13/07/23 08:32:52.23 mZaGql0s
乙
3:人間七七四年
13/07/24 15:11:33.11 Xcpwllfj
120万石の大大名
4:人間七七四年
13/07/24 15:20:25.97 z6Mik7La
あっさり滅亡
5:人間七七四年
13/07/31 12:26:38.59 V9Y24EaA
凡将なり
6:人間七七四年
13/08/01 06:57:59.31 0sUEDFBE
穴山信君を殺すか追放しなかったから首を絞める結果に
7:人間七七四年
13/08/01 22:49:14.95 gfGgfL1q
穴山氏て親族でもかなり大身で
その当主殺したら余計混乱するだろ
8:人間七七四年
13/08/02 22:20:27.14 qmqi1UWe
>>7
それでも誅するべきだったと思う。
その後の混乱が怖かったんなら四の五の言わずに、武田勝頼なんかにならずに出家すべきだった。
武田って看板を甘く見て身の保全の為に武田に入ったんだろうけどさ
血統書付きの源氏の家を甘く見過ぎ
9:人間七七四年
13/08/03 01:15:13.66 DTdxc2YQ
勝頼いなかったらそれこそ崩壊するぞ…
10:人間七七四年
13/08/03 14:04:41.02 fIGpnBSL!
正統たる後継者である義信を廃嫡したのがそもそもの間違い
親とも子とも軋轢起こす暴君なんて歴史上聞いたことない
勝頼は何も悪くない
11:人間七七四年
13/08/03 14:12:37.79 4ZDLgA3R
信玄が馬鹿だったって事だな…
12:人間七七四年
13/08/04 13:27:34.02 LN3GMVvF
穴山氏て一応武田庶家だけど
自立の国人領主みたいなもんで
そう簡単に排除できないよ
13:人間七七四年
13/08/05 06:41:58.60 MmvHtO3i
武田信玄が存命だったら戦場離脱で処刑してただろうな穴山信君
14:人間七七四年
13/08/08 02:13:38.36 cdcjWncM
でも勝頼に従って天目山までいったのって、みんな所領持ちなんだよね。
所領持ちがあんなに主君に殉じたのも、実は珍しい。
それに、勝頼に滅亡の原因を押し付けている、とされる甲陽軍鑑でも、
勝頼を無能に描写することって無いんだよね。
むしろ性格などは高評価している。
いつから勝頼は突撃バカという印象になったんだろう。
信長の野望でも、風雲録までは軍師になれる高い能力値だったし、
どうも今のネタキャラ扱いは、極端になりすぎているような。
15:人間七七四年
13/08/08 12:32:23.34 hyw5g5qV
長篠屏風のせいでしょうなぁ
柵に向かってひたすら突っ込み蜂の巣にされる騎馬隊
そんな無謀極まりない突撃をさせた勝頼はアホ!猪突猛進のクズ!って感じにされたんだろう
16:人間七七四年
13/08/08 16:26:31.86 Qd6x0mWt
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
だいたい素肌攻めとか馬鹿みたいに勇猛だから甲陽軍鑑も
強過ぎる大将と書いて批判してるじゃん。
17:人間七七四年
13/08/08 21:34:59.70 cdcjWncM
>>16
素肌攻めは、信豊が主張して、勝頼は武田の軍法に非ず、として却下してたよ。
ところが城兵が襲ってきたので反撃したら、何故か落城してしまったという話。
勝頼は突撃バカとは真逆で、冷静でありながら、
しかし臨機応変に状况に対処している。
というか、信豊って穴山の影に匿れてるけれど、こいつも相当のガンだよな。
それを頼っていた勝頼にも責任あるが、じゃあ信豊以外に親しい一門がいるかというと……
盛信しかいない。
一門衆がオワッテル
18:人間七七四年
13/08/09 01:00:28.01 1nhVzixY
小説やらドラマやらで冷静沈着な信玄との対比で猪突猛進キャラにされたんたろう
19:人間七七四年
13/08/09 10:16:05.15 mXlb6OFS
小説やらドラマやらで清廉潔白で智勇兼備の謙信との対比で強欲独裁な謀略家像にされている信玄と言い
武田家はいろいろと損をしている。しかし武田家当主や山梨県は心が広いのか
アホみたいな抗議活動やキチガイクレーマーみたいなことをやらないから
比較的ドラマへの登場頻度は高い。
仙台や山形は大河への行動がヤバイと聞く。
20:人間七七四年
13/08/09 10:36:20.00 RdE8PrbC
>>アホみたいな抗議活動やキチガイクレーマーみたいなことをやらないから
代わりにネットでだがが暴れてけどな…
21:人間七七四年
13/08/09 18:52:35.95 jYJtAe1f
長篠の戦いで有力な武将失ったけど、父信玄も上田原で似たようた事したんだよね
板垣と甘利の双璧を失った
でもこれを転機に信玄は自分のしやすいように政が出来るようになった
しかし敵がいかんせん村上義清と信長じゃ格が違いすぎる
父親のようには上手くいかんわな
22:人間七七四年
13/08/09 19:19:33.70 o/OvLMZ6
【織田信長が戦って滅ぼした主な相手】
斎藤龍興 →美濃60万石
朝倉義景 →越前60万石
三好義継 →阿波讃岐摂津に約50万石
北畠具教(お家完全に乗っ取り)→南伊勢40万石
六角義賢(+浅井長政) →足して近江ほぼ全域60万石
武田勝頼 →甲斐全部と信濃上野駿河一部、約90万石
波多野秀治 →丹波およそ8割? 約24万石
【武田信玄が戦って滅ぼした主な相手】
諏訪頼重
高遠頼継
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁 → 全て足して約40万石
今川氏真 → 遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康w
レベルが違いすぎるな
23:人間七七四年
13/08/09 21:36:04.28 1nhVzixY
>>20
そいつこそ、だがさんみたいよ
24:人間七七四年
13/08/09 22:10:45.28 1oMqeSup
晴信→悟空
・主な戦い相手
織田信長→ピッコロ大魔王
松平元康→タンバリン
上杉謙信→天津飯
村上義清→桃白白
小笠原長時→ブルー将軍
諏訪頼重→ホワイト将軍
笠原→ヤムチャ
大井→ピラフ
勝頼→悟飯
・主な戦い相手
織田信長→ゴテンクス、ピッコロ吸収ブウ
徳川家康→パーフェクトセル
北条氏政→最終形態フリーザ
25:人間七七四年
13/08/10 01:07:02.44 1IoXWlD4
晴信→ベジータ
勝頼→トランクス
信長→悟空
だろJK
26:人間七七四年
13/08/10 01:44:20.14 zwjbjFAZ
信長は桃白白くらいだろ。
27:人間七七四年
13/08/11 06:22:09.26 jXXwanDL
晴信→ごくう
勝頼→ご飯
(あくまで主役として)
氏康→クリリン
氏正→ピッコロ
(北条はこんなとこでしょ)
信長→セル
家康→フリーザ
(武田をメインにした場合悪の枢軸)
謙信→ブロリー
(単独でこいつとまともにやりあうのは馬鹿をみるという意味で)
氏真→魔神ブウ
(心やさしき英傑)本願寺→ベジータ
実力的にこんなとこだな
28:人間七七四年
13/08/11 12:46:55.67 DxGoXTW7
いや
晴信と勝頼の対比だからな
勝ち星が多い晴信の相手と、負け星が多い勝頼の相手との戦闘力の差はかくのごとし
一概に負け星が多い勝頼を、晴信より無能扱いできない例え
ちなみに上杉謙信を天津飯にしたのは、悟空(晴信)の初期の最強のライバル。さらに後期最強の敵ブウ(信長)にも『かなりの達人(軍神)』と言わしめた唯一の初期キャラ
29:人間七七四年
13/08/11 13:12:27.94 P3rHacGe
>>19
創作の影響力は怖いよ。
昭和60年に福島の会津若松市商工観光部が幕末ネタで作家たちに創作を作らせまくったが
とりわけ福島民報から福島中央テレビに出向していた星亮一が手がけた日テレドラマ「白虎隊」の影響力は計り知れなかった。
これを見た山口県は抗議しないどころか当時の無学な山口県知事が謝罪してしまい、
そこから会津若松市が調子に乗って死体埋葬禁止令など星亮一が考案した嘘を堂々と市史に記載するほどになった。
(数年前、鹿児島の作家の指摘に反論できずこっそり市史から削除した。)
今年の大河ドラマを見て山口県民があまりに嘘が酷いと騒ぎ始めたけどすでに嘘の方が定着してる事実。
30:人間七七四年
13/08/11 15:09:54.49 78AJK9Lo
それは会津観光史観であって、一次史料の歴史とは別だとまともな人は知ってるだろ。
ただ問題はこの観光集客と経済的利益を追うという目的からくる要請を逸話・講談・一説には~を楽しむのではなく
そこに郷土愛を混ぜこぜにする馬鹿が生まれること。
そこを理解せずに観光史観と、一般向大衆向け歴史本のテキトーさを以って英雄像を作り上げてマンセーする思考だな。
負の部分にはあえて触れない・・・郷土の殿様が今も政治的影響力を持ってたり、歴史博物館の館長やってたり、
教育委員会を牛耳っていたり、研究費や出版費を出すことで、言論統制していたり。
このあたりは危険な流れだな。
31:人間七七四年
13/08/11 18:14:08.54 P3rHacGe
激しく同意する。郷土の都合の良い事実だけでなく悪い面を含めて正しい歴史を伝える必要性を感じる。
そして相手側の言い分を鵜呑みにすると山口県の役人のように創作を事実と信じこんでしまうので
正しい歴史伝承と主張を絶え間なく継続していくことが重要だと思う。
URLリンク(sankei.jp.msn.com)
武田信玄の清濁併せ呑む度量の大きさには暗部も多々あるが、
暗部だけあげつらい相対的に上杉謙信を持ち上げる主張には
信玄の暗部を認めた上で、上杉謙信の暗部も周知させることが不可欠だと思う。
32:人間七七四年
13/08/11 21:14:38.91 Klcn+Ljo
米沢人政宗の植民地仙台と名古屋人信長の植民地岐阜の捏造歪曲マンセーは異常。
33:人間七七四年
13/08/12 11:16:30.84 89QzSDO2
伊達は元々福島なのになぜか宮城のほうが熱心なんだよね。
34:人間七七四年
13/08/12 12:36:45.13 Tjgtv1WN
日本史を端的に下らないと一言で済ます一因だと思うが
一次資料がぁ(」゜□゜)」
って騒ぐ一次資料が辻褄が合ってるのか?って疑念がある。
大体、会津の話だって、日本人同士で地上戦やって奇麗事で済む訳がない。
謝罪する必要が有るかどうかは別にして、働き者の長州人が攻め込んで、攻め込まれた側が無傷で済むはずがない
35:人間七七四年
13/08/13 17:53:42.36 o5es9eK2
岐阜城は竹中重治や斎藤利堯や織田信雄や福島正則などに落とされるなど
馬鹿みたいに簡単に落城しまくった城で落すのに苦労したのは信長だけ。
大和衆が武田と上杉は天下一の軍と恐れたほど10年後になっても恐れられた
本願寺の商人との連絡すら完全に取り締まりできないのは永禄2年正月に
信長が秀吉に越前と大坂を往来する商人の通行禁止(姉川~朝妻)してたのに
見事に本願寺が朝倉からきた年頭の挨拶に返事をし、
さらに朝倉から贈り物が来たことにも感謝してるようにバッチリ連絡取り合ってる
信長も本願寺を「天下に造意しておりその使いが商人の姿をしてる」として勝龍寺城の細川に捕縛命令まで出してる。
元亀3年正月に顕如は信長が本願寺を攻撃するようなので
背後を突いてと信玄に申し出てるのが顕如上人御書札案留でわかるし
同じく正月に義昭の面前で細川藤孝が上野秀政に対して信長を討つ決起をする謀に対して諫言し、
聞き入れられずに鹿ヶ谷に蟄居してるのが細川家記からわかる。
元亀3年謙信は看経所で加賀・越中一向宗平定を祈り8月に越中出陣。
松永久秀の元から信長に対抗すべく美濃守護土岐頼芸が美濃へ帰国
8月姉小路良頼が上杉と呼応して越中一向宗を討つ態度を示し、本願寺の救援要請もあり
武田・上杉両属の曖昧な態度を糺すべく木曽軍が飛騨に攻め込み江馬輝盛を粉砕し武田に従属させる。
信玄死後の姉小路とその配下の江馬は謙信に従う(武田が以前に姉小路を従属させた際に江馬に領地を分けさせた)
誓願寺文書7号9/10付けで下間正秀が十ヶ寺惣衆中に宛てた内容を見ると
御屋形様(六角氏)が一向衆を観音寺城に入城させている。
その頃の織田は永原城に佐久間、長光寺城に柴田、安土に中川、宇佐山城に森(討死後に光秀)を配置して
湖岸の非常に細い京への街道のみをかろうじて維持してるに過ぎない(現在は琵琶湖を埋立てて平地が広くなってる)
いまだ南近江の大半は六角支配下だと思って間違いない。
西上作戦で武田軍は駿河の兵を一切動員してない。
信玄が義景に11/19付けで「岐阜に程近い鉈尾城の修繕を手配した」と書いてることから
鴨川氏も信玄が生きてたら信長を滅亡させていた可能性があると言ってるよね。
12/12岩村へ兵を移したので来春に岐阜直接攻撃を通知し12/28信長破滅の時がきた宣言する信玄
美濃の安養寺や専福寺の末寺や家老の遠藤加賀守を通じて
遠藤胤基などが内応して信玄の侵蝕が内々に進んでる。
信玄は密かに100貫の加増を遠藤加賀守に約束してるし、
来春の岐阜攻略を通知し朝倉や浅井も遠藤加賀守に書状送ってる。
36:人間七七四年
13/08/13 18:03:42.05 o5es9eK2
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川・滝川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだからガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち 織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
37:人間七七四年
13/08/13 18:08:09.53 cBsTiumP
>>三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
>>尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな
徳川と北条を屠った信玄の軍略の凄さは凄過ぎるよな。
逆に引き分けになった謙信の凄さもわかる。
38:人間七七四年
13/08/13 21:34:14.09 V3kiCnUA
長篠の真実
兵力で圧倒しているにも関わらず野戦で大敗し6000の死者を出し陣城に立て籠るも信長は半身不随になるほど被害を受ける
日没が近づき撤退をはじめた武田に執念の追撃で1000人討ち取る
以後、信長は武田を恐れ二度と決戦しない
39:人間七七四年
13/08/13 22:26:34.71 Fgz9N04+
織田信雄って信長より名将だったんだな
40:人間七七四年
13/08/14 03:50:36.63 FNKZInJc
また在日が妄想を書いてるな
いい加減にしろ、だがチョン
41:人間七七四年
13/08/14 07:34:15.07 9PtGhv2s
まあ北畠信雄は織田家臣団から三介殿のなさることだからwって馬鹿にされ、
南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
42:人間七七四年
13/08/14 07:35:15.21 SSGwoMvO
>>40
具体的にどのあたりが?長篠のくだり?
