14/04/12 13:34:49.91 h4C7eTKI0.net
>>844
適当に二十四か
俺としちゃ全部網羅で108将とかのが面白そうだけど
とても決まらんだろうな
851:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/12 23:24:05.04 gU+XtFAr0.net
108選じゃ名前が残ってるほとんどの武将が選出されんじゃん
108人ランキングならいけるかもしれないけど
852:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/12 23:50:12.83 5fCiqSlFO.net
このスレ住人にはKOEI三国志プレイヤーはいるのかな?
三国志ゲーで言うと名将24は統率力BEST24って事だよね
まぁだからどうしたという話だが
853:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/12 23:59:24.82 8hQq16dNO.net
議論が停滞してそうなので話を戻す意味も兼ねて、俺は鍾会を推薦してみる。
鍾会は大軍運用手腕の他にも謀略、作戦立案能力もピカいちだ。
剣閣で姜維と対峙する羽目になったのは、彊川口にて魏の金城太守・楊欣に敗れた姜維の退路を断つよう、橋頭の押さえを鍾会から命じられた諸葛緒が、
陽動に引っ掛かって任地を離れ、剣閣へ逃げ込まれてしまったためだ。
司馬師、司馬昭の懐刀として淮南の叛乱では謀略を巡らし、蜀征伐でも見事な侵攻作戦を練り上げた。
鍾会は、司馬昭が蜀征伐を企図していることを知ると、陣を置く場所から食糧基地に至るまでの克明な表示と、どこから軍を出しどこへ退却するか、全て理にかなった克明な地図を献上し司馬昭を唸らせている。
司馬昭は心強い献策を得て朝議に臨む。
当然議題は蜀征伐についてだ。
曹操以下、その時代時代を代表する魏将達が幾度も試みて、現在まで誰も達成し得なかった大事業。
当然朝議でも群臣達は皆達成不可能と考え反対に回った。
起案者の司馬昭と鍾会だけが可能という見通しを立て、反対派を退けて蜀征伐を決行した。
司馬昭はこの大事業を、魏国と自らの栄達の決定打として懸けていた。
その神経細かそうな司馬昭を大いに納得させたのだから、余程見通しの立った現実味のある作戦案だったのだろう。
854:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 00:09:16.85 VMuN0gM60.net
俺的名将序列
後漢:曹操>>>周瑜>曹仁>劉備>>張遼>楽進>呂蒙>于禁>張飛>張郃>徐晃>夏侯淵
三国:鄧艾>>>諸葛亮>陸遜>>満寵>曹真>司馬懿>田豫>毌丘倹
異論は認める。ただし正史未読者、テメーはダメだ。
鍾会はね、当時「子房」と呼ばれたことからも分かるように、参謀としての功績の方が目立つから。
将軍としては一発屋なことと、その一発が鄧艾の働きによるウェイトが大きいことが、このスレ的にはネックになってるんだろうね。
855:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 00:27:13.69 7HGrkhF+O.net
それは確かに分かる。
ただ当初の作戦案通りに行けば、鍾会は姜維が立て籠る前の手薄な剣閣をあっさり抜き四川盆地に至る筈だった。
その作戦にブレーキをかけ姜維と対峙する羽目になったのは、前述の通り味方である筈の雍州刺史・諸葛緒の動きだ。
彊川口にて楊欣に敗れた姜維は、帰路を断たれ橋頭をも諸葛緒に押さえられたとの報を聞くと、天命尽きたとうなだれた。
そこに配下の寧随から進言がもたらされる。
「魏は橋頭を遮断したが、そのために却って雍州そのものには兵が少ない筈。
孔函谷から一気に雍州を衝くよう装えば、諸葛緒は陰平の兵を撤収して雍州の救援に向かうだろう。
その時将軍は反転し、剣閣まで走ってそこを拠点とすれば良い」
案の定諸葛緒はこの陽動に引っ掛かった。
気付いて姜維の捕捉に向かったが、1日遅く間に合わなかった。
諸葛緒は白水の鍾会の陣に出頭し罪を乞うた。
鍾会怒る。「私は貴公に橋頭を守って、姜維の退路を断てと命じた筈だ。
何故それをしくじったのだ?
