16/09/28 02:08:29.80 0UXaLktM.net
即ち、
自意識と無意識とは元を正せば一体不可分の自分自身に他ならず、
自分というものを認識する為に、あえて、あたかも2つに分裂したかのようにして、
片方からもう片方を見ることが出来るように、2つの視点を作った。
ということになる。
あえて言えば、無意識は親であり、自意識はその子供である。
親は常に子供を慈しむように見守っており、
用意周到にお膳立てをして子供の成長を楽しむ。
振り子に囚われ、過剰ポテンシャルにまみれた人は、
リアトラ文中の「子供が興じるごっこ遊び」にあったように、
まさに、ごっこ遊びに必死になりすぎた子供なのだ。
「いち抜けた」と言ってごっこ遊びをやめれば振り子から開放される。
子供が反抗期になって悪態をつき、
親に対して偉そうにアレをしろ、コレを買ってこい、
などと命令してきても、親はやんわりとスルーしてしまう。
「フェラーリ最新モデルの新車を買ってこい」と言われて、
はいはいと買い与える親はいないだろう?
子供のおねだりめいた願望は叶わないのが道理である。
「潜在意識を使いこなす」とか、
「潜在意識をプログラミングする」とか、
あまりナメた考えはしないほうがいい。
スライドとか、NLPとか、あまりテクニックめいたことは不要だ。
親はバカではない。常に子供を見守っていて何でもお見通しだ。
子供が将来の夢を親に語って聞かせるようにすればいいだけだ。
そうすれば用意周到にお膳立てをして、その夢へつづく道を示す。
しかしそれは一本道ではない。
「自分がそれを選択した」という責任感をもたせる為、
複数の選択肢が示される。
リアトラの言う「所有する決意」とは、端的には「責任感」のことである。