43:人間七七四年
13/08/14 09:38:29.97 al6t0JZ+
>>34
会津を攻めたのは薩摩と土佐の兵。でも戦後の小説で鹿児島をボロクソに書いたらコテンパンい反論されたので
山口に矛先を変えたところ山口人は全く抗議しないので長州のせいってことにされた。
会津戦争当時は長州兵は長岡にいたので物理的に略奪できないのだけどね。
44:人間七七四年
13/08/14 10:29:41.34 mdr0f8KQ
>>17
武田信廉=対北条上野ではそれなりに活躍するが最後の最後で醜態晒す
一条信龍=器量は優れてたららしいが具体的な活躍は分からん
他の兄弟叔父従兄弟たち=存在感なし
本当に人材いないな。
45:人間七七四年
13/08/14 14:22:59.79 Ok7z6eOu
信廉は兄二人と違って武の才能は無いよな
信龍は長篠で馬場と共に殿をやったんだっけか
46:人間七七四年
13/08/14 16:05:11.27 j6QetcM6
長篠の実態はこうか
馬防柵に無茶な突撃を繰り返し壊滅なんてあり得ないとは思っていたが
本当は、野戦で織田が大敗し、陣城に立てこもり鉄砲隊を使ったりしてなんとか日没まで持ちこたえた
武田も攻めあぐね出て撤退を開始し、戦が終了したと思わせた後に奇襲追撃(三方原と同じパターン)でなんとか1000討ち取る
これを誇大宣伝し勝った勝ったと吹聴
47:人間七七四年
13/08/14 23:15:17.37 SSGwoMvO
アンチ織田の人がよく引用して書いてるけど、池上裕子氏ってそんなにいいの?
自分だってすべてに目を通したわけじゃないけど
ロクな著書が無いんじゃないかと思っているんだが。
私自身は黒田氏の飢饉対策説派であるため信長の貨幣経済政策の是非はあまり興味ないが、
「日本の歴史 15織豊政権と江戸幕府」とか 信長の貨幣政策のとことか余りな内容に絶句した覚えがある。
良書としてはどんなのがあります?
48:人間七七四年
13/08/15 00:55:08.99 c0CDJs/7
山県昌景、真田兄弟が戦中に討ち取られ、馬場信春が勝頼を逃がすために討ち取られた
大将の威光はまだこの時点ではあったと考える
49:人間七七四年
13/08/15 08:35:30.43 tKkFs1Q1
信濃の石高は40万石程度(太閤検地時)しかない
しかも割拠状態(木曽、高遠、諏訪、小笠原、村上、高梨)
それぞれ10万石もない(南信濃に時間つかってるうちに村上がでかくなって15万石になったが)
その信濃に家督ついでから20年も手こずったうんこ信玄^^しかも村上に連敗^^
50:人間七七四年
13/08/15 09:53:36.39 tk3GHG4t
抗争相手があいついで病死してくれた運だけ男の信長^^
51:人間七七四年
13/08/15 10:01:10.21 7kTMbS0M
>>46
討死した山県馬場が惨めになるからそれはないわ
織田方でも賞賛する戦いぶりだったのに何でそんなチンケな事になるんだよw
52:人間七七四年
13/08/15 10:05:53.77 tEWCJLnQ
長篠で大敗を喫した織田は以後、武田を相手にしなくなる
一方、徳川は生き残るためには武田を相手にせざるを得ないため以後単独で戦いを挑むも、勝頼との決戦は避け続ける
しかし
勝頼さまは滅びてしまった
53:人間七七四年
13/08/15 12:01:34.19 grplaN6o
>>19
別に間違ってないじゃん
信玄ほど強欲で極悪な武将いない
54:人間七七四年
13/08/15 12:04:14.63 qRLsuVSl
実際、軍記講談話を除けば、
馬場や山縣がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、
嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、
信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、
山縣や馬場らが長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、
さっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、
構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、
秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、
山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、
武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
よって信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
結局、最後まで徳川は高天神とセットで攻撃していた田中城を自力で落とせなかったくらいだし、
武田崩れを誘発した穴山の離反がなければ諏訪で織田軍を壊滅させられたよな。
なんせ北条如きに大敗した滝川とか地侍に破れて殺される河尻とか
織田軍の弱さはハンパねぇからな。
55:人間七七四年
13/08/15 12:16:19.23 /4iUxCK2
半端無い弱さの織田に瞬殺されたのか武田は…
56:人間七七四年
13/08/15 13:55:05.40 e6niqWSK
その半端ない弱さの武田に三方原で瞬殺されたのか織田は…
57:人間七七四年
13/08/15 15:08:48.73 tEWCJLnQ
つまりこういうことか
とっくに引退して表舞台から消えていた山県や馬場、真田信綱だが、長篠で主君を守り討ち死にした最後まで花のある勇士だったって講談にしたわけね
実際はとっくに引退してるから長篠で討ち死にしたことにしても大勢には全く影響ないわけだ
実は長篠では織田も武田も大した決戦はしなくて、半日手合わせしてお互い本隊はほぼ無傷で撤退
追撃され武田は被害を受けた
この初戦と追撃戦が激しい戦いだったので、山形や馬場の散り場所にしたってわけだ
58:人間七七四年
13/08/15 16:01:35.55 PvIP4fZU
そうなると秋山も勝頼に事実上粛清されたと見たほうがしっくりくるな。
武田の主力はまったく無傷で織田なんか敵じゃないのに秋山が城を出ざるを
えなかったのは見捨てられたからだろう。
見捨てられていなければだまし討ちが得意な信長の前に秋山が出てくることなんて
ありえないからな。
和睦の交渉も岩村場内でやればいいだけだしね。
59:人間七七四年
13/08/15 16:02:09.79 HTcBSRNm
>>55
浅間山噴火の火事場泥棒だったから武田軍なんて四散してたじゃねぇか。
まともに織田が勝ったと誇れるのは無勢で高遠城に籠城した仁科盛信を降した時くらいだろーが。
そんなん自慢になるかよ。
60:人間七七四年
13/08/15 16:09:26.35 O3qqw9I9
まあ仁科盛信公は織田信忠みたいな雑魚とは違って名将だもんな
5万の敵を相手に2千で勇敢に戦い最後も壮絶 後世に名を残す
一方信忠1万の明智に3千で戦い ボッコボコで歴史からも忘れ去られる
61:人間七七四年
13/08/15 16:12:28.72 /4iUxCK2
歴史から忘れ去られるような奴に瞬殺されたのか勝頼は…
62:人間七七四年
13/08/15 16:13:57.33 O3qqw9I9
歴史から忘れ去られてることを自覚している織田厨
63:人間七七四年
13/08/15 16:38:52.44 qRLsuVSl
>>53
はいはい信玄強欲ネタはぜんぶ論破されてるのに
またテンプレを貼ってもらいたいのか。何度も執拗に粘着ストーカーして
同じことを延々と繰り返して猿並みの知能だなw
>>58
ぜんぜん織田は落城させそうにないから、対徳川戦線を優先しただけ。
結局、落とせないから停戦交渉と偽って騙して秋山を呼び出して磔にしただけ。
64:人間七七四年
13/08/15 16:50:03.10 e101M3Qv
それまで押しまくっていた格下の徳川相手に手一杯な状況からも長篠で武田が惨敗したのがわかる
だがにはそれがわからんらしいが
65:人間七七四年
13/08/15 18:19:59.51 tEWCJLnQ
長篠で惨敗したのが原因ではなく、岡崎内応~長篠城攻略~岐阜総攻撃の3つの作戦に失敗したから不利な状況になっただけ
66:人間七七四年
13/08/15 19:24:17.71 e101M3Qv
援軍を出せないということは惨敗して大損害を受けた証拠
でなければ格下の徳川相手に手一杯なのはおかしいだろ
67:人間七七四年
13/08/15 20:50:24.98 qRLsuVSl
いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
68:人間七七四年
13/08/16 01:56:51.83 +Zu8mjWL
そうなのさ
格下徳川だからこそ全然主力部隊で戦っていないからな
主力がいくと逃げるし
岡崎内応失敗、長篠城攻略失敗で岐阜総攻撃への作戦が絶たれたのと、北条からの攻撃が厳しくなってきたので西上作戦は長篠で一旦終了したんだろ
勢いだけで西を目指すべきではないという賢明な判断だ
69:人間七七四年
13/08/16 02:00:55.40 +Zu8mjWL
下手すると家康すらこの時期、実はすでに死んでいて影武者になっているという説があるくらいだからな
長篠で討ち死にしていたのは実は家康の方じゃね
70:人間七七四年
13/08/16 02:02:35.49 OGreW13s
武田は討ち死にさせた相手に駿河取られたってことか…
71:人間七七四年
13/08/16 08:17:34.94 s/goNPfn
だが理論によると長篠直後の武田は同盟国である北条と戦争していたのか
72:人間七七四年
13/08/16 11:56:46.52 lBc0JS+X
あぁ謙信が怖くて勝頼に同盟して欲しいと土下座して拒否られた信長さんの時代の話かね。
73:人間七七四年
13/08/16 13:07:31.12 02BcLAhV
>>71
そうだよ
74:人間七七四年
13/08/16 13:17:46.54 lBc0JS+X
>>73
>>72
75:人間七七四年
13/08/17 14:49:09.93 hN1QWMcB
うーん。北条と同盟してたっけ?
駿河をめぐって同盟破綻して氏康の死でまた同盟しなおしたんだっけ
76:人間七七四年
13/08/17 16:21:49.11 lsP3cQhf
天正7年8月末に北条高広が後北条を離反
それを受けて9/5に北条と徳川の同盟が成立し
家康も武田窓口の信康を9/15に切り
対武田の全面戦争開始。
同時期、佐竹を通じて武田と織田の同盟交渉がなされており
家康は信長の娘を尾張に送り返し甲江同盟に対して不満をぶちまけている。
しかし当時の信長は本願寺と毛利と別所に呼応して摂津荒木が挙兵し危機的状態にいた。
77:人間七七四年
13/08/17 22:25:43.50 9HHqKVB4
だがが言うには北条と戦争していたから秋山を見殺しにしたらしい
78:人間七七四年
13/08/17 23:00:09.25 R8uW71tT
天正2年の長篠後~岩村陥落の間って勝頼って何やってたっけ?
戦国遺文も山梨県史も手元にないからくわしい人教えてください
79:人間七七四年
13/08/17 23:21:41.51 lsP3cQhf
蘭奢待の切り取りで天皇権威を背景に大和の帰順をしたから北畠支配も可能になっただけだし
そもそも勝頼が穂貸し美濃で大規模攻勢をかけて明智城が落ちたり(苗木城は勝頼の子の信勝の祖父の城だから攻撃してない)
毛利が東進する危機に信長はビビりまくり公家らに略奪してた荘園を
返却したり、自分で燃やした京の復興をしたりの
朝廷への土下座外交をしたから長篠の勝利を得ただけだし。
他力本願ばっかじゃん信長。
虎狼のように手に平返しして天皇をあからさまに軽視した瞬間に家臣に討ち殺されて終了w
80:人間七七四年
13/08/17 23:41:43.52 lsP3cQhf
>>78
天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城日了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。
81:人間七七四年
13/08/18 13:16:36.00 qGy78APs
信長からしたら武田が健在で徳川と牽制しあっている状態がいい
徳川は武田しか敵がいないから必死
もし織田と武田で同盟されたら徳川はもう詰み
下手したら因縁つけられて織田にお取り潰し
82:人間七七四年
13/08/18 14:58:32.62 axtuQzDw
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで
謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから
勝頼なんてただのバカでしょ。
そんな勝頼さんは2/6に丹波の赤鬼さんに、
雪解けしたら早速、信長を攻めるよ!と書状を出してる。
ちなみに本隊は雪解け待ちのようだが、
先鋒はすでに出陣しててちょうどこの時期には
明智城を陥落させている。さらに櫛原城や神篦城を攻略している。
尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。
積雪で信濃国境は封鎖された閏11/9になって、
のこのこと三河で鷹狩しに行くよなどと家康監視目的で
来援する信長を歓待すると申し出る家康の心中は複雑だよな。
少ない兵を引き連れた勝頼が完全に織田をナメくさって長篠の戦いで無謀な突撃をかましたのがよくわかる。
ちなみに元亀4年3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は六万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
史料から、信玄軍の強盛振りと徳川の累卵が如き危うさを伺えるね
83:人間七七四年
13/08/18 23:54:54.44 qGy78APs
織田、徳川、上杉、北条に囲まれてる武田勝頼が雑魚?
