武田信玄は過大評価されすぎ!!part2at SENGOKU
武田信玄は過大評価されすぎ!!part2 - 暇つぶし2ch600:人間七七四年
11/12/15 17:22:00.87 dRX6uR2j
>>599
お前みたいな超ド級キチガイはなかなかいないw

601:人間七七四年
11/12/15 18:27:18.43 CA1dsK88
最早煽ることしか出来ない能無ししかいないか
そりゃないもんな、寝返ったって言う確定的な史料

602:人間七七四年
11/12/15 21:41:52.41 V2n1BQ8/
寝返るに違いないという願望でしかない。
武田の武威に恐れて裏切るとか○○は平気で裏切るとか何じゃそりゃ?
妄想も程々にしろよ!

603:人間七七四年
11/12/15 21:48:52.62 Jvu/uBke
誰も裏切らないという超絶ハードモードのifならともかく
あいつが裏切ったならこいつも裏切るとかは勘弁

604:人間七七四年
11/12/15 21:59:40.80 8v28WCLS
>>596
長政の願望を込めた嘘だな
だいたい斎藤利治が裏切ったのならその後に信忠付きの重臣になったこととの整合性が取れない

605:人間七七四年
11/12/15 22:00:01.66 1ZTUKPiF
>>600
他スレで「あきらかに桶狭間の戦いは今川の勝利。」と自信満々に言い切っている時点でオマエが超ド級キチガイに決定!
アスペルガーだがは「嘘も言い続ければ本当になる」とか言っていたけどそれはオマエの脳内だけに限る

606:人間七七四年
11/12/15 22:01:41.24 1ZTUKPiF
アスペルガーだがが嘘を吐いている証拠URL
スレリンク(sengoku板:395番)

607:人間七七四年
11/12/16 03:02:03.03 ibBZFOQd
長政による加治田城の信玄攻略は確かに2月26日の書状にあることはあるが、
信長といえばその同日に近江石山城の山岡光浄院を降伏させて、その3日後に今度は近江今堅田城を攻略させて、
足利義昭に与する連中を成敗し志賀郡の過半を収めていることが信長公記巻六にあり、

しかもここから武田は一切出てくることなく、兼見卿記、細川家文書、信長公記いずれも
足利義昭との交渉を経て織田信長による京侵攻が開始されることが明記されている。

仮に武田が長政の言うとおり加治田城やつぼ城を落とせていれば、信長は足利攻めをしている場合ではなく、
信玄が死んで武田軍が撤退した後、加治田城側が抵抗するなり、信長に許しを請うなりして何かしらの事績が文書や記録に残るはずなのだがそれもない。

完全に戦意高揚を見込んだ長政の大本営発表であるといえよう。

608:人間七七四年
11/12/16 09:01:14.72 B9JayfXy
まただがの嘘が判明したかw

609:人間七七四年
11/12/16 09:33:57.82 f/uv5BwD
信長が足利攻めをしてる暇はない

そのとおりだ。だから信長は義昭に和睦を少なくとも2/23以前から申し出て信玄に対応しようとしてた。
和睦交渉は義昭の時間稼ぎに過ぎず、
其の間に3/6松永と三好を味方に付け、
7日に信長からの実子の人質すらいらねーよと断交。
さらに3/23安芸に滞在中の京都聖護院門跡道澄に小早川と浦上に出兵命令を出してる。
信玄が野田表から撤退したのを知り、
信長はやっと上洛するのが3/29だがたった1万しか集まらなかった。
義昭は二条城にいれば勝てると踏んで
京都奉行村井貞勝屋敷を包囲し貞勝が敗走し、
義昭が信長を挑発。
信長は自分と信忠がハゲ頭になり義昭様に和睦交渉の謁見したいと哀願。
切羽詰まった信長が自暴自棄で京都で残虐性を剥き出しにして本性を晒して放火虐殺略奪恐喝を始めたのが4/2
信長は義昭に勝てず武田への対応も不可能で絶望的だったのが事実。

610:人間七七四年
11/12/16 09:52:06.88 B9JayfXy
武田の対応って言っても尾張にすらきてない武田に何を対応しろと
結局家康すら滅ぼせずすごすご逃げ帰る武田w

611:人間七七四年
11/12/16 10:13:21.21 f/uv5BwD
信長公記は信長に不利になることは一切書かれてない。
つまり武田の動きが書かれてないのも書けないから。
ちなみに岩村城を元亀3年9月に小里氏の協力を得て織田信広と川尻を派遣し、
信長五男御坊丸を遠山に養子に入れて城主にしたことで信玄は怒っていた。
それで11月には岩村城が武田に取り返され、
11/9にはその戦功として
信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。
信長は(恵那市中野)安弘見に領地を持つ延友佐渡に替え地を土岐郡釜戸に扶助したのが11/15、
加茂郡安弘見郷(白川町)の赤沢右近の代替地に各務郡蘇原郷を扶助してる。
あきらかに武田方が11月中にはすでに、
加茂郡や恵那市周辺まで進出しており、
信長が必死に裏切らないように領地を宛がって離反を食い止めようとしてる。
そこに三方ヶ原の織田徳川大敗の敗報がやってきたわけだ。
東美濃や北美濃の動揺は防ぎようがない。

612:人間七七四年
11/12/16 11:33:39.56 f/uv5BwD
ちなみに苗木城主遠山直廉の娘は高遠城主武田勝頼と永禄9年に12歳前後で婚姻していて、
勝頼後継者の信勝を産んだが死んでしまった。
信玄が元亀3年に絵馬と鍋山らの呼応を得て
木曾勢による飛騨攻めした際に直廉も参加し、その時の矢傷を受けたのがもとで亡くなった。
7/7に信玄は岩村城の景任と苗木城の直廉宛に小里を時期を見計らって成敗するように言っており
苗木城も武田方だった。
だから後年に勝頼の明知城攻めの時も妻の実家の苗木城だけ攻められなかった。


613:人間七七四年
11/12/16 14:00:00.92 I0Z9jJiQ
苗木城も武田方だったんだろうね。
どう考えても織田が岩村城を奪回して
秋山を討つまでは
苗木城が織田方として持ちこたえて
いられるわけがない。
信勝に弓を引くとか考え難い。

614:人間七七四年
11/12/16 17:11:19.20 HXO6JtCk
松永久秀の元から土岐頼芸(妻は六角義賢姉妹)も美濃に帰国したから
武田軍が来たら土岐郡も反織田で呼応挙兵するのは間違いないよ。
郡上八幡の遠藤に岐阜にほど近い鉈尾城の修築をさせてるぜって
義景に信玄が11/19に手紙出してるし
(信長を敵として戦ってるとも書いてる)
10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや
早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。
12/12には岩村に兵を移動させたから来春は美濃攻めるよと宣言し、
12/22に三方ヶ原で織田徳川連合軍を大敗させ
12/28には義景に信長滅亡の時がやってきたと信玄は書いてるし、
1/11には義昭に信長を絶対に許してはならないと信玄は決断を促してる。
完全に信玄が情勢を操ってる。

615:人間七七四年
11/12/16 18:07:46.17 MFaPxQMv
アスペルガーだが
上洛スレ64事件
URLリンク(www26.atwiki.jp)

616:人間七七四年
11/12/16 20:09:30.01 80h6xAZC
>>614
で、ちんたらしてたらチン毛ン公は死んじゃいましたとさw

617:人間七七四年
11/12/17 04:55:54.46 MKXh0hgA
>>609
息をするように嘘を吐くだが

>>義昭が信長を挑発。
>>信長は自分と信忠がハゲ頭になり義昭様に和睦交渉の謁見したいと哀願。
>>切羽詰まった信長が自暴自棄で京都で残虐性を剥き出しにして本性を晒して放火虐殺略奪恐喝を始めたのが4/2

足利義昭と織田信長の交渉は全て島田秀満を介して行われていることが兼見卿記に書かれている、朝廷も同上。
この間信長は細川藤孝を通じて畿内の情勢を把握、29日に義昭攻撃のために京に行く。
結局この間も島田秀満が交渉を行うが、あまりに義昭が応じないためキレて放火。
自分のところまで焼かれるのではと危機感を抱いた正親町が二条晴良を通じて和議の詮索に走っただけ。


>>10/3に甲府を出撃し信長と開戦するや早くも完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。
ソースは?

ついでに言うと
>>信玄が山村七郎右衞門に美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を出してる。

これ、山村七郎右衛門良候が飛騨の三木自綱を牽制、攻撃したことを受けて信玄が感状を出したもので、
当たり前だけど岩村城や織田氏との相関関係はゼロだからw

618:人間七七四年
11/12/17 04:56:47.97 MKXh0hgA
あ、後半部分の山村の話は>>611

619:人間七七四年
11/12/17 05:05:23.82 MKXh0hgA
ちなみに位置関係も疎かなだがさんに教えておくと、岩村城というのは現在の岐阜県恵那市にあたり
端的に言うと美濃の一番東端にあたる。勝頼が攻めた明知城もまた同じ。
こんなド辺境の、それも元々武田織田間をいったりきたりしていた連中を落としたくらいで
東美濃北美濃すべてが武田になびくと考えるだがさんの超武田至上主義には恐れ入る

620:人間七七四年
11/12/17 09:21:23.14 ffSR/Fol
>>617
無知乙w
義昭が村井屋敷を包囲して先制攻撃したのは御湯殿上日記にあるし、
信長親子が頭を剃り、武器も持たずに謁見して和睦したいとするのはフロイス書簡にある。
お前こそデタラメ吐くんじゃねーよw
細川に信長はお前も人質に出せって義昭が言ってるんだぜ!とか喚いたり愚痴りまくってるだけじゃんw
上洛した時は荒木と細川しか味方に参加するやつがいなくて、
信長は細川に贈り物まで贈って大喜びして関心を買う
普段は横柄なのに困った時だけ媚びる卑しさを露呈。
美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだがw
お前は信長に都合悪い話はぜんぶ認めないキチガイなのは明白なんだがw

621:人間七七四年
11/12/17 09:35:45.63 ffSR/Fol
もともと東美濃が織田に降伏した理由は単に経済的困窮でしかない。
しかも信長に従ってからまだ5年しか経過してないし、
美濃国衆は土岐→道三→義竜→信長と主を次々変更しまくり。
しかも竹中ら西美濃衆が稲葉山を半年占拠するも失敗。
幼君斎藤義興は敢闘したけど不景気で厳しかったみたいだな。

