12/10/18 19:25:34.88 5BaWZdNd
新スレと>>1に八幡大菩薩のご加護がありますように
3:人間七七四年
12/10/18 20:16:06.06 SgVQVLsq
一乙!!!!!!!!!!!
4:人間七七四年
12/10/20 07:34:35.05 AGJlYvYm
>>1おつ!
セブンイレブンへ行って好きなおにぎりをわしに買ってきて良いぞ
5:人間七七四年
12/10/20 12:44:03.97 LeYLfUYG
末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、
「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。
「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。
その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」
―『名将言行録』
6:人間七七四年
12/10/20 13:17:21.96 8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに
7:人間七七四年
12/10/20 13:20:21.23 g2VVUmd0
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな
8:人間七七四年
12/10/20 13:40:39.84 yebQoZPm
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…
9:人間七七四年
12/10/20 14:09:22.78 Nh5KBDq5
石田三成 小名浜に来たりて言う 『この浜、末は大繁盛の地とならん』と
宝暦六年(1756)に、岡小名村の日蓮宗安立寺住職日忍が記した「�集咄」(れんしゅうばなし)と題する、
怪談や昔ばなしを集めた本があった。日忍の自筆本は伝わらず、写本によってその内容を知るだけである。
その別名を岩城名所談ともいう。その中に、小名浜について記した次のような一節がある。
(文中略)古老の言ひ伝えに、天正年中、石田治部少輔此処に来たり、屋の上に登り上下を見渡し、
此浜末は大繁盛の地にならんと言いしとかや、不審なれ。(文中略)
秋田藩家蔵文書にある天正十八年(1590)十月九日付の白土右馬助書状に「石田殿今日平へお着き」文書を
見いだしたことから、なるほど、これなら小名浜に来たとしても無理はないと考えた。さらに、「屋の上に登り」とある箇所は、
屋根に登るいうのは不自然であり、屋は崩し字では臺と紛らわしくなるので、「臺の上」であろうと推定した。(文中略)
小名浜の某寺の寺伝より引用しました。個人サイトなので詳しくは『小名浜 石田三成』で検索すれば出てきます。
公共サイトにもこの出来事について詳しい投稿記事があったので、こちらはリンクしておきます。
いわき地域情報総合サイト『いわきアイアイ』 URLリンク(www.i-iwaki.jp)
豊臣秀吉の奥州検地での出来事のようです。某寺院の開基は嘉吉3年(1443)、岩城下総守・岩城親隆とあり、
当時、小名浜は佐竹義重の三男である岩城貞隆の所領。岩城氏所有の館があったらしいとの記述も見えます。
後年、江戸時代に東回り航路が河村瑞賢により開発され、近隣の『平潟』『中の作』などが発展したそうですが、
近代になってからの小名浜港の発展と重要性は言うまでもありません。石田三成の『慧眼』の程が窺い知れます。
皆さんの地域の歴史や社寺の故事来歴を調べると、有名武将の『ちょっといい話』が埋もれているかも知れませんよ
10:人間七七四年
12/10/20 16:57:10.55 76qgw/5G
ほう
興味深いな
たしかに郷土の寺の書や伝説はいろいろ掘ったら面白そうだ
でも小名浜自体はそんなに有名ではないとは思うがw
いわきのサイトおもしろいなwフラ丼食いたい
11:人間七七四年
12/10/20 19:20:40.21 i8J/WV84
慶長5年(1600年)7月、家康を弾劾する『内府ちがいの条々』が
全国の大名諸侯にばら撒かれたときのこと。
弾劾文を受け取った大名のひとり蜂須賀家政は、
大坂の屋敷で考え事をしていた。
(続きます)
12:人間七七四年
12/10/20 19:25:30.52 i8J/WV84
書き込み規制と忍法帳のおかげで細切れになってしなうなあ。
―嫡男の至鎮は内府の娘を娶ったし、今は内府について会津にいる。
蜂須賀家が内府に組みすると見られているのは間違いない。
―だが、藩主の自分と蜂須賀の兵がこっち(上方)にいるとなると、
いずれ大坂城(西軍)に取り込まれるのは避けられない。
(続きます)
13:人間七七四年
12/10/20 19:28:39.34 i8J/WV84
―そうなったら、たとえその後の戦で内府が勝っても、蜂須賀家やばくね?
―よし、ならば……。
決意した家政は、ある行動に出る……それは別の機会に。
(続きます)
14:人間七七四年
12/10/20 20:02:26.50 AjYzTtHQ
続きマダー?
15:人間七七四年
12/10/20 20:06:50.18 76qgw/5G
連投規制か
16:人間七七四年
12/10/20 20:16:19.91 OjTnBRaU
書き込み制限食らっている人は、少し手間だけどこういう所利用するといいかも
★☆ 書き込めない人のレス代行します 90 ☆★
スレリンク(entrance2板)
シベリア郵便局・416通目【レス代行】
スレリンク(siberia板)
17:人間七七四年
12/10/20 20:58:31.98 BilyWsli
※>>13以降の続きです。
本題はこちら。
上記は史実を元に家政視点で創作したものだが、第三者の視点では
家政の様子を次のように記している。
「殿は、湯漬をたてつづけに三杯おかわりした。
この大変な時にも食欲を失わないとは、なんと豪胆なことか」
どうやら家政さん、考え事は食事中にしていたようで。
これは創作ではなく、蜂須賀家の家譜に記録された本当の話。
竜頭蛇尾なネタで失礼しました。
18:人間七七四年
12/10/20 22:04:37.27 cAR48cti
>>17
創作は勘弁してくれ。
19:人間七七四年
12/10/20 22:21:38.38 EFQoOfEl
信雄の奮戦
小牧・長久手終盤、天正十二年六月
桑名で伊勢戦線を督戦する織田信雄に急報がもたらされた
『蟹江城の前田長定、滝川一益によってご謀反』
清洲城のわずか三里南に存在する蟹江城を謀略により征圧したのは、滝川一益と九鬼嘉隆の水軍
桑名(信雄)と清洲(家康)の連携を遮断するのがその目的だった
「こうしてはおれん。叔父上(有楽)、船団に触れを!」
報に接した信雄は蟹江城と九鬼水軍の連携を遮断すべく奮戦
『大船ニノリカケ敵船ヲ取リ人数討捕候』
と陣頭指揮をとって大いに活躍し、嘉隆らを撃退
一益の蟹江城を孤立させて戦いの勝利に大きく貢献した
家忠日記より、信雄さんの珍しく良い話お話でした
20:人間七七四年
12/10/21 09:18:40.19 2lJiCCqK
ちょくちょくやらかすせいで無能扱いの信雄さんだけど実際は無能ってほどでもないよなあ
21:人間七七四年
12/10/21 09:37:44.12 k3bJAbMk
対抗馬の信孝さんの方がよっぽど
外面は良かったみたいだから無能扱いはされてないが
22:人間七七四年
12/10/21 12:11:59.81 PO9V+c4O
織田信長のほっこりするエピソード
ポルトガルからやって来た宣教師ルイス・フロイスが信長さんに初めて会ったのは、
二条城を作っている工事現場の橋の上でした。
その時、信長さんはこの遠来の異人に
「年齢はいくつか、いつ日本に来たか?ポルトガルから日本までどのくらいの距離か?」
などの質問と共に
「お主の両親はポルトガルでお主に会いたいと思ってはいないのか?」
と聞いています。
つまり「両親は心配してないのか?」と聞いたわけです。
好奇心を満たす質問をする一方で、
相手の肉親を気遣う一面を持っていたのです。
―『マイナビニュース』
URLリンク(news.mynavi.jp)
23:人間七七四年
12/10/21 15:58:25.65 X44o1yK4
石井源左衛門正澄は、原城一番乗りの弥七左衛門正之の次男。
彼はいつも親の名を汚すことのないようにと心がけ勇み立っていた。
綱茂公のお供として歩いていたときのことだが、
綱茂公が源左衛門をみて、
「源左衛門よ、その刀の差しかたはよくないぞ。
柳生流でも嫌っている差しかただ。
わたしの差しかたを見てみよ。
これこそが鍋島加賀守直能から伝授を受けた差しかたぞ。
そもそも落とし差しは抜きにく、えっ?」
そのお言葉が終わらないうちに、源左衛門は刀をさっと抜いてみせ、
「抜けますよ」
と言って鞘におさめた。
綱茂公は苦笑して、
「おまえは粗忽者だな(苦笑)」
と仰りなにごともなく済ませたとのことだ 【葉隠】
24:人間七七四年
12/10/21 16:13:14.42 HNFoQBNy
抜くな抜くなw
25:人間七七四年
12/10/21 17:01:37.76 HbSG4Dh0
ていうかお供だから危険なかんぬき差しでなく落とし差しやってたんじゃ・・
あと周りの人間と鞘当しにくいし
26:人間七七四年
12/10/21 18:40:22.07 zJiiKrmE
えー、お祖父ちゃんと曾お祖父ちゃんは落とし差し派じゃないの?
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
27:人間七七四年
12/10/21 22:45:54.77 BrmEIYHG
南龍公こと徳川頼宣が14歳で初陣した大坂の役で先陣を望むも許されず「14歳の私は、今しかない!」と嘆いたのはここのスレでは有名な話。
この役で同じように先陣を望み許されなかった男がいた。松平忠利である。
松平忠利はかの「家忠日記」で有名な松平家忠の息子で深溝松平5代目当主である。
深溝松平家の当主は2代目好景、3代目伊忠と徳川の重要な合戦で当主が討ち死にして宗家に忠義を示してきた壮烈な家柄である。
忠利は天下分け目の合戦の際の伏見城の合戦で覚悟の討ち死にをした父・家忠の仇討ちを願うも結城秀康に従い、上杉の抑えとして関が原の戦勝を聞いた経緯もあり、大坂の陣では先陣を切望したのは当たり前の事だと思われる。
しかし、大坂の陣でも忠利は先陣を許されるどころか徳川頼宣の補佐を命じられ前線での槍働きを制限されたのである。
これに対し、忠利の実弟、松平忠一が兄の気持ちを代弁するかのように、深溝松平隊にこのように訓辞をした
「大坂方は必ずや打ち破られるであろう。そうすれば天下に戦はなくなる。今もし激を励まさないということであれば、何時することができるであろうか。
しかし、忠利は先鋒を望むもその命は下されない。しかし、自分、忠一は幸いに前線に属する事になった。必ずや先陣を切り、父祖に地下へと会いに行こうぞ。」と。
その言葉どおり忠一は大坂の陣の5月7日の激戦に最前線へ躍り出て、突撃を繰り返し、大坂方を押し返し、騎上にて「我、松平忠一である!」と高らかに名乗り上げ勇戦し、乱戦の中で己の命を散らしていったのである。
享年は26歳であったという。
ソースは深溝松平家菩提寺、本光寺の碑文です。
28:人間七七四年
12/10/21 23:02:51.09 IjcwR6BQ
悶々と生きるより華々しく生きたいよなー
29:人間七七四年
12/10/22 00:35:48.42 uQjn0ZtC
>父祖に地下へと会いに行こうぞ
とか言っちゃうのがなんとも厨二というかボンボンとうか軽い気がする
30:人間七七四年
12/10/22 00:56:21.51 5y4FUJBo
本当に会いに行ったんだから軽くはないだろ
31:人間七七四年
12/10/22 04:50:19.76 ry7XifB+
そもそも隊の訓示だ
司令官の覚悟と父祖もそうだったと忠義の血を示してる
32:人間七七四年
12/10/22 07:33:02.40 tbKKK4Yy
ある戦いで織田信長の先手が敗北し、既に旗本まで危うくなってきた。
この時、信長が「尾藤甚左衛門はいないのか」と家臣に尋ねた。
「三の備えにおります」
「ならば苦しからず」
そう答えた信長は騒ぐ様子もなかった。案の定二の備えも破られたが、
三の備えが受け留めて突き返し、敵は敗れて引き退いた。
―『名将言行録』
甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと?
33:人間七七四年
12/10/22 20:17:42.93 61gAGEIv
>甚左衛門って…甚右衛門知宣のこと
かもしれないね
あの人も九州以後の印象が悪すぎてなぁ…
34:人間七七四年
12/10/23 02:44:08.26 +wLzavZW
細川忠興が明智光秀の邸宅に来ていた時、一人の小姓が縁側を通る際に
目通りするわけでもないのに腰障子の外で手を突き、目通りするかのように
慇懃に拝伏して行った。
忠興が光秀に向かい「あなたの小姓どもは律義なのですね。
目通りもしない障子の外を通るのに、手を突いて拝伏しましたよ」と言うと、
光秀は「それは三宅弥平治(明智光春)でしょう。お呼びになってみなさい」
と言った。そこで例の小姓を呼び名前を尋ねると果たして弥平治だったので、
忠興は殊の外褒め称えた。
―『名将言行録』
35:人間七七四年
12/10/23 03:31:21.63 W0IVo/Fs
障子に穴を開けて覗きこんだのかと勘違いした…
36:人間七七四年
12/10/23 08:52:29.72 XaUH0aOr
そんなことやったら細川さんのとこだと37人目になるだろうなw・・・さすがに義父の家で通常運転する三歳さまじゃないよな?
