武田信玄は過大評価されすぎ!!part2at SENGOKU
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2 - 暇つぶし2ch713:人間七七四年
11/12/20 12:19:54.14 Mvj9vSc3
>>695
信長から細川が後見するよう命じられていた和田を殺した以上
いくら屁理屈を言おうが無駄。
2月26日に荒木が忠誠を誓おうが3/11に荒木や高山らが
細川が世話役してる和田惟長を襲撃してる以上は
面従腹背してるということにしかならない。
しかし信長には松永弟の子の内藤など、義昭に味方しないと思われていた
者まで敵に回り、味方がいないので荒木に罪を問えず逆に贈り物まで贈って繋ぎとめに必死だった。
元亀2年における猪名寺の戦い・白井河原の戦いを通じて伊丹親興・茨木重朝・和田惟政らはすでに衰亡。
代わって池田勝正を追放した荒木や中川ら一味が台頭しており、すでに伊丹城に伊丹氏は在城してない。
この争いの時も信長が浅井・朝倉と必死に戦っていて余裕がない状況で勝手に争っていて
信長はこの争いを後から知ってる始末で摂津荒木・大和松永は完全に面従腹背を繰り返している。
信長の任じた摂津三守護をすべて追放してるのが荒木や中川であり
荒木の謀反においては最前線の高槻城の高山が降伏したことで
その先にある茨木城に織田の圧力が加わり中川も織田に降伏してる。
足利家のためにがんばってくれと記録してるのは尋憲記。
翌年の5月に篠原自遁の兄長房が討たれているってのも反織田の旗頭義昭が
二条城で降伏し、信玄もいつまで経っても来ないと言う情勢の変化に伴い
毛利と本願寺が義昭から手を引き始め、この後に三好自体が信長に降伏する派と
徹底抗戦派に分かれて三好家が内戦に発展することになったから。
>>696
朝倉は無理に織田を攻める必要はなく、織田軍を疲弊減少させる為に高みの見物をしてただけ。
朝倉が破れたのも信玄死後の義昭降伏などの情勢変化によるところが大きく、
その結果、朝倉景鏡の従軍拒否が生まれ、ほとんど軍の指揮をしたことのない
義景の撤退ミスで壊滅に追い込まれただけ。
>>697>>702>>704
14日の夜空は東方に厚い雲が垂れ込め空が赤く染まる様子が見られた程の火山噴火で
雪ことことしきと書いてるのは噴火の粉塵と思われる(晴豊公記)
まもなくこの赤い空は浅間山の噴火で甲斐や信濃の敗北する時に起こる怪異だとされた(多聞院日記)
これらは武田の士気に大きな影響を与えただろうと丸島和洋氏も論評している。
信長公記は3日ごろより織田軍が信濃へ進撃したように書いてるが史料を拾うと
木曽氏は6日に織田へ援軍を要請している。
それに答えた信忠と滝川の出撃は一次史料だと12日に岐阜出撃。
15日に出陣準備中の信長が滝川らが国境を越えたとの注進を得て
滝川に失敗したら2度と俺の面前への参上を許可しないと厳命書状を出してる。
小規模噴火だったら京で気づかれることなどあろうはずもない。


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