森田善明が信長が美濃を制圧できた理由を
美濃が不景気と飢餓で戦わずに信長に降伏したものばかりだったからだと主張してる。
西美濃攻略を諦めて、東美濃攻略に変更した信長は
内通で加治田城・黒田城
織田と戦わず降伏が小口城・鵜沼城・猿啄城
城内で内通が出て開城が犬山城
と無傷で苦労せず6城を手に入れているのは
東美濃の国人達が経済的に没落していて
戦いたくても戦えない、農民が他所へ逃げている欠落と
農地が荒廃していた退転状態だった美濃の国情ゆえに
武士階級も収入が無かったと主張してる。
その点、父の代から裕福な信長の尾張なら楽だったろうし
近江との街道収入のある西美濃は豊かであったろう。
そして豊かな西美濃衆が稲葉山城奪取占拠をやったりして
斉藤家は落ちぶれてしまったから
かんたんに信長は美濃を手にいれたとすれば実に納得できる。

622:人間七七四年
11/12/17 09:57:55.69 ffSR/Fol
東美濃や北美濃経由で信玄は浅井や朝倉と自由に使者の往来が出来ていて三方ヶ原の戦いもバッチリ伝わっている。
美濃は岐阜市内すら一向宗の拠点があり岐阜ですら安全ではあり得無い。


また信長の長島攻撃には美濃真宗門徒が一揆を組織し参加している。
元亀三年7/13に信長は専福寺に対して大坂にいる門徒たちを引き払わせるように命じてる。
本願寺の下間頼龍も濃州坊主衆宛に専福寺の忍悟が戦死したので跡目を忍勝に認めている。
また天正四年に安八郡長久寺が本願寺から感謝されていたり
河野門徒が濃尾門徒を指揮して石山にいたり
教徳寺の六代賢正が石山や加賀に出陣するなど
美濃本願寺教団の兵糧輸送やら出陣やらの断片的記録が遺る。
美濃国中支配者51人の僧を本願寺護持に任命している。
岐阜市内では末寺や門徒の力に応じて上中下と序列している。
川之方 上
専勝寺 上
浄土寺 中
上宮寺 下
教徳寺 中下
勅命二度目で教如もさすがに断念し信長と和睦したが美濃の一向一揆衆の戦力は非常に大きく
信玄本隊の美濃進軍は彼らの一斉蜂起により
信長は致命的ダメージを受けて壊滅するだろう。


623:人間七七四年
11/12/17 10:10:55.78 MKXh0hgA
>>620
>>美濃千檀林と茄子河領300貫加増の書状を岩村城攻め感状だと横山住雄氏が指摘してるわけだが
とりあえずここソースよこせよ

ついでに言っておこう、武田軍による岩村城攻略は10月1日、あるいは11月14日と史料によって分かれているが
少なくとも山村良候が感状を貰ったのが11月9日、その前の10月9日にも感状を貰っている。
これが岩村攻略の功だったとするのはかなり無謀、そもそも11月14日落城ならそもそも貰ってないことになる。
無論、山村良候が岩村城に攻めたという記録もない。

付け加えると、山村良候が領地を貰った感状だが、これよりさらに前の8月26日に信玄から山村宛に
飛騨での三木氏に対する調略、軍事行動に対して美濃の一郡を与えるという感状を貰っていることが木曽考にある。


そもそも先ほども言ったが岩村城、明知城なんていうのは美濃の東端、それもつい最近まで武田の領土であったようなところ。
そんなところを落としたくらいで
>>完全に岐阜城を射程圏内に収めてる。  東美濃北美濃は武田になびく

根拠を言えよw

624:人間七七四年
11/12/17 10:13:49.71 ffSR/Fol
信玄と伊勢長島一揆も呼応可能だし。
ちなみに連絡斡旋してる主軸は
郡上八幡城。
長政が遠藤に三河や遠江での信玄の情報を聞いてて、
甲州からの使者が届いたと11/15付けで感謝してるし、
信玄も遠藤に江北にいる越前陣までの通路の保障を11/19付けで出してる。
また越中勝興寺にも長政は天正元年2/26に書状を出してたりする。
長政には湖北十ヶ寺一揆が味方してるから
書状も補給も可能だったし、
永禄3年8/3長政→島秀安で
伊勢長島一揆軍が北上し
今須(関ヶ原)と柏原口(米原)の隘路を封鎖し
不破口から美濃を突く作戦について触れている書状があり、
9/5にも島に信玄出馬と大君畑(多賀町)への伊勢長島一揆軍の侵攻の話を書いてたり、
天正元年6月にも伊勢長島一揆軍は濃尾国境を襲ってる。
基本的に武田や越中勝興寺だけでなく南方の石山本願寺や
伊勢長島一揆にも書状交換を普通にやってる。
信玄が美濃へ進軍したら当然、
伊勢長島一揆軍も美濃を突くのは間違いない。
明らかに小谷城を押さえる秀吉軍の慢性的兵力不足が原因だろうね。


625:人間七七四年
11/12/17 10:20:18.20 MKXh0hgA
>>622
おまえさ、まさかとは思うけど、
一向宗の全ての寺が石山本願寺によって統御されていて、全部反信長に結びつく、なんていう
まるでゲームのようなおバカな考え方はもってあいよな?w

わかりやすく言ってやると、越前や加賀の一向一揆は石山の本願寺とは別系統の一向宗だから普通に対立している。

で、おまえは信長が経済力を駆使しして美濃を取ったと
>>622で言っているが、経済力頼りなら信玄みたいな極貧勢力に与する理由なんざないよな?w
まさかそこは「信玄公の威に屈した」とかアホなこと言う気か?w



626:人間七七四年
11/12/17 10:31:14.76 bTX/X0fJ
しみじみスレタイを見たらパート2なんだなw
煽り合いで1000潰して更に続きかw

武田信玄は誰かに殺されて死んだわけじゃないことになってる。
だから、天下統一の可能性は決して無いわけじゃない。
それだけのことだろ?

武田信玄が信長を倒してたら、もう少し戦国時代は伸びただろうし
そうすりゃ伊達や島津が中央まで突っ込める目も出る。
夢のある話だ

627:人間七七四年
11/12/17 10:42:03.09 ffSR/Fol
木曽考にでてる美濃の一郡なんてバカでかい話を信じないよな?
8/7山村三郎九郎宛て三木攻め感状における内容を見ても加増なんて話は出てこない。
岩村城の攻防は激しく感状を出した後に再奪回されたりしてる。
11/15に信長が岩村城を取ったと聞いたから
私も出陣する。川尻と信広から聞いてくれと小里に書状を出してる。
しかしその日付以前に再び武田が岩村城を奪回して
11/9に山村らに感状を出してる。
これにより岩村城の武田所属が確定し、
信玄も岩村城に兵を移動させたから来春は美濃攻めると書いてる。
岩村城は11/14よりもう少し早く開城してるだろう。
その報告を信長が得て11/12に赤沢、11/15延友に急いで替地をあてがう書状を出して動揺を押さえようとしてる。
岩村城攻防では武田所属を確定させた軍事的結果を出した川尻と信広もやってきての
上村合戦みたいなものがあった可能性も高い。

628:人間七七四年
11/12/17 10:46:30.51 MKXh0hgA
史料もいいが知恵と知識が根本的に足りてないな


越中一向一揆の連中と連絡を取り合っていたというがそいつらは山越えてまで織田を攻撃するのか?
ただえさえ上杉謙信が出張っている時期なのによw

島秀安の作戦に至っては結局失敗して浅井は余計にジリ貧という始末
信長はおろか一隊の羽柴秀吉にくぎ付けにされるという悲しさ。

629:人間七七四年
11/12/17 10:54:15.26 ffSR/Fol
>>625
細部での利害不一致はあっても対立はしてない。
北陸から石山へ兵や米が送られたり、
顕如が信玄に北陸一向宗を助けるために越中にも兵を派遣してなどと要請してる。
信玄と顕如は妻が姉妹ということもあり
顕如から北陸一向宗に信玄のために謙信攻撃依頼してたりと融通してるし、
その一方で信玄は比叡山から大僧正に任じられ、
甲斐に比叡山を復興したいと願い、
美濃でもっとも広まっていた妙心寺派の快川和尚
(別伝の乱において美濃諸寺20人を出奔させ対立し、義竜を憤死させたとも言われる)
を甲斐に招聘している。

630:人間七七四年
11/12/17 10:54:30.65 MKXh0hgA
でさ、結局岩村城のような行ったり来たり繰り返してる連中が武田に下ったとして
東美濃や北美濃が武田になびいて、岐阜城を射程圏内にとらえ、織田を滅ぼせるというソースはどこよ?


631:人間七七四年
11/12/17 10:58:16.27 ffSR/Fol
>>630
読めばわかるだろw
完全に信長は詰んでるわな。
織田軍は金も米も火薬もない貧乏1万の軍。
朝倉軍先鋒もすでに近江入りしてるしw

632:人間七七四年
11/12/17 11:00:40.08 MKXh0hgA
>>629
その利害不一致が対立なんですけども
利害が一致してるところじゃ、本願寺に従ったりしてるだけで
実際信長と直接関係のないところじゃ本願寺中央の勢力と在地の勢力争いだって結構起きてるじゃん

633:人間七七四年
11/12/17 11:01:51.07 MKXh0hgA
>>631
その1万のソースはどこ?
1万しかいなかったら浅井朝倉すら抑えられるか怪しいんすけど
まさかゲームみたいな1人で何百人も倒せるような兵ばかり?それなら1万でええけどな

634:人間七七四年
11/12/17 11:50:46.25 bTX/X0fJ
>>133
もし輜重卒をのぞいて実数1万人いたら近江くらい落とせるんじゃね?
人数なんて資料の書き方でどうにでもなるw

635:人間七七四年
11/12/17 12:24:35.75 vBsllqee
>>633
朝倉を抑えられないから志賀の陣で信長が土下座和睦したんだろw
信長は兵力が足らずに朝倉が小谷に来ても一度たりとも
多胡宗右衛門ら高島七頭らに邪魔されて
琵琶西岸を北上して朝倉の退路を断つ動きすら
一切取れなかった。
だからちょっと信長が京に入ったり岐阜へ帰るとすぐ
彼らや六角や一向宗がゲリラ化して
京への通路に砦を築いて背後を脅かす。
織田主力が来たら適当にあしらって退散する疲弊戦術に
泥沼のようにはまり込んで
元亀元年には六角3万に対抗して
3万くらい動員していた織田軍はどんどん減少して
元亀4年には総兵力たった1万(年代記抄節)まで大減少。

636:人間七七四年
11/12/17 12:31:54.78 vBsllqee
>>632
どんな組織でも巨大化すれば摩擦は起きる。
しかし外敵たる仏敵信長には摩擦を超えて一致団結してる。
それに信玄にしたって浄土真宗/臨済宗/天台宗らを
味方につけてるが彼らは別に仲違いしてないぞ。

637:人間七七四年
11/12/17 13:21:34.17 3u+N65DC
発狂してんのってSubだよね?

638:人間七七四年
11/12/17 13:28:00.49 MKXh0hgA
>>635
本当に抑えられなかったらそのまま志賀の和睦なんて無視して攻めればいいじゃん。
なに秀吉相手にどじこばってたの?浅井朝倉はたった1万の相手にすらビビるようなチキンだったの?

