」又は「オヤマサマ」と呼び、富士山の範囲とみ
なす地域もあった。景観的には山体の傾斜角の変化率が大きくな
り「平野部」と「山体」の境界として認識され、稜線が優美な曲
線を描き絵画などの対象とされることが多い範囲である。2)資
産の構成推薦資産は、日本列島のほぼ中央に位置する富士山体と
、周辺の浅間神社や御師住宅、霊地・巡礼地である風穴・溶岩樹
型・湖沼、芸術作品の視点場(又は舞台)となった地点から構成
される。富士山体の中には山頂信仰遺跡や登山道などの重要な要
素が含まれている。これらの構成資産が一体となった推薦資産「
富士山」は、山に対する固有の文化的伝統を表す物証であり、山
と人間との精神的な関係を生み出した景観の見本であるとともに
、芸術的作品との関連がある山岳である。表構成資産/構成要素
の分類No.世界遺産条約上の分類遺跡A1山頂信仰遺跡遺跡A
2大宮・村山口登山道遺跡A3須山口登山道遺跡A4須走口登山
道遺跡A5吉田口登山道遺跡A6北口本宮冨士浅間神社遺跡、記
念工作物、建造物A7西湖遺跡A8精進湖遺跡A9本栖湖遺跡B
1遺跡、記念工作物、建造物B2遺跡B3遺跡B4遺跡B5遺跡
B6遺跡B7遺跡、記念工作物、建造物B8建造物B9遺跡B1
0遺跡B11遺跡B12遺跡B13遺跡B14遺跡B15遺跡C
遺跡A富士山(富士山体)富士山本宮浅間大社山宮浅間神社河口
湖村山浅間神社須山浅間神社富士浅間神社(須走浅間神社)河口
浅間神社白糸ノ滝三保松原構成資産/構成要素忍野八海船津胎内
樹型吉田胎内樹型人穴富士講遺跡冨士御室浅間神社御師住宅山中
154:底名無し沼さん
18/01/10 08:41:04.80 He8C3ID40.net
建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た
可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本
栖湖や三保松原は、何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典
型的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点である。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500
m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より
155:底名無し沼さん
18/01/10 08:41:35.11
156:drxMNnZ10.net
157:底名無し沼さん
18/01/10 08:46:49.46 He8C3ID40.net
湖673)構成資産の説明富士山(富士山体)・展望地点富士山
には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施
設として機能してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の
証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅
間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・
鑑賞の側面における比重が最も高い。特に本栖湖や三保松原は、
何度も紙幣の図柄に採用された写真の撮影地や富士山を描く典型
的な構図に含まれる景勝地であり、主要な展望を供する展望地点
である。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬
返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中
でも、他界(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山
本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割
した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200~3375
m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。A富士山(富士山体)A1山頂信仰遺跡A9本栖湖C三
保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には、麓の
浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12
世紀前半から中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけにな
ったと考えられる大宮・村山口登山道や、六合目から1384年
の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などがある。吉田口登山
道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。ま
た、1200年の資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山
口登山道を挙げて、それ以外には登山道がないと述べられている
。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随所に小屋や
石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登
山道は欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口
登山道A3須山口登山道A4須走口登山道A5吉田口登山道(写
真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御師住宅登山道の起点や
周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝の対
象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめてい
る。噴火活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富
158:底名無し沼さん
18/01/10 08:47:17.70 He8C3ID40.net
上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した
目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3200~3375m)以上と、山頂に近
づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。A富士山(富士山体)A1山頂
信仰遺跡A9本栖湖C三保松原(写真複数、地図挿入)(改頁)登山道富士山には
、麓の浅間神社を起点として山頂に至る登山道が、複数存在する。12世紀前半か
ら中ごろにかけての修行僧末代の活動がきっかけになったと考えられる大宮・村山
口登山道や、六合目から1384年の銘のある掛仏が出土した須走口登山道などが
ある。吉田口登山道は、富士講信者の登山本道とされ、18世紀後半以降、最も多
くの道者(他の登山口の合計と同程度)によって利用された。また、1200年の
資料では、大宮・村山口及び吉田口の外、須山口登山道を挙げて、それ以外には登
山道がないと述べられている。登山道沿いには要所要所に祠や石碑が設置され、随
所に小屋や石室が設けられており、富士独特の登拝システムを語る上で、登山道は
欠かすことのできない構成要素である。A2大宮・村山口登山道A3須山口登山道
A4須走口登山道A5吉田口登山道(写真複数、地図挿入)(改頁)浅間神社・御
師住宅登山道の起点や周辺地域には浅間神社が建造された。古くから富士山は遥拝
の対象であり、山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめている。噴火活動
の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後
