12/08/15 01:14:29.39 meBddRE4
>>1
骨折り!
3:人間七七四年
12/08/15 13:40:32.41 KpQmkjq1
>>1
スレ立て大儀であった!
お歴々が一風呂馳走したいと申しておるぞ
蒲生レオン「俸禄が払えず申し訳ない、心ばかりだが湯の加減にはいささか自信がある」
前田慶次郎「加賀大納言様も身を震わせて喜んだ自慢の風呂がござるぞ」
武田信玄「駿河から霊峰富士山を見ながらの風呂釜もよいぞ」
超時空太閤「いやいや三条河原で風呂釜に浸かれば極楽浄土も見えるぞよ」
鬼作左「当家は御主君が吝嗇なので釜はないがお家の周りに薪を積んで蒸し風呂の用意をしておいたぞ」
4:人間七七四年
12/08/15 16:23:59.64 V3H+Nqid
>>3
作左は釜を壊す係りなのに
5:人間七七四年
12/08/15 21:12:23.03 NQXs0Hg/
>>3
>当家は御主君が吝嗇なので
じゃあ生簀程度の贅沢を大目に見てあげてもいいじゃないですかー
6:人間七七四年
12/08/15 23:22:04.60 qxrimqnS
>>1
上杉定正「何やら風呂場が騒がしい?其方のために余興を用意しておる。ゆるりと湯に浸かって待つがよい」
7:人間七七四年
12/08/16 02:21:37.85 YABYJJ+Y
マラー「おねーちゃんも呼ぼうぜ!」
8:人間七七四年
12/08/16 04:52:42.83 0AEbxoW1
信孝「木太刀など不要と義朝公も申しておる。効能は昔より或る痔、打ち身の野間なれば…」
9:人間七七四年
12/08/16 06:14:13.59 IZkuBg/j
美濃尾張
10:人間七七四年
12/08/16 17:28:57.57 tme3h6f2
ある時、徳川家康がオコリになったことがあり、様々な治療を試みたが効果がなかった。
そんな時に病を治すことができるという者がいて、家康の病を治すために呼び出された。
ところがその者の治療法というのが珍妙であった。まず、その者は屏風の陰に立って
「さあ参るぞ参るぞ」と言うので、家康は「何をするつもりだ」と笑った。
すると今度は丸く括った帯を蛇のようにして投げ出したので、家康はただ可笑しく思って
いるだけで、病気はまったく治らなかったということだ。
身分の低い農民などの療法を家康のような高貴な人に使って、病気を治し大手柄を立て
ようと考えるとは、滑稽な話である。
慶長五年の七月頃に家康はオコリになったというから、これはその頃の話であろう。
―『徳川実紀(古老夜話、武徳編年集成)』
11:人間七七四年
12/08/16 17:33:34.74 V8qOPIpn
>>10
家康「今日からお前は帯太郎と名乗るがよい」
12:人間七七四年
12/08/16 17:59:07.21 Vp2XNNtA
こういうインチキ治療師が来た時、家康だからケタケタ笑ってるけど、
信長だったら世を欺く輩と言って成敗するんだろうな、と思うと
そのあたりがいい悪い別にして、君主としての違いにもつながるんだろうな、とか感じた
13:人間七七四年
12/08/16 18:57:24.19 Xpp3CHsJ
オコリってなんだよって思ったらマラリアのことかよ
危ないもんにかかってたんだな
14:人間七七四年
12/08/16 19:38:04.14 eY6iCOv1
マラリアや天然痘、破傷風にかかっても治療法がないんだもんな。恐ろしい時代やでぇ・・
梅毒もこの頃からか
15:人間七七四年
12/08/16 19:50:01.63 IOF/2KPf
穴山梅毒さんは上京して相当羽目を外して遊びまくったのかな
16:人間七七四年
12/08/16 19:55:22.47 FaHuI2bT
てっきり朝鮮出兵で流行したのかと思ったのだが
それより前から流行してたのか>穴山梅毒
しかしコロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか
と思ったら日本での初発は1512年だった(20年で全世界一周)
17:人間七七四年
12/08/16 20:27:56.49 QB5cLZmC
穴兄弟ばっかだったのか・・・
18:人間七七四年
12/08/16 20:37:07.70 0AEbxoW1
あなおそろしや
19:人間七七四年
12/08/16 20:54:19.43 1hYEWxTb
>>16
穴山さんを性病扱いするのはやめて差し上げろ!
20:人間七七四年
12/08/16 21:16:32.42 JN9TD1HE
>>17
避妊具なんてない時代だからな…
感染の温床になりそうな遊び場所はあっただろうし。
21:人間七七四年
12/08/16 21:21:50.23 D1WVlOYP
>>17
大名を相手に出来るクラスの高級娼婦がとても少なかったらしい
22:人間七七四年
12/08/16 21:31:38.10 VeD+5Xaa
>>10
まあ「病でこのまま俺は死ぬんだ……」と心が折れかけてる人には微妙に効きそうな気がせんでもない
23:人間七七四年
12/08/16 21:40:52.87 Vp2XNNtA
>>21
応仁の乱の原因の一人でもあった畠山義就の母親は京の高級娼婦で、小笠原氏や飛騨江馬氏の所でも
子供作ってるな。全部お家騒動の元になってたりw
24:人間七七四年
12/08/16 23:27:30.00 FaHuI2bT
なんか小少将を思い出した(こっちは高級娼婦じゃないけど)
畠山と小笠原のネタもあるが
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
明智光秀の姪であり、細川持氏の妻として細川真之を産み、
持氏の仇である三好義賢の妻となり三好長治と十河存保を産み、
三好長治の後見である篠原自遁と通じ、
三好長治を攻め滅ぼした長宗我部元親の妻となり長宗我部右近大夫を産む
25:人間七七四年
12/08/17 00:05:08.29 1W5Q48/b
キニーネは苦々しく候
26:人間七七四年
12/08/17 00:07:05.46 1W5Q48/b
そいやおこりに罹ると梅毒は治るって話だけどな
27:人間七七四年
12/08/17 00:11:00.96 5Q/YZoeZ
マラリアにかかる→高熱を出す→梅毒のトレポネーマが死ぬ
→キニーネ発見されてないからマラリアで死ぬ
28:人間七七四年
12/08/17 00:39:43.40 fW9/cU2G
>>16
1492年のクリストファー・コロンブスの新世界の「発見」にちなむ梅毒の伝搬は、
アジアへはヴァスコ・ダ・ガマの一行が1498年頃インドにもたらし、
日本には永正9年(1512年)に中国より倭寇を通じて伝わったといわれている。
20年じゃん。
29:人間七七四年
12/08/17 00:47:41.51 5Q/YZoeZ
>>28
20年って書いてるが
30:人間七七四年
12/08/17 00:51:42.76 fW9/cU2G
>>29
「コロンブスから100年で日本までというのがすごいというのかなんというか」
とあるが?
31:人間七七四年
12/08/17 00:52:46.87 5Q/YZoeZ
>と思ったら日本での初発は1512年だった(20年で全世界一周)
100年云々は朝鮮出兵が1592年だったから
32:人間七七四年
12/08/17 00:57:51.09 t6iEEja8
>>30
その下の行を読もうよ。
33:人間七七四年
12/08/17 07:16:46.81 VAJbYdBT
>>30
これがアスペか
34:人間七七四年
12/08/17 07:42:47.73 AKZIoAb7
>>33
粗忽なだけじゃないかと
35:人間七七四年
12/08/17 08:24:45.84 70AveL26
これは恥ずかしい
36:人間七七四年
12/08/17 08:44:23.50 YzapWMBg
>>20
西洋みたいに生き物の腸でコンドーム作ったりはしなかったのかな?
37:人間七七四年
12/08/17 09:12:21.31 s1NXtKt3
避妊って概念は、やっぱりキリスト教の影響が大きいんじゃないか~な~と思うの
やることやってもお腹が目立たなければ当人同士の秘密でなんとかなるけど・・・
まぁ、オレの勝手なイメージなんだけどなw
38:人間七七四年
12/08/17 09:31:27.52 b/bErpYT
て言うか、武士階級なら子供は幾らいても良いし。
農家だって飢饉の時以外は貴重な労働力、只で手に入る奴隷。
39:人間七七四年
12/08/17 09:42:53.12 YzapWMBg
できちゃった…/// でギョッとするのは現代人ならではの感覚なのか
40:人間七七四年
12/08/17 10:23:28.76 70AveL26
まあ幼児死亡率が現代とは比べものにならんくらい高いからな
多いに越したことはない、自分の家のためだけじゃなくて、
親類縁者の家の跡継ぎが居なくなったらそこに放り込まなければならない事もあるんだから
41:人間七七四年
12/08/17 11:56:19.03 3PfqAZyY
つい最近のニュースではオトコにテストステロンを注射すれば避妊にコンドームはいらなくなるかもしれんらしいがの
てか、コンドームの語源って人名説があるんだw
42:人間七七四年
12/08/17 12:42:37.18 +RMGFM/e
>>10
分かった、昨今流行(?)の笑って免疫力をあげようっていうアレだよ!(えー
43:人間七七四年
12/08/17 12:44:21.04 +RMGFM/e
わーサゲ忘れた
44:人間七七四年
12/08/18 11:02:23.63 vWaaEVUX
梅毒で鼻がもげたっていいじゃない
人間だもの
45:人間七七四年
12/08/18 11:39:05.87 WXlhiGsE
鷹の名にお花お千代はきつい事
46:人間七七四年
12/08/18 14:04:03.68 q5nYetVq
権現様(徳川家康)は(将軍職を秀忠に譲って)駿府に移られる際も、万事質素に隠居成されたため、
御他界なさるまでに百萬両に達する貯金を作られた。
その内から尾張殿と紀伊殿に三十万両づつ、水戸殿へ十万両を御遺金として進呈され、残りの三十万両は
江戸の御金蔵に入れておくべきか伺いを立てたところ、そのまま駿府に残しておくように、とのことであった。
大納言忠長卿(秀忠次男)が駿河を拝領された時、この三十万両はおそらくお城に付いているものであると
皆思っていたが、この資金の所属についての明言がなかったので、忠長は幕府の御金を預かるのは迷惑であると
申し入れ、久野の御宮に御金蔵を作りそこに移した。これを世間では久野の御金と呼んで莫大な額があるように
言っていたが、ただ三十万両ではなかった。
それは尾張殿の江戸上屋敷が失火で消失した時の普請料として十万両、紀伊殿の和歌山城普請の時に十万両、
水戸殿には三万両を、それぞれ拝借が認められ、その後少しずつでも返済いただきたいと、幕府の勘定方から
お願いすると、尾張殿からの返答は
「私が拝借した御金はもともと権現様がご隠居料の中から貯えられたものであり、ご他界された時、遺金として
我々兄弟三人への御譲金の残りであり、それを我々が拝借したのだから返納する必要はない!」
と拒否し、紀伊殿、水戸殿も拝借金に対しては沙汰無しとなってしまった。
当時はその他の大名衆にも拝借金が認められていて、それぞれの借金は決まった通りに必ず返済されていた。
ところが伊達政宗の借金返済が滞ったので、これまた幕府勘定方より催促したところ、陸奥守忠宗からは
「私の代では拝借をしておらず、亡父政宗の代に借金があったとのことですが、どういう経緯で借金をしたのか
今は解りません。親の代に借りた御金ですから、親が生存しているうちに返上を申し付けられるべきなのに、
その時は放置しておいて私に返上しろとは、全く迷惑な話です!」
そう言って返済しようとしない。
また譜代大名の松平越中守の方でも拝借金返済が滞っており、これにも勘定方から催促すると、越中守は
「前に拝借した時、私の方からさし上げた証文があるはずなので、それを見えてもらえるか?」
と言うのでこれを取り寄せると、越中守はそれを見て
「うむ!私の覚えているとおりだ!皆もここに見えているように、『御貸し下され有難く存じ奉る御金の事』と書かれている。
これは『拝借を仰せ付けられた』とは私の解釈では『拝領を仰せ付けられた』ということなのだと考え一言書いたものである。
従ってこれは、返上の必要はないと思う。」
と、これもまた返済しようとしない。
この様なことがあったので、幕府からは今後もう、諸大名への拝借金は認めない、と言うこととなった。
(駿河土産)
言を左右にして何とか借金から逃げようとする大名たちのお話である。
47:人間七七四年
12/08/18 14:15:07.86 XzgT6NJu
これが武断政治の実体か・・・
48:人間七七四年
12/08/18 14:17:17.73 uY5jsbIY
ジュニア世代も立派に育ってるなぁ、感動した;;
49:人間七七四年
12/08/18 14:30:28.20 HjX195iS
福島正則の改易とか結構厳しいイメージがあったから意外だった
借金を理由に伊達を取りつぶせばよかったのに
抵抗したら奥州征伐で。あの時代の武士って戦無かったからちょうどいい演習になるしな
50:人間七七四年
12/08/18 14:33:13.22 lBc6ZGAR
あの時代だからこそ穏便にすまそうと思ったんじゃないの
戦を経験した人も少ない時代だろうし
51:人間七七四年
12/08/18 14:38:59.19 54p/53yT
>>49
取り潰されるのは五人目の四天王。
四天王は潰されない。
完璧超人だからw
52:人間七七四年
12/08/18 15:28:20.03 UpumMJAU
津山は取り潰されたじゃん
53:人間七七四年
12/08/18 15:52:49.91 Wbfacg1H
江戸の人口を仙台からの米が支える構図がこの時期どのレベルだったかよく知らんけど
幕府が伊達とケンカして米の流通滞ったら物価経済の混乱で借金額なんぞとは
比較にならん損失出るんじゃね?