あんだけ戦えたんだから優秀だな
84:人間七七四年
13/08/19 00:14:05.45 4h/7VdsF
悟空、ピッコロ、ベジータ、トランクスに囲まれて一人であんだけ戦えたんだからブロリー最強
つまり勝頼最強ということか
85:人間七七四年
13/08/19 11:38:55.33 7Z3dqSlN
>>80>>82
そういう状況だと、あながち甲陽軍鑑に書かれている内容も
誇張でもないような気がするんだよね。
曰く、武田を恐れまくる信長は天正3年の勝頼の攻勢に
もはや完全に切羽つまった家康からの援軍要請にも色よい返答をせず
激怒した家康が、上洛戦や越前陣や姉川の戦いで織田が勝てたのは徳川のおかげなのに
ことごとく徳川の援軍要請には拒否を続けるその態度なら
もう武田に降って先鋒を務めて尾張を攻める。
尾張なんて武田陣営になっちゃえば簡単に落とせるんだからね!って使者に言わせて
信長がびっくりして援軍を長篠に出したって話。
86:人間七七四年
13/08/19 11:49:05.00 pC9YCyXW
自分で自分にレスして空しくならんのかの?
87:人間七七四年
13/08/19 12:00:12.80 7Z3dqSlN
自分自身がレスしてんだったら
まとめて1回でレスするわアホw
ほんと織田朝鮮人は、こんな簡単な道理すら理解できない低い知性ぶりをさらけ出して恥ずかしくないのw
あぁ恥の概念なんて持ち合わせてなかったんだっけw
88:人間七七四年
13/08/19 16:31:57.77 x7glZ5uL
>馬場隊700で佐久間隊6000を敗走させ柵まで追い詰め43人討ち取り
こういうのたまに見るけど、本当にこんな少ない数で6000もの多数に勝てるのか
89:人間七七四年
13/08/19 17:00:24.60 7Z3dqSlN
烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。
90:人間七七四年
13/08/19 19:23:24.60 41c/y+Pu
甲州軍流石って言う最後じゃないんだよな天正12年の甲斐攻め
91:人間七七四年
13/08/19 21:31:34.37 /z4N93J4
天正12年!?
92:人間七七四年
13/08/20 08:38:43.56 crjj+vDb
そう武田家は生き残っていた
93:人間七七四年
13/08/20 08:42:41.66 pryoyhkg
力は強いが頭は弱い猪みたいなもんだな
94:人間七七四年
13/08/20 09:51:27.40 ryFWTtQd
それは家臣に殺され、家臣に家を乗っ取られた信長こそが似合っている言葉だな。
信玄死去10年後のことまで、信玄の責任にするアホ論法を繰り返すバカ織田原人w
95:人間七七四年
13/08/20 23:28:33.81 42R9AD0M
長篠の現場には死体はたくさんあったが、銃弾はほとんど見つからなかったっていうぞ
96:人間七七四年
13/08/21 03:34:04.22 I8Z+ZDGh
そりゃリサイクルするために拾ってんだろ。
ちなみに大坂でも銃弾がほとんど見つかってない。
97:人間七七四年
13/08/21 08:12:25.70 etUVoURW
>>95
まずは他戦場との銃弾発見数の比較対照データのソースを貼ってください。
あなたのその未熟なレスでは、
判断しようがありません。
98:人間七七四年
13/08/21 08:38:48.70 iphkYBNb
体内に銃弾受けたら荼毘にふさないと取り出せない
99:人間七七四年
13/08/21 10:58:21.51 CMESRUXs
>>97
織田厨にそんなことを求めても無駄です。
100:人間七七四年
13/08/21 15:26:45.97 nBfA9QF3
信長厨の自慰けんきゅう~はっぴょうかい♩笑
101:人間七七四年
13/08/21 21:37:56.62 sG20Ndb0
たまたま弾がみつからなかったとでも言いたいのか
102:人間七七四年
13/08/21 22:29:16.57 Wf8b83Id
>>97
同意。比較データは必要不可欠
はやく織田厨はソース出せよ。
103:人間七七四年
13/08/21 23:38:10.04 VWZ4B6n0
いったい何と戦ってるんだ…
104:人間七七四年
13/08/30 20:57:33.32 0YWnv5Ef
勝頼公は名将。これは間違いない。
105:人間七七四年
13/09/01 02:14:53.62 QombfO1N
勝頼公は名器。これは間違いない。
106:人間七七四年
13/09/02 21:43:30.23 Q8xARWrG
や ば い
2chまじ閉鎖だ…
107:人間七七四年
13/09/11 23:37:21.24 8bTHrlv4
戦国最強のアホ武将勝頼
108:人間七七四年
13/09/11 23:59:43.86 KN/Ka1R1
久保田氏が指摘してるが、
武田の駿河侵攻で今川方の大宮城主だった富士山本宮浅間大社の宮司富士氏を、
武田は次第に武装解除して、神職だけをやらせるようにしていってるようだね。
武田氏の宗教政策を垣間見れる例だと考えられる。
久保田氏はこれを兵神分離と読んでいる。
この分離は富士氏に出した書状から北条や今川にはできなかったもんだろうと。
109:人間七七四年
13/09/12 01:24:39.25 FgYrz0eT
反抗宗教勢力には、
織田のバカは無駄な虐殺戦をすることでかえって一揆や謀反だらけになりました。
信長ってほんと知恵も才覚もないわな。
110:人間七七四年
13/09/12 02:10:15.69 NyY3xz7F
偽計業務妨害罪
111:人間七七四年
13/09/12 05:44:46.95 l+pxmdyx
>>109
神社と仏教の区別もつかないようじゃ、程度が知れてるな
112:人間七七四年
13/09/12 06:58:14.46 DUQWpg2n
四郎はなんで穴山を誅殺出来なかったの?
113:人間七七四年
13/09/12 08:53:43.79 60V5v2W7
神仏習合も知らない無知織田厨アホすぐるwww
114:人間七七四年
13/09/12 11:59:11.18 rE7IfGhM
いや、そもそも神道と仏教ならともかく
神社と仏教ってwww
織田厨ってどう好意的に解釈したとしても
明らかに日本人じゃないだろ。
115:人間七七四年
13/09/12 13:54:47.02 BlsMSw0B
∧_∧
<=( ´∀`) < 神仏習合も知らない無知織田厨アホすぐるwww
(つ つ
| | |
〈_フ__フ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
Λ_Λ < 織田厨ってどう好意的に解釈したとしても 明らかに日本人じゃないだろ。 っと
<丶`∀´> \______________
( ̄ ⊃・∀・))
| | ̄| ̄
〈_フ__フ
116:人間七七四年
13/09/12 20:51:49.45 l+pxmdyx
>>114
半島わ違うんだろうけど
日本では神社には氏子がいる。
まさに氏族って連中が各神社にぶら下がってる。
神社に手を出すってのは氏族丸ごとと戦争するってこと
対して、仏教徒なんてのは所詮、個人の集合体
寺が檀家と称する地域コミュニティーを確立できたのも近世
だいたい、半島の連中は、すぐ知ったかをして神道を持ち出したがる
117:人間七七四年
13/09/13 00:18:16.23 YrdB1+Kb
基本的な事ですまんが信玄なら長篠合戦前の状況下に置かれたら(状況作りなどの前提おいといて)勝頼同様に戦ったと思う?
もしくは織田徳川の援軍を見てひとまず諦めて帰ると思う?
118:人間七七四年
13/09/13 03:08:33.44 ecE4BhY0
信長公記の記述を見る限り信長は自軍の兵力を巧みに隠して武田軍に少数だと錯覚させ釣りだしたようだ
あと武田軍の情報収集能力は酒井別働隊の行動に全く気づかなかったことからもかなり低かったことがわかる
敵の援軍は少数だと誤認したからこそ武田軍はあの状況に陥ったのだと自分は考えている
武田軍のあまりにも低い情報収集能力を考えれば同じようになったんじゃないかねえ
119:人間七七四年
13/09/13 09:02:39.19 6QzfwzZc
そもそも前提が間違ってるわなw
信玄公が存命なら糞長は岐阜で速攻で晒し首だろうしな
長篠前になるような状況になりようが無い
120:人間七七四年
13/09/13 10:38:48.40 pxdIKjks
>>117
長篠の戦いは状況作りが重要な戦いなので。
戦場だけ見たら「これで川越えてくる勝頼ってバカじゃん」となって終わり。
121:人間七七四年
13/09/13 12:08:26.14 bRxnFUBq
馬鹿な織田厨が信長公記を持ち出して妄想内容で会話を成立させているw
これは完全に自演wwww
実際は、長篠野戦で寡兵の武田軍に大敗して陣城に逃亡しただけの戦いで、
酒井別働隊なんてもんはそもそも存在しないのにwwww
122:人間七七四年
13/09/13 12:25:40.66 ecE4BhY0
長篠の戦いで当事者が書いた史料は信長公記しかないからそこから推測するしかないからね
だがが持ち出している信憑性が怪しい長篠日記や伝聞を書いたに過ぎない多聞院日記は論外
123:人間七七四年
13/09/13 12:43:47.77 bRxnFUBq
じゃあ聞くが信長公記は90種類以上あるんだが、
君がもっとも正しいと思う公記はどれだい?
もちろん、箇条書きで根拠も書いてくれよ。
124:人間七七四年
13/09/13 12:47:44.18 ecE4BhY0
その90種類を全部書いてから質問してくれないか?
125:人間七七四年
13/09/13 13:47:32.65 xdYx+NXc
だが、逃亡。
126:人間七七四年
13/09/13 14:19:33.36 aia5GVVs
ID変えて逃げたと勝利宣言始めるに100信長公記
127:人間七七四年
13/09/13 18:07:44.75 pSTRcr+L
勝頼公を深追いしてキンカンに放火される馬鹿丸出しの鬼畜信長
128:人間七七四年
13/09/13 21:08:58.02 Z7LiDOQg
残念。長篠日記は一次史料だしw
129:人間七七四年
13/09/13 21:16:00.03 ecE4BhY0
第三者が書いたはずなのになぜか両軍の内部事情に詳しい怪しげなのが一次史料ねえ
130:人間七七四年
13/09/14 03:41:46.07 dAyhF3w9
>>119
??
だから『状況作りなどの前提おいといて』
と、前もって断りいれてあるんですがねぇ…
131:人間七七四年
13/09/14 03:58:16.81 dAyhF3w9
>>120なるほど…
確かに城攻めにも兵を裂く中で多勢で柵などで防御策を固める織田徳川と正面から攻めるのは戦術的に好ましくないですよね。
では重ねて質問で申し訳ないが勝頼を誘い出すための状況作りとは何があったんでしょうかね。
132:人間七七四年
13/09/14 05:25:42.96 GSrr3Hba
いやむしろ勝頼に信長がおびき出されただけだから。
それに陣城を構築したのは家康だけ。
野戦決戦に大敗した織田軍が家康の陣城に逃げ込み、
陣城に収容出来なかった織田軍は武田軍に壊滅させられた。
133:人間七七四年
13/09/14 09:29:20.96 DpHLTCZi
勝頼は高天神城落して家臣に信頼されちゃったからなぁ
その自信過剰が魔王の策略に引っ掛かって自滅した
諌めた山県や高坂を臆病者を罵る失態、滅亡して当然
134:人間七七四年
13/09/14 09:53:26.57 4B8rPiZs
魔王の策略とはなんですか?
