戦国ちょっと悪い話33at SENGOKU
戦国ちょっと悪い話33 - 暇つぶし2ch439:人間七七四年
12/09/15 11:59:57.90 cHnSDcNE
迷信というか漢方の考え方では食物を大きく分けて体を温めるものと冷やすものに分けるんだが、
サケは温めるものに分類されるらしい。

体を冷やす物の代表は夏野菜、温めるものに唐辛子なんかは理解できるけど、
サケが体を温めるものっていうのは分類ありきの無理矢理こじつけ感があるね。
文献によっては逆に体を冷やすものに分類されてるみたいだし。

元春はなまじっか知識人だからこんな情報も知っていて、病気に良くないと思ったんだろう。


440:人間七七四年
12/09/15 12:09:10.28 F3xx7yXu
高麗人参とかも体を温めるものとされてるけど、熱病の時に高麗人参を食べたら熱がもっと酷くなって盲目になったという話をよく聞く。

441:人間七七四年
12/09/15 12:18:08.11 YPN+IE/i
粗悪品じゃないのか?

442:人間七七四年
12/09/15 12:20:08.13 r8vek6IB
朝鮮人参と朝鮮朝顔を間違ってたりして

443:人間七七四年
12/09/15 14:40:21.87 6JeLg8Af
漢方薬は薬なんだから、間違った症状に使えば毒になるのは当たり前。

444:人間七七四年
12/09/15 18:32:22.04 JKvx2fFL
薬は用法を間違えれば毒だしね

445:人間七七四年
12/09/15 20:05:45.48 B5pwwuHK
天正15年(1587)の、肥後国人一揆の時の事

この一揆平定に従軍した吉川広家が、黒田官兵衛に以前のことを尋ねた

「先日私が萱切山において一戦せんと申し上げた時、あなたはそれをしきりに止めるよう言われました。
老巧の人の意見であり、また我が父元春も、万事あなたの指図に任せよと言っておられました。
その為どんな事でもあなたの言うことには背かないよう決心していたので、あの時は戦うことを
断念したわけですが…

改めてお尋ねしたいのですが、官兵衛殿はあの時、一体どういうお考えで私が合戦を行うことを
止められたのでしょうか?」

これを聞いた官兵衛、ニッコリと笑って

「ああ、あの日、広家殿が合戦を行えば間違いなく勝利されたでしょう。だから止めた。」

「!?、必ず勝利すると思われたのに、ではどうして止めさせたのですか!?」

「それはね?あの日広家殿が戦をして大利を得られては、ほら、その前にうちの息子の長政が、敵を侮って
負けちゃったでしょう?それとこれの優劣が比較されて、長政にケチが付いてしまうなと、そう思ったのです。
ですからあなたが戦をしようとするのを、堅く阻止したわけなのです。
私はあなたと兄弟の約を成した間柄ではありますが、そんな盟約も、実の子への愛には
勝てないものなのですねぇ。」
(御辺吾等兄弟の約を成し申したりとは雖、実の子の愛には不勝候そやと宣けるにそ。)

広家これを聞いてさすがに呆れ

「と言うことは、私は黒田官兵衛に方便をされていたのか!
いやはや、あなたの真意をもっと早く察していれば、制止されても聞く耳持たず一戦した物を!」

そう言って大笑いした。

黒田官兵衛と吉川広家は多年の親友であったので、官兵衛も自分の思っていることを正直に語り、
広家も方便をされても、さらに恨むことはなかった、とのことである。
(陰徳太平記)

そんな親バカ官兵衛さんのお話である。


446:人間七七四年
12/09/15 20:53:49.73 6JeLg8Af
広家さん、若いころと家督ついでからのギャップありすぎだよね

447:人間七七四年
12/09/15 22:10:10.31 Nm1+L9EV
如水さんほんと息子大好きだなw

448:人間七七四年
12/09/16 02:09:23.33 IF8ZFGH4
>>445
この話は以前に出てたぞ!

449:人間七七四年
12/09/16 09:04:36.51 nzGeo2Wk
>>439
最近の研究ではマジで漢方どおりの体温変化がある食べ物も見つかってるし
経験則として馬鹿にできないものがあるんだろうな

450:人間七七四年
12/09/16 10:35:54.59 OVd5hny2
>>449
漢方は人体実験の集積でもあるから侮れん

451:人間七七四年
12/09/16 11:01:56.20 E8p4a0fx
まあ嘘っぱちもかなり混じってる

452:人間七七四年
12/09/16 12:35:39.30 xoIfxujC
まあ経験則の積み重ねがあるからフグも食えるw

453:人間七七四年
12/09/16 12:53:13.78 uDd3vLfC
河豚は肝くわなきゃいいだけだからなぁ・・・

454:人間七七四年
12/09/16 12:54:18.22 T8KhrIps
皮もな

455:人間七七四年
12/09/16 13:17:54.82 gM79Kzef
家久さんも若い頃と家督ついでからのギャップが・・・
若い頃は蹴鞠の話ばかり

456:人間七七四年
12/09/16 14:45:52.15 4accDfiH
玉遊びに興じる点では…

457:人間七七四年
12/09/16 19:26:47.31 yhYYyDQV
玉で遊びだと?
お前ら恐れ知らずだな・・・、お前ら2/36決定だわ

458:人間七七四年
12/09/16 19:28:46.31 81YxZFft
42年ぶりの帰参


時は大坂冬の陣から年が開けた翌慶長20年(1615年)春の事。
大坂方の和睦の使者として駿府へと遣わされていた『大坂城七手組』の一人に数えられる青木一重は
駿府から大坂への帰途に京で板倉勝重の接待を受けていた。

しかし、これは罠であった。板倉は突如として兵を呼んで一重の身柄を拘束したのである。
囚われの身となった一重に板倉はこう告げた。「大坂へと戻れば弟である青木可直を処断する」と・・・

一重の弟である可直は大坂方ではなく、徳川家の旗本として3000石を与えられていた身分であったが、
これを処断されるとあらば家名存続が危うい。結局の所、一重は夏の陣が終わるまで板倉に軟禁されたまま過ごした。

