12/08/25 16:47:15.99 +wXBRpPW
>>156
ちと違うけど女陰は魔を払う力があると神代の昔から信じられてた
さらに阿片戦争で大砲不足に悩んでいた清軍は、苦肉の策として英艦隊に向けて魔除けの女陰代わりとして便器を延々と並べたんだそうな
ちなみに桃が魔除けになるのも女陰に形が似てるからなんだそうな
164:人間七七四年
12/08/25 18:16:48.32 YjKO5EB0
誰だっけ?全裸で戦場を駆け抜けたのって?
165:人間七七四年
12/08/25 18:23:40.32 NjyD/zAp
兜有りなら勝成。誰というかみんなで裸なら武田
166:人間七七四年
12/08/25 18:29:29.82 GoBdw8dI
>>165
それは素肌攻めだろw
167:人間七七四年
12/08/25 18:46:08.11 Zv/dTIwS
エジプト軍にはヌコを盾に括り付けてだな…
ひょっとしたら井伊家にも有効かもしれん。
168:人間七七四年
12/08/25 18:55:08.63 nagH/188
>>164
これかw
伊藤清蔵さん大活躍
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
169:人間七七四年
12/08/25 18:56:39.95 Oanugzmt
>>165
素肌攻めは全裸って意味じゃないお
170:人間七七四年
12/08/25 19:01:36.16 NjyD/zAp
えっ武田軍ってパラダイスだと思ったのに!
171:人間七七四年
12/08/25 20:09:08.15 yv4kpZeV
あれを素肌攻めって呼ぶのはちょっと不思議だな
「素肌」の意味がどうこうじゃなくて、普通「○○攻め」って「○○を利用した攻め」って意味だと思うから
172:人間七七四年
12/08/25 20:50:04.00 YHrjyWmz
>>163
ご多分に漏れず漢陽も風水を基礎に街造りが行われたそうだけど、これの解説図が女性器そのものだった
で、日本総督府はこれを断ちきるように建てられていたから壊したんだとかw
173:人間七七四年
12/08/25 23:52:10.29 GXCoKmI+
蒲生氏郷も素肌に鎧で雪中行軍してなかったかしら
174:人間七七四年
12/08/26 01:59:26.93 AHjtlf5x
「素肌」っていったら裸ってことじゃなくて
鎧を付けてないってことです(着物は着てる)
175:人間七七四年
12/08/26 10:57:02.27 sTO3hyt0
>>171
城攻めは?
176:人間七七四年
12/08/26 11:56:10.83 /P3YIZD2
>>174
工場長の場合「直の膚」(ソース:氏郷記)と書かれてるんだがどーだろ
177:人間七七四年
12/08/26 12:43:53.49 wpMGNzvP
>>176
「大将スゲー!」って士気が上がったらしいから裸に鎧だったんじゃない?
178:人間七七四年
12/08/26 12:56:45.99 1IIAssB7
鎧なしでしかも城攻めだからすごいんだな
179:人間七七四年
12/08/26 13:00:17.46 qayyvTJ3
銃をバンバン撃ち合ってたのに西洋みたく鎧が簡略化されていかなかったのは不思議
180:人間七七四年
12/08/26 13:05:23.24 Ua1KRJI8
鉄砲隊は陣羽織のみになりましたが?
181:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/26 14:27:50.60 ZuSXXKgS
天正14年の豊薩合戦で大友方は入田義実・志賀親守・同親度・南志賀鑑隆・同鎮隆ら南郡衆の多くが島津氏に通じた。
いずれも主君の大友義統や先代の宗麟に対して含むところがあったらしくそこを島津方に付けこまれた。
特に入田義実や志賀親度は率先して先導役を務めており豊後方面の守備は崩壊していった。
・朽網宗暦(85歳)の報われぬ奮戦
山野城は豊後南部の久住連山「黒岳」南の麓、標高750mの山中にあった大友家臣朽網氏の居城である。
これを攻めるは島津家中でも名高き「親指武蔵」新納忠元。守るは朽網鑑康入道宗暦、当年85歳。
この宗暦は「二階崩れの変」後に大友宗麟の差し金で阿蘇惟豊に殺された入田親誠(義実の父)の弟である。
朽網親満謀反で途絶えていた朽網家を継いでいた。兄の一件があったにも関わらずよく用いられていたらしい。
支城の三船城を落とされて兵達は意気消沈、自身は病床にあったにも関わらず宗暦は采配を取り新納勢に立ち向かっていった。しかし病身かつ高齢で采配をしたのが災いしたのか12月23日に病死。
嫡子・鎮則から和睦論を聞かされ憤死したとも言われている。鎮則は父と違って島津勢と立ち戦う意思は薄かったらしく、父が病死した翌日に降伏開城を決めている。
また宗暦の死は鎮則が山野城を開城降伏したことへの責任を感じて自刃したとの説もある。
・朽網鎮則たちの後日談
秀吉の九州征伐後、大友義統は島津に降伏したり開城した連中をSATSUGAIする気マンマンだった。
重臣の一萬田鑑実すらも一族の紹伝が島津に寝返ったことをケチつけられ自身は関係ないのに切腹させられている。
そんな義統ゆえに朽網氏へも当然討伐軍を向ける。これに対し鎮則や子・統直は義統への怒りがあったのか逆に敢然と戦い鎮則は自害し統直は討死した。
ちなみに入田義実は島津義久の元に逃げ込み日向に所領を与えられ、子の氏虎は関ヶ原に参陣し島津義弘や豊久と一緒に戦っている。
182:人間七七四年
12/08/26 15:04:51.12 R5+7sVC8
逸話スレなんだけどなぁ
183:人間七七四年
12/08/26 17:36:25.59 tJGrlDwn
信長があるとき近習と女の話をした。
その中の一人が、
「明智殿の妻、ひろ子さまこそ天下一の美女でありましょう」
と主張した。
それほどまでかと興味をおぼえた信長は、
一度、実物を見たいと思うと言うと、近習の一人が、
「家中の妻女を1日、15日の礼に出仕させましょう」
と言ったので信長もその通りにした。
当日、ひろ子が長廊下を歩いてきたところへ、
信長は飛び出してきて後ろから抱きついた。
ひろ子はまさか信長とは考えもしないので、扇で打ちつけた。
しかしながらその男のただならぬ雰囲気や眼光が気になり、
帰ってのち、光秀に城中であった事を話した。
光秀もなにか勘に触るところがあり、
それを調べてみると、その男がおそらく信長であることがわかった。
この分ではただでは済まぬと思っていたが、
それからの信長はたびたび光秀に恥をかかすことが多くなった。
それより明智光秀は謀反を考えるようになった。
『落穂雑談一言集』にある、
本当とは思えないし、本当であってほしくない逸話です。
誰か歴史に詳しい人、信憑性ないと断言してくれ
184:人間七七四年
12/08/26 17:39:37.80 k9t/wssG
煕子は天然痘であばた面じゃなかったか(これも伝説だが)
185:人間七七四年
12/08/26 17:39:55.79 Ua1KRJI8
検証スレにでもどうぞ
186:183
12/08/26 18:02:48.85 tJGrlDwn
>>184
後世の者が自分の伝えたい教訓に有名人物の逸話を利用した可能性高いとオレは思ってる
中国で言うと老荘や墨家の書物に孔子が登場するみたいに
>>185
すまんね
まとめサイトにも詳しい人いるし、
スレで長々とやるつもりはないよ
187:人間七七四年
12/08/26 18:13:23.61 IwdDHBaU
秀吉の作らせた天正記に、信長は「妻妾三千人」なんて書かれたりしてるし、まあコレは栄華を極めたと言う意味の
著述だが、実際子供も多いし、艶福家だったことは確かなんだろう。
まあ落穂雑談一言集は信長の時代から100年以上後の著作でもあるし、そもそも落穂雑談一言集自体、
うわさ話をまとめてみました居程度の本なので、まあ真実味はなあw
188:人間七七四年
12/08/26 19:46:15.14 3SsLoMCQ
諸葛孔明の嫁の話とかもそんな感じだもんね
ブスだが頭脳は公明も驚くほど明晰だったとか
美人だけど美貌目当てに言い寄ってくる相手を欺くためにブス装ってるんだとか
189:人間七七四年
12/08/26 20:07:15.05 SmnKkMJ8
>>184
それは光秀の最初の妻
190:人間七七四年
12/08/26 20:12:57.87 lP5MBpQK
あれ、痘痕は煕子で
最初の妻は
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑で美人にされてる千草じゃないのか
191:183
12/08/26 20:27:34.42 tJGrlDwn
すみません
ネタ元には明智光秀の妻女とあるので千草かひろ子どちらを指すのかわかりません。
時期的に後者かと思い読みすさもあるだろうとひろ子としたことを断っておきます
192:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/26 20:41:56.76 ZuSXXKgS
高橋紹運にもそんな話があったな。
斉藤鎮実と吉弘鎮信が鎮実の妹と鎮信の弟(紹運)を結婚させる約束をしていたとか。
ところが婚礼前になって鎮実妹が痘瘡に罹ってしまってあばた面になってしまった。
それで鎮実兄妹が紹運にこの話はなかったことにしてくれと頼んだら
紹運は逆にそんなことは気にしないと言って鎮実妹と結婚したっていう話。
193:人間七七四年
12/08/26 20:57:13.05 vdq3zO0V
醜女話はテンプレなんだろうねえ
194:人間七七四年
12/08/27 00:12:05.82 r0VeB0kP
吉川さんの奥さんもそうだな。
195:人間七七四年
12/08/27 00:42:16.87 ZXLNnHKH
熊谷さんの娘は評判通りな気がするな
勝手にお父さん似だったと想像してる
196:人間七七四年
12/08/27 09:51:36.68 tRJmQwTr
内府さんあたりならあばただろうが気にしないだろうな
197:人間七七四年
12/08/27 14:24:22.67 I6J6kc6y
嫁さんの実家が、そういうのを気に出来ない力持ってた、ってー事でもあるような
198:人間七七四年
12/08/28 03:52:15.96 Yp0/ISAG
悪久「伯父さんが死んで、やっと嫁から自由になれたぜ……」
199:人間七七四年
12/08/28 06:47:12.43 aOmWG0Hq
『ここに羽柴筑前(秀吉)殿に関して、尊師が知りたいと思われるであろうことを少々述べます。
筑前殿は日本六十五カ国において、内裏に次いで、最も富み、かつ強勢によって日本全国より尊崇を受ける大身です。
一般の噂に寄れば、彼は何事においてもその前任者信長と比べ、遥かに優越しています。
彼は単にデウスの教えに反対しないのみならず、大いに我等が聖教を尊ぶ姿勢を示し、
坊主の欺瞞の宗旨(仏教)よりも真理であることを認め、キリシタンを信頼し、常に側近にある大身等の子息が
キリシタンとなるのを見て喜ばれます。
ジェスト(高山)右近殿に対しては、毎日城中において語り、彼を賞賛し、青年にしてかくも欲を制する者はいないと
考えておられるそうです。
他にもまた、デウスの教えに対する羽柴殿の愛情と行為を我等が信じるべき、多くの確実な理由があります。
その主なものは、彼が親類及び異教徒である親友よりも、キリシタンの方を信用しているという事です。
例えば、大坂に次いで彼が有する最も良き城は信長を殺害した明智の居た城ですが、ここは彼の地位にとって
重要なものの一つであるため、彼は稀な才能を有するキリシタンの老貴族(不明)を同城の守将としました。
彼の書記官(安威五左衛門尉志門)もキリシタンです。
また海の司令官にして塩飽諸島(瀬戸内)から堺に至るまでを監督するのは、尊師もご存知の(小西)隆佐の子、
アゴスチニョ(小西行長)です。彼は今、五畿内の地方において大いなる名声と収入を有しております。
さらに羽柴殿がその身辺を守るために常にその側近においているジュスト右近殿は、この地方において
最も槍術における達人として知られています。
ジョーチン隆佐はその収入の管理者にして、茶の湯の道具を保管しています。
尊師がご存知のようにこの道具は日本の宝物であり富です。
シメアン池田丹後(池田教正)殿に対しては大いなる名誉を与え、過ぐる戦争において為したことに対し、
その地位を引き上げ収入を増やすことを約束しました。
また大和国に逐われた三箇(サンチョ)殿の子マンショを呼び戻し、その戦争における勇猛さを見て、
多くの恩恵を与えて自分に仕えさせました。』
(ルイス・フロイス、天正12年次日本耶蘇会年報)
後に禁教令を受けて大いに非難するフロイスも、この頃は秀吉をキリスト教の外護者としていたのである。
200:人間七七四年
12/08/28 08:07:35.30 RaXf7quw
さすがの神もラスボスの豹変までは予知できなかったか
201:人間七七四年
12/08/28 17:36:51.53 nmVw6k3Q
ある時、太田道灌の居城に一夜にして笠ほどのキノコが生えた。
人々が「物怪だ!」と驚いてこれを道灌に告げたところ、
道灌は「決して物怪ではない。湿気の深い所には大きなキノコが
生えるものだ。逆さまに生えたとしたら不思議なことだがな」と言って
動じなかった。その後、十日ばかり過ぎて、今度は同様のキノコが
逆さに生えた。人々が驚いて道灌に告げると、
道灌は「最初に生えた時は逆さなら不思議だったのだが、
今度は智恵をつけて逆さに生えたか。これは笑えるな」と言った。
すると今度は火炉の鉄輪が踊り歩き始めた。道灌はこれを見ても
「人間は足二本でさえ自由に歩けるのだから、三つ足で歩けたって
珍しくもない。
そのようなことは全て狐狸の仕業だ。狐狸めは人間にたぶらかされて
戸惑っているようだな」と冷笑するだけで自若としていた。
その後は何の怪異も起こらなくなった。
―『名将言行録』
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
↑の別バージョンか?