54:人間七七四年
12/08/18 16:42:22.73 nlJ9mhVm
でも下手すると直轄地にされる諸刃の刃
55:人間七七四年
12/08/18 23:04:37.98 aSk0UUbR
借金踏み倒すってなんかムカつくな
全部取潰してやればよかったのに
56:人間七七四年
12/08/19 02:10:15.36 v7aAzoIl
金は卑しいものという意識が当時はあったみたいだし
幕府としても、金のことで揉めるのはみっともないという考えがあったのかもね。
現代の感覚だと借金はどんなことをしてでも返さないといけないって感じだけど
当時の感覚とは相当な隔たりがあるんだろうな。
57:人間七七四年
12/08/19 03:45:56.60 wK/xOXfA
犬千代さんなら追込み掛けるんだろうな…
58:人間七七四年
12/08/19 04:00:28.72 VzY311M/
犬千代さんなら政宗が死んだ段階で借金の証文を燃やすだろ
59:人間七七四年
12/08/19 10:06:15.52 +GSIWw/p
まつ「うちの旦那なら…」
60:人間七七四年
12/08/19 10:53:47.82 7Kz0Em/i
あれ?細川さんどちらへ?
61:1/2
12/08/19 13:17:21.55 YECCYDjF
聚楽繁栄の時分というので、天正の16~20年頃であろうか。黒田家においては如水より、家中の者に
賭博の禁止を、厳重に申し付けた。
ところが桂菊右衛門と言う無足の者、法度にも関わらず毎晩他家に忍び出て博打を打っていた。
ある夜の事、菊右衛門は博打に勝って金・銀・刀・脇差など数多を取り、これらを雨羽織に包んで
打ち担いで帰る道、夜も明けようとしていた。
この道は如水が出仕のため通る道であり、行き合ってしまっては都合が悪い。如水が出仕の前に
帰ろうと道を急いだ。仮に行き合い、問い詰められたら、博打打ちに行ったわけではないと
言い訳しよう。その様に考えながら前の方を見ること無く急いでいたら、町の境目で
バッタリと行き合ってしまった。如水と。
菊右衛門大慌てである。心の準備もないまま出くわしてしまったのだ。パニックになった彼は
かの刀を担いだまま這いつくばり、聞かれもしないのに大声でこう叫んだ
「私は博打を打になんか行っていません!!!」
如水は、何も聞かなかった体で菊右衛門の横を通り過ぎた。
さて煩悶この上ないのが菊右衛門である。
「なんてことだ!あんなに取り乱してしまって、どうしようもないではないか!
この間法度を厳しく申し付けられたばかりだというのに…。きっと私は切腹を申し付けられるだろう!
こうなったらもう是非に及ばない。菊右衛門の奴は狼狽えてたわけたことをしたと、死後にきっと
馬鹿にされる!返す返すも無念だ。…どうしよう?」
そう思い悩んで長屋に帰り、すっかり草臥れていたのに寝入ることも出来ず、布団を打かぶって
まじまじとしていた。きっとガタガタ震えていたのだろう
さて、菊右衛門の大胆な告白を目の当たりにした、如水の出仕の時に供に付いていた者たちは
「おいおい何てことだ?コレはどうなっちゃうんだろう?」と、如水の出仕中座り込んで
囁きあった。
「絶対只じゃ済まないぞ。この間の博打禁止の法度は、普段よりも厳しく申し付けられた。
切腹は疑いようもないなあ…。」
そう考えると不憫に思い、供より帰ると直ぐに菊右衛門の部屋に我も我もと見舞い、さて、これからどうしよう
と話し合ったが、皆意見はまちまち
「とにかく逃げ出す以外はない!仰せ出される前に逃げろ!」という意見に菊右衛門
「いやいや、逃げ出すなんて出来ないよ。今朝すぐに逃亡しておけばどうって事も無く逃げ切れたの
だろうけど、あなた方が帰られ、こんなふうに相談してから逃げ出したら、あなた方が後から必ず
詮索を受けるよ。そうなったら私の逃亡先はバレて、またここに戻らされるだろう。
もう、とても逃れられない道だ。切腹を申し付けられたら外聞が良いように斬らせてくれ。」
そう行って逃げないことに決めた。傍輩達への信頼感はゼロである。しかし傍輩達
「そう思うのも理屈だけど、お前が逃げちゃえば、上から詮索受けても俺たち随分凌いでみせるぜ?
それでもどうしてもダメだったら、ま、その時は出てきて腹を斬れ。
そうした方が武士の手柄としても上だろう。さあ、急いで逃げる準備をしろ!急げ急げ!」
そんな風にしている所に突然、如水より御側衆の緊急の呼び出しがかかった。
すわ何事か!?何が起こったのか、もしや早くも菊右衛門の切腹の事かと口々に悔やみつつ、
取るものもとりあえず駆け出し集合してみれば、何のことはない、中間たちに居間の庭に竹垣を結ばせたが、
その結び様の手際が悪く、あれをほどいて手際よく結び直せ、との仰せ付けであった。
さては菊右衛門の事ではないと何れも安堵した。
62:人間七七四年
12/08/19 13:18:12.04 YECCYDjF
その頃菊右衛門は、切腹の仰せが今か今かと固唾を飲んで、部屋で(多分布団をかぶったまま)
ガタガタ震えていたが、一人走り戻ってきて
「博打のことじゃないぞ!垣を結べという事だ!」
と報告したので、菊右衛門、そして一緒に残っていた者たちはホッとして大息をついた。そして菊右衛門
「こういう仕事にはいつも出ている私が、ここで引き込んでいるというのも良くないだろう。
もう手討ちにあってもしょうがないさ。あなた方と一緒に行くよ。」
と言い出したので、傍輩たちも「それも尤もだ」として共に竹垣の直しに向かった。
さて、如水は居間の縁側からそれを見つけると「菊右衛門!菊右衛門!」と高々と呼んだ。
傍輩達はこれに
『すわ、博打の事だ!不安だなあ。だけども如水様は家来を手討ちにはしない人だ。その上
他家での手討ちをいつも批判しているほどなので、まさかここで私が手討ちにされることは
無いだろう。いつもみたいにしたたかに叱りつけると言う事なのだろう。
上手く行けばここで、この件に関しては埒が明くぞ!』
そう思いながら尻目に見ていると、菊右衛門はいかにも近くまで呼びつけられ何事か囁かれた。
傍輩達『これは博打のことではない。何か隠密の用でも仰せ付けられるのか?