その後、開放された一重は剃髪して高野山に隠棲していたのだが、家康から二条城へと呼び出しを受け、
何故か豊臣時代(1万石)から微増の摂津豊嶋1万2000石を与えられ初代麻田藩主として諸侯に名を連ねた。

かつて一重は徳川家に所属しており、姉川の戦いで真柄直隆を討つという功を挙げて家康から武勇を賞賛されたが、
三方ヶ原の戦いのしばらく後に徳川家を去っており、何の因果かそれから実に42年の時を経てまた再び家康から禄を賜る身分となった。



少なくともいい話ではないのでこっちに

459:人間七七四年
12/09/16 19:46:40.38 G+9Cjne/
多分、善意で助けようとしたように思えるけど

460:人間七七四年
12/09/16 20:50:41.37 0tEYl2V4
一万石が敵方になるなんて、そんな大したことじゃないし、
家康としては一重を無駄に殺したくなかったのかな

461:人間七七四年
12/09/16 20:50:42.28 lre/8rHz
10万石格のご朱印のおまけ付きで復帰したというから寛大どころではないんだよね。

スパイでもしてたの?

462:人間七七四年
12/09/16 21:43:40.86 gM79Kzef
七手組は基本穏健派だったから家康にとってはあまり有難い存在では無かっただろうなあ
長老格の青木一重がこんなことになると七手組としてはもう何も意見言えなくなって結果的に主戦派の暴走を許すっていうのが狙いかなと妄想してる

463:人間七七四年
12/09/17 00:39:39.10 W8rDjt/n
案外いい話だと思うのは俺だけ?

464:人間七七四年
12/09/17 00:48:37.46 gCUeR2Yw
いいか悪いかで言えば、いい話だと思う

家康が呼びつけたってことは戦後すぐの話だし
一重を許すのは、少なくとも家康にとっては既定路線だよな
単純に死なせたくなかっただけなんじゃないのかと

465:人間七七四年
12/09/17 02:42:06.46 9t6TBFJk
まぁ人質とって脅迫めいたこと言ってるんだからこちらでいいんじゃない

466:人間七七四年
12/09/17 08:23:44.35 ggqP0q70
和睦の使者なのに捕えたって事は
いよいよ手切れ布告の段階って事になるのか?

467:人間七七四年
12/09/17 10:17:48.94 hk/vXnJV
でも大名復帰後は周りから避難轟々だったんだろな。

468:人間七七四年
12/09/17 10:36:45.54 IUG41wpy
大名の誘いを固辞して・・・って感じなら○く納まったんだろうね~

469:人間七七四年
12/09/17 11:01:28.00 +5ZV8qHw
じゃあ七手組からもう一人


慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の後のこと。高野山に逃れた一人の武将が豊臣秀頼の死を知って自害しようとしていた。
男の名前は伊東長実といってかつて織田家で「編笠清蔵」の異名をとった伊東長久の長男であり、
信長の死後は秀吉に仕えて黄母衣衆に抜擢され活躍。やがて『大坂城七手組』の一人に選ばれたという経歴の持ち主である。

いよいよ自害しようかという所で徳川家の使者が高野山へと現れ、長実の自害を止めさせると「かつて関ヶ原の戦いで
石田三成の挙兵を報じた功績で豊臣時代からの備中川辺1万石を安堵する」との事を伝えられた。
初め長実は「二君に仕えず」と断ったものの家臣からの説得もあって出仕を決意し、大名として諸侯に列したのであった。
こうして夏の陣まで大坂方として参加しながら所領を安堵された伊東家は備中岡田藩主として明治維新まで命脈を保った。

・・・しかしながら、この長実にはスパイ疑惑があった。
「老士談録」に寄れば長実は大坂の陣の少し前の頃より朝比奈義次なる武将を雇い、寵愛を注いで評定などにも同席させていたのだが、
この朝比奈という男は実は京都所司代板倉勝重の家臣であり、評定や大坂城内の様子を逐一板倉に報告していたというのである。
また、結婚時期などの詳細は不明であるが長実の息子である長昌は板倉勝重の養女を娶っていた。


どこまで本当かはわからないけど色々噂を立てられていた人のお話

470:人間七七四年
12/09/17 11:16:24.08 motsuw+B
徳川のスパイ説出てる人をリストにして欲しいくらい大量に居るなw

471:人間七七四年
12/09/17 11:34:32.07 ggqP0q70
板倉さんに近い人間から疑われるのは
仕方のないことなんだろうな

472:人間七七四年
12/09/17 11:56:57.61 avmaeOf3
今の倉敷市長はこの伊東さんの末裔らしい

473:人間七七四年
12/09/17 15:30:29.56 Y7sWbmiA
たぬきさん記憶力いいからな、なんか思い出したんじゃね?

474:人間七七四年
12/09/17 17:50:22.94 +cQVIHtH
岡田藩って・・・俺の住んでるところじゃねーかw
全然知らんかった

475:人間七七四年
12/09/17 19:57:44.06 bjO5ydSC
明智光秀の家臣であった天野源右衛門と言えば当時、名の知れた豪傑であった。
彼は本能寺の時、織田信長に槍を付けたとされたが、これにより豊臣秀吉から、
主君の敵であると大いに憎まれ、さしもの武名燦然たる勇者も逼塞の生活を余儀なくされていた。

そんな中関白豊臣秀次が、未だ三好治兵衛と称していた頃であったが、秀吉に許可をもらって
召抱えることとなった。

ある時の事、秀次が殿舎の建設をするとして、天野にも家人を召しだしてこの普請に当たらせよと
命じた。普請役というものである。天野は「承り候」と答えたものの、内心にこう思った

『私は国に大事のあった時、一方の先陣を駆けて敵を挫く事こそを仕事として、この人に仕えたのである。
普請などということをさせられるとは聞いていない!そのような作業は足軽などがするものではないか。」

そして屋敷に帰ると、すぐさま自分の士卒2,300人に弓鉄砲を持たせ、自分は槍を掴み、
その姿で普請場へと押しかけた!