の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭
祀された。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞台
とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅
間神社へと発展していった。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社
(須走浅間神社)8など、登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。な
かでも、北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって大いに利
用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、富士講徒の案内し、宿泊の
159:底名無し沼さん
18/01/10 08:47:45.91 drxMNnZ10.net
る長谷川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を
始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講
徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。
また、長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてら
し)元八湖」と唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間
明神を祀ったことにちなんで整備された
160:船津胎内樹型や吉田胎 内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となってい る資産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A 9本栖湖B11忍野八海B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹 型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入 )(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に 点在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能 してきた登山道や山小屋といった宿泊施設、信仰の証として建 てられた石碑などが存在する。推薦範囲は、周辺の浅間神社や 展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の 側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖 性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高1500m 以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と考えら れた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされた 八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごと に異なり標高約3200~3375m)以上と、山頂に近づく ほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目以上は、 1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが、こ の理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び 宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座すると の信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は 富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ 、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼ この境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15~16 世紀ごろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたと され(1561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩 れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道とし
161:底名無し沼さん
18/01/10 08:53:26.62 He8C3ID40.net
士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世
紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための神社が祭祀された。11
世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、富士山を舞
台とする修験の活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅
間神社や冨士御室浅間神社へと発展していった。登拝の大衆化に
伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)8など、
登山口の起点にも浅間神社が建立されるようになる。なかでも、
北口本宮冨士浅間神社は、江戸を中心に流行した富士講によって
162:底名無し沼さん
18/01/10 08:53:58.93 He8C3ID40.net
世話や祈祷を行った御師の住宅が今も残されている。B1富士山本宮浅間大社B2
山宮浅間神社B3村山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社
)A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨士御室浅間神社
(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地となった風穴・溶岩樹型・湧水地・
湖沼18世紀後半から爆発的に流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に
登るだけでなく、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地などを
巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷川角行は、人穴(富士
講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとした八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った
。後の富士講徒はこれらの地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、
長谷川角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と唱えられた
忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったことにちなんで整備された船津胎
内樹型や吉田胎内樹型など、特定の富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資
産もある。B9山中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B15白糸ノ滝(写