37:人間七七四年
12/10/23 10:09:56.92 B+L0gJ3G
嫁さん連れてたのか。
38:人間七七四年
12/10/23 20:34:42.53 Ve1gM0j0
忠興センサー恐るべし
39:人間七七四年
12/10/23 22:38:27.01 8Wvg11hp
ある日信長が領内を視察していると
農民が真っ昼間からイビキをかいて寝ていた。
これはケシカランと共の者が農民を叩き起こそうとしたが
信長はそれを咎めて一言
「農民がこうやって寝ていられる世が俺の目指す治世だから」
おぼろげだけど戦国名将一日一言って本からの引用
40:人間七七四年
12/10/23 23:00:25.77 fYEmYUhA
さすがにそれは、後世の信長贔屓って感じしちゃうな
41:人間七七四年
12/10/23 23:38:41.93 8Wvg11hp
信長って弱い者を強い者が保護する事は当然って意識だったんだと思う。
自称弱者は遠慮なく処罰するんだろうけど
42:人間七七四年
12/10/23 23:55:54.47 8tq7n7ZW
真っ昼間に野良やると暑いんだよな…。
43:人間七七四年
12/10/24 00:13:14.03 Z9YXCAEE
農民は寝不足だったのだろうか
44:人間七七四年
12/10/24 00:18:58.30 YZ62xl3q
自称霊能者だかの信長話にも確かそういう話があったなあ
45:人間七七四年
12/10/24 00:50:18.50 6LAD1Fms
肉体労働だと昼飯後の30分ほどの昼寝をするとしないとだと午後の疲労感が違うからなー
46:人間七七四年
12/10/24 01:05:22.33 Ei+gdC1V
黒田忠之とその老臣・栗山利章の間に訴訟があった時、
栗山の言うことに理があるとして黒田家の取り潰しが決まった。
その時、徳川秀忠は「安藤帯刀を呼んで意見を聞け」と言ったので、
老中は帯刀を呼んで彼の考えを聞いてみた。
「理非によって裁決するというのは尋常な時の話です。
君臣父子の間について、どうして理非を論じるべきでしょうか。
栗山の処罰は免れない。
今回、家臣の申すことに理があるからとその君主を罰するのなら、
もしそれがしと紀伊殿の間に訴訟が起きた場合に、
それがしに理があったならば紀伊殿を処罰するのでしょうか」
この帯刀の意見を受けて、いかにもその通りだということで
栗山は処罰され、黒田家は取り潰しを免れた。
―『名将言行録』
47:人間七七四年
12/10/24 14:32:04.50 f+3YfCG7
いい話なのかね?
48:人間七七四年
12/10/24 16:19:18.58 bCZlZRIR
幕府は改易のチャンスなのに、何で改易しなかったんだろうな。
安藤帯刀の言う君臣の関係の前例なんて、どうとでも繕えるだろうに。
49:人間七七四年
12/10/24 20:10:57.23 6d47UOjt
紀州殿を手に余している状態だったんだろ
50:人間七七四年
12/10/24 20:45:34.54 e/aE5nvO
慶長五年九月二十四日出羽国長谷堂城でのこと。この日最上勢と直江兼続率いる上杉勢の戦いは一段と激しかった。
夜遅く、最上側が追撃にあった際、さしてあった総大将義光の指物が抜けないのを鮭延秀綱が気づき回収しようとした。
しかしなかなか固く抜けずに困っていると、義光が女三という法師武者をよこし、回収せよと命令してくる。
秀綱は女三に「この小旗は任せろ。鉄砲の応援を50か100頼む。射撃の合間に引き抜こう」と伝えたが、
応援はまったく来そうになかった。すると今度は義光その人が単騎で駆けつけ、直に回収を指示してきた。
秀綱は「今女三にも申した通り、ともかく鉄砲30騎ばかりでも援軍をください」と返答。
義光が承知して帰るとやっと鉄砲30騎ほどが駆けつけた。
さらに政宗からの援軍らしき二騎が来たので救援を依頼したが、聞こえなかったのかスルー。
ここへ最上衆の安食七兵衛が駆けつけてきたので、両者被弾しつつも鉄砲を撃たせ、なんとか指物回収に成功したのであった。
七兵衛はのちに「長谷堂の手負いは典膳(秀綱のこと)に撃たれたようなものだ」と笑って秀綱に語っていたという。
指物ひとつに命をはる、戦国武士らしいお話。
51:人間七七四年
12/10/24 21:39:39.01 Q0oPhVM0
敵の旗は勝利の象徴だな
西洋でもそう
52:人間七七四年
12/10/24 23:00:14.84 Y+DKVdgM
奪われたら
多聞兵衛「この旗は昨日、貴殿からお預かりしたものであるが、紋が違うゆえ役に立ち申さぬ。
お返しするゆえ、城門まで引き取りに来てくださらぬか?」(城内爆笑)
みたいな事になりかねないしねえ。
53:人間七七四年
12/10/24 23:21:36.69 N595Hho+
指物は長期保存可能なのも良いね
あれ、そういえば最上義光歴史観に直江方の旗が何故か有ったようなw
54:人間七七四年
12/10/24 23:26:38.98 DqXG8z9C
まーくん「なんと間抜けがいるもんだな♪」
55:人間七七四年
12/10/24 23:27:55.67 1tMo3jg4
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
直江「伊達家の旗ならどっさりありますが」
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
政宗「最上弱い、最上弱い」
関が原の三家はじゃんけんみたいだ
56:人間七七四年
12/10/24 23:33:31.44 AFUXoQ1B
乃木将軍が居た堪れない様子で見ておられます
57:人間七七四年
12/10/25 00:23:10.99 PQEWfqae
北条綱成と武田信玄が八幡菩薩の旗を羨ましそうに見ています
58:人間七七四年
12/10/25 00:26:01.46 mWi4GbJz
加藤光泰は初め、斎藤龍興配下の「かつひさ」(姓氏不詳)という人物に仕えて信長と戦ったが、その際に秀吉によって見出され、「かつひさ」の没落後、その臣となる。
彼は男ぶりいかめしく、勇力は人に優れ、度々軍功を顕したので、腰母衣随一の士に選ばれ、武威を異国にまで轟かせていた。
元亀2年、竹中半兵衛らとともに近江の横山砦の守備にあたっていた時、浅井勢が突如襲撃してきた。
敵は多勢であったため、守将たちは城内に敵を引き入れて守る策を採る。
しかしながら光泰は一人槍を取り、城外へと出撃したのだ。
この時、例によって不思議なことを言ったのかどうかまでは記されていないが、兎にも角にも光泰は敵中に突入し、力戦したのである。そして数十人の敵に囲まれ、左の膝口に深手を負う。
最早これまで・・・と思われた時、半兵衛が城門を開いて救援し、彼は九死に一生を得るのだが、歩行不自由となってしまった。
しかし、三木城の戦いの時には、「病人・手負いの者は今回の戦に従軍せず、郷里に留まって農業をし、年貢を納めよ」という秀吉に対し、
「歩行が叶わずとも、田里に残って匹夫とともに居ることなどできません」と言って参戦し、毛利による兵糧搬入を阻止。その後の戦いでも数々の戦功を立てたのである。
59:人間七七四年
12/10/25 00:27:51.38 mWi4GbJz
そんな光泰が、ある時、伏見城において料理を賜わることがあった。
その折、秀吉手ずから引き出物を下されるというので、彼は頂戴するために立ち上がったのだが、いかんせん左足が不自由であったため体勢を崩し、膳をひっくり返して、飯や羹を座上に散乱させてしまった。
秀吉の近臣たちは光泰の無様な様子を見て笑みを浮かべたのだが、秀吉は彼らを見るや怒りをあらわにし、
「光泰の足が不便であるのは、武門にとって崇敬すべきことである。にもかかわらず汝ら、愚かにも笑うとは何事か!」
と、近臣たちを大いに叱り付けたという。
(加藤光泰貞泰軍功記、曹渓院行状記)
60:人間七七四年
12/10/25 11:45:31.58 eA4Cdxs0
>>40
信長はそういう人だ、という認識がないと創作だとして成立しないからねー
実際、障害者を保護した話とか信長には弱者保護のエピは複数ある
61:人間七七四年
12/10/25 12:41:34.88 jCf4mcU/
関ヶ原の戦いの折、松平忠吉は手を負傷し、布で包んで襟にかけて
父の徳川家康の前に出てきた。その様子を見て家康が「下野は手に傷を負ったのか」
と言うと、忠吉は「たいした怪我ではありません」と答えながら座についた。
また井伊直政も鉄砲疵を蒙り、靱に手をかけながら忠吉に付き添って参上した。
直政は忠吉の勲功を報告して「逸物の鷹の子は皆逸物です」と誉め称え、
これに家康は「それは巧みな鷹匠が良い肉色当てをしたからだよ」と答えた。
続けて家康は「お前の傷はどんな具合だ」と言って懸硯から膏薬を取り出して
自ら直政の傷につけてやった。直政は畏まって「今日はそれがしの手より好んで
軍を始めたわけではありません。時分が良くなりましたので守殿と共に手始め
致しました」と言うので、家康はいたく賞美した。
―『徳川実紀』
息子の前でイチャイチャしやがって…
62:人間七七四年
12/10/25 12:51:55.10 jCf4mcU/
>>61
すいません少し訂正します。
×布で包んで
○布で肘を包んで
×勲功を報告して
○勲功の様子を報告して
63:人間七七四年
12/10/25 17:47:00.93 klvTHidc
>>61
家康の薬使ってもだめなら手術しかなかったんだな
64:人間七七四年
12/10/25 17:56:14.00 BUZQaKpv
>>59
蒲生氏郷にも似たような話があったな。
65:人間七七四年
12/10/25 19:15:41.16 v8fctGZt
で宴会のときに脱がして傷を見せて・・・三河武士だと全員脱ぎだして某の傷は!某の傷は!ってなりそうだ
66:人間七七四年
12/10/25 20:00:45.82 h13LrtpK
傷だらけのムキムキ男がいっぱいか
中川しようこ大喜びだなw
67:人間七七四年
12/10/25 20:23:13.50 HCSnjYVE
平八郎「ムキムキでも傷がないのはだめですかそうですか」
68:人間七七四年
12/10/25 21:17:38.87 osVJJnaW
>>61
息子の前でというより諸侯勢揃いの中でイチャイチャしてますから
家康が息子そっちのけで直政に薬を塗っている間
東軍の愉快な仲間達は立ちっ放しで待たされていたという話がどっかに有ったよな
69:人間七七四年
12/10/25 21:36:20.19 OQzYb+gs
>>64
あと福島正則の家来バージョンもあった
なんかテンプレみたいなのがあるのかもしれないな
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
70:人間七七四年
12/10/25 21:53:07.07 7AH9iltL
匿名「病気になってしまったので鼻を隠したら…ううっ涙」
71:人間七七四年
12/10/25 22:57:41.28 NtEXG0w+
長谷堂合戦終結後、城を守り抜いた鮭延秀綱は庄内方面へそのまま転戦し、
横手まで進み小野寺義道の降伏交渉を行うことになった。
そのとき主君義光に手紙を送ったのだが、それに対する義光自筆の返事を彼ははっきりと覚えていた。
「おまえたちの活躍で多くの城を勝ち取ることができ、私は大変喜んでいる。
横手へ送る書状の文面案を志村、里見を呼びにも見せたが、皆は読めなかったぞ。
だが私は、水でも流すようにすらすら読めたのだ。
いやあ、流石におまえの文面案は素晴らしいね。直すところなんかまったくない。
秀綱こそ文武両道だと皆にも話しておいたからな。
これからもミスのないよう、しっかりやるんだぞ」
別にこんなものいちいち言わなくてもいいかもしれんけどと…前置きしつつ、
回想ではしっかり残す秀綱。義光に褒められたのがよほどうれしかったらしい。
ちなみに字が義光にしか読めない=達筆だね、ということらしい。
鮭延秀綱、主君に褒められたちょっといい話である。
(『鮭延越前守聞書』)
72:人間七七四年
12/10/25 23:01:01.52 h13LrtpK
あああのよくある流れたような文字はやっぱ同時代人でも読めない場合あるのね
安心したw
73:人間七七四年
12/10/25 23:17:51.48 dpM0W+KM
得意気そうな雰囲気が伝わってきてかわいいなw
74:人間七七四年
12/10/25 23:28:19.15 PQEWfqae
鮭延(ドヤァ
75:人間七七四年
12/10/26 07:11:39.31 jNLYG0qQ
トルネコとエンドールの王様か
76:人間七七四年
12/10/26 08:17:38.74 wJxlblL8
下手に崩されると読めないよなぁ。
書状類も後世に写し間違いが多発してるし。
77:人間七七四年
12/10/26 10:41:53.61 a+9jzAvD
本人と鮭様しか読めない...。暗号だな。
78:人間七七四年
12/10/26 13:02:44.69 X/xvHu/a
鮭様も読めなかったけど、読めたフリして鮭に丸投げすることで面目を保った悪い話
79:人間七七四年
12/10/26 18:15:40.74 LhmtQg1g
関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いにおいて、
織田秀信の家臣・木造長正は奮戦して負傷し、岐阜近くの民家にいた。
福島正則はこれを聞いて使者を遣わし「今日の戦の怪我が気掛かりだ。
医者を申し付けたほうが良いのではないか」と、長正に伝えさせた。
これを聞いて長正は「厚いご好意は本当にありがたい。
軽傷ですから些かの御心遣いも無用です、とお伝え下さい」と言った。
その後、長正は前田利長に招かれたがこれには応じず、
正則の招きに応じて二万石を与えられた。
―『名将言行録』
80:人間七七四年
12/10/26 20:54:01.46 y2dtVPgs
酒の入ってない市松は本当にできた人だな
…酒さえ入らなければ本当に
81:人間七七四年
12/10/26 21:01:06.60 MCgYhkiG
そういう気配りのストレスを酒でどうにかしてたのかもなw
しかし最上って分限帳だと70万石越えてたのか
公式には57万石だっけ
ナニこれ?脱税?