この完全武装の集団を見た秀次は大いに驚き、
「天野は狂乱したのか!?どうしてこんな事をするのか、理由を聞いてこい!」
と、叫ぶと、側衆が出てそのとおりに天野に聞いた。これに天野曰く

「それはですな、私はここに家人を召し連れて来るようにとの御下知を受けました。
これはきっと、謀反人などがあって、それを討てという事があるのだと判断しました。
そのためこのように武装して馳せ参じたのです。」

秀次家臣の田中兵部はそれを聞くと大いに驚き
「そ、その様なことではない!急ぎの普請があるから家人を召し遣わし、この作業の功を励ませとの
仰せであったのだ!」

天野、この言葉にカラカラと大笑した

「私は、普請をするような家人は持ってはおらぬ!私は家人たちにいつも、槍を付き太刀を打つ業こそ
心掛けよと言っておるのだ!」

秀次はこの天野の言葉に激怒した

「このような傍若無人の行為を成すような者、頸を刎ね獄門に懸け。諸人に対する見せしめとせよ!」

そういって天野に対し討手を差し向けようとしているのを見て取った天野は、
「もはやこの様な暗君に仕えていかにするというのか」
と、直ぐ様その場より出奔した。

ちなみにこの天野の出奔がこのあと、
↓この話のように福島正則と立花宗茂を大いに対立させる事になる

福島正則と立花統虎(宗茂)、胃が痛くなりそうな
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

そんな天野源右衛門、秀次家出奔の経緯である。
(陰徳太平記)


476:人間七七四年
12/09/17 21:35:29.70 +5ZV8qHw
誰かと思ったが改名後の安田国継ね

477:人間七七四年
12/09/18 18:34:46.79 VDmDAEvd

関ヶ原の戦い後、渡辺了は主君・増田長盛の命があるまで郡山城を
接収させなかったが、この時、了は前もって妻子を本丸に入れて置いた。

対して田中角之助は妻子は足手纏いだとしてあらかじめ立ち退かせ、
自分だけ討死にする支度を整えていた。

だが、やがて長盛から城の受け渡しを命じる書状が来たので、
田中は城を渡して立ち去った。

田中は妻子を立ち退かせ、躊躇することなく城を去った。
しかし名声を高めた了とは違い、後世の批判を免れることはできなかった。

―『名将言行録』

478:人間七七四年
12/09/18 21:11:42.22 xz19Y2AV
>>475
当時の価値観的には専門外の事をさせようとした秀次にも非はあるのかもしれんが
それに対して反論より先にこんな態度取っちゃうのはどうなのこれ
命じられたその場でハッキリ無理って言う方が男らしいと思うんだが

てか他の逸話も見たけどこいつ部下として滅茶苦茶使いづらそうな奴だなw

479:人間七七四年
12/09/18 21:18:41.11 toLLw6L8
鬼武蔵のとこが一番あってた気が

480:人間七七四年
12/09/18 21:22:13.78 wEtAUHrf
足軽がするものだと思うなら足軽を提供すればよかったのでは…
この時代は平時だと雇ってないのかな?

481:人間七七四年
12/09/18 23:32:31.21 juvbnCgD
ていうか、重臣なら知行に応じて普請役を行うのは当たり前だろう。
本当なら所詮は葉武者だったってことだね。

482:人間七七四年
12/09/18 23:37:34.49 Y7wJegr+
普請役って軍役だからなあ・・・
士卒2-300も支配していても気分は一騎駆けの猪武者か

483:人間七七四年
12/09/19 04:02:35.25 0GaEnQMr
最後の寺沢さん以外、仕えた主があんまりいい死に方してないってなんだかなぁ…

484:人間七七四年
12/09/19 18:06:07.20 XGxRcsUX
まあこういう連中も使いこなしてこそ、なんだろうけどね。
それにしても一応主君相手にどうなのそれ、という感じだなあ

485:人間七七四年
12/09/19 18:55:00.88 jswBSx1i
>>481
市松さんちでの可児才蔵みたいに「少禄で構わないから普請免除ヨロ」なら角も立たなかったんだろうけどなあ

486:人間七七四年
12/09/19 21:06:41.65 /8EH4R/P
>>485
しかしそれだと寄騎つけられないから実際少禄になっちゃいそうだなあ
最も戦以外のあらゆる役目を免除されたら意外とそれでも裕福に暮らせるのかもしれん

487:人間七七四年
12/09/19 23:14:55.41 XGxRcsUX
「俺を妬む小人だらけの家中にいられるか!俺は下野させてもらう!」
ってなるだけな気も

488:人間七七四年
12/09/20 10:35:38.54 t8Y1Nqsz
>>487
フラグっぽく感じるのはなぜだろう。


489:人間七七四年
12/09/20 11:02:12.15 SHb5RPY5
三河武士だと家出しても結局戻ってくるイメージが

490:人間七七四年
12/09/20 11:36:01.00 jFNwSsNH
>>487
下野した後、上野へ向かう…と見せかけて平野に改名

491:人間七七四年
12/09/20 11:36:35.24 wUnYQsSP
家康が大大名になって最終的に天下を取ったからだろ。
滅んだり小大名で終わったりしてたら殆ど戻って来なかったと思うぞ。

492:人間七七四年
12/09/20 13:59:32.40 /XjT+PGh
>>491
まぁそういう、勝ち馬に乗ろうとした奴もいただろうけど、一向一揆の時に一揆に参加して
終息後に降伏せずに一旦は出奔した連中とか、結局ほんの数年で帰参した奴も結構いた
当然、当時の家康は、天下どころかなんとか三河一国を平定っていう段階

たぶん、「どうせ降伏しても冷や飯喰わされるんだろ!」と思って出奔したものの、あとで
降伏組が意外に冷遇されてなかったりする様子を聞いて、「なんだ、じゃ帰ろ」ってことに
なったのではないかと


493:人間七七四年
12/09/20 14:37:30.40 uiUVCiFl
>>492
おいおい、三河者の前でそんな事いったら
面倒くさい話になるぜ?

