長篠・設楽原合戦の真実 part3at SENGOKU
長篠・設楽原合戦の真実 part3 - 暇つぶし2ch44:人間七七四年
12/03/10 19:53:05.41 GATQ9N7I
小山評定後にアッサリ帰った真田
万石も無ければ、将軍にも媚びない喜連川氏
1万500石でも苗木城持ち遠山氏(金さんの親類)
家光側室の町人だった増山氏 米が取れない松前氏など

【陪臣・喜連川ほか】 「小大名」スレ 2 建てました
スレリンク(sengoku板)l10

45:人間七七四年
12/03/17 22:35:58.28 GWxNmzWX
武田方は、信玄公が逝去された後も勢力を保持していた。
むしろ徳川方の遠州を従え勢力は拡大していたと言っても過言ではない。
しかし、伊勢長嶋の一向宗・浅井・朝倉・足利という盟友を失い
包囲網は壊滅状態であった。
また、織田方の貿易による巨万の富と鉄砲の増産により差が開くばかりとなった…
その為、勝頼にしたら信長・家康と勝負に出るしかなかった。
もし武田方が勝利した場合、反信長勢力や地侍などが武田方に靡き一大勢力となり
天下の情勢を打開する事も可能であったと予測される。

武田方は、織田方の鉄砲に関しても研究し十分な対応策を練っていた。
数が多く馬防柵からの狙撃も予測していた(俺達でも予測できるw)
また、戦略的(兵士・配置などを含む)いにも地形的にも勝味が薄い状況を
武田方の古参は見抜き決戦を避けようという動きすらあった。
しかし、勝頼は実績を残し内外へ武田の武勇を示したかったんだと思う。
また、示さなければ家臣一族からの信頼が得られず神輿に担がれたままであった。
前へ出るしか無かった...

だから、勝頼が無能とか兵士が弱かったという訳では無い。
ようは信玄公からの跡目相続がスムーズにいっていなかった事から
周囲の信頼が十分に得られていなかった事が一番の原因だわ。
勝頼の苦しい心情も汲み取らねばなるまいて

46:人間七七四年
12/04/11 08:23:36.86 2lvgIN3D
甲陽の自分解釈かな?

47:人間七七四年
12/04/12 15:25:21.29 Ahz1TZS/
長い 読めん 透明あぼーん

48:人間七七四年
12/05/16 22:38:04.85 X+v2/WUI
織田信長の有名な「三段撃ち」はなかった
スレリンク(news板)


1 名前: アルビレオ(やわらか銀行)[] 投稿日:2012/05/16(水) 21:58:34.16 ID:rioD7CK30 ?PLT(12030) ポイント特典
三段撃ちしなかった? 織田信長拡大三段撃ちしなかった? 織田信長

■武田を破った新戦術 1000丁×3に疑問

 戦国武将・織田信長が、武田勝頼の「騎馬軍団」を破ったと言われる長篠の戦い。
長い間、鉄砲の三段撃ちが雌雄を決したとされてきたが、近年、虚構とみる説が有力になってきた。
(中略)

■撃つ間隔、ばらばらのはず

 ところが、この鉄砲3千丁による三段撃ち、かなり怪しいらしい。
国学院大兼任講師の藤本正行さん(中世軍事史)が1975年の論文「長篠合戦における織田の銃隊の人数について」で指摘、論証を重ねてきた。

 3千丁三段撃ち説の根拠となってきたのは、江戸初期の儒家・小瀬甫庵(おぜ・ほあん)が記した「信長記」である。
この本には確かに「鉄砲三千挺(ちょう)〈中略〉一段ずつ立ち替わり立ち替わり打たすべし」との記述があるのだが、
藤本さんによると、その元本になった信長の家臣・太田牛一の「信長公記」には立ち替わり撃ったとの記述はないという。

URLリンク(www.asahi.com)

49:人間七七四年
12/05/17 01:02:56.38 N0O/rpxA
野戦で負けたんじゃなくて
陣城を攻め落そうと長時間粘ってたけど
落せずに撤退したってんだから
このレベルの攻城戦や攻砦戦の失敗なんかで
両軍の優劣なんて測れないだろ。

50:人間七七四年
12/05/17 02:22:33.83 zrjt7amY
そもそも相手より少ない兵力&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面の中城攻めやったんだから
撃退されて当たり前
そんな状況で9時間も戦い続け、織田方6000の被害なんだから
ガチンコで戦術的勝負させたら100%武田の勝ち

51:人間七七四年
12/05/17 04:21:11.70 3WZMIoh7
ガチンコの戦術勝負(笑)

武田勝頼と織田信長が一騎打ちでもすんの?w

52:人間七七四年
12/05/17 04:32:57.19 3WZMIoh7
>>43
織田信長は長篠城のことなんてまるで気にしてない。落ちても徳川の城だからどうでもいいと思っている。
実際長篠本戦の前日に長篠城へ派遣された別働隊の救援部隊は酒井左衛門尉はじめ隊のほとんどが徳川兵。織田兵は金森みたいな一部の目付のみ。

信長は当初の予定では武田軍が撤退すればそれでよしくらいの感覚だったが、本戦開始数日前に武田軍が想像以上に接近して陣を張っていたので
こりゃあ一戦おっぱじめる気かな、上等だ突っ込んできたら根切にしてやると細川幽斎に宛てている。

早い話長篠決戦の前段階で既に武田は戦っても絶望的(相手の備えバッチリ)、退いても絶望的(織田が勢力拡大しまくり)で
信長が桶狭間でもやられて死なない限り武田が逆立ちしても勝てない相手になっていたのが当時の織田

で案の定戦ったけど負けて、山県馬場内藤甘利土屋原真田三枝川窪と譜代家臣がボロボロ死んだ。


53:人間七七四年
12/05/17 06:43:05.47 3d/BLivh
長篠は名将がする戦いではないな。

54:人間七七四年
12/05/17 06:56:11.39 pWvxdV4v
ジリ貧になっても、まともに戦うべきではなかったと思う

55:人間七七四年
12/05/17 09:05:04.66 FHLsG7QE
新東名が出来たので、初乗りも兼ねて長篠に行ってきた。
織田・徳川と武田の陣の間はえらい近いな。
中央よりやや織田よりに川が流れており、攻める武田は不利な気も。
馬防柵を越えても、土塁のような急激な山を登らなければならず、これ、突破
できるのか?と思った。
武士ってのは気合い入ってるなと思ったけど、ますます武田が突撃した理由が
わかなくなった。

56:人間七七四年
12/05/17 16:57:28.70 YuOx00op
まあ、なんていうか、勝てると思ったんだろうなあ
実際ドラマにあるような一方的な大量射殺じゃなかったみたいだし

57:人間七七四年
12/05/17 17:23:36.01 Wq11JvKj
朝倉義景と同じで撤退戦で下手打ったって感じだからなぁ。

58:人間七七四年
12/05/17 17:28:13.94 fSBIkF40
ああいう風に陣に籠ると一箇所を破られるとそこに増援を送ることは難しい
そこから逐次撃破を狙ったのかもしれない

59:人間七七四年
12/05/17 20:10:48.74 Ce2LnzGm
この時の武田が1万5千ということを考えると武田は信長との決戦は意識していなかっただろう。
そう考えると、軍鑑の重臣が撤退を進言したというのもまんざら嘘とも言えないかもな。
実際、「今回の合戦を危ぶむ者もいる」って勝頼の書状があるし。

いずれにせよ、あのような形での決戦はまずかった、ということは間違いないだろうな。
即時撤退か、あるいは川を利用した防御戦か、あるいは馬防柵が完成する前に攻撃するか、のいずれかにするべきだったと思う。

60:人間七七四年
12/05/19 20:13:54.60 527xYrfD
>>59

武田軍が長篠城を落とすために出兵したのだから、
それにしては1万5千は多すぎる。

このとき対上杉に1万の抑えを残しているのだから
1万5千は実質、総動員に近いだろう。

やはり決戦を意識したのでは?

しかし何で武田軍は寒狭川を渡ったのだろう?

信長公記どおりに寒狭川を前に陣を張れば良かったのに。

61:人間七七四年
12/05/19 21:48:48.37 s1Ng7pvk
兵糧が欠乏してたんじゃない

62:人間七七四年
12/05/20 13:14:26.35 xlHExFKW
武田軍は足助城を攻略しただけでなく
5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
先陣はすでに熱田まで進出してるし

4/16付け勝頼書状では22日出馬して参着次第、
その地に二重堀の普請すると書き(奥平信光のいる三河国設楽郡津具筋?)
遠江方面(光明行之儀)では天野藤秀を利用して
彼地の模様を見届け、調儀するのが肝要で(後回しの方便とも書いてる)
その地は幸い、久しく普請を続けていたので(穴山宛てなので穴山が)加勢望むに任せる。
小尾崎・八幡山之儀は案内者を以って
(尾崎権現山や郡上八幡だから両遠藤氏や安養寺や最勝寺か?)地形御見し、注進を頂くべく候
などと書いてる。

このことから当初案では伊勢長島救援のための出陣計画だが
岡崎内応策が露見した後、作戦変更して
穴山に任せている遠江方面を後回しに三河進出し
長篠で二重堀を作って対陣する予定だったのではないか?
そのために長期対陣に備えて武田軍は実数1万くらいの兵しか連れてこなかった。
しかも長篠後に謙信に出した信長書状では兵糧が足らないから織田は撤兵したと書いてるから
織田徳川は3万を維持する兵糧がなかったため対陣して兵糧攻めを通じて織田軍を崩壊させる。
(熱田方面で挑発され面目丸つぶれの信長が急いで出てこざる負えなくなった)
そしてこの対陣中に美濃の軍事的な予定戦場調査をして、
武田軍が残り2万の大兵力を率いて大挙、美濃へ侵攻して
伊勢長島の日根野や郡上八幡の遠藤氏や一揆軍の南下で織田を引き付けつつ
尾崎権現山(200メートルしかない小山)を武田本軍の陣所として
各務原市~岐阜市日野で織田と決戦して一気に岐阜城を奪い取る作戦だったはず。
長篠の戦・・・本作戦の目標は美濃への侵攻のための陽動作戦でしかなかった。
しかしあまりにも織田・徳川が弱すぎて、決戦で一気に勝負をつけようと考えてしまい、陣城攻撃を開始し優勢だったが陣城は落ちず
撤退をしたら殿が下手を打って軍が崩壊。
義景もそうだが、敵前撤退の難しさを痛感する。
三増峠や三方ヶ原の撤退戦における軍の180度回頭し尻が頭になる陣形変えの瞬間妙技は信玄にしかできない芸当だな。

63:人間七七四年
12/05/20 13:15:46.75 xlHExFKW
3月19日付けの書簡フロイス日本史に信玄は6万の兵を以て三遠に侵入し
軍兵をほとんど損する事なく占領した、という3月下旬の報告があるよ。
天正2年の武田軍も尋憲記2/17によるとこの時の武田軍は6万の大軍。
これに対応して謙信が上野国へ南下したために武田軍は撤退。
この時期、家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。



64:人間七七四年
12/05/20 14:25:24.78 xlHExFKW
訂正
伊勢長島救援
ではなく、石山本願寺救援(六角義堯書状から)
武田軍が残り2万の大兵力
ではなく、武田軍が残り5万の大兵力(尋憲記から)


65:人間七七四年
12/05/20 14:31:33.69 R+pwRJr3
ID:xlHExFKW ってsubかい?

66:人間七七四年
12/05/20 14:50:42.52 xlHExFKW
ちなみに高柳光寿氏は長篠の戦いでの武田軍兵力を6000と推定してるね。
(勝頼が謙信を怒らせたので1万を高坂につけて越後の押さえに残し15000で出陣は甲陽軍鑑のネタ)
信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと書いてるが
武田軍の損害は多聞院日記の千人ぐらい討死が正しい。

67:人間七七四年
12/05/20 18:22:59.79 yXfNUofh
実は武田が買ったとかいう新説はないのか

68:人間七七四年
12/05/20 19:21:23.11 ViAzx8tQ
ただ、千人討死程度でここまで有力武将が死んだりするのは異常じゃないか?
確かに武田は戦死する武将が妙に多いがそれでも異常。

兵の質についても長篠の後は著しく劣化したようだし。
一万は多すぎるとしても千人ってのもなあ・・・

69:人間七七四年
12/05/20 19:30:28.65 xlHExFKW
京を支配してる織田の一方的な軍事プロパガンダを聞いて
それを公家が日記に記入してるのであって
公家が日記の記述を他人に見せる目的で
故意に情報を曲げて書いてるなんて一度も書いてないだろwww
本願寺攻めに失敗し5月の原田(塙)戦死したあとの信長出陣で勝ったと宣伝してるが
5/11勧修寺晴豊らが戦勝祝賀の勅使として摂津国へ下向するやウソ戦果と捏造戦況がバレて
相当な危機感を持った朝廷で12日夜からさっそく朝廷で右大将出陣御祈祷が一週間に渡り開始される始末だし
姉川の戦いでの言継卿記でも浅井討ち死に、その他8000討ち取りとか書いてる。
また越前以下9600討ち取り(公記ですら浅井の死者1100と書いてるのにw)
そんなに討ち取ったのなら志賀の陣のような体たらくにならんだろう。
長篠の戦いでも大げさな戦果な上に、勝頼も死んだとか書いてるのが信長。
長篠の戦いの信長による戦果捏造宣伝工作
5/26信長書状には「数万を討取った。勝頼の死体も河に漂ってるだろう」などと
誇張しまくりを書いていて
5/21の戦い当日付の兼見卿記にも信長が一戦に及んで
数千騎を討死させたと書いてる(騎馬武者だけで数千もいたのかすら怪しいデッチあげぶりw)
つか、こりゃあ武田大騎馬軍団だなw
実際の武田軍の損害については
実際に鉄砲衆を調達してから長篠に従軍した大和国の筒井衆が無事に大和国へ帰り着いた
5/27に記された大和興福寺の多聞院日記の千人ぐらい討死が比較的正しいだろう。
(それですら筒井勢が武勇自慢の宣伝をしている可能性がある。
と言うのも、そんなに圧勝してるなら天正10年の武田征伐を恐れた大和衆が
甲斐国越後国衆弓矢天下一之軍士などと不安を訴えたりするだろうか)
5/24に兼見卿記が記す、光秀と会談した際に聞いた長篠の戦いの話では
「ことごとく討ち果たした」に表現が大幅に後退している。
ちなみに6/13の謙信への信長書状では嘘がすぐバレると思ってか
「数知らず」と書いて討取り数を明言しなくなっている。
さらに家康が駿州へ軍事行動をしていることに触れた後に
織田軍は兵糧がまだできてない間は軍を出せないので
(6月の時点では米が尽きていて収穫期の)来たる秋まで動けないと書いている。
織田軍は兵農分離どころか、思いっきり農業スケジュールに左右されている
徳川軍よりも遥かに後進的で古い軍隊組織体制なのがわかる。
家康の知恩院宛て6/22書状でも武田之家討ち果たし候様子を聞いたようですね
などと書いていて討取り数にまったく触れていない。
実は虚報ばかりで討ち取り数すら明言できないのが戦後の織田w
実際にはそんなに討ち取られていない可能性が高い。

