07/07/23 20:45:58 p5QVwxI40.net
追記。あくまで推測だけど述べてみる。
カク萌の乱後、
「呂布は高順を嫌うようになり、その兵を奪って魏続の部将としたが、高順はそれを恨まなかった」とされる。
その理由について正史の注では「陳宮の事が有ったからだ」としている。
しかし、これは陳宮がカク萌と乱を起こした事に関連させると全く意味不明。
何故なら、高順はカク萌の乱の鎮圧では大活躍だったからだ。
呂布を脳筋馬鹿で高順の大活躍に嫉妬した小物、と取ればこういった経緯もアリかもしれないが、
自分は、呂布はそこまで馬鹿ではないと思いたい。
では、高順と陳宮の何を問題として、呂布は腹心である高順にそんな仕打ちをしたのか。
呂布は、陳宮と高順がかねてから不仲である事を知りながら、2人を同時に用いている。
呂布の、両者への評価が高かった事が伺える。
そして、カク萌が造反する事件が起こった。
高順は陳宮を告発したが、陳宮は押し黙って反論せず、呂布は結局陳宮を不問に処したとされる。
謀叛は死罪をもって当たるのが正道。陳宮を不問に処す理由は2つしか考えられない。
1:呂布には陳宮を処罰出来なかった=呂布軍に陳宮が不可欠だったか、陳宮はパトロンだった
2:陳宮は無実だった=真実無実だったか、証拠不十分だったか
高順は、不適当な告発によって兵士に混乱を起こした罪によって兵を奪われたのではなかろうか。