494:人間七七四年
12/09/20 15:16:58.50 ufXKlLDX
>>492
つうか一揆側って次男坊以下や分家とかが多かったって昔の群像かなんかで書かれてるのを読んだ記憶があるんじゃが

495:人間七七四年
12/09/20 18:50:17.79 mT5W41pB
慶長の役の時のこと。蔚山築城に伴い、城外に駐屯していた浅野幸長は、明軍の奇襲を受けた。何とかこれを防ぎ
退却する奇襲部隊を追撃した幸長だったが、この退却は偽装であり、浅野勢は伏兵に囲まれ、窮地に陥った。

浅野勢は大将の幸長みずから鉄砲を連射し、槍を振るい反撃したが、あるいは討たれ、あるいは散り、
城の惣構に逃げ着いた時には、幸長に従う者は重臣の浅野河内守と、徒歩武者の橋本六郎のみとなってしまった。

「ようやく逃げおおせたか。やれやれ、安心したら腹が減ったのう。」
「殿、これを。」

やっと一息ついて飢えを漏らした幸長に、六郎は腰の袋から握り飯を三つ取り出し、一つは幸長に献じ、
一つは自分で食い、残る一つを再び腰袋に収めた。
「おっ、良い物を持っておるではないか。残る一つ、わしにくれぬか?」

六郎の様子を見ていた河内守の頼みに対し六郎は、この重臣を睨みつけて答えた。

「これは、拙者の予備食にござる。いざという時はこれを食って最後の力を振るい、殿の馬前に果てる覚悟。
貴殿こそ、お家の重職たる身が腰兵糧の用意も無く、どうして戦陣に臨んでおられるのか?
今日、奇襲に敗れたのも貴殿らの、そのような用意の無さゆえではありませぬかな。」

戦後、日本に帰った幸長に河内守は、六郎を己の組下にする事を望んだが、河内守の心底を見抜いていた幸長は
ついにこれを許さなかった。(近古史談より)


橋本家は、芸州浅野藩家臣として永く続いたという。
島津家・中馬大蔵と浅野家・橋本六郎、どこで差がついたのか 慢心、環境の違い

496:人間七七四年
12/09/20 18:58:25.28 6+IZfnb9
橋本六郎の場合は幸長に食わせたほうが
中馬の場合は駕篭かきに食わせたほうが
それぞれの主君の生き残る確率が高くなるわけで
なぜ差がついた、とか言われなきゃいけないのかがわからない

497:人間七七四年
12/09/20 19:46:43.89 htmcZuen
>>496
半ばネタなのに思いっきりマジレスせんでも…

498:人間七七四年
12/09/20 22:35:28.68 wUnYQsSP
さり気なく河内守が屑過ぎw

499:人間七七四年
12/09/20 23:39:52.44 7951B03d
なんの糧食も持たずに戦場に行くとも考えられないし
河内守は自分の分があるにもかかわらず六郎に良い物持ってんなって言ったんだろうか

もしそうなら河内守は仲間を盾にして逃げおおせたような奴なんだろうな

500:人間七七四年
12/09/20 23:45:18.01 pQEoZRdk
自分の家人に持たせてたけど、死んだかはぐれたんでしょう

501:人間七七四年
12/09/20 23:49:47.93 3fQNXpI2
たまには健全にだな
URLリンク(photo.uzra.jp)

502:人間七七四年
12/09/21 09:45:26.64 AFJc4VZR
誤爆してんじゃねーよ

503:人間七七四年
12/09/21 18:03:47.66 MHus+mKZ
賤ヶ岳の合戦で柴田軍が討ち負け崩壊すると、佐久間玄蕃允盛政はともかくも合流しようと加賀まで
向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ

「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」

こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った

「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」

盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」

これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。

(佐久間軍記)

504:人間七七四年
12/09/21 18:18:55.37 61LT6kna
それなら素直に捕まえろと言わず、うまく買収でもすべきなんじゃ…

505:人間七七四年
12/09/21 18:47:52.40 GxrYoGoT
>>503
三成の柿の話と一緒でいい話じゃないのか

506:人間七七四年
12/09/21 19:02:33.25 2M0Px8yd
問答無用で竹槍や妖怪首置いてけの餌食にならんかっただけマシか

507:人間七七四年
12/09/21 19:29:48.96 ggKjd+3g
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね

508:人間七七四年
12/09/21 20:10:46.61 eEqRxYjX
>>505
(諦めが)悪いように見せかけていい話かな

509:人間七七四年
12/09/21 21:15:12.12 Dhfzjym2
連れてきた連中の玄蕃さんの扱いがあまりに酷いので秀吉が処罰したとかなかったっけ?

510:人間七七四年
12/09/21 21:20:11.71 N7QhuWx+
>>509
>>507に書いてある

511:人間七七四年
12/09/22 01:02:26.01 F7XLBAkn
長政は余計な一言での出番が多いが、事実はともかくそういう人だと思われてたんだろうか
それとも豊臣家の中枢に居た人なのにあまりにも早く家康の軍門に下ったから
江戸初期には侮られて小物役にふさわしいと思われてたんだろうか

512:人間七七四年
12/09/22 01:07:25.95 QuUwL04t
信長の命で斬られるところを秀吉の独断で助けられた
という話が本当ならどの豊臣恩顧の武将よりも豊臣への
恩は深いはずなのに...


