20/05/15 11:01:56.05 5RWgItYM.net
蛇足だが、昨日テレビで桐谷幸二と言う画家の事を取り上げていたが
この人が維摩経の不二の法門を独自解釈していて
今の人間のモノの見方というのは丁度眼鏡の右目と左目を別々に
見ているようなもので、それぞれが別のモノとして対立軸にあると思っている。
ところが両目で見るとそれは同じモノ「不二」なんだということ。
この人の絵はそれをテーマにしていて絵が3Dに見える仕組みを作っていた。
同じ事を感じるというのはありがちなんだが、表現まで同じなので驚いた。
たぶんこの人も深く実感した決定的瞬間を持っているんだろうね。
右と左(二元論としての比喩)片方づつしか見ることが出来ないのは
想念の枠組みの縛りがあるから、だから常に枠組み外が生じて
意識を切り換えないと全体を認識することが出来ない。
無念無想になって気や波動レベルで認識する感性を開くと
全体がまるっと不二で理解出来るようになる、その感性の場が松果体。
だから先に感性を開くと松果体の生理的機能も動き始める。
対立を超えろという教えは感性的に不二が判らない人達のためのモノ。
たとえば線を一本引いて右と左の端で対立している。
右と左も同じ隣人なんだから愛せとか、右にも左にも偏らず真ん中を行けとか
それはそれで仕方無いのだが、松果体が動き始めると
一本の直線の端を結びつけて円として捉える生理的感性の世界に入る。
そうすれば右も左も真ん中も無くなってしまう、これが不二の法門。
今、人類は種としてそのレベルまで行けるのかどうか試されている かもです。