それとも如水様は彼の常日頃の心立てをよくご存知なので、菊右衛門に直に申して、埒を明けて
下さるのだろうか?おや?菊右衛門も何か申し上げているぞ?多分博打のことだな。
如水様が申し開きを聞いてくださっているのだ。あら嬉しや』
そう囁き合っているうちに、如水から
「竹垣を直し終わり、掃除をしたら皆々帰って休め!よく骨を折ってくれた。上々の竹垣である。
これには気に入ったぞ!」と、悦びを伝えた。
彼らは庭を出るやいなや菊右衛門に「何事を囁かれたのか!?」と尋ねた。すると菊右衛門
「あの事ですよ。お前、昨夜は博打を打にどこに行ったのかと聞かれたんだ。
どこどこの殿の家中に参りましたと申し上げると、
『どうやら勝ったようだな。刀、脇差の他、金をどのくらい取ったのだ?』
私は五百目程取ったのだが、如水様の常日頃の気質を知っているので
『一貫目あまりだと思います。今朝からは殊の外悩み苦しんでいたので、金ももはや要らぬものと思い
打ち捨てていたので詳しくはわかりません』
と申し上げた。すると如水様は手を打って喜ばれ
『先ずは勝ったか!でかしたぞ!しかし小金を要らぬものと思うのも当然だ。法度を厳しく言いつけたのだから、
お前のやったのは近頃は危ないことだ。
まあ、お前が今朝のようなたわけた事をしたのも、法度を常々恐ろしく思っているゆえだろう。
それ程に思っているのなら、今後はいかなることも法度に背いてはならぬ。
良いか、何でも物事というのは、良い事の次には悪い事があるものだ。勝った時はしっかりとそこに留まれ。
お前の身体にとって昨晩の勝ちは重々しいことだ。今後お前の身代が擦り切れたと聞いたら、罰を
与えるぞ!構えて構えて、博打を打ってはならぬ。むざむざと物を人に与えて、身代が擦り切れないようにせよ。』
そう、念を入れて仰っられたのだ。」
菊右衛門ははその仰せを肝に銘じ、誓紙にするまでもなく、博打をやめた。
その後彼は如水より知行を与えられ、身体に過ぎる富貴を得、年老いて子に知行を譲り、一生楽をして
80歳に及んで死んだという。
桂菊右衛門が博打のバレた顛末、についての逸話である
(古郷物語)
63:人間七七四年
12/08/19 13:32:07.55 w2Dv+0c1
>>61-62
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
の詳細・別出典版というのかな。詳しくありがとう。
個人的には時間的に遠い被りは気にしないけど・・・
やっぱいい話なんじゃね?w
64:人間七七四年
12/08/19 16:13:47.86 0+MweGva
URLリンク(www.dotup.org)
65:人間七七四年
12/08/19 16:18:04.38 6WBIk5gE
>>64
シアトルマリナーズの川崎選手の改変はネタは
やめてもらってもいいですかねえ・・・
66:人間七七四年
12/08/19 16:37:06.28 C2GDjp0K
誰かを追いかけて仕官したのに当の相手は逃げ出した
なんて逸話ありませんかねえ・・・
67:人間七七四年
12/08/19 17:41:26.08 hZGrCxI9
>>66
誰かに唆されて謀反したのに当の相手は逃げ出したとかなら
68:人間七七四年
12/08/19 18:35:59.81 BwQaCWrc
謀反を焚きつけて謀殺するってのもありだな。
ところでロミオとジュリエットを日本で置き換えるとどことどこが相応しいかな?ガチで中が悪いというと三才さんのとことngmsとか津軽と南部とか、他あったっけ?
69:人間七七四年
12/08/19 20:37:21.36 FqR7YSwH
お盆に実家近くの神岡に行ってきたので飛騨の話を
飛騨の豪族たちは、時に争いながらも表面的には友好関係を保っていた
しかし越中から上杉謙信、信濃から武田信玄の脅威が迫ってくると、彼らもどちらかに付かざるを得なかった
南飛騨の三木氏が上杉氏と強く結びついたのに対し、北飛騨の江馬氏は主に武田氏寄りの立場を採った
江馬氏は執権北条氏の末裔を自称し、飛騨国高原郷(飛騨市神岡町)を中心に飛騨北部に勢力を持った。
戦国時代後期の当主・時盛は信濃から進出してくる武田氏と結び、三木氏と対抗していたが、息子の輝盛は越中国中地山城にあり、
上杉氏へ近づこうと考えていた
こういった考えの相違から、時盛は輝盛の弟・信盛を当主に据える動きを見せており、親子の対立は避けられないものとなっていた
天正元年、遂に輝盛は時盛を殺害して高原郷の本城を支配した
次いで弟の信盛を甲斐へ追放、他にも後継候補であった従弟の慶盛を攻め殺し、完全に実権を握った。
その後は三木氏と共に上杉氏に属した。
(武田信玄死去の情報を上杉氏へ伝えたのは江馬氏家中の者から河田長親へ宛てた書状である)
しかし、信玄と謙信の死、そして両氏の勢力減退、さらには織田信長の横死という激しく動く情勢は輝盛の野心に火を付けた
当時三木氏は織田氏と通じており、その織田氏という後ろ盾を失った三木氏に輝盛は決戦を挑んだのである
兵力の劣る三木氏は小島氏らと結んで迎撃、「飛騨の関ヶ原」とも言われる八日町の戦いとなった
父を殺し、従弟を討ち、弟を追った男の最期は、三木勢の放った銃弾であった
高原郷へは勢いに乗った小島時光が攻め寄せ、江馬氏は滅亡した
この抗争に打ち勝った三木氏は、これまで協力していた諸氏や自身の一族までも滅ぼし、飛騨国内の大半を手に入れるのであった
70:人間七七四年
12/08/19 21:21:06.58 nopW7FZ1
すまんが何処が逸話なの?
71:人間七七四年
12/08/19 21:35:19.84 7qY+8Hxy
まぁこのスレにはよくあることだし
でもあんまり概説とかは主旨に反するよね
創作とかは言うまでもなく
72:人間七七四年
12/08/19 23:03:49.44 sareDJhY
飛騨の三木氏って聞いたことないと思ったら姉小路氏のことかよ
73:人間七七四年
12/08/20 00:50:45.88 k6Fhdk0n
三木を隆盛に導いた直頼は美濃にちょっかい出してたりするほどなんだけど、あんまり有名ではないよなあ
ところで、小島って国司家の姉小路傍流なのかな?
それとも無関係の一族?
74:人間七七四年
12/08/20 01:43:44.42 4RWe1OET
飛騨っていうとなぜか飛騨鷹比等を思い出してしまう
75:人間七七四年
12/08/20 20:01:12.92 TvH0cv81
あまり有名でない人物は概略を述べるだけでも逸話ぽくなることもある。
76:人間七七四年
12/08/20 22:34:44.64 k6Fhdk0n
飛騨といったら甚五郎
77:人間七七四年
12/08/20 22:45:48.38 MumgZtZW
赤影かもしれん
78:人間七七四年
12/08/21 07:29:28.62 A3Ki2MCk
牛だろ牛、飛騨牛
あーでもこの時代は食わんよな
79:人間七七四年
12/08/21 07:58:52.32 sD34GSnx
>>78
日本の食用のなんとか牛は
近代になって海外の肉牛と掛け合わせた物だから
80:人間七七四年
12/08/21 08:04:12.99 7GiGOlWx
飛騨といえばブリだろ
81:人間七七四年
12/08/21 08:32:24.20 VlFlRE4n
乳牛の飼育に失敗したのは8代将軍だったか
82: 忍法帖【Lv=14,xxxPT】
12/08/21 15:28:59.27 3RAewFho
飛騨ってよくあれで1国になったね。
国力めちゃくちゃ低いんじゃない?
83:人間七七四年
12/08/21 15:46:35.16 MQ1+/the
あまりの低さに税金免除されたレベル
84:人間七七四年
12/08/21 16:33:17.47 F9rxcNHt
飛騨国は農業生産はゼロに近いけど、良質の木材と銅や亜鉛などの鉱物資源で
人口の割に収入はあるイメージだな。まあ、隣国などとの交易も大変そうだけど。
85:人間七七四年
12/08/21 16:39:45.00 QMn0xiiF
二年くらい前に白川郷に泊まりに行ってみたら、道中のトンネル手掘りが結構な数あったなー。
当然の事、幅は狭いし、短い間隔で道路工事やってたもんだからトラックも結構通るなから、なかなかスリリングで楽しかったw
86:人間七七四年
12/08/21 17:07:16.77 hUkpucKK
飛騨かぁ。高山とか下呂温泉には旅行で行ったことある
観光で行くにはなかなか素敵なところだけど、住むとなるといろいろ不便ではなかろう
か、と思ったり
俺が戦国武将だとして、もし、
「こたびの働き見事であった!加増してつかわす。○○国××郡に代わり、飛騨一国を与える!」
とか言われたら「ははぁ~有り難き幸せ」とか言いつつ、内心ビミョーなんだろうなw
でも、外敵には強そうだな。勝手知ったる地元の兵を動員してゲリラ戦に持ち込んだら
多少の大軍は撃退できそうなイメージ
87:人間七七四年
12/08/21 17:13:16.00 YGXQo3yb
飛騨は石高は大国の一郡程度だけど木材収入が結構な物だったから、
小大名クラスならかなり美味しい話かも。
結局木材の安定供給のために木曽共々天領になっちゃたけど
88:人間七七四年
12/08/21 17:48:21.55 fo8flQkM
長政が前任だったらハゲ山になって引き渡されたりしてな
89:!ninja
12/08/21 17:58:33.84 3RAewFho
>>88
忠興「このDQNが!」
どっちかいうと、兼続さんの方がそんなん得意そう。
TERUさんでもいいけど。
5人目に返せと言われ、家臣が決死で酒飲んで死んで、許してもらう。
90:人間七七四年
12/08/21 22:23:34.59 Kci/xxnv
おにいちゃんなら開発した鉱山のリストとかないないしそうだ
91:人間七七四年
12/08/22 00:09:48.07 5xjuHDDU
兼続さんはそのうち越後取り返す気だったから
そんな禿山にしたり統治に必要な資料ないないしたりはしないよ
むしろ景勝にべったりで会津移封から米沢減封まで自領である米沢放置状態だったのが
米沢にとっては悪い話(一応父ちゃんが城代してたけど)
92:人間七七四年
12/08/22 01:11:38.52 vzhmPES2
お前ら、天嶮に篭り強敵を幾度も撃退してきた内ヶ島さまをなぜ思い出さんのじゃ
連戦連敗のどこぞの猫抱き爺よりも凄いおかたぞ
93:人間七七四年
12/08/22 01:52:47.69 PcqlKZI+
そういや手掘りトンネルくぐる前に、向牧戸城址を観たなあ、城址公園すらない寂しい所だったけど。
まあ確かに「天嶮」だわw
保木脇に帰雲城を築き、とは向牧戸の看板に書いてあったけど、攻める気が起きなくてもおかしくないレベルだったんだろうなあw
でも越中西部の砺波まで勢力下にあったと書いてあったから天嶮に籠もってばっかりだった訳じゃないんだろうね
94:人間七七四年
12/08/22 03:40:07.15 oCwprfAj
>>92
おぉ、まさにジシンに溢れておりまするな。
95:人間七七四年