513:人間七七四年
12/09/22 05:33:44.59 v4hiVesG
秀吉に大恩が有っても淀殿や石田三成とは確執があったのかも試練

514:人間七七四年
12/09/22 06:06:52.39 qRdHmeZi
いつの間にか話が浅野長政から黒田長政にすりかわってるような…

515:人間七七四年
12/09/22 06:14:44.22 JJ8Bdbbi
中枢に居たからこそ早々と見限ったのではなかろうか。

516:人間七七四年
12/09/22 07:34:28.08 /3atuCBe
柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与え戦後処理を終えると帰洛。
捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。

秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」

盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。

命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」

長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた

「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」

盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」

秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。

佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。

天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。

盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)

以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。


517:人間七七四年
12/09/22 08:51:18.05 lu9U/Xis
肥後はアカン

518:人間七七四年
12/09/22 09:24:56.87 LIK4VB4Q
ここで素直に部下になっても、佐々のようになるのがオチか

519:人間七七四年
12/09/22 09:49:16.48 muq0fmif
長政さんは、秀吉さんというよりは重治さんの機転と覚悟のおかげで、救われたような・・・
寧ろ、信長さんの処刑命令をあっさり受け入れた秀吉さんを受け入れられないんじゃないのかな~

520:人間七七四年
12/09/22 10:45:05.55 F7XLBAkn
おまえら長政といったら黒田のことしか浮かばないのか

521:人間七七四年
12/09/22 11:40:44.23 ZpdO2oWP
K☆I☆Z☆A☆W☆A

522:人間七七四年
12/09/22 11:52:36.88 jGro9prD
あの肥後を治められるとは大した自身だ

523:人間七七四年
12/09/22 12:00:39.49 rIHbkXdq
浅井とか山田もいるな。今頃だとシエがらみで浅井って答えるかもしれん

524:人間七七四年
12/09/22 12:07:25.53 LoeRgdT8
長政軍団の中じゃ浅野さんが地味なのは間違いない

525:人間七七四年
12/09/22 12:14:52.32 hBrVEyEn
織田長政なんてのもいるぜ
活動時期は江戸初期だけど生まれは戦国ってことで一つ

526:人間七七四年
12/09/22 12:24:46.56 96f3VvAj
木沢長政 (1493年? - 1542年) - 戦国時代の武将。(山城国南部守護代)
浅井長政 (1545年 - 1573年) - 戦国時代の武将・大名。(浅井氏)
浅野長政 (1547年 - 1611年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅野氏)
黒田長政 (1568年 - 1623年) - 戦国時代から江戸時代の武将・大名。(浅井氏)
池田長政 (1575年 - 1607年) - 戦国時代から江戸時代の武将。(池田氏)
上杉長政 (生年不詳 - 1628年) - 江戸時代の旗本。(上条上杉家)
織田長政 (大名) (1587年 - 1670年) - 江戸時代の大名。(織田氏、芝村藩)
山田長政 (1590年 - 1630年) - 江戸時代、シャム(現タイ)の日本人町の頭領として活躍した人物。
関長政 (1612年 - 1698年) - 江戸時代の大名。(関氏、宮川藩)
織田長政 (旗本) (1628年 - 1690年) - 江戸時代の旗本。(織田氏)

527:人間七七四年
12/09/22 12:26:14.75 4Cw0SdeS
浅野長政は豊臣政権においては調整型の政治家って役割だね

528:人間七七四年
12/09/22 12:28:22.84 96f3VvAj
黒田長政は常々こうぼやいていたという。
「オレは14歳で初陣して以来、手柄を何度も取った。
しかし、人は皆『如水の子だから当然だ』という目をしている。
その点、幸長はさして武辺者でもない弾正(浅野長政)の子だから、
あまねく天下から武勇をもてはやされている」と。

529:人間七七四年
12/09/22 12:32:40.70 EB2SNDHC
木造さん・・・

530:人間七七四年
12/09/22 12:56:45.43 F7XLBAkn
>>528
10歳くらい年下の幸長に嫉妬するとは

531:人間七七四年
12/09/22 13:07:52.18 QuUwL04t
>>528
え?クロカンの方が無辺者のイメージ無いけど...

532:人間七七四年
12/09/22 13:23:50.56 F7XLBAkn
武辺者ってのは個人の武勇だけじゃなくて戦場での采配巧者も含むから如水は武辺者で良いんじゃない?
それも同時代の人から見ればとびきりの武辺者だと思うけど

533:人間七七四年
12/09/22 13:43:27.23 uCrdzVEh
クロカンが武辺者だからというよりは
あのクロカンの息子なんだからさぞ出来がいいんだろう、
とか思われてたんじゃないかと

534:人間七七四年
12/09/22 13:47:22.01 fd1muouz
慶長年間のこと、
大隅の城において薩州様が手討ちに及ばれたことがあった。
その時、お使いになった正宗の切先が鴨居に当たり折れてしまったそうである。

これ以来島津家においては正宗を差し料とはしないと言うことだ。
これは薩摩の国人、小川權兵衛から聞いた話である。


『鍛錬玉函』
『鍛錬秘函』


やっちゃった感がすごいですが
これはどの島津の殿様なんでしょうねえ・・・・・・?

535:人間七七四年
12/09/22 13:55:54.73 qRdHmeZi
>>534
可能性があるのは義久、義弘、忠恒だけど
まあ、あの人でしょ

536:人間七七四年
12/09/22 14:00:10.18 96f3VvAj
(●Д゜)「正宗は大事にしてね。」

537:人間七七四年
12/09/22 14:10:08.20 Bhz95nJk
>>534
何の根拠もなく断言するけど、きっとあの人だ。



538:人間七七四年
12/09/22 14:13:58.05 F7XLBAkn
手討ちなんて一生しなかった人の方が遥かに多いんだろうなあ
そう言えば嫁を失った後の秀忠の手討ち話は豪快で爽快感すらあったな

539:人間七七四年
12/09/22 14:38:17.17 OvyJ76u2
>>536
偽物のマサムネとはいえマサムネを削ったマサムネが言うな

540:人間七七四年
12/09/22 14:56:48.87 rIHbkXdq
(´・ω・`)「銘を変えただけだからOK」

541:人間七七四年
12/09/22 15:18:38.01 pPMT5WgO
やっぱり之定だ 36人斬っても だいじょーぶ

542:人間七七四年
12/09/22 15:31:14.22 uCrdzVEh
>>534
政宗「誰だろう」
忠興「誰だろうね」
長可「誰だろうな」

543:人間七七四年
12/09/22 15:52:52.43 nlPpsqja
島津で手打ちする当主とか誰か分からないわー、コナンの正体ぐらい謎だわー

544:人間七七四年
12/09/22 16:07:36.49 hBrVEyEn
切るなら切るでスパっとやっちゃえばいいのに
鴨居とかで刃毀れしちゃう間抜けは、まああいつだな
東郷に襲いかかって返り討ちにあったのと同じ匂いがする