202:人間七七四年
12/08/28 21:20:25.39 CxSchxLm
俺のところに美女が大金を持参して嫁入りに来れば不思議なことだが
203:こうか
12/08/28 21:23:56.15 CxSchxLm
秀吉「わしのところに大勢の美女が嫁入りに来れば不思議なことだが」
204:人間七七四年
12/08/28 21:52:28.56 jjWVqCyv
子孫がリアル化け物だから物の怪ぐらいじゃ驚かないわな
205:人間七七四年
12/08/28 22:34:28.10 qrwWJkEU
要求をエスカレートさせて、
どこまでやってくれるか試せば面白かったのに。
206:1/2
12/08/28 22:36:13.04 P8mOuui5
慶長12年(1607)、秀忠に将軍職を譲り駿府に隠居した徳川家康は、長崎に居たイエズス会員に
謁見を許した。その時の模様をキリシタンの側の記録より見てみよう
『…京都の知事(板倉勝重か)は京都より駿河に至る沿道の、公方(家康)の諸役人をして
師父に便宜を与えるため、彼らに宛てた回状をパエス師に授けました。プロバンシャルは京都の学院長
モレジョン師と、彼に常に従う師父一人と、日本人の法兄弟3人を伴い、8日後、駿府から5里ほど
離れた場所に到着し、そこで幕府よりの沙汰を待ちました。そして3日後、招きを受け駿府に入りました。
上野殿(本多正純)は人を遣わして我々が無事に到着したことを喜び、将軍の寵厚きソトサブロー殿
(後藤庄三郎か)は自ら我等のところに来て、我々のために周旋する旨を申し出されました。
翌日、謁見の儀式がありました。長崎の街に関係ある、とある大事件の為数日前に到着された
ジャン・ロドリゲス師もこの式に列席されました。上野殿は取次の役を勤められ、公方(家康)は
親切なる数語を述べられました。これは正式の謁見においては著しい名誉です。
かの国君はその謁見室から退かれたあと、近臣に向かい、謁見者の日本・支那に在る、同宗の人々に対する
権威が大なる事と、年々彼が命じた事について、そのまま従っていることに付いて長く語っておられたとのことです。
ここに摂理が密かに我等に幸いした一例として、特に語るべきことがあります。
それは謁見式の当日、公方の長子にも関わらず、正妻の子でなかったために位を継ぐことの出来なかった
越前公(結城秀康)薨去という凶報が駿府まで達したのですが、上野殿は、公方が若しこのことを知れば
謁見の式は延期され接待も厚く出来ないことを察知し、国君が謁見の前にこの報に接しないよう
全力をなし、越前より来る書状は全てこれを押さえ、その上謁見の時刻を早めにされました。
これは非常なる親切であり、大いに、我ら宣教師の利益となりました。
世の人々はこれにより、君主の意志の発表を待たずして我々が再びこの国内に滞在することを
許されたと考えて良い、と言います。日本の法によれば、追放令を発した人が、追放令を受けたものを
面前に出ることを許せば、この者は再び君寵を得たと理解されるためだからです。
我々は公方の子にて後継者たる人(秀忠)に敬意を表するため、江戸に向かいました。これにも上野殿は、
その父であり将軍の最も信頼されている顧問である本多佐渡殿(正信)宛の書状をプロバンシャルに与えました。
207:2/2
12/08/28 22:37:19.82 P8mOuui5
江戸は駿府より東方へ4日ほどの所にあり、途中には有名な山があります(富士山)。
この山は高く美しいため、日本の文士、美術家によって常に賞賛されています。
道は駿河より伊豆を経て相模に入ると、ここに日本の旧都にして、公方又は将軍の居所である
鎌倉があります。元は人家の数20万に上ったそうですが、この時は減じて、5千に満たないほどでした。
師父は2日間この地に滞在し古跡を見て回りましたが、中でも特に注意を引いたのは、
青銅の巨大な偶像が、田園の中に捨て置かれ、野鳥の休憩所となっていたと言うものでした。(鎌倉の大仏)
江戸に到着する2里前で、師父は江戸の信徒たちの出迎えを受けました。彼らは果物や食品などの
贈り物を携え我等を歓迎しました。
若き将軍(秀忠)は元来とても親切な方で、特に師父を厚遇されました。
城の最も奥の溜りの間には、帝国内で最も名高い僧が二人居ました。
一人はタイチャウラウ(大長老)、もう一人はガチャウ(学校か)と称され、彼らも将軍に
謁見するためここに訪れていたのです。京都の寺院の長老である僧侶数名もまた同室にありました。
ところがこの君(秀忠)は先に来た僧侶たちとの面会を後にし、先ずパエス師を召されたのです。
謁見式の後、本多佐渡殿、および相模殿(大久保忠隣)は師父を送って最後から一つ前の部屋に至ると、
宮中を案内するようにと命じました。この宮殿(江戸城)は壮麗であること公方の宮殿に劣らず、
装飾は黄金と最も名高い画家の手による絵画を以ってなされています。
師父が主な保護者である相模殿及び本多佐渡殿に暇乞いに行き、親切にて寛大である佐渡殿に、
日本の教会の利益を保護することを依頼し、布教の自由を求め、宣教師の説く聖法は日本の施政にも、
臣下の君主に対する服従にも、反対するところは些かも無く、全く道理に合い君主及び人民に、
むしろその義務を教えるものであることを言い添え、またこの教えは現世のために大いなる効用があり
来世のためにも更に必要なものであることを説き、佐渡殿より将軍に請うて、将軍の父君のごとく
庶民のみならず、諸侯及び貴族にも教会に入る自由を与えられることを懇請しました。
師父はこの様に好成績を得て駿河に向かって帰路につき、5ヶ月の愉快なる旅行の後、再び長崎に帰られました。』
(パジェー日本耶蘇教史)
208:人間七七四年
12/08/28 23:06:56.77 I+akEOZd
悪い話なのか
読解力ないからどのあたりがどう悪いのか頼むわ
209:人間七七四年
12/08/28 23:12:55.70 P8mOuui5
簡単に言うと、5年後にこの宣教師たちが信頼した本多親子がらみで岡本大八事件がおきてキリスト教禁教に。
210:人間七七四年
12/08/28 23:32:40.11 tbpJN4Bp
オチを書かないのはどうなんだろう
211:人間七七四年
12/08/28 23:43:57.43 I+akEOZd
わかった
結局は禁教になるからキリスト教の伝来も悪い話な
212:人間七七四年
12/08/29 13:23:10.05 3kFQk1eY
努力が必ず報われるとは限らないって話しだな
213:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/29 21:11:01.52 jUvkrsnJ
志賀親次と道益父子のガチバトル
天正14年の豊薩合戦で大友方の岡城は島津義弘・新納忠元が率いる大軍に包囲されていた。
守るは若き北志賀家の惣領・太郎親次弱冠18歳。しかも包囲軍の中には島津に寝返った父の道益(親度)と叔父の入田宗和(義実)の姿もあった。
また祖父の道輝(親守)も宗和や道益に同心していたものの宗和や道益のような表立った動きはしなかった。
この時は道益とは逆に孫と一緒に岡城に篭城していたという説もある。
親次と道益の父子が戦ったのはヤオではなくガチだがこの二人の仲は悪かったらしい。原因として大友義統への姿勢と信仰にあった。
道益は耳川合戦の前年、義統と対立し父共々誅殺されそうにことがあったことから義統を憎んでいた。
対して親次は大友家ひいては義統に対しても純忠一途の人物であった。さらに親次は熱心なキリシタンであり道益は熱心な仏教徒であった。
これらのこともありこの父子が仲が悪かったのはある意味必然だったかもしれない。
214:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/29 21:36:50.52 jUvkrsnJ
豊後国内では栂牟礼城の佐伯惟定や丹生島城の大友宗麟たちも奮戦中。志賀親次はさぞ「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…」な心境だっただろうが
決して逃げず寡兵で「天正の楠木」と評された戦ぶりで島津の大軍を何度も追い払い、たまらず手を焼いた島津義弘の降伏勧告を撥ね付け勇敢に戦い抜く。
島津軍の攻撃が膠着したのを機に近隣の城を奪回に乗りだす。折りしも豊臣秀長勢が豊後に到達。島津勢を追撃し反乱した南郡衆を滅ぼしていった。
その過程で父・道益を捕らえ言い訳一つも許さず問答無用でその場で自刃に追い込んだとも親次自ら斬ったとも言われている。
反逆した父に対する苛烈な処置とかは親次の名声を高める結果になったものの今度はその名声が皮肉にも主君・義統改め吉統に徐々に疎まれる原因になっていく…
215:人間七七四年
12/08/30 09:20:50.77 vw3Zxu6Z
どこら辺が逸話なの?
216:人間七七四年
12/08/30 10:43:33.35 rozVLcIm
>>215 のようなレスを最近よく見るし、実際逸話になってない教科書的記述も増えているが、
>>213-214 はまあ逸話と判定してもいいんじゃないか。>>213の下段や>>214の下から2段目あたりが。
なんでもかんでもチラ裏禁止では、書き込み自体がなくなってしまう
217:人間七七四年
12/08/30 22:27:22.32 4XX6FsO9
雑談ならまだしも、創作とか解説みたいな逸話モドキは勘弁して欲しい。
218:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/30 22:37:06.50 RIu1izbP
それにしても大友義統絡みの逸話は悪久とは違った意味で後味の悪いのばかりだな。
元はと言えば自身に原因がある、みたいなのばっかり。
これでもノブヤボ烈風伝の時は政治力が53なんだよな。
氏真や勝頼・クマーより高いなんてありえん……
219:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/30 23:05:55.43 qjBhSU8G
外交力だけはなぜか優秀な大友宗麟
220:人間七七四年
12/08/30 23:08:53.81 WbfbgHdm
宗麟はガチで優秀と思うけどね
その優秀さが霞むくらいダメ人間だけど
221:人間七七四年
12/08/31 09:58:56.39 vfSZnF2p
能力とそれを載せてる器の兼ね合いって難しいよね・・・
222:人間七七四年
12/08/31 12:07:19.20 2dSpdj6y
宗麟は優秀な重臣が死ぬまでは優秀さと愚かさが混在してたが・・・
223:人間七七四年
12/08/31 12:21:36.78 Q83zoGAC
優秀な分ちょっとずれると一気にものすごい所まで行くんだろうなあ
224:人間七七四年
12/08/31 15:17:01.72 zoGj/3B2
優秀なDQNほど始末が悪いもんはねえ。悪久とかまーくんとか
225:人間七七四年
12/08/31 15:58:24.88 mQclrRyc
秀吉「ほんと優秀で権力持ったDQNはたちわるいね!」
226:人間七七四年
12/08/31 16:55:22.98 zoGj/3B2
ラスボス止めることできるのっておかんか秀長ぐらいだしな・・・
227:人間七七四年
12/08/31 17:29:06.91 VY1J2o8S
浅野長政は佐々成政に対して意趣があった。
その理由はこの様なところにあったという。
天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。
ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。
そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は
「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」
そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると
「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」
そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)
佐々成政と浅野長政に遺恨が出来た由来である
228:人間七七四年
12/08/31 19:21:44.62 QJ6Gd40w
えっと、嫌われ役をやったということか?
229:人間七七四年
12/08/31 20:00:28.72 wvf3GtKf
意趣があった理由…
ていうよりこの時既にあるとしか思えないw
230:人間七七四年
12/08/31 20:29:18.27 sZFl0lgP
嫌われ役も何も、和睦の礼にやって来た者にわざわざ面と向かって言う必要も無いわな
231:名無しさん@お腹いっぱい
12/08/31 21:00:25.07 FeSilS2c
浅野長政は九戸政実一族皆殺しの謀略に関わってるし宇都宮家改易にも噛んでるし結構エグい人
「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる
この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える
232:人間七七四年
12/08/31 22:16:26.24 J18DFBdy
浅野長政って「他の奉行達とは違って良識派」みたいな
イメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。
233:人間七七四年
12/08/31 22:18:12.01 Y39JoAuw
>>232
???「そうだそうだ!だからこっちから絶交してやった!オレは悪くない!!」
234:人間七七四年
12/08/31 22:40:11.23 EOVWZrzs
ちょっと政宗は黙ってて!