一次史料で書いてください。
135:人間七七四年
13/09/14 10:44:36.23 fIJDzgbN
大損害を受けたはずの織田軍が
なぜかその後すぐに越前と東美濃に攻め込む不思議
一方軽微な損害の武田軍は
それまで押せ押せだった格下の徳川相手にいっぱいいっぱいで
秋山に援軍も出せず見殺しにしてしまった不思議
だが理論は不思議でいっぱいだ
136:人間七七四年
13/09/14 10:54:31.57 5uXjcqkJ
長篠の戦・・・本作戦の目標は前年に浜松城を焼き討ちし、掛川城に付け城を築き包囲している現状に悲観した
徳川方内部における結束の崩壊を機会として岡崎城内応策を元に立案され、
その真の目標は武田本隊5万5000による北美濃勢との呼応の上での東美濃への大規模奇襲侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
内応策が未然に防がれ計画の練り直しのために一度本国への帰還を優先すべきところ、
なお、東美濃侵攻計画を強行を決意した勝頼は尾張へ先遣隊を派兵し熱田社を焼き討ちし挑発し信長が東海道の戦場に出てくることを強要した。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、当初作戦である美濃決戦を放棄し、手持ち陽動兵力6000のみの決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、
織田6000討死(長篠日記)により野戦では大勝利したものの徳川の陣城へうまく逃げ延びた織田兵への陣城攻撃を開始し優勢だったが
さすがに陣城が落ちずに日没を向かえたので鳶ヶ巣山砦も放棄し(一次史料に酒井の鳶ヶ巣山砦攻撃は存在しない)
撤退を開始したら殿が下手を打って軍が崩壊し1000人討ち取られた(多聞院日記)
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し
尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。
長篠戦死者に関しても公記で長篠で討ち取ったと書く名簿一覧の甘利藤蔵(晴吉)など、
永禄7年に小田原で戦死している者が登場していたり討ち取り一覧からして捏造臭が激しい。
また甘利一族の誰かが死んだのを間違って書いたと考慮した場合、
6月朔日の勝頼→小原・三浦宛書状の中で、甘利諸頭諸卒恙無きと書いていて甘利一族で名の有る者の戦死者はまったくいない。
わざわざ勝頼が甘利の名を書状で言及して出しているのも織田側が討ち取ってもいない者の名前をあげて捏造戦果をデッチあげて勝った勝ったと吹聴して回っていた可能性が高い
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかりほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の
押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。
織田軍のことを敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけでやはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。
137:人間七七四年
13/09/14 10:59:59.04 5uXjcqkJ
実際、軍記講談話を除けば、馬場や山縣や内藤がそもそも出陣してたかすら怪しいし、
長篠で討死した武田信豊配下の左衞門尉には勝頼が、嫁の信豊の息女に名跡の相続を認める判物を認めてるし、
山家昌美にも子の討死を賞して弟に名跡を認めたり、
天野藤秀にも子の小四郎が最前線で鎗を合わせて粉骨し何事なく退いた武功に感状出してる。
しかし山縣や内藤らに関わる書状を勝頼は一切出してないし、 信長も感状を一切出すことも無い。
唯一、家康が5/18の長篠城防衛への感状を松平勝次に出して賞してるだけ。
明らかに織田も徳川も大した戦功が無かったことを表してるし、
勝頼が6000程度でやってきてるのを証明するように、山縣や馬場や内藤ら信玄時代の主力武将達が長篠に出陣してる証拠が無い。
むしろ勝頼は穴山信君、武田信豊、小山田、甘利らだけを引き連れて長篠に現れたとしか思えない。
だからこそ信長は深く追撃することを恐れて、さっさと帰っていった。
山県昌景は勝頼の天正元年8/25書状を最後に消え去る。
真田信綱も天正元年9/8の勝頼書状を最後に消え去る。
信玄政権から勝頼政権への移行で、
構造改革があって引退してるんじゃないか?
長篠の戦いで信長は彼らの名前を一切あげてないのも不審だね。
なにせ岩村城の開城の報せの信長書状には、
秋山のことは引き寄せてから今日、
磔にかけたし、その他の籠城者は残らず首を刎ねたと
秋山を騙し寄せたと名前をちゃんと言明してるし。
実際、長篠の戦いが迫る天正3年4/16の勝頼書状では真田昌幸と小山田が一緒に登場しているが、
信綱は登場しないし、山県昌景本人の発給文書も天正元年11/23が最後なんだけど。
天正元年7/30の時点では、武藤喜兵衞尉と勝頼が書いていたのに、
天正3年4/16では真田喜兵衞尉と勝頼が書いていて、
明らかに昌幸が武藤氏から真田氏への家督継承を済ませてるのがわかるんだけど。
よって信綱が長篠で討死したから昌幸が武藤から戻ってきて真田の家督を継承したとする論法は通用しないのがはっきりわかる。
結局、最後まで徳川は高天神とセットで攻撃していた田中城を自力で落とせなかったくらいだし、
武田崩れを誘発した穴山の離反がなければ諏訪で織田軍を壊滅させられたよな。
なんせ北条如きに大敗した滝川とか地侍に破れて殺される河尻とか
織田軍の弱さはハンパねぇからな。
138:人間七七四年
13/09/14 11:06:49.96 5uXjcqkJ
天正2年は武田家最盛期といってよく
高天神城を攻略し、さらに浜松城を燃やし、掛川城に付け城を築いて
家康に王手をかけていた。
天正3年は5/21長篠の野戦で勝利したものの陣城を攻めあぐね撤退で噛み付かれ痛みわけ。
7/19に勝頼が岩村へ援軍を派遣すると書状を出すが、
27日に家康が駿河まで攻め入る報が入ったので、堅城の岩村より対家康を優先。
小山城の後詰めで大井川まで出陣したのが9/7でこの後、高天神へ入城し、
21日に小山城在番衆へ感状を出してる。
11月?日岩村への援軍として出陣。
岩村開城了解日も?だが、11/21に秋山が挨拶にきた21日に捕縛され26日に磔。
激怒した勝頼が12/16年明けに興亡の一戦をすることを指令。
この時より勝頼は獅子朱印状を使用するようになる。
信長は武田本隊による岩村城救援の報を聞くと、
急いで岩村側へ和睦したと詐術を弄して秋山を殺した。
いやいや織田が江甲同盟交渉で武田の鋭鋒を避けようとしてたから
むしろ援軍がもらえない家康が逃げ回ってただけだろ。
家康としては甲斐府中から遠いことを良いことに
武田の最前線の城を攻撃しては、
勝頼が決戦目指してやってくると掛川城へ逃亡しまくりの繰り返しじゃんw
しかも武田主力は上野国東部で戦ってるのにも関わらず
田中城や用宗城の攻撃に失敗の連続で家康はぜんぜん領地を広げられない。
烏合の衆か組織化された衆かで質の違いが顕在化した結果でしょ。
貫高に応じた兵数動員を賦課してない織田軍
指物や槍の寸法や装備や馬上具足に至るまで数と質を指定されてない織田軍
信玄が旗本を対象に陣立書を作成していて
陣立書は今までのような一揆的秩序の貫徹する軍隊内部に
命令系統と上下秩序を持ち込むものであり、軍隊として高度に機能させるに必要不可欠だし、
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
信玄死去から10年経っても甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士と呼ばれ戦う前から怯えさせる精強さ。
139:人間七七四年
13/09/14 11:06:58.00 fIJDzgbN
痛いところを衝かれると妄想コピペに走るいつものだがであった
140:人間七七四年
13/09/14 12:04:31.06 O3emCoWC
織田軍が合計で30万人くらいいたんだろうな
それなら三方が原で1万数千出して大敗しても
長篠でズタボロにされてもすぐ織田軍が軍事行動できたという
だがチョン理論の説明がつく
141:人間七七四年
13/09/14 12:37:52.24 5uXjcqkJ
>>140
織田軍の兵力30万の一次史料を出してください。
織田軍の兵力は最大でも3万なのが一次史料から窺われる最大兵力です。
142:人間七七四年
13/09/14 12:54:17.15 O3emCoWC
それは動員兵力であって最大兵力じゃねーだろ・・・
143:人間七七四年
13/09/14 13:15:43.91 5uXjcqkJ
>>142
反論には一次史料による根拠を提示してください。
織田軍
貫高に応じた兵数動員を賦課してない
しかも織田軍全体の統一された軍規や軍事編成や武器比率が存在しない。
兵站とそれを支える奉行が存在しない。
そもそも信長は分国法すら作る知識も能力も無かった。
信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
大和一国支配者の興福寺
1580年の織田による差出検地
興福寺大乗院跡750石
興福寺多聞院跡の私納分37石・納所分83石
かんぜんにナメきってる報告っぷりw
秀吉の文禄検地
興福寺春日社は2万1000石とされた。
信長の差出の検地なんてこんなズサンなもの
石高で他勢力との比較をしたがる織田厨の無知さがわかる。
しかも織田はその差出の石高に応じた軍役の賦課すらしてない。
つかできない。
144:人間七七四年
13/09/14 13:25:40.00 O3emCoWC
分国法を定めていない家なんて山ほどあるんだが・・・
上杉や北条や徳川は分国法を定めていないからクソとでも言うのか?
145:人間七七四年
13/09/14 13:31:32.82 fIJDzgbN
>>141
それより>>135の不思議な現象に答えてくれないか?
つーか30万云々はだが理論への皮肉ってわかってる?
146:人間七七四年
13/09/14 15:31:49.48 DpHLTCZi
父信玄は情報収集には相当力入れてた
乱波一人が持ち帰った情報だけを信じず他の乱波の情報と重なり合わせ、その上で判断していた
四郎はその父の姿を観てなかったのか
147:人間七七四年
13/09/14 16:14:35.08 JntAASKr
>>136
仮にその話しが真実だとすれば織田は6000もの戦死者を出しながら野戦での大勝利に湧き大した損害もない軍隊が、日没後当時の技術的にはかなり難しい夜間敵前撤退をする兆候を見抜きすぐさま追撃に移り大打撃を与えるという、とんでもなく有能な軍隊って事になっちゃうなw
そんな化け物の様な奴ら相手なら武田が生き残れる訳もないw
148:人間七七四年
13/09/14 16:28:03.32 fIJDzgbN
>>146
んー・・・・それはどうだろうね?
砥石崩れでは迫り来る村上の援軍に全く気づかず背後を襲われ惨敗しているし
川中島でも謙信に裏をかかれて大損害を被っている
武田の情報収集力が低いのは信玄時代から変わっていないと思うが
一方織田は金ヶ崎で浅井の裏切りにいち早く気づき撤退に成功しているし
姉川でも敵の援軍に気づいてすぐに迎撃体制を布いている
これらからも織田の方が武田よりはるかに情報収集力は上だったと思うわ
149:人間七七四年
13/09/14 16:30:19.64 JntAASKr
>>148
桶狭間の武功第一が誰だったか考えれば判るよねw
150:人間七七四年
13/09/14 16:37:16.72 V/p7E68s
あの武功第一の判断をした信長は流石としか言いようがないな
情報集めるだけ集めて優勢の時に攻めたのにあっさりばれて尻掘られた誰かとは大違い
151:人間七七四年
13/09/14 21:47:34.56 6HZqWCSf
みっちゃんの裏切りにも気付かない信長の情報収集力はすごいなー
152:人間七七四年
13/09/15 01:19:31.02 30aAV0k+
本能寺の変は防ぎようがない
光秀も優秀だしな
わずか四年で丹波を平定したし
信玄が20年以上かけても信濃を平定出来なかったのと比べても歴然
153:人間七七四年
13/09/15 09:43:10.03 tAiGOWHz
そうだな
斉藤義龍が長生きなら生涯尾張から出れなかった無能な信長じゃ敵いっこないよな
光秀と信長の立場が逆だったら光秀はこんな奴取り立てないだろうしな
154:人間七七四年
13/09/15 14:27:38.66 JM1O1ex7
だな
そんなやつに滅ぼされた武田はどんだけゴミだよってな
155:人間七七四年
13/09/15 18:37:24.82 n2WAaKN0
信長は人前で恥かかせることしてたから謀反ばっかり起こされてた
信玄の時代は謀反ほとんど起こらず
156:人間七七四年
13/09/15 19:01:21.93 gdoFjE3P
ん?
嫡男はどうなったんだっけ?
157:人間七七四年
13/09/15 20:24:36.22 JM1O1ex7
自身が謀反で権力握ったっていう
158:人間七七四年
13/09/16 16:17:17.78 D3zOFgHd
家康の息子の信康のことだろ。
義信は謀反なんて起こしていないし。
159:人間七七四年
13/09/16 16:22:31.92 9CsrR6zb
起こす前に幽閉されたからなw
どんだけ信用してねえんだw
160:人間七七四年
13/09/16 17:39:03.64 H6rLkW8H
彼は己の父を追放して国を奪い、長子を堅固な牢に閉じ込めたので同人は間もなく死んだ。
(1573年4月20日付、ルイス・フロイスが都からフランシスコ・カブラルに宛てた書簡)
161:人間七七四年
13/09/16 22:04:25.72 hd/I4etR
さすが孫子の兵法を実践する信玄。
上の上策とは戦わずして、相手の謀を伐ち戦になる前に未然に防止することを見事にやってのける。
民政の達人信玄と違い、一揆謀反だらけの挙句、殺された信長では比較にもならない。
162:人間七七四年
13/09/16 22:48:31.77 ieCRBDZE
身内の諏訪を未然に謀で打ったり、勝ちすぎはだめだから砥石崩れで調整したり
流石だな!