545:人間七七四年
12/09/22 16:10:34.29 pPMT5WgO
どうせなら蹴り殺した方がマシちゃうんかと

546:人間七七四年
12/09/22 16:21:21.93 URmyPShf
へー、鴨居を斬って刀を折っちゃうような格好悪い殿様が、島津にいるのかー

547:人間七七四年
12/09/22 16:59:16.30 ttUqhglz
おまえら憶測でものを語りすぎだろwww

548:人間七七四年
12/09/22 17:21:58.61 96f3VvAj
伊集院忠真「義兄さんがそんな事する訳ないよ」

549:人間七七四年
12/09/22 17:43:19.77 v4hiVesG
>>545
????「毬は友達だよ、乱暴に扱っちゃダメだよ」

550:人間七七四年
12/09/22 20:47:10.39 pPMT5WgO
腹のわた 掻き出でてみれば ○久の 鴨居に禍う 抜きつ白刃

551:人間七七四年
12/09/23 11:12:38.64 yvQg5f+q
ちぇすとー!な剣術だと当たるわな・・・部屋の中だと突き主体の剣術のほうがいいんだが。バールのようなもので撲殺もいいと思うが

552:人間七七四年
12/09/23 13:42:41.15 Bs7TKjKo
??「鴨居ごと 圧し斬ってしまえ 不如帰」

ここに出た話では棚の中に差し込んで斬ったんだっけ

553:人間七七四年
12/09/23 14:59:53.21 yvQg5f+q
さっき実験してみた。もちろん打刀でやると怒られるので木刀で代用
鴨井の真下あたりにいるのを切るとか鴨井から一歩のところで振りかぶるとかしないと当たらないな


554:人間七七四年
12/09/23 15:38:24.29 RI8/iPDP
室内で刀を振るなら居合いの型を参考にすれば良いな

555:人間七七四年
12/09/23 18:09:57.65 yEt8ZH62
ふむ居合やってる妹に聞いてみようかの

556:人間七七四年
12/09/23 18:12:44.76 UJFrPpIc
東郷重位くらいになると分厚い碁盤を両断して床板も貫き
その下の横木に刀が食い込むくらいになるらしい
重位からしてみればYOU、鴨居ごと斬っちゃいなYO!ってことか?

557:人間七七四年
12/09/23 18:22:16.85 RI8/iPDP
鴨居はまだ剣先に速度がついてない段階で当たってしまうからなあ

558:人間七七四年
12/09/23 19:07:35.90 dMgqV0aj
????「えぇい慮外者め、其処へ直れ、儂自ら茶を振舞ってくれるわ!!」

559:人間七七四年
12/09/23 19:47:54.29 EMkUoTnH
小早川隆景が亡くなった時、その事を吉川広家に知らせに来た林吉兵衛入道梅林と内藤河内守が広家に語った話である。

『これは未だ、吉川元春様が生きておられ、我々と織田信長との和平が敗れ、織田との戦いが続いていた頃のことです。
ある時、元春様より隆景様に、次の合戦におけるご自身の方針の所存を遣いを以ってお伝えなされました。
これを聞いた隆景様は驚かれ

「元春は若武者か、五百三百の侍大将のつもりか!彼の言うような事が出来るわけがない、
こんなものは討ち死にするだけだ!彼はここから一歩も引き下がらず、敵に向かって攻めかけるとのみ言っている!

敵の大将である羽柴秀吉は大敵である。その秀吉との争いで、このように短慮で勇一途を専らにしては、
大敗するのが目に見えておる。このような作戦は、尼子勝久程度の敵に対してするものだ!」

私たちは隆景様の仰ったことを、誠に道理だと思いました。この事は元春様が誤っていると考えたため、
元春様の元に行き、この事を申し上げました。すると元春様は

「隆景ともあろう者が、なんと武道を心得ぬ事を言うものだろうか!
どうして私が秀吉を尼子勝久のような小敵と同じに見て、あの方針案を作るものか!

よいか、勝久のような小敵には、先ず負けぬ工夫をして、よく身を縮こまらせ堅く守る戦をするのだ。
そうすれば所詮相手は小敵であるので、次第に威勢衰えて結局は敗北するのだ。小敵こそ恐れるべきものである。

さて、現在我々は織田信長を敵とし、羽柴秀吉と合戦に及んでおる。
織田は大敵強敵であろ、中でも羽柴秀吉は大勇にして智を兼備した良将である。
彼は天性の大将であり、敵が弱気であると見て取れば、即座に打ち破り、そのまま足を止めず
三ヶ国も五ヶ国も、直ちに押し入るような弓取りである。

例えば、我等が父元就が厳島で陶晴賢を討ち滅ぼした時、家中からは「一両年ほど置き
戦備を整えて山口に攻め入りましょう」との声が上がった。これを聞いた父上は

『元就の弓矢は古風でな、私ならば陶を討ったその勢いに直に乗り山口に攻め入る。
そうすれば大内義長はその年のうちに滅びるだろう。期間を空けるのは、遠慮過ぎたる弓矢の取り様である!』
そう言って批判なされた。

秀吉は元就様のような大不敵の将であり、味方が少しでも弱気を見せれば、その威勢に任せ大軍を以って即時に攻め潰してくる。
この様な大将が、しかも大軍を以って敵対している以上、我々は勇を専らとして何度も攻めかかり、
彼の戦機を奪い動揺させ、十死に一生の戦いを決せんとする体を示すべきだと、私は言ったのだ。

それを小敵などとの戦と同様に考え、危うい戦を謹んで身を大事とのみ心得るのは、敵に威を奪われ
味方は気後れをし、ついには刀を血塗る事すら無く大敗するものである!
大敵を見ても恐れず、勇みたるこそ良きことなのだ。

思い出して欲しい。元就様が尼子を攻めようと出雲に侵入する時は、戦を後にし謀略を先にして、
陣城を築き、当方の安全を第一に考えられた。
ところが陶のような大敵と戦うときには、彼は2万余、我々はわずか三千で対峙し、風雨の中
厳島に渡り千死一生の合戦を挑まれた。
これは我々が規範とすべきことではないのか!?