70:人間七七四年
12/05/20 19:32:35.13 0j9Z3nl4
千人は妥当かもしれんぜ。近代の日露戦争時の大本営でさえ損害のケタが万台だったのに驚いたようだし…

71:人間七七四年
12/05/20 19:43:15.42 xlHExFKW
>>国半分を制圧したという
織田の大嘘を鵜呑みにして書いてるだけ。
そんな織田のホラを信じてたら中国地方どころか九州まで一遍にすでに制圧完了してたりしてることになるわwww
そんなデタラメ宣伝工作の証明する一次史料はない。
信長は誇張による情報操作を公家相手にかなりやってる。

叡山焼討ちでも言継卿記が3000~4000人は殺されたと書いてるが、
冷めた目でみてる年代記抄節はおよそ1600余人くらいと誇張に惑わされずに冷静に書いてるしw
だいたい信長は越前一揆を撫で切りした時も
越前府中の街の中は足の踏み場もなく
一面が死体で埋めつくされて愉快だわとか
誇張しまくり。

72:人間七七四年
12/05/20 19:45:37.90 DHQe+AVh
時系列さえおかしいコピペ爆撃の意味がわからん。

73:人間七七四年
12/05/20 20:43:10.44 OJkFrlRP
織田に滅ぼされた武田家の私怨だよw

74:人間七七四年
12/05/20 21:10:43.53 p4gqCVmF
>5/12付け多聞院日記では武田軍は尾張国へ侵攻し
>先陣はすでに熱田まで進出してるし

史料稿本では「虚報だ」って切り捨てられてますね。
興味ある方は東京大学史料編纂所のHPで誰でも閲覧できますので。

75:人間七七四年
12/05/20 21:15:49.27 QPFmaYER
つーか、だがさんは、「織田に有利な日記の記述=嘘」「織田に不利な日記の記述=真実」と
非常にわかりやすい判断基準をもってるからな。

76:人間七七四年
12/05/21 20:42:39.54 uPbZjryV
>>68
>ただ、千人討死程度でここまで有力武将が死んだりするのは異常じゃないか?

これは俺も前から思っていた。

強いて言うなら、1万5千のうち戦闘員が半分の7千5百。
そのうちの1千人が死んだと考えると大打撃だが。

あと死ななくても、片手が落ちたなど、
二度と戦場に出られない重症を負った人が3倍近くの3千人は居たのでは?



77:人間七七四年
12/05/21 20:44:21.50 Ykq1kKu7
>>60
三河攻めという意味合いでなら多すぎでもないだろう。
1571年の三河攻めは実際は1575年のこの時期だったらしいので、この時に足助や野田を攻め落としているわけだ。
そう考えると単純に三河攻めと考えるのが妥当じゃないの?

実際、信長との決戦を考える上では1万5千は少なすぎ。

78:人間七七四年
12/05/21 23:25:10.28 zmydP2K4
たしか留守番してた高坂弾正が設楽原から真っ先に逃げた武田一門衆の武将が
一番悪いとかいって切腹させろと勝頼にいったとかいわないとか
精強な武田兵でもさすがに退却となると負けた!逃げろーってなっちゃって、
それを踏みとどまらせるために宿老たちは逃げずに鼓舞してたら結局最前線に
取り残されるカタチになって織田・徳川兵にアワレ首をとられてしまったのだろう

79:人間七七四年
12/05/22 09:04:59.82 7NrkmGQ1
>>74
隠蔽捏造だらけの信長公記

信長公記の5/13に熱田で信長が陣を張り熱田社の八剣宮が酷く荒廃してる様を(癈壌し正体なきを御覧)
信長が目にして大工に社殿造営を命じてから岡崎へ陣を移し長篠の後詰めに行く記述

多聞院日記5/12の記述には武田軍の先陣が熱田まで進撃していたことを記入してる。
これは見事に符号する記述で、武田軍が長駆進出して信長を挑発して決戦に引き出して
本願寺への圧力を減少させようとしてるのがわかる。

一次史料から5/5に尾張の甚目寺不動坊の証秀が熱田社に剣を奉納している。
5/11に熱田社祝師に信長が三河出陣を前に恒例の御祓いをしてくれと懇請している。
5/15の信長書状から13日に信長が出陣して14日に岡崎に到着していたことがわかる。

つまり武田軍は12日には尾張の僧が織田の戦勝が祈願して熱田の神へ奉納した剣を奪い、
信長の出陣にあたっての戦勝の御祓いを13日にしてもらおうとしていたのに
熱田を焦土と化して挑発している姿がみえる(信長が神仏を恐れず、政教分離していたなどお笑いである)
今までの信長は家康への後詰めにおいて、なんだかんだ理由をつけて
三河までやってこなかった。もしくは間に合わないようにワザと遅く行っていたが、
この完全にメンツ丸つぶれの挑発に
長篠まで行かざる負えなくなったのだろう。


80:人間七七四年
12/05/22 09:08:10.53 7NrkmGQ1
織田軍って将が背後にいて
我先に逃亡してるから
大敗だらけなのに将の死が少ないだけだろ。
武田は将が最前線で指揮してるから
川中島などで信玄の弟まで討死してんだろ。

81:人間七七四年
12/05/22 09:22:21.06 ubvU23lg
4次川中島は信玄を謀略で引っ張り出して大混戦に持ち込み幕まで攻撃されたからなぁ。
あれは天才謙信の博打の結果だからちょっと例にはなじまない。

82:人間七七四年
12/05/22 09:42:50.19 7NrkmGQ1
>>81
それ軍記の話だろ・・・
そもそも妻女山すら、実際はどこの山を指してるのかわからんのが現実だぞ。
実際は、行軍中に偶発的に衝突しただけと言われているし。

83:人間七七四年
12/05/22 09:53:56.83 5PIrefgZ
車懸りの陣も上杉側の記録には無いし、遭遇戦というのが妥当と思われる。

84:人間七七四年
12/05/22 10:18:51.73 lXfu6l9G
川中島の戦術・戦略の話し聞いた三英傑の感想とかってのこってないの?

85:人間七七四年
12/05/22 10:24:11.04 VC+AdKUf
啄木鳥の戦法も記録にないの?

86:人間七七四年
12/05/22 10:28:23.66 5PIrefgZ
甲陽軍鑑にしか無い。

87:人間七七四年
12/05/24 00:23:23.50 8l1Tmfku
戦国史の泰斗・権威と評される高柳光寿氏が武田軍兵力を6000と主張するなら
間違いないな。

88:人間七七四年
12/05/24 00:31:51.65 8l1Tmfku
原本信長記によると
長篠の戦いの先陣を徳川にやらせていた。
つまり織田軍は後ろで眺めてるだけで
何もやってなかった。


89:人間七七四年
12/05/24 03:01:49.15 Qmyx2hgS
武田ごとき織田が手を煩わせるまでもないというわけだなw

90:人間七七四年
12/05/25 05:34:21.50 zgq/h6m7
つーかその戦ってる徳川軍を援護するための射撃を、過大に書き立てていった結果いつの間にやら
鉄砲部隊やら三段撃ちやらって話に。

91:人間七七四年
12/05/25 08:26:33.36 6/lqCH0O
実際一番やり合っていたのは、徳川軍と山県勢らしいね。
土屋さんの討ち死にした場所からすると、織田も戦っていたのは戦っていたの
だろう。

92:人間七七四年
12/05/25 15:12:00.48 TCOC8fI2
織田軍が先鋒やったら速攻で崩壊して敗走しちゃうだろ。
甲陽軍鑑によれば、援軍依頼を家康が3度やったけど
勝頼にビビっていた信長は拒否の連発で、
家康がついに「私とあなたは困ったことがあったら助け合う誓約をしました。
だから箕作の戦い以来、若狭陣や姉川などで加勢して助けてきました。
このたび信長公の来援がないなら、もう遠州を武田に進呈して和睦するしかありません。
長篠城援軍無ければ、これまでの誓約を信長公が破ったわけですから
私は勝頼公の先陣を勤めて遠州の代わりに尾張を攻めて
勝頼公より尾張を頂きます。
考えてみますと勝頼公を総大将にして私らが戦うなら10日もあれば充分に尾張をこちらのものとすることは容易いです」
このことを信長が聞くや
やっと織田軍が援軍にくることになったと書いてるし
出陣した織田軍は熱田神宮に到着した時に
信長には、なめかたの謀があったようだが(士気をあげようとした)
ここでも織田の諸人に勇む者なし(士気をあげるのに大失敗した)
長篠に到着して軍議になるや
いよいよ織田の諸人が恐れて勇みなし。
酒井が狂言をして笑いを取って鼓舞したと書いてる。


実際、信康の武田への内通疑惑もあるし、
義昭の使者を三河に家康は招きいれているし
義昭から武田との和睦の要請の書状を家康はもらっている。
間違いなく家康は織田から離反寸前だったのは間違いない。
また熱田神宮が武田軍に襲われて廃墟になっていたので、
織田諸軍の士気はさらにダダ下がりになっていたのもわかる。


93:人間七七四年
12/05/25 17:37:27.66 rxbuPlvO
>>80
最前線で調子にのって首実検していて自分が首を取られた某板垣は擁護できんがな。

94:人間七七四年
12/05/25 17:54:06.35 YzYteqOc
武田家が鉄の盾もってたら結構火縄銃に対抗できたんじゃね?

95:人間七七四年
12/05/25 17:57:22.37 zgq/h6m7
動きが鈍くなるだけやがな。

つーか設楽ヶ原合戦での武田の敗因は鉄砲ではないよ。
長篠城攻めは鉄砲で防御されきった面があるが。

96:人間七七四年
12/05/25 23:29:43.18 47xkTC1J
コイツ公記すら読んでなさそう

97:人間七七四年
12/05/26 08:49:06.46 Yinj7xDJ
公記はウソが多すぎるから読まなくていい

98:人間七七四年
12/05/26 09:15:22.25 faJvUfK2
公記を読むと信長マンセーキチガイになるから
読むと悪影響しか残らない。
しかも公記如きザコ本を読んで
信長のことはなんでも知ってる態度で
書き込んでくる戦国板最大の恥知らずが量産されるだけ。

99:人間七七四年
12/05/26 09:25:38.84 nF543Dth
香ばしいのがわいてきたな

100:人間七七四年
12/05/26 12:53:25.28 Bhantk9K
そいつはだがってやつさ

101:人間七七四年
12/05/26 23:50:13.94 BjHzMRzG
鉄砲で長篠の戦いの全てを語ることはできないが鉄砲が織田徳川軍の勝利に全く貢献していないと言えば嘘になる

102:人間七七四年
12/05/26 23:55:03.36 HKGCEU7M
勿論鉄砲は長篠の戦いにおいて大いに貢献した。しかしそれが合戦の勝敗を決める決定要因ではなかった、というだけの話だ。

103:人間七七四年
12/05/27 01:13:07.09 FINh95NA
むしろ酒井忠次に預けた数百丁?の鉄砲隊の方が貢献してそう

104:人間七七四年
12/05/27 10:33:27.36 P/S/rBqT
でも鉄砲がなかったら武田は姉川の戦いクラスの負けで済んだかもしれない。

105:人間七七四年
12/05/27 10:36:17.40 k0X4fOoT
鉄砲より、あの被害の大きさは織田徳川の野戦築城に引っかかったのが大きいのだろう。
鉄砲並べれば大被害を出せるのならあの時代の戦はもっと楽だわ。

106:人間七七四年
12/05/27 18:21:31.54 j1u3Cfmq
宮本武蔵が鉄砲は防衛用としてなら弓矢より優れている、って言ってるね。
武蔵は実際に撃たれた側だから、鉄砲が怖いのは間違いないんだろう。

107:人間七七四年
12/05/27 23:44:50.89 jgpHnDOa
待て待て、武蔵は「弓矢と違って弾が見えないから視覚的な抑止力がない」とも言ってるじゃないか

108:人間七七四年
12/05/28 10:23:38.16 3USwwwOW
大被害が出たのは撤退時だと言うし、しっかりとした殿部隊がいないとそん
なものなのかも。

109:人間七七四年
12/05/28 20:34:00.90 4lp7fMbE
背水の陣しいてたからね

110:人間七七四年
12/05/28 22:39:49.60 1jpwBww9
>>108
そりゃそうだよ。だから撤退戦が一番難しいと言われるんだ。
それまで優勢だったのに撤退時に反撃されて総崩れなんて事も有る。

111:人間七七四年
12/05/28 23:40:16.76 V2/jTfT2
武田の老臣ども以上の殿が務まる将なんていないだろ、普通。

つか、老臣どもが殿をきっちり努めて、勝頼や一門衆を無事に落としたと見るべき。

112:人間七七四年
12/05/29 08:20:36.34 FRLJuV5V
逃げ弾正がいなかったせいかw
一説には勝頼の指示も無しに一門衆が引いた為に前線が崩壊したと言う話も
あるけど、そう言えば武田一門で名だたる部将は信繁だけかな?

113:人間七七四年
12/05/29 15:20:40.25 VfDF130n
武田信豊とか仁科信盛は?