真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士山体)説明富士山には、山頂部に点
在する宗教関連施設を始め、信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小
屋といった宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦範囲は
、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合う範囲で、芸術・鑑賞の
側面における比重が9最も高い。また推薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つであ
る「馬返」以上に該当する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界
(死後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の境内地とされ
た八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約3
200~3375m)以上と、山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識され
てきた。八合目以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされたが
163:底名無し沼さん
18/01/10 08:54:26.15 drxMNnZ10.net
て利用された。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道と
いった、富士山の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担
う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士
山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連
施設が所在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道
の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこ
なわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化されていった
。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブ
ロッケン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院
(噴火口)に鎮座するとされる神仏(大日如来が本地仏とされ
た浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁にいくつかある
ピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お
鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般
的であった。山頂の宗教的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代
により建立された施設(後の大日堂)が最初とされ、その後、
経典(12世紀末~13世紀前半と推定されるものが最古)・
懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302
年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納や内院への
散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮・村山口
山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。18
74年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって
撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記
の行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富
士信仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口
登山道富士山南西麓の浅間大社を起点とし
164:、村山浅間神社を経 て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、 修行僧末代の活動により、富士山南麓における登山が本格的に 開始されたとされ、14世紀初めには修験者による組織的登山 が始まったとされる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山 三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と
165:底名無し沼さん
18/01/10 08:59:31.65 He8C3ID40.net
大いに利用された吉田口登山道の起点であったが、その北には、
富士講徒の案内し、宿泊の世話や祈祷を行った御師の住宅が今も
残されている。B1富士山本宮浅間大社B2山宮浅間神社B3村
山浅間神社B4須山浅間神社B5富士浅間神社(須走浅間神社)
A6北口本宮冨士浅間神社B8御師住宅B6河口浅間神社B7冨
士御室浅間神社(写真複数、地図挿入)(改頁)霊地・巡礼地と
なった風穴・溶岩樹型・湧水地・湖沼18世紀後半から爆発的に
流行した富士講の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでな
く、いわばオプショナル・ツアーのごとく周辺の風穴や湧水地な
どを巡り、巡礼や修行を行っていた。富士講の開祖とされる長谷
川角行は、人穴(富士講遺跡)で修行をし、富士五湖を始めとし
た八つの湖沼や白糸ノ滝で水行を行った。後の富士講徒はこれら
の地へ参詣し、開祖に倣って修行を行う者もいた。また、長谷川
角行の八海修行になぞらえ「富士御手洗(みてらし)元八湖」と
唱えられた忍野八海や、彼が北麓の洞穴で浅間明神を祀ったこと
にちなんで整備された船津胎内樹型や吉田胎内樹型など、特定の
富士講にとっての霊場・巡礼地となっている資産もある。B9山
中湖B10河口湖A7西湖A8精進湖A9本栖湖B11忍野八海
B12船津胎内樹型B13吉田胎内樹型B14人穴富士講遺跡B
15白糸ノ滝(写真複数、地図挿入)(改頁)A.富士山(富士
山体)説明富士山には、山頂部に点在する宗教関連施設を始め、
信仰登山の支援施設として機能してきた登山道や山小屋といった
宿泊施設、信仰の証として建てられた石碑などが存在する。推薦
範囲は、周辺の浅間神社や展望地点から見た可視領域が重なり合
う範囲で、芸術・鑑賞の側面における比重が9最も高い。また推
薦範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当
する標高1500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死
後世界)と考えられた森林限界より上方、富士山本宮浅間大社の
境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ
。登山道ごとに異なり標高約3200~3375m)以上と、山
頂に近づくほどより強い神聖性を持つと認識されてきた。八合目
以上は、1779年以降、富士山本宮浅間大社の境内地とされた
166:底名無し沼さん
18/01/10 09:00:02.83 He8C3ID40.net
、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と呼び宗教的に意義付
けられている)の底部に浅間大神が鎮座するとの信仰に基づく。標高約2500m