そして今回はまた私の命令を得ずして勝手に軍を動かし、よくも敗れてくれたな。」
諸葛緒弁明する。「姜維は雍州を襲うように動きました。
私は雍州に間違いがあってはと、軍を率いて救援に向かい、姜維はその隙を突いて逃げ出しました。
私は姜維を追って剣閣まで来ましたが、意に反して敗れたのであります。」
鍾会再び激怒。「この馬鹿者が!姜維ひとり雍州へ向かって何ができる?
雍州へ向かおうが所詮、袋のネズミだ。 だが、剣閣は天下の要害で、これを攻め落とすのは容易ではないからこそ、橋頭で姜維の退路を遮断せよと命じたのだ。」
怒る鍾会は諸葛緒を処刑しようとした。
しかし諸将が必死にとりなしたためその場で命を落とすことはなく、濫車に乗せられて洛陽の司馬昭に処分を委ねられることになった。
このことは諸葛亮における馬謖と同様、幾ら優れた総司令官でも離れた地にいる部下の迂闊な行動までは制御し切れないから致し方なしと考える。
856:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 00:52:17.95 SBlOdSWY0.net
>>854
ぶっちゃけ曹操鄧艾二人をトップに置いたら
あとの残りはどうにでも変化しそう
857:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 01:00:59.40 FnU8uiOP0.net
>>854
諸葛亮高すぎないか?
そしてそれに対して司馬懿が低すぎるように思える
858:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 01:10:28.01 SBlOdSWY0.net
あえて並べるなら後漢と三国分けないほうが分かりやすい
859:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 01:19:04.08 AJW8nuCn0.net
諸葛亮の過大評価が過ぎると思う
あんなの24選にやっと入るくらいの人間だよ
一段階「諸葛亮SUGEEEEEEE!!!!」
二段階「諸葛亮はカス」
三段階「いや、正史でも諸葛亮は強いからw」←この段階の奴が大杉
確かに名将ではあるけど、二段階の頃の反動で過大評価しすぎ。
860:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 02:09:12.38 SBlOdSWY0.net
それはそれで過小評価じゃないか?
まあでも比べるなら俺も陸遜>諸葛亮かな
861:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 03:08:58.39 7HGrkhF+O.net
司馬懿ももう少し上かもね。
諸葛亮と対比すると、諸葛亮は自国に侵攻されないための攻勢を行った司令官、司馬懿はどのような結末にすれば自軍の勝利となるかを遠大な戦略眼で見抜いていた司令官。
どちらも甲乙つけ難い。
諸葛亮との戦役と、孟達や公孫淵との戦役、勝ち方にも色々あることを教えてくれる。
老獪さを増した後半生の彼はかなりの名将。
862:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 05:48:38.81 AJW8nuCn0.net
司馬懿が持久戦に徹した、みたいな風潮あるけど守備側なんだから当たり前なんじゃないの?
むしろ
「諸葛亮って奴はなんで攻撃してこないの?」
「え!?もう帰ったの?何しにきたんだよあいつ...」
みたいな感じだったんだと思う。
863:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 06:32:23.26 7HGrkhF+O.net
そうだろうね。
司馬懿としてはこの戦役は引き分け=勝利なのよ。
敗けなければ勝ち。
第一の目的は蜀軍を旧都・長安に至らしめなければ良い。
それが魏の中央からの方針及び司馬懿サイドとしても戦略的勝利と考えていた。
864:862
14/04/13 06:56:01.30 AJW8nuCn0.net
北伐を他の戦いで考えれば、
袁紹が曹操妥当を掲げて南下するも、黄河を渡ってる最中に敵に叩かれると危ないから、
渡河せずに持久戦に持ち込んで、そのまま兵糧尽きて撤退するのを何度も繰り返してるようなもんだと思うのよね。
曹操からしたら「え?何がしたいの...」って思うでしょ。