163:人間七七四年
13/09/17 00:55:18.22 bEpK9IjZ
まーたアホ織田厨が捏造か。
諏訪頼重を殺してない。
諏訪大祝に預けていたら自害してしまってた
。
それどころか頼重の嫡男の虎王や娘を保護してるくらい。
本当に頼重を殺していたら成長後の虎王や娘の報復を恐れ殺してるわな。
164:人間七七四年
13/09/18 00:31:25.35 Ss17xjh8
降伏した奴を寺に押し込む、その意味は明白だろw
つか降伏した奴を幽閉したのは否定しないんだなw
降伏してるのにwww
どんだけビビリのヘタレだよw
そりゃ夕焼け小焼けでビビって壊滅するわwww
165:人間七七四年
13/09/18 00:46:35.11 Giyjvnua
北畠の話か
166:人間七七四年
13/09/18 02:32:51.47 Ss17xjh8
丸島和洋「天文十一年六月、シンゲンは突如諏訪に出兵した。
武田勢の行動は(中略)、事前に「手切れ」(同盟破棄)を通告することもない...」
「諏訪頼重は(中略)、その後自害に追い込まれた(「守矢頼真書留」他)。」
芝辻俊六「天文十一年七月、当主の頼重が義弟の信玄に諏訪を攻められて謀殺され」
磯貝正義「翌五日、頼重は甲府へ送られた。晴信も九日には甲府へ帰還した。
頼重は十九日に板垣信方の会下の東光寺学寮に幽閉され、二十一日の早朝(寅刻)切腹させられた。」
平山優「七月四日には頼重・頼高京大を降伏させ、同五日に甲府へ護送した後に、
二十一日に甲府東光寺で切腹させた。」
だが君の思い込みとは違って、史学としては信玄の謀殺だw
167:人間七七四年
13/09/18 11:48:28.65 qmo4+Xrb
>>166
それ甲陽軍鑑の話を引っ張ってきて解釈してるだけなんだがw
しかも軍鑑では和議の結果、頼重が自分で甲府へ3回も出仕してきたと書かれてるが、
もちろんそんな事実はない。
168:人間七七四年
13/09/18 12:19:44.74 Ss17xjh8
ん?暗殺の部分に関して珍しく事実を記述してたってだけだろw
守矢頼真書留って見えないか?w
169:人間七七四年
13/09/18 22:04:05.20 PfyOmFN8
>>168
へぇ。なんて書いてるの?
知らないので日付と一緒に全文転記してください。
170:人間七七四年
13/09/18 23:46:22.36 Ss17xjh8
丸島が引用してるだろ?w
なに?信じられない?w
171:人間七七四年
13/09/18 23:49:33.63 Ss17xjh8
>>58
>「赤い空現象」は噴火が起きた時に巻き上げられた空気中に漂ってる軽い火山灰って
>何度も説明してるのにいつになったらその鳥頭は理解してくれるのかな?
>
>そもそも大分から800km以上離れた浅間山の噴煙が視認できるワケないから。
>長崎から上海のほうがまだ近いレベル。
>それこそ「なんで見えたのか?」この超常現象について納得の行くように詳しく科学的に説明して欲しいところ
あとお前はこれを説明して来い
あっちでな
172:人間七七四年
13/09/19 00:32:10.01 UL38cygM
>>170
早く書いてやれよ。
まさか知らないわけじゃないよな?
173:人間七七四年
13/09/19 00:39:44.31 OYe0biIB
知らないけど?
孫引きだから
丸島がそんなしょうもない嘘つくわけないし
信憑性は十分
疑うなら自分で調べろよ
174:人間七七四年
13/09/19 00:59:42.49 kDBB6IFg
>>173
織田厨ってアホ過ぎワロタワロタワロタwwwwwwww
こんな雑魚バカ低脳初めて腹いてぇwwwww
175:人間七七四年
13/09/19 01:16:16.19 OYe0biIB
腹痛いなら糞してねとけ
176:人間七七四年
13/09/19 11:34:45.24 WNkbzU9u
アホ織田厨www
相変わらずwikiの編集記事からのパクリ内容を
さも自分が知っていたかのように書くキチガイ
突っ込まれると「わかりませーん」と池沼ぶりを示すほど低い知性w
177:人間七七四年
13/09/19 12:46:47.35 Y8eV0bVn
なぜだがはこうもブーメランを乱投するのか
178:人間七七四年
13/09/19 14:40:10.18 IjJ2BKEw
無知の最上級
軽薄キチガイ最上級
それが織田半島人。
知ったかで虚勢を張るも、
申し開きさえできない無能
史学を語る資格なしのただの荒らし
179:人間七七四年
13/09/19 16:00:57.06 TePnDmv8
反論する人物が書き込まないとみるや
さっそく温存しておいた端末でIDをいじくり
「無知でファビョりやすい織田朝鮮人」と
架空の人格を1人で作り出しては
その人格を自分で操り
これで織田厨は完全論破したと
自信満々に1人芝居で虚構を固めるだがチョンであった
180:人間七七四年
13/09/19 22:47:00.29 PLPpFTGF
たしか前スレも途中からだが独壇場になったな
181:人間七七四年
13/10/12 01:41:31.35 U5ycIbtq
まあ北畠信雄は織田家臣団から三介殿のなさることだからwって馬鹿にされ、
南蛮寺が出来た時は信雄、信忠、信孝の順番で訪問するほど、
信雄が宣教師を厚遇してたのに
宣教師からは知恵が足らないと酷評され、
伊賀攻めでは信長から親子の縁を切ると言われた程の暗愚だから傀儡にするのは簡単だろうな。
信雄はどんだけ賤しくぶざまでも死にたくないって言う情けなさで戦国時代を生き残った名誉も持たない男だから。
一方、信孝は南蛮寺に行くのが最も遅い男だったが、耶蘇会から思慮あり諸人に対して礼儀礼節あり偉大な勇士だって激賞され、
天正記でも知勇は人を超えていたとまで評価されていたので、
秀吉に操られた信雄は嫉妬しまくり信孝を殺した。
信雄は暗愚だから織田家を滅ぼした後の自分は用済みになるとは夢にも考えて無かったんだろうな。
まさか強制出家させられ小姓1人だけを連れて秋田へ流罪にされるなんて。
織田家を残す必要があるなら、嫡流の秀信を救うか、
北畠氏による簒奪をせずに織田家に復姓していた信孝の死を免じてやればよかっただけ。
伊勢国司北畠信雄は彼らを死ぬように追い詰めただけ。
結果、秀吉によって北畠姓まで剥奪されて秋田へ流刑。
織田を滅ぼした命乞いの土下座王信雄。
大坂陣の時もひそかに逃亡するヘタレ
182:人間七七四年
13/10/12 15:01:19.47 dIEaVQSg
で実際勝頼どうよ。
俺は信玄無能とは思わないが特別優秀とも言えない人物で、人間的魅力は凄まじい人だったんじゃないかなぁと思うので、勝頼は残された状況が悪すぎたと考えるが。
183:人間七七四年
13/10/12 15:06:51.72 21bCWyJl
>>182
でさ、なんでいつも織田厨って、一次史料を根拠にした
具体的理由を箇条書きしないで、
まったく根拠のない妄想を語り始めるの?
184:人間七七四年
13/10/12 15:47:36.87 Sxub4c4Q
関が原?戦果挙げてたのは島左近だろ。次点で明石全登じゃない?
足引っ張ったのは織田信雄、西軍から白金2000枚パクったw
清華家の家格を持つ北畠氏のまま、
家格の低い織田氏に戻らなかった信雄の空気の読め無さが、
強制出家と秋田への流罪を呼んだ。
関ヶ原の戦いの西軍首謀者だった輝元への懲罰でも強制出家が強要されていて、
結局のところ家臣らを通して必死な命乞い嘆願が行なわれて、
責任を取っての名誉を守る自刃を回避する武士の風上にもおけぬヘタレに対する恥辱的な死一等免除の慈悲であり、
武人としての生命を絶たれたと言っても良い死ぬのが怖い愚主を内外に知らしめる処置なのである。
清華家の家格を上回るために秀吉は藤原氏の養子にならないといけなかったくらいだからね。
実際、北畠氏の家格は征夷大将軍と並ぶ鎮守府大将軍として地方政権を樹立できる資格も余裕で持ってるからね。
そりゃあ北畠の名前にすがってれば高貴な殿上人として、
どんな大罪であろうと死一等免除の遠罪レベルにしてもらえるんだから信雄だって織田なんてクソに戻りたくはないだろうよ。
信雄家康が秀吉に負けたから鎮守府大将軍として政権を立てられ無かったが、
秀吉に勝ってたら朝廷から任じられ政権樹立できただろうね。
185:人間七七四年
13/10/12 16:10:41.78 RKNMxuLf
>>183
1582年浅間山大噴火なんて大妄想をしていた菅沼君よりははるかにマシだよ
186:人間七七四年
13/10/12 19:17:46.06 21bCWyJl
>>185
あぁ織田厨が否定に足る一次史料の根拠を一切出せずに
それを何度も指摘されてもひたすら話を逸らし続け
泣きながら単発ID自演1日100レス投下して否定してたカワイソウな話だったネ!
187:人間七七四年
13/10/12 19:23:45.95 zSRk6FNr
だよなー菅沼
188:人間七七四年
13/10/12 19:26:02.80 3K6Cu1Bf
大噴火証明に足る一次史料の話題から逃げ続けて京の空が赤かったの一点張りで済ませようとする菅沼遼太wwwwwwww
189:人間七七四年
13/10/12 19:50:51.62 RKNMxuLf
早川論文で科学的に完全否定されてから逃げ回っているのが菅沼君の現在
まあそれはそれとして信玄と勝頼の対北条戦を比較して武将としての能力を考えてみる
信玄→待ち伏せして有利な状況だったのに大損害を被り辛くも勝利
勝頼→大した損害もなく終始圧倒
少なくとも軍事的才能では勝頼は信玄よりはるかに上だと思われ
ただ信長はそのはるか上を行く軍事的天才だったので相手が悪すぎた
190:人間七七四年
13/10/12 21:14:02.43 GZjbB1oZ
早川の書いた内容と全くかけ離れたトンデモ解釈をする織田捏造歪曲理論。
191:人間七七四年
13/10/12 22:21:00.39 RKNMxuLf
>>190
早川論文のどこに1582年大噴火なんて書いてあるんだ?
菅沼君はこの質問からずっと逃げ回っているよね?
早く答えなさい
192:人間七七四年
13/10/14 08:12:37.83 uyw2oJHV
早川論文は浅間山噴火の山梨県への火焔被害状況なんて書いてねーだろアホか。
193:人間七七四年
13/10/15 05:42:22.49 sEJSBZ2a
>>182
菅沼遼太理論だと武田信玄は在世当時6万の兵力を抱えていたのに対し
織田軍はたった1万と火を見るより明らかな戦力差があったにもかかわらず
徳川とママゴトして遊んでいたために病気を悪化させそのまま死亡し
窮地の信長を助けて信長の勢力拡大のお手伝いをしてしまっただけの無能
194:人間七七四年
13/10/15 19:10:33.47 aYk1dagq
日本史上最大の無能を争えるな武田信玄は
195:人間七七四年
13/10/17 13:24:49.53 +ahk6LtI
勝頼最強
196:人間七七四年
13/10/17 13:51:26.27 c1EFxiN1
では信玄最弱
197:人間七七四年
13/10/18 22:29:44.36 YpjuGZbF
では信長最凶
198:人間七七四年
13/10/19 11:52:37.55 H/4Bm5me
天正2年1/9付けの謙信→榊原康政宛てで 謙信は勝頼を経略名之下ニ候と酷評してるから 勝頼なんてただのバカでしょ
信長が勝頼にビビってただけ
199:人間七七四年
13/10/20 03:10:08.48 VAICrlPv
ビビっててもバカと分かれば、勝ちにいける冷静さ
200:人間七七四年
13/10/21 06:40:09.11 6FgzgQxk
相手を警戒しても警戒しすぎることはないからな
本物の馬鹿なら笑い話で済むんだし
逆に信長を軽視していた武田は長篠で敗れ甲州征伐では敵前逃亡
油断が産んだ悲劇よ
201:人間七七四年
13/10/21 10:58:37.75 0i/sOddb
それは油断じゃねえだろ
油断は有能な光秀を甘く見て丸焼けになった日本史上最も間抜けなアホ長
202:人間七七四年
13/10/21 13:27:29.34 byVsmwnQ
油断以外の何物でもありません、本当にありがとうございました
光秀の場合はありゃ予測が不可能なタイミングだからどうしようもねえだろうが
根回しもせずに衝動的な感じで反乱とか伝え聞く光秀の性格に似合わない事しとるし
203:人間七七四年
13/10/21 13:28:19.39 b7gt3k7J
>>201
少なくとも「最も間抜け」ではないな
なぜならよりアホな信玄がいるからw
204:人間七七四年
13/10/22 00:35:53.42 9TgX2Vg9
タイミングって重要やね
205:人間七七四年
13/10/22 01:24:01.92 h5XHuaMn
能無信玄
バ勝頼
206:人間七七四年
13/10/22 11:29:45.15 gE3RL8Qc
武田勝頼って信長以上の名将だったんだな
207:人間七七四年
13/10/22 14:34:59.79 2vAx6pga
領民苦しめる暴君信虎
内外苦しめる暗君信玄
家を滅ぼす無気力勝頼
親子孫揃って無能ばかりw
208:人間七七四年
13/10/25 10:28:58.18 MdACZyKq
所詮甲斐の田舎でへーこらしてた連中だしなw
209:人間七七四年
13/10/26 13:11:31.08 7t2Uivcj
甲斐源氏武田氏
の信玄が死んだ
跡をついだ勝頼は諏訪の出だった
家臣達は
「戒厳時他家だし」に不満であった
210:人間七七四年
13/10/26 13:17:48.62 3MF5nbZg
>>209
甲州軍鑑のネタなのも知らない無知さ加減にワロタw
211:人間七七四年
13/10/27 15:54:35.86 qDvj+7UP
文明14年7/13に清洲城で日蓮宗と六条門徒の宗論に奉行として
立会い連署証文を発給した中に登場する織田良信?=西巌と同一人物???→信貞→信秀→信長
つまり信長の曽祖父からして、すでに遡れない怪しい家系が弾正忠家。
織田全体でみても劔神社の神官(忌部氏?)と本当につながりがあるか不明だし
もともと斯波氏の元で尾張守護代を勤めていたのは甲斐氏だし
1393年6/17付け書状の藤原信昌・将広親子が劔神社の修理興行に勤めて課役免除した書状から、
劔神社との関わりと「将」は斯波義将の偏諱なので斯波氏に仕えた証拠として
これが織田家の先祖なので
織田は忌部氏でなく藤原氏だとするトンデモ論を持ってくるものの
1392年の斯波氏の相国寺供養の随伴名簿に織田氏が存在してないため、
そもそもこの時点で織田氏はいまだ斯波氏の被官ですらなかったのではと指摘されてる。
つまりどこの馬の骨かさっぱりわからんのが織田氏
現在の武田当主は経営者兼国連UNHCR協会の役員
織田家も現在で繋がっているのは女系のみだな。男系は明治維新まで直系で繋がっているが
それ以降は相馬家の人間が本家を継いでいる。女系を経て繋がっているのは有楽系の傍流
藩主だって血統なんてどうでもよくて、
幕府としては下克上されるような戦乱が起きず現状維持を守るために
家臣としては改易されて一族が路頭に迷うことがないように藩の存続が願っていただけで藩主のことなんて誰でもよかった。
212:人間七七四年
13/10/29 13:32:29.91 NzTN2yTM
500石ってもう帰農したほうがよくね?