付近の森林限界より上方は富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と
呼ばれ、神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの境域に沿
い、富士山体を一周する「御中道」が15~16世紀ごろに富士講の祖とされる長
谷川角行によって開かれたとされ(1561年及び1580年とされる)、その後
「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用され
た。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山の顕著な普遍的
価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構成要素が存在する。A1.山頂信
仰遺跡富士山山頂部には、火口壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所
在する。富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において
寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化
されていった。道者は山頂周辺において「御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケ
ン現象)」(のち「御来光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとさ
れる神仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝し、火口壁
にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世界に擬して巡拝する「お鉢め
ぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教
的施設は、12世紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末~13世紀前半と推定されるものが最古)・懸
仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像等(1302年の銘があるものが最
古)の山頂部への奉納・埋納や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀
には、大宮・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉田・須
走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。1874年、山頂の仏教
的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によって撤去され、ピークの名称も変更され、寺
167:底名無し沼さん
18/01/10 09:00:33.18 drxMNnZ10.net
登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用し
て修行を行った。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者
を「道者」と言う。)も開始され、その様子は16世紀の作と
される「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道者の数は
18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録よ
り、御縁年で2,000人前後、平年で数百名程度と推測でき
る。また1860年、初の外国人登山を行った英国公使オール
コックがこの登山道を利用した。101889年、鉄道(東海
168:底名無し沼さん
18/01/10 09:05:42.52 He8C3ID40.net
が、この理由は八合目の標高とほぼ一致する噴火口(「内院」と
呼び宗教的に意義付けられている)の底部に浅間大神が鎮座する
との信仰に基づく。標高約2500m付近の森林限界より上方は
富士講信者(富士山信仰の集団の一つ)には「焼山」と呼ばれ、
神聖な地域ないし他界(死後世界)と考えられていた。ほぼこの
境域に沿い、富士山体を一周する「御中道」が15~16世紀ご
ろに富士講の祖とされる長谷川角行によって開かれたとされ(1
561年及び1580年とされる)、その後「大沢崩れ」という
危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として利用された
。構成資産範囲内には、山頂信仰遺跡や登山道といった、富士山
の顕著な普遍的価値を語る上で重要な役割を担う、次のような構
成要素が存在する。A1.山頂信仰遺跡富士山山頂部には、火口
壁に沿っていくつかの神社など、宗教関連施設が所在する。富士
山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部にお
いて寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部
での宗教行為が体系化されていった。道者は山頂周辺において「
御来迎(仏の来迎と見なされたブロッケン現象)」(のち「御来
光(日の出)」)を拝み、内院(噴火口)に鎮座するとされる神
仏(大日如来が本地仏とされた浅間大神ないし浅間大菩薩)を拝
し、火口壁にいくつかあるピークを仏教の曼荼羅における仏の世
界に擬して巡拝する「お鉢めぐり(八葉めぐり)」と呼ばれる行
為を行なうことが一般的であった。山頂の宗教的施設は、12世
紀中ごろ修行僧末代により建立された施設(後の大日堂)が最初
とされ、その後、経典(12世紀末~13世紀前半と推定される
ものが最古)・懸仏(1482年の銘のあるものが最古)・仏像
等(1302年の銘があるものが最古)の山頂部への奉納・埋納
や内院への散銭が行われた。また、遅くとも17世紀には、大宮
・村山口山頂部に大日堂(現在は富士山本宮奥宮が所在)が、吉
田・須走口山頂部に薬師堂(現在の久須志神社)が造営された。
1874年、山頂の仏教的施設及び仏像は廃仏毀釈の影響によっ
て撤去され、ピークの名称も変更され、寺院は神社に改変された
。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上記の
169:底名無し沼さん
18/01/10 09:06:12.61 He8C3ID40.net
院は神社に改変された。しかし、山頂部に対する信仰自体は変化することなく、上
記の行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信仰の核心が現
代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道富士山南西麓の浅間大社を起点
とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろ
の、修行僧末代の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたとさ
れ、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとされる。15世紀以降
170:底名無し沼さん
18/01/10 09:06:40.80 drxMNnZ10.net
道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これ
への対策として1906年、村山を経由しない新道が建設され
たため、大宮から現在の六合目(標高2600m)までは登山
道としての機能を失った。この区間は一部除き登山道跡の推定
は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点
まで開通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推
薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道富士山南東
麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山道である
。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にそ
の存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神
社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理されて
いた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究
が進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由
来する60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840
年代前半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約
3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年
、東海道本線開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの
道者を奪い、さらに1912年、一部が陸軍演習場となり使用
不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在
に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる
部分は一部のみである。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称
で使用されている二合八勺以上の部分及び遊歩道として整備さ
れた旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東麓の
冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂
東部に至る登山道である。その起源は明確ではないが、六合目
からは1384年の銘のある掛仏が出土しており、文字資料で
は1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くとも17
世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の
山頂部までを支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂
部の権利については富士山本宮浅間大社と争いになり、須走村
171:底名無し沼さん
18/01/10 09:12:36.68 He8C3ID40.net
行為は現代の登山者の多くが行っており、これらを通じて富士信
仰の核心が現代に受け継がれている。A2.大宮・村山口登山道
富士山南西麓の浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南
側に至る登山道である。12世紀前半から中ごろの、修行僧末代
の活動により、富士山南麓における登山が本格的に開始されたと
され、14世紀初めには修験者による組織的登山が始まったとさ
れる。15世紀以降19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた
3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法寺)と登山道の管理を行う
とともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行った。また
、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も
開始され、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼
羅図」に描かれている。道者の数は18世紀後半から19世紀初
頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年で2,000人前後
、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国人
登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。1
01889年、鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の
増加により衰退し、これへの対策として1906年、村山を経由
しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合目(標高26
00m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除
き登山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高
2400m地点まで開通した自動車道を利用しての登山が行われ
ている。(推薦範囲は六合目以上である。)A3.須山口登山道
富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486
年にその存在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅
間神社及びその所在地の須山村(現裾野市須山)により管理され
ていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は村山の修験者の行
場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来す
る60年に1回の記念の年)に約5,400人、1840年代前
半は年平均約1,700人、1860年(御縁年)は約3,60
0人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2050m)
172:底名無し沼さん
18/01/10 09:13:08.90 He8C3ID40.net
19世紀後半まで、「村山三坊」と呼ばれた3軒の有力宿坊が村山浅間神社(興法
寺)と登山道の管理を行うとともに所属の修験者が登山道等を利用して修行を行っ
た。また、一般人の信仰登山(以下これを行う者を「道者」と言う。)も開始され
、その様子は16世紀の作とされる「絹本著色富士曼荼羅図」に描かれている。道
者の数は18世紀後半から19世紀初頭の宿坊(大鏡坊のみ)の記録より、御縁年
で2,000人前後、平年で数百名程度と推測できる。また1860年、初の外国
人登山を行った英国公使オールコックがこの登山道を利用した。101889年、
鉄道(東海道線)の開通による御殿場口利用者の増加により衰退し、これへの対策
として1906年、村山を経由しない新道が建設されたため、大宮から現在の六合
目(標高2600m)までは登山道としての機能を失った。この区間は一部除き登
山道跡の推定は困難な状態である。現在は1970年に標高2400m地点まで開
通した自動車道を利用しての登山が行われている。(推薦範囲は六合目以上である
。)A3.須山口登山道富士山南東麓、須山浅間神社を起点とし、山頂南東部に至
る登山道である。その起源は明確ではないが、文字資料の中で1486年にその存
在が確認できる。登山道および山頂部銀明水は須山浅間神社及びその所在地の須山
村(現裾野市須山)により管理されていた。また、登山道のいくつかの宗教施設は
村山の修験者の行場(参拝所)としても使用された。道者については詳しい研究が
進んでいないが、1800年(御縁年:富士山出現伝説に由来する60年に1回の
記念の年)に約5,400人、1840年代前半は年平均約1,700人、186
0年(御縁年)は約3,600人であった。1883年、須山口二合八勺(標高2
050m)に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線開通に