235:人間七七四年
12/08/31 23:17:46.76 X4lm6gRt
>>232
浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。
ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか
236:人間七七四年
12/08/31 23:50:33.63 aFOMRCOA
>>219
宗麟は戦術家としては凡庸だが、戦略家・謀略家としては一流だぞ。
筑前を巡る争いでは、戦術面で負けても、朝廷工作や幕府工作。更には
大内残党や尼子を利用することで、最終的には北九州領有を確定させたし、
島津に大敗した後も、織田・豊臣を利用して、可能な限り退勢を押し止めている。
豊前の田原本家の謀反を鎮圧した時も手際がいいし。
ただし、むら気があるのが致命的ではあったが。
『豊後三老がいた時は・・・』と言われるのは、宗麟のこうしたむら気をよく抑え、
前線指揮官として、宗麟の戦術能力を補ったが故なんだろうなあ。
237:名無しさん@お腹いっぱい
12/09/01 00:09:17.54 Rj3NcUa6
>>235
三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。
238:人間七七四年
12/09/01 01:13:13.71 V/70pHoJ
みっちゃんの場合は木っ端役人フィルター掛けすぎってな逸話も多いから実際な所何ともいえない。
アホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。
239:人間七七四年
12/09/01 01:37:12.60 eWA0Nf07
肥後国人一揆も概ね制圧されると天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
(URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには
『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!
私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』
切腹を命じた。
成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て
「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」
そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)
秀吉の言うことによれば、URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)で小早川隆景が一揆を起こさなかった事も、
成政切腹の理由になったのですね。
佐々成政の最期についての逸話である
240:人間七七四年
12/09/01 04:00:10.54 HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第
天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。
毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。
「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」
「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」
241:人間七七四年
12/09/01 04:05:43.93 HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである
一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。
庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元、
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。
氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。
「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」
「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」
……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。
『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。
この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。
同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。
242:人間七七四年
12/09/01 06:18:32.83 Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?
243:人間七七四年
12/09/01 07:25:02.88 Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?
244:人間七七四年
12/09/01 13:41:33.02 ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に
245:人間七七四年
12/09/01 15:06:14.15 QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?
246:名無しさん@お腹いっぱい
12/09/01 16:35:42.04 Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが
247:人間七七四年
12/09/01 16:39:43.40 z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?
248:人間七七四年
12/09/01 16:42:52.24 ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は
249:人間七七四年
12/09/01 17:34:22.03 HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない
蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし
250:人間七七四年
12/09/01 17:57:10.36 i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど
251:人間七七四年
12/09/01 18:07:50.40 +XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。
彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。
252:名無しさん@お腹いっぱい
12/09/01 18:20:15.90 Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。
>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。
253:人間七七四年
12/09/01 19:35:31.61 cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい
254:人間七七四年
12/09/01 20:02:49.04 HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい
255:人間七七四年
12/09/01 20:36:41.25 ICdBVRYx
質問、織田家臣団で明智柴田丹羽滝川羽柴蜂谷ってあるけど前田利家は織田家臣じゃなかったんでしたっけ?
256:人間七七四年
12/09/01 20:39:11.13 k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…
257:人間七七四年
12/09/01 20:43:58.66 ZvfOcQp0
>>255
席順がもっと下って事だろ
258:人間七七四年
12/09/01 20:50:55.73 F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか
259:人間七七四年
12/09/01 20:58:30.94 ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく
260:人間七七四年
12/09/01 21:18:29.13 dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし
261:人間七七四年
12/09/01 21:30:24.74 cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし
262:人間七七四年
12/09/01 23:53:22.33 KntcF8d0
関ヶ原の際上田城に帰着した真田昌幸は
家老・士大将・物頭を残らず集めると「此の度秀頼公へ御味方申すに於いては、甲信上三国を給ふべし」という証文を皆に見せた。
そして昌幸は家臣たちの知行を約束した。
禰津長右衛門には小諸で6万石、矢沢但馬には矢沢の城付きの知行
小山田壱岐には松本に7万石、その他の家老たちにも伊那・高遠などで城付きの知行を与えると申し渡し
丸子右衛門に諏訪3万石、昌幸の弟金井高勝や昌幸の三男信勝にも信州のうちで知行を分けた。
さらに士大将達は皆知行の倍増し、手柄次第でのさらなる加増を約束
騎馬、徒歩を問わず侍、足軽、中間、小者、百姓、町人といった全領民に対しても
「此の度の働きに付いては、敵の首一つに知行百石を宛与ふべし。偽り有るべからず」と申し渡した。
この為真田家の者たちは勇むこと限りなく、城内の普請を始め城下の外町筋を焼き払った。
『翁物語』
―――
なお現存する三成から昌幸宛ての書状には「国数を拝領できるだろう」とあるのみで
具体的な国名等は挙げられていません。
263:人間七七四年
12/09/01 23:59:52.06 KntcF8d0
すみません、ちょっと修正です。
×丸子右衛門
○丸子三右衛門
264:人間七七四年
12/09/02 00:02:10.93 cw/PlS1L
律儀もののお兄ちゃんがわざわざ残すから
265:人間七七四年
12/09/02 00:34:56.49 H7zQZ2qF
>>262
八月五日付けの三成の書状では「小諸、深志、川中島、諏訪」の所領を約束してたね
それと、切り取り次第ともどこかの書状あたりで書かれていたと思う
266:人間七七四年
12/09/02 06:02:31.41 0+fxU+xX
真田昌幸にそんな大領渡したら関ヶ原に勝っても政権乗っ取られるだろ?
なんか危ないなw
267:人間七七四年
12/09/02 08:20:50.55 UmpYMEEy
真田昌幸は甲信の国人出自のため天下取りとか考えてなさそう
旧武田領を手に入れたところで拡張欲はおしまい
黒田如水のような関が原時に領地子供全てを抵当に入れての博打もやらない
268:人間七七四年
12/09/02 08:23:50.82 UmpYMEEy
但しこれは如水の所領が中央に近かったことと
本因果天下機構(織田家)に組み込まれたため
学ぶ機会があったための差で昌幸が悪いわけでhない
269:人間七七四年
12/09/02 08:59:20.32 L6HdHRE/
>>266
真田にそんな能力はねーよ
ゲーム脳はこれだから
270:人間七七四年
12/09/02 09:50:28.45 XviNB1E7
>>241
そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
URLリンク(repository.ul.hirosaki-u.ac.jp)
細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う
271:人間七七四年
12/09/02 09:52:47.72 eJXCas/2
>>270
その4ヶ月の間に席次を巡ってグチャグチャした政治的暗闘があったんだろうなw
272:人間七七四年
12/09/02 10:44:42.73 Hi8tI4T3
>>270
左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない
273:人間七七四年
12/09/02 10:58:45.87 H7zQZ2qF
>>272
かつては徳川家臣二巨頭だったのにねえ
274:人間七七四年
12/09/02 11:05:00.82 +VjcDlhZ
>>272-273
むしろ大名扱いで高評価じゃないか。
275:人間七七四年
12/09/02 11:16:24.46 Hi8tI4T3
>>274
諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ
276:人間七七四年
12/09/02 11:22:37.64 +VjcDlhZ
>>275
すげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ
277:人間七七四年
12/09/02 11:28:50.72 XviNB1E7
よく読めばわかるけど
秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね
278:人間七七四年
12/09/02 11:42:09.42 XviNB1E7
天皇と対面(昇殿)出来たのが侍従の公家成までだから
そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
279:人間七七四年
12/09/02 19:58:06.63 5Fmpx7jv
>>272->>273
かつての徳川家臣二巨頭の一人・石川数正を糾弾した後輩の徳川家臣が諸大名行列に参列し
名門の京極や大大名の長宗我部より上位に列席している件
280:人間七七四年
12/09/02 23:10:06.66 QOZALTt5
直政は独特だよな
家康でさえ一時期名乗らされてた豊臣姓を平気で断るし断ってもお咎めもないし
281:人間七七四年
12/09/02 23:19:49.02 eJXCas/2
武士は鎌倉以だと由緒正しいなんて言われるけど、井伊家に関しては平安時代まで普通に遡れる家だしなw
282:人間七七四年
12/09/03 00:13:27.62 J8naobvn
関ヶ原において徳川秀忠は東山道を進み、途中真田勢が籠る上田城を囲んだ。
緒戦の攻め合いの後、両軍はにらみ合いのような状況になる。
そんな中上田城内に籠っていた百姓たちのうちで用事があって外へ出たがった者たちがいたため
足軽を添えて城下へと出したことがあった。。
この時秀忠の旗本7人がこの一団に目を付けた。
この7人は抜け駆けして百姓足軽達に迫る。
しかしながらに襲われたのは百姓といえども勝戦に馴れたものたちであったため
7人を追い払い、難なく城内へと引き取った。
この7人を「真田ノ七本槍」と号するが
世に真田家の何某と槍を合わせたという話は合っても
この7人と槍を合わせたという者の話を聞かないのは
7人が戦ったのが百姓足軽達だったからである。
『上田軍記』
283:人間七七四年
12/09/03 11:53:45.22 ndkbgnTe
伊予河野氏は飛鳥時代から続いてるの見て驚いたっけなあ。
本流は滅んじゃってもったいない。
284:人間七七四年
12/09/03 12:58:13.29 JPwbZUBY
>>281
うち日蓮宗だけどさ、日蓮大僧正って井伊氏の傍流なのか?
285:人間七七四年
12/09/03 18:09:38.23 oM2Cpq/3
>>270
織田系の二代目としては、丹羽長重、池田照政、稲葉貞通、筒井定次、森忠政の順番なのか
286:人間七七四年
12/09/03 19:11:49.27 0OhJQCps
源平なら普通は平安時代まで遡れるわな。
鮭さまのバールのようなものの文言じゃないが
287:人間七七四年
12/09/03 19:43:34.74 nj5WlpxK
>>284
日蓮宗の寺紋は「井桁に橘」で井伊家の家紋を取り入れているのは
宗祖の日蓮上人が井伊氏の支流という伝説から来たものらしい
日蓮の父が三国氏で井伊が継体天皇系の三国真人の出と言われる所以でもある
あとは徳川四天王の一人であった井伊直政が日蓮宗に帰依したことが始まりであるとも
288:人間七七四年
12/09/03 20:29:16.37 hMLsxde/
元亀2年(1571)6月14日、毛利元就死去。これにより弱冠18歳の毛利輝元が当主として残されたが、
この時その母、尾崎局が吉川元春に送った書状である
『さてもさてもじいさまの事、御年寄りとは申しながら、こんなに不意の事になるとは思いもよらず、
突然にお隠れになられて、さぞさぞご心中の方、おしはかり申し上げます。
輝元の御事、ひとえにひとえに、そなた様(元春)と隆景様(小早川)にお頼み申し上げます。
輝元の親となっていただき、お力もお貸しくださるよう、うち頼み申し上げます。
申すまでもない事かも知れませんが、申させて下さい。(申まてハ候ハすとも、申事ニて候)
この事、重ね重ねお願いいたします。』
息子輝元の今後を憂う母の気持ちが、痛いほどに見えて来る書状である。
いい話でも悪い話でもないと思うので、とりあえずこっちに
(毛利家文書)
289:人間七七四年
12/09/03 22:05:41.73 cCkpcD2y
>>287
「700年ぶりだねぇ」並に胡散臭い伝説だ。
小湊の漁師の倅。
290:人間七七四年
12/09/03 22:26:04.68 2wrUDnfM
>>282
ちょっと待て。その七本槍はつまり
「真田の百姓に追っ払われちゃった、秀忠の七人の旗本」て事?
不名誉やん…。誰でしょうねー?そんなあだ名付けちゃう口の悪い人は。
291:人間七七四年
12/09/03 23:33:33.42 CV7HMXqv
飯時に焼き味噌の話はちょっと。。。
【静岡】「徳川家康を大河ドラマに」 川勝知事らがNHKに要望★2
スレリンク(newsplus板)
292:人間七七四年
12/09/04 00:52:55.95 H3pwb3P7
「最近の○○は~」って言い方は嫌いだけど家康は最近の大河の製作陣ではやってほしくない・・・
というか好きな人物はみんなやってほしくない
293:人間七七四年
12/09/04 01:05:34.24 hYJ1yZhx
女性視点での家康を描きました
なんてな
294:人間七七四年
12/09/04 03:13:28.71 t4lfEBRf
おんな葵 徳川三代 があってもいいじゃないですかwwww
295:人間七七四年
12/09/04 03:59:04.74 /HwqI+Sy
ちょっと前に二代将軍の正室を主役にしたばっかりやん
296:人間七七四年
12/09/04 06:25:57.91 jMYJjAos
三代目の正室を主役にすれば良いな
297:人間七七四年
12/09/04 07:44:20.90 Q7Mcf/O0
よしながふみの大奥を
NHK流にしてみれば・・・
298:人間七七四年
12/09/04 08:03:20.41 9ZhFKMXL
>>296
柳生宗冬?