114:人間七七四年
12/05/31 08:22:01.65 40yaHXQG
信豊は他にいなかった感が強いし、信盛は唯一頑張ったから有名なだけで、名だたる
武将とは言いにくい気がする。

115:人間七七四年
12/06/05 10:43:56.24 HkHcu1V1
>>「武田が雑魚のくせに粋がってすぐ近くに陣取ってきたから根切りにしてやる」と自信満々に答えている。
そんなことは書いてない。お前の感情を込めて文章を捏造してるだけだろ。
それに16日に前哨戦などやってない。18日に備えの節所を探るべく織田の物見部隊が視察に出て
武田の物見部隊レベルと散発的な遭遇があっただけだろ。
つうか、織田チョンは細川文書の全文を読んでないだろ。
完全に切り抜いた一部を紹介した誰かの歪曲が入った文を丸パクリしてるから
デタラメを書いて恥を書くハメになるんだよ。

15日細川宛書状→12日に読んだ書状への返信内容。
鉄砲玉薬のこと申し付けたこと尤もだ。
明日敵陣の近所まで人数を押し出して相備え候。織田軍は無敗の軍なので(無敗の軍ってw)
この天与の機会に根切りしてやる。

20日細川宛書状→鉄砲のこと祝着だ!(細川から纏まった数の鉄砲放と玉薬が届いたのだろう)
17日に牛久保から人数を押し出し長篠との距離は3里。
敵の備えの節所に18日に鉄砲を放った。通路も良くない時期だし根切り眼前。

5/19の家康→石川・鳥居書状でもいまだに「柵をよくよく入念に作るのが肝要」と書いていて
防衛に力を割いていて前哨戦どころの話ではない。

柵の備えが完成したのか
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃

5/21細川宛書状で本日の長篠での勝利をさっそく報じているが、勝利し天下安全の基の理由として
細川に鉄砲放の調達を仍(しきりに)申し付けたからだ。
もしくは細川に調達させた鉄砲を放たせたので仍(それにより)勝ったからだと書いてる。
鉄砲放を砲手のことなのか、鉄砲を放つの意だかよくわからない。
熊本大学の稲葉継陽氏は細川氏が鉄砲手の調達と解釈してるな。
当時の武士は雑兵を射手として使ったので武士に鉄砲は扱えないとも指摘してる。
おそらく雑賀衆などの傭兵鉄砲部隊を雇って派遣したのだろう。

116:人間七七四年
12/06/05 13:36:48.19 JpL87zjf
鳶の巣山奇襲で、勝頼の叔父である武田(河窪)信実がまず戦死しているよ。
ここまで一方的に織田徳川の手が嵌りまくったのは、地力の差だろうね。

117:人間七七四年
12/06/06 01:41:58.42 th4ouwFa
織田・徳川の轍鮒は実は千丁だったのか?

118:人間七七四年
12/06/07 08:56:18.78 ntNPUBP7
通路も良くない時期って言ってるから
陣城攻めが不利になるほど周囲は泥のような状況だったのかな。
撤退も困難になりそうだね。

119:人間七七四年
12/06/07 18:25:18.73 OO1uiFtl
鳶の巣山の主戦力は浪人集だったらしい

120:人間七七四年
12/06/08 17:45:44.61 FjVhaWyv
>>115
長篠に鉄砲衆を送ったのは雑賀の一向門徒衆や雑賀荘・
十ヶ郷の惣(鈴木氏、岡氏、湊衆、土橋氏など)と敵対した
中郷・那賀郡の土豪を中心とする根来衆。
杉ノ坊照算(津田照算)を中心に、愛染院(鳴神算長)、
弥勒院、十輪院、蓮花院(蓮花院雲海坊)、菩提院(菩提院覚山)、
多聞坊(多聞坊妙山)、両界院(井澤深勝房浄快)、
岩室坊(田中清伝)、池上坊らが根来寺で動員し、
多くの鉄砲衆を率いて長篠に参戦したらしい。
同じ根来寺内でも、雑賀衆に拠った勢力(泉識坊、威徳院、福宝院、
惣福院など)があって、これら寺内で敵対する勢力との抗争も
織田方についた要因の一つらしい。
この面子は、石山合戦の初期から高野山攻めまで一貫して織田方に
従っている。多分傭兵的な契約を結んでいたと思う
というか、永禄~天正中期頃までの織田方の鉄砲衆の大半は、
根来衆の傭兵だったんじゃないかと推理

121:人間七七四年
12/06/10 23:50:59.37 +wQHPgqX
>>119
守将の人柄で逃げずに戦ったらしい
戦死者が相当出たそうだが

122:人間七七四年
12/06/13 01:06:02.26 6RS0tyzW
根来衆だけにお値ごろだったのかもね

123:人間七七四年
12/06/14 21:21:21.82 BQ1uAtf3
千丁を三千丁

124:人間七七四年
12/06/17 01:04:56.64 P10JGOJl
武田にとっては致命傷で済んだ戦い
信長が強過ぎただけで、勝頼は悪くない




125:人間七七四年
12/06/17 01:50:17.27 SmOxs5cc
ふつうに考えて織田徳川方死者6000は大敗北だろ

126:人間七七四年
12/06/17 08:05:23.69 G5NNal1K
ミッドウェイで東乗員喪失が130人程度で済んだようなものだな。中途半端な損害で延命だもの。

127:人間七七四年
12/06/17 08:43:08.16 +ljCa8hi
長篠は落とさなかったのか落とせなかったのか?
15000で囲んであそこまで押し込んでるんだから対陣する前にさっさと落とせば
撤退する織田徳川連合軍を追撃できたんじゃないのか?

128:人間七七四年
12/06/17 08:48:37.83 tWRdVoi2
長篠城は家康によって火器による防御に特化した城に改造されており、それに合わせて射程の長い強力な銃が
大量に配備された。武田軍の鉄砲はただでさえ射程で徳川軍に劣っており、彼らが攻めあぐねたのはそのため。

力攻めをするなら籠城軍の火器の沈黙を待つ必要があったのだ。

129:人間七七四年
12/06/18 08:17:47.81 x3BE65u3
長篠城は、川が合流している本丸付近からは確かに攻め込むのは難しい
けど、反面反対側はそうでもない気もする。
落とそうと思えば落とせた気もするねぇ。
当時の火器で、攻めあぐむまで近づけないとは思えないが・・・どうな
のだろう。
勝頼としては、家康は後詰めに来ると想定し、もしかしたら、長篠城を
落城させるより、家康を叩くのを目的としていたのかもしれない。
信長まで出張ってくるとは思わなかったのかも。

130:人間七七四年
12/06/18 08:34:35.34 pH68CnDu
>>129
家康がその対応に大規模な本丸土塁や、帯郭を潰す形で堀を増設するという改修をしている

131:人間七七四年
12/06/18 12:54:42.22 VwNjvdfD
この辺り小説なんかじゃ信長が引き返さないように意図的に手を緩めたみたいな話が多いよね
でもそれなら着陣したのを見計らって一気に落城させるよなぁと思う

132:人間七七四年
12/06/19 12:21:00.96 FTEU3zxP
奥平懲罰のつもりが自分が懲罰されちゃったwww

by勝頼

133:人間七七四年
12/06/20 07:54:51.20 1HdwEKIH
>>131
毎回、織田がいろいろと言い訳して
援軍を先送りした挙句に
落城寸前を見計らって出陣→武田が落城させる
→落城したからと織田軍は嬉々として援軍を引き返させるって言う黄金パターンだったからね。
高天神城や岩村城や明智城などの他にも
上杉相手の七尾城や毛利相手の第一次木津川の戦いも
おんなじ理由でビビってた信長は現地到着を遅らせまくって
戦の決着を見計らって出陣し即、逃亡しまくり。


134:人間七七四年
12/06/20 08:07:17.41 6YAaIokb
いや、まあ言いたい事は色々あるのだろうけど、信長批判は他でやってくれ。
ここはそう言ったスレではない。

ところで、鳶の巣山は何故落とされたのだろう。
酒井方の人数は多い話だと4千人とある。
それだけの部隊が動いていれば、近づくまでに気がつくと思うのだが、どうな
のだろう。

135:人間七七四年
12/06/20 14:43:36.54 qR0D25sW
>>131
そもそも信長からすれば徳川領のド田舎小城とか七尾田舎小城なんてどうでもいい扱いだからな。
織田信長は上洛以降一貫して畿内での勢力伸張方針をとっていて、それが証拠に
武田信玄の徳川領侵攻時に信長は近江で浅井朝倉と戦っているし、長篠直前にも摂津にいたからな。

だから意図的に手を緩めたとか、撤退して信長を追撃なんてのはいかにも歴史を知らない素人が言うセリフで
実際はそんなことしても信長は「ラッキー」としか思わない。長篠本戦でも
「武田のグズ共がバッチリ陣を敷いた織田軍の目の前に来やがった、ぶち殺し確定w」と細川幽斎に事前に手紙で送っている。


136:人間七七四年
12/06/20 14:44:17.63 qR0D25sW
撤退して信長を追撃→撤退して追撃してきた信長を迎撃

137:人間七七四年
12/06/20 16:14:50.76 wZUMa13W
まぁ本気で決戦する気なら15000だけで出てこないよなぁ
明らかに対徳川しか考えてない兵力だわな

138:人間七七四年
12/06/27 08:21:52.30 AgDvVmNh
その割には鉄壁に近い包囲網に突っ込んでいった理由がわからないんだよねぇ。
徳川勢さえ潰せば、織田勢は何とかなると思ったのだろうか。

139:人間七七四年
12/06/27 08:59:17.47 V6RJnh1F
まぁ織田が出張ってきて武田が撤退すれば織田は勝利宣言するだろうし
武田の威信は大いに傷つくだろうねぇ
勝頼は負け戦を早い内に経験しとくべきだった


140:人間七七四年
12/06/28 08:14:11.84 iUQFjtz2
少なくても、織田が出張って来る前までに長篠城は落としておかないとなぁ。
後詰めが来ると城内は活気立つだろうし、後詰めにしても、落城した、しない
では、士気的にも全然違うだろう。

141:人間七七四年
12/06/28 12:49:37.58 M60X745j
後詰めは落城した時点で撤退するしね
この時期の徳川の状況考えると「また間に合わなかったか」って感じでかなり士気が下がったと思うけどな


142:人間七七四年
12/06/28 14:08:54.71 8sFdUAm8
威信だけじゃなくて、それまでのばく大な出費がむだになるわな。
信玄末期ごろから武田の内情は、財政的に苦しくなっていたから
手ぶらで帰るわけにはいかなかったんだろ。

143:人間七七四年
12/06/28 17:34:20.23 4h+uhz+Y
もし長篠城が落城して織田が撤退した場合岡崎派が離反してた可能性ってのは本当にあったのか?
今更離反したところで今度は武田の先鋒扱いで織田と戦うハメになるんだから正しい選択とは思えないが

144:人間七七四年
12/06/28 17:45:41.33 8euKSTYx
岡崎派と浜松派の派閥争いという説自体が根拠ない妄説

145:人間七七四年
12/06/29 08:13:00.07 qhcWECoA
派閥争いがあったかどうかはわからないけど、いきさつから、長篠城落城だけ
だとそれほどの離反者が出たとも思えない。
徳川本体を引っ張り出して、勝ったとなれば、ぼろぼろ出てきそう。


146:人間七七四年
12/06/30 01:51:55.29 cL9GcILz
勝頼がこの戦で死んでくれれば武田はあんな悲惨な末路を
辿る事はなかっただろうな、勝頼が空気読めなさ過ぎたw
信勝が家督を継いで、織田に土下座外交→臣従で何とか
生き長らえたかもしれない

147:人間七七四年
12/06/30 03:04:36.31 lBjnC5Wx
野戦で総大将が死ぬとかよっぽどだろw

148:人間七七四年
12/06/30 08:45:35.20 NSPgBEp/
今川の末路を見れば判るな。

149:人間七七四年
12/06/30 10:43:10.69 IEAlw76H
信長は信玄と違うんじゃね
嫡男殺して同盟破って徳川と共同で今川攻めとか極悪非道な事はしない
浅井だって最後の最後まで許したんだし
信長公なら信勝臣従なら武田を庇護してくれたと思うけどな~

150:人間七七四年
12/06/30 18:10:55.52 NSPgBEp/
浅井を許したってどういう事?
シャレコウベに緊迫貼って飾り付けたのに?

151:人間七七四年
12/06/30 18:15:24.72 oQQsr8aq
>>150
それ立川流の最上位の供養の仕方だけど、何か問題でも?

152:人間七七四年
12/06/30 18:16:32.83 5eQHhM/Q
>>151
お前あんなトンデモ説信じてるのか

153:人間七七四年
12/06/30 18:45:30.20 NSPgBEp/
立川流って落語のか?それで朝倉義景を最上位の供養にするのはなぜなの?

154:人間七七四年
12/07/01 05:36:57.50 SVlSyARz
あの狭い土地に3千丁は無理

155:人間七七四年
12/07/01 19:26:38.03 KxrjUzET
>>151
はいはいアホ乙w

156:人間七七四年
12/07/01 19:47:18.24 E++o99PQ
>>138
勝頼も家臣団も浅はかだったんだよ
徳川には勝ったことあるし、織田は弱そうだし、武田というブライドもあるし
布陣みると兵も少なそうだし、あの辺に兵がいたとしてもここを突破すれば
総崩れさせることができそうだし、徳川や織田の軍勢目の前にして
撤退したら信玄が居なくなってからただでさえ肩身狭いのに、ますます居心地悪くなるし…
こんな感じでやってみたら大変なことになっちゃったてのが真相じゃない?




157:人間七七四年
12/07/01 23:08:30.68 LhKxjvrP
長篠の戦いの結果を他の大名はどう見ていたんだろ?
例えば越後の軍神さんなんて、「勝頼は徳川や織田を舐め過ぎw
まだまだ決戦を挑む器じゃねーしw」とか言ってそうなんだけどね

158:人間七七四年
12/07/02 00:20:43.05 tzG4NVyh
実際現地で見れば馬防柵は見えても野戦築城があれだけ徹底されてるところまでは見えないらしいが

159:人間七七四年
12/07/02 00:34:13.51 q5Gu2x9h
謙信「勝頼は父信玄のように敵前逃亡すべきだった、
若さゆえの過ちとは故あまりにも無謀な戦であった」

その後謙信は手取川で強大な織田軍を前に敵前逃亡

160:人間七七四年
12/07/02 08:23:54.33 TsTgH9dg
>>158
馬防柵あるところは、意外と近いし、土地勘がなければ、その後ろの小山も
結構厳しいし、何処まで解っていたのか。
個人的には山が近すぎて、後方は見えていないと思う。
だからなのか意図的なのかどうかしらないけど、激戦区はもっと開けた徳川
沿いだよね。
回り込もうとでも思ったのかなぁ。
車で道を走った感じでは、回り込んでも、厳しいような気がする。

161:人間七七四年
12/07/02 10:30:52.00 v3CW4lka
今で言う縦深陣地に徒手空拳で突っ込んだようなものだからなぁ
穴山の逃げっぷり見ても勝頼書状にある「この戦を危ぶむ者もいる」って事実だったんだろうな
そんな状況だからこそ敢えて決戦して勝てば「もうこいつらには逆らわせない」っていう感じだったんだろうか?