もちろん戦力差とかは全然違うけど立場的な話だとそうなる。
865:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 07:46:08.13 7HGrkhF+O.net
確かにねw
ただ、諸葛亮の北伐と官渡戦役の比較はちょっと前にも議論に上ったんだけども、
その時は曹操と諸葛亮、共に劣勢側の司令官としての資質や戦略志向だったんだけどね、諸葛亮はその性格が非常に手堅い、まさに石橋を叩いて渡るような人物なんだよね。
だから思い切った奇策や戦術はとれない、しかし反面、眼を覆いたくなるような大敗もしない。
一長一短なんだよね。
そしてもうひとつは諸葛亮側の戦略構想。
これは一般に言われてるような、先帝の遺志を継いで倒魏興漢を本気で目指してたとは俺には思えないんだよね。
諸葛亮は冷静で利口な人物だ。
彼我の国力や戦力差くらい充分理解してるし、大国・魏を倒せるなんて思ってない。
前述したようにあくまでも蜀を存続させるため、魏につけ入る隙を与えないための攻勢だと思うのよね。
大国・魏を倒せないまでも、せめて先帝が作ったこの国を守り通すことが、先帝の遺志を絶やさずご恩に報いることだと。
だから諸葛亮サイドとしても大敗だけは避けなければならない、それを第一に考えるのと総司令官としての重責が、そのような一見消極的とも見える戦術に表れてるのかもしれないね。
866:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 07:48:56.15 VMuN0gM60.net
いや皆さん、司馬懿が防衛に徹して自軍の被害を抑えてればそう言えますけど、何回も余計な事をして自軍に多大な被害を与えてるじゃないですか。
晋書宣帝紀だけじゃなく、ちゃんと三国志諸葛亮伝・張郃伝・辛毗伝やその注釈を読んでくださいよ。
其の辺を鑑みると、対北伐での司馬懿はそこまで高く評価できません。
其の後の司馬懿は当代随一の名将になりましたけどね。
867:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 08:04:47.54 VMuN0gM60.net
>>855
鍾会はなんだかんだで、当初の立案とは異なる現実に適時対応し、全体的な戦略を破綻させずに蜀を滅亡させているからね。
将軍のどの部分を重点的に評価するかで、残り枠の選出はだいぶ左右されると思うな。
868:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 08:11:16.82 7HGrkhF+O.net
>>866
確かに張コウを失ったりと度々痛い目には合っている。
しかし大括的な目的は達成した。
将として大切なのはここなんじゃないかな。
プロセスも確かに大事、しかしもっと大切なのは当初の目的を達成するという結果を出すことなんじゃないかなと。
魏の強大なバックグラウンドがあればそんなこと容易ではないかと言われるかもしれないが、当り前のことを当り前にするというのは意外と難しいこと。
官渡での袁紹も赤壁での曹操でさえ、その当り前のことが如何に難しいかを物語ってくれている。
869:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 08:33:01.71 7HGrkhF+O.net
>>867
まさにその通りだと思う。
その場の状況に適宜対応する頭の回転の早さが彼にはある。
そしてこれはひとつの推測だが、事ここに至っては正道と奇策、双方を用いて蜀征伐を成し遂げるしかないという戦略に切り替えたのではないかと。
つまり、自分が正道として蜀の主力である剣閣に籠る姜維にあたる。
その間に陰平の間道を通って綿竹関に出る奇策をトウ艾と分担したと。
どちらかが成功すれば蜀征伐の目的は達せられる。
結果はトウ艾の方が先に着き、鍾会は蜀の主力をその間引き付けておくという名アシストをしたわけだ。
無論、鍾会は頭も切れるが人一倍上昇志向も強い野心家だ。
自ら進んでアシスト役なんかに回るわけがない。
恐らく彼の目論見では、トウ艾の作戦は十中八九失敗に終わる、しかし自分が時間が掛かろうとも正道で剣閣を抜けば目的は達せられるではないか、くらいの算段はしてたんだろね。
870:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 08:42:22.66 AJW8nuCn0.net
鄧艾の奇襲って鍾会の命令じゃないでしょ?
