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関ヶ原の際上田城に帰着した真田昌幸は
家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という証文を皆に見せた。
そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。
さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。
この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。
『翁物語』
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なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。