213:人間七七四年
13/10/29 15:46:09.53 h4VvhveB
由緒正しい甲斐源氏を滅ぼした無能バカ当主どもと
どこの馬の骨かわからん織田の名前を全国に轟かせて大名にした当主では
戦う前から勝負は決まっている
214:人間七七四年
13/10/29 16:12:19.01 3em9xmQH
子孫を誇るなら完全に後継がはっきりし、 従三位武田家十六世当主武田邦信は
代表取締役兼国連UNHCR協会の役員で山梨観光大使に正式任命されてる武田家の方が明らかに勝ち組じゃねぇかよ。
米沢藩上杉家の16代当主上杉邦憲は宇宙航空研究開発機構宇宙科学研究本部教授だし。
現在の織田の後継って誰だよ?まったくきまってない曖昧なままじゃん。あぁ?完全に負け組じゃんよw
織田家も現在で繋がっているのは女系のみだな。男系は明治維新まで直系で繋がっているが
それ以降は相馬家の人間が本家を継いでいる。女系を経て繋がっているのは有楽系の傍流
公称で3万石となってた熊本藩の分枝の宇土陣屋の細川行芬の三男を迎えて
1836年に丹波柏原藩第8代の織田信敬www 細川本家じゃなくて貧乏陣屋同士www
柏原藩の重臣は織田家の血を引く鶴姫に再度婿養子を迎えることを考えてたが、鶴姫に拒絶されてるしwww
やむなくまた養子に迎えた黒田長元の四男の織田信民は福岡藩の分枝の公称5万石の秋月陣屋からの養子www
織田信雄系直系子孫からしてこんなぼろぼろの家系じゃん。
ただの茶道の先生の長功って柳本陣屋1万石の末裔だろ。
そもそも有楽の家系を信雄の家系が乗っ取った下克上事件だし誇れるもんじゃないだろ…
ただの茶道のおっさんだから、有楽流の後継である長益の茶説もまとめた貞置流すら名乗れないんだろ。
215:人間七七四年
13/10/30 07:45:14.92 bPNpOi1h
現代に織田なんて嫡孫家すらいないのが事実。
いるのは、ただの親族家だけ。
だから織田に~代目当主なんて存在はいない。
216:人間七七四年
13/10/30 08:44:08.98 wVzmHB3G
当代では勝ち目ないから子孫の話に逃げたか菅沼
そりゃありもしない噴火にびびって潰走するのはフォロー出来んかw
217:人間七七四年
13/10/30 11:49:11.79 BoawsQch
>>214
上杉も武田もいまも領民に慕われてるけど
織田って愛知県民からまったく慕われてないよな。
天童市ともケンカ別れしてるしな。
天童の相続も織田家ではなく、相馬・・・・
相馬秀胤が朝日新聞に入社して
織田小星となって日刊アサヒグラフで4コマ漫画の正チャンの冒険の原作者になった人だよな。これ有名。
218:人間七七四年
13/10/30 12:09:54.53 BoawsQch
ちなみに相馬秀胤の父は東京府癲狂院に入れられ家督を乗っ取られた疑惑が生まれた相馬事件で有名な人
219:人間七七四年
13/10/30 12:17:22.61 BoawsQch
上杉や武田や伊達同様に地元で慕われてるしな。
相馬市名誉市民
相馬家32代当主相馬恵胤(日本馬主協会連合会第8代会長)
URLリンク(www.city.soma.fukushima.jp)
220:人間七七四年
13/10/30 13:01:01.56 oyi+gABB
織田信長以外は何の価値もないのがゴミ織田
こんな奴を信奉してるのはオウムか創価
221:人間七七四年
13/10/30 13:18:57.14 sa0pNMDN
>>216
そもそも武田の子孫自体が存在しないしな
嫡系は武田となんの関係もない柳沢吉保の子孫
傍流は本庄繁長の子孫で事実上の乗っ取り
明治天皇からは武田の血が一滴も入っていない柳沢系が武田嫡系認定されるなど
時の日本からどうでもいい扱いを受けているのが武田
山梨民が金儲けのためにワイワイ騒いでるだけで
武田なんて誰一人崇拝していないのが現状
そらそうだ、武田を裏切り外から侵略してきた織田徳川に
頭を垂れて命乞いしたのが今の山梨県民の祖先だし
当主からして武田の血が一滴も入っていない、甲斐源氏をブランド扱いするだけの人間だし
ただの茶番劇に気づかない菅沼遼太は哀れだけど
222:人間七七四年
13/10/30 13:45:33.22 KRGSuJoP
名門出身の守護大名なんて皆衰退期に入ってて次々新興勢力によって倒されてる時代に
名門だとかブランドだとか何の価値もねーよ
腐敗した家臣構成を抱えて崩壊した両上杉がいい例じゃねぇか
223:人間七七四年
13/10/30 13:48:29.21 0dfxKnYb
守護大名は家臣の専横と傀儡化した大名の権力といった腐りきった権力構造抱えてたからな
新興勢力は逆に子飼いの家臣や自分が好きで登用できるような連中一杯持てた時点で有利さが全然違う。
両上杉と北条、大内尼子と毛利なんかがいい例
厳密に言うと在京守護である武田信虎とかは 家臣の掌握なんてまったくできてなかったからね。
しかも在京生活費を甲斐から搾取してるだけだから恨みすら買ってた。同じ在京守護でも越後守護上杉房定などは在京を止めて越後へ帰国し
守護代長尾邦景・実景父子を攻め、邦景は自害させ守護権力を回復させ、息子の上杉顕定を関東管領にし事実上の関東王状態になってるからね。
守護でも現地に滞在してるタイプはまだマシ。 ではなぜ、守護が在京を止めたのかと言うと、これは室町幕府が全国支配を放棄したから。
幕府は公田段銭賦課方式を止めて、一国ごとに百貫を賦課する一国百貫賦課方式へ変更。
これは百貫さえ幕府に納めれば、あとはいらないから好きにしろというもので、
守護による一国支配の可能性を開いたものだった。そこで守護は在京を止めて
権益確保のために任国へ下向する者が現れていった。 そして実質的な支配をして税をネコババしていた守護代と国人の癒着の関係から現地対立が生まれていく。
上杉房定は速攻で守護代を排除して守護による支配を確立。在京守護やってたら尼子や武田がやりたい放題荒らし回って、在京打ち切りするハメになった大内義興。
三管領の一人として在京やってた斯波氏も畿内と任国との距離が遠かったので速攻で崩壊。
と言うか斯波氏は行政府自体を任国に作ってすらいなかった。尾張は織田、越前は朝倉、遠江は今川にやりたい放題され、
最後は今川氏親に斯波義達が捕虜にされ、事実上崩壊。斯波には公銭方や段銭方と言った任国の守護行政府が存在しなかった為、簡単に下克上が出来て国が盗めた。
国人たちが重視する家格の差もあって守護代が守護権力を凌ぐことが出来ず、守護代などが下克上に失敗敗北する長尾為景や斎藤道三や近江国人連合や長尾景春といった東国でよくあった、
いくら家格を上げようと必死になっても結局、権威で守護行政府を上回れず、下克上に失敗することによる困難に直面することが織田や朝倉には無かった。
言わば管領家の守護代が、家格をあげる努力をせずに割と簡単に主を傀儡に出来ることは特質だろう。
畿内近くに任国があるものでさえ、細川には三好、畠山には遊佐などいずれも家格上げ努力などしておらず明らかである。
224:人間七七四年
13/10/30 13:59:22.49 6cQS0cqF
>>221
織田信長はとっくに明治時代に天皇から神にしてもらい
子孫も江戸時代から藩をそれぞれ有し、正一位を追贈してもらっているのに
信玄が追贈されたのは従三位で徳川家臣や豊臣家臣と同レベルっていう・・・
山梨では日常食のほうとうがなぜか信玄の陣中食だと捏造されるなど
お金稼ぎのために武田を持ち出しているのは明白だろうね
武田家の後継もお金入ってくるし、どうせ血のつながりなんてないしそんなもんだよ
血の繋がりがあった信玄の子孫は藩を持たせてもらえるどころか、日本本土から隔離されて伊豆大島に流される有様だしなw
225:人間七七四年
13/10/30 14:09:30.70 J23hNEgP
武田家臣団が有能だったから徳川家に併合されたからだろ。
織田なんて徳川から羨ましいとも思われず吸収されんどころか、
家光が祖父は浅井長政とか言っちゃうレベルだからなw
226:人間七七四年
13/10/30 14:33:27.71 wVzmHB3G
当時の支配を理解していないのが丸出しのレスだな
227:人間七七四年
13/10/30 16:18:34.53 sa0pNMDN
要するに家臣は有能だけど当主が無能だったから併合されたんじゃんw
真田や保科など優秀な家臣は別個に取り立て無能当主は伊豆大島にポイw
当主は取り立てる価値もなかったんだろうな北条ですら再興されたのに
228:人間七七四年
13/10/30 23:34:24.08 WwHxA8Sq
悪神・汚堕乃侮那我
229:人間七七四年
13/10/31 08:46:55.83 YwxXYpHd
信玄が育てあげた武田家臣団は徳川幕府を支える人材として重宝された。
家康が最も可愛がった武田信吉 武田万千代丸&#160;
常陸国水戸25万石に封ぜられ、旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興した。&#160;
慶長8年(1603年)9月11日、生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去した。&#160;
徳川の先陣役譜代筆頭家 実は家康の隠し子? 大政参与 井伊直孝&#160;
1603年慶長8年頃? 井伊谷以来の井伊家の家臣は直勝に、武田氏の遺臣などは彦根藩の直孝に配属された&#160;
大久保長安 慶長18年(1613年)4月25日、卒中のために死去&#160;
武田信正 元和元年(1615年)に伊豆大島に配流され、同島の野増に居を構える。
今信玄と呼ばれ警戒された駿河大納言 徳川忠長&#160;
元和2年(1616年)甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる。&#160;
のち信濃の小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、&#160;
朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され、&#160;
のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。&#160;
寛永元年(1624年)7月には駿河国と遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を領有した。
230:人間七七四年
13/10/31 12:36:48.77 nVFlm2md
外園豊基氏が資料に残る東国の災害をまとめているけど それによると1454~1590までに起きた災害数は
陸奥 197 甲斐 171
武蔵 64
相模 47
上野 42
常陸 38 越後 32 下総 17 出羽 13 伊豆 12 関東 9 下野 6 上総 1
広大+北国の陸奥はともかく甲斐がヤバすぎる
あの信玄も水害対策には苦心した 北条は治水対策まったくやってませんね。
その数字を見ると いかに北条が治水や灌漑をやってこなかったかよくわかるな。
逆に山国の甲斐での信玄の苦悩が信玄堤などの発明になり
江戸幕府でも氾濫防止の治水対策で武田の土木技術を導入したんだな。
明治維新後も改良され続けた武田流技術はフランスの技術導入と並んで引き続き使用されてるし。
武田と違い江戸幕府で採用されたような北条技術がまったくないのは そもそも存在しなかったからだろ。
それに300年かかったと言うのは新田開発目的の大規模土砂埋め立てと
船舶流通大動脈計画としての大規模開削の実行による利根川の付け替えによる水路変更東遷事業であり
しかも幕閣における政治闘争に利用され主導者が失脚し頓挫を繰り返したからだし。
関東郡代伊奈家
武田信玄流の治水技術を修得し、江戸時代初期の治水技術を指して後世、
伊奈流または関東流と称することになった。この治水技術の考え方は、自然の力に逆らわず、
溢れるものは溢れさせ、上手に自然の力を利用して洪水に対処しようとするもので、
堤防を連続させず所々に切れ目を入れて洪水を一時遊水させる霞堤などを作り、
その遊水した水を普段の時は溜井(沼)として利用し、
水田などへの水の水源にするといった治水上「柔」に対応する手法であった。
北条はなにもやらないので技術すら存在せず。
甲斐や越後で天災が起きてる中で、北条は人災で民衆は困窮。
現在では越後や甲斐で天災の記録があるから北条領でも天災があったに違いないという
山地の甲信越と関東平野の違いを考慮せず開き直る。
佐竹の所持した採掘技術ノウハウは凄いもので
秋田へ転封後もわずか4年で院内銀山を発見して江戸期を通じて東洋一の銀山と呼ばれ活況を呈したほど確かなもので、
戦国期において今川、武田、上杉と鉱山開発ノウハウでは劣るものではなかった。
しかし北条ほど技術導入に熱心さを感じられない家は無いな…
北条は伊豆の土肥金山すら開発出来なかったほど無能揃いだからね。
家康が大久保長安が開発を命じたら超ボロ儲けで笑いが止まらなくなったしw
明治からは佐渡に続く日本第二位の産出量だったし。
231:人間七七四年
13/10/31 16:59:55.84 oq2XRcKR
それだけの技術を持ちながら天下どころか東海地方すらまとめ上げられなかった信玄よ
232:人間七七四年
13/11/02 12:37:22.15 Xg4EEtHn
井伊の赤備えこそが、徳川の先陣と神君家康公より許されておる!
