19/10/23 11:02:04.29 Ow45jsLsv
《仏陀》は、劫数を随念するのに、限界なるものは無し。
諸々の仏陀の智見は、千光を荘厳する秋の日輪のように現起し、大車道を行くかのように宿住随念する。
諸々の仏陀は、五蘊を次第に辿ることもなく、死と結生とによりて跳入することもなし。
諸々の仏陀は、数千万劫中の、後の時代も、また、前の時代も、憶念しようと欲するその場所は、すべてみな明瞭となるからである。
その故に、数千万劫をも省略文のように省略し、憶念しようと欲するすべての所に跳入し、跳入によりて、(堂々とそこに)行き、憶念し給う。
そのように憶念したまう諸々の仏陀の智は、譬えば、髪を射貫くのに熟練した(サラバンガ〔菩薩〕のような)射手の、放ちたる矢が、
途中の樹や蔓などに、邪魔されることなくして、必ず標的に当たり、妨げられず、違はないように、途中の諸々の生に妨げられず、
目的に違はず、妨げられず、違はずして、憶念しようと欲するそれぞれの場所のみを捕らえる。
仏陀が随念する場合、他人である仏陀の識によりても識り、はっきりと見分けられる。
諸々の仏陀の随念は、諸々の仏陀にのみ得られる。
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NINJA
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2:名無しさん@お腹いっぱい。
19/10/23 11:18:08.20 Ow45jsLsv
〚宿住を随念する人〛に、六種あり、
外学、普通の声聞、大声聞、第一声聞、辟支仏、仏陀である。
〔宿住随念とは、宿住を随念する所の念を宿住随念という。
すなわち、一生をも、二生をも、三生をも、十生をも、百生をも、千生をも、百千生をも、多くの壊劫をも、多くの成劫をも、多くの壊成劫をも随念する。
「私は、そこに於いて、このような名で、このような姓で、このような容貌で、このような食物を摂り、このような苦楽の享受者、このような寿量にてありき。
その私は、それより死してそこに生じた。
その処に於いても、私は、このような名で、このような姓で、このような容貌で、このような食物、このような苦楽の享受者、このような寿量にてありき。
その私は、そこより死してここに生じた」と、多くの宿住の様相や、素性を随念する。〕
《外学》は、四十劫を随念する。
何故であるのか、慧の弱きが故、すなわち、彼らは、名色の優劣を見極めることなきが故に、慧が弱い。
外学の宿住の智見は、ほたるの明りのように現起し、盲者が杖の端にて行くかのように宿住随念する。
外学は、五蘊を次第に辿りてのみ憶念することができ、次第に辿らなければ、死と結生とによりては、憶念することはできない。
彼らは盲者のように欲する場所に、(自由に)入ることがないからである。
譬えば、盲者が杖を離さずしてのみ歩くように、彼らは、五蘊を辿ることを離れずしてのみ、宿住を憶念することができる。
《普通の声聞》〔在家でも出家でも、仏陀の教えを聞く人(仏陀の教えを聞いて修習する人々)〕は、千劫をも随念する。
《(八十の)大声聞》は、十万大劫をも随念する。
八十の大聲聞の智見は、タイマツの光のように現起し、一時に、四十五人渡れる橋を渡り行くかのように宿住随念する。
八十の大聲聞も、普通の聲聞と同様に、五蘊を次第に辿りても随念し、死と結生とによりても跳入し憶念する。
《第一声聞》〔仏陀の二大弟子:サーリプッタ尊者と、モッガラーナ尊者〕は、一阿僧祇劫と十万劫をも随念する。
《辟支伽仏陀》は、二阿僧祇劫と十万劫をも随念する。
五蘊を次第に辿ることなし。