162:人間七七四年
12/07/02 23:20:45.34 HWboQNTd
勝たなきゃどっちにしろ滅ぼされるから同じこと
あえて言うなら信長と同盟切った親父を恨むべき

163:人間七七四年
12/07/03 00:03:35.12 Rl7z3xjr
素人目に見たら武田軍は戦力の大きい織田徳川軍に包囲されているように思える。
不利と見て決戦を避けるという選択肢はとれなかったの?

164:人間七七四年
12/07/03 01:52:01.21 5WwJGlCV
>>162
死ぬ間際にとんでもない大失態やっちまったよな、信玄
信忠と松姫が婚姻してたら武田安泰だったのにね

165:人間七七四年
12/07/03 07:58:16.40 M1NbhNaK
キチガイ織田チョン相変わらず信玄が織田を裏切ったとか捏造w
一次史料を見る限り、信長が信玄を裏切った挙句に
追い詰められてるのにw
しかも信玄死後も長篠で勝頼が失敗するまで
武田が常に織田を圧倒してたのが事実www

166:人間七七四年
12/07/03 08:07:05.50 npJ3NnbE
解ったから、もうどっかに行ってくれ。
信玄好きってのは、脳筋体質が多いのか?

>>163
個人的には本当にそう思う。
徳川だけではなく、織田が出てきた時点で一度引くとか、長篠城を全力で
落とすとかしないと。
陣地構築されて、それに突っ込むなんてのは、危ぶむヤツが出てきても、
おかしくも何ともない。
が、親族衆が命令なしでさっさと引き上げるって言うのも、のはどう言った
了見なんだろう。


167:人間七七四年
12/07/03 14:04:53.86 H0/jbAFq
「この戦を危ぶむ者もいる」の危ぶむ者って結局誰なんだ?

168:人間七七四年
12/07/03 15:36:57.81 5O7tPwm+
親族衆

169:人間七七四年
12/07/04 01:12:07.71 Ys/JPZ0v
親族衆はさっさと勝頼に死んで欲しかったんだろうな
勝頼死んだら信勝祭り上げて、信長公に臣従
そもそも奥平が正しかった訳で、親族衆の多くが
時代は信長に味方をしていると気付いていたはず

170:人間七七四年
12/07/04 08:05:27.23 yMeNFoW1
確かにそういう所もあるかもしれないが、命令無しで撤退はまずいだろう。
それと、勝頼は徳川とはやりあうつもりでも、信長とはしたくなかった様に
も思えるのだけど、どうなのだろう。

171:人間七七四年
12/07/04 08:10:24.39 y80m1M12
そらそうでしょ。
敵の弱いところを叩く原則からして、織田が出てこれないタイミングで徳川だけを分断して叩きたいのは当たり前。
問題は、織田が出てこれないタイミングを見誤ったことで。

172:人間七七四年
12/07/04 08:12:28.67 9YbnNm1b
この時点で既に穴山は徳川と内通してたって説もあるな

173:人間七七四年
12/07/04 12:41:14.77 yMeNFoW1
>>171
見誤ったと言うか、何故出てきたのに突っ込むかって話だよね。
何回も言っているけど、非常に不思議。

穴山は何をしたかったんだろう。
裏切りで弱体しても、それでも総領につきたかったのか、血を残したかったのか。


174:人間七七四年
12/07/04 14:27:41.27 A6CMAPjW
結果としては退却すべきだったんだろうけど
戦場では合理的には行動できないし政治的な思惑から撤退できなかったんだろうな
撤退すれば信長は勝利宣言するだろうし、部下は「臆病者」っていう陰口叩くだろうし
家督継承後にイケイケドンドンで連戦連勝だったのも逆効果だったね

175:人間七七四年
12/07/05 00:04:32.10 p0UcOnDD
センゴクとかの織田家と「決戦」して勢力を削ぎたかった説は、どのぐらい支持者がいるんだろ?

176:人間七七四年
12/07/05 01:59:19.29 CJIVY4eL
>>175
本気で決戦する気なら25000は連れてくるだろうし
最初に設定した条件と違う状況では仕切り直しするのが当然なんだけどね
信玄ならあっさり長篠攻略も諦めて撤退してただろうな

177:人間七七四年
12/07/05 02:30:16.67 16kANtlt
信玄ならそもそも徳川攻撃なんて無謀な事はしません
西上作戦は包囲網で織田の後詰めがほとんど絶望的だった
徳川から領土を分捕るのが目的だっただけで、織田が出張って
来るかもしれない状況で動くほど信玄は馬鹿ではありません

178:人間七七四年
12/07/05 08:14:11.32 EbxQq3Vk
>>177
信玄だったらと言う期待を持ちたいのはわかるけど、勝頼の立場での話に信玄を
持ち出すのはナンセンス。

>>174
不思議なのは、陣地構築されるまで信長出陣の報はなかったのか、援軍を待って
の戦いを何故しなかったのか。
撤退したくてもそう出来ないのであれば、せめて信長布陣前に長篠城落とすか、
対後詰め用の陣形、もしくは簡易的な砦なりを造らなかったのか。
一番やってはいけない選択肢をしたとしか思えないんだよなぁ。

179:人間七七四年
12/07/05 09:14:37.15 rSWsbxQs
軍事においては無能ではないはずの勝頼がなんでこんな決断をしたのか、理解できない。

結局、少なくともこの点においては軍鑑の内容が正しかったんじゃないの?
高天神城で勝ったためか有頂天になって「織田ごとき」と思っているようにも見える。
家老衆が反対しても不思議じゃない。
実際彼らの崇拝する信玄なら避けたであろう戦いだし。
なぜ粘り強く戦ったか?それは反対でも武田のために懸命に戦ったってことだろう。

180:人間七七四年
12/07/05 10:07:33.99 Y2e09dZt
>>167
そもそも今まで何度も聞かれているのに
「この戦を危ぶむ者もいる」の書状の日付や誰が誰に宛てたかの
ソース明示をいっさい出してこないのでまったく不明。
>>169
実際には奥平氏は山家三方衆では一番格下であったため
1000貫以下の領地しか持たない小身の奥平貞能に対して
家康は破格の条件で買収し城から逃げさせた。
家康は3000貫の領地を約束し
さらに嫡男の奥平信昌には家康長女の亀姫を嫁がせ
将来の長篠城主(武田方で菅沼正貞が城主)の約束
貞能の娘を本多広孝の次男と婚姻させる

こんな破格な条件提示させたから欲に目が眩んで城から脱走しただけで
しかも信玄死去後に勝頼は地盤固めの内政のために
自ら援軍する約束をしても実際には援軍に来ないと言う状況もあって
奥平氏が離反しただけの話。
>>174
勝頼は「無二の一戦」で織田を屠り、すべての決着を決めたがっていた
ところがあるからね。父親越えに焦っていたのだろうし
織田徳川を弱いと思っていた。長篠城をさっさと落さなかったのは
岩村城や高天神城や明智城などと同様に織田軍が撤退する口実を与えないためのものだろう。
ただ不思議なのは陣城の中から鉄砲隊で撃たれる状況を勝頼は
踏み破れると判断したこと。
例えば14歳の時の若き中条景泰が一向宗の籠城する朝日山城から鉄砲猛撃を気にせず
突撃していき蜂の巣にされそうになってるのを謙信は慌てて連れ戻させてる。
また信玄は西上野の武田方根拠地だった和田城に鉄砲をかなり配置してて
謙信や佐竹らの軍勢を寄せ付けなかった。この城攻めを謙信は書状で負けたと記しているくらい。
安全な場所から大量の鉄砲で狙い撃ちされ蜂の巣にされる危険性を
勝頼はまったく理解してなかったのか非常に不可解で
あきらかに織田・徳川軍との交戦経験学習からナメて
無二の一戦で早いトコ結果を出そうとしていたとしか思えない。
>>177
もうそういう歪曲やめろよ。
信玄は野田城で冬季を過ごし雪解けを待って美濃へ攻め入る計画で
5月までに織田との戦いで一定の決着をつける予定だったのは明らかなんだから。
徳川の領土なんてまったく信玄には興味はなかった。

181:人間七七四年
12/07/05 10:49:06.64 m9LsHXAN
ハイハイ
信玄が一番欲しかったのは遠江領土だからな?
本拠地から近い土地の方が欲しい人物だろ

182:人間七七四年
12/07/05 12:01:16.48 3OT9fwFk
>>180
はいはいソースソース
出せないんだろw

183:人間七七四年
12/07/05 12:40:50.57 EbxQq3Vk
>>180
う~ん、ちょっと軍記物が入っている解釈に見える。
「無二の一戦」したいのなら、ここで何回も言われている1万五千なのは
何故か。
上杉への備えってのは理由にならない、何しろ「無二の一戦」したいのだ
から。
そして、勝頼ほど戦上手が、何故陣地をこしらえてる、二倍の的に突っ込
むような事をしたのかの理由にもならない。
そして、信玄は全く関係ない。

184:人間七七四年
12/07/05 12:44:30.49 EbxQq3Vk
>>179
>それは反対でも武田のために懸命に戦ったってことだろう。
これはその通りだと思う。
欲も悪くも武田の為にって言うのは間違いないないんじゃないかな。
そして、親族衆が勝手に撤退はびっくりだったろうなw

185:人間七七四年
12/07/05 14:54:25.34 Y2e09dZt
>>183
長篠決戦前日の勝頼が
織田軍のことを
敵失行之術 一段逼迫之躰候之条 無二彼陣へ乗懸
信長・家康両敵共 此度可達本意案之内って書いてるように
勝てる判断をしている。
もっとも15000は甲陽軍鑑の話なので実数は
高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。
もともと岡崎城での内応をアテにしての出陣から計画変更してるわけだし。
長篠日記によれば戦が始まるや武田軍が一方的に野戦で大勝利して
陣城へ追い込んでるわけだし、織田側は6000の戦死を出してると書いてる。
6000の軍で野戦で圧勝して6000討死させてるんだから
陣城での織田側の籠城戦での鉄砲での防衛に戦局は変化してる。
武田側も鉄砲における戦訓を得ていないとおかしいわけで
やはり陣城からの敵前撤退の失敗に敗因があると思われる。
これが朝倉家における刀根坂の撤退戦の失敗と同様のものだったと考えられる。
殿部隊が失敗してしまった軍の崩壊は致命的。

186:人間七七四年
12/07/05 21:46:17.00 B7MG63ym
酒井別働隊の動きにも全く気づかなかったようだから単に敵兵力を見誤っていたのでは?
要するに情報収集がダメだったと

187:人間七七四年
12/07/05 22:00:46.87 rSWsbxQs
>>185
6000説がよく出るけど、それにしては武将が死にすぎじゃないか?
長篠後の武田は兵の質が著しく劣化している。ソースは三河物語。
6000だったらそこまでならないだろ?

188:人間七七四年
12/07/06 00:10:12.76 K5x+6OgS
つか、6000の兵とすると、武将を一門まで含めてほぼオールキャストで投入してるのがおかしいと思う。
近代軍隊に直すと、大隊長クラスに将官を使ってるみたいな話になる。

189:連合軍側で討ち取られた名のある武将の記録無し
12/07/06 00:36:12.38 r3fNwGiL
>>185
一方武田は
山県昌景・馬場信春・土屋昌続・高坂昌澄・真田信綱・小幡信貞
甘利藤蔵・根津甚平・名和無理介・横田備中・杉原日向・和気善兵衛
真田昌輝・高森恵光寺・川窪備後・下曽根源六・浪合胤成・油川宮内
原昌胤・原盛胤・安中景繁・望月信永・米倉重継・土屋直規・内藤昌豊

190:人間七七四年
12/07/06 01:33:52.72 mGi6VOyA
武田軍6000で織田・徳川軍6000討死ってw
>>189
これ見ると本当に一方的な虐殺ショーだったんだな
あまりにも武田が惨め過ぎるというか悲惨過ぎだろw
これじゃぁ、武田厨が発狂するのも無理はないな


191:人間七七四年
12/07/06 01:54:24.50 BX96zbKy
田舎大名カス雑魚武田ごときが天才信長公に挑んだ結果の大虐殺ショーだね
まぁ、こんなのは武田征伐時の悲惨さに比べれば屁でもないんだけど

192:人間七七四年
12/07/06 02:18:36.42 hdRQWYK0
武田厨は織田を貶めて武田を引き上げようとしてるんだろうけど
そんな無駄な小細工しても武田の惨めな滅亡っぷりは変えられない
歴史的事実っていう事に気付いていない痛過ぎる奴等だからな
フルボッコでボロ負けだったと馬鹿でも分かる戦いじゃねーかよ

193:人間七七四年
12/07/06 07:32:47.00 eBGLik6j
滅亡した後の武田なんて悲惨すぎて語れないからなw

・元武田家臣の大久保長安に仕える武田本家当主の武田信道(信玄の孫、勝頼の甥)

・大久保長安事件で武田信道も一緒に配流、もちろん領土も禄もない

・武田信玄から5代か6代数えた子孫になってようやく高家旗本という血筋の後光以外の何物でもない扱いに甘んじる

・しかしその息子の代になって時の権力者柳沢吉保の一族から養子を迎え入れ血統断絶

・以降柳沢家として明治維新を迎えることになった武田家

194:人間七七四年
12/07/06 08:03:06.99 lAwgJ4y5
まーた変なのが沸いてる。
煽り合いは他でやれと。
信玄やその後なんてどーでもいい、ここは、長篠・設楽原合戦の真実スレだ。

>>185
いや、まあ勝てると判断したから戦ったんだろうけどね。
後世の俺たちだから無謀と思うのだろうか、それとも陣地&二倍の兵力と言う
情報がなかったのだろうか。あっても勝てると判断したのだろうか。
戦いで互角以上だったとあるが、これも本当だったのだろうか。
本当なら、何故親族衆は無断で撤退し始めたのか、勝っているのに?
その変がわからないんだよね。
ただ、撤退で甚大な被害が出たのは確かなようだね。
そう言えば、岡崎の内応という話も本当なのだろうか。
動員数から、あてにするほど徳川がごたごたしていたとは思えないんだけど
なぁ。どうなんだろ。

195:人間七七四年
12/07/06 13:55:23.14 psDeLYXd
>>189
これはまた酷いワンサイドゲームだな
こんだけ有名武将が死んだら7年後に天目山で首ちょんぱにもなるわな
もっとも雑魚軍団武田にいたからこいつ等は後世にまで名を残せたけど
世界最強織田軍団にいたら無名の足軽にすらなれなかった雑魚集団w

196:人間七七四年
12/07/06 22:33:18.89 tQdgI5jY
>>193
上杉家にも子孫がいなかったっけ?