秀吉のような敵を勝久などに対するように心得、危ない危ないと謹んでいれば、終には
戦わずして大いに敗亡してしまうだろう。
敵によって対応も変化させるべきなのだ。」

この様に承り、我等も愚かながら、これもまた畢竟の道理であると思いました。

いつも元春様のもとに参って仰せを承れば、これは当然の理であると思い、隆景様のもとに参って
仰せを承れば、これもまた至当であると思いました。
どちらのご所存も、一つとして愚かなものはありませんでした。
この様な名将が、今や二人ながらにして亡くなられたことの、なんと嘆かわしいことでしょう。』

秀吉との戦いについて、吉川広家と小早川隆景の方針の違い。という逸話である
(陰徳太平記)

560:人間七七四年
12/09/24 10:44:56.30 p3i0xl6D
元春と広家が混ざってないか?

561:人間七七四年
12/09/24 13:40:04.74 zK088e/x
秀吉をして勇気が足りないと言われる理由がわかるな。

562:人間七七四年
12/09/24 17:07:42.40 d6MMRShR
(´・ω・`)

563:人間七七四年
12/09/24 18:24:46.93 tt2gFvNR

松平忠直は讒言を信じて家臣の布施但馬(久世但馬守)を殺害した。
この時、表口より本多富正、好寄屋口より永見伊右衛門、台所口よりは
永井道存が討手として遣された。

その話を聞いた徳川家康が「その道存とは誰だ。
他の二人のようにこのような時に出るべき者なのか」と尋ねると、

本多正純が「それは永井善右衛門のことでこざいます」と答えた。

「善右衛門のことか! 親の秀康の心にかなわず退去した者を
その子が使っておるのか!

他所に口に糊する所がなかったのだな。親が見限った者を
子として養う道理はない。我が生前に再び道存の面を見ることはないだろう!」

家康は相当不機嫌だったようで、忠直としても放置しておくわけにもいかず、
道存は逼塞を命じられた。

―『徳川実紀(武功実録)』

564:人間七七四年
12/09/24 21:30:29.62 maC7aOIv
権現様も最終的には秀康のことかなり評価してるっぽいんだよなあ
秀忠に対する礼の篤さが権現様の心を溶かしたのか

565:人間七七四年
12/09/24 21:46:59.11 c7kC9PRQ
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
上の話だと永井善左衛門は、秀忠に壺や刀を献上して徳川家に戻った、てことになっているが
秀忠は親の家康の心にかなわなかったものの帰参を許したことに?

566:人間七七四年
12/09/24 21:56:24.12 PFkfcjlj
ところで福島正則という人は豊臣秀吉の御従兄弟であったが、始めは大工の弟子であられた。
彼は天性大剛勇猛であったので、大工の道具を売却して太刀を買い、太閤が未だ筑前守であったときに
これに奉公し、上月合戦において27歳にて南條元続の若党の頸を獲ってから後、数度の勇を顕し、
特に賤ヶ岳の合戦において比類の無い鑓働きをし次第に立身して高麗の陣の頃には
12万石(10万石とも)を采地し、諸大夫から四位の侍従に昇進した。

正則は酒に関していつも悪い癖があり、酔うと些細な事でも家人を自ら斬り殺したり、
切腹させたりした。
しかし酔っていない時はそのような悪癖は聊かも無かったのだら、そういう時もあまりに理屈を
強く重視する人で、そのため愛という事を知らず(余リニ理強ク被樹ケル故、愛ト云事ヲ不知)、
小さな罪でも許さず、彼の与える罰は常に、手柄を立てた時の賞に勝る物であった。

そんな事だったので人々の心は彼に叛き親しむこと無く、ただ悪鬼天狗のように恐れていた。
(陰徳太平記)

陰徳太平記より、福島正則についての解説である


567:人間七七四年
12/09/24 22:00:17.68 PFkfcjlj
ああ、すいません、7行目

×聊かも無かったのだら
◯聊かも無かったのだが

です。

568:人間七七四年
12/09/25 22:42:54.86 /0D5qFmv
>>566
正則が侍従に叙任されたのは1997年で
従四位下に叙位されたのは関ヶ原後でしょ

569:人間七七四年
12/09/25 23:11:06.14 gBW1WsGn
>>568
侍従叙任最近すぎるなw


570:人間七七四年
12/09/25 23:15:38.36 inG40JbE
>>568
橋本内閣が追叙したのかwww

571:人間七七四年
12/09/25 23:22:08.95 /0D5qFmv
失礼
1597だったしwww

572:人間七七四年
12/09/26 00:02:11.99 NzqqgQxX
腹痛ぇw
1997年じゃ平成になってからの叙任になってしまうな

573:人間七七四年
12/09/26 00:15:53.23 zOxjmtoR
陰徳太平記書いたのは吉川の家臣みたいだし
筆者はもとから市松を良く思ってなさそうね

574:人間七七四年
12/09/26 00:57:27.13 IU4GiR0Q
天正十一年(1582)八月、
上杉景勝は越後、信濃の旗下の兵を動員して反乱を起こした新発田へ出陣した。
同年九月、
この隙をついて隣国深志城の小笠原貞慶は、兵三千余を率いて上杉方の竜王城を襲った。

この時、城主清野清左衛門佐は景勝の新発田攻めに従って居た為、
城には隠居した父の清就軒と兵四十余が籠るに過ぎなかったが
清就軒は、信玄公以来の武功の将だったので、
兵を三つに分け城内や山岳に潜ませ五千六千の兵に見えるように配置した為、
小笠原勢を食い止めることに成功した。
そして自らは、海津城の村上(山浦)国清の許へ援軍の要請に向かった。