それとさ、総兵力1万だけど、この時期の織田って尾張、美濃の一部、伊勢の一部、近江一部が領土じゃん?
単純計算しても1国2500でその計算でいえば領地守備すらできんよ。
京に出陣したのが1万だったんでしょ?信玄がちんたらしているとはいえ死んだなんて断定するには早すぎる。
信長の京入りが3月29日、信玄が撤退したのが4月なんだからまだ決定段階ともいえない。

万が一武田が攻めてきても大丈夫なようにある程度兵を残して義昭攻めたのが真相でしょ。
違うんなら年代記抄節の「総兵力1万」の原文だして。
とても1万の兵しかいない織田相手に朝倉浅井武田がビビったってのは無理ある。

639:人間七七四年
11/12/17 13:29:34.40 MKXh0hgA
>>637
上洛64事件を根に持たなくてもいいのにw
一応違うとだけ言っておく

640:人間七七四年
11/12/17 13:31:25.86 MKXh0hgA
>>636
一致団結しているわりにずいぶんとチグハグな動きをしてますけど
つか一致団結してたら信長負けてたんじゃない?

641:人間七七四年
11/12/17 14:44:06.34 fUy1pWrY
>>638
なに言ってんだ?
野田から信玄が撤退したのを確認してから
やっと信長は上洛してんだよ。
だけど金も米も火薬も足らずに二条城すら落とせず、
しかも信長とともに上洛したのは柴田、明智、丹羽、蜂屋、中川、佐久間、細川、荒木らで
ほぼオールスターだから
横山城の秀吉を除けば大半が集結してたとみていいだろ。
最低限の守備兵力なら武田も朝倉もお互いさま。
軍事決戦に使える手勢とは別だろう。
信長には手持ち兵力が集まらず家康にも3000しか割くことができず
家康が信玄と決戦して兵力を無駄にして欲しくなかった。

642:人間七七四年
11/12/17 16:11:53.92 fUy1pWrY
>>638
なに言ってんだ?
野田から信玄が撤退したのを確認してから
やっと信長は上洛してんだよ。
だけど金も米も火薬も足らずに二条城すら落とせず、
しかも信長とともに上洛したのは柴田、明智、丹羽、蜂屋、中川、佐久間、細川、荒木らで
ほぼオールスターだから
横山城の秀吉を除けば大半が集結してたとみていいだろ。
最低限の守備兵力なら武田も朝倉もお互いさま。
軍事決戦に使える手勢とは別だろう。
信長には手持ち兵力が集まらず家康にも3000しか割くことができず
家康が信玄と決戦して兵力を無駄にして欲しくなかった。

643:人間七七四年
11/12/17 17:14:57.47 DAzp8DHl
何?間違い探し?

644:人間七七四年
11/12/17 18:13:56.85 fUy1pWrY
>>635
やっぱり柴田、蜂屋、森、坂井の4将のうち
2人まで朝倉に討ち取られてるから
かなりの戦力ガタ落ちになってんだろうな。

645:人間七七四年
11/12/17 18:38:21.50 MKXh0hgA
>>641
野田から撤退ってどうやったらわかるの、現に野田城は落ちてるんだから。
信長にとっては野田城が落ちた、武田軍が方向を変えた、これくらいしかわからない。
あとマジで総兵力1万のソースどこよ。年代記抄節にそんな記述あったか?

646:人間七七四年
11/12/17 18:41:12.11 MKXh0hgA
失念しているのはすまんがな、そこを原文で出してほしい

647:人間七七四年
11/12/17 18:45:10.51 j2Zr/rvH
>>644
ということで、それだけ厳しい状況から巻き返した信長はスゴイって言いたいんだよな?

648:人間七七四年
11/12/17 19:14:34.32 fUy1pWrY
>>646
失念もなにもお前は質問ばっかで何も知らんし、
過去レスすら全く読もうとしてない素人だろ…
2/23に信長は信玄が野田表から撤収したから
上洛して畿内平定するって細川に書状出してるのは
過去にさんざん書かれてる内容だし、
その後に武田が津保城や加治田城を手に入れたとする長政書状を裏付けるように
信長は上洛出来なくなり、
2/29には何としてでも信長は和睦したくて、
信長が人質を出すことで義昭と和睦出来そうだと喜ぶが、
3/6に義昭が信長の人質を返却して強気になる。
その後も和睦を信長は試みるもダメ。
3/11には荒木や高山らが細川が世話役してる和田惟長を襲撃してるのが京にも届き完全に信長の意向を無視。
結局、3/18になり信長が岐阜を出て上洛する。
3/29に信長は京で細川と荒木に会って大喜びして贈り物し、
荒木が和田を襲った話を詰問すらしない。
4/6に横山城への援軍がいらなくなったと家康の使者小栗に言ってるから、
この時点より前に家康には援軍出すように命令してんだろ。
あと年代記は過去スレから探すの面倒だから
吉川弘文館の足利義昭を買って読めばたしか書いてあるはず。

649:人間七七四年
11/12/17 20:16:20.65 MKXh0hgA
>>648
人の事いえるかよwww

>>武田が津保城や加治田城を手に入れたとする長政書状を裏付けるように
信長は上洛出来なくなり

だからこれは長政の大本営発表だろw
信長が上洛できなくなり、とあるが3月に普通に上洛してんじゃん。
そもそも加治田城やつぼ城が織田に奪回、服従された史料もない。

>>3/11には荒木や高山らが細川が世話役してる和田惟長を襲撃してるのが京にも届き完全に信長の意向を無視。

和田はもともと父惟政の頃から筋金入りの足利派だろ。確かに惟長は信長に忠節を誓うというのが細川家文書にあるが、
そもそも家中が分裂しているような状況での暗殺の意趣返しなんだから信長に責任はねーだろ。この段階で荒木が信長に通じていたなら猶更だ。

ついでに言うとこの和田襲撃を吉田兼見に伝えた三淵藤英は信長に走った弟の藤孝をぶち殺そうとしたくらいの足利重臣。
和田に義昭の息がかかっていない保証はどこにもない。

>>年代記は過去スレから探すの面倒だから、吉川弘文館の足利義昭を買って読めばたしか書いてあるはず。

あのなぁ、俺は年代記抄節のことを聞いてるのよ。
足利義昭の著作ってそれこそ二次創作じゃねーの?
つかおまえもしかして過去スレから転用した?さすがに俺も2chのコピペまるまる信用するようなことはせんけどな。

650:人間七七四年
11/12/17 20:17:01.65 +s9an98C
と、総兵力一万のソースを絶対に出さない武田厨は言う

651:人間七七四年
11/12/17 20:38:06.35 MKXh0hgA
俺も歴史は詳しい方じゃねーけど、さすがに総兵力1万は無理ありすぎるよ。
上洛時の武田軍が大体2、3万くらいじゃん?
徳川軍が三方ヶ原で織田の援軍足しておおよそ1万1千だろ?
それより少ない兵力で武田以上の領土を守備するってザル守備もいいとこだよ。

武田どころか浅井朝倉すら追い詰めるの無理でしょ。
とても信玄死んでから義昭追放して朝倉滅ぼして浅井も滅ぼした家の兵力とは思えんよ。
織田家の武将はサイヤ人だったのかよ

652:人間七七四年
11/12/17 20:45:59.93 +s9an98C
>>651
すまん>>650>>648のことな

653:人間七七四年
11/12/17 21:39:11.67 6epQSx7V
>>651
この人は信玄が存在していれば浅井朝倉のような反織田は
信玄の思惑通りに勇敢に戦い、信玄がいなければ裏切りと腰抜けしかいなくなると
信じきってるので無駄です
神将信玄が進めばどんな国にどんな城があろうが織田のものなら即落ちるし
信玄がくれば誰だろうが土下座して従い降伏し道を開け
どこからともなく湯水のように金も兵糧も沸いてくると信じちゃってるんです

654:人間七七四年
11/12/17 22:13:57.19 JDQqLg1n
つーかアスペルガーだがの基本スタンスは、
信玄に都合良く世界は動き信長に都合悪く世界が動く!
この絶対ルールが禁止されたら信玄は上洛どころか家康相手に3年だろ?

信玄が生きていれば、
 1、朝倉家や本願寺も無敵ルールが適応(柴田・明智・羽柴は死亡フラグ!)
 2、兵糧・資金・兵士は無限増殖!
 3、織田家の領国は一揆と謀反の大フィーバー!
 4、織田本軍は兵数10,000シバリ!
 5、徳川家の武田反撃カードは無効!
 6、上杉家の武田攻撃カードは無効!
 7、織田家の野戦カードは無効!
 8、織田家の籠城カードは有効(即日陥落モードに突入!)
 9、朝倉家、本願寺、足利将軍、松永、三好、浅井、六角らは武田家に配属(不可避強制イベ!)

これだけお膳立てされないと信玄は信長に勝てないのです。
これなら氏真でもゲームクリアはガチ!

655:人間七七四年
11/12/17 23:53:52.30 j2Zr/rvH
ある武田厨のレスで信長包囲網が敷かれてた時、
武田6万、浅井朝倉2万5千、六角2万、本願寺2万、足利1万
これに対して織田は乞食兵1万のみ

都合のいい史料ばかりかき集めて最強包囲網完成www

656:人間七七四年
11/12/17 23:58:32.15 JDQqLg1n
その状況で織田信長完全勝利とかってカッコ良すぎでしょ!
逆に武田信玄は無様すぎでカワイソっす!

武田厨はやることが惨い。

657:人間七七四年
11/12/18 00:31:57.14 sqQGmqn0
武田信玄上洛成功スレでだが大敗
URLリンク(www26.atwiki.jp)

658:人間七七四年
11/12/18 09:11:13.04 9Xge0ZUF
相変わらず織田厨は、
信長に都合悪い一次史料は
あーあー聞こえない聞こえない見えないかw
大本営発表ってのは一次史料でも何でもない信長公記みたいな軍記小説のことを言うんだよw

659:人間七七四年
11/12/18 09:43:28.32 9Xge0ZUF
信長の比叡山焼き討ちが全山やられたのではなく、
麓だけで行われたことが遺構からわかっているが、
そのときの僧兵の被害を言継卿記は
3~4000人と誇張してるが、
年代記抄節は1600余と冷静に書いてあり、
現在の史学では後者が支持されてるし、
足利義昭 (人物叢書 ) 著奥野高広は
二次小説じゃないぞ。
奧野氏は織田信長文書の研究を著作に持ち、
織田信長研究の権威として知らない者はいない偉大な人だぞ。
それすら知らずに織田厨はどんだけ馬鹿なんだよ…

奧野氏がいなければ信長文書の収集整理すら不可能なのに。
無知を超えた愚か者で、まじ死んでいいレベル。
まあ一次史料すら認めず、
信長公記を一次史料だと主張するクズ豚織田厨には
なにを言っても無駄なのはわかっているが。
あまりにも酷い。信長について議論できるレベルですらない。
織田厨終わり過ぎ。

660:人間七七四年
11/12/18 10:41:04.39 bT3iUGAS
>>655
六角がそんな数を揃えてたら、朝廷と朝倉と組んで京都制圧してら

織田の一万が実数で、後は三分の一くらいが現実じゃね?
武田が6万も動員出来てあの結果を出そうというなら、
既に信玄もその部下達も死んでて無能な影武者軍団の指揮下での活動じゃなきゃ無理。

661:人間七七四年
11/12/18 10:51:54.13 jcwBDndN
>>658
んで長政大本営発表を裏付ける史料はいつになったら出すの?