82:人間七七四年
12/10/26 21:26:48.28 NaMLM/Cn
市松はほんと下の人間に対して面倒見がいいよな。
・・・酒さえ入ってなければの話だが
83:人間七七四年
12/10/26 21:54:37.64 NlwOP3Ki
しかし、酒絡みの失敗がない市松はただの福島左衛門大夫正則ではないだろうか
84:人間七七四年
12/10/26 22:00:27.65 gS9QP7Ba
庄内の鮭が13万石分とれたとか
85:人間七七四年
12/10/26 22:12:13.89 wJxlblL8
名将言行録だと長政じゃないのか
86:人間七七四年
12/10/27 01:26:59.76 kx+WAarq
一見いい話のようだが前田家に仕えた方が...(´・ω・`)
87:人間七七四年
12/10/27 02:43:48.08 mTSUofq/
ある人物が細川忠興の所有していた名物の茶入をいたく気に入り、熱心に頼み込み、遂にその茶入を譲って貰った。
そしてその謝礼として銀千枚と青江の刀を忠興に贈り、それに因み『青江の茶入』と名付け深く愛用した。
忠興を強欲な人物と批判する声もあったのだが、
青江の茶入を譲られた人物はというと、むしろ安すぎると考えていた様で後日改めて銀千枚を贈った。
忠興はこれを辞さずに受け取りつつ、
「我は価(あたい)を重んずるにあらず、人に懇望せらるれば、
其の価を論ぜず、唯義に依って、之を興(あた)ふるのみ。」と語ったという。
この話から、忠興は価格の高低を問う気持ちが無い事に注目するべきである。
茶道美談より
88:人間七七四年
12/10/27 06:23:36.87 6D8Sx0Er
忠興「もっと持って来てもいいのよ?」
89:人間七七四年
12/10/27 07:19:32.27 aEIVsLLX
銀を受け取ることで茶器の価値を高めてあげるよっていうことなら分かるけど、
単に価格の高低を問わないってなら、懇願する人にはタダで上げるのが義なんじゃないのか?
90:人間七七四年
12/10/27 09:03:22.18 YvRJnxfD
忠興さんが変なところで癇癪おこして斬り殺すんじゃないかとよんでてヒヤヒヤした
91:人間七七四年
12/10/27 09:05:31.73 NUAj0tSv
利休七哲の一人でもある三斎様がうっかり
「もっとよこせ」
とか
「そんなにいらないよ」
とか言ったらなかなかに向こうの立場がないからじゃないかなぁ
92:人間七七四年
12/10/27 09:38:59.22 C9fQWpwr
鮭延秀綱は、鮭延城主定綱の子として生まれた。
しかし二歳の時、父と兄・氏綱の争いに乗じた大宝寺義増が鮭延城をのっとってしまう。
父と兄に置き去りにされた秀綱は、そのまま庄内へと連行され、十四歳で大宝寺家に
小姓として出仕することになった。
父と兄は鮭延に戻ることなく没したが、二十一歳になった秀綱は器量を認められ、大宝寺配下の鮭延城主となった。
その翌年、事件は起こった。
かねてより評判の悪かった大宝寺義氏に対し、家老の前森蔵人が謀反を起こす。
前森に反対する者はなく、「もっと早くそうすればよかった」と皆口々に言う始末であった。
このとき秀綱はちょうど正月の挨拶ついでに、義氏のもとにいたのである。
秀綱は義氏の自刃に殉じるべく覚悟をかため、暗く放火された場内を探し回るが、
主君はいっこうに見当たらない。視界が悪いので名乗りつつ進んでいった秀綱は、
名乗ったとたん思いがけぬ目にあった。
「我こそは鮭延源四郎!(秀綱のこと)」
「何!」
敵はなんと、槍を捨てるとしっかりと秀綱を抱きしめてきたのだ!
「おまえは誰なんだ、はなせ!」
「放すもんかよ、おれは中村内記だ」
「あっ、中村のおじちゃん…」
この男中村内記は、まだ幼く実父と引き離された秀綱を、我が子のようにかわいがっていてくれたのであった。
内記は弟・孫八郎とともに秀綱を心配して二日間探し回ったがおらず、
あきらめかけていたところでやっとこうして見つかって喜んでいるのである。
「源四郎よう、あんな運の尽きた屋方に供をしてどうするんだよ。助かろうず」
「あんたたちが助けたくたって、前森はそうは思わないだろ! 後悔するだけなんだからはーなーせー!!」
秀綱は抵抗したが、怪我をして疲れ切ってもいたので兄弟に抱きかかえられて、町屋まで連れて行かれた。
内記が前森にかけあって、助命嘆願をしているにも関わらず秀綱は殺気だっていた。
「よう、源四郎。おまえよく助かったなあ」
「討手か!」
と、昔の仲間が様子を見に来てもこんな調子なので、まわりに誰も近づけないでいた。
孫八郎が、前森からもらった白米と薪を持ってきたところで、
「切腹を命じる奴にこんな日用品届けないよな」とやっと安心し、それから安眠したとのことだ。
命が助かった秀綱は、この数年後最上義光配下となり、八十五の長寿を得るのだがそれはまた別の話。
また軍記や通説では、前森蔵人の謀反は最上義光の謀略ということになっているが、
実際は関与していない模様(ただし義光はこのあと、蔵人を支援することとなる)。
(『鮭延越前守聞書』)
93:人間七七四年
12/10/27 09:47:36.30 KoLg5t1x
>>89
別に打ったわけじゃないから
謝礼を受け取らないというのは非礼にあたるんじゃないかな
なら、追加も受け取れっていう考えもあるけど、
そこまでいくと価値判断みたいになっちゃって嫌ってことかと
94:人間七七四年
12/10/27 11:23:46.73 B8DVTMsL
>>93
バットで茶器をホームランするシーンが浮かんだ
95:人間七七四年
12/10/27 14:18:51.25 ZXiMqwVP
まーくんが打ってゲヒが金で接ぐと
96:人間七七四年
12/10/27 17:01:08.70 pB/LZll6
朝鮮役にて、直茂公が高所から下を眺めると、
鍋島の母袋武者どもが、みな母袋を脱いでくつろいでいた。
直茂公は、
「陣中で物具を脱ぐなど戦場の覚悟が弛んでいるな。
誰かあそこに行って、一番最初に母袋を脱いだ者を見つけてこい。
処分をするから」
とお怒りになられた。
使者が母袋武者どもにそれを伝えると、
「どう申し上げようか・・・」
と、顔を見合わせ困り果てた。
そのとき、小山平五左衛門茂成が、
「直茂さまへ御返答申し上げる。
二十人の母袋武者ども、目と目を合わせ同時に母袋を脱ぎました」
と言った。
使者が戻ってこれを直茂公に伝えると、
「憎い奴らよ。それは平五左衛門の言葉だろう(笑)」
と仰せになった。
小山は竜造寺右馬太夫信門殿の子、
剛の者である 【葉隠】
97:人間七七四年
12/10/27 18:10:14.59 B8DVTMsL
>>96
母袋って・・・母衣の事かな?
98:人間七七四年
12/10/27 18:18:26.15 OtUKmgDC
母衣ってふくらんでないと、防御の役割なくね
じっとしてたら意味ないような
それとも軍服みたいなもんだから着ろと言ったのか
99:人間七七四年
12/10/27 18:20:05.34 OtUKmgDC
軍服の一種だから、制服にしておこう
100:人間七七四年
12/10/27 18:28:49.00 1lZxZ5cJ
東照宮(徳川家康)がその最期を迎えられようとしていた時、秀忠公にこの様にお尋ねになった
「私は今日にも死ぬであろう。私の死後、天下はどうなると心得ているか?」
秀忠はこう答えた
「…父上の死後、天下は乱れると思います。」
その言葉を聞くと家康
「そういう心持ちで居るのなら、もう大丈夫だ(夫れなれば、ざつと済みたり)」
そう、心良さげにうち笑われ
「安心した」
と仰った。
そして次に竹千代君(徳川家光)を御側に召され
「其方は天下の主となる人だ。よく心得られよ、天下は慈悲が第一であるぞ!」
そう仰り、それから間もなくしてご他界されたという。
(武野燭談)
家康の遺言、というお話。
101:人間七七四年
12/10/27 18:42:06.40 pB/LZll6
>>97
今見たけど古語辞典にも母袋では載ってなかったよ。
意味は母衣つけた武者で合ってると思う
>>100
未来は明るいと考える奴と一寸先は闇と考える奴なら、
落ちぶれるのは前者に多いからな
さすが権現さまと2代目
102:人間七七四年
12/10/27 18:47:26.53 6D8Sx0Er
家康親子のコミニュケーションって、通訳とか解説とか通してたんかの。一回聞いただけだとわけ分からんな
103:人間七七四年
12/10/28 00:31:27.45 o3jiBe39
細川越中守忠興が徳川家康の上杉征伐に従軍するとき、大阪に留守として置いた侍の中に、
稲富喜太夫(祐直)という者があった。
忠興の内室(ガラシャ)が大阪で自害した時、留守居であった小笠原少斎以下の士が尽く討ち死にした中、
稲富はその場を落ち延び命生き延びたのを、忠興は殊の外立腹し、捜し出して必ず罪に問うと言っていた。
この事を徳川忠吉が聞き、忠興に直接に会ってこのように言った
「侍の死ぬべき場所を逃げ出したというのは、情けない侍というものであり。あなたの憤りは
尤もだと思います。ですが、稲富を助け置いてほしい。
彼は天下一の鉄砲の名人です。武勇を習うのではなく、鉄砲を習う者のために、命を助けてほしい。
臆病は、稽古によって身につくものではないでしょう?
鉄砲一流の断絶というのは、如何にも残念だと思うのです。」
この言葉に忠興は、「稲富にとってありがたい仰せです」と、彼を赦した。
これによって稲富は武士をやめ一夢と名を改め、稲富流を指南した。
そして彼の発展させた稲富流砲術により、大阪の陣の折、幕府軍の大筒は
大阪城天守の二層目に撃ち入れる事に成功したのだ、との事である。
(武野燭談)
104:人間七七四年
12/10/28 00:47:49.19 6Fr+uPii
鉄砲と大筒じゃ全く別物だろ。。。
105:人間七七四年
12/10/28 01:24:07.44 RaGpenIm
大鉄砲みたいなのを撃つ砲術もあるだろうし
火薬で飛ばすやつの放物線を測る技術なら延長線上じゃないの
106:人間七七四年
12/10/28 01:48:36.72 TRnvXtCj
稲富さんの臆病は天下に認められちゃっているんだな
そこだけ見ればカッコ悪い話
107:人間七七四年
12/10/28 01:49:40.19 Z8d0eTj6
世の中うまく出来てる部分もあるな
窮地でも必要な人材には助け船出す人がいる
108:人間七七四年
12/10/28 04:20:56.30 1TRjSzFU
武勇も臆病も大事にする名将のお話なのかな
109:人間七七四年
12/10/28 12:47:45.50 /qWygdPl
平岩親吉の弟は名を平右衛門といった。ある時、彼は榊原康政と
口論になり、少し傷を負ったところを駆け付けた傍の者に喧嘩を止められた。
この時の親吉は宿老で、康政は若く小身であった。喧嘩の一件を聞いた
親吉は「康政は今は小身だが、才智勇敢にして上の御用に立つであろう
人傑だ。我が弟は人に斬られる程度の者ゆえ、主君の御用には立たずに
禄を費やす者である」と言って、
弟は武道を止めさせて押し込め、康政はしきりに執り成して昇進させた。
果たして康政は天下の英傑と称美され、人は皆親吉の私心のなさに感服した。
―『名将言行録』
110:人間七七四年
12/10/28 15:14:44.99 xPxBhuCu
加藤光泰と石田三成との関係は、文禄の役において極めて険悪なものになっていたが、朝鮮との和談が成立し、諸将の帰国が決まった頃、三成の使者が光泰のもとにやってきた。「和睦のための酒宴を開くので参加してほしい」というのである。
8月26日、光泰はこの酒宴に出向いていった。
「殿!行ってはなりません!毒を盛られますぞ!」と必死で制止する謀臣を、
「わしも、そのような謀があろうことは察しておる。だが、行かぬとなれば武門の瑕瑾となるであろう。毒死は覚悟の上である。」と、振り切って。
果たして、宴席で供された鮒の吸い物に鴆毒が加えられていた。
光泰はその日から苦しみ始め、翌27日、28日には既に危急の状態であった。
しかし、彼は苦しみながらも、一人の男を待ち続けていたのである。
その男・加藤清正は、27日晩、釜山に戻るや否や、即座に駆けつけてくれた。
光泰は彼の来訪を大いに歓び、
「わしは姦人のために、思いもよらず毒殺という目に遭ってしまった。
このことに我が士卒は憤怒し、これから石田の陣所に討ち入ろうとしている。
だが、三成を討ち取ったところで、わしの命が助かるというものではない。
それに、ここは敵地であるし、同士討ちにもなってしまう。決してそんなことをさせてはならぬ。足下は我が士卒を堅くとどめてほしい。
そして、わしが死んだら、わしの諸勢を率いて帰国し、息子・作十郎(貞泰)に引き渡してくれぬか。」
と、懇ろに、最も信頼する盟友に後事を託したのである。
光泰は29日、この世を去る。
その後清正は、遺言どおり光泰の軍勢を率いて帰国し、貞泰に引き渡したという。
(曹渓院行状記)
111:人間七七四年
12/10/28 17:48:59.60 GY+zhnlv
止めようとした部下が謀臣呼ばわりされているのはどういう訳なんだ
112:人間七七四年
12/10/28 17:55:30.10 RKz866HZ
謀臣って言葉自体は悪い意味は含んでないから使い方としては正しい
113:人間七七四年
12/10/28 18:35:47.51 1VEkb9C9
>>98
中に編んだ竹が入って球状になってるのもある
114:人間七七四年
12/10/28 18:35:56.07 QocNS2Vf
某、なにがしのと読んでも意味は通るな
115:人間七七四年
12/10/28 19:15:06.88 xPxBhuCu
>>111
今、原文を見たら「諸臣」になってた。
釜山までは行けないけど、備前へ行ってお茶飲んでくるわ。
116:人間七七四年
12/10/28 19:46:44.46 QocNS2Vf
( ・∀・)つピトフーイ
117:人間七七四年
12/10/28 21:22:53.80 hbstFqpK
上杉と最上が庄内支配をめぐり争っていたころ、鮭延秀綱は三十歳ほどであった。
このとき、庄内に協力者が出たため最上義光は石高のより高い者よりも秀綱を選び、
1500人ほどをつけ庄内に先陣とし派遣した。迎え撃つには本庄繁長勢3000。
打出川を挟み対峙する両軍。渡河地点と中州をめぐり両者ひかず、射撃戦だけで
一日が終わることもあるなど、降着した戦況となった。
数では劣る最上勢は善戦し、自軍は損害がないが敵をひとり出すときもあるなど、
よく持ちこたえていた。
いよいよ繁長が川を渡るかと見え、秀綱は警戒し背後から回りこんで討とうと策を練ったが、
繁長はなぜかそのとき引き返し退陣。ようやく戦も終わるかと思われた。
数が劣るもよく戦った、勝ち戦として報告して最上に報告してもよいかなと秀綱が思っていると、
飛脚が最上から届いた。その内容は、
「山形が大火事で本丸だけ残して、二の町、三の町、侍町、通町、みな焼けてしまった。
もう庄内攻めはできないので、和睦したら急いで引き返してこい」
意外な幕切れである。義光は国元への手紙で火の用心をさとしていたり、
山形の植木市も火事がきっかけとされているが、これで大火事が裏付けられたというわけだ。
のちに、
繁長「そういえば昔、庄内の北目で川を渡り敵を倒そうとしたのに、敵がつけてまわり、
こちらの背後をついてきそうなので結局川を渡れないことがあった。
あのときの最上方は誰だったのだろう?」
某「あれは鮭延秀綱です」
繁長「おお、なるほど! かねてより聞いていたあの名高い武将鮭延か…」
という会話があったとか。さすが繁長、敵を褒めるのを忘れない。
そしてさりげなく自慢を忘れない鮭延であった。
(『鮭延越前守聞書』)
118:人間七七四年
12/10/29 07:12:35.02 FBgcykdN
天正18年(1590)、関東では豊臣秀吉による小田原の役が進行しているころ、奥州において津軽三郡を確保した
津軽為信は焦っていた
「いち早く秀吉公の前に参礼し、御朱印を申し請け津軽三郡の支配を確立せねばならない!
