劉備が天下統一できなかった最大の原因その5at CHINAHERO
劉備が天下統一できなかった最大の原因その5 - 暇つぶし2ch2:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/17 22:12:26.00 RFA23TCc0.net
取り敢えず新スレ立てたのだ

3:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/17 22:13:47.67 RFA23TCc0.net
劉備の祖父は孝廉で察挙されとるから劉備もそこそこ頭良さそう

4:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/17 22:16:22.16 RFA23TCc0.net
劉備は音楽を好んでいたわけだけど後の東晋では雅楽が失われて四苦八苦してたそうなので乱世において音楽好きは貴重だと思った

5:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/17 22:23:28.44 RFA23TCc0.net
もしかしてニーズなかったか

6:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/17 23:03:41.58 gZBxIubP0.net
娼婦のような淫靡な音楽は耳が腐る。やっぱ男は清談っしょ

7:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/17 23:58:26.76 Fm3yncHbO.net
>>5
厳密な雅楽は儀礼とセットだから、儀礼しないと雅楽もしない。漢代には村レベルでも色々儀礼があったそうで、敬老の儀礼とかを役人がしてたという。だから儀礼してる限りはどんな鄙でも雅楽もなされてきた。
それだけ後漢末~三国の時期に朝廷すら儀礼をしてるゆとりは無いと長らくしなかったり、簡略化してきた結果だろう。
でも劉表なんかはする資格も立場でも無いのに、勝手に荊州で郊祀してたりするんだよな。

8:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 00:41:15.08 VqBEAa0s0.net
劉備は若い時は勉強せずに遊んでたそうだが
劉備の発言から後で勉強した事が窺えるんだよな
劉備「陳紀先生や鄭玄先生のとこで学んだ」とか言ってるし

9:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 05:36:45.73 Hzeh7txU0.net
陳センセイも小説で書いてたけど劉表の居候やってた時期に勉強しなおしたんじゃないかと。

10:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 08:47:33.19 NVGOjUCI0.net
陳紀や鄭玄から学んだというところから、劉備が公孫瓚の下で平原相になった頃から豫州刺史を経て陶謙から徐州を譲られたあたりだと推定できる
劉備が平原相になる前の平原相が陳紀だし、鄭玄はこの時期徐州に避難していたようだから
劉備が豫州刺史の時に陳紀の息子陳羣を別駕従事に抜擢しているのは勉強を教えてもらった返礼だったりするのだろうか

11:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 18:58:14.89 to0+Twoz0.net
そもそも叔父の支援で当時の大儒の一人である盧植の元に行ってる時点で地元の期待の星ぐらいではある

12:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 19:04:18.16 SBvK7AuG0.net
劉備も後漢が崩壊しなかったらそこそこの年齢で孝廉に挙げられて郡太守ぐらいまで務めて引退していたのかもしれん
そう考えると大した出世だとは思う

13:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 19:13:15.58 to0+Twoz0.net
>>12
後漢がどういう状態で継続してるかにもよるかな
黄巾の乱止まりで董卓が現れずに群雄が割拠しないという事であれば最終的に州の刺史や牧ぐらいは狙えた可能性は高い
そもそも曹操の元に居た時点で左将軍だからね

14:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 20:07:30.50 OmKdNCtm0.net
劉備が平原令~相やってた時代に暗殺者送った劉平って人物って同姓だけど一族だったのかね。
それとも単なる偶然か

15:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 21:50:08.67 to0+Twoz0.net
>>14
前漢スタート早々に同族同士殺しあってるんだからどうでも良くね?

16:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 22:03:15.08 dpfmXvj80.net
なんかに推薦したのも劉平だった気がする

17:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/18 23:53:18.11 NVGOjUCI0.net
なんか劉備が公孫瓚の下で平原令になるまでの経歴って情報が錯綜しててよくわかんないよね
張純の乱の鎮圧に参戦しただの、西園軍の募兵に協力して丹陽に向かっただの、その途中で下邳で黄巾の残党を鎮圧しただの、洛陽で曹操の挙兵に協力しただの…
一度地図を見ながら足取りを辿りながら考えたんだが全部本当とは思えんっちゅうか、いや実際事実とは異なる記述も混じってそうだけど、各地を転々としてて大したバイタリティだよ

18:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 00:08:19.39 Ujw5C3hy0.net
濟水~泗水を使って移動すればそこまで不自然な移動でもないと思うんだけどね

19:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 00:11:13.29 2aMFeIbL0.net
音楽を楽しむ=馬鹿騒ぎみたいに考えるから蒼天劉備みたいなもんが出来ちまうんだよ
ムスッとした顔で黙って楽しんでもいいだろうが!

20:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 00:34:34.92 zheVEcbd0.net
三国志演義にしろ蒼天航路にしろ劉備の学歴や士人としての側面が軽視されてるのは何でなんだろ
布衣の人扱いされてるけど美しい衣服を好んだということは士族としての礼装は一通り揃えていたものだと認識しとるんだが

21:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 00:38:40.24 YVFiAg4D0.net
盧植門下で遊んでばかりいたと言われているから 故郷の人間からカス扱いされているから まともに勉強している感がない

22:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 00:46:20.98 VlXg4d5B0.net
>>21
先主伝にそんな記述あったっけ?

23:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 01:01:06.62 cjcbXOz60.net
>>20
美服はともかく狗好きは単にギャンブル好きだっただけなんじゃないかと

24:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 01:41:32.00 gaFKlKkv0.net
走狗は跋扈将軍こと梁冀さんの趣味の一つに挙げられてるくらいだし、当時の士大夫層の価値観的には好ましくない類の娯楽だったんだろうなと思う
劉備の学識知見は過小評価されていると思うけども、やっぱり劉備の人柄は大衆受けするタイプでインテリ層からの評判は良くなかったんじゃないかなって思う

25:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 01:59:08.71 PUyedQy60.net
孔融も劉備を評価してるから名士受けも良さそうな気がするが
孔融の場合、単にピンチの時に助けてもらったからってだけな気もするな

26:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 06:51:55.96 +7J24BHrO.net
曹操と違ってこれといった一族の協力もなく、関羽張飛も怪しい出。あの時代にひとりっこというのも考えにくい
劉邦みたく、鼻つまみ者だったんじゃないかと想像してしまう

27:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 07:18:11.19 Ujw5C3hy0.net
>>26
曹操も本人の兄弟はなぜか少ないのがね
遠縁か姻族の夏侯氏ばっかじゃん

28:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 07:30:18.55 cjcbXOz60.net
曹操の兄弟姉妹はやっぱり陶謙の部下に殺されちゃったんじゃ。
この頃の曹操って金も人もカッツカツでスポンサーの衛茲や親友で謀将の鮑信にも死なれてどん底の時期。
本人も不安だからどっか避難させたら陶謙の領地周辺に逃げ込んであぼ~ん。

29:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 07:41:24.71 +7J24BHrO.net
実弟には曹徳他何人かいるようだ

30:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:28:57.57 Ujw5C3hy0.net
袁紹や曹操こそ一族の鼻つまみ者って印象があるのだが

31:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:36:40.90 hgWIaxTm0.net
袁紹と曹操と劉備の共通点って庶子っぽいとこかな。
袁紹はお察しの通りで曹操も字が孟なのは庶長子っぽい。
劉備も親父が死んで家から出されてるのをみると正室の子ではないだろうし

32:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:44:22.60 91jB0a2o0.net
というか出世する為の投資は金が掛かるから近親に嫌われる事が多い
陳平の例が分かりやすいかな
近親という意味だと劉備こそその影が見えない
故郷が故郷だけに異民族に殺されたか劉虞を殺した頃の公孫瓚にやられたか気になるところ

33:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:49:37.39 VlXg4d5B0.net
劉備が正妻の子かどうかは断定できないと思うけど
洛陽への遊学は別に家から追い出されたわけではないでしょ
その後涿郡に戻ってきて張世平や蘇雙と交遊関係をもったみたいだし

34:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:49:50.82 hgWIaxTm0.net
交際費もバカにならんからね。
晋書陶侃伝でも陶侃のオカンが髪を売って陶侃の交際費を捻出したエピソードとか記述されてたし

35:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:


36:53:30.64 ID:91jB0a2o0.net



37:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:55:28.34 VlXg4d5B0.net
劉備はその点張世平と蘇雙から借りた金だからな

38:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 08:57:55.71 91jB0a2o0.net
>>36
というかその頃には留学費支援してくれてた叔父等親族がどうにかなってた可能性もある

39:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 09:07:14.38 hgWIaxTm0.net
>>33
「先主は若くして弧となり母と筵や靴を売っていた」って記述はオカンの実家で生活してたって意味じゃないかと。
>>35
曹操が徐栄に負けた後に夏侯惇と丹陽兵集めに行ったのって、地元の名士でスポンサーの衛茲が戦死して顔出せる状態じゃなかったとかありそう。つか親父もそれで避難してたのかも。

40:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 09:31:08.99 9ZV9hxdZ0.net
劉備が傭兵隊長だったとか言ってるやつらは絶滅してくれねえかな

41:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 10:19:44.08 +7J24BHrO.net
何かしら戦なり政治なり何らかに関わらないと歴史に名を残すのは厳しいだろうが、劉備には親戚もいないのがな
養子の劉封くらい

42:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 10:22:57.69 eXnFceL20.net
劉備の孫(劉淵)が晋王朝を倒して漢王朝を復興させるやろ?(三国志平話脳)

43:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 10:41:52.99 91jB0a2o0.net
>>41
匈奴部族のクリスチャン名みたいな劉姓はNG

44:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 10:58:06.52 VndcTEnA0.net
関係ないけど
匈奴が劉姓を名乗り出したのは劉淵の父親からなんやな
曹魏になって劉姓を名乗る事が許されたんやろな

45:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 12:14:00.55 gaFKlKkv0.net
そもそも劉豹と劉淵の血が繋がってるのかも怪しくね?
それを置いといてもなんで単于を差し置いて右賢王の一族が劉姓を名乗ることを許されたのかとかツッコミどころが多すぎる

46:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 12:49:27.98 VndcTEnA0.net
>>44
正しくは漢王朝が終わって誰でも劉姓を名乗れる様になったという事

47:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 18:56:56.78 pzob1EuZ0.net
晋書の曹操の匈奴5部分割→匈奴に劉姓を名乗らせるの流れは実際はもっと後に名乗らせてたって説もあるな。
曹操が生きてた時点では漢王朝まだ存在してたしいくらなんでも勝手に劉姓名乗らせたとかは考えにくい。

48:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 20:22:02.75 +7J24BHrO.net
劉邦の時代まで遡ってその末裔と自称かな

49:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 20:24:46.29 Ujw5C3hy0.net
南匈奴左賢王の家を貴族階層として魏の支配体制に組み込んだものだと思ってた

50:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/19 20:28:58.35 e6m2JAam0.net
>>46
普通に考えてそれが許可されるのは
禅譲後の曹丕時代以降でしょ

51:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 01:09:35.10 M0Rddbf9O.net
北の平原から南の果ての蜀
山内家が土佐を治めた時も、長宗我部家の地侍と尾張からの武士の対立が幕末まで尾を引いてしまったが、蜀の対立もなかなかのものだったんだろうな
徐州荊州も混ざっているから尚更

52:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 01:17:55.37 sEARFKRA0.net
蜀の出身地からの対立って言うほど史書の中では見れないからなぁ
李厳が益州派と言われる事多いが
荊州出身で益州だと割と嫌われていて諸葛亮ら荊州派に組する事で出世した男だし

53:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 02:52:37.91 xUZvjfC70.net
派閥云々より当時の蜀って議論好きが多くて揉めてる印象

54:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 06:10:54.63 Py79Yu8V0.net
>>51
荊州が残っていれば対立する余裕も有ったんだろうけどね
夷陵で対立する様な余裕が吹っ飛んだ

55:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 19:14:54.07 iuTcofki0.net
そもそも荊州閥益州閥云々の穴は蜀首脳部の純粋な益州出身者の少なさ
その数少ない益州出身者をまとめるとこいつらに閥なんて形成出来るか?としか言いようがない
益州出身者で尚且つ旧劉璋に仕えてて政治的な地位が高そうなのが早々に離脱した黄権という…

56:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 22:01:10.48 Mt5rNijK0.net
元々の出身が陳留だから益州閥とは違うと思うけど、呉壱なんかは妹が劉備に嫁いでるくらいだから政治的発言力を持っててもおかしくなかったんじゃないかと思う
現に、順当にいけば魏延か呉壱が抜擢されるであろうというところで敢えて馬謖を街亭の守将に抜擢してるあたり、諸葛亮は呉壱を敬遠していたんじゃないかって邪推したりw

57:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 22:09:43.23 sEARFKRA0.net
蜀で一番対立が激しくなったのって諸葛亮死後の事だと思う
北伐派と反北伐派で争ってる事が史書から窺う事ができる

58:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/20 22:49:03.55 M0Rddbf9O.net
劉備と孔明からの呪縛から解き放たれたしな
魏と和するのが選択にあるのはおかしくはないと思う
弱国とは言っても、春秋戦国の韓ほどの狭さや周りが強国ばかりでもないから、韓非子の言う内を固めよで生き延びる方法はあっただろうけど、そこの調整できずに姜維と夏候覇を暴走させてしまって放棄してしまったのが、劉禅の国主としての無能さというとこかな

59:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 00:24:13.96 wlUGNvW30.net
諸葛亮死後30年北伐やらないで過ごすってのも無理だろ

60:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 07:17:01.23 2Ll2XEt70.net
むしろ隴西ちほーに軍人拠点作らせないための北伐やし

61:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 10:43:31.25 IPr+/0PK0.net
>>55
いや、派閥形成出来るぐらいまともに権力のある外戚なら孔明の指揮下に入って北伐に参加なんて使われ方しないと思うわ

62:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 10:45:51.91 9BHKgAXm0.net
>>59
いや作ってるけど?
司馬孚が度支尚書の時に諸葛亮の北伐に対抗するために上邽で屯田を開拓させてる
いや、そういうことが言いたいんじゃないんだろうけどさ、北伐は魏に侵攻拠点を作らせないための前方防衛戦略であるって捉え方は正しくないと思う

63:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 19:26:08.00 8lxjJiaN0.net
>>25
高慢ちきの陳登さんもだぞ

64:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 19:30:01.71 8lxjJiaN0.net
結局孔明って第一次と第三次しか成功してないのよね
魏とのがっぷり四つはほとんど全敗で追撃を撃退したくらい

65:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 20:07:34.31 21BVSfyV0.net
一次も三次も成功とは言えない

66:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 20:15:08.12 8lxjJiaN0.net
まぁね
でも一定の戦果を得たといういみでは

67:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 21:20:06.10 px+cjz0j0.net
五胡~南北朝の北伐見てても漢中方面はあくまで別働隊(せいぜい数万程度)のルートやから……
本隊はあくまでも荊州や徐州から攻め上がるのが定番

68:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 21:45:35.52 VmVR2K1P0.net
周瑜の引き抜きに成功してたらかなり良い線行っただろうな
周瑜「関羽張飛使えば偉業も成せる」
要するに優秀な将と参謀が足りなかったんだよ蜀は
関羽も張飛も将になる器量は無いからな。名兵と言ったところ
使う人間が優秀であればあるほど関羽張飛の武力を存分に活かせる

69:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 22:50:38.64 8SNc89lC0.net
>>64普通に3次は成功だろ
二郡を奪ったんだから

70:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/21 23:56:22.60 2Ll2XEt70.net
>>67
そもそも周瑜は蜀とり成功してたら桓温みたいなポジションになってたかも

71:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 21:46:32.56 vkOwYHYM0.net
>>67
何言ってんだ?
その周瑜が欲しいって言ってる将が関張やん

72:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:03:58.45 YiqSA68R0.net
周瑜も大概怪しいから

73:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:14:16.27 4c2lI6qI0.net
>>70
将って指揮を執ることも含まれる。周瑜は関張を使えば、と言ってるから一つの駒としてって意味でしょ。

74:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:24:02.49 /NlSzT4s0.net
裨将であっても将は将だろう

75:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:24:58.59 /NlSzT4s0.net
個人的には軍師中郎将時代の諸葛亮も将だと思うぞい

76:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:42:59.50 mTNfEAK30.net
ホントに手勢を任されずに軍師的役割に徹した人物っているの?

77:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:52:45.82 o0rTKCBU0.net
後の時代だと府僚でも記室参軍とか諮議参軍に任じられた人は兵を率いてなかったと思う
逆に長史(本来であれば府僚の長)みたいな人が監諸軍事・郡太守・雑号将軍やったりしてる
司馬やヒラの参軍事も将軍号もらったりしてるしね

78:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/22 22:54:56.13 x2eJPkgR0.net
>>75蜀だと法正ぐらいじゃね?
ホウ統は流れ矢で死んだとあるからもしかしたら前線に立ってた可能性とかありそう

79:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 05:14:44.89 0sGWz2oF0.net
蜀は武力が無かったんだよな
シンプルに弱かった
そしてトドメに知恵もなかった
これじゃどうしようもない
三国の中でどう見ても蜀だけが
能力、武力共に低いのは火を見るより明らかだもの

80:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 05:20:07.05 rhMFK9XL0.net
そんな弱小国を数十年も滅ぼせなかった魏や呉はどれだけ無能だったんや?

81:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 05:37:09.04 0sGWz2oF0.net
文字通り三つ巴、その他諸々だからでは?
あっちをやればこっちが
こっちをやればあっちが

82:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 06:23:25.64 /lHyOp8I0.net
蜀は将も兵も足りず
呉は内情バラバラの守備専で騎馬無し
魏は中原の混乱からの回復待ち
三者三様の事情ですわ

83:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 06:28:28.85 /lHyOp8I0.net
三国時代って孔明の隆中対に魯粛が呉の都合をねじ込んで生まれた産物だと思うわ

84:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 07:39:19.19 Skm56/Of0.net
>>82
魏呉の南北時代に蜀が益州で引きこもっただけだろ

85:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 07:45:11.16 rhMFK9XL0.net
>>80
東晋十六国時代に生起した三つ巴情勢だと第二勢力が第三勢力を食ったパターン(①後趙②東晋③成漢、三つ巴は329~347)と
第三勢力が第二勢力を食ったパターン(①東晋②前燕③前秦、三つ巴は352~370)とがあってだな
三つ巴だから必ずしも長引くものでもないのでは?

86:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 08:02:24.39 ldIYyEey0.net
>>83
魏呉の南北時代が成立する条件は曹操の南下前に荊州を抑える事
曹操孫呉の二正面で戦ってた劉表を落とせなかった時点で無理無理

87:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 08:20:53.59 UPzsNl1K0.net
何気に劉表有脳説

88:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 08:26:21.36 PAXRm3vz0.net
群雄割拠は基本的に「みんな凄くてみんなクズ」な状態だしね
無能だと簡単に滅ぼされて割拠すらできない

89:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 08:38:14.82 82QgYJW90.net
>>86
実際劉表はかなり有能だよ
元々党錮の禁の対象になる程の名声を持ってて
任地先でしかない荊州で名士を服属させ主に袁術と後に曹操とやり合えてたぐらいやし

90:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 09:57:12.22 IKq2mpL9O.net
>>83
公孫度「オイコラ、ワシら省くなや」

91:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 10:19:37.20 82QgYJW90.net
>>89
袁術「侯の自称陰で王様気取りのヘタレが」

92:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 12:50:08.21 Skm56/Of0.net
>>85
隆中対が南群を呉に取られた時点で破綻してるからなあ

93:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 13:20:20.68 82QgYJW90.net
>>91
三国鼎立の状況は隆中対を利用して魯粛が生み出した状況みたいなもんやし
魯粛はかなり早い段階で劉備を利用した三国鼎立に舵を取ってる節があるんだよなあ

94:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 14:47:07.03 0sGWz2oF0.net
>>84
いや、三つ巴、その他諸々で明らかに長引いてるだけの話じゃん

95:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 17:10:54.30 1zK/6QKq0.net
200年までに中原かそれに近い地域に足掛かりを得てないとダメだったと思う
曹操が袁家を飲み込んだらもうあとは消化試合

96:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 17:20:18.00 vwkc0mgv0.net
消化試合が80年も続いたん?
まるで朝鮮戦争やな

97:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 17:35:41.49 Yp01uJgP0.net
魏と晋が戦ってたせいで長引いた

98:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 17:47:18.44 ETQ6Mynr0.net
>>95
北魏の華北統一から隋の天下統一なんて150年くらいかかってるで

99:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 17:56:56.36 vwkc0mgv0.net
それのどこが消化試合なん?っていう
よく曹操が河北統一してからは消化試合って言うやついるけど80年も優位を保ちながら統一を果たせなかったのってどれだけ魏の連中は無能揃いなんだよっていう

100:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 18:04:29.27 TXsCsC+P0.net
>>98
司馬昭が第一人者になった途端に蜀併合だからな
曹丕にしろ曹叡にしろ無能の烙印押されても文句言えないと思う

101:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 18:15:42.99 0NbyMjHi0.net
曹操が無能なら劉備は・・・
家畜かなんかだったのか?

102:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 19:54:43.50 o5GsVjFf0.net
曹叡はともかく曹丕は軍事的には明らかに無能だったからな…
司馬昭はちょうど蜀が姜維派と反姜維派で分裂してた時だったからラッキーだったとも言える

103:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 20:02:37.80 82QgYJW90.net
単純に魏の国力回復待ちやろ
時間が経てば経つ程中原から流れた人々は戻るし元々の生産力の差が広がっていく
いくら蜀や呉の国土が豊かでも結局は人が1番の資源やし

104:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 20:10:13.84 rhMFK9XL0.net
>>102
人口がどれだけ回復したのか証明できなくね?

105:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 21:02:54.34 82QgYJW90.net
>>103
そもそも
これまで証明出来る様な意見出てきたのかな?

106:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 21:10:22.17 FosfxTME0.net
>>104
自分で中原に人口戻ったとか言ってる割に根拠無かったんか

107:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 22:14:32.61 Rb9tzJoa0.net
>>92
違うよ
魯粛は揚、荊州による長江での防衛ライン構築で後の南朝の礎になるのに対して
隆中対は荊、益州取れれば良いなぐらいだぞ
>>103
後漢末期は寒冷期で長江も凍るプチ氷河期だぞ
北部ほどダメージがデカイし魏は戸籍に対して人口が少ないだろ

108:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/23 22:34:32.65 o5GsVjFf0.net
>>106隆中対の一番大きなポイントは呉との同盟を提案した事だと思うわ
魯粛が先に提案したものは最初同盟者を想定したものでは無かったからな

109:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 00:09:39.99 L7XqR1C+O.net
半年くらい書き込みなかったのに、ちょっと書き込みあったら一気に消化する不思議なスレ

110:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 00:12:39.21 WnJrpnXV0.net
>>106
後漢末は別に寒くもなく暑くもなくだよ
ただ史書に南北関係なく旱害蝗害疫病が頻発してるから異常気象ではあったんやろな
傾向として蝗害は北やろうけど疫病は南やろうね
呉の武将の早死が多いけど当然ながら武将に限る訳が無いという事

111:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 01:17:55.28 WnJrpnXV0.net
>>106
だから荊州確保に劉備を利用して益州に追い出しつつ荊州の権益を奪って呉に都合のいい三国鼎立に持って行ったんだよ
礎は礎であって南朝ではない
魯粛は単に当時の呉の力では単独で益州まで確保するのは不可能だと冷静に分析して現実的に対応しただけだよ

112:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 01:28:13.76 2iZAhoo50.net
>>107
劉備が独力で曹操に対抗することが不可能である以上、孫呉と結ぶという発想自体は自然なものというか画期的なものではないと思うがね
問題なのは、どうやって孫呉との同盟を締結するのかってこと
孫呉と荊州(劉表)はずっと領土を巡って険悪な状態にあったから、そういう情勢をどうやって覆すのか、隆中対には具体的なプランが無い
結局のところ魯粛がやってきて何もかもお膳立てしてくれなかったら画餅で終わっていたかもよ

113:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 01:40:49.79 WnJrpnXV0.net
>>111
当たり前だけど劉備は劉表じゃないよ
孫呉も劉表に勝てず曹操が荊州固めたら万事休すの手詰まり
劉備との同盟は独立のラストチャンスだったんだけどね

114:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 01:57:31.28 2iZAhoo50.net
>>112
孫権も天下への野心を捨てれば曹操の下で有力諸侯として生き残る道もあった
張昭ら呉の主流派はその考えだったし、周瑜も呉単独で曹操に対抗する考えだった
それらを覆したのは魯粛が孫権を説得したことで果たされ、結局のところ劉孫同盟の締結は魯粛なしでは不可能だったことは否定できないんじゃないかな

115:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 02:14:34.35 WnJrpnXV0.net
>>113
否定も何も
同盟からその後の展開まで三国鼎立の形を事実上作ったのは魯粛やって何度も言ってるやん
あと当時の孫権は孫呉の神輿以外に価値が殆ど無いから降伏しても諸侯とか厚遇されん
と魯粛が孫権を説得してるんだが?

116:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 04:47:02.52 l0OC8txD0.net
孫呉が南朝に与えた影響は建業を整備してくれたことくらいだろ
防衛ラインが東晋以降は漢中~襄陽~淮水の線になってるから孫呉とは条件が合致しないわけだし

117:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 04:52:13.15 9cVIX0oD0.net
曹操は何で軍を江南に差し向けたんだろうな
孫権の集団内の要人を許昌の朝廷に引き抜いていくとかもっとやりようがあったんじゃないのか?

118:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 07:45:14.51 WnJrpnXV0.net
>>116
地元名士が多いから降伏はともかく引き抜きに応じ難いやろね
そして徐州系はいつものアレ

119:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 09:06:35.69 R9FroY2X0.net
>>116
華キンで成功、張紘で失敗、あんまり効率良くない
魯の字の降伏派ネガキャンはあんまり額面通りに受け取るな

120:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 10:01:56.59 z85czr7sO.net
>>116
中途半端に江南が孫氏と諸豪族連合として軍事力を持ち固まってたからだろう。
これが江東四氏などが個々に独立し軍を持ってる程度なら、それぞれを引き抜き&討伐で選択しながら江南を取る流れが出来てたろうけど
なまじ地盤に固執し保持を目的として豪族同士固まってたから各個に引き抜き出来ないし、軍事規模からも中途半端に大きい孫呉をそのままは危険過ぎて丸抱えも出来ない。
曹操の年齢的も焦る頃だから、荊州を落とし軍で押し潰す方にしたんだろう。

121:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 10:13:30.39 WnJrpnXV0.net
そもそも荊州は長江上流で呉の首根っこ
和戦どちらにしろ優先出来るならするのが当然やろ

122:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/24 15:08:05.62 wqbNsBK9O.net
>>108
妄想合戦はカンガルーボクサー達の大好物。
そういうことです。

123:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 01:02:02.18 KsoW3M0+0.net
>>103
どれだけ回復したのかは証明できないかもしれないけど常識で考えれば魏の人口増が一番多いんじゃない?
三国の人口増が同じくらいだと思うの?

124:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 09:50:32.59 Tr+GlfSA0.net
そもそも増えてねえし人口

125:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 13:35:05.14 tOuxz/Yp0.net
>>123
証拠は?

126:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 13:36:32.86 tOuxz/Yp0.net
まあ三国時代と晋初期で全体の人口はかなり増えてるのは資料に有るから
人口比的に魏が一番増えてるというのは推測出来るやろね

127:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 13:55:02.45 KevwCzgT0.net
>>125
つーか、なんで人口が激変したと思ってる?

128:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 14:06:42.94 tOuxz/Yp0.net
>>126
別に激変する必要ないやろ
三国時代から晋に掛けて増えてる事実からどの地方が一番増えるかを推測するだけやし
まあ三国時代初期と末期の数字が分かれば一番良いんだろうけど見つからんしなあ

129:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 14:17:10.00 jTm/30dD0.net
人口の増減なんて

130:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 14:34:44.15 KevwCzgT0.net
>>127
後漢末期で人口が大幅に減ったことを知らないのかな?

131:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 14:40:21.85 tOuxz/Yp0.net
>>129
三国時代から晋にかけての事を言っとる
後漢末期に激減したのは百も承知

132:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 14:51:43.76 tOuxz/Yp0.net
>>128
現代ですら人口の力は大きいのに
中世以前に至っては人口=国力みたいなもんやぞ

133:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 15:06:45.76 KevwCzgT0.net
>>130
だから原因はなんだと思う?
減った理由も無く只魏が増えたなんて根拠が無いよ

134:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 15:17:19.44 tOuxz/Yp0.net
>>132
史書レベルだと全国的な各種災害と戦乱による流民化やね

135:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 15:45:34.92 Tr+GlfSA0.net
>>125
ねーよそんな史料
むしろあるなら出してくれよ

136:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 15:52:13.84 tOuxz/Yp0.net
>>134
後漢書や晋書の地理誌
通典なんかに残ってるよ

137:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 16:00:46.66 pU2RtjM80.net
蜀は滅亡から280年までの十数年間で戸籍人口が28万戸94万人から約30万戸(推定100万~200万人)ぐらいまでしか回復できてないわね

138:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 16:01:02.68 Tr+GlfSA0.net
だから肝心の三国志に地理志が付いてないからどのような推移で後漢末から西晋まで至ったのかが語れないだろうて

139:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 16:04:18.56 tOuxz/Yp0.net
>>137
三国の人口は通典
そこからは人口比からの推測するしかないって事

140:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 17:28:05.72 KevwCzgT0.net
蜀は滅亡の前のだいたい30年ぐらいは引きこもって人口が増えてるから
一番人口が少ない時は157年から9割以上は消えてる計算になる
天安門以上の虐殺か天変地異が無ければ無理だよな

141:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 17:49:42.57 tOuxz/Yp0.net
>>139
流民化したり支配が及ばなくなって戸籍管理出来なくなったり等々
実際に生きてるかどうか以外の要素も大きいかもしれんし

142:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 18:17:18.64 KevwCzgT0.net
>>140
その程度で9割以上の人口が消えるのは無理がある

143:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 18:21:35.58 tOuxz/Yp0.net
>>141
当然災害なんかでの人口減もあるやろ
疫病流行れば一発で10万100万単位が逝けるし

144:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 21:34:17.44 KevwCzgT0.net
>>142
9割も人口が消えてるって三国時代以外在るのかな
10、100万程度で9割には届くわけがない

145:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/25 23:24:46.76 7r1dytjp0.net
>>143
時代下ると有名な蜀の大虐殺が有るよ
本当かどうか分からんが殺した人数は9割じゃ効かない

146:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/26 17:56:48.05 etAkvV1G0.net
屠蜀

147:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/26 23:51:36.76 j++YFZKO0.net
蜀の人口が300万から2万くらいになったやつか
中国は怖いのう

148:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/27 00:16:39.98 PMU5cTRo0.net
あれも最近じゃ誇張されてるとかマンジュがヒャッハー方が酷いとか言われてるな

149:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/28 20:06:35.12 ZEeHQ1j/0.net
新末後漢初、公孫述を破った呉漢が公孫述の一族郎党を皆殺しにして成都で掠奪を行なったり、三国末、綿竹で諸葛瞻を破った鄧艾が現地に京観を築いたり、蜀って案外虐殺に縁深い土地だったりして…
まぁ、長い中国の歴史の中では決して珍しいことではないのかもしれないが

150:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/28 21:18:31.10 Xm8DTdJQO.net
秦よりも酷な時代ばかり
秦や商鞅が酷といっても、貴族や有力者の犯罪も見逃さないから酷て部分もあるしな

151:名無しさん@お腹いっぱい。
19/04/29 00:59:12.62 oXhSclj90.net
「天子は百姓でなく士大夫と共に天下を治めるものである」
記録を残す側の意識はこんなもんだからなあ
士大夫層の既得権益にメスを入れた王安石なんかも長く史書では誹謗されていたし

152:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/01 11:32:06.22 0lBziKGRO.net
そのツケを一気に回された清朝末期…。
世界に目を向けて、その世界の強さと向き合って中国をあらゆる面で進化させた最強商人達が居なかったら、中国は今頃はロシアの属国と化してたな。
正史を真実と捉え、本当の真実に対処出来なかった盲目的現象が近代にまで存在していたってのも驚きだけども。

153:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/06 00:00:44.78 LvLjPj4E0.net
曹操が袁紹に勝った時点で、曹操派の統一は確定だから
赤壁で負けたのと、原因で統一出来なかったけど



154:魏には優秀な文官、軍師が多いから間違える事もなかったし 劉備はスタート時点で国力差がありすぎるのと、場所的に恵まれてないから無理



155:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/06 14:09:39.78 +AAjP6YN0.net
徐州を維持できていたらワンチャンあったけど
陳羣にも泥船だからやめとけ言われてたし機会に恵まれなかった感はある

156:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/06 14:41:15.07 uhNip0Kh0.net
>>153
徐州は守り難く維持が難しいからなあ

157:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/10 03:52:59.97 ihibEExz0.net
あまり正史のことは知らなかったけどネットやら本やらで調べてみたら中原にいた頃に劉備が知り合った人ってその後推挙されて曹操のところや呉で大出世した人多いんだな
入蜀から帝位に着くまでの間でも一気に所帯が大きくなるなかで30前の蒋琬、費禕、董允とかほぼ平の事務官を抜擢して結局彼等がその後の国政の要になっていったり
人を見る目があるということはもちろんあるんだろうけど、そのレベルの人士と交流できるだけのネットワーク持ってないとそもそも知り合えないだろうと思うと演技路線での劉備から全く違う人物像浮かんできて新鮮
ここに書き込んでる他の人達は今更な事なんだろうけどw

158:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 00:54:01.87 q3/gPwkV0.net
確かに史料を漁ってくと劉備の人脈の広さには想像以上に驚かせられるね
ただ、スレタイに沿って意地悪な意見を言わせてもらうけど、劉備は多くの人傑と交友して彼らから高い評価を得ていたけれど、少なからぬ人間が劉備を命を懸けて仕えるに値する主君とは見なさずに離れていってしまったことも言えると思う
牽昭、田豫、太史慈、陳羣、袁渙、陳登、徐庶、潘濬、孟達、黄権etc...
彼らのうちの何人かを繋ぎ止めることができていたら違った未来もありえたのでは?

159:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 02:09:25.86 UkJjgnse0.net
荊州ぐらいまでは天下なんて考えてもいなかっただろうし
中原の覇者たちと比べたらやっぱりそっちに付くよねってなるわなあ

160:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 04:37:17.33 f8Obaj4E0.net
>>155蒋琬、費禕、董允らは諸葛亮ら名士達の推薦が大きい
もちろんそれらの献言を聞き入れて抜擢した劉備も偉いが

161:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 10:53:57.19 eXXoCt7L0.net
>>156
そもそも、劉備が知識人層を人材として使う様になったのは諸葛亮が入ってからだろう
荊州で諸葛亮をはじめとする司馬徽派と言える人材が揃いだしたから文官=知識人が増えたと思う
その前まではタダの傭兵みたいなものだよ

162:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 11:10:22.74 OFbKVt8r0.net
>>159
傭兵って何やねん
演義でも正史でもないミラクル解釈やめーや

163:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 11:12:34.68 eXXoCt7L0.net
特定の領土持たずに、兵隊だけ連れて色々な群雄の下についているんだから傭兵みたいなものだよ
客将って扱いだろうけどな

164:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 11:18:09.80 Qtj3zlvU0.net
どっちかって言うとコネ使って渡り歩いてる方が近いぞ

165:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 11:18:45.97 /eqkISdX0.net
>>156
なるほど確かに後半の部分納得です
ただ曹操に推挙された人は曹操に仕える意識と共に献帝を擁していたのもあって漢王朝の朝臣になるという意識を持っていたというのもあるのかなと
袁術の影響


166:下にあった漢王朝の朝臣、土豪クラスの人は袁術が曹操と対立していたこともあって曹操に顔向けできない面もあり孫策の元に流れたりと その時点での立場なり影響力、何より漢王朝の力の有無などで人の流れが大きく変わっていただろうことを思うと曹操はやはり天の時を得ていたんだろうと改めて思います。



167:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 11:25:55.51 Qtj3zlvU0.net
当時は自称皇帝とか自称王とか腐るほどいたけど袁術陛下の場合ビッグネームすぎて影響力が各方面に及んでるから……
呉書なんて必死こいて「孫家は代々漢王朝の忠臣です!」ってアピールしてるし

168:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 13:50:01.38 E8fPCI6r0.net
でも簒奪者から王に封じられた上に皇帝まで名乗っちゃったね

169:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 13:56:48.61 rWu8FCtQ0.net
>>162
いや、地元兵では無く流れの兵がメインだから傭兵って捉え方も的外れでは無いな
>>164
そりゃ劉備が王を僣称してんだから大義名分としては充分過ぎるだろ

170:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 14:10:00.85 y9kJjYSmO.net
忠義者が少なかったからだろうな。幾ら優秀でも、己が身可愛さに忠義を全うせず敵国に寝返るような奴が居れば、天下なんて取りようもない。
劉備の原因ではなく、その時代には忠義者が貴重な存在で、劉備には義兄弟や古参連中にしかそういう存在は居なかった。

171:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 14:12:58.18 rWu8FCtQ0.net
>>167
?
劉備自身が劉ショウを裏切ってるじゃん

172:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 14:13:28.00 kp9DSHoa0.net
「傭兵とは金銭などの利益により雇われ、直接に利害関係の無い戦争に参加する兵またはその集団である」
劉備は基本的に漢の地方官を渡り歩いているので傭兵ではない
劉備が陶謙なんかと金銭による雇用関係にあったことを証明する史料はない

173:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 14:18:03.71 rWu8FCtQ0.net
劉表の下に行ったのが袁紹の指示で曹操の後方撹乱が目的
まさに傭兵らしいと思うけどな

174:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 15:46:45.85 q3/gPwkV0.net
なんていうか、劉備のおかしな所って土地に対する執着が薄い所なんだよね
領土があるから兵糧を蓄えられて、兵糧があるから兵士を集められて、兵士がいるから戦争することができるのに
群雄として自立するためには領土が根本になっているのに、特に前半生の劉備は「一所懸命」になろうとせずに、自分の命が危なくなるとすぐに領土も配下も家族も捨てて逃げてしまう
封建領主としてみると完全に失格だよね
領民や家臣を守ってくれる強いリーダーとは到底呼べないもの
何かと劉備と比較される高祖劉邦だって配下を見殺しにしたり家族を捨てて敗走したりしていたけど、要害の地である関中や敖倉を守り抜くことで最終的に勝利者になることができたわけで

175:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 16:47:10.74 flXwtN+W0.net
劉備は漢朝の臣なんだから勝手に自立するわけにはいかんだろ
豫州だって徐州だって朝廷から任命された上で統治しようとしていたんだから
勝手に割拠しようとしていた袁紹みたいなやつの方がおかしいんだよ

176:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 17:06:06.69 g9hnbHNVO.net
その袁紹に鞍替えしちゃったが

177:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 17:12:56.89 E8fPCI6r0.net
>>171
それ拘ってたら益州行く前に死んだだろ

178:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 17:21:21.35 CDFIoxdx0.net
劉備=傭兵説って昔大澤のアホが流したデマだろ
未だに信じてる馬鹿がいるのか

179:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 17:26:26.35 85T/5ehV0.net
>>175
大澤(地雷魚)って資料の検証とかもちゃんと出来ないガイジやしね

180:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 18:11:14.20 q3/gPwkV0.net
傭兵と言ったら乱暴だし、ものの例えにしても不適切な表現だと思うけど、入蜀までの劉備は自立した群雄だったとは言い難い状態だったのもまた事実だと思うな
なんて言うのが適切なのか難しいけど

181:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 18:21:00.44 g9hnbHNVO.net
渡り者、厄介者
そんな中じゃ優しい表現か

182:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 18:24:42.82 rWu8FCtQ0.net
無理だな
袁紹の下に居た事実が献帝の否定だから

183:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 18:42:23.84 1qMV5gjC0.net
>>171
実家にそもそも力がなく官職を離れてしまうと経済的にも行き詰まり、要職についている人物のネットワークからも外れたり自身の立場がなくなると地方の軍閥との繋がりも期待できないというのがまずあったんでしょうかね?
人的ネットワークに加われたからこそそのネットワークに加われる基本になる官職というのをどうしても手放せないという思いが他の人より強かった。
例えば曹操や袁紹だと実家に戻って無職でもまずお金には困らない。
黄巾の乱から董卓の登場までの間に要職についていた親族が粛清されたり、一族内で揉めたりあったものの漢王朝内では相変わらず強い縁故が維持され地元では封建領主的な力も持っている。
孫堅の場合は官職に頼った縁故はそもそもなかったようですが僻地ではあっても領主としてそれなりに力を付けている。
その辺りの差が劉備と他の人物との拘る部分の差になって表れたのかなとみなさんの書き込みを見て感じました。

184:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 18:57:57.13 yUngNbT9O.net
>>178
客将、位だろうな。
でも客将とて豫州・徐州時代を考えたら最適とも言えないし。
軍閥かなあ、いや袁紹とか曹操クラスは軍閥と言えるけど、その下僚として転戦した劉備には不適か。

185:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 19:15:59.86 easboPQN0.net
普通に軍閥でええやん
現代的に言えば聞こえは悪くなるけど武装集団

186:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 19:19:04.93 easboPQN0.net
>>156
そもそも名士は地元に根ざす事が多いから
土地的な基盤をなかなか持てなかった劉備について行く方が奇特なんだよ

187:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 20:47:35.85 y9kJjYSmO.net
劉備軍は水滸伝の梁山泊好漢のモデル集団みたいなもので、法治国家の建設には向かなかったのかも。

188:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 21:05:15.06 AinG8vJm0.net
これはどこから突っ込めば良いのか…

189:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 21:28:00.44 y9kJjYSmO.net
どこからでもいいぞ。具体的によろしくな。

190:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 21:41:38.02 AinG8vJm0.net
>>184
フィクションである水滸伝と後漢末の群雄割拠状態との比較分析は可能なのか?
アナーキーな好漢集団と漢の官僚だった劉備のどこに共通点が見いだせるのか?
法治国家という近代西欧の国家概念を後漢末に適用しようとする意図は?

191:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 22:53:12.52 y9kJjYSmO.net
水滸伝の梁山泊好漢の主要なキャラは、劉備軍の人物をモデルにしている人物が多く、義侠の精神性の繋がりがあること。
彼らには国家レベルの法律基準がなく、全ては感情的な自分たち中心の勧善懲悪の理念で動く。
法がなければ国家とは言えないだろう?法治国家とは方便で使ったまで。
関羽の仇討ちで呉征伐の大軍を起こした劉備は、自分の感情を優先した義侠の精神性の持ち主で、そういう共通点から、梁山泊好漢との接点として述べさせて頂いた。

192:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 23:27:22.90 pUxbGOiM0.net
>>178
劉備に一番しっくり来るのが寄生虫だろ

193:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 23:37:27.99 itVGRk/l0.net
演義と正史の区別がついてない残念な方がいらっしゃるようで・・・

194:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/11 23:43:22.20 y9kJjYSmO.net
なんだ?煽るだけで降参か。話にならないな。

195:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 00:44:02.27 K12jdQmH0.net
>>188
>法がなければ国家とは言えないだろう?法治国家とは方便で使ったまで。
あの…蜀科はご存知ですよね?演義ベースの知識しかなかったとしても知っている筈

196:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 03:16:42.15 Zo8qokes0.net
三国の中でも蜀が一番法でガチガチに縛りかけてて評判悪かったもんな。

197:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 03:22:45.14 2Wnsof9y0.net
荊州は実利あるから関羽のことだけっていうのは疑問

198:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 07:51:57.55 wmXeWT110.net
>>188
三国志演義劉備と巷の俗説の仁俠劉備とが混ざり合っててその上水滸伝と勝手に関連付けてるから完全にキメラな理解になってる
そんな劉備像はあなたの頭の中だけですよ

199:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 08:01:04.60 DfBsnpI/0.net
>>194
魏や呉が捕虜にした蜀人に龐統の弟や習鑿歯の先祖を始めとした荊州勢が結構いるので実際は荊州勢の意見を止められなかった可能性も

200:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 11:32:48.82 K12jdQmH0.net
>>193
蜀科の具体的な内容が明らかでない以上、魏や呉と比較してどうこう言えるものではないと思うんですけどね

201:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 11:42:06.79 I0x+uuEf0.net
劉備の関羽敵討ちは看板のみで実際は江陵を取り返すことが最重要目標だったという人もいるみたいですね。
魏への侵攻ルートが危険な漢中から長安、もしくはその迂回ルートになる武都、天水から長安という難しいことになって魏への侵攻がほぼ不可能になるからというのがその理由だそうで。
史実では江陵奪還はならず結局漢中を起点とする北伐はことごとくとん挫。
戦闘そのものでは優位になった時も補給の問題でせっかく獲得した長安付近の拠点も放棄して退却するしかなかったことを考えると上記の考えは説得力がありますね。
ではなぜ江陵奪還が目的なのにわざわざ関羽の敵討ちという看板を掲げたかという理由については魏を刺激せず呉が魏と再び共闘させないためということを挙げられていました。
魏を討伐するには江陵が必要だから江陵を取り戻すという名分で劉備が夷陵から荊州へ進軍すれば当然「荊州の次はこっちに攻め込む気か。それなら呉の防衛に協力しよう」と魏が考えるのは当然のこと。
関羽とは色々衝突しながらでもギリギリのところで蜀との決別は回避してきた呉が樊城攻略中に蜀との同盟をうっちゃってまで取った江陵を呉もなんとしてでも守りたいので魏との共同戦線が可能ならそれを実現するために動くだろうと。
蜀は荊州も失い国力が激減した中で呉と魏の両方と同時には戦えないので江陵奪取の直接の相手になる呉に魏が付かないような良い名分が欲しい。
それで関羽の敵討ちという劉備と関羽の関係を考えると誰もが納得の御旗をかざすことにしたと。
ざっとこのような意見で素人の私にとっては説得力のある意見に感じましたが、みなさんどのように思われますか?
劉備は関羽の敵討ちが最優先で呉へ侵攻したのか?
それとも江陵を含む荊州の奪還を目的に呉へ侵攻したのか?

202:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 12:21:46.96 soMTD/AzO.net
>>195
小説嫌いのアレルギー出過ぎでしょ。
そもそも、正史は歴史の真実ではないんだから、正史と小説では記述の差がある、ということが基本的に正史と小説を隔てる壁になっている。
ただし、劉備と梁山泊好漢の共通点は儒教の「義」で繋がっている。
これが劉備と水滸伝を繋げ、水滸伝を見れば好漢達は報復の義を善し、として行動している。
劉備は関羽の仇討ちのために報復の義による行動に入ったが、それを政治屋の諸葛亮から反対された。
儒教の義という共通点から正史と小説の存在の行動理念の一致を考えてみたわけだが、理由のない否定は単なる小説嫌いにしか見えないな。

203:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 12:32:02.82 K12jdQmH0.net
大丈夫かなこの人…
お薬飲んだ?

204:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 14:32:20.40 WXkGxhce0.net
>>198
そりゃ、仇討優先だろ。
てか、お前は知識の引き出しが全くないんだな。
素人ならハナから黙ってろ、って話だ。
話のレベルについていけてないんだからな。
先主伝(抜粋)
最初、先主は孫権が関羽を襲撃したのを怒り、東征向かわんとし
秋七月、諸軍を統率して呉征伐に向った。
孫権は手紙を送って和睦を請うたが、先主は激怒していて許さなかった。

これがすべてだろ。
劉備は極めて感情的な行動を取っている。
基礎となる正史の記述にも目を通してないのか?
そこからのキーワード的な繋がりの「義」という点にも目が向いていない
(というか、水滸伝未読なだけの知識不足か?)
正史と小説の繋がりを儒教特性の五常 仁、義、礼、智、信 の義から
抽出していることもまるで無視。
更にはお前は自らの自問自答による妄想解釈が酷くて
原典との着地点が合ってない。
ついでに言えば見にくい。他人への自論の理解を促すなら
改行くらいはちゃんとやってくれ。
知らないことは恥ではないが、知ったかぶりは恥になるんだよ。
無理ならついてこようとしなくていいんだよ。
知識はもっと広域的に身につけたほうがいい。

205:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 15:12:46.51 HU8oQVF40.net
しかし関羽が死んでから1年半放置
その間にやってる事はのんびり劉封粛清や皇帝僭称
怒ってる割にはどんだけタイムラグが

206:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 15:32:27.68 HU8oQVF40.net
>>189
薛綜「蜀とは何でありましょう。犬(犭へん)がいると獨(独りという字)になり、
犬がいないと蜀となりますな。よく見ると目を横につけて(罒)身をかがめ(勹)、腹には虫が入っております。」
「蜀」という言葉自体寄生虫含んでるからな

207:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 15:52:55.87 I0x+uuEf0.net
>>201
ちなみにあなたのレベルは_

208:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 16:31:24.14 JBvuBcRR0.net
感情に任せて攻め込むわけないでしょ

209:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 16:59:25.55 WoAgwn/C0.net
>>193普通に諸葛亮の統治は評判良いし
諸葛亮死後もショウエンが死ぬまでは問題なかったぞ
費イになって恩赦をやる回数が増えて色々言われるようになってる

210:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 17:55:44.08 soMTD/AzO.net
>>205
攻め込むわけがない、言われても正史の記述は覆らないからな。
正史の記述すら否定して、過程の妄想を膨らませて正史の記述との接点を合わせず、自分の妄想を押し通そうとすることにプライドを感じてるなら、俺はそんな底辺の吹き溜まりの仲間入りなんてしたくはないので、これで失礼するよ。

211:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 18:19:16.07 8UAx6MGv0.net
魏では無く呉を攻める大義名分が無いんだから感情論でも当たり前なんだよなあ
結局、そういう前後が理解出来ないで記述通りしか語れないなら本当二度と来ないほうがいいね

212:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 18:22:21.76 5XGLGFWI0.net
Twitterあたりだと三国志警察案件になりそうなくらい酷い妄想

213:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 18:36:43.51 8immHhQO0.net
>>208
普通に魏の手下になって荊州奪ったんやから名分は十分やろ
むしろ劉備の死後孔明が皇帝名乗った孫権と同盟結び直す方が名分なくて理由づけに苦労してる

214:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 18:47:40.69 8UAx6MGv0.net
>>210
残念だがこの時期は弱いんだ
劉備が献帝を死んだ事にした皇帝を僣称してさらに魏と呉は戦争中だったから
要するに魏を助けてるんだよ

215:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 18:57:53.54 Y4lx0wBZ0.net
劉備が称帝した時期の蜀っておそらくは内部がガタガタだった可能性が。

216:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 19:03:22.90 K12jdQmH0.net
劉備が荊州の領有権を主張する根拠となるのは、劉備が孫権の上表の下で漢の荊州牧に任じられたことの一点にしかないわけだからね
そんなものは孫劉同盟が決裂し、漢魏革命で後漢が滅んだことで白紙になってしまったわけだし
例えば、劉備が漢の正当後継者として漢の領土を不当に領有する逆賊孫権を征伐するといったことを大義名分に掲げたとしたら、孫権との妥協を難しくすることになり、魏につけ入る隙を与えてしまう
劉備が関羽の仇討ちを名分にしたのはそこじゃないかな?他に名分がないもの

217:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 19:44:13.44 K12jdQmH0.net
>>212
蜀臣の大多数が劉備を皇帝に推薦する上言に名を連ねてはいるものの、費詩や張裕、癕茂や劉巴などは即位に反対していたわけだしね
左遷したり別の理由をつけて粛正したりして即位反対派を黙らせてはみたものの、劉備には外征を成功させることで自身への求心力を高めなければならない事情があったと言えると思う

218:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 20:00:32.92 K12jdQmH0.net
>>214
×癕茂◯雍茂

219:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 20:22:13.59 8UAx6MGv0.net
>>213
孫権はさらに関羽討伐の後に漢から荊州牧に任命されてる

220:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:00:29.56 WoAgwn/C0.net
雍茂と劉巴が皇帝即位に反対したという記述は信憑性が薄いと思うぞ
零陵先賢伝にしか無いエピソードだし
蜀書だと劉巴は皇帝に即位する際に報告文や任命書を作成したと書かれていて
劉巴が即位に反対派だったとは思えない

221:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:08:43.98 i4IPfGyE0.net
劉備の称帝って親とか祖父の宗廟作ってなかったりとか手続き的にも雑なんで称帝しないと求心力出せない事情とかあったんじゃ。

222:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:16:39.83 2Wnsof9y0.net
>>213
結構準備してるしそんな感じっぽいな

223:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:18:07.56 5XGLGFWI0.net
>>218
後漢の天子七廟の存在を考慮すると劉備が自分の祖父や父を祀るのはさすがに常識外れだろ
蜀漢は後漢を簒奪でもしたのか?という話になる

224:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:40:31.54 EGw1gi3o0.net
>>217
劉巴のような高尚と呼ばれる人物が献帝を勝手に死んだ事にする
気量の狭い事を反対する事は自然だと思うがな
僣称に否定したからって仕事をしないとは=にはならないし

225:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:42:57.99 I36Wx/440.net
劉協は「愍(殺された皇帝が貰う諡号)」って諡号から�


226:オて殺されたと勘違いしたか意図的に殺されたと宣伝したかのどちらかやろね



227:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:43:53.01 8immHhQO0.net
>>213
別の記述じゃ荊州名士からの推戴やけどな
そもそも当時の孫権の身分じゃ劉備を推挙するどころか逆に劉備から徐州牧と車騎将軍代行に推挙してもらってる状態やぞ

228:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 21:48:28.09 8immHhQO0.net
そもそも劉備は自ら上奏して劉琦を荊州刺史にしてるから事朝廷工作においては孫権の力は必要無いんだよなあ

229:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:10:37.20 8UAx6MGv0.net
>>224
それで劉備が漢から任命された荊州牧の孫権を攻める理由は?

230:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:14:53.84 SylwewF00.net
>>225
そもそも呉が荊州牧の劉備に攻め込んでるやん
そして夷陵の時は既に劉備は皇帝で孫権は漢の臣下ではなく魏の臣下になっとる

231:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:19:38.52 8UAx6MGv0.net
>>226
荊州戦は王を僣称した劉備討伐を漢からの要請
夷陵は劉備が攻めなければ魏の臣下になってないから理由にならない

232:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:33:35.23 SylwewF00.net
>>227
荊州に最初に手出ししたのは漢中王前やけどな
あと魏の臣下なのは夷陵関係なく曹丕の禅譲を認めてるからや

233:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:38:01.07 8UAx6MGv0.net
>>228
先に手を出したのは国境線を荒らした関羽だよ
魏と戦争中の呉を攻めた事実は変わらんぞ

234:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:41:17.12 SylwewF00.net
そもそも孫呉は他の群雄に先んじて皇帝を僭称した袁術の基盤を受け継いだ勢力で結局正当性もなく皇帝名乗ってるんやから
安全保障上何としても欲しかった荊州争奪についていちいち名分的な擁護する必要ないやろ

235:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:43:17.21 8UAx6MGv0.net
>>230
擁護じゃなく事実なだけ

236:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:46:08.86 UcTKswr80.net
道義性抜きにした話で、荊州失った劉備が失地回復を図って最終的に陸遜に敗れた戦役以上の意味はないと思ってるんだけど
何でこんなに熱くなってんの

237:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:47:39.18 SylwewF00.net
>>229
それ以前に普通に荊州江南を攻撃しとるけどな

238:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:49:38.93 SylwewF00.net
>>232
そもそも孫呉の荊州攻略自体が孫堅の頃からの道義もクソもない念願やったからな

239:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 22:54:52.55 8UAx6MGv0.net
>>233
何時の話だ?
関羽が国境線を荒らしたのは魯粛が江夏赴任からだけど

240:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 23:02:56.70 8UAx6MGv0.net
>>234
どうした?
劉備に道義があると思ったのか

241:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 23:19:56.07 2Wnsof9y0.net
>>230
中華において名分ほど大事なものはないぞ。簒奪する時もアホみたいな手順踏まないといけないんだから

242:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 23:46:05.40 r67F1Bw1O.net
アメリカも名分づくりは上手いな

243:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 23:48:45.56 i4IPfGyE0.net
建前って大事やからね。
余程の恵まれた奴じゃない限り本音だけで生きていくのは不可能

244:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/12 23:49:17.24 K12jdQmH0.net
土地とは徳ある者に帰するものであって常ならざるものだって関羽の部下も言っているがね
単刀赴会でこういう言質を引き出した魯粛ってなにげに良い仕事したと思う
呂蒙はそれを引き継いで平和裏に荊州に入り領民を顧みずに兵糧を収奪していた関羽の手から荊州を解放して、病人には薬を配り租税を免じ掠奪を禁じて徳を以って荊州を治めることに成功したのだから
士大夫にとっての名分は置いといても、領民にとっての徳義において孫呉は荊州を治める正当性を手にしていたのではないかな

245:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/15 19:52:33.85 /nBKtVI80.net
劉備ほど道義を重要視した群雄もいないだろうなぁ

246:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/15 19:58:26.06 R414Ze2Z0.net
朝廷無視して自立に踏み切った時期は最後発でしょ、劉備

247:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/15 23:58:42.85 31lWEPb40.net
>>241
だから同族で恩人の劉ショウを騙し討ちして益州を奪ってるよ

248:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 08:48:37.71 Xp1hiKmJ0.net
>>241
表面上だけな

249:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 12:37:15.35 AOeBOsbFO.net
蔡瑁が警戒するのもわかる

250:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 13:44:40.72 plQo1NSv0.net
>>243
朝廷に反逆の意思有りな親父を説得しなきゃいけなくて朝廷から派遣されたのになんとなく基盤を継いじゃった劉璋を皇族として尊重する必要無し 
それと劉璋から劉備が受けた恩って何よ?
劉表がそれを主張するならわかるが

251:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 13:58:20.98 PKv75yHt0.net
>>246
青泥で関羽がピンチだから兵や食料を貰ってるだろ

252:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 14:03:29.40 PKv75yHt0.net
>>246
それとどんなに屁理屈言おうが劉ショウは益州牧だから
王を僣称する劉備よりもまとも

253:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 15:14:40.26 lYO+EbTV0.net
あれって曹操が簒奪の前段階で魏王に就任したことに対して漢朝をバックアップするために取った行動でしょ
普通にセーフじゃね
どこが悪いのかイマイチ分からんわ

254:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 15:25:38.61 cD6YN0qp0.net
後漢は王の僣称はアウト
バックアップなら袁紹の劉虞のように誰か立てれば良かった

255:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 16:21:07.01 Wtzvjt0b0.net
でも劉氏以外が王になったら殺せって高祖が言ってたし・・・

256:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 16:23:07.59 xq79OwII0.net
その後も呂氏の王とか出てるから不良皇帝の遺言なんて殆ど重んじられてないな

257:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 17:07:45.53 lYO+EbTV0.net
>>250
その理屈だと劉虞も立てれないのでは?

258:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 17:15:30.95 cD6YN0qp0.net
>>253
魏への禅譲後にだぞ

259:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 18:43:01.39 N1bJMgxV0.net
荊州牧は劉表が、益州牧は劉焉が死んだらその息子のものだって当たり前みたいに言うけど
公や王と違って州牧って勝手に世襲できるもんちゃうやろ

260:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 19:22:44.64 ZMBHmtvQ0.net
>>255
後漢の時点で太守や刺史が在職中に死んだ際に後任が来るまで息子や親族が臨時で代行するみたいな前例はあったみたいだよ
劉璋の場合、派遣されてきた後任の刺史を追っ払ったみたいだけど最終的には朝廷から地位を認めてもらったし問題ないか

261:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 19:27:16.89 DjXCwL9D0.net
この当時爵位の世襲禁止とかぶち上げてた(後漢書楊彪伝より)曹操とか言う権益破壊者

262:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 19:28:10.10 lYO+EbTV0.net
>>254
それだと曹魏に不満を抱く旧漢朝の朝臣や地方官たちにオルタナティブとしての受け皿を準備できなくね?
魏成立後に王を名乗っても機を失してないかい

263:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 20:02:53.78 twezI6Yc0.net
曹魏に不満を抱く旧漢朝の朝臣や地方官なんて
東漢から曹魏へ禅譲する頃には中原にほとんど存在しないので
受け皿有ろうが無かろうがどうでもいいな

264:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 20:10:25.47 qZzGzNFY0.net
>>255
劉キ全否定だな
そうすると劉備の荊州牧も正当性かま無くなるな

265:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 20:59:48.51 D+DZLYsn0.net
劉備が漢中王を僭称した時期の関羽の北上であれだけ曹操周辺が泡食ったり反乱起きたりしたわけだから
劉備は十分に受け皿になり得たと思うぜ

266:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 21:17:04.36 twezI6Yc0.net
>>261
反乱は吉平の乱や侯音の乱が起きた218年~219年初がピークで
劉備が漢中王を僭称した後は未遂で終わった魏諷の乱とか
首謀者がわからない程度の群盗騒ぎなどの出がらししかない
曹操周辺が泡食ったとかいってもすぐに兵士掻き集めて
劉備が1年半準備して夷陵の戦いで率いた軍以上の兵士を
わずか2~3ヶ月で掻き集めているからな
その結果中原では雨降って地が固まり曹魏に対する反乱分子ほぼ0で
職は2個師団のうちの1個師団壊滅で領土ほぼ半減
受け皿なにそれおいしいの?状態

267:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 21:29:36.98 qZzGzNFY0.net
>>261
王を僣称した朝敵として魏呉に大義名分を与えて
荊州を失っただけだよな

268:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:02:08.73 YZoullKJ0.net
もし関羽の北上が成功して呉も魏領に侵攻してたら
中原の反乱はもっと膨れ上がっただろうな

269:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:03:54.47 YZoullKJ0.net
>>263漢中王を名乗ったから魏と呉が大義名分を得たとはあまり思えないな
その事で劉備が支持を失ったとか特に無いし
劉備が漢中王を名乗らずとも関羽北上のタイミングで呉は普通に荊州を攻めてたと思うわ

270:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:04:27.43 qZzGzNFY0.net
>>264
徐晃単独に負けてるから意味の無いifだな

271:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:06:59.55 YZoullKJ0.net
>>266だから徐晃に勝って北上成功したらという意味だよ

272:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:09:23.58 cD6YN0qp0.net
>>265
荊州を呉が攻めた一番の理由は劉備や関羽が信用出来ないって呉書に書いてあるな

273:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:11:22.04 twezI6Yc0.net
>>264
ラッキーなワンパンで于禁の七軍壊滅させても
呉方面の予備兵引き剥がして前線投入して樊城それ以前に
襄陽すらも落とせないのに寡兵の徐晃に進撃止められてる程度じゃ
関羽の北上が成功する要素はほぼ無い
そうこうしているうちに曹仁には数万規模の援軍がすぐそこに
あと本格的に戦闘していないとはいえ
一応関羽の北上と同時期に孫権も合肥に進軍しているんだが
まあ関羽に援軍よこす余力も無いのに悠長に漢中王や蜀漢皇帝名乗ってる時点で
北伐自体ムリゲー
関羽も魏や呉を恨むよりも非協力な身内を恨みたくなるのもわかるわ

274:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 22:40:12.54 YZoullKJ0.net
>>269正直、于禁の七軍壊滅は劉備も関羽も想定外だったと思うんだよな
関羽の北上は劉備の漢中侵攻や上庸侵攻のサポート程度のものでそこまで本格的な北上では最初無かったと思う
思わぬ大勝利+魏領で反乱が勃発という事態に目がくらんで周りが助ける余裕が無いのにそのまま北上したってのが実情だと思う
結果的には劉備と関羽の戦略ミスだな

275:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/16 23:15:55.78 AOeBOsbFO.net
魏…天下統一
蜀…漢王朝再興
呉は国体保持と「あわよくば」領土拡張くらいか
毛利元就みたいに、守りに入ってちまちま拡張だと後世じゃあんま人気でないだろうな

276:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 00:28:20.83 JJcXzDPq0.net
孫呉は人口と軍馬が致命的に足りてないからな。
東晋も北伐やれるようになったの成漢潰してから吐谷渾のルートで軍馬調達できるようになってからやし

277:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 00:54:11.61 E5FHyKpI0.net
>>272蜀漢は軍馬足りてたんだろうか

278:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 01:48:09.42 AjhKufVv0.net
呉主伝を見てると馬を献上した公孫淵に爵位を与えたり遼東まで馬を交易しようとして高句麗と揉めたり絶縁中の魏と交易して馬を求めたりやたらと馬絡みのエピソードが多く孫権が軍馬を集めるのに苦心していた様子がうかがえる
あと蜀が鄧芝を派遣して蜀呉の通交を回復させた時に蜀は馬を二百匹贈っているな
まあ千匹万匹気前よく贈ってやるような余裕は蜀にはなかったんじゃないかな

279:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 06:08:20.26 JJcXzDPq0.net
>>273
孫呉よりは面積狭いぶん足りてたんじゃ。孫呉はやっぱり面積広い割に人口も狭いし温暖だから馬が長生きしないしキッツいよ。
長江バリアーあってもキツイ

280:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 06:42:06.26 15YYCupQ0.net
そもそも畜産学的に長江まで南下すると馬の労働力が急激に低下することを20世紀のドイツ人農学者が解明している

281:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 10:33:45.22 UahOa4tO0.net
>>268
そりゃ呉の立場で最初から取る気満々でしたとは書かんやろ
基本的に劉備が放浪続きな影響で荊州争奪周辺の史実ってほぼ呉史の記述だよりになるんだよね
二宮の変でも言われてる事だけど史書を書いた側の意図も考えなきゃアカン

282:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 10:53:42.81 RhvFoCTf0.net
陳寿も蜀志の方じゃ孫呉に辛口だけど呉志の方は資料提供者が呉人だからあんまりキツイツッコミ入れられんし、そもそも呉人の言い分検証する資料と時間が足らん(正史執筆期間は実は2年程度)
あと蜀はやはり関係者が死に過ぎ。
関羽の遺族も鍾会の乱に巻き込まれて全滅だし廖化もしばらくして死んでる。反論したくても関係者が死んでて「おかしいなぁ呉人に都合良すぎやろ?」と思ってても反論する材料がない。

283:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 11:26:56.34 C44WYVxA0.net
>>270
于禁の援軍が災害で壊滅してなかったらまあ樊城の包囲は続けられなかっただろうからね。
川を挟んだ南向こうの襄陽(位置確定してないみたあだけど、まあそうだとして)の更に南まで一時退却かな。

284:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 13:21:51.33 IjDzRd2/0.net
本人の伝では直接の批判はせずに
他のとこでチクチクやるのが史書の常だからな

285:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 14:04:28.92 UahOa4tO0.net
>>278
そも陳寿は執筆者というより編集者やからな
これは司馬遷なんかも同様で全国の資料を収集し取捨選択し編纂する事がメイン

286:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 14:12:56.02 UahOa4tO0.net
>>275
それでもこの頃はまだ鐙が発明されてないから南北格差はマシな方やったろうね
異民族兵の数も限られてるだろうから弓騎兵自体が少ないやろうし

287:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 15:16:47.34 6Agc0woWO.net
>>281
なければ作るが、チャイナイズムだけどな。NHKのgoshisonって番組の三国志編で関羽の子孫を名乗る人が一万人くらい居て吹いたよ。
もう正史の記事とか現代では通用しないんだな。

288:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 16:09:53.86 UahOa4tO0.net
>>283
曹丕が皇帝になった途端に匈奴の王族が劉氏を名乗ってるんだし
そりゃ関羽の子孫だって1万人くらい出てくるやろ
ぶっちゃけ二千年も経てば普通にそのくらい増えてもおかしくないし

289:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 16:47:41.94 a4r1M+FmO.net
>>283
そいつらの起源は清雍正の頃に「探し出された」関木越の後裔と称する人物からで、乾隆帝の時に聖人の裔という事で五経博士の世襲と爵位を賜ってる。
それ以前の記録は全く無い。

ここまで言やあ、分かるな?

290:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 19:51:45.69 egMs9Ac90.net
五経博士なんだw

291:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 19:55:27.17 AjhKufVv0.net
龐会が関羽の子孫を滅ぼしたって話の出典は王隠の蜀記じゃなかったっけ
ソースが胡散臭いからフェイクとは限らないし事実関羽の子孫は歴史の表舞台から姿を消してるしなんとも言えないけど

292:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 20:00:51.67 6Agc0woWO.net
正史の性質上に忠実ということだな。絶対権力の皇帝の言い分に是非は問わない。それが中華の天子の特権。
皇帝が関羽の子孫を探し出せば、正史上はそれが真実になる。
正史ってこういうものだしな。
歴史の真実に迫りたければ、歴史学でなく考古学でもやればいい。
中国の正史が権力者にとって都合のいいものなんてのは、知ってる上でそれを関帝信者の乾隆帝を介して利用して、自身らが関羽の子孫であることを正史上で証明した現代の中国人は賢いよな。
正史の利用法に長けてる。

293:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 20:05:05.21 02dWfxMk0.net
鍾会の乱って皇太子や張翼や蔣琬の息子二人も死んでて関羽の遺族もそれに巻き込まれたんやろ。
で王隠が後付で「どうせ龐会がやったやろ!」と書き残したとか

294:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 20:59:14.29 a4r1M+FmO.net
>>286
結構有名人の末裔に「五経博士」を与えるのは、清ではよくやってた恩典。
下手な実務官より、役割の曖昧な名誉職で太傅の様な高位すぎる官でも無いのが蔭位の官として最適だったのだろうけど、本当によく使われた恩典。
関羽の場合は、春秋の愛読者だった伝承もその原因の一つと思われる。
関羽の末裔に対する爵位は清朝滅亡まで保持されたが、孔氏の衍聖公や顔回・曾子・孟子らの爵位の転変と違い
どのようになったか明らかではないが、民国初期から軍閥の時期までにうやむやになり消えたようだ。

295:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/17 23:03:21.87 6Agc0woWO.net
儒仏道共に民国になってからは、三教合一の巨大民間信仰になって神仙仏の信仰だけが尊いものになったからな。
儒教道徳に固められたら文化が崩壊して、今の中国になっていなかったら、中国はとんでもない後進国に落ちぶれることになったろう。
劉備やライバルの曹操は、保守と革新の二大規範だったな。護るべき大切なものの保護は劉備だが、必要のないものをぶっ壊す力は曹操が有していたという皮肉。
無理な話かもしれんが、劉備が曹操を傘下に置ければ天下統一は得られたかも。
劉備が~というのはスレタイに従ってということで。

296:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 00:01:52.04 DvQCUTgx0.net
>>291
まあ曹操についても同じ事が言えるけどね
劉備が曹操の配下のままであれば一代で統一出来てたやろうね

297:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 00:32:52.39 /WiBuymf0.net
文句なら帝や董承さんに

298:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 00:34:45.28 y4EgzUOJO.net
そっちを選んだ袁紹や袁術が、いかに巨大な存在だったかてことか
安国寺が信長を高転びすると推測するのをあてにしたり、AmazonやGoogleがソフトバンクや楽天に負けるようなもんだったかもな

299:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 07:41:43.12 Mt81ng/m0.net
>>277
書かないと言っても
劉備は陸中対の頃から弱いから益州を盗ると決めてるし
張松や法正は出世がしたいから裏切ってると蜀書に書かれてるが

300:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 09:28:19.25 AJ92fRWW0.net
>>295
孫呉も弱いから荊州を優先したんやで
強いなら普通に徐州経由で中原に出たっていい

301:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 15:17:18.50 PJr3YUP50.net
陸地で正面同士で陣張り合ったら数の力と経済力、人口の差でまあ勝ち目ないしね
水軍優位な川を利用しやすい荊州で対峙なら十分に迎え打てるという点で劉備も孫権も共通している
逆に同じ思惑だけにその長江以南の主導権を劉備と孫権が対立するのは当たり前という

302:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 16:30:09.62 AJ92fRWW0.net
>>297
違いとしては
孫呉にとっては防衛の最重要拠点で
劉備にとっては統一の重要拠点だった
どちらを評価するかは好みの問題

303:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 17:56:45.48 Mt81ng/m0.net
>>298
別に呉も統一拠点として使っているが
蜀がイチャモンをつけたから兵を過剰に置けなくなっただけだから

304:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 20:24:32.43 AJ92fRWW0.net
>>299
そういうのはせめて
合肥落としてもう少し先まで進んでから言ってくれませんかね

305:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 20:52:23.81 crdhoYhH0.net
>>300
そいうのはせめて遼東から高句麗まで到達してから言ってくれませんかね
海なし県のだ埼玉さんよ

306:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 20:53:51.16 HbWom80W0.net
>>300
もう少し勉強したら?
合肥は落としてる
魏は危険と隣り合わせで合肥新城まで戦線を下げてるんだよ

307:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 20:57:16.18 HbWom80W0.net
>>300
エセ関西弁の君は早く
>>233の呉が荊州江南を何時攻めたのか教えて

308:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/18 23:07:23.48 rNMwv8jR0.net
地元さえ良ければそれでよしの豪族連合の呉に統一やる気ないのは当たり前でしょ
諸葛格みたいにたま~にやる気過剰なやつが出ても、即袋叩きで引き摺り下ろされる国だからねえ

309:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/19 07:12:01.29 OgG1iwuS0.net
地元さえ良かったのであれば呉の士人は孫権なんか押し込めて曹魏に降伏すりゃ良かったんじゃねーの?

310:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/19 07:52:09.91 1nFyivMw0.net
司馬睿「王と司馬はフレンズ。はっきりわかんだね」

311:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/19 09:43:16.23 wQxQTlFyO.net
>>305
その大チャンスの赤壁の折に、諸葛恪よりイケイケドンドンで信頼も能力もそれなりな周瑜やら天下二分の魯粛とかが健在だったからねぇ。
ああいう強硬派が居ないか無力な勢力だったら、多分アッサリ孫呉は国家として確立する事無く南朝の基盤も造れず曹魏(赤壁頃ならば漢)に吸収でしょ。
で、南方開発は遅れる可能性大なので、リアル南北朝の時代にまだ江南の各蛮達が元気ハツラツというカオスワールドに。

312:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/19 14:08:43.68 vuMwzlmP0.net
いわゆる越の辺りは孫権が皇帝即位後もまだ5000から万の単位で軍勢率いて暴れてたみたいだからな

313:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/19 22:45:59.60 L/NwmDzF0.net
>>278
それ以前に三国志は蜀人の陳寿が編纂したから
蜀志>呉志の扱いなんだが
劉備は尊称の先主で孫権は呼び捨てで権だぞ
蜀びいき以外には「おかしいなぁ蜀人に都合良すぎやろ?」が多々
例えばイメージでは荊州の劉備支配が盤石だというのが一般的だが
重箱の隅つついて読めば実際はそうでもないことがわかる
諸葛亮は長沙桂陽零陵の租税は取ってたけど
黄蓋が太守の武陵はアンタッチャブルで
普通に荊州内を黄蓋やら呂岱やらが反乱鎮圧やら遠征やらで闊歩しているからな
215年に湘水で国境線画定するまでは荊州内は劉備も孫権も影響力等しかったと思うよ

314:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/20 02:35:10.46 jVobbQ0C0.net
陳寿は中立の立場にはいないからな
陳寿は基本的に魏(と晋)を正統としつつも、隙あらば蜀age、魏sageを入れてくる
そして呉やその他の勢力のことはナチュラルに見下している
そういう陳寿史観から脱却しない限り、三国時代の実情は見えてこない

315:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/20 08:06:18.61 j29s2TEBO.net
実情なんて歴史学じゃ限界があるけどな。

316:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/20 08:10:23.04 moKmk+U20.net
そりゃ陳寿センセイは元々は西晋で既に起きてた諸葛亮ブームに釘を刺すつもりで「諸葛亮集」を出したけど蜀志の大半は蜀の地方史の「益部耆旧伝」や「益部耆雑記」「季漢輔臣賛」などがベースになってて「よっしゃこの際地元ageしたろ!嘘書いたら不味いけど都合の悪い事は書かなきゃええんや!」的な感覚はあったろうからね。

317:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/20 12:44:02.33 c4FZL+l+0.net
編集マジックね

318:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/20 20:49:35.34 b3AVK8gX0.net
三国志の実情?
あからさまな嘘を羅列する韋昭よりは陳寿の方が信用出来るだけの話

319:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/21 10:25:42.17 96MA3vBa0.net
韋昭=センセイはまず「孫家が袁術陛下の故吏」って言う黒歴史を漂白化するって難事業から史書を書き始めるとか言う無理ゲーやらされてるから

320:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/21 11:25:33.33 h/zHYCuZ0.net
しかもそれはみんなが知ってるから漂白できないっていうね

321:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/21 14:06:18.23 YVXKOEDh0.net
孫呉が袁術陛下の故吏ってのは、孫堅が袁術の上表で行破虜将軍、領豫州刺史に任命されたのを指してるのか?
でもそれって孫権が劉備の上表で行車騎将軍、領徐州牧に任命されたのとどう違うんだろうかって疑問

322:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/21 14:21:37.50 YVXKOEDh0.net
孫権にとって義父でもある袁術と父の代から付き合いがあったのと、ペテン師劉備に妹を嫁がさせてたのとどっちが黒歴史なんだろうか?

323:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/21 14:25:49.99 x7B0Yppo0.net
ペテン師度は曹操がぶっちぎりだろ
劉備嫌いな人はそこらへんの判断基準が少しズレてるよ

324:名無しさん@お腹いっぱい。
19/05/21 15:23:16.63 mxQ055Iq0.net
>>315
それって公孫?、陶謙、劉表が董卓の故吏と同列になるな


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