例え親藩の水戸徳川家であろうと出過ぎた真似は許しませんぞ!
233:人間七七四年
13/11/06 05:36:22.35 AyVzsSv7
第一期黄金時代て宣教師がもたらしたアマルガム金製錬法の恩恵もでかかったんじゃないの?
234:人間七七四年
13/11/06 11:22:26.86 IE5wfKRE
真田の赤備えと井伊の赤備え
どれも武田の魂だわな。
235:人間七七四年
13/11/08 17:31:52.18 ptOGIbyW
信玄公は偉大だが、勝頼公は伝説
信玄公は医大だが
勝頼公は電設
236:人間七七四年
13/11/08 20:09:15.56 zOXoMAnh
>>223
せめて応仁の乱からの歴史マンガでも読んだら?
活字は理解出来ないだろうけどマンガなら雰囲気でわかるだろ?
237:人間七七四年
13/11/08 20:21:31.06 6h03yx49
>>236
おい織田ちょんせん人よ、涙出てるぞw
238:人間七七四年
13/11/09 03:37:27.28 4nGAY7u5
織田ちょうせんの本拠地を占領してから物言え
239:人間七七四年
13/11/09 09:06:57.16 r+Ssiv08
ケチを付けても根拠は一切、書けずに逃亡するのが織田チョンクオリティw
240:人間七七四年
13/11/09 10:12:31.56 1nGI30jJ
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241:人間七七四年
13/11/09 17:18:56.17 b2tZXl1K
武田勝頼
漢字がなんかかっこいいな
242:人間七七四年
13/11/09 21:47:10.06 ImfGzBOC
信玄の時代は積極的に領土拡大策ができたが、勝頼の時代は領土拡大策がとれなくなった。信玄が亡くなった年に
浅井・朝倉は滅ぼされ、義昭も追放されたからな。信玄が亡くなったあと信長の石高は急激に増大し、武田家と
織田家の経済力は大きく差がついた。
243:人間七七四年
13/11/10 00:13:00.11 8NqACtYr
>>242
明智城や高天神城を勝頼が奪い取ってるのも知らんとは驚き…
しかも貫高に応じて賦課していた上杉や武田や北条は領地を正確に把握していたが、
織田はそんなことをしていない後進途上国なので、
自分の領地すら満足に把握出来ていなかっ
たのが露呈してるのに、
石高で織田の経済力が~なんて比較すら不可能だろ。
石高にしたって上杉や武田や北条の方が賦課を目的にキチンと把握してるのだから。
織田は賦課システムすら無かったから石高をキチンと把握することすら出来ないまま終わった。
つまり織田は内政無視、法による統治無視していたことの現れで、
恣意的略奪がまかり通った搾取集団だったので国家の体を為していなかったのが明らか。
244:人間七七四年
13/11/10 01:43:41.37 dUFe/74/
織田厨は願望妄想をまるで事実のように語るから池沼低脳なんだろうね。
245:人間七七四年
13/11/10 13:10:53.29 F/oQ/Uns
>>242
いや武田の最大領土は勝頼のときだから領土拡大策が取れなかったことは無いぞ、
長篠までは織田・徳川に攻勢に出てるし御館の乱の後は北条の上野領を奪い取っている。
>>243
国家の体を為していなかったのが明らかなのに次々領土を広げているんだから
やられたほうが愚かだったと言う事にはならんか。
246:人間七七四年
13/11/10 13:45:24.51 P+YTiyeI
>>245
そりゃ荒木謀反や石山本願寺などで、
信長が破滅寸前の時に泣きついて天皇に動いてもらったり、
丹波の赤鬼や謙信がタイミングよく死んだり、
浅間山噴火や天才秀吉が備中や伯耆での戦線を有利に動かしていたからだろ。
247:人間七七四年
13/11/10 15:13:40.89 1VwAT1FR
浅間山噴火www
あの豆鉄砲みたいな被害が一切ない大災害ですかwwwww
機を見るに敏で抜群の外交センスだったんだな信長
野田くんだりで余裕の休憩こいてぽっくり言った誰かさんと大違いだw
248:人間七七四年
13/11/10 16:53:30.49 F/oQ/Uns
>>246
織田は相手の弱みにつけ込めるのに、織田にやられたほうは反乱起きまくり
の織田の窮状に全くつけ込めないお馬鹿さんの集まりということだね。
249:人間七七四年
13/11/10 19:43:34.85 oZyaIlNT
いや
だから
結果だけから見てどっちがすぐれてるとかないし
実際はみんな生きるも死ぬも紙一重だったんだろう
250:人間七七四年
13/11/11 09:49:45.11 hRNU/KSj
>>247
群馬の大学教授による重点発掘調査が浅間山東北の麓だけと言う結果だけじゃ意味ねーだろ
信長が浅間山噴火を喜んで火事場泥棒するためにすぐ出陣したのは一次史料で証明されてんのにアホかw
251:人間七七四年
13/11/11 11:52:52.12 ycmIMh1m
>>250
そこ以外はその年代の堆積物はないと静岡大の小山教授が書いてあるのは無視かね?菅沼君
早川氏が調べなかったのも当然なんだよ
だって無駄だから
それとも君は他に堆積物があったという資料でも見つけたのかな?菅沼君
252:人間七七四年
13/11/11 12:21:44.97 G4V9nwQO
>>250
しょうめいw
したのは誰かなー?w
にチャンネルの書き込み、とか言うなよ?w
俺の腹筋が大噴火しちまうわwww
253:人間七七四年
13/11/11 20:57:13.39 otvZg02n
>>251
小山教授の発言はどこにあんの?
254:人間七七四年
13/11/12 12:07:04.39 ALSHMZAc
>>253
逃亡したみたいね。
255:人間七七四年
13/11/12 21:36:40.76 xsXtwTsq
横槍だけど草生やしまくってるやつがキモい。
なんか周りが議論してる中で草生やし君は煽ってるだけにみえるんだが
256:人間七七四年
13/11/12 23:20:28.10 mA6CjZLu
まともに相手するとバカ見るからだろうな
257:人間七七四年
13/11/12 23:54:09.90 ZXTuFooo
気持ちはすごく分かる
ただ、ああいう煽りまくる奴がだがを発狂させたのも確か
(発狂前から迷惑だったので同情はしない)
258:人間七七四年
13/11/16 11:38:14.22 u9kjKDhO
駄菓子は最近こないや
259:人間七七四年
13/11/19 10:05:42.13 yqpf6kL9
スタートダッシュが悪かったのはどっちもどっちかな…
ただ、時間があったのは信玄だった印象。
260:人間七七四年
13/11/23 11:58:53.56 U+3j7ijn
>>255
同感
261:人間七七四年
13/11/24 21:15:40.45 0VJ564oq
kk
262:人間七七四年
13/11/25 15:00:46.96 8nc/OcFB
よお、浅間山大噴火を知って火事場泥棒にいった信長の一次史料って
どれなんだよ?
263:人間七七四年
13/11/25 17:17:31.65 qqP8NIRP
浅間の獄の焼けるは東国の物怪とまで、
興福寺の僧侶は古人の言葉を引用してまで、
物の怪の怒り暴れる姿に恐れを抱いた。
中世における地球の活動から来る天変地異は、
物の怪と解釈されパニックとなったのである。
しかし凶悪極悪犯罪者にとっては、
そこは略奪虐殺三昧の治安崩壊地となるのであった。
天変地異を世界の滅亡と捉え恐れる良民とは実に哀れなものである。
実際に反社会的性向の札付きのワルの織田軍がこの世の終わりを現出させるべく、
考えられる限りの悪逆無道な行為をして回ったのだから。
264:人間七七四年
13/11/25 21:58:42.84 8l6Jaq8J
>>262
立入左京亮入道道隆佐記には浅間山噴火を見た信長について書いている。
信長大吉事云々。即3月5日に信州表に御出馬
はい、信長が火事場泥棒をしようと他国の災害を大喜びしていたのが確定w
先日の東北大震災でみんなが避難した後に、外国人盗難集団が鉄パイプ装備で家々を荒らしまわって
略奪して回った事件を思い出したわ。
北条早雲が駿河大地震で崩壊した伊豆国を襲撃して
組織的抵抗できない堀越公方から国を奪った時と同様に
武田もほとんど組織的抵抗もできずに災害便乗型強盗武力団に領国を荒らされたのだろう 。
265:人間七七四年
13/11/26 12:10:20.32 cwsfmbDX
あ、非常事態宣言がでたって削ってるw
266:人間七七四年
13/11/26 17:22:27.00 MceNQpIL
信濃なら浅間山と関係ないじゃん。浅間山噴火して被害出るのは北条だろうに
267:人間七七四年
13/11/26 20:13:54.18 InR8BgVL
本国を奇襲のように噴火が襲い、指揮系統が麻痺し、
怪異と解釈し民心がパニックになって自壊した。
268:人間七七四年
13/11/27 08:46:57.98 pKKCeUbE
だから義信の腹切らせたあたりで起請文とったのか
内部統制ガタガタだった把握してたんだな
269:人間七七四年
13/11/27 15:18:57.15 KPKeSkWy
天正12年戦役は秀吉が圧倒し押しきった形で終わったからね。
家康信雄連合は、結局のところ秀吉から雀の涙の如き
一寸の地でも奪って意地を見せることすら出来なかった程に一方的だった。
やっぱり家康を天正12年にフルボッコした秀吉が死んだ後の
豊臣家には指導者皆無で求心力がなかったから、
皆が自分勝手やり出し見限られるのは止むを得なかったけど、
別に家康が凄かったわけでも無い。
利家如きにビビってたくらいだしな。
つか家康が恐れた人物なんて逸話を拾うと30人はいるよなw
家康は武断派に騙されて、
急いで西上してきただけで
それ以前はビビって江戸から動かなかったじゃん。
関ヶ原だって井伊とかもいたが、
ほとんど豊臣恩顧が戦ってただけじゃん。
家康は棚ぼたなだけだし
270:人間七七四年
13/11/27 18:13:37.98 KPKeSkWy
天正10年6/23には女房奉書にて勧修寺晴豊と庭田重保の斡旋で顕如と教如を和解させ
天正11年閏1月22には有馬温泉へ顕如は出発してたり、
3日後には秀吉から堺の本願寺屋敷や本願寺坊領を返還されたりと
信長が死ぬや早速、本願寺の復権がなされて自由行動しているんだよな。
それどころか柴田と秀吉の対立から柴田が江北の境目に出陣してきたのを受けて
4/8には秀吉が加賀で一揆を起して賀越が錯乱したら
本願寺に加賀を領地としてやるっていってんだよな。
秀吉がどうやら有馬温泉にいるようで8/22に有馬に顕如は物を送って
9/25にはまた顕如は有馬温泉に行ってる。
このころ、本願寺は上杉や毛利や紀伊根来寺や湯河直春らと贈答をしてる。
信長の敵と本願寺が通牒していたのが判明する。
面白いところでは天正11年3/16に顕如と教如が春日社に詣でようとしたら
興福寺衆徒に妨害されて諦めて帰ってるw
天正12年4/10には家康が協力して秀吉に当たるなら信雄上洛成功の時は大坂返還と共に
信長が加賀を本願寺に返還すると約束していた御判に任せて本願寺に与えると出来もしないカラ約束。
(天正8年7/17に信長が和睦の時に加賀神載起請文を出していたが、約束をシカトしていた)
4/23に北伊勢一揆が勃発するや秀吉の使者の鵜飼八蔵が本願寺を詰問し、
顕如はまったく知らないことなので、北伊勢坊主衆中へ御書を使わす約束をしてる。
また秀吉陣所へも馬樽3荷と使者を送ってる。顕如も戦況を冷静に観察し、劣勢の家康に組みしないことを宣言。
天正13年1/3に顕如が秀吉に使者を送った時は秀吉と人質秀康、誠仁親王にも挨拶してるな。
家康と徳川家臣から人質を取った秀吉は親家康だった紀伊和泉雑賀&長宗我部征伐のため出馬し
4/2には景勝に同じく親徳川の佐々成政討伐のため出馬を約束し、
4/3には紀伊雑賀にいた秀吉の陣所に顕如と教如が陣中見舞いし、
4/10には秀吉がついに金剛峯寺平定し、4/14に紀伊和泉平定と四国征伐宣言を小早川隆景に通知。