とにかく南部に先を越されては大変である!」
そう言って準備を急いでいた所、為信の老母が、為信が津軽を離れることへの不安を言ってきた
「お前がここを留守にして小田原に行けば、そのあとにどんな異変が起こるか計り知れない。」
この時期の津軽為信の支配は、それだけ不安定だったのである。
「そこで、お前は国に残って仕置をしなさい。私は女の身ではありますが、小田原へ馳せ参り、所領安堵の
御朱印を申し請けるのに問題はないはずです!」
そう、驚く為信を構わず早々に津軽を出立し、相模に赴き秀吉と対面。当主為信に変わり母である自分が
参上したことなど言上すると、秀吉も女性の身で遠くここまで旅してきたことに強く感銘を受け、難なく御朱印を下した。
老母はこれを大いに喜び、急いで本国へと戻り御朱印を為信に渡した。
(天正南部軍記)
津軽為信のお母さん頑張る、というお話。
119:人間七七四年
12/10/29 10:47:12.17 zgHQK22q
母ちゃん凄いな
120:人間七七四年
12/10/29 10:53:37.83 MfZcRhng
東北女の行動力には驚かされる
121:人間七七四年
12/10/29 10:57:13.47 J+fb6Xd7
自分は城でのんきに過ごして自分の老母を関東まで往復させるとは…
津軽の人間は本当に酷いな
122:人間七七四年
12/10/29 11:01:17.72 mO4B+NMB
>>121
ものは書きようとはいえ、
これは酷いw
123:人間七七四年
12/10/29 11:15:39.35 mCiLTF6I
義姫も毒を盛らずにみずから出向けば丸く収まったのか
124:人間七七四年
12/10/29 11:35:02.90 YWgZj1p7
んまぁ、自ら小田原による見参したというのが定説だけどね。
125:人間七七四年
12/10/29 11:41:44.16 l56Iow4O
>>121
信直さん乙
為信が40歳くらいだから60歳とかそんくらいかな?
今ならともかく、当時の津軽から、しかも女性だからなーそりゃーラスボスも感嘆するわ。
126:人間七七四年
12/10/29 12:35:04.59 urNB5sC+
>>121
恋慕した女の旦那は殺すし、拒否した女も殺す悪党だからな
そういや、石川を殺るときも城下の屋敷に押し入って南部方の女性を○姦させたりしてたっけな
127:人間七七四年
12/10/29 13:19:44.63 tsfL8j/u
あるとき、武田の者たちが敵方を見下す悪口で盛り上がっていた。
そこに偶然通りかかった武田信繁は、
「敵方に屈辱を与えることは、敵を奮起させることと同じである」
と深くこれを戒めた。
またあるとき戦場で武田兵が苦戦を強いられ劣勢となることがあった。
武田陣には、今回は勝てないだろうといち早く撤退することしか頭にない者、
あるいは、ここを死に場所と決め、捨て身の突撃を直訴する者と、
ふた通りの考えが溢れ、いずれの策も状況に対しての良策とはいえず、
武田の陣には暗い空気のみが漂っていた。
そこで武田信繁は、
「負け戦になりそうな時こそ慌てうろたえてはならぬ。
劣勢のときこそ、敵に対して侮蔑の思いを抱くべきであろう。
『穀梁伝』にある、
善陣はむやみに戦わず、善戦はやたらに死なず
という言葉をよくよく考えてみるべきである」
と諭したという
128:人間七七四年
12/10/29 13:51:08.25 2PVkJ/7y
武田信繁が長生きしてたら武田家の未来は変わってたな
129:人間七七四年
12/10/29 14:12:07.78 38HGUZFm
弟が優秀だと躍進してる大名多いもんな
130:人間七七四年
12/10/29 14:40:44.53 MfZcRhng
弟を追い落として躍進してる大名も多けどな
政宗とか、最上義光とか、大友宗麟とか、毛利元就とか、織田信長とか
131:人間七七四年
12/10/29 14:43:01.13 mxWEqU8G
弟が優秀かつ仲がいいのが条件だね
弟が優秀で仲が悪いと…
132:人間七七四年
12/10/29 14:55:00.79 V2+EHM7S
信玄じゃなくて信繁が家督を継いでいたら武田家は滅びなかったかもな。
133:人間七七四年
12/10/29 15:17:07.48 vdmzKBjL
>>118
そういや秀吉もマザコンだっけ?
そら老母が必死こいて来たら邪険にはしないだろうな。
134:人間七七四年
12/10/29 15:53:35.99 ts+9MPcb
有楽斎「そんなに褒めるなよ」
135:人間七七四年
12/10/29 15:57:46.86 mCiLTF6I
三成と正澄は逆のパターン?
136:人間七七四年
12/10/29 17:19:53.02 wxR127tI
明智光秀の家臣・野々口丹波は山中幸盛の旅館に来て「陪臣の身で
申すのは恐れ入りますが、貴方が私のあばら屋に御来訪して下されば、
どれほど幸せなことでしょう」と言った。
幸盛は「私には分に過ぎたことです。きっと参りましょう」と約束した。
このようなところに光秀が「今日は風呂を用意しているから来られよ」と
言ってきたので、
幸盛は「後家来の野々口と先約いたしまして」と打ち笑った。
光秀も共に笑って「これで山中をもてなせ」と野々口に雁一羽と鮭一尾を
与えた。
―『名将言行録』
137:人間七七四年
12/10/29 18:53:32.86 wxR127tI
>>136
ちょっと訂正。
×きっと参りましょう
○参りますとも
138:人間七七四年
12/10/29 19:30:08.41 XcVku1Kq
秀吉への初めてのお目見えを控えた加藤貞泰は、伏見城内で途方にくれていた。
彼にとって初めての殿中であったし、また若輩であったものだから、城内で大いに迷ってしまったのだ。
貞泰はなぜこんな事態に陥ったのか?それは、彼を御前へ誘引してくれる者が誰もいなかったからである。
大事なことなので何度となく繰り返すが、彼の父・加藤光泰と石田三成は不和であり、旗本の諸臣は皆、三成にへつらっていたのだ。
しかしその時、山本嘉兵衛尚則という人物が貞泰を見つけ、自ら供を申し出てくれたうえ、お目見えの式を整えてくれた。
貞泰はこの時の恩をずっと忘れず、後年、大坂落城で山本尚則が没落した時には、手を差し伸べ、家中に招いたのである。
尚則は「老齢であるから」と辞退したのだが、貞泰は彼に隠居料を与えるとともに、その子・三郎兵衛則兼を臣下にしたという。
(加藤光泰貞泰軍功記)
139:人間七七四年
12/10/29 19:38:22.62 38HGUZFm
>>138
なんだか久々に純粋に良い話だな
有名な人はなんだか裏がありそうだけど。
140:人間七七四年
12/10/29 19:47:54.90 sJa/mzJc
親切はしとくもんだね!
141:人間七七四年
12/10/29 20:33:22.90 UOfu71bB
家督を継いだのが14歳ということなので、そのあたりの出来事として、純粋にありがたく思ったのかも。
142:人間七七四年
12/10/29 20:41:11.19 lrjK18kf
迷ったのは事実だが、それを三成のせいにした様に見えるのはきっと気のせい
143:人間七七四年
12/10/29 21:44:45.14 B4hZUQSB
14歳でぼっちか・・・
おいやめろ
144:人間七七四年
12/10/29 22:27:38.00 +skKrbQG
親父がアレで息子がぼっちとか目頭が熱くなるな
145:人間七七四年
12/10/30 01:08:55.25 UbAfimao
つーかこの手の無理やり三成を悪者として登場させて
踏み台にしてる系のいい話ってなんか感じ悪くて嫌いだわー。
書いた奴の魂胆が見え隠れするっていうか
146:人間七七四年
12/10/30 04:37:37.04 5yKyYGl+
「鳴かぬならそれでいいじゃんホトトギス」
by織田信成
147:人間七七四年
12/10/30 06:58:50.77 5zL6fSPa
天正十二年六月十二日、政宗くんのおじさんへのあたたかい気遣い。
「おじさんが白鳥(十郎永久)と氏家(詳細不明)を倒した時、内心大丈夫かなって心配してたんです。
鉄砲を応援に送ろうかと思ったけど、無事解決したとのことでほっとしてます。
小斎に出陣したとき何度か応援してもらってうれしかったことが、ぼくは忘れられません。
おじさんが天童と争っているときは、援軍出したかったけどぼくはまだ家督ついでいないので、
どうしようかと思っているうちにのびのびになってしまいました。
お互い親戚同士だから、これからもなかよくして遠慮とかしないようにしましょうね」
と、まだ仲がよかったころの心温まる交流を感じさせるが、
もうひとつひっかかる点がある。
文面から察するに義光が白鳥長久を軍記にあるようにあっさりと倒せたわけではなく、
氏家某をまきこんでなかなか大変なものだったらしい。
また少なくともこの計画は伊達家も知っていたようである。
(「山形殿宛政宗書状」、兵庫県立博物館所蔵)
148:人間七七四年
12/10/30 07:48:58.79 xM9bR/1I
心温まる交流ってか生温かい交流みたいな…
149:人間七七四年
12/10/30 08:01:14.08 8UAPlg+1
氏家って最上家臣なんじゃ・・・
150:人間七七四年
12/10/30 08:20:48.26 MmsQmBNf
謀殺の計画は前から知ってたという脅しということなら悪い話に・
151:人間七七四年
12/10/30 16:08:37.61 UPwYGmX+
>>127
一方、信繁(真田)は前田隊に罵詈雑言を浴びせて大勝利を
得たのでした。
152:人間七七四年
12/10/30 16:54:35.09 PBrR4TrQ
武田信繁も戦のこととなると荒々しい逸話あるからな
信玄名代として実際の軍事指揮権は信繁にあったなんて説もあるし
ただの善人文弱武将ではない
153:人間七七四年
12/10/30 17:46:10.00 Rgn5Goix
上坂すみれ認証済み ?@Uesakasumire
浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…Lady go!!をお聴きくださった方々ありがとうごさいました!
浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…浜松町は港区…ネスサン…ネスサンネスサン
ネスサン…浜松町は港区…浜松町は港区…
URLリンク(twitter.com)
154:人間七七四年
12/10/30 17:46:42.73 Rgn5Goix
すまない、誤爆した
155:人間七七四年
12/10/30 18:25:24.05 fajNRXBU
>>136
両者にも幸せそうな時期があって良かった
156:人間七七四年
12/10/30 19:01:32.16 427EBqPV
>>22
気遣いというよりはもっとドライな、異人の人情ってどんなもんなんだろ、ぐらいの客観的な興味で
聞いただけじゃないのかな、信長ってそんな人っぽい
157:人間七七四年
12/10/30 19:47:16.72 PBrR4TrQ
イエズス会はカトリックの中でも捨て身の殉教精鋭隊みたいなものだしな
信長は布教のために身ひとつで極東までくる精神性を気にいったんだと思う
信長は基本、秩序制御タイプだけど、
森武蔵みたいな徹底した人間(なんらかの有能さ必須)を好む面もあるから
158:人間七七四年
12/10/30 20:24:38.88 kZZO2kLz
忠興のことも気に入ってたみたいだし
目に狂気が宿ってるくらいの人間が好みだったんだろうな
159:人間七七四年
12/10/31 00:05:35.52 9VCDBAR3
>>138
ひとつ疑問なんだが、普通に父親の代からの家臣に案内させる事は出来なかったんかな?
家老クラスなら一人くらい伏見城内に入れる奴がいてもおかしくないと思うんだが。
160:人間七七四年
12/10/31 05:57:07.31 Gt6CSFOR
遥か異国から宗教的使命感で海越えてきた宣教師と、戦国時代の比叡山の坊主なら、
キリスト教と仏教の優劣でなくて、
人間的魅力や深さで勝てなかったろうな戦国時代の叡山坊主
平安末期~鎌倉時代の南都北嶺のエリートたちより、
そこから追放された法然、親鸞、道元のほうが結果支持されたのも同じ理由と思う
161:人間七七四年
12/10/31 11:34:07.98 r8LWN2dk
酒池肉林
近所の農家から税と称して略奪
娘さんをさらう
まあ好かれる要素がないな
162:人間七七四年
12/10/31 13:53:40.46 P7qFpMJ/
前に、当時の比叡山は日本で一番学識が高かったってのを聞いたんだけど本当なの?