よる御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さらに1912年、一部が
陸軍演習場となり使用不可能となったため、須山口からの登拝(登山)は衰退し現
在に至っている。二合八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみで
173:底名無し沼さん
18/01/10 09:13:36.27 drxMNnZ10.net
は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定を求め、
権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、
これらの施設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅し
たが、江戸幕府の支援を受け翌年には復興を完了し、多くの道
者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにされた参詣の
流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,
700人とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成によ
り、新五合目(標高約2000m)以下の登山道の利用はほと
んどなくなり、一部道としての確認ができない区間がある。(
推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5
.吉田口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東
部を目指す道である。15世紀には、富士山への登拝が、修験
者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっていた。吉田口
は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢
の人々が登るための設備が整うようになった。16世紀から1
7世紀�
174:A長谷川角行が吉田口を利用して修行を行い、18世紀 前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は、入定(宗教的自 殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このた め、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も 多くの道者(他の登山口の合計と同程度)が吉田口登山道を登 って山頂を目指している。しかも、古道としては唯一徒歩で麓 から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体 である。)11法的保護、修理・整備の経緯1924年に史蹟 名勝天然紀念物保存法の下に名勝に仮指定された。1936年 に国立公園法の下に(富士箱根)国立公園に指定された。19 52年に文化財保護法の下に名勝、ついで特別名勝に指定され た。1969年に国が大沢崩れに対する砂防事業に着手(継続 中)。1996年に国・県が台風による森林の風倒被害に対す る対策に着手(継続中)。文化財保護法の下に他の文化財とと もに史跡富士山として指定される予定。A6.北口本宮冨士浅 間神社説明富士山の遥拝所に祀られていた浅間明神(富士山の 荒ぶる神)を起源とし、1480年には「富士山」の鳥居が建
175:底名無し沼さん
18/01/10 09:19:18.68 He8C3ID40.net
に接続する御殿場口登山道が開削され、1889年、東海道本線
開通による御殿場口利便性の向上は須山口よりの道者を奪い、さ
らに1912年、一部が陸軍演習場となり使用不可能となったた
め、須山口からの登拝(登山)は衰退し現在に至っている。二合
八勺以下の登山道で当時の道が確認できる部分は一部のみである
。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八
176:底名無し沼さん
18/01/10 09:19:50.99 He8C3ID40.net
ある。(資産範囲は現在「御殿場口」の名称で使用されている二合八勺以上の部分
及び遊歩道として整備された旧須山口の一部である)A4.須走口登山道富士山東
麓の冨士浅間神社を起点とし、八合目で吉田口登山道と合流し山頂東部に至る登山
道である。その起源は明確ではないが、六合目からは1384年の銘のある掛仏が
出土しており、文字資料では1500年にその存在を確認できる。登山道は遅くと
も17世紀までに、冨士浅間神社及びその所在地の須走村が登山道の山頂部までを
支配し、散銭取得権の一部などを得ていた。山頂部の権利については富士山本宮浅
間大社と争いになり、須走村は18世紀(1703年と1772年)、幕府に裁定
を求め、権利は幕府によって認められた。1707年の宝永噴火の際、これらの施
設及び冨士浅間神社、須走村は噴砂に覆われ壊滅したが、江戸幕府の支援を受け翌
年には復興を完了し、多くの道者を集めた。18世紀後半、他の霊場とセットにさ
れた参詣の流行で道者数は年平均約1万人、1800年の御縁年に23,700人
とピークを迎えた。1959年、バス道路の完成により、新五合目(標高約200
0m)以下の登山道の利用はほとんどなくなり、一部道としての確認ができない区
間がある。(推薦範囲は現在も利用されている新五合目以上である。)A5.吉田
口登山道北口本宮冨士浅間神社を起点とし、富士山頂東部を目指す道である。15
世紀には、富士山への登拝が、修験者だけでなく、ごく一般の人々の間にも広まっ
ていた。吉田口は14世紀後半には参詣の道者のための宿坊もでき始め、大勢の人
々が登るための設備が整うようになった。16世紀から17世紀、長谷川角行が吉
田口を利用して修行を行い、18世紀前半には富士講隆盛の礎を築いた食行身禄は
、入定(宗教的自殺)にあたって信者の登山本道をこの吉田口と定めた。このため
、富士講の信者が次第に増加した18世紀後半以降は、最も多くの道者(他の登山
口の合計と同程度)が吉田口登山道を登って山頂を目指している。しかも、古道と
しては唯一徒歩で麓から頂上まで登れる重要な道である。(推薦範囲は登山道全体
177:底名無し沼さん
18/01/10 09:20:18.19 drxMNnZ10.net
立され、16世紀半ばには浅間神社の社殿が整っていたとされ
る。その後、1561年に現在の東宮本殿、1594年に西宮
本殿、1615年には本殿が建立された。富士講とのつながり
が強く、1730年代に富士講の指導者である村上光清の寄進
によって境内の建造物群の修復工事が行われ、現在にみる境内
の景観の礎が形成された。本殿は、一間社入母屋造・檜皮葺の
本殿に唐破風付向背をつけた形式で、正面と側面に挿肘木の腰
組をもって支える擬宝珠高欄付の切目縁をめぐらしている。東
宮本殿・西宮本殿はともに桧皮葺・一間社流造である。3本殿
とも、各部に漆塗り、極彩色をほどこし、彫刻・金具を配して
、それぞれの時代の装飾的特色がよく表されている。北口本宮
冨士浅間神社の支配権は外川家、小佐野家などの吉田の御師に
所属しており、神社の管理も御師団の中から選ばれた者に委ね
られていた。社殿の背後には登山門があり、この神社を起点と
して富士山頂まで吉田口登山道が伸びている。富士講や吉田御
師と密接な関係を持ちながら発展した神社である。法的保護、
修理・整備の経緯1907年に東宮本殿が古社寺保存法の下に
特別保護建造物に指定された。1929年の国宝保存法制定に
伴い、本殿は国宝とされた。1950年の文化財保護法制定に
伴い、東宮本殿は重要文化財とされた。1953年に本殿及び
西宮本殿が文化財保護法の下に重要文化財に指定された。19
52年に東宮本殿の解体修理工事が行われた。1962~63
年に西宮本殿の解体修理工事が行われた。1973~74年に
本殿、西宮本殿及び幣殿の部分修理工事が行われた。1981
~82年に東宮本殿の部分修理工事が行われた。1997年に
本殿の部分修理工事が行われた。文化財保護法の下に他の文化
財とともに史跡富士山として指定される予定。A7.西湖A8
.精進湖A9.本栖湖