299:人間七七四年
12/09/04 11:56:07.37 r640aWM8
戦国から江戸時代にかけて土地以上に重要だったのが、
「労働力」である百姓の確保。
失う物のない小作農たちは条件の悪い大名を見捨て、
もっと条件のよい大名の下へ逃げて、そこの領民になってしまうためだ。
このため各大名は、
「新規に領民になったものは農具支給!」
「うちは初期の年貢を免除!」
「うちのご新規さんは当座の生活費に米を支給!」
などと百姓の確保・流出阻止はかなり気を使っていた。
細川家がまだ豊前小倉藩であったころ、細川忠興が隠居して、三男の忠利が藩主となった。
忠興は豊前小倉藩39万9000石の中の37000石を自分の領地として隠居。
この時、忠利の領地から忠興の領地に百姓たちが逃亡。
忠利「逃げた百姓、うちに返して!」
忠興「だが断る!」
という手紙が残っている。
親子(つか藩主と前藩主)の間でもこういう状態だったらしい・・・・・・
元ネタは「逃げる百姓、追う大名」(宮崎克則 著)
300:人間七七四年
12/09/04 11:58:44.10 oZWWxE70
携帯会社か
301:人間七七四年
12/09/04 12:49:55.87 A3ER51lW
>>299 の元ネタの本は、逃亡百姓をめぐる黒田と細川の確執がおもしろかったよ。
図書館で借りたので今は手元にないが。
302:人間七七四年
12/09/04 13:54:06.36 8m5v88rh
黒田と細川は中悪かったっけ?
303:人間七七四年
12/09/04 14:20:02.05 bpJGoU6p
細川と黒田って言うか三斎様と長政が
304:人間七七四年
12/09/04 14:38:20.26 hYJ1yZhx
長政の年貢持ち去り事件で細川と険悪になっただろ
305:人間七七四年
12/09/04 17:48:31.17 7HBV1JOD
>>299
北朝鮮の脱北と一緒で逃げて捕まると打ち首だしリスクでかいな
306:人間七七四年
12/09/04 18:18:22.22 hrR9vWZW
>>305
むしろ帰ってもらうために徳政令出すレベルだけど
307:人間七七四年
12/09/04 18:35:58.86 jMYJjAos
長政は>304の年貢持ち去り事件の時、優秀な農民とかも一緒に連れてったらしい
そりゃ普段は温厚な三斎様もブチギレますよねー
308:人間七七四年
12/09/04 18:44:52.22 66aEW1aU
>>305
仕舞いにゃ「怒らないから帰っといで」て高札掲げたり…
309:人間七七四年
12/09/04 18:47:12.02 WZc8jDCA
で、磔にしちゃうのがtdms
310:人間七七四年
12/09/04 18:53:52.95 nnPv7FPR
戦国時代の東国とか露骨だよな。
領主に不満があると村全体で「逃散」して国境地帯まで行って、自分たちに優位な条件を出す大名の方に行って
耕作するというw
311:人間七七四年
12/09/04 20:57:35.59 Farc1UBF
松倉重政の足軽頭に松田権六と言う者が居た。
この権六は重政がその当時城内に作っていた庭園の奉行で合ったが、彼はこの奉行において不正を行い、
部下の俸禄を掠め取り、彼らに正統な報酬を与えなかった。
重政はこのことを知り、権六を甚だしく憎んだ。
ある日、重政は造営中の庭園に出てきた。これを松田権六と、同役であった従兄弟である松田兵右衛門が出迎え、
重政の前に平伏した。
重政は何も言わず、懐中より訴状を出し
「権六、これを読め」
と言って投げ与えた。権六は何もわからすそれを拾い開くと、そこには自分の行った悪事の数々が並べ挙げてあった。
重政はじっと見て
「汝権六、私曲なくばその旨を陳ぜよ。」
権六は答えた
「も、もとより私にも陳述すべき事はあります!されどいかに君命とは申しながら、これは余りにも片落ちなる事では
ありませんか!先ずこの讒言を行ったものを糺してください。私はその後に陳述いたします!」
これに重政は冷たく
「汝、陳述するべき事がないのなら、今ここにて腹を斬れ。陳述すべき事があるのなら、私自ら、親しく聞いてやる。
汝が果たして罪がないという事を聞き得れば、そこで讒者を殺して、汝に謝罪しよう。
であれば今、讒者を糺す必要はない。」
権六は窮した
「…これはなんとも無理な仰せですが、腹を斬れとのの上意であるのなら斬りも致します。
されども、士たる者の死ぬのに、どうして犬猫のように扱われるのでしょうか?
願わくば沐浴の時間を賜り、そして検使をも受けて、その上で切腹をさせて下さい。」
すると、重政は刀に手をかけさらに冷たく
「汝は自らを犬猫にしてしまったのだ。ならばどうして犬猫のように死ぬのを嫌がるのか?
検使は私である。さあ、未だ遅らせようというのなら手討ちにいたす!」
そう、怒りに満ちた目で睨みつけた。
権六も、この上は是非に及ばずとついに観念し、短刀を引き抜くと逆手に握って自ら腹を掻っ切る。
そこに重政は兵右衛門に介錯をさせて帰っていった。
老臣達はこの事を知ると口々に重政を諌めた。「大名の御身として御仕置、あまりにも軽々しく思われます!」
これに重政は苦笑しつつ
「松田権六は勇士であった。仕手を遣わして放ち討ちにしても、容易には討たれるような者ではない。
また、もしあ奴が事前にこれを悟って己の自宅に立て篭もれば、人多く損なう事になったであろう。
私はそうなることを懸念して、つい若気を出してしまったのだ。
汝らの諫言は誠に理にかなったものだ。」
そう言って奥へと下がっていったという。
(日本武美譚)
松倉重政、私曲の臣を誅する、というお話。
312:人間七七四年
12/09/04 21:13:18.69 pnouzQKh
>>311
悪いという程の話でも無いような、と思ったら…
「松倉重政」
島原の乱の遠因を作った御仁だ…。
これは肥前日野江に移封する以前の逸話なのかな?
313:人間七七四年
12/09/04 23:40:01.82 /HwqI+Sy
重政の美談なんて初めて見た
314:人間七七四年
12/09/05 00:33:43.66 TjZCv7He
意外な一面
315:人間七七四年
12/09/05 01:03:21.65 c7W3Hz70
一揆するよりり離散のほうが多いって話だな。
城の近くでひもじい!ひもじい!と合唱した加賀の領民って話もあるがw
316:人間七七四年
12/09/05 07:05:10.71 FzqNIhT8
ほら加賀はアレだ、他領から移って来たら犬のお父さんグッズとか貰えるんだろう
317:人間七七四年
12/09/05 13:08:12.68 pd5+Bpcm
>>315
というか逃散自体が一揆の主要な形態のひとつだな。
領主からこれだけの譲歩を引き出すと決めて、あとは我慢比べ
318:人間七七四年
12/09/05 22:16:31.38 +M9VKx6M
関ヶ原の決戦の後、近江水口城に籠る長束正家に対し、池田輝政は家臣。舟戸久左衛門を遣わして
降伏の説得をするようにと命じた。
これに舟戸久左衛門は困惑した。「わたしはその様な事のできる器ではありません。もっと老巧の者を
選んで遣わすべきです。」
しかし輝政は聞かず、強いて彼を使者とした。舟戸は致し方なくその命を排し、それから鍛冶の命じて
一辺3,4寸の、方形の鉄板を作らせこれを懐に入れ水口城に至り、案内を乞うて入城し、正家に対面すると
懇切に、主人輝政の言葉を言上した
「今降伏なされば、貴方様の一命のみならず、本領も安堵され士卒も助かるのです。」
長束正家はこれを聞くと
「その志、たいへんかたじけなく思う。その仰せに従って降伏することが可能なら降伏したいのだが、
我が士卒達は伊勢阿野津の城攻めに疲れて関ヶ原の戦場で功がなかったのを憤慨し、この城を枕として
目に立つほどの一戦をすることを、必死の思いで期待している。ならば士卒の心を問わずに私一人が降伏して、
何の益があるだろうか。
この趣を以って、宜しくそなたの主人の返答申されよ。」
その言葉に、降伏を受け入れる様子は見えなかった。
ここで舟戸、正家の小姓を呼び、懐の鉄板を取り出して言った
「これを火にて焼いて下さい。我が主人輝政の志、私の言葉、これらが長束様を欺くものではない証拠として、
貴方様の眼前で鉄火を行います!」
そしてまた懐中より午王の神符を取り出し、片手に握った。
その決意は顔前に溢れ、これを見た正家は涙をポロポロと流し
「貴殿のそのような真心に接しては、私はもう致し方ない。まさしく誠の武士で有るかな。この上は
たとえ欺かれて降伏したとしても、これもまた武士の一義、恨み悔いるには及ばない。」
そう言うと小姓を呼んで何事か囁いたが、暫くして小姓が脇差一腰を持って出てきた所を、
正家は舟戸に親しく声をかけ
「これは見苦しいものであるが、いささかお主のこの度の志に報いようとしたものである。帰ってお主の主人に
私の降伏を伝えられよ。」
と、それを与えた。
ところがそれでも舟戸が、なかなか座を立ちかねている体を見て正家
「ああ、私が忘れていた。」と小姓を呼び硯を取り寄せ、證文を書いてこれを与えた。
舟戸はが立ち返りこの旨を申し上げると、池田輝政は彼を激賞した。
ちなみにこの時長束正家が舟戸久左衛門に与えた脇差は、無銘で一尺あまりの貞宗鍛えだという。
舟戸久左衛門、長束正家への降伏勧告の使者となる。という逸話である。
(武士道美譚)
まあ正家さん、懸念した通り欺かれて切腹させられちゃうんですけどね。
319:人間七七四年
12/09/05 22:24:53.41 +EboGKCu
正家さんの正室は本多忠勝の妹だそうだが
このだまし討ちで本多と池田の仲が悪くなって姫路城奪われた
なんて話はないよね
320:人間七七四年
12/09/05 22:37:42.16 djK8oeQ1
忠勝妹は本多家に返されたけど腫れ物扱いだった、とかそういう話を何処かで読んだな
321:人間七七四年
12/09/06 00:10:44.16 QWniifPv
本領安堵とか言ってる時点で嘘だと見破れよ…
322:人間七七四年
12/09/06 00:26:18.87 y4TWJCG7
嘘つかなきゃならなかった舟戸も苦しかったろうな
明らかに助かる状況じゃないし
長束さんもわかってて降伏したんじゃない?
323:人間七七四年
12/09/06 00:52:18.73 Nrb5jCBI
いや正家も判っていたでしょ
判っていて、それでも舟戸の覚悟に感激して降伏を受諾した
だから池田輝政は舟戸を激賞したと
324:人間七七四年
12/09/06 08:53:38.23 rDTCjwjr
やめとけ…(´・ω・`)
【大分】大友宗麟PR大作戦 大分市 まちづくりへ検討委
スレリンク(newsplus板)
325:人間七七四年
12/09/06 10:23:52.29 TpRga5x+
ヤブヘビって言葉を思い出した・・・
326:人間七七四年
12/09/06 10:52:42.98 W59RMvbQ
太閤秀吉は百姓から天下人になった英雄
なんて思ってた頃に戻りたい
327:人間七七四年
12/09/06 11:37:13.75 fAY4MyLn
戦国時代の一番のDQNは織田信長
そう思ってた時期が懐かしいねみんな
328:人間七七四年
12/09/06 11:59:09.10 hkfZeY7T
>>326
俺も気配りと頭の回転の速さと人間的魅力で貧民から天下人になったって思ってた・・・
あれ、間違ってないな・・・あれ?