197:人間七七四年
12/07/07 11:56:02.70 pPMzIIJI
>>189
その死者リストを裏付ける一次史料のソースを
昔から一回も出さずに逃げてるよねwww
いつまで逃げるつもりなの?


198:人間七七四年
12/07/07 17:01:15.68 oRGP+ET2
>>189
どうでもいいけど、武田家の武将ってやたら有名すぎじゃね?
長篠での戦死が主な事績みたいな奴いるし。

199:人間七七四年
12/07/07 18:58:08.26 Axjlbc90
>>197
それで”まともな”研究者が疑問を論文にしたことはない
ソレが全て
お前の妄想を主張するのはどうぞご勝手にw

200:人間七七四年
12/07/07 19:17:34.00 pPMzIIJI
>>199
はいはいw
一次史料のソースはまったくありませんって御解答乙www

201:人間七七四年
12/07/08 00:21:23.06 ev4hyErW
6000説は参戦した武将を考えるとおかしいから兵力については史実通りだと思う。
あと戦死者千人説も武将の戦死した人数や兵の著しい劣化から考えるにおかしい。
まあ一万人戦死は言いすぎだとしても戦死、そうでなくても二度と合戦に出られないような戦傷を含めればそれくらいいたのかモナ

202:人間七七四年
12/07/08 03:04:23.59 mn+cc+tq
農民兵かき集めて武田の最大動員数って4万くらいでしょ
長篠の15000ってある程度精鋭だったんじゃないかな
だからこそ15000で馬防柵突破した部隊もいたと
ただ精鋭の多くを失ったがためにその後大きな支障をきたしたと

203:人間七七四年
12/07/08 08:11:34.56 +SKwhbOx
>>200
んじゃ、リストアップされてる連中はどこで死んだの?
長篠以外で死んだんだよね?

204:人間七七四年
12/07/08 12:51:45.63 ga78vRnd
15000は甲陽軍鑑の話だろwww
いつから史実認定になってんだよwww
つうか参戦した武将を
まずは一次史料からリストアップするところから
始めろよ。

205:人間七七四年
12/07/08 13:58:05.95 wOAS1zZu
実際、信玄時から 尾張 尾張を一望出来る位置 海上の森に武田軍の砦があって
その地は明治維新まで、誰も地付けないパワ-スポットのような場所だったらしい


206:人間七七四年
12/07/08 14:04:12.85 SD91iEVd
武田厨の質の劣化が酷過ぎるwww
長篠の戦そのものが捏造とか言い出しかねないレベル
馬鹿に何言っても無駄なんで妄想厨には関らないようにw

207:人間七七四年
12/07/09 07:53:05.11 NRjGPA4i
だ・か・ら、煽り合いは他でやれと。
典型的な煽り合いだし、芸がない。
それだけ、したり顔であーだこーだ言うくらい知っているのなら、>>194の俺の
質問に誰か答えてくれよ。

208:人間七七四年
12/07/09 11:38:57.50 q/JpRxNM
岡崎の内応は事実としては怪しいが一応存在する。
腹切ったのは大岡弥四郎と石川春重ほか数名。全て信康つきの家臣。
ただし「これをアテにして武田が攻めてきた」って言ってんのはだがくらい

209:人間七七四年
12/07/09 12:45:51.06 NRjGPA4i
同じような意見かな。
あてにするには、根拠が薄いような。

210:人間七七四年
12/07/09 14:04:13.92 5C+6YoBS
まぁそれくらい徳川も武田に追い込まれてたっていう証拠ではあるんだろうね
実際は浜松も岡崎も健在で織田の後詰が期待できるんだから
武田が長篠で撤退して勢力温存したとしても徳川を屈服させるのは困難だったと思う
やはり三方原が最初で最後のチャンスだったんだろうな

211:人間七七四年
12/07/09 23:23:41.67 RLyuT3Sn
>>185
>高柳光寿氏が指摘するようにこの時の出兵は武田軍6000が実数だろう。

高柳光寿氏の書いた原本を読めば分かるが、
氏は長篠の周辺の地形をざっと見て6000と言っているにすぎない。

しかし「高柳光寿氏が存命~今」は小高い山々に木が生えているけど
当時は禿山だったんだよね。

高柳光寿氏は木の生えていない所にしか布陣できない、
と思っていたようだが。

実際、現地にいって「信長が布陣した山」に行けば分かるが
木が生えていて、戦場が全く見えない(w

当時は禿山だらけで、周辺いったいに布陣できたから
実際の動員数は信長公記どおり

信長・徳川:4万5千
武田:1万5千

が妥当だと思う(実際は非戦闘員が半分近くいただろうが)。



212:人間七七四年
12/07/09 23:27:00.67 6Zasb61J
鉄砲の三段撃ちはウソくさいってことしか知らない素人だけど、
長篠城を落せないでいるうちに織田徳川軍が到着。
しかも長篠城周辺に築いた砦を徳川軍の別働隊に落されてしまい背後にも敵が。
そのうえ戦場は狭く大軍が動きにくい(兵力で劣る側が機動力で挽回しにくい、また包囲殲滅されやすい)。
この状態で戦力に優れる敵と戦うなんて無謀すぎると思う。

213:人間七七四年
12/07/09 23:31:42.58 RLyuT3Sn
死者数といっても、それと同時に重傷者、軽症者もいるわけだ。

死者数1000人いても重軽傷者がどれくらい居たかは不明だね。

参考程度にしかならないけど現在の交通事故では10倍になる。
つまり死者数1万人、重傷者10万人、軽症者100万人。
(大まかな数字)

まぁ当時の戦争でも同じ程度ではないか?
(数倍の違いは誤差と見なす、桁数が合えばOK)

すると武田軍1000人死亡、というのは全滅に近い数値だろ。

重傷者軽症者も長篠から信濃、甲斐、駿府に
歩いて帰らなければならないのだから
途中で離脱する人も多かっただろう。

214:人間七七四年
12/07/09 23:34:43.50 RLyuT3Sn
>>212

長篠城が攻撃された時点で前に突撃するしか道はなかったからだと思う。

しかし最大の謎は「何で武田軍は寒狭川を渡ったか」だね。
信長公記の言うとおり寒狭川を前に陣を取れば
連合軍は行き詰ったのだが。。。

215:人間七七四年
12/07/10 08:04:45.47 fpXP5ul4
>>213
それは意味のない議論。
敗戦側の重症者は捕虜にとってもらえなければ、死者になるしかないよ。
勝った側は重傷でも生きて帰れる目があるけど。


216:人間七七四年
12/07/10 08:12:45.66 hVXsZPyG
>>213
死亡者1000人は、少なくても従軍していた軍は使えないって事だよね。
同数と言われている織田・徳川より深刻だったろうな。

>>214
長篠城は本当に落とせなかったのか、何故手ぐすね引いている相手に
突っ込んでいったのか、ホント不思議。
確かに、行き詰まっって、織田・徳川の方が仕掛けていたら、逆に武田が有利
な展開で終えていたかもしれない。

そう言えば、兵糧的には両方ともルートを確保していたのだろうか。
武田は元々勢力圏だから問題はなかったのぁかな?

217:人間七七四年
12/07/10 23:08:46.15 hpKBgpwu
織田の戦死者が6000ということは、その3倍以上の戦傷者が出てるということか。
寡兵の武田軍に陣城に篭城した3万もの大軍の織田が
6000討ち死に
2万近くの戦傷者を出した戦いだとすると
織田はまた徳川軍に助けてもらったということだな。
しかし、信玄西上のときは三河物語によれば
信玄は天竜川以東を制圧していたら
手引きする者が大量に出たので、
美濃へ向かうことに決して、三河へ入ったと書いてるね。
信玄が東美濃へ向かうのを阻止するべく
家康は追撃して三方が原の戦いが勃発。
大勝利した信玄が浜松城の備えを調べたりしてから
野田方面へ向かった。
家康は律儀に織田領へ向かおうとする武田に攻撃してたわけだ。
しかし家康が天正元年から天正3年まで何度も援軍依頼したのに
武田を恐れて拒否しまくっていた信長。
やっぱり織田軍の弱いんだろう。

218:人間七七四年
12/07/11 00:24:43.85 6YBwSF8V
そんな弱い織田軍に捻られた武田軍団か
どんだけ弱いんだよ口臭兵

219:人間七七四年
12/07/11 01:39:26.13 sntMlUoY
織田徳川の戦死者6000という数字はかなり胡散臭いが
普通は一割も戦死したら軍として機能しなくなるし
まあ信長の統率力が普通じゃなかったといえばそれまでだけど

220:人間七七四年
12/07/11 12:25:18.02 QHRXlnNv
織田の方も予想外の痛手を被ったのは敗走する武田を
追撃しなかった点、さらに木曾が寝返るまで武田に
手を出していないのと、武田征伐時の信長の慎重な姿勢から
窺う事が出来るのではないだろうか
知られているような一方的な戦いではなかったのかもしれない

221:人間七七四年
12/07/11 13:31:07.43 LUxqCPE/
ノモンハン事変で日本軍が一方的にやられてたわけじゃなかったみたいな感じだろうな
信長のそれまでの戦いぶりからして圧勝してたのなら徹底的に追撃してただろうし

222:人間七七四年
12/07/12 08:15:23.84 Ghwx5Bsm
一日的なものではなかったんじゃないかな。
戦っていた時間的にも接戦だったのは間違いないだろうけど、いかんせん時間
とともに兵力差、構築された陣地に攻めた武田の方の勢いがなくなってきたん
だと思う。
そして親族衆の無断撤退・・・他の部将にとっては、「おいおい」って感じ
だったろうなぁ。

>>221
基本的に主戦は徳川方の様だから、信長の追撃も徹底出来なかったのかもし
れない。
目的は後詰めの援軍だし、追うにしても山地になるし、夜は近いし。
武田勢の強さに、追撃は損害を多く出すと判断してもおかしくはないけどね。

223:人間七七四年
12/07/12 13:26:52.54 iy3oEqB/
>>217
大久保の戦況説明だと
内応者続出のため三河攻略より美濃攻略の方が容易いと判断して
長篠方面へ行軍を開始した武田軍を襲って大敗したのが家康。
圧勝した武田軍は浜松城まできて示威行動とったため
本来の長篠→東美濃への行軍計画から野田での越冬後に東美濃へ行軍することになった。
家康が武田を引き付けてくれたから信玄による東美濃本格侵攻が延期され、信長は命拾いしてる。
長篠日記の著者は徳川領に住んでて目撃してんだよな。
だから侵略者武田を悪く書いて、織田と徳川を贔屓目に書いてる。

224:人間七七四年
12/07/12 17:07:01.63 iy3oEqB/
>>208
>>「これをアテにして武田が攻めてきた」って言ってんのはだがくらい
柴裕之も新編岡崎市史の新行紀一氏も主張してるのに、何デタラメ歪曲してんだw
勝頼が奥三河の足助路へ進軍してきたのも徳川家の内紛が原因で
岡崎町奉行の大岡ら一派の内応を得て
一気に岡崎城を手にいれる算段だったから。
しかし発覚してしまったので、当初の出兵計画は中止を余儀なくされ
方向転換してニ連木・長篠方面へ勝頼は転進したとされる。
織田厨って何でもかんでも嘘を事実であるかのように書くからまったく信用できん。

225:人間七七四年
12/07/12 23:26:25.13 rfjRMJGC
新編岡崎市史には大岡と石川が武田に内通して勝頼を
岡崎に引き入れようとして、それが発覚して腹切ったとしか書いてないんだがなw

ついでに言うとこれが起きたのが1575年の春で長篠の戦いには全くドッキングしないという杜撰な捏造ww
もっと言えばこの話は「岡崎東泉記」など元禄年間の創作をベースに書いた話で
史料的根拠はゼロに等しいw

さすが甲陽軍鑑みたいな瑣末史料を重視する武田厨は違うねw



226:人間七七四年
12/07/13 08:01:55.22 RD0vWFxr
煽り合いはやめろと言っているだろうに。
諸説はあるようだけど、>>224の意見は時代経緯が見受けられないので、信用
出来る意見とは言えないなぁ。

227:人間七七四年
12/07/13 17:28:22.89 rf3Ug6Rg
まあ甲陽軍鑑の信憑性は信長公記と変わらない程度だから気をつけて使わないとなw

228:人間七七四年
12/07/14 01:35:55.10 GrgHqHJL
え?
甲陽軍鑑は噂レベル、信長公記は日記レベルですけど?
信憑性はどっちが上かは一目瞭然だろ

229:人間七七四年
12/07/14 02:04:05.82 jWqjOIvw
目くそ鼻くそだな
うんこと焼き味噌と言ってもいい

230:人間七七四年
12/07/14 10:00:16.22 5LYVGRn7
アンチは黙ってROMってくれ

231:人間七七四年
12/07/14 11:17:14.90 61wPxEL0
>>62>>63>>64>>79>>180>>185
よく一次史料を調べて丹念に書いてるね。
>>224
柴氏の意見というよりは山梨県史の新解釈の結果だね。
鴨川氏が信玄の元亀2年4月の三河侵攻が軍記の内容により
誤った解釈をしてたのを修正して
勝頼による天正3年3月からの三河侵攻と確定させ
武田軍先陣による足助城攻略→豊田市の諸城攻略(浅賀井・阿須利・八桑・大沼・田代)という
成果が岡崎内応組との呼応と結びつけて考えられるようになった。
信玄三回忌を終えて後詰めとして勝頼が作手まで出張ってきたが、岡崎内応が発覚したために、
野田→吉田へと東三河へ転進したとする。
最前線の山縣隊は戸田の守るニ連木城を落城させ、
吉田城を救援しに来た家康を山縣が単独で即大破させ武田軍は長篠城へ撤退。
5/1に長篠城攻撃を開始しつつ、5/12には武田先陣が尾張国へ侵攻し、
信長が厚く信奉する熱田神宮を燃やして織田を挑発。
家康からの救援の催促を拒否りまくっていた信長も流石に面目が潰れ、
信長は鉄砲隊の準備も兵糧の準備も整わないままに13日に出陣。
(細川に鉄砲隊の調達を命じる・謙信への手紙で信長は兵糧が秋まで欠乏と書く)
20日の勝頼書状には織田は方策に迷って逼塞しているとの判断をしているのがわかる。