163:人間七七四年
12/10/31 14:25:15.01 r8LWN2dk
学識、というか仏教や古典のうんちくには詳しかった。
教えるのに金をとった。
免許としょうして単位認定するごとに金をとった。
かねかねかね、の比叡さん
164:人間七七四年
12/10/31 14:37:53.73 P7qFpMJ/
そうなのか。ありがとう
165:人間七七四年
12/10/31 15:12:30.16 d947jVuo
>>161
お侍ってこえー
166:人間七七四年
12/10/31 17:50:17.56 yGJ+uyil
教皇アレクサンデル6世「まったく、偶像崇拝の異教徒どもは聖職者でさえ物欲、色欲に目がなくて困る。
わがカトリックとは大違いだ」
167:人間七七四年
12/10/31 18:05:43.77 UP59fumM
大量虐殺魔信長
168:人間七七四年
12/10/31 18:43:38.35 Gt6CSFOR
イエズス会「そいつ海賊出身者だよ!」
三浦按針「オマエらだって教皇がバックの戦闘集団じゃねーか」
古今東西、立身を争う口喧嘩はこのパターンになるな
169:人間七七四年
12/10/31 19:37:38.43 rupB6Urn
>>165
節子、それお侍ちゃうと思うで。
170:人間七七四年
12/10/31 20:12:03.40 Hy/vmaIW
最上家改易後、古河酒井家預かりの身となった鮭延秀綱。
そこへある日、見知らぬ客人が尋ねてきた。
「越前どの、私は内豆民部の子です」
「さてどなたでしょう?」
「私は父があなたさまに割られた兜を保管しておりますよ」
「おお、それではあのときの…」
内豆民部とは、慶長六年の庄内攻めのときに秀綱が戦い、確かに兜を割った相手
であった。
民部はほどなく病死したが、そのときの話を息子に語り継いでいたのであろう。
これは庄内酒井家中では、わりと有名な話ではないだろうか。
以前江戸で、酒井家の高力但馬守が知っていると語っていたのを私は聞いたぞ、
と秀綱は付け加えた。
ちなみにこうした逸話が記録された『鮭延越前守聞書』は、秀綱本人の希望によって
娘婿の家臣・岡野九郎左衛門がかきとめ秀綱の十三回忌にまとめたものであり、
鮭延寺から古河早川家に伝わったものである。
なおこの記録は秀綱三十九歳までしか残されておらず、改易については一切記載
がない。
171:人間七七四年
12/10/31 21:09:59.95 9VCDBAR3
最近、鮭延さんフィーバー状態だなこのスレw
172:人間七七四年
12/10/31 22:11:22.22 K68WsBuF
島津義弘と膝跪栗毛
元亀3年(1572年)、薩摩の島津と日向の伊東が戦った『木崎原(きさきばる)の戦い』でのこと。
この合戦の前、島津勢の指揮官、島津義弘はある夢を見た。自分の乗っていた馬が
足を折ってしまうという夢だった。
夢の内容を菊一という盲目の僧に占わせると、それは次の合戦に島津が勝つという
お告げであるという。
馬が足を折ったなら当然馬から降りなければならない。
↓
馬を降りるということは歩くことになる。
↓
歩くこと、すなわち「徒歩(かち)」なので「勝ち」
なのだと。
(続く)
173:人間七七四年
12/10/31 22:11:55.45 K68WsBuF
そして木崎原の戦い本番。ダジャレ、もといお告げが当たったのか、戦いは島津の勝利となった。
義弘が戦場を馬で回っていると、敗走する伊東勢の中で殿軍をつとめる騎馬武者が
目にとまった。
「我は島津兵庫頭なり! いざ勝負せよ!」
と大音声で呼ばわれば騎馬武者も名乗り返し、
「総大将御自らとは光栄! 柚木崎丹後守、参る!」
馬を駆って向かってきた。柚木崎(ゆきさき)丹後守正家は日向柚木崎城の城主で、
伊東勢の大将のひとりである。
義弘と丹後守は二度三度と槍を合わせるも、丹後守が馬から落ちて地面に転がる。
こうした場合、本人が馬から下りて討つか、徒歩で付き従う家臣郎党が討つのだが、
このとき主人の意を真っ先に察したのは義弘の乗馬だった。
この馬が前足の膝を折り曲げて地面につけたのである。義弘は槍を下に向けて突き、
みごと丹後守を討ち取った。
義弘は夢のお告げを正夢にしたこの馬を「膝衝栗毛(ひざつきくりげ)」と命名し、
非常に大切にした。
『名将言行録』によれば、義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
臨んだという。
膝衝栗毛は馬としては非常に長命の86歳まで生き、鹿児島県姶良市の亀泉院跡に墓が残されている。
加藤清正の帝釈栗毛、鬼武蔵の百段にも劣らぬ、島津義弘の愛馬のお話。
174:人間七七四年
12/10/31 23:02:51.53 j2nN844m
小牧長久手の戦い時、井伊直政は高木清秀に取り縋って泣いた。
「今日の合戦は多分私は功名を立てられないでしょう」
清秀はそんな直政を慰めた。
「いやそのような事はない。やがて手にあいなさる」
開戦前には家康が直政の陣へ行き直政の手を取り別れを告げた。
「これにてさらばだ」
「そのようになりましょう」と直政が応えた。
これを聞いた直政の家来で老功の者が直政を諌めた。
「あのように弱き御挨拶をお返しなさるとはどういうおつもりか」
直政は応えた。
「左様にても殿があのように仰せられたのだ」
(『武功雑記』巻十三、巻四)
そして開戦後の直政
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
戦後、上方の武将たちから「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになる。
175:人間七七四年
12/10/31 23:12:18.05 kN4VqeVH
>>173
馬だったら、超長命でも40歳くらい?実は象だったんじゃ?w
176:人間七七四年
12/11/01 00:04:53.06 g5WrITFm
実はその馬お兄ちゃんが中に入ってたんじゃね?
177:人間七七四年
12/11/01 00:26:10.06 HK1rZBM2
>>171
鮭延ならぬ鮭述べ状態だな
178:人間七七四年
12/11/01 01:00:19.97 +VLFSbrt
>>175
かの三冠馬シンザンが日本の軽種馬の最高齢記録を保持していたけど、
それでも満35歳。40歳なんてまずありえんと言い切っていいレベル。
ましてや80歳以上だなんて…
179:人間七七四年
12/11/01 01:39:47.49 504Z1GA8
この手の図抜けた長命の動物の話って、単なるホラ話というよりは、
事情を知らない一般人が二代目や三代目の死亡年から逆算した勘違いでは。
そんなに縁起のいい馬なら、繁殖させたりもするだろうし、
二代目三代目が居ても不思議じゃない気がするけどね。
180:人間七七四年
12/11/01 02:02:03.47 c293RWN0
あるいは暦で示されててちょうど60年分勘違いしてるかもな
26歳なら普通すぎるかw
181:人間七七四年
12/11/01 02:42:28.49 YrMp6V1+
なんかの脱字か何かじゃないかな?
182:人間七七四年
12/11/01 03:45:36.73 aDa6Tlf6
>>175
鬼武蔵さんの愛馬も相当長生きだったよね
183:人間七七四年
12/11/01 04:29:58.01 eL3tFQLr
膝衝栗毛ハ十六歳マデ生キマシタ。
184:人間七七四年
12/11/01 05:02:34.41 tLEBvDln
>>174
鍋島直茂曰く桜よりも美しいのが井伊直政と加藤嘉明の侍ぶり
185:人間七七四年
12/11/01 07:14:48.49 yw6I4FDg
権現様やパパにゃんの相当な覚悟が覗える会話だな
それにしても高木のオヤジに取りすがって涙する万千代が愛くるしいw
結果、アレなのが見事なコントラストになってるわ
186:172-173
12/11/01 08:26:31.27 DKgNWerh
ひとつ書き忘れ。
記録によると膝衝栗毛は牝馬(メス)だったようで。
戦のたびに駆り出されてると、繁殖はできなかったんじゃないかなあ。
義弘お兄ちゃん動物にもモテモテというお話。
187:人間七七四年
12/11/01 14:31:09.77 gJQfI2k2
>義弘は生涯52回の戦いのうち20回余りをこの膝衝栗毛に跨って
乗ってない時は馬が産休入ってたからかもよw
188:人間七七四年
12/11/01 15:16:34.08 504Z1GA8
そうだな
「出産前後くらいは日頃の感謝をこめて・・・サンキュー」とか言ってたかもな
189:人間七七四年
12/11/01 15:30:00.19 V46KQ4t9
>>188
発音的にはテンキューではないかと武田左馬助様が申しております
190:人間七七四年
12/11/01 18:04:05.68 6oT7Wwu3
今川氏真は武田信玄に国を奪われ、掛川城に逃げ込んだが、徳川軍の威によって
城を開けて小田原へ退去した。この時、徳川家は松平家忠に海路を護送させたので
今川の士はもちろん北条の者もまた「徳川殿は情ある大将だ」と感銘を受けた。
その後、氏真は小田原を離れて京摂を徘徊し、後に徳川家を頼り寄食する。
この話を聞いた者たちは「氏真は義も恥も知らぬ鉄面皮だ」と爪弾きにして笑ったが、
家康は義元の旧好を思って氏真の不幸を哀れに感じ、始終扶助して後には五百石を
与えて老を養い、その孫・直房、二男・高久を家臣とした。高家に今川、品川というのは
この末裔である。
家康はいつも上洛のために桶狭間を過ぎるたび、義元の墳墓の前では輿を下りた。
御供の輩はいずれもその厚義を感じて落涙した。
また氏真が客寓していた頃、いつも家康の御座近くに参る時にも、
昔を忘れずに氏真を厚く礼遇したことは見る者を感じさせた。
―『徳川実紀(三河記、古老物語、前橋聞書)』
191:人間七七四年
12/11/01 18:17:51.99 c293RWN0
人質とはいえ大切にはされたから恩義感じてたのか
192:人間七七四年
12/11/01 18:49:08.24 VoYP7FWq
孕石と氏真、どこで差が(ry
氏真は奥さんといい、周りの人に恵まれてる気がする
人を惹きつけるような人柄だったんだろうか
193:人間七七四年
12/11/01 19:41:41.50 jLOHci8a
人は嫌な思い出があった場所には近寄りたがらず、
いい思い出があった場所に戻って行きたがるらしい
家康にとってもちろん苦労はあっただろうけど、良い日々だったんだろうな
194:1/2
12/11/01 19:55:23.63 wa9MXoK4
徳川家康の新参の家臣に神谷与七郎と言う者がいた。
ある時この神谷が城中で、当時徳川秀忠の老中であった酒井雅楽頭忠世と行きあった。
神谷はすぐに脇によって「キリッ」と礼をしたのだが、その時酒井忠世は考え事をしていたのか、
神谷に全く気が付かず通りすぎてしまった。
スルーされた神谷の心に、暗い焔が灯った
それからというものの、神谷は酒井忠世に出会うたびに無礼慮外を度々繰り返した。小学生かお前は。
ともかくこの神谷の忠世に対する人もなげな振る舞いはよほど話題になったらしく、ついに
家康の耳にまで達した。
「秀忠の重臣に対してなんという振る舞いだ!神谷には暇を出そう!」
そう言ったが、内々に神谷の行状を聞いてみると、彼は人品能く、殊更に奉公を第一に勤めている、
忠世の件がなければ武士の鏡のような男であった。
「ああいった者こそ才能を確かめつつ能く召し使われるべきなのに、ゆえなくお暇を賜るような
事をすれば、御家の諸奉公人たちはどう思うでしょう?我が身を省みて、御家に対し疑いを抱くのでは
ありませんか?
それに雅楽頭(忠世)のせいで神谷があの様なことになった、などと言われては、あの正直至極な
雅楽頭に悪名を付けてしまいます!
しかし、だからといってこのまま放置しおいては御家老の威厳が薄くなり、御家風も軽くなってしまいます。
さて、どうしましょう?」
近臣の者達、結局家康に丸投げする。『相変わらずウチの家中はめんどくさいなあ』と家康は思ったかどうか。
しかしこういう面倒くさい人間を扱わせることに関しては家康はベテランである。
ナイスアイデアを思いついた
「そうだ!今度神谷に知行の折紙(認定証)を与える時、かねてからの約束よりも少し少なめにして
渡そう。神谷はこれまでの情報を総合すると堪え性のない人間だ。ならばその様な目に合えば
きっと自分から暇を願い出るだろう。その場合他の奉公人へも影響を与えなくてすむ。
それにこれで雅楽頭が不評を被る事も無いだろう。よし、これだ!」
そういって家康は、かねての約束が千石の所を、八百石の折紙を用意し一両日中に
神谷に渡す準備を整えた。
と、これを聞きつけやってきたのが酒井忠世である。彼は家康の御前に出ると
「神谷に知行の折紙を下されるという話を聞きました。あの者は殊の外良き奉公人です。
一廉御用にも立つ者でありますから、たしかあの者への知行のお約束は千石でしたが、それよりも
多く与える事こそ然るべきと考えます!」
『またややこしい事に…』家康はきっとそう思っただろう
195:2/2
12/11/01 19:56:18.18 wa9MXoK4
「いやまて、あの者は殊の外な慮外者であると聞いておる。だから八百石の折紙を既に用意したのだ。」
忠世、これを聞いて怒った
「それは以ての外のお考えです!!
あの者にそんな事をしたら、今後良き奉公人が、どうして御家に仕えることを望むでしょうか!?