662:人間七七四年
11/12/18 11:01:06.54 Yv9H6II8
奥野高広
URLリンク(ja.wikipedia.org)


とりあえず織田厨の妄想願望レスはゴミ以下でいらないから
反論するなら一次史料のソースもつけろよ。

663:人間七七四年
11/12/18 11:31:17.63 Yv9H6II8
>>649
和田惟政はもしかしたら義昭派かも知れんが殺されてるからわからん。
しかし細川幽斎と同じ行動を取ることが多かったから三淵藤英寄りということはありえない。
つかお前は細川幽斎と三淵藤英が兄弟関係なのも知らんのか?
惟政が殺された後に子の惟長の世話をするように幽斎に命じたのは信長。
信長が惟長の面倒をみるように命じていたのに荒木はその意向を無視しているのは明白。
しかも京の西は三好勢力にほぼ制圧されていて
荒木の根城と思われる伊丹城では伊丹氏などが三好と義昭らに呼応して挙兵(慈敬寺文書)
幽斎の領地の京都郊外の西岡地方にも土一揆(兼見卿記)が起きていて
とても三好・松永・義昭派勢力圏化した中で
支えきれる状態ではないので、荒木も幽斎も家から追放されて信長の元へ逃げてきただけに過ぎない。
信長の京での焼き討ちで桂川(大井川)が逃げてきた民衆の死体でいっぱいだったのも三好勢力圏の桂川西側へ逃れたかったからだろう。
(淀古城(伏見区納所北城堀)には岩成友通がいたし、
三好康長・篠原自遁・大和守らが京都大山崎惣中に禁を下してる/離宮八幡宮文書)

664:人間七七四年
11/12/18 14:51:03.41 SuFeg0ts
で?一万のソースは?
一万にひっくり返されるとは信長最強ですね(笑)

665:人間七七四年
11/12/18 15:21:21.42 N6ms2C0S
最強の乞食兵を使って、雑魚の寄せ集めを蹴散らしたんだよw

666:人間七七四年
11/12/18 17:15:47.59 uvxGaykZ
武田厨って資料出したことなくね?

667:人間七七四年
11/12/18 17:19:45.17 Sw2QFQsQ
ないよ。人に資料だせ、とわめいてるだけ。

668:人間七七四年
11/12/18 17:25:36.69 s+PaPHHb
>>649>>663と、両方の厨が出してる。
いつも史料だせないのは、だがスレの気違い共だな。>>665>>666
早く巣に帰れ。

669:人間七七四年
11/12/18 19:02:46.60 ve80EClc
>>668
人の事を基地外呼ばわりする君の精神状態は大丈夫かい?
君もだがさんみたいにお薬もらったらどうかなw

670:人間七七四年
11/12/18 19:11:35.35 uvxGaykZ
>>668さんお薬が切れちゃったみたいだねw
今日は日曜日だからお薬もらいに行けなくて大変だねw
辺レスはいらないからw

671:人間七七四年
11/12/18 21:43:22.29 SuFeg0ts
つまり一万の織田の兵に武田以外のやつらは敗北し、びびって寝返ったのか…
どんだけ強かったんだ…

672:人間七七四年
11/12/18 21:56:37.04 Bm6S+hki
素人で申し訳ないのだけど、姉川の合戦ですら織田軍は2万9千だったはずなんだけど
なぜこのスレでは織田1万って事になっているのですか?

673:人間七七四年
11/12/18 22:53:20.43 GkiIytpE
一万って言ってるのは酔狂な人なんでスルーしてください

674:人間七七四年
11/12/18 23:32:40.75 Bm6S+hki
レスさんくす、1万ってのはネタって事ですね
ときにこのスレタイって、の信玄公の何が過大評価なのか主語が判らないからもめてるんだと思うけど
改革者・天下統一の能力で言えば信玄は落第点
為政者として見たらとてつもなく偉大な存在になる
だから信長派と信玄派が争うのは不毛だと思うぞ?

675:人間七七四年
11/12/18 23:46:23.12 AscPt6HC
>>663
弟の藤孝が、って>>649に書いてあるだろ。
つか和田惟長を殺害したのは荒木村重ではなく高山友照、右近の父親だから荒木は全く関係ない。
それどころか、

>>惟政が殺された後に子の惟長の世話をするように幽斎に命じたのは信長。

これと同じ細川家分書で荒木村重が信長に対して無二之忠節を励む、ということに信長が喜んでいるという旨があるし、
和田惟長自身若輩なのか器量がないのか、家中分裂を招いて叔父惟増を殺害するような状態で、
さすがに和田家のお家騒動まで信長の監督不行き届き、信長の裁量不足というのは無理がある。

>>荒木の根城と思われる伊丹城では

この時の村重の居城って茨木城では?
伊丹城が拠点となるのは伊丹親興が死んでから荒木村重が入った後だと思うけど。

>>とても三好・松永・義昭派勢力圏化

まず松永氏ですが信長公記では1月に既に信長に降伏してますし、
多聞院日記の元亀3年の戦況を見ても筒井に押されっぱなしで、少なくとも松永優勢の段階ではなかったでしょう。
三好氏は勢力としては強大な方ですが、ただえさえ当主の義継をはじめ三好三人衆との指揮系統が支離滅裂の状態で、
とてもじゃないですが一丸となって信長に抗戦するなんてことは不可能かと。
実際天正4年の11月に佐久間信盛の手によって三好義継は城を落とされて自刃していますし。

>>織田信長研究の権威として知らない者はいない偉大な人だぞ

偉大な人と言われても自分は奥野氏が書いてる「織田の総兵力が1万」説を見たことがありませんからね。
それこそ信康事件で実証性を欠いた考察をしてますけど高柳氏だって相当の歴史学者ですよ。
「偉い人だから言っていることは全て正しい」というのもどうかと思いますけどね。
まあ繰り返し言いますけど奥野氏の「織田の総兵力が1万」説を見たことがないので、偉い人が言ったんだと言われてもああそうですかとしか。

676:人間七七四年
11/12/18 23:52:16.24 AscPt6HC
仮に織田家の総動員兵力が1万しかないと奥野氏が言ったのなら、どういう観点から導き出されたのか知りたいですね。

・たった1万の織田家の兵力に浅井、朝倉、武田が慎重にいきすぎていたということ

・たった1万の兵力で織田家は浅井、朝倉、武田、足利、三好その他を抑えていたということ

・たった1万の兵力でありながら、天正元年に浅井、朝倉、足利と3つの大名を一気に滅ぼしているということ

少なく見積もってこの3つの課題を、どうやって織田信長が乗り越えられたのか
もしかして>>659氏は氏の書物か何かでその根拠を知ってるんですか?もしそうなら是非教えてほしいですね。

677:人間七七四年
11/12/18 23:57:19.16 i4/lsEiP
ていうかアスペルガーだがは基本的に馬鹿だろ?
誰かが織田軍が1万と言ったからこれが真実とかって…どんな宗教なんだよw

まあそれが本当に真実だったら武田信玄は戦国一の無能が証明されるのでそれでも構わんかwww




678:人間七七四年
11/12/19 00:08:40.22 zgvJ4m4o
今更だけど>>675の右近の父親、ここ右近の父子って意味ね
わかるだろうし大して変わらないけど一応

679:人間七七四年
11/12/19 09:23:27.95 BvFrf060
織田厨はソースを一切出さずに
自分の願望妄想のみでソースを否定する完璧なキチガイだな。

680:人間七七四年
11/12/19 13:21:15.72 sQKuajvU
>>528
なんで織田厨はデタラメばかり吐くんだ?
無知なくせに、どうせわからないだろうとタカをくくってデタラメ書いてるのバレバレ
武田水軍は土屋や岡部らによって作られ駿河清水に拠点が作られた。
もともとは北条の梶原水軍を仮想的にしたものだ。
元亀2年には伊勢水軍から小浜氏や向井氏を招集してるが、
北条との同盟によって仮想敵が徳川へ変更される。
元亀3年10月からの徳川攻撃では武田水軍も高天神城攻略にも出動していたとされ、
11月には武田水軍(伊勢水軍)が三河田原表襲撃の計画があったのがわかっている。
天正2年遠江国今切に武田の兵糧船が現れ徳川の船で取り囲んだが徳川方の寺島が討死させられてる。
6月には武田が兵糧を北条領から調達しようとして北条方に応酬され、
翌月から武田が船手判を発行することで解決してる。
小川雄氏は今切では伊勢から武田領への兵糧の回送が行われていたり、
三河田原表襲撃などから、武田伊勢水軍が海上でも徳川を圧倒しつつあったと論証してる。
天正7年9月に駿河用宗城が徳川に攻略され遠江へ進出することがなくなった武田伊勢水軍は、
天正8年4月より北条水軍を相手に伊豆で圧倒しており、北条方の水軍根拠地まで攻め込まれてる。
要するに伊勢水軍によって織田と徳川水軍は圧倒されており、武田の兵糧の海上輸送は磐石なんだよ。
>>540>>583
ほんとだね。織田厨が人間の屑なのが、つくづく思い知らされる。
>>596
松原信之氏が著書で義景本人の天正4年の出撃を
3/11で敦賀までやってきていて、5/10に一乗谷へ帰国したと書いてるから
朝倉先陣は3月中に小谷まできて普請を始めてるはず。
>>675
信長は荒木を摂津の旗頭にしていて高山はその配下。
(それ以前は和田惟政・伊丹親興・池田勝正を摂津三守護にしていたが三人ともすでに脱落)
そもそも高山の旧主の和田惟政が荒木村重と中川清秀に殺されており
惟長の襲撃に荒木が絡んでないとする方が不自然。
(奥野氏も荒木が高山を味方につけて高槻を攻めたと指摘している)