海津城で国清に面会した清就軒は、
「我等が敵を引き付けている内に海津城から兵を出し、
敵の後方から切り崩せば小笠原勢を討ち取る事が出来るでしょう」
と主張したが国清は、病気を理由に出陣を渋った。
これを聞いて清就軒は、
「自身の出陣が無理ならせめて二十三十の寄合武者だけでも寄越すべきである!
このような不義な振る舞いをするのであれば、
川中島の四郡の内に貴殿の下知に従う者は一人も居なくなるだろう!!」
と怒り戦場へ戻って行った。
これに国清もさすがにこたえたのか二日後に配下の島津勢を加勢に向かわせた。

島津勢が到着する前の九月十一日払暁、
小笠原勢は竜王城の守りが堅く進攻は無理だと判断し、兵を九つの備に分け撤退を始めた。
山上からこれを見た清就軒は、
十騎に雑兵四百五十余を率いさせ山上に残し、自らは三十騎を率いて山を駆け下りた。
不意を突かれた小笠原勢は混乱し、歩者二三〇、士五六騎の被害を出して壊走していった。

十月五日、帰国した景勝は清就軒に感状を与え、救援を拒否した国清は、春日山城に召喚され
「今度の様子頼もしからず。ゆくゆく、川中島を敵に取られるべき事眼前なり」
と叱責され海津城主を罷免された。

『管窮武鑑』

575:人間七七四年
12/09/26 10:27:59.59 Ii86Mq/S
寡兵を多勢に見せるって話はよく聞くけど
ちゃんと成功するもんなんだなー。
それにしても、小笠原勢は一度も攻めなかったのか。

576:人間七七四年
12/09/26 13:16:27.86 5xg+0/vi
民主党政権もどうせ末期なんだから、今のうちにおらが町の武将を追叙任してしまえばいい。
もしかしたら、この板の住人が1票ぐらい入れてくれるかもしれん。

577:人間七七四年
12/09/26 18:51:23.42 IkBZVB/p
>>573
吉川と福島はそこそこ親しい
陰徳太平記もこのすぐ後に、正則の友人広家って表現出てくる

578:人間七七四年
12/09/26 19:54:12.14 /rFvEKkh
>>568
三成も正則と一緒に諸大夫から侍従に叙任されたのかな?
それとも三成は諸大夫のまま?

579:人間七七四年
12/09/26 20:55:33.74 NhBHIA02
>>578
三成死んでますがな

580:人間七七四年
12/09/26 21:00:19.82 SlP38sd5
まあ1997年なら確かに死んでるが・・・

581:人間七七四年
12/09/26 21:05:14.86 /rFvEKkh
>>579
1597年なら辛うじて生きてますがな

582:人間七七四年
12/09/26 23:11:58.10 V+z4qb0d
加藤清正も侍従に叙せられたのは関ヶ原後だしなぁ

583:人間七七四年
12/09/26 23:25:22.35 aENemeea
>>575
敵の主力が出陣している隙をついて敵地に乱入する小笠原貞慶。
そのまま攻めかかった場合は、こんな感じ。
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)

584:人間七七四年
12/09/27 04:30:59.03 Q5dWYvzf
かの武田四名臣に数えられる春日虎綱の息子、春日信達のお話

彼もまた父のように武田家に忠義を尽くしたかというと…、

ついに織田軍の武田征伐が開始され、東駿河の三枚橋城にいた信達は勝頼の元に馳せ参じる!

「勝頼様のおそばで戦いますぜ!」

…しかし実態は、近隣の戸倉城が同時に動き出した北条軍に落とされたため、
恐れおののいて逃げてきただけであった。そのため三枚橋城はそのまま北条軍のものとなってしまった。
これに対し勝頼は「なに三枚橋放棄してこっち来てるんだ!お前はもう地元の海津城に帰ってろ!」
と叱られ、とぼとぼと信濃の海津に帰還する。

その後、やって参りました鬼武蔵!これに対して信達は!

「あたしゃ強い者には逆らいませんぜ。この通り人質も差し出します。へっへっ。」

と息子を人質に出してさっさと降伏、そのまま鬼武蔵の配下になる。
しかし間もなく本能寺の変が発生。鬼武蔵はただちに帰還することに。
すると信達は…!

「おおっと兄さんここからは帰しまへんで。立場は逆転したようですのう!」

と裏切り、一揆衆を率いて鬼武蔵の帰還を妨害する。
これに対し鬼武蔵側は大塚次右衛門を使者に立て、
「こっちには人質がいるんだ!こんな状況で汚ねえ真似しやがって、道を開けろ!」
と強い態度で責めたて、不可侵の約束を取り付ける。しかし…、

「なーにぶっ殺しちまえばいいってことよ。」

と約束を破り攻撃する。
しかしそこは相手は鬼武蔵。あっさり撃退される。
再度不可侵の約束を取り付けられて撤退されてしまう。
しかし鬼武蔵の怒りは収まらず、その後人質は皆殺しにされてしまった。

次に信達は上杉景勝に臣従することにした。
しかしやがて北条氏が勢力を伸ばしてきた。隣の真田昌幸も北条氏に仕えることにしたという。

「こりゃまた強い方に乗っとかな損でんな、上杉はんサイナラ。」

とまたしても裏切ろうとするが…、

景勝「てめえが裏切るだろうことはすでに見抜いてたんだよッ!!」

とここで信達、ついに誅殺されてしまった。

しかも話はここで終わらない。
やがて鬼武蔵の弟・森忠政が川中島に配置される。
そこで忠政が初めに手を付けたことは…、

「ここに兄貴を裏切って随分ナメた真似してくれた奴らがいるってなあ!ケジメつけてもらおかあ!!」

と残る春日一族を徹底的に探し出して皆殺しにしたという。
忠義?なにそれおいしいの?


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