ああ言う者をいかにも厚遇してこそ、勇士・能者も集まるというものです。
大御所様!ああもう、散々のご思案ですぞ!!」
家康公ボロクソである。しかし家康
「お前が言うことを一々判断する必要はない。何故かといえば、我が家において、重臣である
お主に慮外するような者はあってはならぬのだ。であるのにあの者は度々に渡りお主に慮外をいたしたと
聞き及んでおる。だからこそ、約束よりも少ない知行の折紙を与えたならばきっと暇を乞うてくるだろう、
その時暇を出してやろうと考えたのだ。そうであるので、知行増など思いもよらぬ!」
家康は個人のことを言っているのではなく、組織の統帥を考えて言っているのである。
これに忠世
「…私は御存知の通り、御家の御厚恩を以って代々召し使われている者ですが、そんな譜代の私に
新参の者が豪胆にも無礼をしてくることに、却ってその器量の深さを感じ、彼を、一廉御用の役に立つ者だと
見立てました。そして内々に調べてみても、人柄・心持ちの揃った人物でありました。
であるからこそ、この様に申し上げているのです!」
家康ももうグッタリしつつ
「…ではお前は、神谷に知行をどれほど与えようというのか?」
「二千石遣わされて然るべき!!」
「!!!???」
倍である。ついでに言えば実際に与えるのは家康である
「た、忠世くん?それなら最初の約束通り千石渡せばいいんじゃ…ないかな~?」
「二千石然るべき!!」
「えーっと、いきなり倍は与え過ぎのような…」
「二千石!」
「…」
家康がどんど追い込まれていくのを他の老中たちがいたたまれなくなったのか、話に割って入り
「じゃ、じゃあ真ん中取って1500石でいかがでしょうか!?そうしましょう!」
と、一同申し上げたことにより、家康も遂に観念し1500石の折紙をつくり、神谷を呼び出し
これを与えた。この時、家康という人の面白いところは、酒井忠世との論争を、残らずありのまま
神谷に伝えた所である。
神谷は感涙を流してこの折紙を頂戴し、城より退出するとその足で酒井忠世の邸宅を訪ね対面し、
「それがし愚かにして人を知らず、憤りを顕したこと、誠に面目のないことでした。」
そう忠世に謝罪したという。
その後神谷与七郎は働きも能く、人品も忠世が見立てた通り、実直に勤め、その後足軽を付けられる程に
出世したそうである。
(武野燭談)
196:人間七七四年
12/11/01 19:57:38.89 aYuzkYLw
そりゃ、隠居場にするぐらいだし
197:人間七七四年
12/11/01 20:00:49.01 aYuzkYLw
>>195
国替え後でもめんどくさい三河侍…
198:人間七七四年
12/11/01 20:39:37.71 jLOHci8a
やっぱり三河武士はめんどくさい
でもそこがいい
199:人間七七四年
12/11/01 20:44:59.37 c293RWN0
忠世がひたすらかっこいい話w
200:人間七七四年
12/11/01 22:03:40.61 gJQfI2k2
千石を八百石に、のところでつい反射的に
「まさかケチりたいだけじゃ…」と疑ってしまった自分がいる・・・。
201:人間七七四年
12/11/02 00:54:15.29 FUjAttnp
徳川名物三河者コントは実に下らん
202:人間七七四年
12/11/02 09:20:02.83 UCB2mwtq
家康と忠世による脚本かもな
わざわざ経緯を公にして予定より多く知行することを周囲に納得させ
当人の行為を改めさせるばかりか更なる忠誠をも引き出した
上手く解決したもんだなと感心する
203:人間七七四年
12/11/02 14:18:47.86 VDRVKLg7
職も金も学もないのに知識だけはあるお前らに質問です
日本では皇室を初めとして近親婚が行われてきました
戦国期の大名家でも近親婚は見られるわけですが
近親婚が禁忌とされるようになったのはいつ頃からでしょうか
204:人間七七四年
12/11/02 14:46:46.96 z89Ct905
日本史板でどうぞ
と言ってもどうせ「答えたがり」が構うんだろうけど
205:人間七七四年
12/11/02 14:58:16.72 mWi8bO9K
>>194
昔この話どこかで聞いたときは子どもっぽいなあとしか思わなかったけど
今だとこういう無礼を働くのさえ命がけだったんだろうなと思ってしまうw
206:人間七七四年
12/11/02 15:02:02.69 GJGzi9XX
>>203-204
喧嘩両成敗じゃ
二人は今日一日戦国時代板書き込み禁止の刑に処す
これにて一件落着~
207:人間七七四年
12/11/02 15:07:42.63 dal1gn59
>>203
お前、たぶん包茎
208:人間七七四年
12/11/02 15:08:11.41 z89Ct905
>>206
お前こそ喧嘩売ってるのか?
209:人間七七四年
12/11/02 15:34:46.23 rbbH17K0
国津罪とか衣通姫と軽皇子でググれ
210:人間七七四年
12/11/02 16:19:38.64 VytElzqs
>>208
油売ってます
211:人間七七四年
12/11/02 16:32:29.73 i6l8AVy4
道三キタ━━(゚∀゚)━━ !!!!!
212:人間七七四年
12/11/02 16:36:00.04 aDc7Uy1c
道三油売り説は既に否定されてるだろっw
213:人間七七四年
12/11/02 16:49:41.93 NNgd5DJ2
逸話スレで無粋なのね
214:人間七七四年
12/11/02 17:28:11.90 Nbg/F9/H
関白秀次は罪を蒙り、伏見の邸宅は前田利家に賜れた。
利家はその美麗な様を見て曰く、
「関白は大望のある人ではない。謀反は必ず偽りであろう。
私は子孫まで望みがあるから、このように美麗ではならない」
と言って、不要な所は取り払った。
―『名将言行録』
215:人間七七四年
12/11/02 17:54:07.01 RfYzohGp
これって下手したら、
今は金を貯めておいて、豊臣の天下が危うくなったら
その金で戦力集めて謀叛する気だ、ととられないか?
216:人間七七四年
12/11/02 17:57:34.12 +ZFv7sUZ
>>215
いやコレははっきりと、俺は天下に野心があるって言ってるわけで
217:人間七七四年
12/11/02 18:22:03.79 KAsmxqon
伊達みたいに天下を望む野望が知れ渡ってるというのは
ある意味稚拙なんだろうなぁ
218:人間七七四年
12/11/02 18:33:09.77 sIApixx3
>>217
知れ渡ってると逆に隠さないといけなくなるよね
219:人間七七四年
12/11/02 18:33:46.18 jpUA5NAZ
政宗(本人希望により呼び捨て)の見せる野心はハッタリでもあり戦国大名の生き残りとしての
精一杯の意地でもある
それは家光公とかも憧れる浪漫っぽいもの
220:人間七七四年
12/11/02 19:05:31.57 Gr3+0d0y
逆に堂々と公言してるほうが偏に疑われなくてすむしな
221:人間七七四年
12/11/02 19:49:32.15 KAsmxqon
マキャベリストを自称する人間はマキャベリストではないという格言があって
マキャベリストなら自分がいかにも純朴で誠実な人間と偽るんだよなぁ
222:人間七七四年
12/11/02 19:57:07.95 RfYzohGp
そのころには異世界人もいそう
223:人間七七四年
12/11/02 20:00:55.91 RfYzohGp
間違った
マキャベリがでてきたから戦国スレとは思わなかった
224:人間七七四年
12/11/02 20:06:39.44 WYMSS6al
クロカン「わたしは小寺にも太閤様にも誠実に仕えていたぞ」
225:人間七七四年
12/11/02 20:09:39.77 ZSlyWsU9
徳川家康の家臣、酒井備後守忠利といえば、大変に温和な人であった。
彼は家康の関東移封後、武州川越三千石を与えられたのだが、ここに備後村という郷村があり、
その庄官は備後を名乗っていた。
これを知った忠利の家臣たちはこの備後に
「備後とはこの地の領主である殿の官名である。よってその名を改めよ。」
と伝えた。この時代、領民や家臣が主君と名乗りがかぶるのは不敬であり、この要請は常識的なことであった。
が、この備後は解明の要請を全く受け付けず、そのままの名乗りを押し通した。
そのうちに酒井忠利が領内を巡回した時、この庄官を呼び出し直接に言った
「お前の名はこの地の領主の名乗りと同じなのだ。よって改めよ。」
庄官は猛然と答えた
「これは近頃迷惑なことを承るものかな!私は人に勝って年貢を一番に納めています!
勿論公役に関しても他人よりも第一に勤めておりますれば、領主様からの掟に少しも背いて
おりません。それなのに、どんな過怠があって名を改めよと仰るのか!?
その上私の家は代々備後を名乗っておりますれば、改めること罷り成りません!
同じ名で都合がわるいというのなら、殿が名を改められよ!!」
領主に対して思い切ったことを言ったものである。ほとんど暴言であり、これで殺されても
全くおかしくはない。
が、酒井忠利は笑い出した
「ははは、そうか。年貢・公役を人より先に勤めるというのは一段と良いことである。
しからば己はここの備後よ。私は酒井備後守である!苦しからず、そのままにて居よ。」
そう、申し付けたそうである。
(武野燭談)
酒井忠利の温和、というお話。というかこの庄官ちょっと常識はずれに凄いw
226:人間七七四年
12/11/02 20:29:52.85 KAsmxqon
武蔵の国でその村の名前は備後と名乗ってた武士が領主だったからその村の名前で
村役人はその末裔という可能性あるな
なら改名はしにくそうだ
227:人間七七四年
12/11/02 22:06:39.59 sI1PbU8g
いい殿様だな
228:人間七七四年
12/11/02 22:25:11.94 CqDydaVI
温和な人って他に誰がいる?
今思いついたのは維新様だけど
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
229:人間七七四年
12/11/02 22:37:14.99 sPEjkkGK
作左を始めとする家臣に好き放題やられる家康あたりは温和の部類に入る・・・のか?
230:人間七七四年
12/11/02 22:40:50.89 WQI/aA30
温厚な人なら中国では司馬光や呂布か
231:人間七七四年
12/11/02 23:00:53.74 CqDydaVI
>>230
そりゃ温侯やがな
232:人間七七四年
12/11/02 23:32:10.99 QTQCXNWi
濃い部下ばっかりのところとか・・・真田のおにーちゃんはどうだろ?
233:人間七七四年
12/11/02 23:35:03.21 rbbH17K0
そのお兄ちゃんに、柔和で怒ることが決してない、と言わせた信繁は
234:人間七七四年
12/11/03 02:24:18.40 fReihmWi
お兄ちゃん、お金ちょうだい(ニッコリ
235:人間七七四年
12/11/03 08:45:37.07 3/lmW+3v
温和なだけなら腐るほどいただろうけどそんな人柄で家臣をまとめきれた人はなかなかいなかっただろうな…
236:人間七七四年
12/11/03 10:08:05.29 JUhweKVc
阿部忠秋とか優しすぎてほとんど仏だよな
237:人間七七四年
12/11/03 10:23:49.41 MuaxDSke
誰かと同じでめんどくさいのに慣れているのでは?
238:人間七七四年
12/11/03 11:22:26.38 HYSK0VSG
>>166
おまえが言うな、ボルジアの汚れた血め!
239:人間七七四年
12/11/03 12:03:18.62 FEujK5a5
>>238
まぁまぁ、教皇猊下が茶を振る舞って下さるそうですよ
宇喜多なんとかいう人も同席するらしいですし
240:人間七七四年
12/11/03 13:01:53.07 OVZAokdY
明石全登「それはなんとでも出席しなければなりませんな」
241:人間七七四年
12/11/03 13:40:32.37 YRtqEtjs
石田が加藤光泰を殺したという伝承あるがあれもどうやら砒素
ボルジアのカンタレラも砒素っぽい
まさに砒素は愚者の毒とはいえ確実なんだろうな
242:人間七七四年
12/11/03 13:45:30.13 2u3d0y0B
愚者の毒って言われたのは死体から検出可能となってからでは
そういう技術がない時代には使い勝手がよさそうだ
243:人間七七四年
12/11/03 13:49:53.61 YRtqEtjs
一応銀で硫化砒素を検知する知恵は相当昔からある
244:人間七七四年
12/11/03 13:54:18.33 wOSt/pQ5
砒素というか亜砒酸化合物やね。
まあ砂加藤さんは普通に病死だろうけど。
245:人間七七四年
12/11/03 13:56:45.82 2u3d0y0B
なるほど
246:人間七七四年
12/11/03 14:49:09.32 wOSt/pQ5
銀の箸使えば硫化銀の関係で箸が黒く変色するからね
247:人間七七四年
12/11/03 15:08:52.27 rNEhluPK
>>239
松永のような茶の嗜みのある武将じゃないとダメだな
248:人間七七四年
12/11/03 15:13:45.21 LfaaJuzV
砂加藤
石劣口藤
しれっと「劣」までいれちゃって
249:人間七七四年
12/11/03 15:23:06.92 xJFxG5ar
砂加藤
石劣口藤
石劣萌泰
つまり、「石」田に「劣」ることで「萌」えをさそう光「泰」
というなぞかけ
250:人間七七四年
12/11/03 16:24:57.52 317oAYR8
鍋島直茂が往来するごとに庶人らは皆出てきて拝伏していた。
ある日、直茂は近臣に向かい「衆人が拝しているのに黙しているのは
謙退の道ではない。だから駕籠から降りて答礼しようと思いはするのだが、
かえって下々も難儀ではないかと思い、いつも駕籠の中で目礼している」
と語った。
この話を聞いた庶民らは「尊い君でさえこのようなのだから我々も」と、
互いに謙退辞譲を守り、親睦を深めたのだとか。
―『名将言行録』
251:人間七七四年
12/11/03 18:05:09.21 y+3vNVB1
当時の人も相手にどこまで礼儀正しくしていいのかは迷ってたのね
252:人間七七四年
12/11/03 19:10:29.32 LkV1dfyq
(`・ω・´)「宇喜多殿に松永の茶か、聞いてるだけで病で伏せるたくなるな」
253:人間七七四年
12/11/03 22:11:11.34 /Xo4EPr5
庶民はどこから聞いたんだ
254:人間七七四年
12/11/04 00:04:44.04 Vm3OJ8oy
>>239
チェーザレ様も是非御同席を。
255:人間七七四年
12/11/04 00:13:18.66 9WFrkSKl
職も金も学もないのに知識だけはあるお前らに質問です
>九頭竜川の戦いは、朝倉の軍勢、数千人が一向一揆の数万人の
>軍勢に勝利したといわれていますが
>これは両陣営、協議をして、合戦の決着を一騎打ちを何セットか
>やって(引き分けが無いように奇数のセット)
>勝った数が多いほうが合戦が勝利で、現場一帯を制圧でき
>負けた側は引き上げる、と決めて
>一騎打ちの団体戦をやって、朝倉側が大多数の一騎打ちに勝ち
>一向一揆は撤退をした、といわれています
これマジ?
