14/05/08 23:56:30.33 bDRwponSO.net
戊戌政変でほんの僅か光緒帝は廃位に追い込まれ、大阿哥溥イ雋が立てられたものの
内外の反対に押し切られ西太后も事実上の光緒の廃位取り消しをしたんだが
この外(外国)の反対の一助が、「清の若き改革を目指す開明君主である光緒帝」という触れ込みとこの写真だった。
光緒帝の宣伝は康有為や梁超啓らの変法派による所が大きいが、西洋人は西洋人で妙なオリエンタリズムの憧れと神秘的なアジアという好奇心の象徴として清を見ていた。
そんな中で光緒帝のような存在は簡単に謁見所か紫禁城からすら出なくて姿も見えない若い皇帝、珍妃との恋愛話など連中の東洋の神秘とロマンを掻き立てるものだったらしい。
あの西太后ですら「あの紫禁城の奥深くに住まう、大国を統べる美しき女帝」なんて見られ方だったので、ある外国人男性が「俺、実は西太后の愛人でした」というしょうもない本を書いたらバカ売れするような変な状況だった。
そんな感じの話の上であの超美形の写真なので、当時の西洋人の光緒帝の印象は頗る良かったとされる。
西欧列強の光緒帝廃位の反対は勿論西太后らの反動政権に極端に力を持たさせ過ぎたくなかった為(その危惧は義和団事件で現実となるが)だけど、元々が光緒帝への非常な好印象も基因であった。
そんな意味であの写真は随分と光緒帝の助けになってた訳。