後年に荒木が織田に謀反した時は、中川と高山も一緒に蜂起していて
荒木と中川と高山は常に行動を共にしている。
この時の信長は最大の危機に追い詰められ朝廷に本願寺と毛利との和睦斡旋の土下座をしてる。
その間を利用して信長は高山に降伏しなければ織田領内にいる
司祭、宣教師、キリシタンすべて皆殺しにして教会もすべて燃やすと宣告したりしたが
高山は荒木との義もあって降伏せずに抵抗し、最後は教会と荒木の板ばさみに苦悩して
城主を辞め、家族も捨て俗世を棄てると言う解決策で、誰も裏切らない手段に打って出た。
茨木城は息子の荒木村次が支配してるから違うし。
松永久秀の信長への降伏は偽り。3/6には義昭が久秀と三好義継が味方になるのを許して
足利家のためにがんばってくれと言ってる(今までは兄の義輝暗殺してたから許さなかった)
指揮系統が支離滅裂もなにも、最初から別系統でムリヤリ統合作業をしたわけでもない。
まったく関係ないし、元亀3年10/2には六角義堯が三好甚五郎に四国衆の渡海準備を命じたと承禎に言ってる。
そのため三好の本国の四国から大規模兵力の上陸が予定されているのがわかり
三好康長・篠原自遁・岩成友通らの動きが止まってるのも、これらの上陸軍待ちなのがわかる。

681:人間七七四年
11/12/19 13:22:52.25 sQKuajvU
>>680
訂正
×著書で義景本人の天正4年
○著書で義景本人の元亀4年

682:人間七七四年
11/12/19 15:19:13.83 m6mY74mc
織田厨はワガママなガキだから
自分の思い通りにならないと
納得しない低脳猿なんだよ。
とにかくウソとデタラメの連続で話にならない。

683:人間七七四年
11/12/19 15:45:16.60 e07fnA2Z
結局武田厨は織田軍1万のソースを出せないのであった

684:人間七七四年
11/12/19 16:37:49.05 sQKuajvU
>>683
出してあるだろw
お前が認めようとしないだけ。


685:人間七七四年
11/12/19 16:45:25.93 sQKuajvU
>>672
三河物語の姉川の戦い両軍兵力

朝倉3万・信長1万・徳川3000なんだが
お前の主張する兵数のソースはどこから?

686:人間七七四年
11/12/19 17:21:31.94 TUvt0jzv
>>684
2chのコピペをソースw
さすが情弱武田厨なだけはあるなwww

大体越前一国辛うじて支配していた朝倉が
美濃尾張その他を支配していた織田の三倍の兵力とかw
大久保ってのはとんだホラ吹き野郎だなw
誰だよこんなホラ吹きの日記を一次史料として有り難がってる奴はw

687:人間七七四年
11/12/19 17:23:14.23 3SVjgjzC
>>680
>>528へのレスで根拠となる史料の出展がひとつとして明記されていないため、反論は留保しておく
彼が史料を明らかにした後、改めて確認、反論させていただくつもりだ

688:人間七七四年
11/12/19 17:55:39.73 sQKuajvU
もう織田厨はシカトだな。
出典明記&研究者明記しても
織田に不利な話を一切認めようとしないんだから狂い過ぎてる。
しかも織田厨は一切、ソースを出さないで
「思いつき」でケチをつける自慰レベルの屁理屈のみ。

689:人間七七四年
11/12/19 19:40:37.65 mP02UQB/
それは武田も同じことだろw
滅亡の原因を浅間山噴火のせいにしたりとかw

690:人間七七四年
11/12/19 19:57:51.26 A8Yz6MWt
>>688
俺もそうだと思う。
織田が乞食兵1万なのは動かしようの無い事実だしな。

朝倉2.5万 虎御前山砦はいつでも落とせる
長島2.5万 美濃にも拠点を作り近隣を次々と調略
三好2万 畿内西部占領し各城の連携も完璧
六角2万 近江南部の主要街道を完全に封鎖
北畠1.5万 信雄を人質に取っており紀州・雑賀の水軍も動員可能
義昭1万 
浅井等の小勢力約2万
武田3万 徳川はあと少しで降伏 美濃尾張の調略はほぼ成功

史実でこんな状態なんだ信長なんて風前の灯に間違いない。

それに信長自身も無能だが配下も輪をかけて無能で、柴田は上杉に羽柴は
毛利に屈服するぐらいだから。

今1574年末の勢力図を見たんだけと武田の名前以外残っていないんだよね。
無能で1万の乞食兵しかいない信長はしぶとく生き残っているみたいだけど
朝倉達はどうなったっけ。

691:人間七七四年
11/12/19 20:46:31.25 9pNIH//m
中立な立場で言わせてもらうけど、織田兵一万は妥当だと思うよ。

692:人間七七四年
11/12/19 20:49:14.22 YSXAFf5s
>>689
気象庁の浅間山噴火記録にも
天正10年2月に噴火してると明記されてるから
歴史的事実なんだが。

693:人間七七四年
11/12/19 20:52:55.69 YSXAFf5s
織田厨は完全に論破され尽くされてる完敗状態だから
精神的におかしくなって偏執的粘着してる自閉症アスペだから…

694:人間七七四年
11/12/19 20:55:00.85 PsqNFb4f
>>690
それをひっくり返した信長ってすごいですね~

695:人間七七四年
11/12/19 21:02:52.01 zgvJ4m4o
>>680
いやだからさ、それでなぜ織田信長の監督不行き届きとか裁量不足って話になるんだ?
高山氏の親戚が荒木氏の重臣であった中川氏だから、高槻の件に荒木が一枚噛んでいるという理屈は分かる。
ただ、2月26日付細川家文書で荒木は信長の味方になることを約束している。
高山父子が親織田の荒木村重の力を背景に和田を襲って追放し高槻城主となって織田に与した、どこか信長が咎める必要あるか?

>>茨木城は息子の荒木村次が支配してるから違うし。

それは伊丹城を攻略した荒木村重がそのままその城に居座ったからだろ。
そこで茨木城を息子の荒木村次、のち中川清秀に任せているんであって。
大体この時点で伊丹城城主の伊丹親興が健在なのにどうやってその城に荒木が入るの?

>>荒木と中川と高山は常に行動を共にしている。

摂津衆でもあり同じ織田家臣なんだから当たりまえと言えば当たり前じゃね?
ただ謀叛の時は付き従っていたといわれるとかなり疑問符がつく。
中川なんか謀叛してから半月足らずで織田に下っているし、高山右近も父、飛騨守と信長の間で揺れて結局単身降伏してる。
「最後まで忠実だった」とするのはちょっと買いかぶりすぎだよ。

>>3/6には義昭が久秀と三好義継が味方になるのを許して、足利家のためにがんばってくれと言ってる

これのソース何?

>>元亀3年10/2には六角義堯が三好甚五郎に四国衆の渡海準備を命じたと承禎に言ってる。

山中文書のことを指してるんだろうけど、実際に大規模兵力を動員し上陸した点には疑問がある。
翌年の5月に篠原自遁の兄長房が討たれているし、義昭追放後まるでそんなことなどなかったかのように
三好義継、石成友通等畿内に勢力を張った三好家の人間が討たれているからね。

696:人間七七四年
11/12/19 21:07:56.42 zgvJ4m4o
>>685
つまり姉川の戦いでは3倍の兵力差がありながら信長はかかんに朝倉に挑み勝利した、というわけですか。

ならばどうして信玄が上洛軍を率いて信長軍と対峙した時に信玄が勝つといえるのか謎ですね。

朝倉今川の二の舞になるとか考えないんでしょうか、格下豪族に何度も破られた信玄なら猶更でしょう。

自信だけはたっぷりですね。事実なら十中八九武田の敗北だと思いますけどね。

697:人間七七四年
11/12/19 21:23:45.44 zgvJ4m4o
気象庁、浅間山噴火記録
URLリンク(www.seisvol.kishou.go.jp)

1527(大永7)年5月 噴火  1528(享禄元)年 噴火

1532(享禄4)年1月14日 噴火
噴石は火口の周囲8㎞にわたり落下、直径25m以上の「七尋石(ななひろいし)」が残っている。降灰は120㎞に及びその後の雨とともに積雪が融解・流下し、山麓の道路、人家に被害。なお、この後同年中(天文元年)さらに噴火

1534(天文元)年 噴火    1582(天正10)年2月16日 噴火

1590(天正18)年 噴火  1591(天正19)年 噴火 1595(文禄4)年 噴火?  

1596(慶長元)年5、8月 噴火
5月1~5日 噴火、5日 噴石のため死者多数、8月19日 噴火


戦国時代だけでもかなりの噴火記録がありますが大犠牲を被ったという記録はなし。
また「噴火」と区別するように「大噴火」の表記がある。1108年と1783年の噴火がこれ。
ちなみに浅間山は現長野県軽井沢町と群馬県吾妻郡の境目にある火山で、武田の本拠地からかなり離れている。

追い打ちをかけるようにこの前日、織田信長から国境を突破した滝川一益へ大将の織田城介信忠をよく補佐するようとの指示があったことが建勲神社文書にあり、
浅間山噴火の時期には既に織田軍が武田領信濃へと侵入していることが伺える。

698:人間七七四年
11/12/19 21:25:50.31 YSXAFf5s
格下豪族に何度も破られたのは信長の方だろバーカwww

699:人間七七四年
11/12/19 21:27:43.77 zgvJ4m4o
>>698
信長と戦い破った豪族の名前を挙げてください
あえて言いますけど斎藤龍興は豪族じゃないですよw


700:人間七七四年
11/12/19 21:30:11.34 zgvJ4m4o
無論格下でもありません、念のためw

701:人間七七四年
11/12/19 21:30:16.24 YRxdy0LF
つまり一万で
朝倉2.5万 虎御前山砦はいつでも落とせる
長島2.5万 美濃にも拠点を作り近隣を次々と 調略
三好2万 畿内西部占領し各城の連携も完璧
六角2万 近江南部の主要街道を完全に封鎖
北畠1.5万 信雄を人質に取っており紀州・雑 賀の水軍も動員可能
義昭1万 浅井等の小勢力約2万
武田3万 徳川はあと少しで降伏 美濃尾張の 調略はほぼ成功

この状態から次々と打破したのか信長は…
いくら信玄生きててもどうしようもないじゃないかそんな怪物
つまりだがは信長>>>>>>>>信玄と主張したかったんだね
よくわかったよo(^o^)o

702:人間七七四年
11/12/19 21:39:42.82 mP02UQB/
>>692
気象庁の浅間山噴火記録を出すなんてまさに墓穴を掘ったなw

>>697が言うとおり、被害記録のない小規模噴火だよな~
しかも浅間山が噴火しても冬なら北西の季節風だから武田は関係ないし
春一番と噴火が重なっても、南風だから全く影響なし

歴史的事実だからって、都合の良いように曲解しちゃイケませんよwww

703:人間七七四年
11/12/19 22:13:24.60 dmTKw43n
つーかだがは長政大本営発表を裏付ける史料をいつになったら出すんだね?