256:人間七七四年
12/11/04 00:16:09.83 H6dQnCFz
>>255
【疑問】スレ立てるまでもない質問10【戦国時代】
スレリンク(sengoku板)
257:人間七七四年
12/11/04 05:42:58.19 e2+vd95b
秀吉は全国を統一した後、隆景に相談して次のように問いかけた。
「毛利輝元は当初から自分に二心なく属してきてくれたので、ついに心安く全国を平定することができた。
そう考えると輝元の忠義は忘れがたい。
そこで、輝元の領国の中国を国替えして、もっと広い九州の九カ国を与えようかと思うのだが、どうだろうか?」と。
隆景は答える。
「仰せの通り、九州は輝元の現在の領分よりよほど広くはございますが、しかしながら、今の領国は
輝元の祖父元就が小身より一代で取り広めてきた国ですので、先祖の国を捨てて他所へ参ることは
何ほど領分が広くなりましょうとも、先祖の功労をむなしくするようにも思え、本意ではございません。
広い所へと国替えしていただこうという思し召しは誠にお恵み深いものと思いますが
どうか、そのままにしておいていただけますなら、ますます有難く存じます。
ことに、輝元は今の領地でさえ莫大でありますに、さらに領分広大となれますれば
殿下にも御後悔なさることがないともいないのが道理です。
どうか、お国替えはご遠慮したく思います。」
秀吉はその言葉に感じ入って言った。
「毛利をさらに大身にと思って国替えを考えてみたが、御辺の申すことは実にもっともなことである。
そのままにしておこう。
ことに、いよいよ大身となせば後悔もあるべきかと申すこと、実に率直な申され様、ひとしお感じ入った。」と。
『名将言行録』
258:人間七七四年
12/11/04 08:24:19.28 UOLerA8L
輝元「ねぇ、それ悪い話だよね?ねぇ?」
259:人間七七四年
12/11/04 08:39:00.29 HTOordGe
代わりに小早川が九州2国(筑前、筑後)を貰っちゃったというオチ?
260:人間七七四年
12/11/04 10:08:24.53 mkRpOs59
肥後の一揆の影響あるし伊予の方が統治しやすそうだけどな
261:人間七七四年
12/11/04 10:30:19.99 cgic6LnU
昨日は佐和山(彦根)藩初代藩主の井伊直政公顕彰式が彦根城まつりと共に催され
大河『平清盛』で藤原基房役の細川茂樹が直政に扮し市中をパレードした。
そして悪い話の方では、前の佐和山城主だった石田三成が槍玉に晒されているようなので
井伊軍志にて紹介された、因縁めいた2人に纏わるちょっとだけいい話を。
七将による三成襲撃事件が起き三成が佐和山に退隠した後に、家康が向島より伏見に入城した。
徳川家重臣の直政は三成の伏見空き屋敷を宛てがわれそこに入った。
三成の伏見屋敷は玄関や広間はとても豪華なものだったが奥へ入ると雨漏りが酷く障子なども見苦しかった。
そんな惨状を見るにつけ直政の側近たちが嘲笑し厭味を言った。
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」
これを聞いた直政は側近たちを叱責した。
「治部少は常々表にあって奥に住む事無き故に屋敷の始末をかようにしておいたのじゃ。
さすがの男である。これを笑う者は彼に及ばぬこと千里の隔たりがある」
傍にいた岡本宣就が直接耳にし、後に知人に語った話である。
262:人間七七四年
12/11/04 10:40:27.66 C8Kf5hoS
九州9カ国って250万石くらいか?これだけあれば秀吉死後天下取り目指せたかもしれん
263:人間七七四年
12/11/04 10:41:44.22 icm06Elw
実際に秀吉が打診したのは、毛利領国中の備中、伯耆、備後、伊予を取り上げて、
豊前、筑前、筑後、肥後を与えて、輝元に九州取次を命じるプランだったけどね。(毛利家文書之三 955)
264:人間七七四年
12/11/04 10:43:07.53 7lWApD6b
「天下の治部少がよくもこんな邸に修繕もせずに居たものじゃ」
見えるところに金をかけるのは野暮、見えないところに金をかけるのが粋
という江戸っ子気質の由来である。
265:人間七七四年
12/11/04 10:54:36.75 NGamQBlm
それはもともと倹約令の潜脱がもくてきやで
266:人間七七四年
12/11/04 11:04:47.83 cgic6LnU
そういえば今日は長浜で、映画「のぼうの城」の宣伝も兼ねて上地雄輔を招いて三成の供養祭だとか
歪みのある地域だよなぁ
267:人間七七四年
12/11/04 11:11:06.21 HTOordGe
>>266
ひこにゃんの敵だから
268:人間七七四年
12/11/04 11:52:55.53 NGamQBlm
のぼうは甲斐姫無双しときゃいいのに
269:人間七七四年
12/11/04 12:10:17.88 x9YkcM8m
三成は自分に厳しくて他人にも厳しいからなー、
自分に厳しくて他人に甘い人だったら、もっと変わった結果になっただろうになー
270:人間七七四年
12/11/04 13:29:21.34 neduKvOu
鮭延さん、志村さん漫画初出演おめでとうございます
271:人間七七四年
12/11/04 14:45:39.01 tWppzQoQ
ある時、御伽の者が豊臣秀吉に質問した。
「今の世に天下を取る器量の大名はいるのでしょうか」
「天下を取るには大気、勇気、智恵がなくてはならない。
この三つを兼ねた大名は一人もいないが、小者には二つ兼ねた者が三人おる。
一人は上杉の直江山城。これは大気と勇気があるが智恵が足りない。
二人目は毛利の小早川左衛門。これは大気と智恵があるが勇気が足りない。
そして三人目は龍造寺の鍋島飛騨守。これは勇気と智恵があるが大気がない。
大名にはこれほどの者もおらぬな」
―『名将言行録(葉隠)』
272:人間七七四年
12/11/04 14:51:33.35 cgic6LnU
>>271
わざと警戒していない所にいった感じだな
273:人間七七四年
12/11/04 15:13:41.06 cX669te+
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
あれ、鍋島のほかには堀直政説があったのか
274:人間七七四年
12/11/04 15:25:09.70 JDuQXxSB
直江「古典の注釈とかしてるのに…」
小早川「この内じゃ一番軍功あると思うのに…」
鍋島「そうです、出世欲とかないです。
ましてや主家を乗っ取ろうなど思ってもいません。」
275:人間七七四年
12/11/04 15:35:43.39 ltxk5kGI
徳川家康「おっ、そうだな」
276:人間七七四年
12/11/04 15:38:33.77 NGamQBlm
家康は本当に慎重だったなぁ
277:人間七七四年
12/11/04 16:35:51.61 Hv3r7jEj
この世は騙し合いみたいなとこあるからな
278:人間七七四年
12/11/04 17:16:34.71 lMEzOQxM
>>271
如水さんは?
279:人間七七四年
12/11/04 18:56:56.93 jeBPKPCb
そこで家康や如水、政宗あたりの名前を出すと危ない希ガス
280:人間七七四年
12/11/04 19:02:08.22 jWniimTR
中々この3つを揃えるのは難しいよな
源頼朝 知恵と大気はあるが勇気が足りない
北条義時 知恵はあるが勇気と大気が足りない
北条時宗 勇気と大気はあるが知恵が足りない
足利尊氏 大気はあるが知恵と勇気が足りない
281:人間七七四年
12/11/04 19:03:10.59 icRhLJ2S
ん?まーくんの抑えは工場長と無口な殿、シスコンさん
・・・クロカンの抑えってTERU殴る人だけだっけ?
282:人間七七四年
12/11/04 19:07:44.39 Hv3r7jEj
本気でライバルになりそうな相手に、
「オマエのことライバルだと思ってるから!」
なんて言ったら相手の闘志に火つけるようなものだな
テンキューさまの教えにもあっただろ?
ライバル宣言して結果お互い高め合うことになるなんてマンガにしかない
ブラック企業が自由な社風で、
年齢、勤続年数ではなく実力を評価する、
という聞き心地のいい会社方針なのに殺伐としてるのはこれが原因だと思う
社員同士でしのぎ削らせれば業績上がるし、
社員同士が敵対するから、下剋上に向かいにくくなる
283:人間七七四年
12/11/04 23:10:11.41 7lWApD6b
山城が本当に知恵足らずなら、本気で閻魔に使いを遣ったのかもしれんね
284:人間七七四年
12/11/05 01:31:11.82 Gzm50zS/
天下を取るレベルから見て足りないものだから山城が脳筋だとか隆景が臆病だとかって訳ではないと思う
285:人間七七四年
12/11/05 03:16:36.45 dUAoEaQp
藤堂高虎の殉死の諌めと移封願い
藤堂高虎の殉死の諌めについては、既にこちらに詳しいがURLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
埋もれるには惜しい話を若干付け加えたい。
藤堂高虎は自分亡き後の家臣の殉死をおおいに嫌い、
一計を講じて大御所家康から殉死の禁止令を出してもらうことに成功した。
にもかかわらず、一人の家臣が家康に願い出た。
右腕を負傷していた彼は、
「私はこのような負具者にて、もはや生きていても甲斐がありません。
主君亡き後、どうか殉死することをお許しください。」
と求めた。
家康はこれを聞いて言った。
「和泉は我が代々の先鋒である。
もし、殉死厳禁の令に背く者が一人でもおれば、この先鋒の任を解く。」と。
のち元和元年のある日のこと。
高虎は領国の地図を広げて、家康の前にいた。
高虎は言った。
「伊勢伊賀は大坂へ出る要所にて、わが愚息大学には治められるはずもなく、
つきましては我亡き後は、他に移封して頂きたい。」
家康は地図を一瞥するとそれを横に押しやり、
「そこは誠に天から与えられた地である。他人を封じるような国ではない。
簡単なことじゃ。
いつぞやの殉死を願い出た節度を守る侍、
あの者を大学の傍らに置き、守護させればよいではないか。」
と答えたという。
「武将感状記」
286:人間七七四年
12/11/05 03:17:00.56 AECE9NJg
武田信玄が佐久郡に村上義清を攻めた時のこと。
戦場は矢や鉄砲が雨のように飛び交い、皆竹で盾を作り、それを環に並べて垣を作っていた。
そのうち信玄は陣を二隊に分けたいと考え、別働隊の飯富、板垣両将へ伝令を送ることにした。
そこで伝令役に米田某、三井某という二人が選ばれた。
米田は「盾の外は危険だから、内側を通って行こう」と提案したが、
三井は「殿に選ばれておきながら、矢や鉄砲を恐れてどうする。俺は外から行くぞ」
と聞かず、一人盾の外へ飛び出していった。
すぐに弾丸が降りそそぎ、三井は何発かくらいながらも、命からがらたどり着いた。
だがすっかり顔面蒼白になり、口も震えてまともにしゃべることもできない。
そんな三井の横で堂々と二将に伝令を伝えた米田は、陣を出ると笑顔で言った。
「それじゃあ、盾の外を通って帰ろうか」
三井が驚いて
「俺は行きのことで後悔してるのに、何でまた外を通らなきゃならん」
と言うと、米田は
「さっきお前と一緒に外を通らなかったのは、主命を果たせなくなるのを恐れたからだ。
しかしもう命も果たせたことだし、今さら何を恐れることもないだろう」
それを聞いて三井も頷き、二人は盾の外に出て、砲弾をかいくぐって本陣へ帰った。
そして米田は全く顔色を変えず、意気従容として信玄に首尾を伝えた。
これを見た三井は己を大いに恥じたという。
『武将感状記』
287:人間七七四年
12/11/05 03:24:52.04 AECE9NJg
>>285
投稿かぶったスマン
司馬さんのせいか年とった家康は狡猾な悪役のイメージ強いけど
江戸になってからも結構温情深い話多いんだよ
288:人間七七四年
12/11/05 03:25:42.58 AECE9NJg
な
が抜けた
ごめんもう寝ます
289:人間七七四年
12/11/05 07:54:47.53 mek9p20d
というか人間は冷酷さと温かさの両面を持っているのが普通だろう
家康との関係性によって、どう扱われるかも違うだろうし
290:人間七七四年
12/11/05 08:00:08.86 nvhuFaMZ
相手が敵か身内かによって変わるのは当たり前
291:人間七七四年
12/11/05 09:10:26.53 dUAoEaQp
>>287 ご丁寧に、痛み入ります
元和元年といえば高虎は60歳、
死ぬまでに15年もあるのに行く末を案じていたんだな、と。
292:人間七七四年
12/11/05 10:57:29.30 TMLjoXGt
>>285
まさしくいい話だな
>>286
戦が続いてるのに、伝令一回終えれば死んでもいいってことはないだろう。
だいたい首尾を伝えるまでが伝令の仕事なんじゃないのか? これは米田さんの勝手な論理って気がするな。
293:人間七七四年
12/11/05 16:08:19.63 I1AfV08s
遠足はおうちに帰るまでが遠足です、みたいなものか。
ところでせんせー、焼き味噌はおやつにはいるんですかぁー?