329:人間七七四年
12/09/06 14:44:57.60 GkDvIw8o
誰もが言うのは「天下人になるまでの秀吉は好き」
330:人間七七四年
12/09/06 14:53:18.40 PpEWX2Gg
ずいぶん前にヒストリアでキリスト教によって愛に目覚め理想の国家をつくろうとした
西洋音楽(ムジカ)を愛した大友宗麟、なんて持ち上げられてたから、そこらでとめとけばいいのに
331:人間七七四年
12/09/06 15:09:28.47 ub9Z13rJ
>>326-328
一度知ってしまった以上、
知らなかった頃にはもう戻れない・・・
332:人間七七四年
12/09/06 15:14:00.48 qlwzXjvw
いい意味でも悪い意味でもデカイ男だからな
333:人間七七四年
12/09/06 17:11:02.59 Wjow5dIE
ソーリンのキリスト教は市松の酒みたいなもんだな。
334:人間七七四年
12/09/06 17:14:49.07 MfMuhx+J
宗麟公とその周辺は、キリスト教宣教師の側の記録と日本人の側の記録の格差があまりに酷くて
比べてると乾いた笑いしか出ない。
335:人間七七四年
12/09/06 19:22:33.76 AZgXMjwe
大坂城落城の朝、徳川家康は御旗御長柄を住吉の辺りに立てて置き、
自身は住吉と城の間の山奥にいた。
この時、家康は松平正綱を召して「城中の者は我が旗印を見て、わしが住吉に
いると思っているだろうな。味方は既に勝ったのだから、この上は身を大事に
することが第一じゃ」と笑った。
そんな所に安藤直次が馳せ来たり、家康に勝利の様子を報告した。
それから、直次は御茶や弁当のために同行していた坊主に向かって
「喉が渇いてかなわん。とにかく一杯飲ませろ」と言った。
しかし坊主は「只今、上様の御茶器の他には器がございません」と断るので、
直次は「上様の御器でも賜った後ですすげばよかろう。いいから飲ませよ」
と重ねて要求した。
そのような問答をしていたところ、聞いていた家康が「帯刀が喉が渇いたと
言っているのに何故飲ませぬか。こんな時に上も下もあるか馬鹿者!」
と坊主を叱ったので、直次はすぐに喉を潤すことができたという。
(徳川実紀)
336:人間七七四年
12/09/06 19:30:04.13 AZgXMjwe
>>335
すいません、9行目を少し訂正します
×上様の御茶器
○上様の御茶碗
337:人間七七四年
12/09/06 22:38:45.03 MfMuhx+J
明智光秀の家来に、箕浦大蔵丞、古川九兵衛、天野源右衛門(作兵衛)という者たちがあった。
彼らは本能寺の変でも大いに活躍した勇者であり、その後の戦乱も生き延び、
後に天野源右衛門は立花宗茂に仕え、箕浦大蔵は浅野幸長に仕えた。
ある年京都において、天野の宿舎に箕浦が訪問して、昔の話などしていた時に丁度、古川九兵衛も尋ね来て、
久方ぶりの珍しい会合となった。
3人の話は尽きず、果ては本能寺の話となり、お互いの武功を論じ合ううちについに罵り合いとなった。
中でも箕浦と古川は互いに立腹してその功の優劣を争い、座もどんどん白けていく所を、天野が様々に
とりなしてどうにか収めようとしたが、双方共に一向に引こうとしなかった。
いい歳していても、武士はこれだから困りものである。
と、ここで門外にわかに騒ぎ立ち多くの人の足音聞こえてきた。
何事かと3人、2階の窓から外を覗くと、何としたことであろう、上京の方より大男が、たった今人を殺したのだろう、
血刀を振り回しながら走り来る。その後ろ二町ほど隔てて2,30人の者たちが抜き身にて、この男を追いかけていた。
「これは容易なことではない。」
先ず天野がとっさに2階より降り、古川もそれに続いた。
箕浦は昔鑓傷を負ったため手足不自由であり、急に降りることができず遅れたのを古川、「ここだ!」
と思い急いで梯子を引いた。箕浦大蔵、文字通り梯子を外されたのだ。
これでは下に降りることができない!箕浦はどうしようもなく窓から出て庇の上に立って見ていると、
なんとあの科人がその真下に通りかかったではないか!
箕浦、思い切って庇から科人の頭の上に飛びかかる!
そして踏み倒しざまに直に押し乗って、物も言わせずその頸取って立ち上がった。
この時天野古川もその場に到着したが、箕浦は大得意でその科人の頸を示し
「いつも手柄は我先なり!本能寺てもこの通りなり!!」
そう鼻をふくらませて悠然と言い放ったという。
人々その剛勇を感じ、古川は一言もなかった、とのことである。
(武士道美譚)
338:人間七七四年
12/09/06 22:48:39.81 ub9Z13rJ
>>337
頼みもしない上に事情も知らずに頸をあげた箕浦さんはその後どうなったんだろう・・・
339:人間七七四年
12/09/06 22:56:31.21 qBqh71GN
明智三羽烏の面々ですな
しかし蘭丸討っておきながら鬼武蔵に仕えた天野源右衛門(安田作兵衛)と
立花宗茂はあんまり合わない気がするが
340:人間七七四年
12/09/06 23:04:27.87 H63MqARw
>>337
しかし残念ながらほぼそのままで既出
341: 忍法帖【Lv=28,xxxPT】(1+0:8)
12/09/06 23:35:36.87 ysIDaJOd
>>339
安田作兵衛が立花宗茂に仕えたのは肥後一揆から文禄の役までの短い間だからねぇ
342:人間七七四年
12/09/07 01:01:03.11 kWlvANan
大分が生んだ戦国時代のキリシタン大名、大友宗麟(1530~87)を大分市のまちづくりに生かしていこう、と同市は有識者や町おこしグループをメンバーに
「大友宗麟プロモーション検討委員会」(委員長=吉津弘一・日本文理大学経営経済学部教授、9人)を発足させた。
宗麟は南蛮貿易に取り組み、西洋音楽や西洋医術などを積極的に導入。宣教師フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許した。
ヨーロッパでは、九州の地図は「BUNGO(豊後)」と記され、宗麟が描かれた絵画も残っており「王として知れ渡っていた」(鹿毛敏夫・東京大学史料編纂所国内研究員)。
3日に同市役所であった検討委初会合では藤沢卓弘・大分商工会議所青年部副会長は「パエリアなど南蛮料理を飲食店と提携して出してみたらどうか」と提案。
牧達夫・NPO法人大友氏顕彰会理事長は「業績や資料を目にすることができる場所の確保を」と求め、
県立芸術文化短期大学1年の竹中容子さんは「歴女(歴史好きな女性)の学生には甲冑を着けたいという人もいる。難しい話よりインパクト重視で」とアイデアを出した。
委員会は、来年1月まで毎月1回開き、具体的なPR方法をまとめ、来年2月に釘宮磐市長に報告書を提出する。
同市は織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟にあらためてスポットライトを当てよう、
と昨年の市制施行100年を契機に宗麟を柱の一つにしたまちづくりに着手。本年度は児童向けの副読本作成や
国史跡「大友氏遺跡」を観光拠点とするための保存事業など14事業を予算化。観光客を意識し宗麟像があるJR大分駅前に、
ザビエル像を3年以内に新設することも予定している。
=2012/09/05付 西日本新聞朝刊=
URLリンク(www.nishinippon.co.jp)
343:人間七七四年
12/09/07 01:26:54.08 AryGjO1K
>>342
人妻は宿泊割引とか、仏教徒は2割増しとかで
344:人間七七四年
12/09/07 01:31:38.20 4sIVIzBZ
それはちょっと・・・
つか宗麟押しは悪い話かよw
345:人間七七四年
12/09/07 01:33:50.86 O62kEgbm
>織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らに比べて知名度の低い宗麟
この3人と比べる事自体間違ってるだろw
346:人間七七四年
12/09/07 07:26:14.49 VP9ypd+i
あんまり宗麟は掘り起こさない方がいいと思うな
情けなくなるから
347:人間七七四年
12/09/07 11:03:00.85 xlZ8SbNS
宗麟の知名度よりも隣の島津さんや家来の道雪・宗茂の方が高そうだし。
348:人間七七四年
12/09/07 11:57:11.88 JIkweN8t
知名度は低いが優秀なキリシタン大名って所で
終わらせておいたほうがいいよね。
349:人間七七四年
12/09/07 12:04:08.31 9qqHBY3H
>>児童向けの副読本作成や
宗麟ってR15指定だよな
350:人間七七四年
12/09/07 12:17:34.17 iZdvwBUr
知らない方がいい事もある…
351:人間七七四年
12/09/07 12:44:48.03 /nOj86H9
輝元よりはマシだと思うがねえ…
352:人間七七四年
12/09/07 12:51:37.45 taYFq6P2
最後の方で見せた意地は良いと思うんだけどな
353:人間七七四年
12/09/07 13:42:35.00 yIisNEzp
ゆるキャラ:大友宗リン
354:人間七七四年
12/09/07 14:42:21.41 tmTZfyp3
TERUには愛嬌があるけど、宗リンはなんていうか、のりがガチなんだよ
355:人間七七四年
12/09/07 15:38:15.40 qOrIL3ku
靖国の遊就館にある国崩しって実戦使用した物なんだろか?
356:人間七七四年
12/09/07 18:51:28.13 LYC4+IFH
近デジの武功雑記読んでたら
大谷吉継・石田三成恋人説
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
これのおそらく原文見つけたので、短いので書いてみる
・石田治部少輔を度々大谷刑部少輔しかり、又は頭をはり候。
石田大谷に恋慕して、知音になり候。
それより頭をはらるるも、忝と云うやうにもてなし候。
(武功雑記 巻十二)
なんだかホントに異様な関係性だなw
357:人間七七四年
12/09/07 18:56:10.05 qAOThYD4
頭をはる、て
漫画の風雲児たちの大谷吉継がハリセンで三成どついているのって、
元ネタあったのか
358:人間七七四年
12/09/07 20:26:22.72 jCfq0HyF
>>353
はるか昔、某誌で女子大生がムネリンと呼んでゲームで使用してだな
359:357
12/09/07 20:33:53.85 g4K+jpQy
てリンクのまとめサイトのこの話のコメントみたら
風雲児たちネタがいくつかあった
360:人間七七四年
12/09/07 21:57:18.15 LvUM7Tln
織田信忠の小姓に、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年があった。
清蔵は佐々成政の甥で、武士の家系であったが、小辨は伏見あたりの賤しき者の子であった。
しかしこの二人は容貌殊の外優れ、また賢かったので、禿(かむろ)として常に信忠の元で使われていた。
さらに清蔵は観世流の能を、小辨は小歌の名人であったので、特にその寵愛を受けた。
天正10年(1582)び武田征伐における高遠城攻めの時、両人共に16歳にして抜群の働きがあり、
織田信長はこれを聞くと両人を呼び出し、先ず山口小辨に
「この度高遠にての働き、稀代の至りである!城介(信忠)の眼鏡違わず、ひとしお満足の事である!」
そう褒め上げ、手づから国久の腰の物に感状を添えて下した。
次に佐々清蔵を召し
「高遠にての骨折り、天晴であった!ただし汝は手柄するのも当然である。何故ならあの大剛の
内蔵助(成政)の甥だからだ。」
と仰せられ長光の腰の物に感状を添えて下された。
これを見聞きした者たちは二人の名誉を羨むと同時に、
「信長公はさすが智勇兼備の大将である。あの褒められ様を見たか?
小辨は卑しい身分の出身なので、手柄高名誠に稀代なりと仰せられ、
清蔵は武士であるから伯父内蔵助の名まで出して賞せられたること、流石名将の一言一行、
感ずるに余りある。」と言いそやしたそうである
さて、このことがあって60日あまりにして、明智光秀の反逆により信長は弑せられた。
その時信忠は二条城にあったが、光秀の兵がそこにも襲い来て同じく討ち取られたその時に、
この清蔵、小辨の二人の小姓は互いにいい合わせて
「今は我々も討死すべき時である!されど素肌(鎧を着ていない状態)にて死ぬことは、屍の上に
恥を晒すことである。厳しく物具して死のう。そうであれば緊急の事態で何致し方ない。共にひとたび
敵軍に討ち入り、良き兵討ちてその物具を取って着よう!」
そう確認すると二人、遺産で突き出て、思った通りの敵を討ち取ると一度陣に帰り、その物具を二人共
厳しく装うと、互いに微笑み合い、再び切って出て敵勢と渡り合ったが、ついに二人共討ち取られた。
ただでさえ紅顔の美少年であった二人の思い切ったる働きに、この戦場の人々も彼らから目が離せなかったが、
その死んだ時、美しい顔に血が流れ、前髪も朱に染まっていたのを、敵も見方もこれを見て嘆くとこ、
ひとかたでは無かった。
そして多くの京童たちも二人の少年の首のもとに集まり、その健気さを惜しみあった、とのことである。
織田信忠寵愛の小姓、佐々清蔵、山口小辨という二人の少年についての逸話である。
(武士道美譚)
361:人間七七四年
12/09/07 22:07:30.29 qOrIL3ku
え?悪い話!?