704:人間七七四年
11/12/19 22:52:07.51 9tHeMms3
多分だがさんは俺が書いたウィキペの武田勝頼の記事から浅間山噴火のとこだけ抜き出して、そこに捏造を加えていると思われる

705:人間七七四年
11/12/19 23:23:40.34 3SVjgjzC
さて、>>680は相変わらず史料を提示しないので、他の点について論じてみよう
かつて細川宛書状で鉄砲を買う金が無いと主張していたが、文面を読めばその金額で買う量では足りないということは明確である
さらに関連して、むしろ金欠であったのは武田信玄ではないだろうか

元亀四年十一月の軍役令でそれまで武田氏が配布していた玉薬がそれが困難になったためという理由で自前用意に切り替えられている
織田の属する畿内では金を積めば調達できるのに対し(前述細川宛書状)、武田では玉薬の調達に難儀していた事を対照的に示す事例だ
流通が少ないため、玉薬が入手できずに織田軍に比べ装備が劣るという指摘もできようし、あるいはそれだけの金銭的余裕がなかったとも言いえる
または織田水軍が駿河方面への流入を制限していたと推論しても飛躍ではあるまい
付け加えるならば、武田氏も鉄砲装備には躍起になっており、興味がなかったのではなく、何らかの理由で困難であったということも述べておく


706:人間七七四年
11/12/19 23:29:47.31 JQkuLMDF
>>705
真面目にレスするとそれは武田だけの問題ではなく北条にも同じことが言える
つまり東国の鉄砲の普及が遅れた理由はここにあると言えるね

707:人間七七四年
11/12/19 23:33:21.91 34x4Dsfb
島津(弓)
竜造寺(鉄砲)
上杉(槍)
北条(馬)
武田()

708:人間七七四年
11/12/19 23:34:57.68 g73ondAG
関東は瓦も普及してないくらい近畿勢と装備の質が違うことも明記しておこう。


709:人間七七四年
11/12/19 23:41:06.99 9tHeMms3
それはキツい

710:人間七七四年
11/12/20 10:05:36.50 Yaz0rw55
実際信長が安土城で使用するまで、仏閣以外での瓦使用は禁止されて
いたようだし、その件で遅れているという判断は疑問符がつくが、そ
れでも遅れていたのは確かだと思う。
関東は、平安時代のまま戦国時代を戦っていた感じがする。

711:人間七七四年
11/12/20 11:49:24.70 T9ZPjiHx
平安はないだろ
鎌倉幕府があったんだから

712:人間七七四年
11/12/20 12:11:14.21 cPXgZBIi
>>706
北条は武田より装備はいいぞ
武田との軍役状の比較において、騎馬率が高いのは有名だが、鉄砲も同じく高い

713:人間七七四年
11/12/20 12:19:54.14 Mvj9vSc3
>>695
信長から細川が後見するよう命じられていた和田を殺した以上
いくら屁理屈を言おうが無駄。
2月26日に荒木が忠誠を誓おうが3/11に荒木や高山らが
細川が世話役してる和田惟長を襲撃してる以上は
面従腹背してるということにしかならない。
しかし信長には松永弟の子の内藤など、義昭に味方しないと思われていた
者まで敵に回り、味方がいないので荒木に罪を問えず逆に贈り物まで贈って繋ぎとめに必死だった。
元亀2年における猪名寺の戦い・白井河原の戦いを通じて伊丹親興・茨木重朝・和田惟政らはすでに衰亡。
代わって池田勝正を追放した荒木や中川ら一味が台頭しており、すでに伊丹城に伊丹氏は在城してない。
この争いの時も信長が浅井・朝倉と必死に戦っていて余裕がない状況で勝手に争っていて
信長はこの争いを後から知ってる始末で摂津荒木・大和松永は完全に面従腹背を繰り返している。
信長の任じた摂津三守護をすべて追放してるのが荒木や中川であり
荒木の謀反においては最前線の高槻城の高山が降伏したことで
その先にある茨木城に織田の圧力が加わり中川も織田に降伏してる。
足利家のためにがんばってくれと記録してるのは尋憲記。
翌年の5月に篠原自遁の兄長房が討たれているってのも反織田の旗頭義昭が
二条城で降伏し、信玄もいつまで経っても来ないと言う情勢の変化に伴い
毛利と本願寺が義昭から手を引き始め、この後に三好自体が信長に降伏する派と
徹底抗戦派に分かれて三好家が内戦に発展することになったから。
>>696
朝倉は無理に織田を攻める必要はなく、織田軍を疲弊減少させる為に高みの見物をしてただけ。
朝倉が破れたのも信玄死後の義昭降伏などの情勢変化によるところが大きく、
その結果、朝倉景鏡の従軍拒否が生まれ、ほとんど軍の指揮をしたことのない
義景の撤退ミスで壊滅に追い込まれただけ。
>>697>>702>>704
14日の夜空は東方に厚い雲が垂れ込め空が赤く染まる様子が見られた程の火山噴火で
雪ことことしきと書いてるのは噴火の粉塵と思われる(晴豊公記)
まもなくこの赤い空は浅間山の噴火で甲斐や信濃の敗北する時に起こる怪異だとされた(多聞院日記)
これらは武田の士気に大きな影響を与えただろうと丸島和洋氏も論評している。
信長公記は3日ごろより織田軍が信濃へ進撃したように書いてるが史料を拾うと
木曽氏は6日に織田へ援軍を要請している。
それに答えた信忠と滝川の出撃は一次史料だと12日に岐阜出撃。
15日に出陣準備中の信長が滝川らが国境を越えたとの注進を得て
滝川に失敗したら2度と俺の面前への参上を許可しないと厳命書状を出してる。
小規模噴火だったら京で気づかれることなどあろうはずもない。

714:人間七七四年
11/12/20 12:21:25.29 Mvj9vSc3

>>699
丹波の赤鬼さんとか
逆に格下豪族に何度も破られた信玄とは誰に敗れたというので?
村上さんは格下じゃないし、当時の村上は膨張期に入っていて勢力拡大の最中ですが。
ちなみに正四位上の義清さんの母は室町幕府三管領家の斯波義寛の娘で
正室は信濃守護・小笠原長棟の娘ですので格下どころの騒ぎではありません。
>>705
とっくに天正元年に改元されてるのに、信玄が生きている時期に誤認させるために
元亀4年11月と言う汚い書き方をするのはよくないね。黒川金山が永禄初期に本格稼動しており
まだ衰退してはいませんので財政問題はそれほど深刻ではありません。
事実、天正3年に入っても長篠で敗れる寸前まで下記のように武田軍は圧倒的な戦闘力を見せ付けているのですから。
武田軍は足助・浅賀井・八桑・大沼・田代の諸城を攻略した先遣隊に
作手(新城市)で勝頼が合流し、山縣隊が野田城・ニ連木城を落城させ
吉田城で家康の救援軍を撃退し吉田城へ敗走させ、勝頼隊と合流して長篠城攻め開始。
しかも武田軍は駿河平定の元亀2年初頭以降は大規模軍事行動を一切してないので出費もあまり無いはずです。
信長は金がないから荒木と細川に用意しろと要求しており、間違いなく金が無い。
そして彼らが調達できずに京での恐喝となったわけです。信長は奈良の旧都でもカツアゲしてる前歴があります。
奈良内銀子320枚・興福寺銀子100枚・東大寺銀子50枚を恐喝したりで大和亡国と呼ばれました。
寺社の荘園を没収しまくり、朝廷からの荘園返還要求の勅使からも信長は逃げ回ってる。
軍役に次ぐ軍役に追い立て内政は無視してる以上、金がなくなると犯罪行為に走って調達してるのが織田。
>>680の史料は戦国遺文武田編・本光国師日記・当代記・静岡県史にある。
>>708
千葉県印旛郡にあった龍角寺は瓦の様式編年から7世紀後半にはすでに存在していたとされている。
お前の説に従えばミッシングリンクだなw
いい加減に根拠がないデタラメな思いつきばかり書く嘘つき織田厨には退場を願いたい。


715:人間七七四年
11/12/20 12:36:25.22 cPXgZBIi
>>714
>とっくに天正元年に改元されてるのに、信玄が生きている時期に誤認させるために 元亀4年11月と言う汚い書き方をするのはよくないね。
陰謀論好きだな武田厨w


716:人間七七四年
11/12/20 13:05:56.50 Mvj9vSc3

内政といえば信玄は天文16年には甲州法度之次第55ヶ条を発布し
天文23年に条文追加で公事検地を目指したものと高く評価され
永禄6年恵林寺での検地などの記録も残る。
信玄堤や伝馬制など次々と整備されていて
今川義元も天文22年に分国法かな目録と訴訟条目を制定し伝馬制や検地を始めてる。





717:人間七七四年
11/12/20 13:32:04.95 cPXgZBIi
>>714
>臨済僧以心崇伝(いしんすうでん)(本光国師)の1610年から1633年にわたる日記。47冊。原本は南禅寺金地(こんち)院蔵(国指定重要文化財)。武家・寺社などからの書状写や崇伝が出した書状の留書(とめがき)が中心で
本光国師日記をぐぐるとこんな説明なんだが、年代ずれすぎだろw
適当にそれっぽい史料名転写しただけかよwww

718:人間七七四年
11/12/20 14:03:46.81 zHKDwabV
織田厨は完璧に死んだ方がいいな。
wiki脳でケチをつけてまわるだけのチョン並みの低脳。
いまだたかって役に立つ書き込みが一切ない小学生的レスだけ。
駿河江浄寺の過去記録も網羅されてるのが本光国師記録なのも知らんでブタみたいにケチつけて喚くとかクズ過ぎ。
戦国板で白眼視されてるのに
そろそろ気付けよ無知長厨くん。
荒らし行為しかやらないから、もうさすがに目障りだわ。

719:人間七七四年
11/12/20 14:31:16.63 zHKDwabV
>>716
天文16年の甲州法度の最後の条文が、
史学において誉れ高いんだよね。
晴信が法を犯したら、
貴賎の身分を問わず目安に申し立てよ。
晴信が法治国家の魂をちゃんと理解していたのがわかる。


720:人間七七四年
11/12/20 14:45:31.47 cPXgZBIi
>>718
うっわーw
無知長厨とか面白いと思ってるんだw


721:人間七七四年
11/12/20 15:02:03.63 T9ZPjiHx
>>718
多分お前が織田厨織田厨言ったやつ全員去ったら
お前しか残らないと思うの

722:人間七七四年
11/12/20 15:03:28.98 T9ZPjiHx
まあ一万の兵力で他の勢力全撃破した信長には信玄も敵わないなw

723:人間七七四年
11/12/20 15:08:47.67 S9/y8Vbi
まあ織田厨って自演基地外だから、
いなくなるだろう。
でも駄レスが無くなるから良い傾向になるだろうね。

724:人間七七四年
11/12/20 15:12:05.33 S9/y8Vbi
>>699
信長なんて一向一揆に負けてるし弱過ぎ。
>>716
信長なんて内政無視のバカだしね。