232:人間七七四年
12/07/14 11:32:16.68 61wPxEL0
>>家康は2/12義昭の臣である一色藤長の来訪を歓迎する意を表し
>>3/20には義昭から家康・水野に武田との和睦要請がきてる。
>>家康が信長はもうダメだと考えはじめている事実。

信康の岡崎城と家康の浜松城で方針の違いが生じて対立し始めてるのは
将軍義昭のこの和睦交渉が原因だろう。
信長が援軍を拒否している情勢から、
徳川が本気で武田に付くかで家中が割れたと思われる。

天正6年3月に信康の岡崎城へ岡崎衆の常住を義務づけた家康だったが、
突然9月に岡崎衆に信康へ出仕することを禁止
天正7年8/4岡崎から追放したと8/8に信長へ報告
9/15の銘文で信康の五輪塔。
三河物語には二股城で15日に服部半蔵が自刃の検使だったと書いてるし。
ちなみに2/20に信長の娘の五徳が桶狭間まで家忠らが護衛して送ったと書いてるな。

これも家康が長篠の戦いを前に武田への内応を考えていたのを
信康が阻止したことが大きいのではないか?
信長娘婿の信康が信長の後ろ盾の元で家康を追放して
徳川を継ぐために、武田へ内応しようとした事実が
信長へ洩れるのを阻止するべく、信康を殺害した。

信康の岡崎城が陥落した場合、援軍を出さない織田に対して
やむなく武田に家康が降ったとしても
信長から遺恨に思われることはないだろう。


233:人間七七四年
12/07/14 11:36:42.71 4Amt0nMU
だがの自演入りました

234:人間七七四年
12/07/14 11:40:14.06 5LYVGRn7
>>233
で?

235:人間七七四年
12/07/14 12:07:32.95 61wPxEL0
>>197
一方、21日に長篠で勝ったとされる織田軍も
信長の28日書状で27日にはすでに京に帰ってるのがわかり
ほとんど追撃してないように見える。
実は織田軍もかなりの被害を受けて岐阜へ逃げ帰ってるんじゃないかと思う。
だから織田が勝利による戦果の拡大に失敗してるのでは。
その証拠に信長から諸将への感状が一切出されてない
(武家雲箋に収録された馬場美濃守信房討ち取りの岡三郎宛の研究の余地ありの感状はあるが・・・)
ちなみに家康は松平勝次などに感状出してるし、その後は駿河方面へ攻め込んで伊豆境で放火してる。
勝頼も8/10書状で則時に乗り懸かり、逐一戦で数多討ち取り
その勝利に乗って信長陣前に押し寄せたところ
陣城を構えて籠居していて、うちの先方衆が利を失ったと書いてるから
野戦で織田軍は大敗して大きな損害を出して籠城してしまったのがわかる。
信長があっちこっちで誇大戦果をばら撒きまくってるから
織田の大勝利に見えるだけで、実態は織田が大敗して
武田が城攻めを余儀なくされてただけなのでは?

236:人間七七四年
12/07/14 14:17:43.34 6w2nIwWz
負けたり大損害を被ったのならすぐに岩村城を大軍で攻めたのはおかしいだろ

237:人間七七四年
12/07/14 16:19:50.00 61wPxEL0
>>236
7/19に勝頼が岩村城への援軍を通達したが
7/27に家康が駿河を攻撃する情報が入ったので
岩村城への援軍を中止して遠江へ出陣したから。
勝頼は高天神城へ兵糧補給をして帰っている。

238:人間七七四年
12/07/14 16:38:04.72 61wPxEL0
>>187
はいはい得意の歪曲乙w
三河物語は徴兵年齢の引き下げにより13歳前後以上の動員をしたのを天正5年のこととして書いてるから
長篠の戦いのあった天正3年に戦力ダウンしたことの証明にはならない。
それを証明するものとして天正5年閏7月5日に
勝頼が今度の出陣は武田家興亡の一戦であるとして15歳以上の者を20日間を上限とした臨時軍役を課してる。
しかしこの時の出兵は富士川の洪水で決戦を断念。

財力に関しても天正6年に諏訪大社の造宮事業に大金を投入しての数年計画を実施しており逼迫してない。

239:人間七七四年
12/07/14 18:56:14.98 6w2nIwWz
>>236
大損害を受けたらすぐに軍事行動起こせないと書いたんだか?
勝頼の援軍云々は関係ない
また徳川も大損害を受けていたらこれまたすぐに軍事行動起こせないわなあ
だかにはこれがわかるかなあ?W

240:人間七七四年
12/07/15 11:45:05.07 UD9oXEwJ
>>183
信長の兵数を把握していなかったんじゃね?


241:人間七七四年
12/07/15 11:46:32.56 UD9oXEwJ
信長のすごいところは、2月の段階で設楽が原を調査させてるところだよな

242:人間七七四年
12/07/15 11:50:12.27 UD9oXEwJ
>>235
流石にそれはないわwwwww

どういう理屈をこねたらそういう結果が導き出されるんだww

243:人間七七四年
12/07/15 16:08:03.75 JktYyyOz
>>240
確かに信長は兵力を隠匿するのに腐心していたようだから勝頼をはじめとする武田軍は敵兵力を見誤っていたんだと思う
要するに武田軍は信長にまんまと釣られて罠にはまり壊滅した
信玄ならば云々という意見もあるが彼の癖(相手の兵力が少ないと襲いかかる)ならなおさら罠にはまっていただろう
酒井別働隊の動きに全く気づかないほど武田の情報収集力が低いことからも
長篠以前に死んでいて良かったよ信玄は

244:人間七七四年
12/07/15 17:59:51.64 uowk1SXf
兵数を隠蔽って言うほど簡単じゃないような

245:人間七七四年
12/07/15 20:46:01.46 OSD0GgMa
逆に偵察を送って調べるしか無いんだから、陣地に立てこもられて、その陣地自体も規模を隠蔽してるって状況じゃどうにもならんだろ。

246:人間七七四年
12/07/15 21:08:08.99 uowk1SXf
後から来た敵の兵力を見誤らせるなんて、信長は幻術使い?

247:人間七七四年
12/07/15 21:49:27.24 OMt/1pl6
兵数が一望しづらい場所に陣取るのと、偵察隊をかたっぱっしから片づければそこまで難しいもんでもないよ

それが難しいんだけどね

248:人間七七四年
12/07/15 23:06:20.79 OSD0GgMa
武田にとっては敵地だから、情報収集が難しいだろうしね
そもそも正面から見ても全容がよくわからない陣地に立て篭もった敵の総数がわかるはずがない。

249:人間七七四年
12/07/16 00:37:41.92 LC6mYVzJ
ていうか終わりから岡崎経由で長篠に着陣してるんだし間者が兵数くらい報告してそうなもんだが

250:人間七七四年
12/07/16 01:23:24.80 J5ZLwJcM
いや、勝頼公は大局が見えていたのよ・・・ 
天下を望むなら今、信長の首をとるしかないと
そして信長は奴隷が挑んでくる勝負をただパスすればよかった
それで砦を築いて引きこもったんだ・・・

251:人間七七四年
12/07/16 07:31:02.98 XhjQDQml
>>249
色んなルートを使って小分けにして集合させる
敵の間者は見つかり次第抹殺
偵察は必ずしながら移動

これらを徹底すれば数なんて解りようがない、特に敵地なら

252:人間七七四年
12/07/16 09:02:39.64 83eN989Q
武田の情報収集力がそれだけゴミレベルだったんだろう
砥石城攻めでも背後に迫ってくる村上軍の動きに全く気づかず挟撃されて大打撃食らっているし
第四次川中島でも謙信の動きを察知出来ずこれまた大損害

253:人間七七四年
12/07/16 11:26:17.36 9RtVo5AX
中央でブイブイ言わせて勢力を片っ端から撃破していた織田と
当時三流大名だった徳川ごときにもたついてた武田の差

254:人間七七四年
12/07/16 11:35:36.63 yrUboJ3X
畿内勢力がブイブイ言ってなかったから撃破できたんだがな


255:人間七七四年
12/07/18 00:04:43.25 5sa5EnK0
そらそうやろ
武田は他勢力をあてにしてまで織田を滅ぼしたいの?w

256:人間七七四年
12/07/18 05:19:41.61 zs54iqdY
他勢力と連携しないとかいう発想自体がアホだろ

257:人間七七四年
12/07/18 07:22:09.30 pScpRe1i
だね。
親父に習って、織田が毛利かどこかの相手で主力を動かせない時期を狙って長篠城攻めればいいのに。

258:人間七七四年
12/07/18 08:15:08.76 krrumX6f
つまり他力本願、他人任せ

259:人間七七四年
12/07/18 08:17:29.70 RZgZirSH
時期的に難しかったんだろうと思う。
敵地と言っている人が多いが、長篠城周辺は奥平氏以外の菅沼氏は日和見でも
武田についていた訳だし、この地区の裏切りをこれ以上出さない為にも、しか
たなかったのかもしれない。
又、徳川家だけなら勝てるとふんでいたんだろうなぁ。
織田家が出て来た時点で引き返すか、逆に陣地を構築するとかはできなかった
のだろうか。

260:人間七七四年
12/07/18 09:17:34.12 ZaKSI1Gk
そこが負け知らずのイケイケだった辛さだろうね
連勝記録が信長が出張ってきてあっさり途切れましたじゃ権威失墜だしなぁ

261:人間七七四年
12/07/19 07:05:53.68 wHJ6RKs1
石山本願寺攻撃を阻止するために出兵するように六角から頼まれて、
出兵したのが勝頼で、
結局、織田の石山本願寺攻撃を中止させたのだから
戦略的には勝頼が成功してるのは事実。

262:人間七七四年
12/07/19 08:01:35.80 dVZMmvqq
立ち上がれないくらいの損失をだしちゃった訳だし、戦略的成功と言えるほど
ではないかと。
中止させるだけなら、戦わずに引いてもよかったような。

263:人間七七四年
12/07/19 15:17:35.44 l8CStJaQ
戦略的成功のわりに随分犠牲者が多いわなw

264:人間七七四年
12/07/19 20:33:59.65 dJAPL/ak
老朽化した重臣等を処分したんだよ
その後、勝頼は体制刷新に成功してるし

265:人間七七四年
12/07/19 20:53:54.26 ifb4WFsB
まぁ弱体化したと言われながら武蔵では北条を圧倒してるし
駿河が侵食されたのは確かだが勝頼が出ていくと家康はすぐ逃げるし

それなりに立て直しには成功してたんだろうな
ただ最後に崩れたところ見ると新体制の忠誠心の低さは酷いな
長篠では重臣が命がけで勝頼逃がしたのに

266:人間七七四年
12/07/19 21:54:47.74 JI0NE9RZ
>>265
>駿河が侵食されたのは確かだが勝頼が出ていくと家康はすぐ逃げるし
三河・遠江から追い出されている

267:人間七七四年
12/07/20 01:18:22.06 9qKNODW9
体制刷新の結果が1ヶ月足らずの滅亡かよ

268:人間七七四年
12/07/20 01:40:43.13 YJ4YLeb1
本当に体制刷新できていれば1577年に織田と同盟結べてたんじゃないかな?

269:人間七七四年
12/07/20 07:21:13.36 we6XbcIa

>>263
たしかに武田軍6000を相手にして
織田は6000も討死してるんだもんな・・・
信長がイケイケで野戦したらボロ負けして
家康が作っていた馬防柵に逃げ込んで家康に助けてもらっただけだし。
そもそも5/19の石川宛の家康書状を見れば
馬防柵は家康の指示で作ってるのであって
信長の考案でもなんでもない。
>>243の書いてる兵力を隠匿するなんて話は嘘長公記のデタラメだし。
>>267
浅間山噴火で武田滅亡の前兆の怪異なんて風聞が経ったら
そりゃあ崩壊するわな。

270:人間七七四年
12/07/20 07:34:44.74 gde3rMv6
浅間山噴火のことはあまり知られてない印象

271:人間七七四年
12/07/20 10:05:49.06 Jfda4KP/
>>269
だがさん今日は早起きですね
相変わらず嘘デタラメばかりですが
織田軍が徳川陣営に逃げ込んだという君の大好きな一次資料を出してくださいな

272:人間七七四年
12/07/20 11:48:51.06 UxLNqA5f
織田・徳川軍は有名武将の戦死ゼロから損害はせいぜい戦死者数数百
一方武田は膨大な有名武将が討ち死にしているから少なくとも戦死者数は10000超
弱小田舎大名勝頼が実質天下人の信長公に戦史稀に見る大虐殺劇を演じられてしまった
この戦い以降武田が歴史の表舞台に登場すること無く日本史上稀に見る悲惨な滅亡劇を
演じてしまう事になる

273:人間七七四年
12/07/20 12:51:26.14 pQj5jQBB
>>272
>>197

274:人間七七四年
12/07/20 13:17:42.28 Jfda4KP/
だがは自分にとって都合のいいものしか認めないから無意味

275:人間七七四年
12/07/21 09:05:33.36 f0BFYxUX
圧倒的兵力差&高性能鉄砲&雨でぬかるんだ地面&まるで城みたいな陣地
こんな状況下で9時間以上戦い続けて柵も破りまくり織田方からは6000もの被害が出たんだからいかに名将ぞろいだったかがわかる。また
・勝頼が「相手は打つ手がないみたいなのでこちらから突撃してやる」
・勝頼が「今回の織田との一戦を危ぶむ者がいる」と書いている
・武田一族衆は戦死者皆無
・武田譜代衆は信玄たたき上げ
山県→信玄の元小姓で兄売ってでも武田の為に仕える
内藤→信虎に追放された後の活躍が認められて兄を差し置いて上野まかされるほどの抜擢を受けた
土屋→信玄の元小姓で兄弟揃って武田に殉じた金丸家出身
馬場→勝頼を逃がすため殿軍買ってでる、織田に評価されるほど
こんな連中が勝頼が開戦と決めた以上、敵前で戦わずして退却するわけがない
皆、開戦には反対でも武田の為に懸命に戦ったってとこだろう
・勝頼は長篠戦後も信長と乾坤一擲の決戦をやるつもりでいると書状に書いている
・勝頼が長篠戦後も重税&軍制改革に臨み、書状の内容が嘘でなく勝頼の意思である事がわかる

これらの事実から軍艦の内容通り勝頼が織田の待ち構える陣地に無謀に突撃していった事が主な敗因であると容易に想像がつく


276:人間七七四年
12/07/22 10:03:16.60 lx3+DRtu
>>271
織田が馬防柵を作っていたとする一次史料のソースはまだなの?

