11/12/14 20:53:21.85 RBpRrwUp
>>772
どうもありがとうございます。
武田一門関連の旗本では、寛政譜によると信玄の弟河窪信実の系統が、
信実の子信俊のとき1610石、後に加増されて最大5710石にまでなっている例もあるので、
信基の石高が高いことだけではなんとも言い難いところもあるのですが、
何の事跡もない仁科信基が、いきなり3100石というのは確かに不自然な気もします。
もっと言えば、信基の系譜はウィキペディアの記載以外ではそもそも事跡が全く分からないのが非常に疑問です。
「仁科信基」の名前自体は、吉川弘文館「戦国人名事典」の仁科盛信の欄に、
「子女に信基…がいるというが確認できない」と記載されているので、何かの史料に載ってはいるのだと思うのですが、
ウィキペディアの妙に詳しい仁科信基の経歴やら系図(「仁科氏」の項目に記載があります)は、
何を出典として書かれているのか、自分が調べた限りでは全くわかりません。
(過去の編集履歴には、信基の子孫は、「明治時代に子爵になり貴族院議員になった」という記載もありましたが、
調べたところ、「仁科」姓の貴族院議員は存在しませんでした。)
履歴を見てみると、仁科信基がらみの新情報は、どうも全部同じ人が編集しているようなので、
この人に聞ければ早いのかもしれませんが…。
スレ違いだったらすみません。
ずいぶん長いこと、疑問に思っていることなので、どなたか「仁科信基」の出典について
ささいなことでもご存知の方がいれば、教えてくださると助かります。