725:人間七七四年
11/12/20 15:47:42.80 cPXgZBIi
一揆の恐ろしさ知らないとか本当に無知だなアンチ織田厨は・・・

726:人間七七四年
11/12/20 16:00:26.88 uRqWWJJg
>>722
しかも息子と家臣は浅間山が噴火したにも関わらず、
お構い無しでガンガン進軍してあっという間に武田を滅ぼすという有り様

こんなのが相手じゃ噴火にビビった武田軍なんて10倍の兵がいても
織田軍には勝てねーだろw

727:人間七七四年
11/12/20 16:04:29.39 Mvj9vSc3
>>724
美濃の内政もすばらしいよ。


道三は頼芸を追放するが越後で長尾氏が上杉の支配機構を解体出来なかったように、
斎藤氏も土岐氏の支配機構は解体できず。かと言って道三には民政の新しい施策も全くなく
結局、重臣達により国主たる資格なしとして、天文23年3月に道三も隠退に追い込まれる。
そして最後は甲斐を追放された信虎と同じく追放か抗戦かの選択で道三は抵抗を選び討ち死にした。
道三独裁から重臣たちによる擁立となった義龍政権は行政を刷新し
1558年を中心に義龍は施策を次々に打ち出し最高意志決定機関の宿老制が完成し、
用水相論の裁許を重臣連署で解決(用水相論解決は一揆的結合の浅井などでも見られる)
立政寺の門前の池で鵜を飼い網を引くのを禁止した制札も連署。
これは土岐氏の官僚機構を国人合議制により斎藤の元に奉公人制を確立させ吸収していく動きであった。
永禄三年には印判状という文書形式を導入。知行あてがいも貫高制が導入され
重臣合議制斎藤氏の知行軍役体系が構築されていく。
さらに上洛し将軍相判衆になり美濃国主に正式に認められ、
伊勢や近衛との縁組など家格を上げる努力をしているあたりは
越後統治の正当性を求めて対立する国人を取り込みたい長尾家と同じ動きである。
信長にはできない状態の中で義龍の矢継ぎ早の改革は評価されるべきだろう。
斎藤氏が短命で滅亡したが行政文書は義龍時代に集中して遺っている。
下々の意見をすくい取り自ら政を重臣に諮る英邁な主君であるのは間違いない。これは無策信長とはえらい違いだ。
この改革の中で別伝の乱という宗教対立が起きる。道三は日蓮宗だったが、最後まで厚遇姿勢のままで、
土岐成頼や政房や斎藤妙椿や妙純などの妙心寺派を統制できなかった。
この宗教権威への介入のため義龍は妙心寺四派のうちの霊雲派の別伝を保護し伝燈寺を開創した。
禅宗寺院の寺統権を新設された寺燈寺に任命するやいなや土岐や斎藤に創建され尊崇を受けて来た東海派の瑞龍寺が反発。
これに同調し聖沢派や龍泉派も怒る。 そして彼らは崇福寺の快川紹喜の主導で
永禄四年1/5尾張犬山の瑞泉寺に出国して会議を行い対抗。義龍は通達は別伝が勝手にやったこととして撤回したが、
別伝の僧籍削除には断固反対し義龍は別伝に勅願寺と紫衣着用を奏請し、
さらに4/30には将軍義輝にもこれに福書してもらうことで対抗。
しかし対立中に義龍が5/11急死してうやむやになり出国していた諸老も帰国し別伝が逐電。快川は甲斐に行った。
朝廷や幕府権力を味方につけての宗教改革の中途での義龍の急死で斎藤氏の宗教統制の挫折となったのは痛かった。
しかし信長がただの不良からヤクザの親分になっただけに比べて義龍は名君であるのは間違いない。
さらに義龍の死を聞きつけた信長が死に乗じ、わすか二日後には信長が美濃攻撃を開始するが撃破に成功。

728:人間七七四年
11/12/20 17:31:04.95 uRqWWJJg
迷ったらすぐコピペに走るだが
信長は無能といいながらコピペの内容は信長に全く関係なし
コピペを貼りまくりうやむやにするのはいつものだが

729:人間七七四年
11/12/20 17:37:15.34 S9/y8Vbi
>>728
信長の内政について説明してください。

730:人間七七四年
11/12/20 18:21:19.19 Mvj9vSc3


信長の書状自体が極端に少ないからね。
ほとんど行政をやってなかったから書状が残ってない。
こういう行政文書類すらないのは斉藤道三とも共通していて内政を省みない悪政の証明だとされている。

信長の軍事政策にはまるで評価されるところがない。
常備軍や兵農分離なんてデタラメであるばかりか
そもそも基本である法度に従って寄子を取り締ることもしてないし
貫高に応じて負担する軍役の内容を細かく指示したこともない。
それをやったと思われるのは最末期の光秀だけである。


興福寺(永禄8年・永禄10年)や浅井氏(永禄9年)の撰銭令の猿真似をした
織田政権は上洛した翌年に撰銭令(永禄12年)を広範囲に出して
多くの悪銭を畿内で流通させインフレ経済崩壊を招いた愚か者。
悪貨が良貨を駆逐するの例えどおりに重度に悪銭が畿内に集中し、
他地域では良銭が流通したため畿内→外地域での決済において拒否が続出。
そのため元亀2年辺りに至ると物々交換と言う古代時代に戻ってしまったw
元亀2年から天正8年の時期は信長の命令は無視され決済拒否される悪銭は使用さなくなり
そして天正8年に至ると石見銀の流通が活発化した。
豊臣政権は撰銭令を撤廃し米主体の石高制を採用し河川流通を整備するや
景気低迷を脱して桃山文化の香る時代が招来している。

一方の信長は永禄11年12月の誠仁親王の元服という晴れの舞台において
無礼にも流通拒否される悪銭ばかりを献上して朝廷の公家達を激怒させている。

このように信玄の上洛とは畿内経済の破綻による生活苦による一揆の隆盛。
東国経済の飛躍的向上に裏付けられた時代の流れなのである。

731:人間七七四年
11/12/20 18:48:00.23 sWmf1Zdm
>>730
そのコピペ何回もみたけど
信長の軍事政策がデタラメなら、その信長に滅ぼされた勢力はそれ以下になるんだよね。

732:人間七七四年
11/12/20 19:08:24.33 cPXgZBIi
書状が少ないから統治がずさんとか言ってる学者上げてみろよwww

733:人間七七四年
11/12/20 19:18:29.30 DAv3KDZ/
それだけ隆盛したと強弁しても、結局、信長の体制を壊したのは明智光秀で、
関白として政権を掌握したのは秀吉で
征夷大将軍は家康。
三河から西。

つまり、武田信玄含めて東国はバカと能無しの巣窟と言いたいわけか?

734:人間七七四年
11/12/20 19:32:49.49 7/YW4DT9
鼻毛殿の人物評
URLリンク(www.asahi-net.or.jp)

◆ある夜のこと、談臣のひとりが利常にたずねた。

談臣「豊臣太閤は英雄として見た場合、いかがでしょうか?」
利常「太閤の器量は天性のものというべきで、他に比類がないであろう」
談臣「では、織田信長はいかがでございましょうか?」
利常「そうよのう、勇気があって、戦に強いことにかけては他を圧倒しておるであろう」
談臣「上杉謙信は?」
利常「謙信は常人が及びもつかないほどすぐれておる」
談臣「それでは、武田信玄についてはどうでございましょうか?」
利常「信玄は心が小さくて浅慮で、見識は卑しくて料簡が狭い。取り立てて言うべきほどのこともない」

735:人間七七四年
11/12/20 19:35:02.12 Mvj9vSc3
>>732
岐阜市史で指摘されてるな

736:人間七七四年
11/12/20 19:35:26.77 PdqqcTH7
信玄が大したことないとか、もうね。正気か?って感じ。
しかも比較の相手が上杉じゃなくて織田って。

現に北条と上杉と武田が停戦してから信玄の西上を止められる大名はいなかったじゃん。
信玄が何故評価されてるかって言ったら、死ななかったら上洛してたのが確定的だからだよ?

歴史に直線的な影響与えた武将ではないけど、それで過小評価ってのはないわ。

737:人間七七四年
11/12/20 19:39:58.72 cPXgZBIi
>>735
ほう?具体的にどの記事で?
そんなすぐ応えられるって事は内容を知れる持ってるんだろ?
今日中に出せよ、口だけじゃなくて

738:人間七七四年
11/12/20 20:10:40.51 sWmf1Zdm
>>736
信玄を止められるって言われても三河で家康を叩いただけだろw
ただ単に隣国に攻め込んだだけなのに上洛が確定的とか妄想してんなよw

739:人間七七四年
11/12/20 20:10:41.46 DAv3KDZ/
>>736
過小評価なんてする気は無いが
50くらいまで生きて
信長より年上で
二代目どころじゃない名門で
東海道だっけかの起点、甲斐の守護で
京制圧が出来ない時点で、どう過大評価したら良い?
病死する前に何十年生きてんだ?

個人的な趣味だと
筒井順慶からすると虫けら以下にしか感じてない

740:人間七七四年
11/12/20 20:11:06.04 Mvj9vSc3
>>737
図書館行って読んで来いよ。ちゃんと書いてあるから。

741:人間七七四年
11/12/20 20:26:40.54 YkkS7pxV
信玄が仮に上洛したとして、そこから何の発展性も見出せないのだが?

