08/11/19 20:23:20 zy38rtK70.net
>>230
正史張飛が正史呂布に劣るとは思えないが・・・。
ってか、当時の大陸では知名度も武勇認知度も関羽、張飛>呂布なんじゃないか?
漢より後に勇者を称するには、必ず関羽・張飛を引き合いに出す。
晋の劉遐は賊を討つたびに堅陣を陥し、鋭鋒をくじいたので、関羽・張飛にたとえられた。
苻堅が閻負・梁殊を張玄靚のもとに使者として派遣したとき、本国の誇る将帥として王飛・鄧羌を挙げて、「関・張の流、万人の敵」と称した。
禿髪ジョク檀が人材の推薦を宋敞に求めたとき、宋敞は「梁崧・趙昌は、武が飛・羽に匹敵する」といった。
李庠は膂力にすぐれていたので、趙廞がかれを評して「李玄序はいっときの関・張である」といった。
南朝宋の薛彤・高進之はともに勇気と力をそなえていたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
魯爽がそむいたとき、沈慶之は薛安都にこれを攻めさせ、薛安都は魯爽を見つけるやいなや馬を躍らせて呼ばわり、あっという間に刺し殺したので、ときの人は「関羽が顔良を斬ったのもこれほどではあるまい」といった。
南朝斉の垣歴生は拳勇突出していたので、ときの人は関羽・張飛にたとえた。
北魏の楊大眼について、世間の人々は関・張もかれを超えることはないと評していた。
崔延伯が莫折念生を討って勝利すると、蕭宝寅は「崔公はいにしえの関・張である」といった。
南朝陳の呉明徹が北斉を討ったとき、尉破胡ら十万の兵にはばまれた。呉明徹は「もしあの胡人を倒せば、敵軍の士気を奪えるだろう。君は関・張の勇名をもっている。顔良を斬ってこい!」そこで蕭摩訶が出陣すると、尉破胡を打ち殺した。
と後の世まで武勇を語り継がれているが、呂布は全く聞かないなぁ・・・。