362: 忍法帖【Lv=29,xxxPT】(1+0:8)
12/09/07 22:36:40.12 Wr0rj8gN
イイハナシダナー
363:人間七七四年
12/09/07 23:52:23.66 LTHm1aGn
>>360
それもガイシュツ
URLリンク(iiwarui.blog90.fc2.com)
武士道美譚なんて明治に書かれた逸話の寄せ集めなんだから
既出かどうかまとめブログで登場人物名を検索するぐらいしようよ
364:人間七七四年
12/09/08 00:01:29.37 PcoC7J24
>>363
最近目立つ創作もどきや概説ならともかく、神経質すぎだろ。
そっちの出典は常山紀談だと書いてあるし、同じ話でも少しずつ違うんだから良いじゃないか。
365:人間七七四年
12/09/08 00:30:43.38 pq329bjA
というか眼鏡という単語が引っかかった。この頃にに入ってきたんだな
366:人間七七四年
12/09/08 00:49:11.25 TYKdc9uU
小和田哲男の本で
「秀吉」「天地人」の時代考証の時に
「眼鏡にかなう」という言葉が入れられそうになった時、小和田哲男は
フロイス「日本史」では
フランシスコ・カブラルがメガネをかけていたら庶民からバテレンは4つ目だと評判になって
岐阜に四、五千人もの観衆が集まってきた。
と書かれているように、戦国時代に眼鏡はほとんど普及していなかった、だから「眼鏡にかなう」
という言葉もなかったはず、と入れさせなかったそうだが
367:人間七七四年
12/09/08 00:49:39.09 wdKNoxDl
少なくとも関連リンクはありがたいんだけどな
368:人間七七四年
12/09/08 00:54:35.47 K/FXAyga
久能山だかに家康の眼鏡が残ってたな
369:人間七七四年
12/09/08 02:18:52.15 NIxT/FZp
その眼鏡をモチーフにしためがね之碑があるのが、上野の東照宮下の不忍池
370:人間七七四年
12/09/08 04:56:56.65 aRY9MqBK
大御所様は4つ目だ
371:人間七七四年
12/09/08 05:18:47.30 XGjCSYo5
神々の争い
武士に戦神と崇められている八幡神を祭る宇佐八幡宮。
その由来は謎な部分が多いが元はどうも渡来系の鍛冶の神らしく、弓削道鏡の野望を砕いた宇佐八幡神託事件など朝廷の庇護も厚く、九州最大の荘園領主として君臨していた。
という訳で、八幡神は天津神として扱われる事が多い。
また、宇佐八幡は神仏混合政策を主導していた事もあって弥勒寺という寺を抱え、国東半島は六郷満山という仏教の拠点にもなった。
さて、今度は国津神である。
豊後の国の南部、祖母山を中心とした山岳信仰から、とある一族が豊後国に台頭する。
大神氏。
この一族、その祖が蛇神という血統を有していた彼らは豊後南部に根を張り、土地は貧しいが港に適した地形から海上交易によって富を築き勢力を拡大していた。
そして、彼らが持つ水軍は平家台頭の時代の流れに乗り、源平以前から九州最大の荘園領主であった宇佐八幡と必然的に利害が衝突する。
大神氏の子孫である緒方惟義は平家を見限り源氏につき、平家が避難していた宇佐八幡宮を焼き討ち。
だが、平家が壇ノ浦にて滅んだ後の源頼朝と源義経の対立に巻き込まれた大神氏は義経側について失脚。
時代は下がり、豊後に下向してきた大友氏はこの神々の争いを徹底的に利用し、宇佐八幡信仰を利用して地元国人衆であった大神系国人衆を粛清してゆく。
ただ、宇佐八幡は豊前にあり豊後とは隣とはいえ国が違うために、その八幡信仰を担ったのは国東半島にある奈多八幡宮である。
この争いは戦国時代になるまで続けられてゆく。
大友家が合戦や血縁政策にて大神系国人衆を取り込めば、大神系国人衆はやばくなったら船を使って伊予に逃げ出しほとぼりが冷めたら豊後に帰還する始末。
その戦いの決着は全てを否定するこの男の信じる神によってもたらされた。
大友宗麟『主の為に』
大神系国人衆は小原鑑元の乱を最後に無力化されるが、宇佐八幡をはじめとする旧態依然として既得権益の塊だった寺社勢力全てをキリスト教信仰によって大友宗麟は敵に回した。
1561年 宇佐八幡宮焼き討ち
こうして神の国を作ろうとした男の夢は耳川合戦の大敗にて散り、大友家もその息子義統の代に朝鮮出兵の不手際にて滅ぶ。
その不手際の一説に名前があがったのがキリシタンだった志賀親次というのは何の因果だろうか。
天津・国津・仏教にキリスト教、豊後にはこのような神々が流れた残滓が残り、20世紀その後豊後こと大分県は国東半島を中心に仏の里をキャッチフレーズに観光資源としてPR。
最後まで残ったのは仏教だったという神々の争いとその顛末の話。
372:人間七七四年
12/09/08 06:07:11.81 aRY9MqBK
確かに信長っぽい
最終的にキリスト教に取り込まれてしまったが
373:人間七七四年
12/09/08 12:09:22.24 hvtbgZHu
「お目にかなう」って表現はいつからあったんだろうか?
眼鏡にかなうより昔からあったのかなあ
374:人間七七四年
12/09/08 12:25:04.96 5edXjqzV
考証って言葉まで担当してたんだね
物だけかと思ってた
当時ないといえば四六時中とかも使えないんだろうなあw
375:人間七七四年
12/09/08 13:56:54.09 hvtbgZHu
>>374
「二六時中」という言葉はあったらしい
376:人間七七四年
12/09/08 14:01:08.41 pT9WL0m5
大河ドラマ毛利元就の脚本を担当した内館牧子は
「殿、チャンスですぞ」という台詞を考証に却下された、とぼやいていた
377:人間七七四年
12/09/08 14:30:36.34 K/FXAyga
今年のも「王家」がどうこう言うて釈明に追われてたっけ
378:人間七七四年
12/09/08 14:53:47.69 4S++orRw
チャンスwと思ったが日本語にするとなんだろか。好機?
379:人間七七四年
12/09/08 14:55:34.21 xRjFVdfj
殿チャンスですぞってどこぞのパチンコだよwww
380:人間七七四年
12/09/08 15:00:30.39 hvtbgZHu
白河法皇「なうげったちゃんす(ニン」
381:人間七七四年
12/09/08 15:08:44.51 6IIMnwwc
そこまで厳格にやらんでもいいけど、
チャンスとか雰囲気壊すのはやめて欲しい
382:人間七七四年
12/09/08 17:27:04.08 NIxT/FZp
サボる ってのも日本語になってるよね・・・
383:人間七七四年
12/09/08 18:38:23.77 dcWlVES0
>>378
クロカン「ご武運が開けましたな」
384:人間七七四年
12/09/08 23:16:42.97 pVJsbKH6
玉虫忠兵衛とは甲斐の城意庵の弟で、武田信玄、上杉謙信に歴事し、
後には徳川家に仕えた。
小牧長久手の役に従軍した時、徳川家康は忠兵衛に向かって
「今少し見合わせて槍を入れて見せよう。よく見ておけ」と言い、
程なくして勝利を収めた。
後に忠兵衛が人に語ったところには、
「我が君の御軍略は甲斐や越後には劣っておられるが、
御勇気の凛然たるところは遥かに優っておられる。末頼もしきことだ」
ということだった。
また、ある時に家康が言うには、
「忠兵衛はたわけた男だが、軍陣においては眼が八つづつあるような者だ」
とのことだった。
忠兵衛は後には松平忠輝に仕え、大坂夏の陣では軍監を務めた。
しかし、指揮の悪さが家康を怒らせ、追放されることになった。
この時、家康は「玉虫ではない、逃虫じゃ!」と言ったとされる。
―『徳川実紀(武功雑記、古士談話、大坂覚書)』
385:人間七七四年
12/09/08 23:45:03.68 pVJsbKH6
>>384
ちょっと訂正します。
×指揮の悪さが
○指揮の様が悪いという理由で
386:人間七七四年
12/09/09 01:39:48.35 taHnxBHK
>>377
大英帝国だって女王陛下じゃんじゃ納得しないんだろうなあ
387:人間七七四年
12/09/09 02:00:13.67 ZhPAw3tm
王家ってのは江戸時代なのに天領って言っちゃったり幕府だの藩だの呼んじゃったりする感じなんだろうね
388:人間七七四年
12/09/09 05:40:26.89 k/VqTOz6
>>386
あれはインド皇帝を兼ねてたからなぁ
389:人間七七四年
12/09/09 06:24:05.46 bC+Jnv3+
正直、英国王兼インド皇帝ってみっともないよねw
390:人間七七四年
12/09/09 07:10:14.29 lyl50MhV
当時概念はなかったし一般的な呼称じゃないけど
学会で使われてるから王家にしました、とか
391:人間七七四年
12/09/09 08:19:32.81 mR3DOnv5
そうそう。学会用語としての「王家」をNHKが当時の一般名詞と勘違いしたらしいな、アレ
392:人間七七四年
12/09/09 08:45:54.00 oCElo4vA
家は使われていなかった
皇室は使われていた
王室の方が使われていた
結局そんな感じ?
393:人間七七四年
12/09/09 09:35:40.49 TjM0KGOa
>>225
いや、当時使ってた。きちんと考証したら、
バカから突っ込みがきた感じ
394:人間七七四年
12/09/09 10:11:42.69 u4jXpfaB
アレは史実かどうかよりもイデオロギーの問題だからなw
395:人間七七四年
12/09/09 10:30:17.18 mNfSbztk
「皇家」という言葉も当時あったから、そちらにしたらという意見があったが
皇国主義と批判されて中世の歴史学会では「王家」になったようだから
たしかにイデオロギーの問題だな
396:人間七七四年
12/09/09 13:06:57.62 MjrB2RIo
キリシタンの楽園の闇
戦国時代、畿内で勢力を誇った三好長慶の家臣に河内三箇城を治める三箇頼照という武将がいた。
永禄六年(1563)に頼照はロレンソの説教を聞いてキリシタンとなり、ガスパル・ヴィレラより「サンチョ」という洗礼名を与えられると、
以後の頼照のキリスト教への傾倒ぶりたるや相当なものですぐに領内に教会を多数建てて多くのキリシタンを呼び込んだ。
三好長慶から代が変わって主君が義継になり、バレテン追放令が出ようとその信仰は揺るがす、
一度は三箇城を破壊され、所領や財産を没収されるという憂き目にも遭った(後に返還されたが)がそれでも頼照は棄教しなかった。
そんな頼照の敬虔な信仰ぶりは当時のキリスト教宣教師たちから絶賛されている。
ルイス・デ・アルメイダ「予が日本で見た最も信仰厚きキリシタンに属す」
ルイス・フロイス「イエズス会士に対して真の父の如き庇護を与えた人」
また、フランシスコ・カブラルも頼照の語った「キリスト教と日本人の宗教観」についての演説に深く感銘を受けて、
日本人の聡明さを表したものとして頼照の演説文をそのままインドのゴアに送っている。
しかし、そんな頼照にも問題点はあった。
領内に美しい教会などを次々と建ててキリシタンを手厚く保護していたがその影で寺院などは取り壊されて肩身の狭い扱いを受けていたのである。
天正5年(1577)、ついに頼照は領内の寺院全てを破壊し尽くすという暴挙に出たが、これが元でキリシタン嫌いの多羅尾常陸介に
毛利家への内通を讒訴され失脚。この疑惑は後に解かれたものの頼照自身は家督を息子に譲り隠居する羽目となった。
有りがちといえば有りがちな行き過ぎた信仰の話。
397:人間七七四年
12/09/09 14:46:46.58 Q5B0QBFz
キリシタン領主はすぐこういう事しちゃうよな
398:人間七七四年
12/09/09 16:14:12.03 /U+lUKh8
ついさっきまで、外で神父さんが説教してたよ
片言の日本語だから、~しなさいとか、高圧的でかなり印象の悪い説教だったけど
399:人間七七四年
12/09/09 16:39:58.54 Dvi4jxiX
唯一神教なので教理上、他の宗教の神は必ず悪魔という事になるから仕方ない
流石に現代のカトリックは自重してるけど
400:人間七七四年
12/09/09 20:55:49.68 PSIY045r
頼照って名前だけ見ると本願寺っぽいな
401:人間七七四年
12/09/09 21:04:18.64 L9R6RFTr
下間さん家か
402:人間七七四年
12/09/10 00:03:01.42 MjrB2RIo
じゃあ下間のほうの頼照(『よりてる』じゃなくて『らいしょう』だけど)さんの逸話も一つ
越前一向一揆の大将の最期
天正2年(1574年)の2月より加賀から押し寄せて越前を織田軍から奪い取った一向一揆であったが、
その一向一揆も翌天正3年(1575年)の夏には早くも織田軍の猛反撃に遭い壊滅した。
この越前一向一揆の主導者を務めた坊官の下間頼照は何とか織田軍の追手から逃れ、
越前から脱出しようとしていたが、執拗な捜索に阻まれ身動きが取れなくなっていた。
府中の近くにある茅屋に忍んでいた頼照は一揆軍が織田の軍勢に悉く探しだされて誅殺されているという報告を受けると
恐怖で焦りが出たのか乞食の扮装をして破れた笠を被って褐衣を羽織って茅屋を飛び出し、
織田軍の目を欺きながら何とかして湊まで落ち延び、加賀へと戻ろうとしたのである。
しかし、頼照の命を狙っていたのは何も織田軍だけではなかった。
道中で本願寺と対立していた真宗高田派の僧たちに見つかってしまった頼照は乞食の恰好のまま湊に辿り着く事もなく首を刎ねられ死んだ。
403:人間七七四年
12/09/10 11:49:08.69 gDOTx3uD
狂犬にホイホイついていってしまうから・・・
404:人間七七四年
12/09/10 19:12:43.72 XcyOepf0
狂犬が起こしたのは土一揆で一向一揆はまた後に起こったんじゃないか。
405:人間七七四年
12/09/10 19:56:25.92 jo8XTKVg
長繁が起こした土一揆が、結局長繁と手を切って一向一揆化という感じ
406:人間七七四年
12/09/10 21:32:34.36 zpokYFvn
長島の後だから越前でも徹底的にやったらしいねぇ、掃討。
まぁ長島と違って結束ガタガタで信長来る前から内紛してて信長来る頃には抵抗するような一揆衆も減ってたみたいだが。
407:人間七七四年
12/09/10 21:47:06.83 Q6yXxDYQ
>>402
筑後が筑前ならぬ逐電しようとして失敗か
408:人間七七四年
12/09/10 21:50:30.01 Oww+RKUu
越前は一揆後に本願寺から派遣された指導者層が強圧的な支配を試みて心が離れちゃったんじゃなかった?
