11/12/14 16:38:29.46 RBpRrwUp
>>769
ご回答ありがとうございます。
ただ寛永諸家系図伝に記載がないだけなら、その理解でよいと思うのですが、
1812年完成の「寛政重修諸家譜」にも記載がないことの説明がつかないように思います。
(寛永諸家系図伝にも記載がないことは、ウィキペディアの「仁科盛信」にも記載されています。)
幕末も間近な1800年代以降に「仁科」と名乗りを変えたということがありうるでしょうか。
また自分が調べた限りでは、そもそも幕末時点でも「仁科」なる大身旗本がいたという史料が見当たりません。
こうなるとウィキペディアの「大正時代に叙勲」というのも何を根拠にしているのか…。
しかし、ウィキペディアの信基の記載は、「明治時代に大坂に移住」とまで書かれていて、
根拠もなくこんなことを書くだろうかとも思います。
ちなみに旧武田家家臣の子孫で作られている武田旧恩会の顧問を仁科盛信17世の方が務めていらっしゃいますが、
林姓なので、おそらく上総武田家を頼って落ち延びたとされる仁科信正の後裔だと思われます。
あと1812年成立の甲斐国史にも、仁科盛信の後裔については記載がありません。
実在が怪しいともいわれる、旗本でもなんでもない武田勝頼の三男勝三についても記載している甲斐国史が、
(仁科信基が実在するなら)4100石の大身旗本の系譜について記載しないとは考えがたいのですが…。