4/17には信雄と秀康も雑賀陣に到着。22日に秀吉が大坂へ凱旋しに出立。
4/25に信雄が四国出陣準備を命令。
5/4秀吉が摂津中島渡辺の地を顕如に与えて、顕如の大坂移転と近江末寺門徒による伽藍造営を始め、
本願寺の再興がなされたのであった。そして秀吉の卓越した戦略で家康はあっという間に完全孤立してしまった。
信長があれほど苦戦しまくった紀伊惣国一揆をいとも簡単に制圧してみせたのである。さすが天才である。
271:人間七七四年
13/11/27 18:16:22.35 g/MV2JzC
家康は幕府を開いた
他の戦国大名の叶わぬ夢をやりのけたことは評価しよう
272:人間七七四年
13/11/27 21:34:26.73 GC/9iG0h
ビビり家康は親徳川勢力を攻める秀吉の背後を牽制することも出来なかった程の
実力差を認識していたから、
怖い余りに脱力し見殺しにして裏切っていたからね。
273:人間七七四年
13/11/27 21:56:08.59 qvrsEjtb
小牧長久手の戦いでは家康は小牧方面で陣取っていたが、戦場は小牧長久手だけではなく、伊勢方面まで延びていたのに
そんなの知らないと言わんばかりの無神経さ。無神経というよりビビっていて安全地帯から動くことができなかったんだ
な。
274:人間七七四年
13/11/27 22:11:57.67 P+edf/sM
>>269
無知すぎてワロタwwwww
○長久手合戦の戦死者は1万人以上
4/9織田信雄書状 一万人
4/10家康書状一万人
4/11家康書状一万人
4/13北条氏政・氏直書状1万人
5/2小早川隆景書状一万人余り
5/3織田信雄書状一万五千人
5/7織田信純書状一万人
家忠日記1万五千余り
顕如日記1万人余り
イエズス会年報1万人
フロイス日本史一万人
当代記2万人
池田家履歴略記・兼山記2万人
戦死者池田親子・森長可・木下祐久利ただ兄弟白井藤丸蟹江勘衛門大村定平
佐藤又座衛門鯨藤治今井長可今井長三郎秋田伝十郎生駒半座衛門香西又市
梶田喜八朗吉田甚内川越次郎河合助之丞岡田善衛門今鵜善衛門村岡十内長谷川伝三郎
森鳥八蔵片山喜平次阿部弥一衛門秋田嘉兵衛片桐与三郎梶浦兵七朗竹村小平太
また長久手合戦参加者の家記・家譜・合戦記なども全て1万人かそれ以上としてる
3000人としてるのはない。
アンチ徳川のアホ堀によれば顕如日記のその後の噂では3000人というのが正しいそうだが
文中に書かずに真横に書いてる時点で書き足してるのがミエミエ
ちなみに
家康が諸大名あてではなく身内にあてた書状や敵対勢力の毛利方の書状でも一万人戦死とでており
3000といってるのは顕如日記の「その後の沙汰(噂)」という所のみ
275:人間七七四年
13/11/27 22:12:50.70 iGfNALai
イエズス会年報とかフロイスの日本史とかも秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝を間にうけて事実かのように書いてるけど
そんな秀吉マンセー軍記ですら小牧長久手の秀吉方戦死者は1万人とかいてるからね
秀吉は敗戦後諸大名にあてて負けはしたもののほんのさわりにもならないとか堅固に意思を固め、家康を討伐してやるとか書いてるけど
そんなハッタリを以ってしても覆い隠せないほど小牧長久手の敗戦のダメージは大きかったんだろ。普通に135000対16000なら半月くらいで決着がついてもいい兵力差だからな
京の公家日記とか秀吉の捏造歪曲フィルターをかかった情報とかがそのまま伝わって公家日記に間違った情報がかかれてたりするけど
小牧長久手の敗報は秀吉のハッタリ誇大喧伝をもってしても打ち消せないほど衝撃的だったらしく京で騒動が数日間続き当合戦で1万人以上戦死したとの報が各公家日記に書かれてる
さらに秀吉の同盟者の毛利方の武将の書状にも1万人以上戦死の情報が書かれておりその他も悉く戦死したと伝わってるから秀吉の捏造をもってしても打ち消せないほど長久手の敗戦
の痛手はひどかったんだろうね 何せあの135000の規格外の兵力をもってしてわずか17000ほどの信雄家康と均衡状態どころか浜田長久保蟹江前田下市場神戸など奪回されたりしてるんだから
276:人間七七四年
13/11/27 22:13:52.14 P+edf/sM
秀吉のデタラメハッタリ誇大喧伝
尾張表で過半は存分に任せられ(秀吉の思うように)候⇒実際は犬山城主が伊勢に出ており
留守なのを居留守泥棒的に池田・森が奪っただけ
和泉で根来・雑賀・玉木・湯川その他一揆3万の砦を岸和田船番者が切かかり首5000討ち取り
敵城を残る所なく乗っ取り紀州表まで攻め込んだ⇒3万も集まるはずもなく
しかも紀州一揆はこの後も健在。実際は攻めて来たのを撃退しただけ
伊賀伊勢を平定した⇒戸木も長島も桑名も浜田もしっかり残ってるのに平定w
尾張の過半を平定した⇒まだ北部で足止め。過半はおろか4分の一も制覇できていないw
日付不明
秀吉⇒大御ちさま
加賀の井で池田の弔い合戦で歴々10人ばかり討ち取った⇒死んだのは2人だけwww(家忠日記、細川家記その他合戦参加者の家記・家譜・合戦記)
小坂なんて書状でもしっかり生きてるのが確認できるしそれ以外のやつもほとんど織田信雄分限帳で生きてるのがわかるのにwww
小牧表で10町・15町に陣を張り野戦を挑んだが家康が小牧山から一切出ない
→小牧山は普請も施されていない無防備な陣(三河物語他)
周辺をガチガチに秀吉方砦で固めて野戦するのにこの上ない環境
それで野戦を挑んで1万人戦死して大敗したのに家康が取り合わないって…
付け城を三箇所申し付けた→あれ?あなた4/8丹羽宛で小牧周辺をガチガチに砦普請で囲ったっていってましたね。なぜ今更付け城の話を????
加賀野井城で大将分采女後藤・楠・峰・千草・あげき・小坂・林・加藤・渡辺といった大将分10人討ち取った
→千草・加藤など一部除いて皆生還しています(家忠日記・兼山記・細川家記・織田信雄分限帳など)
伊勢一国平定した→間宮の反撃にあって苦戦し戸木も相変わらず陥落せずw長島・桑名・浜田はいうに及ばず…
4月13日に犬山城を攻め崩した(笑)w→いやはやこれは笑うしかないw3月上旬に留守居兵ろくにいなく、陥落した犬山を4月ってw
家康が小牧に陣を張ったので数度に及び合戦を挑もうとしたが取り合わなかったので仕方なく尾口・羽黒・楽田という3箇所に
付城を築き2万を入れおいた→無防備な小牧山に対して7倍もの圧倒的兵力差を生かして周辺ガチガチに砦で固めて短期決戦挑んだら1万人も戦死者出す大敗。
なのに家康が取り合わなかったから仕方なく砦普請して軍勢をいれおいたって…
加賀の井で大将分10人討ち取り→2人を除いて生き残ってる
尾張東方3郡西方2郡がこちらの物になり、2郡のみ残す所になった→犬山と楽田、加賀の井、奥等西部・北部の一部を攻め取っただけ
で尾張の大部分w これが本当なら防衛どころじゃないw
木曽川を切りかけ長島・清洲辺りを悉く洪水で溢れさせ、侍、土民・百姓まで餓死させ
家康はなすすべなくなる→そんな芸当ができるならマジシャンwギャグがすぎるだろwwしかし秀吉はこれをあたかも真実のように一日今の躰と在ると語るw
9/8秀吉→丹羽、前田 9/9秀吉→あて先不明
信雄御料人・家康総領子、石川実子、織田長益、滝川雄利実子を出し尾張において
懇望してきたが許さなかった→織田信雄の主張によれば間逆で秀吉が懇望してきたが
断ったといってるがどちらが正しい?
11/11織田信雄が懇望してきたので結ばれた 11/13 家康が懇望してきたので同意してやった
9月時点での懇望を断ったのに11月では容認 明らかにデタラメ
277:人間七七四年
13/11/27 22:15:05.20 O/DOptGL
小牧長久手が秀吉圧勝とか馬鹿堀に毒されたアホがまた暴れてるな
135000の大軍の秀吉に長久手で1万人戦死させた後
その後も蟹江前田下市場東駒野河波浜田戸木松ノ木長久保など勝ちまくって
秀吉は会戦当初から寝返りで崩壊状態だった信雄領国を尾張半国すら切り取れず本願寺顕如に必死に取り成し懇願した上に
信雄相手に必死に苅田や放火をやりまくってなんとか和議までこぎつけただけだし
翌年も家康相手に土下座して母と妹を差し出してやっとこさ臣従させただけだし
家康は人質なんて出してないし、秀吉が顕如やら信雄やらに必死に取り成し懇願して
「ワシに従ってくれ~」とばかりに母や妹までも差し出してきたので、やれやれと思った家康は仕方なく応じてやっただけ。
当時の家康なんて木曽小笠原石川水野真田と続け様に離反し、領国の軍事機密露見で
国力差でいっても普通に10倍くらい開きがあるし上杉真田木曽小笠原石川など遠征に協力する諸氏もアホみたいにいて
普通に考えりゃ瞬殺できないとおかしい地力の差があるのに直前まで侵攻計画諸大名に発布してたと思ったら
直前になったら信雄を送って仲介してもらって母や妹まで人質に出して土下座して戦いを避けるとか情けなさすぎる。
278:人間七七四年
13/11/27 22:15:47.77 iz/bCDdG
むしろそのくらいじゃないと説明つかないわな
何せこの後は8倍もの圧倒的兵力差がありながら秀吉はわずか16000程度の雑魚信雄に負けまくるからね
4/10家康→蘆田時直 森・池田など大将分10人余り以下一万余り打ち果たし候
羽柴軍を根切りにする事は眼前、上洛までまですぐだ
4/11秀吉→伊藤・谷ら 大浦城の加勢を命じる
4/12秀吉→秀勝 池尻・大浦・政道の定番・普請を命じる
秀吉→あて先不明 木造表の砦普請を命じる
→伊木・河合・津田・富田・八重羽 今尾・楽田・小口などの普請を命じるなど
完全に持久戦の態勢に入っている
4/12松井→紹安 一戦に池田親子・森・木下兄弟討ち死に、秀次・堀も敗走、その他緒卒は大方打たれ申し候
4/12信雄→吉村氏吉 前日の高洲口で砦三つ追い払い首数多討ち取る旨を賞する
4/18小笠原→犬飼 羽柴軍敗北まで程あるまじく候
4/21信雄→吉村 今尾へ池田輝政に秀吉の軍勢が加わり打ち出し、脇田をせめてきたが剰数多手負い死人が出た
4/23熊谷信直→隆通 去13日羽柴方衆合戦候て数多討ち取られた
播磨三木より元清の注進では羽柴方の衆徒は残さず討ち取られた
5/2信雄→不破広綱 今朝秀次がその表で相働き、数刻戦ったが堅固に防戦して撃退した
5/3信雄→香宗我部 羽柴が大河を越えて犬山まで入ったので討ち取る事は掌の内だったが
美濃に逃げていったので本意を逃した。敵は大利を逃がし逃散した。伊勢・美濃両方で差し合い切り上げるつもりだ
5/3酒井→大槻 当方で出馬し合戦に及び2万余り討ち取った。敵は正体がなく一昨日一日に退散した
5/5蜂須賀正勝 美濃岐阜に納馬した。秀包が長々と在陣、別段変わった様子はない。安国寺・林も今参陣したので
近日討ち入るつもりだ
5/5織田信雄 家康は一昨日先勢本多忠勝に鉄砲衆を連れて荻原まで差しよこされた
5/5家康→小浜・間宮 伊勢の生津・村松で敵を数多討ち取った旨の注進のこと、比類ない事である
各高名の者共この内に申すべく候
5/5 家康→藤方 この表で敵が敗軍し構えを切る所、土手を築く
敵を討ちもらしたのは無念だが方々へ調策を練っているので上洛まで程なくである
5/6 秀吉→小将・南禅寺 近日開陣する予定である
5/7 織田信純→香芸 1日に秀吉が陣所を払い、敗北の体にて退却した
家康は年月を経て在陣せられ、討ち果たすつもりだ
先月9日岩崎口において一戦に及び池田・森その他随一の者共一万余り討ち取った
このほうの本意がなるまで程ない状態である
5/16 本多→蘆田時直 丹波での出兵に対する兵糧支援を述べる
上記のように秀吉は持久戦に入り膠着状態
家康を避けるように木曽川筋の数城を圧倒的大軍でこれみよがしに攻めるばかり
いかに信雄・家康に対して怖がってたかわかる
羽柴秀吉訓戒書でも秀次に対して木下兄弟戦死と残りの連中も戦死して残るものなしで大変不便
これ以上自分の面目を失わせたら手打ちにいたすとか書いて怒りをぶつけてるし
滝川の時といい秀吉が自分に100%責任があるのに部下に押し付けるのはまあいつもの事だが。
こんだけ大軍で信雄・家康を攻められず尾張半分すら切り取れなかったんだから