12/08/22 09:58:04.87 gIVvrAPU
夏らしくこんなお話
ある時、三の丸にて不義密通をしたものが出たので、鍋島直茂は詮議の上、男女とも死罪とした。
ところがその後、この男女の幽霊が毎晩現れるようになり、城の女中衆は怖ろしさのあまり、夜になると
部屋の外には出ないほどであった。
この様なことがしばらく続いたので、御前様(直茂正妻・陽泰院)に申し上げたところ、慰霊のため祈祷や施餓鬼などを
するよう仰せ付けられたが、これらをしても幽霊の出現は止まなかった。
そこでついにこの事を直茂公に申し上げると、直茂公はこれを聞かれて
「さてさて、なんと嬉しいことだろうか。
あの者たちは首を斬っても足らないほど憎き者たちであった。そうであった所に、あの者たちが死んでも
行くべき所にも行かず、迷い廻って幽霊となり、苦しみ続けているというのは実に嬉しいことである。
なるほど、かまわないからずっと幽霊としてこの城に居ればよい。」
すると直茂がこう言ったその夜より、幽霊は出なくなったそうである。
(葉隠聞書)
幽霊よりもずっと恐ろしいのが戦国大名なのだ
96:人間七七四年
12/08/22 10:16:10.99 IMOYF7SG
直江も真っ青やなw
97:人間七七四年
12/08/22 10:19:53.88 g0PnSKOF
化け猫も出たようですが、
と言われたらどんな返しをしたんだろ
98:人間七七四年
12/08/22 11:51:51.30 P9b1b+0F
この話既出だね。
99:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/22 11:55:48.94 P4yn8byU
あまりの剛胆さに幽霊すら逃げ出すなんてさすが直茂
>>97
鬼武蔵「そこへ直れ。この人間無骨の餌食にしてくれるわ」
三歳様「そこへ直れ。この歌仙兼定の餌食にしてくれるわ」
100:人間七七四年
12/08/22 12:01:35.89 PpggZvH7
>97
猫缶を準備する義弘様
101:人間七七四年
12/08/22 14:24:21.71 Hb83kX6S
TERU「不義密通など許せませんな、叔父上」
家久(悪)「正室とのみ愛し合わないといかんぞ!」
102:人間七七四年
12/08/22 17:45:58.08 8sNJcG3T
なんか飼い主に忠義なねこって違和感あるよな
103:人間七七四年
12/08/22 19:01:33.53 eIKmHs79
犬でも裏切る時は裏切る
104:人間七七四年
12/08/22 21:05:50.29 GhOqlR3z
犬ってそんなに忠義心ないよ
105:人間七七四年
12/08/22 21:26:33.15 vchVMVkx
家庭内序列犬以下はつらいな
106:人間七七四年
12/08/22 22:05:48.45 BEL8Vlty
犬にも性格があるからな
あと犬が自分以下だと判断した人間に対しては割と厳しい
107:人間七七四年
12/08/22 23:27:38.24 /d54mMID
>>106 >割と厳しい
あるあるw
108:人間七七四年
12/08/22 23:38:21.41 5d4D5QsU
結局「兵農分離」を言い出す奴はバカの一つ覚えみたいに謙信の越山ばっかりなんだよな。
あれは農閑期だから兵を出したんじゃねーよ。謙信の書状にもあるが、古利根川の増水期を
避けだだけだ。増水期に大軍勢で無理に利根川渡るのは難しかったから、それを避けた。それだけの話。
帰国も農繁期に合わせたのではなく、再び増水期に入らないうちに帰っただけだ。
109:人間七七四年
12/08/22 23:38:56.38 jqfPcNhz
多くの犬は自分がNo.2と自負しているらしいから
家庭内で一番強くないと自動的に犬以下が確定しちゃう
110:人間七七四年
12/08/22 23:39:59.26 5d4D5QsU
すまん誤爆した
111:人間七七四年
12/08/22 23:52:22.97 Ev7WGA+5
>>110
信貴山城主がお呼びですぞ
112:人間七七四年
12/08/22 23:54:32.57 +4lPlYti
木沢長政か松永弾正か
どっちにしても命が危ないな
113:人間七七四年
12/08/23 07:07:05.85 S2SfW5cB
>>109
皮肉だな
老犬を愛す義眼の軍務尚書に粛清されるとは
114:人間七七四年
12/08/23 17:42:28.64 0hZ60kwz
荒木摂津(村重)は摂津国の領主であったが、3年間信長と戦い、その頃彼に使えていたジェスト(高山右近)の言を
用いなかったため、その領地を尽く失ったことは、尊師の既にご存知のところです。
彼はそれ以来五畿内のキリシタンに対し、心底からの憎悪の念を抱きました。
信長の死後、彼は大いに謙遜を示して羽柴殿(秀吉)に仕え、他の小姓と等しく茶の用を務めていました。
そして彼は海の司令官アゴスチニョ(小西行長)とその父が羽柴殿より寵を受けるのを妬み、
羽柴殿の前で密かに、また極めて巧みに彼らに対する重大なる偽の証言をしたのです。
彼が巧妙にこれを為したため、羽柴殿はこれを信じ、ジョーチンとアゴスチニョ父子の任を解き、
全キリシタンに大いなる打撃と恐怖の念を与えました。
ですが我等の主デウスは罪なきものに慈悲の目を向け給い、荒木は大いに信用を失い、
ジョーチンとその子アゴスチニョは最初に地位に復帰したのみならず、今はさらに恩寵を加えられ、その収入もまた
倍増するに至っています。
その荒木が羽柴殿と共に茶の湯の場にあった時、羽柴殿はジュスト(高山右近)の事について、その類い稀な
才知と善良なることを語り始めました。彼は荒木にとって甚だしき敵なので直ちにこれに答えました
「そうではありません。殿下が賞賛されている所は彼が外見を偽ったものであり、心中にそのような善良さは
持っていません。」
この言葉に羽柴殿は大いに怒り、彼を呼ぶのに再び「汝」という言葉を使って言われました
「去れ!かくの如き言葉を発してはならぬ!余は彼が内心も外見も異なる所がない事を良く知っておる!」
これによって荒木は直ちに羽柴殿の寵を失い、羽柴殿は再び彼を見ることを欲しませんでした。
荒木は多数の仲介者を通じて宥免を請いましたが、羽柴殿はついに彼を許しませんでした。
そして今度の戦争(小牧・長久手の戦い)において羽柴殿が多数の人を殺した時、荒木は都において彼を軽蔑する
発言をしました。この事が大阪にあった羽柴殿の夫人の耳に入り、彼女より使者を以って厳しく譴責されたのです。
荒木は羽柴殿が帰京した後、殺害されることを恐れて、妻と家を捨てて寺院に入り坊主となりました。
ですが果たして死罪を免れる事ができるかどうか、明らかではありません。
(ルイス・フロイス・天正12年次日本耶蘇会年報)
ルイス・フロイスによって伝えられる、天正12年(1584)ごろの荒木村重の動向である。
115:人間七七四年
12/08/23 19:24:16.36 ijGl90yK
そりゃ村重は右近に梯子外されて酷い目にあってるんだから文句の一つも出るだろうよw
116:人間七七四年
12/08/23 20:17:50.77 pm0V7Yjv
>>114 妻を捨てたということは、道糞になって以降に再び妻帯したのかな? 単なる妾?
117:人間七七四年
12/08/24 07:48:53.20 tZ3UYXU1
道糞さんは波乱万丈の結果、比較的良い晩年だったよね。
フロイスの記述は貴重な歴史なのに、もう少しフェアに記述されていれば・・・
118:人間七七四年
12/08/24 10:35:02.23 g66CsgaY
道糞は賤ヶ岳で中川清秀討ち死にして嬉しかっただろうな
もうちょっと長生きしてればジュストが追放されるのも
見れたのに
119:人間七七四年
12/08/24 10:51:45.73 38zWfZKr
道糞て見るとつい「みちぐそ」さんて読んでまう…
120:人間七七四年
12/08/24 14:09:12.72 5n2aqATQ
ある男が閻魔の前に来た。
その男は極楽に入れるほどの善行を行っていなかったが地獄に墜ちるほどの悪行も行っていなかった。
閻魔帳を何度見直しても結論は出ない、そこで困り果てた閻魔は男に訪ねた。
閻魔「お前はこのままでは極楽にも地獄にも行けない。生前行った善行を言いなさい。」
男「はい、私は生前落ち度もない親族が無礼討ちの憂き目にあったので上役に訴えました。」
閻魔「なるほど、それで?」
男「一度は引き下がりましたが、勇気を振り絞って再び訴えました」
閻魔「それは勇気ある行動だ。で、それはいつの事だ?」
男「つい、四半刻前の事です」
121:人間七七四年
12/08/24 14:10:55.05 V3cF1bqR
山城守「さっさと書状を閻魔に渡せ」
122:人間七七四年
12/08/24 14:13:07.09 zstQDjYa
ソ連ジョークみたいだな
123:人間七七四年
12/08/24 14:20:37.14 38zWfZKr
嘆願書「お玉還せ 直江越中守兼続判」
124:人間七七四年
12/08/24 15:40:43.57 5n2aqATQ
ある信心厚い男がいた。
その男は、昔から本願寺法主の本願寺顕如に是非会いたいと念願していた。
あるとき、御尊顔を仰げる機会があると聞いた男はついに思い立ったか
長年の夢を果たそうと新しく誂えた着物を着て本山へ向かう
そして、待ちわびている群集の中に紛れ込んだ
拵えの良い着物を着て目立てば、法主が自分に気付いて話しかけてくれるのではないかと思ったのだ。
法主は、ゆっくりと(そして男に気づく気配もなく)人々の前を歩いて来た。
そして、ひとりの乞食にその慈顔を向けると、穏やかな笑みを浮かべて乞食に何か語りかけ、通り過ぎていったのである。
男はとても反省した。
いい服を着て法主に目を留めてもらおうなんて、自分はなんて汚い考えを持っていたのだろう。
貧しき者にこそ、仏は慈悲深き目を向けるのである。
「それでも一言でもお言葉を頂きたい」
一計を案じた男は、先程の乞食に頼んで、銀一枚で自分の服と乞食の服とを交換してもらうことにした。
次の日、また法主が人々の前に顔を見せた
すると法主は乞食の服を着た男に近づいてきたのである。
「念願が叶った!」
そして、男の耳に口を寄せると、優しい声でこう言われた。
法主「昨日、目障りだから失せろと言ったハズだぞ」
男「………………」
125:人間七七四年
12/08/24 16:11:52.35 jDRX58de
それのローマ法王バージョンをどっかで見たな・・・
126:人間七七四年
12/08/24 16:25:23.97 lNCwzuHs
>>124
出典は?
127:人間七七四年
12/08/24 16:35:49.62 FFaXT/Jo
もしかして:作り話
128:人間七七四年
12/08/24 16:53:43.14 fiz2RSd4
一回でやめとけばネタで済んだのにな
129:人間七七四年
12/08/24 17:03:50.72 qI7xjC4z
これはひどい
つか、何で庶民で信仰を広げた本願寺なのか謎
やるなら南都や比叡山じゃね?