単に我が強い二人が暗黙の競り合いみたいの始めて、
鍾会が剣閣に手こずってる間に奇策を用いた鄧艾に出し抜かれただけじゃ
871:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 08:53:47.12 7HGrkhF+O.net
二人が会って話し合った可能性は高いと思うよ。
無論、鍾会はトウ艾の奇策など鼻で笑ってたと思うけど。
鎮西と征西、仮にも二人の大将軍が、何の連携もとらず一介の将みたいに単独で独自行動するなんてことは軽率だし考えにくいと思うんだよね。
872:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 10:21:15.45 a4OOeiIb0.net
個人的には、名将108選よりは名将24選のままで
武力24選、参謀24選、etc…ってやるほうが面白そう
873:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 10:36:33.52 VMuN0gM60.net
>>872
武力はともかく参謀って24選したらほぼ全員になる気がw
874:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 12:06:28.86 T1tV2BWr0.net
>>761に特に異論ないな
あと三人選べばいいんじゃないのか
875:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 18:41:03.39 55xCsofD0.net
>>862諸葛亮と司馬懿は2度戦ったわけだけど
最初の戦いは諸葛亮側も別に司馬懿と戦う必要は無くギ山を攻略する事が蜀軍の目的だった
直接対決で司馬懿に勝利し、華陽国志によると魏側の方が先に食料不足する事態に陥っていたので
大雨により、食料輸送が困難にならなければ諸葛亮が戦略的にも勝利する可能性が高かったと思っている
2度目の戦いに関しては諸葛亮が死んで蜀が退却する事になったのであり、食料が無くなって退却したわけじゃない
まあ諸葛亮が死んで無くても、魏側が万全の準備をしていたから結局蜀軍は退却する事になったと思うけど
876:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 18:55:35.34 i5YAfo9J0.net
まぁ第一次が最初で最後のチャンスだったってのは認めるよ。
それが魏の興亡につながるかは別問題だとしても
877:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 19:39:09.75 VMuN0gM60.net
>>857 >>859 >>860
反論する時は具体的に言ってほしい。
人材も国力も不足した蜀の軍で、郭淮に勝利し司馬懿を痛撃し張郃を討ち取った諸葛亮が、名将でなくてなんなのか。
劉備を大破し曹休を痛撃した陸遜は凄いけど、諸葛亮の方が明らかにもっと凄いと思うんだがな。
>>862
司馬懿は持久戦に徹することができてないし、諸葛亮の攻撃をモロに喰らってますがな。
878:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 19:41:53.10 FnU8uiOP0.net
司馬懿の真価は対諸葛亮での防衛戦ではなく対公孫淵や呉のような侵攻戦の拙速な行動だと思う
879:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 19:44:21.61 FnU8uiOP0.net
>>877
諸葛亮が名将でないとはいっとらんよ
ただ大きな戦果をもたらした事がなく将を何人か討ち取っただけの諸葛亮を他の将より上にする根拠が弱いってだけ
大軍に攻められたがそれを追い返した防衛戦や相手の重要な領土を奪い取った侵略戦のような戦果がこれといって見当たらんからさ
880:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 19:45:57.24 55xCsofD0.net
>>877どういう点で陸遜より諸葛亮の方が上なのか言って欲しいな
881:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 20:09:50.15 i5YAfo9J0.net
>>877
諸葛亮の実績って王双と張郃を討ち取ったくらいで
北伐自体が「勝てずとも負けない戦い」の上、結局成果ほとんど出せてないじゃんw
実績有る劉備をほぼど同兵力で撃退した上、蜀の指揮官を多数討ち取った陸遜より上?
882:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 20:15:07.30 55xCsofD0.net
>>881いちお、武都と陰平の二郡を取ってるぞ
まあ、大した戦果じゃないけど
883:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/13 22:00:05.33 SBlOdSWY0.net
>>877
自分も他の人と似たような感じだな陸遜>諸葛亮の根拠は
石亭もだがやはり樊城と夷陵かな
樊城:房陵南郷を落とす、関羽敗死、荊州奪還
夷陵:馬良王甫程畿傅トウ張南沙摩柯など蜀将敗死、劉備撃破
俺も諸葛亮が名将じゃないなんて言ってないじゃないかい
それとあなたがいう郭淮張郃を破った諸葛亮陸遜よりスゲーって言ったら
陸遜が破った劉備関羽は大したことないんだなってことに
北伐と違って樊城夷陵ははっきり白星なわけだし
884:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 00:10:57.29 eLkqeOfCI.net
残り三枠を決める流れに全然入らないけど大丈夫か
>>1000までに24選終わらせて次スレは「語るスレ」にした方が良いよな
885:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 07:27:11.03 srSdGHWv0.net
個人的には正史準拠の能力値決めるスレが好きだったんだけど無くなったよね
この24選決まったらあのスレ復活させてよ
名将に限らず政治家や君主について語りたい人も多いだろう
886:mage
14/04/14 21:04:23.81 tmQXecAA0.net
張コウの出身地、河間郡バクだっけか、あそこの張氏は自称だが張耳の子孫
を謳ってたから、張コウもその席に名を連ねる人物だったとすれば実は結構
な名族、と言うことになる。
こういうのを知ると司馬懿はもしかしたら名族としての張コウを疎ましいと
感じて排除したのかもなあ、とちょっと思ってしまう。
887:mage
14/04/14 21:13:57.54 tmQXecAA0.net
武都と陰平については漢中攻防で曹操が退却する際、そこの地域が
孤立することを恐れて住民を大量に移住させているんだよね。
異民族とか数万戸が曹操に従って移住したとあるから人数で言うと
20万人以上とかになるのかな。根こそぎ移住させているから、あの
二郡は空白地帯に近い状況。そこまで徹底する曹操がある意味では
すげえと思う。
888:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 22:11:03.97 1GHxIllV0.net
>>886司馬氏も名族だから、例え張コウも名族出身だとしてもそんな理由で排除するとは思えないなあ
それよりも、単純に張コウが成りあがりものだったから疎ましく思っていたって方がありそう
889:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 22:37:17.92 ZaEBj7MX0.net
>>887
張既が曹操に数万戸の三輔長安に移住を進言してて、張既自身は武都の五万余人を扶風天水に移住
杜襲は八万余人を洛陽とギョウに移住させたってあるね
酷い大移住っぷり…なんでここまでやったw
劉備が関羽に呼応して北上しなかったのもこの移住が原因にあったんだろうか
890:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 23:22:32.07 1jmEVlFFO.net
>>886
>>888
司馬懿の張コウ謀殺説の根拠付けとしては興味深い切り口だけど、あれはやはり素直に司馬懿の軍事的采配ミスだと思うんだよね。
司馬氏は何かと腹黒さと陰謀説が付きまとうから、色んな憶測が飛び交っても致し方ないのだけど、少なくとも司馬懿と司馬師までは魏の繁栄を考えそのために力も注ぎ取り組んだ忠臣だ。
無論、司馬家の栄達と権力基盤強化も含めてだけど。
それが本格的に簒奪まで視野に入れ出したのは司馬昭のしかも後半生からだ。
この人の行ったことやイメージが後世から見ると非常に悪いため、遡って司馬懿や司馬師の事績にもそれぞれ何か裏があるのでは、と黒い理由付けがされて行くのだろうね。
891:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 23:40:56.73 eLkqeOfCI.net
名族とか成り上がりとかじゃなくて、軍事上のライバルじゃないの、司馬懿と張郃って
張郃は車騎将軍だから、司馬懿の次点なわけで
しかも張郃と司馬懿は全く意見が合わなかった
そりゃ排除されますわ
司馬懿の得意技「保身」の延長上でしょ
張郃の心境としては、官渡の時のトラウマが蘇ってただろうね
あぁ、あの時も自分が反対した作戦をなぜか自分がやらされて敗北したなぁって
袁紹に似てるのは諸葛亮というより司馬懿だな
892:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/14 23:49:22.58 wQ8fM0Uv0.net
何とも言い難いなー
可能性はそりゃあ普通にあるし、仮にそうなら面白いけども
893:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 00:02:39.54 dpX+LtG10.net
>>889