277:人間七七四年
12/07/22 12:58:16.57 s/nOwPT/
そんなにソース欲しけりゃブルドッグのサイトでも開いておけ
自分は悪魔の証明(実際は全然違うが)で逃げる癖に相手に悪魔の証明を求めさせるお前はここには不要だ

278:人間七七四年
12/07/23 03:59:32.71 Wex6SwRW
馬防柵がなかったのなら武田は織田に正面から挑んで負けた雑魚集団ということになるなw

「織田が野戦で負けて徳川に助けてもらった」というのは妄想レベルなので考慮しなくていいだろう。
考慮してほしいならそれこそソース出すべきだなw


279:人間七七四年
12/07/23 08:26:10.22 sLfn/oW2
>>275
う~ん、基本的に激戦地は徳川方面だから、馬防柵に無謀にも突撃していった
のは、勝頼の指示でなかったか、陽動だった可能性もある。
が、土屋さんは馬防柵突破しようとして亡くなってるしなぁ。
布陣全域で合戦していたとは思えないのだけど、顔が識別くらい近くに布陣し
ていたわけだし、突っ込みたくなったのかもなぁ。
あと、何回も書いているけど、親族衆の無断撤退はどうにかならなかったのだ
ろうか。

>>278
一番戦っていたのが徳川方らしいし、家康と信長の布陣から、徳川の馬防柵に
逃げ込んだと言うのは、相手にするほどの説ではないでしょう。
つか、そうなっていたら、連合軍の方が崩れて負けていたはず。


280:人間七七四年
12/07/23 09:40:49.33 hn8iHpf3
裏崩れは良くある話
戦わずにじっとしているというのはある意味、ただ戦うより困難

281:人間七七四年
12/07/23 11:57:10.51 FsVvq/jY
戦わなくても身分は盤石なご親類衆
戦って手柄を立ててナンボの御家来衆

後ろで御家来衆が討ち死にしていくのを見て「あーこりゃ負けだ」となっても不思議ではない
あと明らかに勝頼を軽んじてるよな
総大将見捨てて逃げるとか穴山が殿で防いでれば馬場なんかは死なずに済んだだろうに

282:人間七七四年
12/07/23 22:29:34.50 2Rvqt/17
史上類を見ないワンサイドの大虐殺だと聞きました
信長公は本当に天才的な戦略家だったんですね
実質天下人だったのが頷けてしまう戦いでしたね

283:人間七七四年
12/07/24 08:08:28.20 Exc/zTMT
このスレを争うとしないでくれないか?

>>281
そう言えば、撤退前に討ち死にしたのって、山県さんと土屋さんくらい?
真田兄弟は、崩れる中、突っ込んで討ち死にしたと思った。
山県さんが討ち死にしたのは、親族衆からすれば、かなりのショックだったの
かな。


284:人間七七四年
12/07/24 09:18:58.19 JYOdiKv1
織田の鉄砲隊と武田の投石隊。
B29と竹槍の戦いだよ。

285:人間七七四年
12/07/24 11:58:00.12 mecfdCfJ
小山田さんって長篠参戦してたっけ?

286:人間七七四年
12/07/24 12:09:51.12 J6mq0Nik
>>282
いや織田徳川連合軍も大損害を被っている
落ち延びて行く勝頼を追撃できなかったのが何よりの証左

287:人間七七四年
12/07/24 13:08:12.73 fK5gs6Ah
信長は越前攻めが控えていたから深追いしなかっただけだろ
元々東に興味なかった信長にしてみれば武田軍が壊滅してしばらくちょっかいかけてこなくなれば御の字
つーか前にもでていたよね?だがよ

288:人間七七四年
12/07/24 14:40:35.12 UCE5EJVF
馬場って生き残ろうと思えば生き残れたんじゃないか?
殿を務めた後で突っ込んだといわれているが

289:人間七七四年
12/07/24 15:24:29.39 SSASKMKM
織田があまり武田追撃に乗り気でなかったってのは武田側は知らないからね
殿引き受けた時点で死ぬ覚悟だったんだろ

290:人間七七四年
12/07/24 16:29:13.87 K7bitsCk
馬場、内藤、山県の一人でも生き残ってればと思ったりもするんだが
実際は高坂昌信が生き残っててもどうしようもなかったし結局ダメだったんだろうな

291:人間七七四年
12/07/24 16:30:59.56 K7bitsCk
でも御館の乱で北条と手切れた後で北条圧倒してたし勝頼の軍立て直しはそれなりに成功してたんだろうな

292:人間七七四年
12/07/24 18:58:57.72 u8iFjV91
URLリンク(toronei.tumblr.com)

293:人間七七四年
12/07/24 19:55:02.06 UCE5EJVF
>>290
高坂がいてもどうしようもないってのは高坂が海津にいたから。

三人のうち一人でも生きていれば少なくとも史実よりはましになっただろう
長篠の戦い後は武将の質の劣化が半端じゃないから三人のうち一人が生きていれば貴重な戦力となっただろうな

294:人間七七四年
12/07/24 20:21:18.56 cNLXqA2G
>>293
そう言いながら秋山信友を見殺しにしたのは痛かったな

295:人間七七四年
12/07/25 01:40:58.05 o/yKvimE
上野の対北条で圧倒したって言われてるのは真田昌幸だよね?
実際長篠後に再編した家臣団って信玄が山県や高坂や内藤見出したみたいなビッグネーム居ないよね?

296:人間七七四年
12/07/25 07:52:51.43 za7WmIcp
まあ、見いだす前に詰んじゃった感がある。
信玄時代と違い、周りも巨大化しているし、時代の進行が早い。
対応するだけで手一杯で、ゆっくりと育成している時間がなかったと思う。
しかし、それでも四天王のうち誰かが武田攻めまで生きていたのなら、あの
酷い総崩れはなかったように思う。

297:人間七七四年
12/07/27 10:39:04.34 pF2sr1Pu
>>294
当時の勝頼は信長お膝元の東美濃防衛より高天神城防衛を優先しただけの話。

298:人間七七四年
12/07/27 13:28:25.71 03fKgh1b
>>297
高天神城を防衛するなら総力を挙げて諏訪原城を奪還すべき

299:人間七七四年
12/07/27 13:36:50.67 +yLC5CkV
長篠の敗戦もかなりの痛手だったけど一番のターニングポイントは謙信の死だよね
御館の乱→北条と手切れ→関東出兵の流れが武田の滅亡早めたわけだし

300:人間七七四年
12/07/29 19:43:43.89 GLt6nGvW
高天神城を制する者は遠江を制する

301:人間七七四年
12/07/29 20:13:33.33 Wip8MTMH
まだ真田がいたけどね。
上手く使いこなせなかった。

302:人間七七四年
12/07/29 20:15:30.61 moM1dFkA
>>300
掛川城や諏訪原城と比較すると、実はあまり意味がなかったりする

303:人間七七四年
12/07/29 22:02:03.75 Nq5ST4hh
真田は万単位の大兵力の運用に関しては未知数だよ
昌幸も信幸も信繁も5000くらいまでしか運用してないし

304:人間七七四年
12/07/30 15:42:22.51 HdMWJNXJ
佐久間信盛が自分は寝返るからと言って勝頼を誘いだした

305:人間七七四年
12/07/30 19:41:54.00 29kTAuG/
幸村が5千位で突っ込めば織田勢は瓦解するんじゃね?

306:人間七七四年
12/07/30 21:31:32.33 uIEMxlfh
まだ10代の若武者だから無理だろ

307:人間七七四年
12/07/30 23:45:31.98 GtvUZWKj
主敵を織田か北条か上杉に絞れっての

308:人間七七四年
12/07/30 23:47:42.24 JcTh/gHK
長篠の時は絞ってるだろ?
他をギリギリの押さえだけにして全力投入した結果があれ。

309:人間七七四年
12/07/31 07:51:58.63 w3Zvx5JH
信玄ってすごいよな。
内線、外線がきちんと区分けされている。
今川裏切った時に四面楚歌状態になったが、すぐに外交で切り抜けてるし。
やっぱり信玄って傑物だよ。

310:人間七七四年
12/07/31 07:57:55.70 CXq4Z/PV
信玄はNTTか?
それはさておき、ここは信玄がどうののスレじゃない。
脈絡のないヤツが定期的に沸くな。

>>308
一番敵として認識しやすかったのが織田なんだろうけど、国力差考えると
微妙だよね。
後北条は織田、徳川と近寄っているし、上杉が一番かもしれないけど、地
理的に微妙な気が。
どっち行っても微妙なら、織田にって感じだったのだろうか。


311:人間七七四年
12/07/31 08:09:32.76 26quZrkC
つーか、織田徳川とは外交交渉で状況を打開するのが困難な状況だったからじゃね?
親父のせいで。

312:人間七七四年
12/07/31 14:32:46.32 VlHlw/Ro
しかも秋山が斜め上なことをしでかしたからなあ
織田との関係を修復するのなら最低でも秋山の首を差し出すくらいしなきゃ
でなきゃ信長の怒りは収まらないだろう

313:人間七七四年
12/07/31 15:30:11.59 kzG+9Ben
信玄の負の遺産とずっと言われてるけどさ
信玄時代は浅井・朝倉・長島一向宗と生きてたし活発に活動してたから
そういう意味では言うほど博打的要素でもなかった気がする
問題は勝頼が動き出した時には浅井・朝倉は滅亡してて長島一向宗は救えずに見殺しってのがやはりデカイ

314:人間七七四年
12/07/31 16:11:24.93 79qc3CQd
武田・北条・上杉軍連合軍でも
この時の織田・徳川軍には勝てなかったろうな

315:人間七七四年
12/07/31 16:20:16.23 w3Zvx5JH
>314
あの戦いは武田に無理に織田が引きずり出された戦いと自衛隊戦術教官が言っている。
世間一般では武田が有利と見られていた。

316:人間七七四年
12/07/31 16:58:59.04 kzG+9Ben
>>315
明らかに対徳川の準備しかしてないのに織田が出てきて不利になってるんだがw
しかも織田徳川の設定した戦場におびき出されてるのは武田
その戦術教官って頭おかしいのか?

317:人間七七四年
12/07/31 17:00:20.96 N3sJXsyn
やっぱり信玄はすごいよ。
軍事面はともかく、政治面では勝頼は信玄にははるかに及ばなかった。

ところで勝頼はなんで諏訪原城を攻めなかったんだろう?
いかに劣化した軍隊とはいえ高天神よりずっとランクの下がる城なんだから攻め落とすことも不可能ではないと思うが・・・

>>296
一度に有力武将が大量に死んだのがまずかったよな。
少しずつ世代交代していくならともかく急に世代交代するのはきつい。

318:人間七七四年
12/07/31 17:46:02.06 vfgEQjSV
>>317
諏訪原城は大井川の直ぐ側にあるから、渡河しているところを叩かれると痛い
それに徳川家は占領後は誠意、増築を行なっている
最近の研究だと今ある諏訪原城の縄張は大半が徳川家に拠るものとのこと

319:人間七七四年
12/07/31 20:41:17.65 w3Zvx5JH
>しかも織田徳川の設定した戦場におびき出されてるのは武田
そこにおびきだされてしまう状況を作り出された時点で詰んだ。
それまでは武田優位と見られている。

320:人間七七四年
12/08/01 01:04:35.65 rPhg7wDE
馬防柵が完成する前に決戦していたらどうなっただろうか?