130:人間七七四年
12/08/24 17:10:12.11 5n2aqATQ
戦国時代ジョークみたいなのはないのかなと。
131:人間七七四年
12/08/24 17:29:50.20 fiz2RSd4
醒睡笑でも読んどけ
132:人間七七四年
12/08/24 17:54:16.15 zstQDjYa
『羽柴(秀吉)の宮殿の婦人の中に、3,4人のキリシタンがあります。
その中の一人は老年の身分高い武士に嫁ぎ、名をマグダレナと言います。
彼女は王妃の秘書であり、大いに妃に重んぜられ、他の2,3人よりも親愛を受けています。
彼女はデウスが城中に置かれた一の明星であり、その行動と模範によって他の全ての異教徒を照らしています。
彼女は常に霊魂のことに意を注ぎ、甚だ多忙であるにもかかわらず、毎日3回数珠を操り、筑前殿及び夫人の前においても
少しも恥ずること無く祈祷を捧げ、他の婦人達の嘲笑を受けても、少しも心を乱さず、賢明に、親しく彼女らと
交わっておられます。その様であるので宮殿の婦人たちは全て彼女を頭に立つものとして遇し、羽柴殿すらも
彼女の正しい行動を認め、また王妃は日々一人で彼女と相対し、常々我等キリシタンのことを語り、また聞くことを
喜び、キリシタンの教えについて賞賛されています。彼女は常々我々の聖堂に来て懺悔を行います。
マグダレナには最愛の娘が一人あり、筑前殿は大変にこの娘を信用し、金銀は尽く彼女の手を通り、収納も分配も
全て彼女の手に委ねられています。
娘はその徳においても母マグダレナに劣ることはありません。
ところでその母が我々に語った一つの事例があります。
これは実に驚嘆すべき事であり、またキリシタンに対するデウスの大いなる摂理の認められることであります。
それは羽柴殿がマグダレナ、そしてその娘に対して、今まで手を触れた事もなく、また邪悪と認められる言葉を
用いたことがない、という事実です!
彼は城中にある他の婦人に対しては戯れるのが常のことなのに!
日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、
羽柴は戦争に出る前に、マグダレナの勧めに従って、全てにキリシタンの聖人の名をつけました。
それは宮廷において今もなお使われています。
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)
ルイス・フロイスの報告における、天正12年(1584)頃の秀吉の奥のキリシタン女性の模様である。
しかしフロイス、驚嘆すべきことがそれかよw
133:人間七七四年
12/08/24 18:19:59.83 jDRX58de
ああ、フロイスだ・・・としか言いようが無い。
134:人間七七四年
12/08/24 18:48:42.90 7BgePD+H
そんなに不細工なのか…
135:人間七七四年
12/08/24 18:49:50.56 83IJIaEj
>信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが
これって日本の史料にも残っているんだろうか。
信長ならありそうなきもするが。
136:人間七七四年
12/08/24 18:59:29.57 vHdPuoj/
>デウスが城中に置かれた一の明星
つまりルシファーか
137:人間七七四年
12/08/24 21:35:49.38 5n2aqATQ
>>131
面白い話しでもあるの?
138:人間七七四年
12/08/24 21:45:44.56 sl/HsgVa
>>137
戦国~安土桃山のお笑い話集。あの時代の人間がどういうものを面白いと思ったかよく解るぞ。
139:人間七七四年
12/08/24 21:51:09.00 BBQXCVOo
戦国ジョークスレでも立てるか
140:人間七七四年
12/08/24 21:59:21.50 Pf9MfB4z
>日本における異教の婦人の名は笑うべきものであり、信長などは彼女らに男子の名前をつけていましたが、
つまり洗礼名を受けて、それで呼び合う女子に対し
「バテレンに名付けられたがうれしいか。なら奴らよりさらに偉いわしが名を付けてやろう」
と男の名を付けたと。女性性の剥奪であり、凌辱に等しい、とある種の女性史家がいうかもしれん(憶測)
141:人間七七四年
12/08/24 22:06:51.61 38zWfZKr
我が子への命名に比べりゃまだまだ
それに権現様よりはマ…シ…いやいやいやいや…
142:人間七七四年
12/08/24 22:11:25.71 vHdPuoj/
五郎八姫も男っぽい漢字の名前が嫌だからキリシタンになったのかもな
143:人間七七四年
12/08/24 22:34:04.47 jDRX58de
>日本における異教の婦人
フロイスから見て異教徒だからキリシタン以外の人の事じゃないか?
144:人間七七四年
12/08/24 22:56:28.71 R0ZUuuZI
まあ向こうは聖人・偉人の名前とかから引用するからな
日本みたいに亀だの花だのはおかしいんだろう
145:人間七七四年
12/08/24 23:53:52.11 yvZUVzP+
じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ
かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ
くうねるところにすむところ
やぶらこうじのぶらこうじ
ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん ばきゅーん☆
しゅーりんがんの ぐーりんだい
ぐーりんだいの ぽんぽこぴーの ぽんぽこなーの
ちょうきゅうめいのちょーおーすけ!
146:人間七七四年
12/08/25 00:03:50.95 EivZeXhS
>>145
漢字でも大概だが、平仮名にされると余計にめんどくさいな
147:人間七七四年
12/08/25 00:06:57.86 BP1oUpaS
よく見ると「ばきゅーん」ってところがじょしらくってアニメのEDソングの歌詞だな
148:人間七七四年
12/08/25 01:13:03.96 YHrjyWmz
じょしらくはなあ
落語を期待してたら、ただの尻だしアニメだったというのが
149:人間七七四年
12/08/25 01:20:37.74 gUyDuL4R
落語ネタ出すなら>>131のように醒睡笑とか
「荒大名の茶の湯」「真田小僧」「太閤と曽呂利」「狂歌比べ」あたりをだな
150:人間七七四年
12/08/25 01:34:02.61 Bzyfqp/l
井戸の茶碗には肥後細川の殿様が出る
151:人間七七四年
12/08/25 01:36:34.55 EivZeXhS
>>148
利常「まったくけしからんな」
152:人間七七四年
12/08/25 01:45:15.04 Zv/dTIwS
>>151
あんた前出しの前田氏やんけ
153:人間七七四年
12/08/25 01:46:38.10 M8PWV1s6
>>152
お後がよろしいようで
154:人間七七四年
12/08/25 03:04:17.39 kUlszAoq
小噺かよ!
155:人間七七四年
12/08/25 13:38:06.23 yv4kpZeV
なんだこの流れw
156:人間七七四年
12/08/25 13:45:58.04 oh1wmKO7
司馬遼太郎の尻啖え孫市では
敵に対してケツを見せるのは勇者の証とか書いてた気がする
戦国時代の逸話にありそうだ
157:人間七七四年
12/08/25 13:51:08.91 nagH/188
有りそうだっつーか、秀吉が小牧長久手の時に徳川を挑発しようとしておしりペンペンした、
ってのがあるわな。
158:人間七七四年
12/08/25 13:55:21.93 oh1wmKO7
そうなんだ
榊原に野人扱いされた後にその行動ってことか
159:人間七七四年
12/08/25 14:10:53.11 M8PWV1s6
尻といえば小牧の近く、今の春日井市に「尻冷やし地蔵」というお地蔵様がある。
この付近で合戦が起こった時、敵に追われた手負いの武士が清水にたどり着いて、そこで喉の渇きを癒している所を
追いついていた敵に後ろから刺殺された。後にその武士の慰霊のため作られたのが
この尻冷やし地蔵とされる。
尻冷やしの名の由来は、清水の上に置かれたので、こんこんと湧水により、いつも裾が濡れていたためだと伝わる。
ちなみにこの地蔵には正保4年(1647)の銘が有り、市内でも最も古い地蔵の一つとされている。
春日井に伝わる、尻冷やし地蔵のお話。
160:人間七七四年
12/08/25 14:38:34.44 HkrtFv0B
裾濡らしとか裾冷やしとかでいいじゃない…なぜ尻に
161:人間七七四年
12/08/25 15:01:41.83 7azbN4jG
実は後ろから刺された箇所が尻だったんじゃないの?
162:人間七七四年
12/08/25 15:09:06.00 WaJ+vnKt
アッー!
163:人間七七四年
12/08/25 16:47:15.99 +wXBRpPW
>>156
ちと違うけど女陰は魔を払う力があると神代の昔から信じられてた
さらに阿片戦争で大砲不足に悩んでいた清軍は、苦肉の策として英艦隊に向けて魔除けの女陰代わりとして便器を延々と並べたんだそうな
ちなみに桃が魔除けになるのも女陰に形が似てるからなんだそうな
164:人間七七四年
12/08/25 18:16:48.32 YjKO5EB0
誰だっけ?全裸で戦場を駆け抜けたのって?
165:人間七七四年
12/08/25 18:23:40.32 NjyD/zAp
兜有りなら勝成。誰というかみんなで裸なら武田
166:人間七七四年
12/08/25 18:29:29.82 GoBdw8dI
>>165
それは素肌攻めだろw
167:人間七七四年
12/08/25 18:46:08.11 Zv/dTIwS
エジプト軍にはヌコを盾に括り付けてだな…
ひょっとしたら井伊家にも有効かもしれん。
168:人間七七四年
12/08/25 18:55:08.63 nagH/188
>>164
これかw
伊藤清蔵さん大活躍
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
169:人間七七四年
12/08/25 18:56:39.95 Oanugzmt
>>165
素肌攻めは全裸って意味じゃないお
170:人間七七四年
12/08/25 19:01:36.16 NjyD/zAp
えっ武田軍ってパラダイスだと思ったのに!
171:人間七七四年
12/08/25 20:09:08.15 yv4kpZeV
あれを素肌攻めって呼ぶのはちょっと不思議だな
「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから
172:人間七七四年
12/08/25 20:50:04.00 YHrjyWmz
>>163
ご多分に漏れず漢陽も風水を基礎に街造りが行われたそうだけど、これの解説図が女性器そのものだった
で、日本総督府はこれを断ちきるように建てられていたから壊したんだとかw
173:人間七七四年
12/08/25 23:52:10.29 GXCoKmI+
蒲生氏郷も素肌に鎧で雪中行軍してなかったかしら
174:人間七七四年
12/08/26 01:59:26.93 AHjtlf5x
「素肌」っていったら裸ってことじゃなくて
鎧を付けてないってことです(着物は着てる)
175:人間七七四年
12/08/26 10:57:02.27 sTO3hyt0
>>171
城攻めは?
176:人間七七四年
12/08/26 11:56:10.83 /P3YIZD2
>>174
工場長の場合「直の膚」(ソース:氏郷記)と書かれてるんだがどーだろ
177:人間七七四年
12/08/26 12:43:53.49 wpMGNzvP
>>176
「大将スゲー!」って士気が上がったらしいから裸に鎧だったんじゃない?
178:人間七七四年
12/08/26 12:56:45.99 1IIAssB7
鎧なしでしかも城攻めだからすごいんだな
179:人間七七四年
12/08/26 13:00:17.46 qayyvTJ3
銃をバンバン撃ち合ってたのに西洋みたく鎧が簡略化されていかなかったのは不思議
180:人間七七四年
12/08/26 13:05:23.24 Ua1KRJI8
鉄砲隊は陣羽織のみになりましたが?
181:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/26 14:27:50.60 ZuSXXKgS
天正14年の豊薩合戦で大友方は入田義実・志賀親守・同親度・南志賀鑑隆・同鎮隆ら南郡衆の多くが島津氏に通じた。
いずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。
・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦
山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。
支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。
・朽網鎮則たちの後日談
秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し島津義弘や豊久と一緒に戦っている。
182:人間七七四年
12/08/26 15:04:51.12 R5+7sVC8
逸話スレなんだけどなぁ
183:人間七七四年
12/08/26 17:36:25.59 tJGrlDwn
信長があるとき近習と女の話をした。
その中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。
『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。
誰か歴史に詳しい人、信憑性ないと断言してくれ
184:人間七七四年
12/08/26 17:39:37.80 k9t/wssG
煕子は天然痘であばた面じゃなかったか(これも伝説だが)
185:人間七七四年
12/08/26 17:39:55.79 Ua1KRJI8
検証スレにでもどうぞ
186:183
12/08/26 18:02:48.85 tJGrlDwn
>>184
後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに
>>185
すまんね
まとめサイトにも詳しい人いるし、
スレで長々とやるつもりはないよ
187:人間七七四年
12/08/26 18:13:23.61 IwdDHBaU
秀吉の作らせた天正記に、信長は「妻妾三千人」なんて書かれたりしてるし、まあコレは栄華を極めたと言う意味の
著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました居程度の本なので、まあ真実味はなあw
188:人間七七四年
12/08/26 19:46:15.14 3SsLoMCQ
諸葛孔明の嫁の話とかもそんな感じだもんね
ブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか
189:人間七七四年
12/08/26 20:07:15.05 SmnKkMJ8
>>184
それは光秀の最初の妻
190:人間七七四年
12/08/26 20:12:57.87 lP5MBpQK
あれ、痘痕は煕子で
最初の妻は
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑で美人にされてる千草じゃないのか
191:183
12/08/26 20:27:34.42 tJGrlDwn
すみません
ネタ元には明智光秀の妻女とあるので千草かひろ子どちらを指すのかわかりません。
時期的に後者かと思い読みすさもあるだろうとひろ子としたことを断っておきます
192:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/26 20:41:56.76 ZuSXXKgS
高橋紹運にもそんな話があったな。
斉藤鎮実と吉弘鎮信が鎮実の妹と鎮信の弟(紹運)を結婚させる約束をしていたとか。
ところが婚礼前になって鎮実妹が痘瘡に罹ってしまってあばた面になってしまった。
それで鎮実兄妹が紹運にこの話はなかったことにしてくれと頼んだら
紹運は逆にそんなことは気にしないと言って鎮実妹と結婚したっていう話。
193:人間七七四年
12/08/26 20:57:13.05 vdq3zO0V
醜女話はテンプレなんだろうねえ
194:人間七七四年
12/08/27 00:12:05.82 r0VeB0kP
吉川さんの奥さんもそうだな。
195:人間七七四年
12/08/27 00:42:16.87 ZXLNnHKH
熊谷さんの娘は評判通りな気がするな
勝手にお父さん似だったと想像してる
196:人間七七四年
12/08/27 09:51:36.68 tRJmQwTr
内府さんあたりならあばただろうが気にしないだろうな
197:人間七七四年
12/08/27 14:24:22.67 I6J6kc6y
嫁さんの実家が、そういうのを気に出来ない力持ってた、ってー事でもあるような
198:人間七七四年
12/08/28 03:52:15.96 Yp0/ISAG
悪久「伯父さんが死んで、やっと嫁から自由になれたぜ……」
199:人間七七四年
12/08/28 06:47:12.43 aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。
筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。
彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。
ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。
他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。
例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。
また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。
さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。
ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。
シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。
また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)
後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。
200:人間七七四年
12/08/28 08:07:35.30 RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか
201:人間七七四年
12/08/28 17:36:51.53 nmVw6k3Q
ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、
道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って
動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、
道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。
すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。
そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。
その後は何の怪異も起こらなくなった。
―『名将言行録』
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑の別バージョンか?
202:人間七七四年
12/08/28 21:20:25.39 CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが
203:こうか
12/08/28 21:23:56.15 CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」
204:人間七七四年
12/08/28 21:52:28.56 jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな
205:人間七七四年
12/08/28 22:34:28.10 qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。
206:1/2
12/08/28 22:36:13.04 P8mOuui5
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう
『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。
上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。
翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。
ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。
世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。
我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。
207:2/2
12/08/28 22:37:19.82 P8mOuui5
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)
江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。
若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。
謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。
師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。
師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)
208:人間七七四年
12/08/28 23:06:56.77 I+akEOZd
悪い話なのか
読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ
209:人間七七四年
12/08/28 23:12:55.70 P8mOuui5
簡単に言うと、5年後にこの宣教師たちが信頼した本多親子がらみで岡本大八事件がおきてキリスト教禁教に。
210:人間七七四年
12/08/28 23:32:40.11 tbpJN4Bp
オチを書かないのはどうなんだろう
211:人間七七四年
12/08/28 23:43:57.43 I+akEOZd
わかった
結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な
212:人間七七四年
12/08/29 13:23:10.05 3kFQk1eY
努力が必ず報われるとは限らないって話しだな
213:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/29 21:11:01.52 jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル
天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。
親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。
214:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/29 21:36:50.52 jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度はその名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…
215:人間七七四年
12/08/30 09:20:50.77 vw3Zxu6Z
どこら辺が逸話なの?
216:人間七七四年
12/08/30 10:43:33.35 rozVLcIm
>>215 のようなレスを最近よく見るし、実際逸話になってない教科書的記述も増えているが、
>>213-214 はまあ逸話と判定してもいいんじゃないか。>>213の下段や>>214の下から2段目あたりが。
なんでもかんでもチラ裏禁止では、書き込み自体がなくなってしまう
217:人間七七四年
12/08/30 22:27:22.32 4XX6FsO9
雑談ならまだしも、創作とか解説みたいな逸話モドキは勘弁して欲しい。
218:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/30 22:37:06.50 RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……
219:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/30 23:05:55.43 qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟
220:人間七七四年
12/08/30 23:08:53.81 WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど
221:人間七七四年
12/08/31 09:58:56.39 vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・
222:人間七七四年
12/08/31 12:07:19.20 2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・
223:人間七七四年
12/08/31 12:21:36.78 Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ
224:人間七七四年
12/08/31 15:17:01.72 zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか
225:人間七七四年
12/08/31 15:58:24.88 mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」
226:人間七七四年
12/08/31 16:55:22.98 zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・
227:人間七七四年
12/08/31 17:29:06.91 VY1J2o8S
浅野長政は佐々成政に対して意趣があった。
その理由はこの様なところにあったという。
天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。
ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。
そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は
「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」
そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると
「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」
そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)
佐々成政と浅野長政に遺恨が出来た由来である
228:人間七七四年
12/08/31 19:21:44.62 QJ6Gd40w
えっと、嫌われ役をやったということか?
229:人間七七四年
12/08/31 20:00:28.72 wvf3GtKf
意趣があった理由…
ていうよりこの時既にあるとしか思えないw
230:人間七七四年
12/08/31 20:29:18.27 sZFl0lgP
嫌われ役も何も、和睦の礼にやって来た者にわざわざ面と向かって言う必要も無いわな
231:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/31 21:00:25.07 FeSilS2c
浅野長政は九戸政実一族皆殺しの謀略に関わってるし宇都宮家改易にも噛んでるし結構エグい人
「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる
この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える
232:人間七七四年
12/08/31 22:16:26.24 J18DFBdy
浅野長政って「他の奉行達とは違って良識派」みたいな
イメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。
233:人間七七四年
12/08/31 22:18:12.01 Y39JoAuw
>>232
???「そうだそうだ!だからこっちから絶交してやった!オレは悪くない!!」
234:人間七七四年
12/08/31 22:40:11.23 EOVWZrzs
ちょっと政宗は黙ってて!
235:人間七七四年
12/08/31 23:17:46.76 X4lm6gRt
>>232
浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。
ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか
236:人間七七四年
12/08/31 23:50:33.63 aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。
『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。
237:名無しさん@お腹いっぱい
12/09/01 00:09:17.54 Rj3NcUa6
>>235
三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。
238:人間七七四年
12/09/01 01:13:13.71 V/70pHoJ
みっちゃんの場合は木っ端役人フィルター掛けすぎってな逸話も多いから実際な所何ともいえない。
アホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。
239:人間七七四年
12/09/01 01:37:12.60 eWA0Nf07
肥後国人一揆も概ね制圧されると天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには
『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!
私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』
切腹を命じた。
成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て
「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」
そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)
秀吉の言うことによれば、URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)で小早川隆景が一揆を起こさなかった事も、
成政切腹の理由になったのですね。
佐々成政の最期についての逸話である
240:人間七七四年
12/09/01 04:00:10.54 HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第
天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。
毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。
「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」
「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」
241:人間七七四年
12/09/01 04:05:43.93 HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである
一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。
庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元、
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。
氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。
「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」
「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」
……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。
『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。
この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。
同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。
242:人間七七四年
12/09/01 06:18:32.83 Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?
243:人間七七四年
12/09/01 07:25:02.88 Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?
244:人間七七四年
12/09/01 13:41:33.02 ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に
245:人間七七四年
12/09/01 15:06:14.15 QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?
246:名無しさん@お腹いっぱい
12/09/01 16:35:42.04 Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが
247:人間七七四年
12/09/01 16:39:43.40 z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?
248:人間七七四年
12/09/01 16:42:52.24 ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は
249:人間七七四年
12/09/01 17:34:22.03 HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない
蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし
250:人間七七四年
12/09/01 17:57:10.36 i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど
251:人間七七四年
12/09/01 18:07:50.40 +XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。
彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。
252:名無しさん@お腹いっぱい
12/09/01 18:20:15.90 Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。
>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。
253:人間七七四年
12/09/01 19:35:31.61 cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい
254:人間七七四年
12/09/01 20:02:49.04 HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい
255:人間七七四年
12/09/01 20:36:41.25 ICdBVRYx
質問、織田家臣団で明智柴田丹羽滝川羽柴蜂谷ってあるけど前田利家は織田家臣じゃなかったんでしたっけ?
256:人間七七四年
12/09/01 20:39:11.13 k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…
257:人間七七四年
12/09/01 20:43:58.66 ZvfOcQp0
>>255
席順がもっと下って事だろ
258:人間七七四年
12/09/01 20:50:55.73 F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか
259:人間七七四年
12/09/01 20:58:30.94 ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく
260:人間七七四年
12/09/01 21:18:29.13 dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし
261:人間七七四年
12/09/01 21:30:24.74 cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし
262:人間七七四年
12/09/01 23:53:22.33 KntcF8d0
関ヶ原の際上田城に帰着した真田昌幸は
家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という証文を皆に見せた。
そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。
さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。
この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。
『翁物語』
―――
なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。
263:人間七七四年
12/09/01 23:59:52.06 KntcF8d0
すみません、ちょっと修正です。
×丸子右衛門
○丸子三右衛門
264:人間七七四年
12/09/02 00:02:10.93 cw/PlS1L
律儀もののお兄ちゃんがわざわざ残すから
265:人間七七四年
12/09/02 00:34:56.49 H7zQZ2qF
>>262
八月五日付けの三成の書状では「小諸、深志、川中島、諏訪」の所領を約束してたね
それと、切り取り次第ともどこかの書状あたりで書かれていたと思う
266:人間七七四年
12/09/02 06:02:31.41 0+fxU+xX
真田昌幸にそんな大領渡したら関ヶ原に勝っても政権乗っ取られるだろ?