派遣されたやつが張り切りすぎたのか本願寺が情勢を見誤ったのかはわからないけれど
409:人間七七四年
12/09/10 22:42:57.33 TYYgxFYw
アニメ見て思ったんだけど、
お市が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送った逸話ってまだ出てない?
410:人間七七四年
12/09/10 23:52:53.76 11fgjDZw
>409
ここ数週間で3回見たぐらい有名な逸話をなんで今さら出す必要があろうかw
そのうち2つはアニメ、あと一つは水曜どうでしょうだw
411:人間七七四年
12/09/11 21:12:46.19 z6dKr0bm
蓮如の北陸への浄土真宗の布教は、講による組織化が成功し瞬く間に広まった。
しかし門徒の勢力が拡大するに連れ、念仏の寄り合いでも平気で酒を飲み魚鳥を食すなど
他宗の物忌を一切無視する門徒たちと、既存宗派との摩擦は大きくなり、これは既存の宗教勢力と
つながりの深い諸語など支配勢力との摩擦も生んだ。
双方の相克が強まる中、北陸の本願寺派の中心、越前吉崎御坊の多屋衆は、文明5年(1473)ついに
守護などへの明確な対決姿勢を決議した。
以下、その有名な決議文である。
『右、我々がここ両三年のあいだ、この当山(吉崎)において今まで忍耐してきたのは、
名誉や利益を目的としたものではなく、栄耀栄華を事ともせず、ただ願うことは極楽往生の為ばかりであった。
その様な中、当国(越前)、加賀、越中の内の土民、百姓以下等において、その人々の一生は、徒に罪業を作って
一善を修養する機会もなく、空しく三途(亡者の行く地獄道、畜生道、餓鬼道)に堕ちており、これは非常に
不幸なことであった。
幸いにも弥陀如来の本願は、誠にもって現在、今の状況に相応しい要法である上
その布教は、偏に念仏往生の安心を勧める以外の目的はないのに、最近の牢人衆による遠征の事について、
様々な(一向宗yがこれに関わっているという)雑説を申され、言語道断、迷惑の次第であり、不運の至、
悲しみもなお余りあるほどである。
このような状況により、心静かに念仏修行をしようとするその在所においてすら、もし要害を構築しなければ
一切の諸魔、鬼神(敵対勢力)に(吉崎御坊を滅ぼす)機会を与えてしまうので、我々は深く要害を
構築したのである。且つこれは盗賊への用心のためでもある。
その他の理由は全くないのだ!
だが、万一、そういう事であっても、現在の状況で我々に無理な要求をしてくるというのなら、
我々同篇(同士)の間では、念仏を唱えて順次往生を遂げて死去することも、また道理に外れた苦難に逢って死去するのも、
共に以前世の業の結果であると理解している。
そうである以上、仏法のために命を惜しんではならない!
合戦すべきだということを、先日諸人一同で評定し、衆議により議決したのだ!
文明五年十月(欠)日 多屋衆』
しかし蓮如はこの多屋衆の決議を批判し、翌文明六年五月十三日の御文でこのように諭した
『そもそも国においては守護方、所にあれば地頭方に対して、いかに我々が仏法を崇め信心を得た者であると言っても、
(彼ら支配層を)粗略にするようなことは、ゆめゆめあってはならないのだ。
むしろ、いよいよ租税や賦役にも熱心に従うべきなのだ。
その様に心得ている人をさして、信心発得して後生を願う念仏行者の手本というべきである。
これらはすなわち、仏法、王法を旨として守れる人と名付けるものである。』
このような中、更に翌年、文明7年(1475)8月21日、吉崎御坊は戦乱に巻き込まれて消失する。
永正3年(1506)には加賀一向一揆の軍勢を破った朝倉氏により、吉崎御坊は完全に破却され、廃坊となった。
戦乱に積極的に参加した、これがその結果であった。
北陸一向一揆をその中心として主導した吉崎御坊の「多屋衆決議文」と、その後についての事である。
412:人間七七四年
12/09/11 22:50:00.15 P3KyvVlI
止め刺された相手が宗滴のじいさんじゃ運が悪いとしかいいようがない
413:人間七七四年
12/09/12 11:02:15.10 cwtpUCSt
そりゃあ長年苦しめられた加賀一向一揆の本拠地なんだから
朝倉の方も出し惜しみはしないだろ。
414:人間七七四年
12/09/12 18:52:12.28 f6RK1jDg
蓮如のためにやり過ぎてしまった結果、蓮如に破門された坊官がおったような
415:人間七七四年
12/09/13 19:07:45.95 YiRa+l82
因幡国の住人、草刈加賀守衡継の息子である、嫡男の三郎左衛門景継、次男の太郎左衛門重継の兄弟は、
因幡智頭郡、美作苫北郡を切り従え武威を両国の間に震い、毛利家に対して無二の忠功を胃打ち立てていたのだが、
一体どうしたことであろうか、兄の景継はその志を変じ、織田信長に通じようとした。
草刈景継からのこの申し出に織田信長は、景継が味方となれば因幡美作両国の攻略が速やかになると
判断し、過分とも言える報償を約束した朱印状を発した。
ところが、である。天は不義を憎まれるとはこの事であろうか、この景継の遣いが帰国の途中、
小早川隆景の設置した関所のものが不審に思い、これを搦め捕り草刈景継の織田信長への内奥を知ると、
これをすぐさま隆景の本拠である安芸国は沼田に連行した!
さて、これを知った隆景は大いに驚き、草刈家の家老、黒岩土佐守を召し出しその一部始終を説明し、
「急ぎ景継を討つのだ!」と下知をした。
黒岩土佐守も否やに及ばず、急ぎはせ帰り次男の重継と協議した。
そしてある時競馬(責め馬)を見物しようと、景継を呼び出した。
景継がこれに応じて見物をしている所を、有無をいわさず討ち取り、その頸を沼田の隆景に捧げた。
草刈重継は武勇優れただけではなく、節義においても固い、節操があり、篤実なる者であったので、
この兄の不義を骨髄に染みるほど口惜しく思い、この後毛利家に対していよいよ忠義をなし、
数度に及ぶ武功を献じた、とのことである。
(陰徳太平記)
草刈景継の、織田への内応事件の顛末である。
416:人間七七四年
12/09/13 21:51:38.55 PXchUSlK
まさに中国地方は草刈場
417:人間七七四年
12/09/13 22:03:58.09 1TAtvP79
コーエー…ついに鬼武蔵の所業を知らしめてしまったか…URLリンク(beebee2see.appspot.com)
418:人間七七四年
12/09/13 22:15:16.05 YnpD7mjF
コーエーは鬼武蔵ネタなら無双3エンパでこんなネタやってた
信長「長可よ、門番はいかがした」
鬼武蔵「身の程知らずにも止めようとしたので、ぶちのめしました」
信長「本当にうぬは武蔵坊弁慶の再来よな」
森蘭丸「あ、兄上、その血は!お怪我は大丈夫ですか?」
鬼武蔵「ん、これは怪我ではないよ」
森蘭丸「兄上、なにをなさっているのです」
鬼武蔵「遺書を書いているのだ、わしがいうのもなんだが因果な商売だ、
お前はけっして俺の跡を継ぐなよ」
最後、忠政はいずこに
419:人間七七四年
12/09/13 23:44:03.25 DsxZFvcu
>ぶちのめしました
…えっ
420:人間七七四年
12/09/14 01:01:54.30 gur4czvT
詳細な描写をするとZ指定になってしまうからな
高遠城の描写はいいのかというツッコミはやめてください
421:人間七七四年
12/09/14 01:09:13.55 YLNTrmuD
>>417
これだけ読むと鉄砲で武装した忍者軍団みたいな不思議な活躍だなw
422:人間七七四年
12/09/14 01:27:22.51 bWnMOtFb
そもそも「お怪我は」って信忠じゃなかったかエピソード的には
423:人間七七四年
12/09/14 15:57:02.06 9nk2jk00
>>414
下間蓮崇さんだな
424:人間七七四年
12/09/14 18:41:20.85 3AG+fYXO
ある時、徳川家康は露地(茶庭)の手水鉢をしゃがんで使った。
露地の手水鉢には『つくばい』というようにしゃがんで使うもの
があったのだが、知ってか知らずか本多正純が、
「今時の数奇人(風雅な人)は手水を立ちながら使いますよ」
と言ったものだから、家康は気を悪くして、
「わしの露地では例え将軍であっても、立ちながら手水を
使いはしない。当然、その他の者もな」
と言ったのだとか。
―『徳川実紀(紀伊国物語)』
425:人間七七四年
12/09/14 19:35:42.77 aAWan72P
その他の者とはいったいどこの誰のことなんだろうか
426:人間七七四年
12/09/14 20:18:15.79 fDVJvPNN
上田宗箇なんかが立って使える背の高い手水鉢作ってたな
427:人間七七四年
12/09/14 22:43:45.88 q07tqjbL
天正14年(1586)、羽柴秀吉の九州役に従軍した吉川元春は、黒田官兵衛の饗応を受けその場へ行くと、
出てきたのは鮭を調理した御馳走であった。
この鮭料理を前に、元春
『…鮭はその性甚だ熱く、血を破壊すると言う。
今これを食せば、持病である瘡忽が再発してしまうかも知れぬ。』
元春、冷や汗である。しかし
『だが黒田はこの魚を主味(メインディッシュ)として饗してくれている。病気に害があるといってこれを断り
食わないというのも、無骨なやつだと思われるだけでなく、我が主人輝元のためにも良くないことだと思う。
どうしよう?』
元春は思い悩んだ。そして
『今これを毒であるといって食わないというのは、黒田官兵衛に対して遠慮がないと思われるか、もしくは
私が迷惑に思ったのだと、黒田は思ってしまうだろう。まあ実際迷惑なんだが。
ええい、こうなったら!』
少しだけ食べた。
そして酒も数献廻ったあと、官兵衛が言うには「九州が静謐となるのも遠いことではありません。そうなると
筑前一国は元春殿、あなたにあてがわれると、これは殿下のご内意です。」
これに元春も「かたじけなし」と謝辞を述べ、やがて饗宴も終わり退出し、その夜、
元春の瘡忽が大いに痛みを発し、日を追うごとに病は重くなった。これを知った毛利輝元は医師の徳琳を遣わした。
小倉城詰の丸で徳琳と対面した元春は、近習に助け起こされると彼を近づけ、輝元への伝言を頼んだ。
「私もこのごろは少し回復したようで、近日中には輝元様と直接対談もできるだろうが、先にあらかじめ、御辺に
言っておこうと思う。私の言うことをよくよく聞いて、輝元様に申し伝えるように。
今度九州退治のため、殿下がご出馬を仰せになられ、これによって我等三家(毛利・吉川・小早川)は、
先鋒として当国に出張しました。であれば、今回は輝元様は、今まで戦場に赴いたことと同じように考えられて
いては、甚だ宜しくありません。
何故かといえば、我々が各地で秀吉公と対陣していた当時は、輝元様を本陣として、隆景や私が先陣として進み、
士卒を下知し手を砕き攻戦の功を励まし、輝元様はただ帷幕の中に在って作戦を運用していればよいだけでした。
ところが今回はそれに引き換え、殿下が総大将であるので、輝元様は先陣の戦将となって、今まで隆景や私が
輝元様の先陣として戦を決したように、輝元様自身がそう心得、しなければなりません。
これは言わずにはおられない事でした。
それから次に、肥前の竜造寺政家(龍造寺隆信嫡男)の事です。彼は未だに殿下に属していません。
しかし現在の六十余州では、皆が殿下のために働いているというのに、政家一人がどうして独立を保てるものでしょうか。
彼もきっと、殿下に和を請い安堵したいと考えているはずなのですが、そのための良い縁故を持っていないために、
空しく歳月を過ごしているのです。
そこで、幸いに当家は、龍造寺と隆信以来の良好な関係がありますので、輝元様から使者を出し、和平の儀を進め
殿下にも推挙すると言い送れば、政家はきっと喜びに耐えず了承することでしょう。
龍造寺を味方に引き入れれば、この九州征伐における一方の功の助けとなるでしょう。」
このようなことを聞き終わると、徳琳は退出した。
しかしこの後も元春の病状は日々悪化し、同年11月15日、ついに逝去した。享年57歳であった。
(陰徳太平記)
吉川元春、その最後についてである。
428:人間七七四年
12/09/14 23:00:21.32 uoM+Liuk
鮭を食べようかどうしようか迷ってるところに小物臭がただよってるな
429:人間七七四年
12/09/14 23:20:09.15 fDVJvPNN
秀元「もうやめて!とっくにお弁当の鮭はゼロよ!」
430:人間七七四年
12/09/14 23:29:00.38 XAXcfTyp
いずれにせよ脳筋では無いと
気配り上手なだけに気苦労も絶えないって感じか
431:人間七七四年
12/09/14 23:36:24.05 eGneM5Ah
>>430
義光「鮭!!!!!!!!!!!」
正則「酒!!!!!!!!!!!」
432:人間七七四年
12/09/15 00:29:30.40 kF2lCOXY
大抵、鮭を食べたあとに胸焼けしてしまうのにやめられない
とくにトロ握り
433:人間七七四年
12/09/15 01:40:24.46 rb2a6yGM
元春にここまで言われたのについに輝様は自ら戦場に臨むことは無かったような・・・
434:人間七七四年
12/09/15 08:46:24.68 SnsE7OfF
>>429
元春の逸話を聞くと
鮭の食べ過ぎに注意しろという
長重や至鎮たちの思いやりだったのかもしれないな
とか思ったり思わなかったり
435:人間七七四年
12/09/15 09:49:34.45 2hUw/52R
毛利家は酒と魚に命奪われてる例があったから元春も気を付けてはいたんだろう。
結局予感的中なわけだが。
436:人間七七四年
12/09/15 11:17:45.78 V6NusZYo
鮭って食べ過ぎたら体によくないの?