張既も地味に名将だよね
個人的には郭淮より好み
894:mage
14/04/15 01:20:38.19 9XKHNq8k0.net
張コウは成り上がりだったとも思えないんだよね。例えば名前とかの付け方
を見ると、名と字はそれぞれ古典の中からの言葉を引用しちぇいるし、コウ
は(文と武)の才能を併せ持つ、と言う感じの意味だし、雋と乂は両方とも
非常に優れた(抜きんでた)と言うような意味。
抜きんでた文武の才能を併せ持つ、と言う意味の名前をさらりとつけれると
言うのは相当インテリでないと無理じゃあないかな。少なくとも学者の資質
を持った人間じゃないと難しいと思うし、成り上がり武将ではこういう洒落
た名前はなかなか付けられない。
895:mage
14/04/15 01:26:04.31 9XKHNq8k0.net
そういう素地があるからこそ同郷の人間を学者として推薦とかできたのだろうし、
張コウはそんな気はなかったかもしれんが、冀州閥が伸びるのはケイ川閥の連中
にしてみたらあまり面白くはないのかな、とも少し思った。
まあ陰謀説を推したくなる人がいるのもわからんでもない、と言うだけで自分も
そういうのは無くて司馬懿の采配ミスと思ってるけどね。
896:mage
14/04/15 01:37:30.12 9XKHNq8k0.net
ちなみに司馬懿の戦績を見ると勝利の多くは速戦により相手を急襲して、と
言うものなのよね。逆に言うと諸葛亮のようにきっちりと陣を整え待ち構えて
いる相手はあまり得意ではない。本来はそうなる前に打ち破ることが司馬懿の
本分だから。
逆に諸葛亮は陣地の構築は得意だがそこから軍を柔軟に動かすのが苦手。まあ
そんな二人だからこそ、攻めれば相手に蹴散らされ、互いににらみ合うだけの
世紀の凡戦になる訳だけどね。
897:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 01:49:39.63 OGUxUvUk0.net
成り上がりの劉備が備とかいう意味分からん名前なのは親が適当に付けたからなのか?
でも玄徳ってなんかの文章の言葉だし父親は官僚かなんかだよね
898:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 01:50:28.99 OGUxUvUk0.net
と思ったら字って自分で付けるのか
つまり漢字の分からない母親が適当に「備」って名前付けて
慮植に習った劉備が自分で玄徳って字つけたのか
899:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 01:58:33.87 N3YVEHfi0.net
言われてみると、他に名が「備」という奴は思い浮かばないな
誰か居るだろうか
900:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 07:11:24.14 O/ALbATcO.net
多分…いない?
他にも司馬師の「師」や司馬炎の「炎」、孫権の「権」、曹丕の「丕」などもいないかな?
このへんは皇帝ゆえ避諱の影響もあったりするのかな?
そういや劉備も皇帝か。
901:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 07:15:11.87 O/ALbATcO.net
>>896
俺もそう思う。
司馬懿と諸葛亮の特徴をよく言い当ててると思う。
902:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 07:55:34.75 8JgSaA430.net
黄権
903:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 08:14:19.11 O/ALbATcO.net
いたーw
そうか黄権かぁ、なるほど。
904:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 09:23:55.38 dpX+LtG10.net
断言する
あと三人は決まらない
もう語るスレになってるもんw
905:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 09:56:50.70 OGUxUvUk0.net
息子に炎って付けるって相当だよな。
今で言うDQNネームみたいなもんだろう。
にしても晋って確か金徳の王朝だよね。
金徳の王朝なのに火×2の名前の皇帝って...
司馬炎が生まれた時にはまだ魏だったにしろ、魏は土徳だし。
906:名無しさん@お腹いっぱい。
14/04/15 11:27:18.71 O/ALbATcO.net
司馬昭の行った魏からの簒奪計画が、漢より不当に皇統を奪い取った横暴なる魏を懲らしめ、再度皇統を正しく導く、という義憤を胸に秘めた大義からであったなら…、
端的に言うと魏にイジメ抜かれて皇位まで奪い取られた漢の仇討ち、のつもりであったなら、漢=火徳の後(上)に再度火(徳)を灯す、それが我が息子に託す願いだ、という意味で「炎」としたのかもw
司馬炎が生まれたのが236年、諸葛亮が五丈原に散った2年後か…、まだまだ曹氏の天下であり司馬氏がそこまで上り詰めるなんてその時点では考えないよなぁ、司馬昭が超能力者でもない限り。
大体司馬家の正統を継ぐのは司馬師だし、この後男子が生まれたら当然家督はそちらに行く。
次男である司馬昭が、その時点で我が子にそんな大それた夢を抱く筈もないか。
我ながら苦し過ぎるこじつけだったw