なんか危ないなw
267:人間七七四年
12/09/02 08:20:50.55 UmpYMEEy
真田昌幸は甲信の国人出自のため天下取りとか考えてなさそう
旧武田領を手に入れたところで拡張欲はおしまい
黒田如水のような関が原時に領地子供全てを抵当に入れての博打もやらない
268:人間七七四年
12/09/02 08:23:50.82 UmpYMEEy
但しこれは如水の所領が中央に近かったことと
本因果天下機構(織田家)に組み込まれたため
学ぶ機会があったための差で昌幸が悪いわけでhない
269:人間七七四年
12/09/02 08:59:20.32 L6HdHRE/
>>266
真田にそんな能力はねーよ
ゲーム脳はこれだから
270:人間七七四年
12/09/02 09:50:28.45 XviNB1E7
>>241
そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
URLリンク(repository.ul.hirosaki-u.ac.jp)
細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う
271:人間七七四年
12/09/02 09:52:47.72 eJXCas/2
>>270
その4ヶ月の間に席次を巡ってグチャグチャした政治的暗闘があったんだろうなw
272:人間七七四年
12/09/02 10:44:42.73 Hi8tI4T3
>>270
左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない
273:人間七七四年
12/09/02 10:58:45.87 H7zQZ2qF
>>272
かつては徳川家臣二巨頭だったのにねえ
274:人間七七四年
12/09/02 11:05:00.82 +VjcDlhZ
>>272-273
むしろ大名扱いで高評価じゃないか。
275:人間七七四年
12/09/02 11:16:24.46 Hi8tI4T3
>>274
諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ
276:人間七七四年
12/09/02 11:22:37.64 +VjcDlhZ
>>275
すげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ
277:人間七七四年
12/09/02 11:28:50.72 XviNB1E7
よく読めばわかるけど
秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね
278:人間七七四年
12/09/02 11:42:09.42 XviNB1E7
天皇と対面(昇殿)出来たのが侍従の公家成までだから
そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
279:人間七七四年
12/09/02 19:58:06.63 5Fmpx7jv
>>272->>273
かつての徳川家臣二巨頭の一人・石川数正を糾弾した後輩の徳川家臣が諸大名行列に参列し
名門の京極や大大名の長宗我部より上位に列席している件
280:人間七七四年
12/09/02 23:10:06.66 QOZALTt5
直政は独特だよな
家康でさえ一時期名乗らされてた豊臣姓を平気で断るし断ってもお咎めもないし
281:人間七七四年
12/09/02 23:19:49.02 eJXCas/2
武士は鎌倉以だと由緒正しいなんて言われるけど、井伊家に関しては平安時代まで普通に遡れる家だしなw
282:人間七七四年
12/09/03 00:13:27.62 J8naobvn
関ヶ原において徳川秀忠は東山道を進み、途中真田勢が籠る上田城を囲んだ。
緒戦の攻め合いの後、両軍はにらみ合いのような状況になる。
そんな中上田城内に籠っていた百姓たちのうちで用事があって外へ出たがった者たちがいたため
足軽を添えて城下へと出したことがあった。。
この時秀忠の旗本7人がこの一団に目を付けた。
この7人は抜け駆けして百姓足軽達に迫る。
しかしながらに襲われたのは百姓といえども勝戦に馴れたものたちであったため
7人を追い払い、難なく城内へと引き取った。
この7人を「真田ノ七本槍」と号するが
世に真田家の何某と槍を合わせたという話は合っても
この7人と槍を合わせたという者の話を聞かないのは
7人が戦ったのが百姓足軽達だったからである。
『上田軍記』
283:人間七七四年
12/09/03 11:53:45.22 ndkbgnTe
伊予河野氏は飛鳥時代から続いてるの見て驚いたっけなあ。
本流は滅んじゃってもったいない。
284:人間七七四年
12/09/03 12:58:13.29 JPwbZUBY
>>281
うち日蓮宗だけどさ、日蓮大僧正って井伊氏の傍流なのか?
285:人間七七四年
12/09/03 18:09:38.23 oM2Cpq/3
>>270
織田系の二代目としては、丹羽長重、池田照政、稲葉貞通、筒井定次、森忠政の順番なのか
286:人間七七四年
12/09/03 19:11:49.27 0OhJQCps
源平なら普通は平安時代まで遡れるわな。
鮭さまのバールのようなものの文言じゃないが
287:人間七七四年
12/09/03 19:43:34.74 nj5WlpxK
>>284
日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」で井伊家の家紋を取り入れているのは
宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から来たものらしい
日蓮の父が三国氏で井伊が継体天皇系の三国真人の出と言われる所以でもある
あとは徳川四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことが始まりであるとも
288:人間七七四年
12/09/03 20:29:16.37 hMLsxde/
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就死去。これにより弱冠18歳の毛利輝元が当主として残されたが、
この時その母、尾崎局が吉川元春に送った書状である
『さてもさてもじいさまの事、御年寄りとは申しながら、こんなに不意の事になるとは思いもよらず、
突然にお隠れになられて、さぞさぞご心中の方、おしはかり申し上げます。
輝元の御事、ひとえにひとえに、そなた様(元春)と隆景様(小早川)にお頼み申し上げます。
輝元の親となっていただき、お力もお貸しくださるよう、うち頼み申し上げます。
申すまでもない事かも知れませんが、申させて下さい。(申まてハ候ハすとも、申事ニて候)
この事、重ね重ねお願いいたします。』
息子輝元の今後を憂う母の気持ちが、痛いほどに見えて来る書状である。
いい話でも悪い話でもないと思うので、とりあえずこっちに
(毛利家文書)
289:人間七七四年
12/09/03 22:05:41.73 cCkpcD2y
>>287
「700年ぶりだねぇ」並に胡散臭い伝説だ。
小湊の漁師の倅。
290:人間七七四年
12/09/03 22:26:04.68 2wrUDnfM
>>282
ちょっと待て。その七本槍はつまり
「真田の百姓に追っ払われちゃった、秀忠の七人の旗本」て事?
不名誉やん…。誰でしょうねー?そんなあだ名付けちゃう口の悪い人は。
291:人間七七四年
12/09/03 23:33:33.42 CV7HMXqv
飯時に焼き味噌の話はちょっと。。。
【静岡】「徳川家康を大河ドラマに」 川勝知事らがNHKに要望★2
スレリンク(newsplus板)
292:人間七七四年
12/09/04 00:52:55.95 H3pwb3P7
「最近の○○は~」って言い方は嫌いだけど家康は最近の大河の製作陣ではやってほしくない・・・
というか好きな人物はみんなやってほしくない
293:人間七七四年
12/09/04 01:05:34.24 hYJ1yZhx
女性視点での家康を描きました
なんてな
294:人間七七四年
12/09/04 03:13:28.71 t4lfEBRf
おんな葵 徳川三代 があってもいいじゃないですかwwww
295:人間七七四年
12/09/04 03:59:04.74 /HwqI+Sy
ちょっと前に二代将軍の正室を主役にしたばっかりやん
296:人間七七四年
12/09/04 06:25:57.91 jMYJjAos
三代目の正室を主役にすれば良いな
297:人間七七四年
12/09/04 07:44:20.90 Q7Mcf/O0
よしながふみの大奥を
NHK流にしてみれば・・・
298:人間七七四年
12/09/04 08:03:20.41 9ZhFKMXL
>>296
柳生宗冬?
299:人間七七四年
12/09/04 11:56:07.37 r640aWM8
戦国から江戸時代にかけて土地以上に重要だったのが、
「労働力」である百姓の確保。
失う物のない小作農たちは条件の悪い大名を見捨て、
もっと条件のよい大名の下へ逃げて、そこの領民になってしまうためだ。
このため各大名は、
「新規に領民になったものは農具支給!」
「うちは初期の年貢を免除!」
「うちのご新規さんは当座の生活費に米を支給!」
などと百姓の確保・流出阻止はかなり気を使っていた。
細川家がまだ豊前小倉藩であったころ、細川忠興が隠居して、三男の忠利が藩主となった。
忠興は豊前小倉藩39万9000石の中の37000石を自分の領地として隠居。
この時、忠利の領地から忠興の領地に百姓たちが逃亡。
忠利「逃げた百姓、うちに返して!」
忠興「だが断る!」
という手紙が残っている。
親子(つか藩主と前藩主)の間でもこういう状態だったらしい・・・・・・
元ネタは「逃げる百姓、追う大名」(宮崎克則 著)
300:人間七七四年
12/09/04 11:58:44.10 oZWWxE70
携帯会社か
301:人間七七四年
12/09/04 12:49:55.87 A3ER51lW
>>299 の元ネタの本は、逃亡百姓をめぐる黒田と細川の確執がおもしろかったよ。
図書館で借りたので今は手元にないが。
302:人間七七四年
12/09/04 13:54:06.36 8m5v88rh
黒田と細川は中悪かったっけ?
303:人間七七四年
12/09/04 14:20:02.05 bpJGoU6p
細川と黒田って言うか三斎様と長政が
304:人間七七四年
12/09/04 14:38:20.26 hYJ1yZhx
長政の年貢持ち去り事件で細川と険悪になっただろ
305:人間七七四年
12/09/04 17:48:31.17 7HBV1JOD
>>299
北朝鮮の脱北と一緒で逃げて捕まると打ち首だしリスクでかいな
306:人間七七四年
12/09/04 18:18:22.22 hrR9vWZW
>>305
むしろ帰ってもらうために徳政令出すレベルだけど
307:人間七七四年
12/09/04 18:35:58.86 jMYJjAos
長政は>304の年貢持ち去り事件の時、優秀な農民とかも一緒に連れてったらしい
そりゃ普段は温厚な三斎様もブチギレますよねー
308:人間七七四年
12/09/04 18:44:52.22 66aEW1aU
>>305
仕舞いにゃ「怒らないから帰っといで」て高札掲げたり…
309:人間七七四年
12/09/04 18:47:12.02 WZc8jDCA
で、磔にしちゃうのがtdms
310:人間七七四年
12/09/04 18:53:52.95 nnPv7FPR
戦国時代の東国とか露骨だよな。
領主に不満があると村全体で「逃散」して国境地帯まで行って、自分たちに優位な条件を出す大名の方に行って
耕作するというw
311:人間七七四年
12/09/04 20:57:35.59 Farc1UBF
松倉重政の足軽頭に松田権六と言う者が居た。
この権六は重政がその当時城内に作っていた庭園の奉行で合ったが、彼はこの奉行において不正を行い、
部下の俸禄を掠め取り、彼らに正統な報酬を与えなかった。
重政はこのことを知り、権六を甚だしく憎んだ。
ある日、重政は造営中の庭園に出てきた。これを松田権六と、同役であった従兄弟である松田兵右衛門が出迎え、
重政の前に平伏した。
重政は何も言わず、懐中より訴状を出し
「権六、これを読め」
と言って投げ与えた。権六は何もわからすそれを拾い開くと、そこには自分の行った悪事の数々が並べ挙げてあった。
重政はじっと見て
「汝権六、私曲なくばその旨を陳ぜよ。」
権六は答えた
「も、もとより私にも陳述すべき事はあります!されどいかに君命とは申しながら、これは余りにも片落ちなる事では
ありませんか!先ずこの讒言を行ったものを糺してください。私はその後に陳述いたします!」
これに重政は冷たく
「汝、陳述するべき事がないのなら、今ここにて腹を斬れ。陳述すべき事があるのなら、私自ら、親しく聞いてやる。
汝が果たして罪がないという事を聞き得れば、そこで讒者を殺して、汝に謝罪しよう。
であれば今、讒者を糺す必要はない。」
権六は窮した
「…これはなんとも無理な仰せですが、腹を斬れとのの上意であるのなら斬りも致します。
されども、士たる者の死ぬのに、どうして犬猫のように扱われるのでしょうか?