437:人間七七四年
12/09/15 11:47:47.58 cHnSDcNE
なわけない。迷信。
ただ当時信じられてたなら、それを馬鹿だ無知だと現代人の目から非難するのは卑怯
438:人間七七四年
12/09/15 11:49:41.90 b+lUaeV4
塩鮭だったら塩分きついんじゃないの
439:人間七七四年
12/09/15 11:59:57.90 cHnSDcNE
迷信というか漢方の考え方では食物を大きく分けて体を温めるものと冷やすものに分けるんだが、
サケは温めるものに分類されるらしい。
体を冷やす物の代表は夏野菜、温めるものに唐辛子なんかは理解できるけど、
サケが体を温めるものっていうのは分類ありきの無理矢理こじつけ感があるね。
文献によっては逆に体を冷やすものに分類されてるみたいだし。
元春はなまじっか知識人だからこんな情報も知っていて、病気に良くないと思ったんだろう。
440:人間七七四年
12/09/15 12:09:10.28 F3xx7yXu
高麗人参とかも体を温めるものとされてるけど、熱病の時に高麗人参を食べたら熱がもっと酷くなって盲目になったという話をよく聞く。
441:人間七七四年
12/09/15 12:18:08.11 YPN+IE/i
粗悪品じゃないのか?
442:人間七七四年
12/09/15 12:20:08.13 r8vek6IB
朝鮮人参と朝鮮朝顔を間違ってたりして
443:人間七七四年
12/09/15 14:40:21.87 6JeLg8Af
漢方薬は薬なんだから、間違った症状に使えば毒になるのは当たり前。
444:人間七七四年
12/09/15 18:32:22.04 JKvx2fFL
薬は用法を間違えれば毒だしね
445:人間七七四年
12/09/15 20:05:45.48 B5pwwuHK
天正15年(1587)の、肥後国人一揆の時の事
この一揆平定に従軍した吉川広家が、黒田官兵衛に以前のことを尋ねた
「先日私が萱切山において一戦せんと申し上げた時、あなたはそれをしきりに止めるよう言われました。
老巧の人の意見であり、また我が父元春も、万事あなたの指図に任せよと言っておられました。
その為どんな事でもあなたの言うことには背かないよう決心していたので、あの時は戦うことを
断念したわけですが…
改めてお尋ねしたいのですが、官兵衛殿はあの時、一体どういうお考えで私が合戦を行うことを
止められたのでしょうか?」
これを聞いた官兵衛、ニッコリと笑って
「ああ、あの日、広家殿が合戦を行えば間違いなく勝利されたでしょう。だから止めた。」
「!?、必ず勝利すると思われたのに、ではどうして止めさせたのですか!?」
「それはね?あの日広家殿が戦をして大利を得られては、ほら、その前にうちの息子の長政が、敵を侮って
負けちゃったでしょう?それとこれの優劣が比較されて、長政にケチが付いてしまうなと、そう思ったのです。
ですからあなたが戦をしようとするのを、堅く阻止したわけなのです。
私はあなたと兄弟の約を成した間柄ではありますが、そんな盟約も、実の子への愛には
勝てないものなのですねぇ。」
(御辺吾等兄弟の約を成し申したりとは雖、実の子の愛には不勝候そやと宣けるにそ。)
広家これを聞いてさすがに呆れ
「と言うことは、私は黒田官兵衛に方便をされていたのか!
いやはや、あなたの真意をもっと早く察していれば、制止されても聞く耳持たず一戦した物を!」
そう言って大笑いした。
黒田官兵衛と吉川広家は多年の親友であったので、官兵衛も自分の思っていることを正直に語り、
広家も方便をされても、さらに恨むことはなかった、とのことである。
(陰徳太平記)
そんな親バカ官兵衛さんのお話である。
446:人間七七四年
12/09/15 20:53:49.73 6JeLg8Af
広家さん、若いころと家督ついでからのギャップありすぎだよね
447:人間七七四年
12/09/15 22:10:10.31 Nm1+L9EV
如水さんほんと息子大好きだなw
448:人間七七四年
12/09/16 02:09:23.33 IF8ZFGH4
>>445
この話は以前に出てたぞ!
449:人間七七四年
12/09/16 09:04:36.51 nzGeo2Wk
>>439
最近の研究ではマジで漢方どおりの体温変化がある食べ物も見つかってるし
経験則として馬鹿にできないものがあるんだろうな
450:人間七七四年
12/09/16 10:35:54.59 OVd5hny2
>>449
漢方は人体実験の集積でもあるから侮れん
451:人間七七四年
12/09/16 11:01:56.20 E8p4a0fx
まあ嘘っぱちもかなり混じってる
452:人間七七四年
12/09/16 12:35:39.30 xoIfxujC
まあ経験則の積み重ねがあるからフグも食えるw
453:人間七七四年
12/09/16 12:53:13.78 uDd3vLfC
河豚は肝くわなきゃいいだけだからなぁ・・・
454:人間七七四年
12/09/16 12:54:18.22 T8KhrIps
皮もな
455:人間七七四年
12/09/16 13:17:54.82 gM79Kzef
家久さんも若い頃と家督ついでからのギャップが・・・
若い頃は蹴鞠の話ばかり
456:人間七七四年
12/09/16 14:45:52.15 4accDfiH
玉遊びに興じる点では…
457:人間七七四年
12/09/16 19:26:47.31 yhYYyDQV
玉で遊びだと?
お前ら恐れ知らずだな・・・、お前ら2/36決定だわ
458:人間七七四年
12/09/16 19:28:46.31 81YxZFft
42年ぶりの帰参
時は大坂冬の陣から年が開けた翌慶長20年(1615年)春の事。
大坂方の和睦の使者として駿府へと遣わされていた『大坂城七手組』の一人に数えられる青木一重は
駿府から大坂への帰途に京で板倉勝重の接待を受けていた。
しかし、これは罠であった。板倉は突如として兵を呼んで一重の身柄を拘束したのである。
囚われの身となった一重に板倉はこう告げた。「大坂へと戻れば弟である青木可直を処断する」と・・・
一重の弟である可直は大坂方ではなく、徳川家の旗本として3000石を与えられていた身分であったが、
これを処断されるとあらば家名存続が危うい。結局の所、一重は夏の陣が終わるまで板倉に軟禁されたまま過ごした。
その後、開放された一重は剃髪して高野山に隠棲していたのだが、家康から二条城へと呼び出しを受け、
何故か豊臣時代(1万石)から微増の摂津豊嶋1万2000石を与えられ初代麻田藩主として諸侯に名を連ねた。
かつて一重は徳川家に所属しており、姉川の戦いで真柄直隆を討つという功を挙げて家康から武勇を賞賛されたが、
三方ヶ原の戦いのしばらく後に徳川家を去っており、何の因果かそれから実に42年の時を経てまた再び家康から禄を賜る身分となった。
少なくともいい話ではないのでこっちに
459:人間七七四年
12/09/16 19:46:40.38 G+9Cjne/
多分、善意で助けようとしたように思えるけど
460:人間七七四年
12/09/16 20:50:41.37 0tEYl2V4
一万石が敵方になるなんて、そんな大したことじゃないし、
家康としては一重を無駄に殺したくなかったのかな
461:人間七七四年
12/09/16 20:50:42.28 lre/8rHz
10万石格のご朱印のおまけ付きで復帰したというから寛大どころではないんだよね。
スパイでもしてたの?
462:人間七七四年
12/09/16 21:43:40.86 gM79Kzef
七手組は基本穏健派だったから家康にとってはあまり有難い存在では無かっただろうなあ
長老格の青木一重がこんなことになると七手組としてはもう何も意見言えなくなって結果的に主戦派の暴走を許すっていうのが狙いかなと妄想してる
463:人間七七四年
12/09/17 00:39:39.10 W8rDjt/n
案外いい話だと思うのは俺だけ?
464:人間七七四年
12/09/17 00:48:37.46 gCUeR2Yw
いいか悪いかで言えば、いい話だと思う
家康が呼びつけたってことは戦後すぐの話だし
一重を許すのは、少なくとも家康にとっては既定路線だよな
単純に死なせたくなかっただけなんじゃないのかと
465:人間七七四年
12/09/17 02:42:06.46 9t6TBFJk
まぁ人質とって脅迫めいたこと言ってるんだからこちらでいいんじゃない
466:人間七七四年
12/09/17 08:23:44.35 ggqP0q70
和睦の使者なのに捕えたって事は
いよいよ手切れ布告の段階って事になるのか?
467:人間七七四年
12/09/17 10:17:48.94 hk/vXnJV
でも大名復帰後は周りから避難轟々だったんだろな。
468:人間七七四年
12/09/17 10:36:45.54 IUG41wpy
大名の誘いを固辞して・・・って感じなら○く納まったんだろうね~
469:人間七七四年
12/09/17 11:01:28.00 +5ZV8qHw
じゃあ七手組からもう一人
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の後のこと。高野山に逃れた一人の武将が豊臣秀頼の死を知って自害しようとしていた。
男の名前は伊東長実といってかつて織田家で「編笠清蔵」の異名をとった伊東長久の長男であり、
信長の死後は秀吉に仕えて黄母衣衆に抜擢され活躍。やがて『大坂城七手組』の一人に選ばれたという経歴の持ち主である。
いよいよ自害しようかという所で徳川家の使者が高野山へと現れ、長実の自害を止めさせると「かつて関ヶ原の戦いで
石田三成の挙兵を報じた功績で豊臣時代からの備中川辺1万石を安堵する」との事を伝えられた。
初め長実は「二君に仕えず」と断ったものの家臣からの説得もあって出仕を決意し、大名として諸侯に列したのであった。
こうして夏の陣まで大坂方として参加しながら所領を安堵された伊東家は備中岡田藩主として明治維新まで命脈を保った。
・・・しかしながら、この長実にはスパイ疑惑があった。
「老士談録」に寄れば長実は大坂の陣の少し前の頃より朝比奈義次なる武将を雇い、寵愛を注いで評定などにも同席させていたのだが、
この朝比奈という男は実は京都所司代板倉勝重の家臣であり、評定や大坂城内の様子を逐一板倉に報告していたというのである。
また、結婚時期などの詳細は不明であるが長実の息子である長昌は板倉勝重の養女を娶っていた。
どこまで本当かはわからないけど色々噂を立てられていた人のお話
470:人間七七四年
12/09/17 11:16:24.08 motsuw+B
徳川のスパイ説出てる人をリストにして欲しいくらい大量に居るなw
471:人間七七四年
12/09/17 11:34:32.07 ggqP0q70
板倉さんに近い人間から疑われるのは
仕方のないことなんだろうな
472:人間七七四年
12/09/17 11:56:57.61 avmaeOf3
今の倉敷市長はこの伊東さんの末裔らしい
473:人間七七四年
12/09/17 15:30:29.56 Y7sWbmiA
たぬきさん記憶力いいからな、なんか思い出したんじゃね?
474:人間七七四年
12/09/17 17:50:22.94 +cQVIHtH
岡田藩って・・・俺の住んでるところじゃねーかw
全然知らんかった