321:人間七七四年
12/08/01 01:17:55.05 GM3zqmIQ
雨降ってる間に襲撃とよく言われるけどそうなるともし負け戦になった時に退却に失敗しそう
一応小川程度とはいえ川あるしな

322:人間七七四年
12/08/01 01:54:51.98 W3QzNwDo
そもそも野戦築城の発想がこんな戦国後期まで出て来なかったっていうのが不思議で仕方がない
あちこちに砦作ってやれ馬出しだやれ枡形だと創意工夫してきた戦闘民族なのに

323:人間七七四年
12/08/01 03:05:59.15 MCSXGc2P
野戦築城しまくった結果あちこちに砦があるんじゃないのかね

324:人間七七四年
12/08/01 08:05:40.37 bysOVwGS
確か当時は村数より、砦、城数の方が多かったはず。
ただ、村単位とかの小規模なものなので、戦国後期の大規模になった戦には
むかなくなったんだろうね。
日本の場合、この辺がポイントではないかと。

>>319
当時は武田優位と見られていたんだろうけど、後世の自分たちが見ると、織田
が出て来たのに、合戦しようとした時点で詰みなのがわかるよね。
ただ、士気と言うものを考えると、徳川はともかく、織田勢には圧倒的に武田
の方が有利だったと思う。
その結果信長が考えた策が馬防柵であり、防御姿勢になったのかも。

>>320
これは自分も思う。
というか、織田が出て来た時点で何かしら行動しなければいけなかったの
ではないかと思う。
織田の兵数が把握しきれていなかったのかなぁ。

325:人間七七四年
12/08/01 09:01:54.23 e6myOOab
>>310
>>国力差
ププッwゲーム脳乙w
政治行政・実質支配力・軍事組織改革など
すべての面でクソで遅れている織田の現実を無視して
ゲームみたいに城を落したら一円が
織田カラーにでも染まるとでも思ってんのかw
>>316
>>対徳川の準備しかしてない
はいはいデタラメ乙
武田軍は信長が刀を奉納したり戦勝祈願をするほど信仰していた熱田神宮まで
フルボッコして挑発したので、やむなく織田軍は翌日に出陣せざるおえないほど
メンツを潰されてるのに、織田との戦闘を想定してないわけないだろ。
長篠の闘い前日も織田は手段もなく追い詰められてるから一気に決着をつけると
勝頼は書状まで出して意気揚々なんだから。
>>318
そもそも諏訪原城自体が武田が作ったか怪しいシロモノで
しかもいつ出来たもんかもわからん。
該当時期に存在していない可能性も充分にある。
あったと仮定したとしても駿河方面から田中城→高天神城への連結があるので
諏訪原城自体もさほど重要とも思えないし、高天神から掛川城への心理的圧迫は重要。
信濃・甲斐・駿河への侵攻企図をさせない上で高天神城の進出位置は徳川釘付けに必須。
>>320
馬防柵は一次史料を見る限り徳川軍が作っていただけ。
野戦で大敗した織田軍が馬防柵のある家康陣へ逃げ込んだに過ぎない。

326:人間七七四年
12/08/01 10:28:10.19 r7sAUuAV
武田有利というが勝頼の書状に「今回の戦を危ぶむ者もいる」と書いてるくらいなんだから
少なくとも兵力差は理解してたんだろう

327:人間七七四年
12/08/01 11:07:07.42 60jHFT+3
徳川軍の数倍の規模のある織田軍が徳川の陣地に逃げ込んだら戦闘どころじゃねーよw
さすがアスペルガーだがは信長の野望感覚でしか話せないだけはあるw

328:人間七七四年
12/08/01 11:09:55.46 mr0WNXUn
勝頼が嫌がる織田を無理に引きずり出したのだが、最後に誤ってフルぼっこされたというのが長篠の戦いの現実。


329:人間七七四年
12/08/01 11:13:56.24 60jHFT+3
勝頼はおろか信玄すら織田と直接対決したくないのがみえみえだけどなw
秋山が岩村城を落とした時点で(これに関しては年次が諸説あるが)、織田信長のいる岐阜城への道へは開けている。
本当に武田が打倒織田を真剣に考えていたのなら、美濃から一気に信長本拠に迫ればいい話w

ちんたら徳川を攻めていた時点で時間稼ぎして少しでも領地を増やしたいと考えが透けて見えるw
まあ武田勝頼は親父に比べて織田への恐れはなかったが、なかったがゆえに道を誤って滅ぼしたというのは皮肉。

330:人間七七四年
12/08/01 11:15:20.04 PJkPpfht
武田軍が致命傷で済んだのは勝頼討ち取った場合
謙信の信濃進出を懸念した信長様の卓越した計算のお陰です

331:人間七七四年
12/08/01 11:22:01.91 e6myOOab
>>326
はやくそれの日付と誰から誰に宛てた書状が教えろよ。


332:人間七七四年
12/08/01 11:53:38.65 e6myOOab
>>327
織田が馬防柵を作っていたとする一次史料はまだなの?

333:人間七七四年
12/08/01 11:55:45.19 60jHFT+3
>>332
馬防柵のあるなしなんて一言も言ってねーよアスペw
俺が言ってるのは「馬防柵があろうがなかろうが、武田は織田にけちょんけちょんにされた雑魚」ってことだw

大体徳川だけが馬防柵築いている中に織田軍が入れるわけねーだろw
そんなことしたら織田徳川が入り乱れて戦争どころじゃなくなるわw


334:人間七七四年
12/08/01 12:01:15.15 e6myOOab
織田が野戦で大敗してるのは長篠日記を見れば明らか。


335:人間七七四年
12/08/01 12:04:05.17 60jHFT+3
野戦で敗退しているのに武田勝頼が退却するのかwww

336:人間七七四年
12/08/01 12:27:31.61 az50NUaT
織田はその後ピンピンして領土拡張しまくりなのに
武田は岩村、高天神見殺しで何も出来ないまま僅か7年足らずで無様に滅亡www
史実を捻じ曲げてまでボロ負け雑魚軍団が常勝戦国最強軍団に一矢報いたと吹聴
したい気持ちは分かるけどな

337:人間七七四年
12/08/01 12:45:21.40 bysOVwGS
取りあえず、煽り合いはやめようや。スレの品質が落ちる。
基本的に>>327の言っている事は主観過ぎていて信用でいないかな。
徳川が作った一時資料とはどれの事かな?
まあ、作ったとしても、それは織田の指示かもしれないし、どっちが作ろうが
馬防柵があった事には変わりがないので、どうでも良い事。
>>333は口が悪いが言っている事はまともだと思う。
2倍近い織田軍が逃げ込めるほどの馬防柵なら、既に防御の体をなしていないの
では。
そして、そんな体たらくの連合軍に負けたのか、武田軍は?
個人的にはそんな事はないと思っている、武田は強いよ。
それに逃げ込んだとする一時資料は?
一時資料と言う言葉が好きみたいだから、逆にその資料先を提示しめみてくれ。

338:人間七七四年
12/08/01 12:52:51.95 e6myOOab
5/19付け家康→石川・鳥居宛書状で
家康が先刻申し含めた場所の様子を見積もり入念に柵を作るように指示を出してる。
長篠日記でも武田軍が開戦初頭から織田勢を圧倒してる。

339:人間七七四年
12/08/01 13:03:35.37 60jHFT+3
そもそも本当に織田がヤバかったのなら徳川なんざ見捨てて逃げるのが筋
所詮武田が勝っても取られるのは徳川領なんだからそれこそ徳川を捨石なり殿にして自ら逃亡すればいいだけ。

自国内ならまだしも出先の徳川領で「マズくなったから徳川陣に逃げた」なんてのは妄想以外では絶対に起きない。
そんなことをすれば桶狭間の今川義元のように討ち取られに行くようなものだからなw

340:人間七七四年
12/08/01 13:07:50.13 e6myOOab
織田が家康の作った柵の中へ逃げ込んで籠城戦を開始。
武田軍が長期対陣の愚を悟り撤退。
武田軍が朝倉軍の刀根坂の戦いと同様に
撤退戦に失敗し殿が崩壊したと言うのが現実だろう。


341:人間七七四年
12/08/01 13:10:49.55 ka4XbXU0
>>336
歴史の歪曲が酷過ぎるから問題なんだよ
良い子が見て信じたらまずいだろ
そういう妄言は訂正していかないとダメ
それが大人の使命です

342:人間七七四年
12/08/01 13:11:28.80 60jHFT+3
兵糧もないのに織田が籠城戦するんでつかwwww
徳川軍が自分のためだけに馬防柵立てたのに織田軍が安々と入れるような
柵しか立てなかったんですかwwwザル守備にもほどがありますねwwww

そもそも当初の目的である長篠城の攻略はどうしたんですかね?www


343:人間七七四年
12/08/01 13:50:17.45 lp4LWnGk
織田に兵糧がないのを武田は知りようが無いだろ。
知っていたとする史料あんの?
つか武田6000に
織田徳川3万だから、
その数で堂々と敵前撤退する勝頼って、
いくら織田徳川に連戦連勝してたからってナメすぎだろ。
明智城や高天神城攻略で、
信長がビビりまくり後詰めに二の足を踏む状態だったから、
わざと長篠城を落とさず待ってたりと、
やることがふてぶてしくなり過ぎて、
信玄のような繊細さを欠いた。

344:人間七七四年
12/08/01 14:04:57.68 JjqxFHNF
流石武田厨は捏造マンセー大好きだな
内藤山県馬場といった面々が消えたというのに織田方はロクに撃ち取られず
それで武田の勝利?w随分武田の勝利は控え目だなwww

345:人間七七四年
12/08/01 14:54:49.56 7hhPJ59L
前にも指摘されているが相変わらずだがは矛盾だらけ(なぜか第三者のくせに内情に精通、全兵力の二割も死者を出したのに崩壊しない織田徳川軍など)の長篠日記が根拠ってのがなあ
実態は信長公記にあるように武田軍は全くいいところなくフルボッコにされ完敗で織田徳川軍の損害はほとんどなしだよ
もしも大損害を被っていたのならその後の軍事行動(越前、岩村城、駿河に侵攻)と矛盾する
一朝一夕に兵力を回復するなんて出来るわけないからね

346:人間七七四年
12/08/01 15:07:20.52 60jHFT+3
そもそも長篠日記そのものがお粗末史料で
武田を中心に研究している学者ですらNoというような俗書。
あの甲陽軍鑑以下の扱いであり、天正六年成立というのは嘘っぱちであるというのが通説。
高柳光寿、太向義明氏を始め、ほとんどの学者は江戸近世の作であると断定。



347:人間七七四年
12/08/01 15:46:01.43 bysOVwGS
>>338
指示を出しているという書状であって、全て徳川が作ったという証拠には
ならないよね、それ。
それと、前述したけど武田軍は強いでしょ。
押されてて当然と思うけど、総崩れだとか、徳川の陣に逃げ込んだのとは
違うよね。

>>341
どんどん信憑せいがなくなっていっているが・・・、大丈夫か?


348:人間七七四年
12/08/01 16:43:58.72 /qWTNRwE
なんか織田が野戦で負けて馬防柵に逃げ込んだところに武田が突っ込んで撃破されたのなら
それは釣り野伏せじゃないけどまんまと設楽が原に釣り出されたってことじゃないの?
本当に野戦で織田が敗走したのなら設楽が原で踏みとどまるのはちょっとありえない
織田としてはもう徳川のために義務は果たしてるわけだし

349:人間七七四年
12/08/01 16:54:35.95 lp4LWnGk
太向氏は甲陽軍鑑や信長記と戦闘経過の記述が似ているから、
長篠日記が近世中期以降整理ではないかと妄想してるだけで、
根拠なんて一切提示してない。
そもそも自然に考えれば、
天正6年成立の長篠日記をパクって甲陽軍鑑や信長記の長篠の戦いが書かれたとするのが妥当なのに、
信長記は絶対に正しいみたいな視点から判断しててアホ丸出し。
しかも15年以上前の旧世紀の貧困な発言。
高柳氏はどの論文でそんなことを書いてるんだ?管見の限り見当たらない。
本多家武功聞書にも馬塞ぎの柵の発案を本多百助って書いてるから、
徳川方が柵を造っていたのは間違いない。
織田が柵を造っていた史料など皆無。

350:人間七七四年
12/08/01 17:35:53.90 T5bC2o+s
つまり柵すら作ってない織田にやられたのか武田は

351:人間七七四年
12/08/01 17:57:35.84 7hhPJ59L
>>349
常識的にありえんことが書いてあるからダメなんだよ、だが君

352:人間七七四年
12/08/01 17:57:55.46 zZuKPkZU
策が無いのは武田のほうでしたっと

353:人間七七四年
12/08/01 18:26:12.98 60jHFT+3
>>349
そもそも高柳氏が長篠研究を取りかかったのは長篠の戦いを精査するためなんだが・・・
早い話長篠日記などが絶対的な史実だというのなら氏は長篠合戦の研究なんてしてないわけで
これはきっちり氏の著書読んでればわかる話なんだがw

そもそも柵の有無にやけにこだわっているようだが柵の有無なんてぶっちゃけ大した意味はない。
柵の中から鉄砲でバンバン撃たれて武田が死んだなんてのは講談の世界だけで、
織田が馬防柵をしいていたかどうかなんて早い話どっちともとれる。

あるのは武田が織田に長篠でボコボコにされたという事実だけ

354:人間七七四年
12/08/01 18:49:14.64 lp4LWnGk
>>363
だから、高柳氏がお前が書いたような内容を書いている論文を教えろと言っている。
誤魔化してんじゃねーよ。
どうせネットで拾ってきた内容に、
お前の妄想を付け足してレスしただけだろうけどw


355:人間七七四年
12/08/01 18:51:28.95 lp4LWnGk
訂正
>>363ではなく>>353>>346

356:人間七七四年
12/08/01 19:40:49.51 e6myOOab
むしろ追い詰められていたのは織田なんだよな。
勝頼も織田は手段を失い困っているから
一戦してやると長篠の戦い前日に書状に書いてるし
野戦で織田を撃破してるからな。
籠城する織田の相手をするのもアホらしいから
撤退したところを義景みたいに追撃されて殿が崩壊し
高柳氏が言うように武田軍6000のうち、
多聞院日記における1000人が討ち取られたってことなんだよね。
織田チョンが長篠決戦前日夜に鳶ヶ巣山砦が落とされて背後を取られたから
無理な決戦を強いられた挙句に撤退に追い込まれたとかデタラメ捏造を吐くのも見受けられるが
そもそもそこ落とされても背後は取れないし、
さらに渡河の危険を晒さないと武田軍の側面を取れない。
それどころか鳶ヶ巣山砦攻撃が開始されたのは長篠の戦いが開始された午前6時から2時間も遅れた8時になってからで、
まったく認識が誤っている無知ぶりでまったく話にならない。

357:人間七七四年
12/08/01 19:44:59.18 e6myOOab
織田は野戦の大敗がたたって25000のうち6000討死だもんな。
徳川の馬防柵収用キャパ限界を超えて
陣城逃げ込み拒否られて放置傍観された織田兵はほぼ全滅したんだろうな。

358:人間七七四年
12/08/01 20:06:01.37 zZuKPkZU
>>357
>>332
早く柵つくってたソースだせよ

359:人間七七四年
12/08/01 21:01:34.51 mr0WNXUn
嫌がる織田を無理やり長篠に引きずり出したのが武田。
もちろん武田が優位に進めていたが、最後にポカやって大惨敗。
最初から織田優位とかは違うからそれだけは知っておこう。


360:人間七七四年
12/08/01 22:21:37.47 rPhg7wDE
長篠の戦いについて、武田側は
・即時撤退
・川を利用した防御戦
・長篠城を強引に攻め落とす
・どうしてもと言うなら馬防柵が完成する前

この4つのどれかにするべきだったな。

361:人間七七四年
12/08/02 00:06:53.00 JnyG1NXo
>>330
致命傷で済んだ? 済んでなくね?

362:人間七七四年
12/08/02 06:44:48.39 3Q7O8lcU
殿は難易度高いからなあ。
一度崩壊したら取り返しできん。
あと戦後の勝った勝った宣伝情報工作も重要。
織田や北条や伊達の得意技。
特に織田は京を抑えてるから
腰抜け公家相手に吹聴しまくり。


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