願わくば沐浴の時間を賜り、そして検使をも受けて、その上で切腹をさせて下さい。」
すると、重政は刀に手をかけさらに冷たく
「汝は自らを犬猫にしてしまったのだ。ならばどうして犬猫のように死ぬのを嫌がるのか?
検使は私である。さあ、未だ遅らせようというのなら手討ちにいたす!」
そう、怒りに満ちた目で睨みつけた。
権六も、この上は是非に及ばずとついに観念し、短刀を引き抜くと逆手に握って自ら腹を掻っ切る。
そこに重政は兵右衛門に介錯をさせて帰っていった。
老臣達はこの事を知ると口々に重政を諌めた。「大名の御身として御仕置、あまりにも軽々しく思われます!」
これに重政は苦笑しつつ
「松田権六は勇士であった。仕手を遣わして放ち討ちにしても、容易には討たれるような者ではない。
また、もしあ奴が事前にこれを悟って己の自宅に立て篭もれば、人多く損なう事になったであろう。
私はそうなることを懸念して、つい若気を出してしまったのだ。
汝らの諫言は誠に理にかなったものだ。」
そう言って奥へと下がっていったという。
(日本武美譚)
松倉重政、私曲の臣を誅する、というお話。
312:人間七七四年
12/09/04 21:13:18.69 pnouzQKh
>>311
悪いという程の話でも無いような、と思ったら…
「松倉重政」
島原の乱の遠因を作った御仁だ…。
これは肥前日野江に移封する以前の逸話なのかな?
313:人間七七四年
12/09/04 23:40:01.82 /HwqI+Sy
重政の美談なんて初めて見た
314:人間七七四年
12/09/05 00:33:43.66 TjZCv7He
意外な一面
315:人間七七四年
12/09/05 01:03:21.65 c7W3Hz70
一揆するよりり離散のほうが多いって話だな。
城の近くでひもじい!ひもじい!と合唱した加賀の領民って話もあるがw
316:人間七七四年
12/09/05 07:05:10.71 FzqNIhT8
ほら加賀はアレだ、他領から移って来たら犬のお父さんグッズとか貰えるんだろう
317:人間七七四年
12/09/05 13:08:12.68 pd5+Bpcm
>>315
というか逃散自体が一揆の主要な形態のひとつだな。
領主からこれだけの譲歩を引き出すと決めて、あとは我慢比べ
318:人間七七四年
12/09/05 22:16:31.38 +M9VKx6M
関ヶ原の決戦の後、近江水口城に籠る長束正家に対し、池田輝政は家臣。舟戸久左衛門を遣わして
降伏の説得をするようにと命じた。
これに舟戸久左衛門は困惑した。「わたしはその様な事のできる器ではありません。もっと老巧の者を
選んで遣わすべきです。」
しかし輝政は聞かず、強いて彼を使者とした。舟戸は致し方なくその命を排し、それから鍛冶の命じて
一辺3,4寸の、方形の鉄板を作らせこれを懐に入れ水口城に至り、案内を乞うて入城し、正家に対面すると
懇切に、主人輝政の言葉を言上した
「今降伏なされば、貴方様の一命のみならず、本領も安堵され士卒も助かるのです。」
長束正家はこれを聞くと
「その志、たいへんかたじけなく思う。その仰せに従って降伏することが可能なら降伏したいのだが、
我が士卒達は伊勢阿野津の城攻めに疲れて関ヶ原の戦場で功がなかったのを憤慨し、この城を枕として
目に立つほどの一戦をすることを、必死の思いで期待している。ならば士卒の心を問わずに私一人が降伏して、
何の益があるだろうか。
この趣を以って、宜しくそなたの主人の返答申されよ。」
その言葉に、降伏を受け入れる様子は見えなかった。
ここで舟戸、正家の小姓を呼び、懐の鉄板を取り出して言った
「これを火にて焼いて下さい。我が主人輝政の志、私の言葉、これらが長束様を欺くものではない証拠として、
貴方様の眼前で鉄火を行います!」
そしてまた懐中より午王の神符を取り出し、片手に握った。
その決意は顔前に溢れ、これを見た正家は涙をポロポロと流し
「貴殿のそのような真心に接しては、私はもう致し方ない。まさしく誠の武士で有るかな。この上は
たとえ欺かれて降伏したとしても、これもまた武士の一義、恨み悔いるには及ばない。」
そう言うと小姓を呼んで何事か囁いたが、暫くして小姓が脇差一腰を持って出てきた所を、
正家は舟戸に親しく声をかけ
「これは見苦しいものであるが、いささかお主のこの度の志に報いようとしたものである。帰ってお主の主人に
私の降伏を伝えられよ。」
と、それを与えた。
ところがそれでも舟戸が、なかなか座を立ちかねている体を見て正家
「ああ、私が忘れていた。」と小姓を呼び硯を取り寄せ、證文を書いてこれを与えた。
舟戸はが立ち返りこの旨を申し上げると、池田輝政は彼を激賞した。
ちなみにこの時長束正家が舟戸久左衛門に与えた脇差は、無銘で一尺あまりの貞宗鍛えだという。
舟戸久左衛門、長束正家への降伏勧告の使者となる。という逸話である。
(武士道美譚)
まあ正家さん、懸念した通り欺かれて切腹させられちゃうんですけどね。
319:人間七七四年
12/09/05 22:24:53.41 +EboGKCu
正家さんの正室は本多忠勝の妹だそうだが
このだまし討ちで本多と池田の仲が悪くなって姫路城奪われた
なんて話はないよね
320:人間七七四年
12/09/05 22:37:42.16 djK8oeQ1
忠勝妹は本多家に返されたけど腫れ物扱いだった、とかそういう話を何処かで読んだな
321:人間七七四年
12/09/06 00:10:44.16 QWniifPv
本領安堵とか言ってる時点で嘘だと見破れよ…
322:人間七七四年
12/09/06 00:26:18.87 y4TWJCG7
嘘つかなきゃならなかった舟戸も苦しかったろうな
明らかに助かる状況じゃないし
長束さんもわかってて降伏したんじゃない?
323:人間七七四年
12/09/06 00:52:18.73 Nrb5jCBI
いや正家も判っていたでしょ
判っていて、それでも舟戸の覚悟に感激して降伏を受諾した
だから池田輝政は舟戸を激賞したと
324:人間七七四年
12/09/06 08:53:38.23 rDTCjwjr
やめとけ…(´・ω・`)
【大分】大友宗麟PR大作戦 大分市 まちづくりへ検討委
スレリンク(newsplus板)
325:人間七七四年
12/09/06 10:23:52.29 TpRga5x+
ヤブヘビって言葉を思い出した・・・
326:人間七七四年
12/09/06 10:52:42.98 W59RMvbQ
太閤秀吉は百姓から天下人になった英雄
なんて思ってた頃に戻りたい
327:人間七七四年
12/09/06 11:37:13.75 fAY4MyLn
戦国時代の一番のDQNは織田信長
そう思ってた時期が懐かしいねみんな
328:人間七七四年
12/09/06 11:59:09.10 hkfZeY7T
>>326
俺も気配りと頭の回転の速さと人間的魅力で貧民から天下人になったって思ってた・・・
あれ、間違ってないな・・・あれ?
329:人間七七四年
12/09/06 14:44:57.60 GkDvIw8o
誰もが言うのは「天下人になるまでの秀吉は好き」
330:人間七七四年
12/09/06 14:53:18.40 PpEWX2Gg
ずいぶん前にヒストリアでキリスト教によって愛に目覚め理想の国家をつくろうとした
西洋音楽(ムジカ)を愛した大友宗麟、なんて持ち上げられてたから、そこらでとめとけばいいのに
331:人間七七四年
12/09/06 15:09:28.47 ub9Z13rJ
>>326-328
一度知ってしまった以上、
知らなかった頃にはもう戻れない・・・
332:人間七七四年
12/09/06 15:14:00.48 qlwzXjvw
いい意味でも悪い意味でもデカイ男だからな
333:人間七七四年
12/09/06 17:11:02.59 Wjow5dIE
ソーリンのキリスト教は市松の酒みたいなもんだな。
334:人間七七四年
12/09/06 17:14:49.07 MfMuhx+J
宗麟公とその周辺は、キリスト教宣教師の側の記録と日本人の側の記録の格差があまりに酷くて
比べてると乾いた笑いしか出ない。
335:人間七七四年
12/09/06 19:22:33.76 AZgXMjwe
大坂城落城の朝、徳川家康は御旗御長柄を住吉の辺りに立てて置き、
自身は住吉と城の間の山奥にいた。
この時、家康は松平正綱を召して「城中の者は我が旗印を見て、わしが住吉に
いると思っているだろうな。味方は既に勝ったのだから、この上は身を大事に
することが第一じゃ」と笑った。
そんな所に安藤直次が馳せ来たり、家康に勝利の様子を報告した。
それから、直次は御茶や弁当のために同行していた坊主に向かって
「喉が渇いてかなわん。とにかく一杯飲ませろ」と言った。
しかし坊主は「只今、上様の御茶器の他には器がございません」と断るので、
直次は「上様の御器でも賜った後ですすげばよかろう。いいから飲ませよ」
と重ねて要求した。
そのような問答をしていたところ、聞いていた家康が「帯刀が喉が渇いたと
言っているのに何故飲ませぬか。こんな時に上も下もあるか馬鹿者!」
と坊主を叱ったので、直次はすぐに喉を潤すことができたという。
(徳川実紀)