294:人間七七四年
12/11/05 17:16:19.93 GdowkEZz
焼き味噌はおしりにはいります
295:人間七七四年
12/11/05 17:49:39.74 CRdp7WOK
鈴木正三は三河の人で、若き日には徳川家康に従い関ヶ原や大坂陣に従軍した。
正三は若い頃より人生に死があるということについて常々疑問を抱いていた。
彼はあまねく臨済や曹洞の老大家に参じて教えを受けていた。
そして元和より徳川家の威風によって世も静謐になったという時に、
正三は俄かに思い立って自ら髪を削り、刀もささずに老中の邸宅を訪れて
「九太夫は乱心してこの姿となりました。正三をそのまま法名とし、今より世を
遁れます。この由を上聴に入れられよ」と言い残し、江戸を離れて何処ともなく
出ていった。そして諸国を遍参すること十余年にして三河、のち江戸に帰って来た。
正三は常に門人に曰く「洒落仏法、ぬけがら坐禅は何の役にも立たないぞ。
眼を据えて歯を噛み締め、果眼(果たし合いの眼)になって群がる敵の中に躍りこみ、
敵の槍先に突き立つ覚悟で修行しろ」と教えた。
また正三は豪放な性格で小事に拘らなかった。病気の時には肉を食ってその身を養い、
少しも憚ることはなかったという。
―『近古禅林叢談』
296:人間七七四年
12/11/05 18:44:04.16 /CwFW1/+
なんだかもう仏教じゃないようなw
297:人間七七四年
12/11/05 18:47:47.64 CRdp7WOK
>>295
すいません少し訂正を
×敵の槍先に突き立つ
○敵の槍先に突っ立つ
298:人間七七四年
12/11/05 18:58:12.21 iL59pcZo
坊主もめんどくさいのか
299:人間七七四年
12/11/05 18:59:23.52 QSo1zp0c
武士は敵に南無阿弥陀と飛び込み、
農民は畑を南無阿弥陀仏と鍬で打ての人だからな
三河仏法
300:人間七七四年
12/11/05 19:08:10.12 zRJNpXrp
>>285
隻腕の武士の刃は腹を切ることが出来るのか?
出来ぬ 出来ぬのだ
…いい意味で(´;ω;`)
>>286
面子があるとはいえ米田さんドSだなw
301:人間七七四年
12/11/05 19:42:45.86 iL59pcZo
三歳「扇を腹に当てればよいのだ」
302:人間七七四年
12/11/05 20:40:25.33 PiXUy448
大津宰相こと京極高次は城下の住民にさほど好かれていなかったらしく、大津城攻防戦の際に大津城下の住民達は近くの山に弁当持って出かけて攻防戦の模様をまるで祭見物であるかのように楽しんだと言われてる
303:人間七七四年
12/11/05 22:12:17.92 /CwFW1/+
それ戦場のデフォ
304:人間七七四年
12/11/05 22:24:23.23 Yl2SYoHD
南北戦争の初戦の第一次ブルランの戦いもピクニック気分で観戦しに来た奴らがいたというし
あと、中国の春秋戦国時代あたりで見物に集まったやつに攻撃しかけたら敵軍のほうに逃げていって、
敵軍が混乱して勝利した話があった気がする
305:人間七七四年
12/11/05 23:26:02.81 OUwdw2fR
それ以前に籠城前に城下の建物を焼き払ってるだろ
306:人間七七四年
12/11/05 23:59:30.04 TGZNGda+
天下の豊臣軍相手に奮戦する忍の領民(ステマ)
307:人間七七四年
12/11/06 02:10:52.46 NrhQ01hW
単にラスボスの無茶な水攻め命令に従ってたら地質が悪くて堤が潰れて
修復してるうちに小田原が先に降伏しちゃった、てだけじゃおもしろくないか
308:人間七七四年
12/11/06 02:26:18.89 n3/tKjUe
たかが地方の小城の攻城戦だったはずなのに
豊臣武断派が三成=戦下手のカスって認識するようになった
歴史を変える大事件に発展
309:人間七七四年
12/11/06 05:46:39.79 VmFqHNiw
別にあの小説出る前から堤壊したのは領民たちだったって風に語られてただろ
氏長の妻(三楽の娘)の指示で
310: 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(1+0:8)
12/11/06 06:31:52.97 mFbaVcSB
>>302
攻め手が大砲をドカドカ撃ち込んだんだっけ?
311:人間七七四年
12/11/06 09:11:26.15 Azyn9z1G
板倉勝重の子、重宗が父に代わって京都所司代となり、祇園社に参詣に向かったとき、
神社の前に子供たちが集まって遊んでいた。
一人の子が「ひとつ、ふたつ…」と数字を数えていたのだが、ふと
「なんで『ひとつ』から『ここのつ』まではみんな語尾に『つ』がつくのに、『とお』には『つ』がつかないのかな」
と呟いた。
子供たちは静まり返りってしまったが、その中の9歳の少年が答えて言った。
「そりゃそうさ。5の時に『いつつ』と『つ』を二つ使ったから、10の分が足りなくなっちゃったんだよ」
このやりとりを聞いていた重宗は少年に興味を持ち、翌日さっそく彼を招待し、
上下に二つ重なった餅を食べさせて、尋ねた。
「今食った餅、上と下、どっちの方がうまかった?」
少年はしばらく考え込んでいたが、突然両手をポンと打って
「今鳴ったのは、左手?右手?」
と問い返した。
重宗はいよいよ感心し、取り立てて自分の側においた。
成長した少年は重宗の一の側近になったという。
「明良洪範続」
312:人間七七四年
12/11/06 10:16:27.34 NbK2TydX
質問に質問で答えるんじゃねーよゴラァ
313:人間七七四年
12/11/06 11:02:33.96 ebE36DLt
>>307
>>309
軍記物の「堤が決壊して大被害」とか実際あったんかな?
そんな被害出れば「やっぱ水攻め無理」って
方針変更を請う口実になるしそういうやり取りでもしそうだが。
成田記や関八州古戦録の通説には疑問が残る。
314:人間七七四年
12/11/06 11:11:33.76 Azyn9z1G
>>312
口で説明するより実際に同じ気分を味あわせてやろうとか
そういう機転なんじゃない?
315:人間七七四年
12/11/06 11:54:11.20 2g0szYjX
鳴ったのは右手?左手?って禅問答があるんだよな。
316:人間七七四年
12/11/06 11:59:45.26 JBlHchof
頭の回転のよさをみたんだろな
317:人間七七四年
12/11/06 12:13:23.15 NrhQ01hW
のちの落語の佐々木政談である
しかし板倉重宗から後世の政談ものっていろいろパクってるんだな
318:人間七七四年
12/11/06 17:27:24.90 3lzC74sQ
>>311
旗が動いているのか?それとも風が動いているのか?
的な禅問答なんだろうね
「片腕しかない人の拍手の音を聴いてこい」て公案もあるけど禅て難しく感じる
なにが言いたいのかよくわからない
319:人間七七四年
12/11/06 18:44:36.24 JBlHchof
思考を繰り返すのがいいんだろ
実際たのしいぞ
320:人間七七四年
12/11/06 18:51:54.82 bajq3D94
禅は答えが永遠にでそうになくてうあああってなるわ
321:人間七七四年
12/11/06 19:14:05.93 VS7Xiq+J
重宗「うあああ…よし、採用!」
322:人間七七四年
12/11/06 21:42:57.03 X4XSCtLl
武田勝頼親子の首級が織田信長の目にかけられた。
信長はその首を見て、
「日本に隠れなき弓取りながら、運が尽きてしまわれた故に、
このような姿になられてしまったのだな…」と言った。
―『三河物語』
323:人間七七四年
12/11/06 21:47:11.08 I7PVLNuq
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
さて真実はどっちだ
324:人間七七四年
12/11/06 22:39:42.36 qW1WTpFy
まーくんから従兄弟殿へのちょっとした(?)お願いの手紙
伊達政宗の真筆書状 発見される
能代市では(個人名の為 伏字)さんが、伊達政宗(一五六五~一六三六)から初代藩主佐竹義宣に宛てたと見られる書状を発見。
県立図書館文書係の鑑定の結果本物と判明したものの、宛名が失われており文面から佐竹宛と推定された。しかし、伝承経路は不明のようだ。
本文には「…大砲の火薬の質や量、あるいは矢蔵の定め書きなどを給わばありがたい。」などとある。
1976年(昭和51年)4月1日発行 秋田県広報あきたより抜粋
秋田県広報ライブラリー 当該記事へのリンク URLリンク(common.pref.akita.lg.jp)
※転載ここまで
親戚でありながら敵対していた筈の佐竹義宣宛にDQN政宗からの、見様によってはとんでもない文面の手紙である。しかも直筆!
単純に「分かんないから教えてクレクレ!」なのか「お前、どんだけ武器弾薬貯め込んでんの?ニヤニヤw」と、邪推しそうになる文
恩讐を乗り越え「かつての敵とも、腹を割って何でも話せるようになった」義宣と政宗の「俺達マジ親友!」の、仲のいい話…なのか
「…政宗め。こんな文が幕府に露見したらヤバイだろ!油断のならない奴め!」と、宛名を失わせた義宣の手筈の良い?話でした
325:財布激安/偽者
12/11/07 01:09:52.23 sG8DeV6b
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326:人間七七四年
12/11/07 12:39:36.10 O+mufkDX
まとめ見てたんだけど、武田信繁っていい話しか無いんだな
悪い話は討ち取られた位のもんかな?
信繁の悪い話無い?できが良すぎだろ
どっかの信繁と違って
327:人間七七四年
12/11/07 13:50:36.21 bTp14Zmb
武田信繁は江戸初期から武士の鑑って神格化されてっから基本いい話しかない
328:人間七七四年
12/11/07 16:22:24.33 qZT1KT+F
長野県長野市にある典厩寺は真田信之が武田信繁の菩提を弔うため、
それまでの瑠璃光山鶴巣寺の名を改めたもの。
本堂より左には自然石を用いた信繁の墓があると同時に、
武田上杉両家の討ち死にした者たちの弔魂碑がある。
なお境内には川中島合戦記念館があり寺宝を収蔵展示している
329:人間七七四年
12/11/07 18:46:49.33 MXd1EikK
>>324
受け取った佐竹義宣のイヤそうな顔が目に浮かぶ
ろくな事は企んでないだろうと思わせる手紙だw
330:人間七七四年
12/11/07 20:31:58.92 VQLJNFGf
この前小諸から東御市に向かう道を通った時にで信繁の墓があった
なんであそこなんだろう
331:人間七七四年
12/11/07 20:51:17.81 FwEHAAEt
>>330
何の史料も確認していないから、極めていい加減な私見ではあるが、息子の武田信豊が小諸城主だからじゃないか?
332:人間七七四年
12/11/07 21:28:01.04 eN+Vkod4
死んだ川中島にあるんじゃないの?
333:人間七七四年
12/11/07 23:26:14.04 0jZUtu4Y
胴体が川中島の典厩寺で、首だけ息子のいる小諸まで運んだみたいね。
行った事ないけど写真で見る限り首の方がかなーりひっそりと祭られているような。
川中島で死んだしあっちの方が有名だししょうがないか。
334:人間七七四年
12/11/08 16:52:32.06 3IV3NXbr
紀州頼宣に仕えた儒臣に奈波(那波)道円という者がいた。
その甥の奈波加慶という針医師が御供して紀州にいた時に、
和歌山一番の富豪・島孫左衛門という町人が長年病気に悩んでいた。
ある人がこの度加慶が来たのを幸いとして島に彼を推挙した。
その人が療治を頼むと加慶は「心得た」と答えた。
「それは良かった。この孫左衛門という人は和歌山で一番の有得人ですから、
他の病人よりも精を出して治療してくださいね」
加慶はつくづくと聞いていたが、その人が座を立とうとした時に…
「只今御頼みの病家への見廻りは御断り申す」
「なんと!? たった今治療を承知されたではないですか!
何故手を返すようなことをなさるのです!」
「始めは病人とばかり承ったので承知いたしましたが、あなたは富家だから
精を入れて治療しろと仰った。私は今日まで病には針を立ててきましたが、
金銀に針を立てたことはありませんので御断り申す」
―『良将言行録』
335:人間七七四年
12/11/08 20:25:00.56 X1OGkpuB
江戸城本丸において、将軍家より隠密の相談がある時は、その昔はだいたい数寄屋にて行われていたのだが、
土井大炊頭利勝がある時思いつき、千畳敷の真ん中に将軍家に出て来て頂き、四方の金唐紙なども全て取り外し、
少しも隠れる場所の無いようにした所、誰であろうと、その相談の間、近づく者無く、相談の内容が漏れるようなことも
無くなったと、これは古き人たちが申していることである
(武野燭談)
336:人間七七四年
12/11/08 20:50:56.90 I9N32n+s
天井と床下はどうなってたんだろう
337:人間七七四年
12/11/09 09:10:16.64 cmBvDaDs
分厚いビードロで外からはモザイク模様に
338:人間七七四年
12/11/09 11:02:11.50 gMeCskhA
>336忍者が周りにいれば入り込めない
339:人間七七四年
12/11/09 11:33:56.01 uA14xTkd
本多様が天井は心配無いって言ってました
340:人間七七四年
12/11/09 17:08:56.35 R0jiYxA7
伏見城築城の祝いの後、豊臣秀吉は井伊直政、本多忠勝、
榊原康政、平岩親吉に歳末の祝儀として密かに黄金を百枚ずつ与えた。
直政と忠勝はそのまま黄金を拝受して家康には告げなかった。
康政は「どうしたらよいでしょう」と家康に告げ、
家康は「下し賜れた物は受け取るものだ」と言った。
そして親吉は黄金を受け取らず、
「臣は関東奉公の身にて、その禄を受け衣食は常に足りている。
今主君の賜り物を貪っておいて、受け取ることなどできはしない」
と、黄金を使者に返し渡した。
このように私欲がなく正直な心の持ち主であったので、家康は親吉を
信康や義直の後見として附けたのである。
―『名将言行録』
341:人間七七四年
12/11/09 17:36:56.26 Qm/GW8ed
200石以下(あくまでも目安)の武士の言行について語られてる資料って葉隠以外だとなにがある?
最近そのあたりの武士の逸話に興味があるのでご教授願う
342:人間七七四年
12/11/09 20:42:02.56 YL2d4lQn
>>340
丁度この時分あたりか
「太閤秀吉は伏見の城を縄張りとする時に井伊直政に相談した」と
『武功雑記』にメモの様に書かれているけど
なぜ徳川家臣で陪臣である直政に相談したんだろ
343:人間七七四年
12/11/09 20:45:58.65 Qe9oBR+n
>>342
秀吉政権では井伊直政は陪臣ではなく独立大名扱い。