742:人間七七四年
11/12/20 20:39:50.93 wo4LyF2k
>>736
動きが遅い
信長より長く生きてる癖に何をもたもたしてたのか
上杉はちょくちょく関東に出てるし北条は上杉や関東の連中と戦わなきゃいけない
今川は桶狭間以降三河連中に押し返される有り様
この状態で結局家康さえついぞ滅ぼせなかった
信長謙信が49で死んで信玄が53で死んだのに信玄が長生きしたらなんて贅沢な望みじゃないか

743:人間七七四年
11/12/20 20:50:37.04 FNsk4w0V
>>740
引用もせず「書いてある」とか言い張ってもダメよ

744:人間七七四年
11/12/20 21:06:51.65 7/YW4DT9
信玄は当時としては長生きした方でしょ
30代でポックリ逝くのも別に珍しい時代じゃなかったんだし

745:人間七七四年
11/12/20 21:44:19.90 3+g71Wg0
信玄がちゃんとした武将なら川中島で乳繰りあわずに
今川攻めとって信長より早い段階で上洛できてるから
信長が今川攻めを諦めたのは三河方面にイキのいい徳川がいたからで
駿河方面なんてザルもいいとこ

結局信玄がアホだったから自分の首を絞め御家の首も絞めることになった
信長の発言は実に的確

746:人間七七四年
11/12/20 21:48:33.83 3+g71Wg0
史料出してる奴は年号を書くのが基本
膨大な史料をだしてここにあるから探せというのはソースないのと同じ

本当に知ってるなら年号くらいすぐに出せるからな
まあ政治がザルなんてよほど無能じゃないと無理だけどな
前当主の治政がよければそれを踏襲すればいいだけ

747:人間七七四年
11/12/20 21:51:56.28 cPXgZBIi
>>740
応えられないと
やっぱてきとうこいてんじゃねえか
やっぱアンチ織田厨はこの程度なんだなw

748:人間七七四年
11/12/20 22:13:08.25 3Js4zAu9
まーた基地外武田厨>>740が論破されたのかw
もうフォローしようがないわこいつwww

749:人間七七四年
11/12/20 22:18:09.54 7/YW4DT9
>>745
俺なら今川領を攻めず三河一向一揆のどさくさに紛れて三河を直接攻めるわ
当時弱小の徳川なら余裕で倒せていたはず
今川攻めを強行すれば史実通り北条を敵に回すことになるから得策とは言えないと思う

750:人間七七四年
11/12/20 22:31:02.95 YkkS7pxV
信玄には信長みたいに天下統一という確固たる決意が無いから天下人にはなれない

751:人間七七四年
11/12/20 23:16:33.70 c2nsNFAt
>>713
おいおいまさか摂津三守護をあたかも信長が新たに摂津に任じた織田家臣みたいな考え方をしてるわけじゃねーよな?
摂津三守護なんてのはもともと摂津で有力勢力を誇っていた連中にそこ治めていいよって信長が安堵しただけだぞ。

それが証拠に天正元年2月23日付細川家文書で、伊丹氏が足利義昭に与して抵抗しているところが見受けられるし、
元三守護であった和田惟政も筋金入りの足利家臣だ。荒木が信長に忠節を誓うといった時点で、
もはや敵となったに等しい摂津三守護の一部を荒木が攻めたところで信長が咎める理由がどこにあるんだかw

>>すでに伊丹城に伊丹氏は在城してない。

勝手に殺すなw
伊丹親興はこの年代でまだ生きてる。
伊丹親興は白井河原には参戦していないし、猪名寺の戦いに殺されたとすると時系列があわない。
確かにこの2つの戦いで荒木中川が力をつけたのは紛れもない事実だが、少なくとも伊丹家は伊丹城の領主としてまだ健在だ。

>>大和松永は完全に面従腹背を繰り返している

そういいながら一方では「足利家のためにがんばってくれ」とおまえは言っているが大丈夫か?
信長公記には確かに松永降伏の記述があるが、正直これが事実でも松永が信長勢力の一員として俺は見れない。

おまえが言うように大和松永は完全に状況如何で信長-義昭のもとを行ったり来たりしている上、
大和南部という京から遠く離れた位置で筒井家に押されながら堪えているという状況。

状況次第でコロコロ寝返る上におおよそ京へ行くことはできないであろう松永を足利勢力の一員として戦局に影響するというのは、かなり考えづらい。

>>朝倉は無理に織田を攻める必要はなく、織田軍を疲弊減少させる為に高みの見物をしてただけ。

姉川の戦い、その後の志賀の陣、金ヶ崎前のアレもそうだし、刀根坂もそう。
おまえはアレが余裕こいて高みの見物している大名に見えるのか?
高みの見物というなら、中央情勢無視して徳川を苛めていた信玄の方がよほど当てはまるぞ?

752:人間七七四年
11/12/20 23:30:37.62 LsnoiiaQ
東武士は大方強敵どもなり
上方の弓矢すえになりたる国ども
上方衆恩も存ぜず強き弱きの弁えもなく義理をも恥をも捨て候て
信州(武士)弓矢功者の事は、侍の事は申に及ばず、百姓まで勝負のすべをよく存じたる
信州弓箭つよき事、大形ならざるに付、忰者・中間まで武勇をたしなみ、にげおつる者さのみ無之して
関東の儀、昔より弓箭国と申は、まず武蔵は武の蔵とやらん承及候。(中略)よき武士あまた候て、(中略)弓矢巧者、手柄武士達際限なく御座候事、老若共に沢山なる儀は、積もられぬ程にて候
(『甲陽軍鑑』)

今度上様(織田信長)東国御出馬付、当国(大和国)衆自昨日上洛
(中略)
甲斐、越後之弓矢天下一之軍士之由風聞、一大事之陣立也
(『蓮成院記録』)

753:人間七七四年
11/12/20 23:33:20.39 c2nsNFAt
>>751続き

>>これらは武田の士気に大きな影響を与えただろう

仮にも噴火なんだから、犠牲ゼロで何もなしじゃないことくらいはわかっている。
問題はこの時既に織田軍が武田領信濃に入っていたということ。
つまり浅間山噴火における士気の影響は武田軍に限ったことではないということで、
そこで撤退せずに織田軍が進軍し、武田家を滅ぼしたというのなら浅間山噴火なんて所詮契機くらいにしかならん。

「浅間山噴火が武田家滅亡の原因」ということは、Ifを含めればそれさえなければ武田家は滅亡しなかったということでもある。
果たして、木曽義昌や穴山梅雪すら討伐できなかった武田家が、織田信長、織田信忠、徳川家康率いる連合軍の大軍に太刀打ちできたか?
せいぜい武田家滅亡が1月くらい伸びたかどうかと言うくらいにしかならんだろ。

>>714
おいおい丹波の赤鬼さんが破ったのは光秀の丹波平定軍だろ
手取川にも同じこと言えるけど部下の失敗まで信長のせいにすんじゃねーよw
村上家が隆盛を誇ってたといっても所詮信濃数郡を支配できたかどうかの勢力規模。
家柄から言っても領土から言っても明らかに甲斐守護武田家の格下だろw
母親や娘といった他家からの人間の家柄ばかり挙げてどうするw
官位が優秀といっても勢力誇ってながら官位低い家なんぞいっぱいあるからアテにならんと思うがな。
まあ官位に関しては人それぞれと言わざるを得ないが。

754:人間七七四年
11/12/20 23:34:08.50 tMmFhhD/
信玄・謙信は跡継ぎ明確にせずに最大級の経済力持った大国に戦争高値で売りつけ死んだ戦略音痴。
氏康、義元のが上。

755:人間七七四年
11/12/21 06:37:22.57 +7BWcOiQ
>>752
暗に、
坂東も信濃も強くて手が出せないから引きこもったんだい(ρ_;)
ってコウヨウグンカン(オタク小説なのに変換出来ない)は書きたかったのか?

確かに源平合戦シリーズじゃ武田なんてパッとしないしな。

756:人間七七四年
11/12/21 08:07:40.97 +7BWcOiQ
>>754
謙信の後継争いは有名だが
信玄の後継争いって?
家臣団だの将だのと言われる同盟者が、納得出来ないような後継者を信玄が選んだ
或いは、選ばれた後継者の暴走
が武田終了劇のフィナーレじゃね?
長篠合戦なんてエピローグじゃん

757:人間七七四年
11/12/21 08:43:33.00 Xvv8/hGw
信玄の後継者争いなんて無いだろ。
ソースは?

758:人間七七四年
11/12/21 14:34:01.78 /dR3/bl8
義信が生きてればな
一回ぐらい許してやるべきだった

759:人間七七四年
11/12/21 16:54:55.96 iUqbEyMX
結局は信玄自身が親父を追放してるからな
今度は自分が追放される番になってしまうと焦ったんだろ

760:人間七七四年
11/12/21 18:37:53.48 iR5+AcPb
義信が今川征伐に反対だったのは周り全部敵だらけにすることへの抵抗だったからな
信玄は息子を失って今川を討伐し、調子に乗って今度は織田を敵に回した。
そのまま武田家は全部敵に囲まれ滅亡、義信>信玄が確定した瞬間だな。

761:人間七七四年
11/12/21 19:52:43.06 6gkfDBFE
投票否定事件
URLリンク(www26.atwiki.jp)

762:人間七七四年
11/12/21 19:55:01.82 ewTFbEpo
>>760
織田を敵に回した時には、北条と同盟組んでいるのでは?
そもそも織田と同盟組んだ為に今川との同盟が切れたのでは?

763:人間七七四年
11/12/21 19:55:20.52 ewTFbEpo
>>761
妄想ウザイ。基地外はだがスレに帰れ。

764:人間七七四年
11/12/21 20:52:50.35 c7nPyfOO
>>762
織田との同盟の時に既に今川領についての密約があったらしいな
まあ武田のうかつな外交の成果だな、四方を敵に回したのは
してみると、北条が武田攻めたのもなんで徳川に分け前上げて俺にないんだってところかね
あるいは徳川にしたみたいに部下の統制とれずに北条に攻撃しかけたか
んで、北条が切れて信玄いわく「味方無く」と泣き言を部下に漏らす有様に

ほんと過大だな信玄

765:人間七七四年
11/12/21 21:06:38.64 ewTFbEpo
>>764
ごめん。何の小説の話かよくわからんから、
題名を教えて頂けるとありがたい。

766:人間七七四年
11/12/21 21:24:28.88 c7nPyfOO
>>714
>とっくに天正元年に改元されてるのに、信玄が生きている時期に誤認させるために
>元亀4年11月と言う汚い書き方をするのはよくないね
武田厨が史料確認もせずに泣き喚いてるのがよくわかるレスだなw

767:人間七七四年
11/12/21 21:27:00.23 c7nPyfOO
>>765
何について聞きたいのか分からんが
推論と事実ぐらい見分けてくれよ?

768:人間七七四年
11/12/21 21:27:59.84 c7nPyfOO
ってID:ewTFbEpoかよ
損した

769:人間七七四年
11/12/21 22:55:30.77 WH8qQtYg
一生を費やし一地方権力を統合した大名って評価じゃないの?


770:人間七七四年
11/12/21 23:43:07.66 c7nPyfOO
希代の名将であるとは思う
ただ天下人になれるとか美化するから、こうやって現実突きつけられてるわけで

771:人間七七四年
11/12/22 07:02:51.83 Of7mJf3n
>>770
稀代の名将で、出自は名門で、親の代から国持ち大名。
天下人の定義をどう見てるのか知らんが、武家の頭領くらいにはなれそうだが?

基地外が、都合の良い資料のみを羅列して(兵数一万しかいない弱国に包囲網しいたとか)
武田信玄を異様に貶めるから、この板では評判が悪いみたいだが
普通、病死者を天寿を全うしたって言わんから、信玄がもう少し長生きしたら~っていう信者を否定する気はせん。

武田信玄も上杉謙信も朝倉義景も、みんな立派さw

772:人間七七四年
11/12/22 09:11:52.19 Og3JLnW3
>>771
天寿というか天命だろう
結局健康に長生きするのも重要な項目
勿論、天下取るまで生きてればその健康も不要だが、結局それがネックで天下取れなかったんだから
あと一問正解してれば東大いけてた、一流企業入れた、弁護士資格取れてた
結局その一問間違えたのが、そいつの限界だったということ

天下の定義は色々あるけどな
近畿を支配すること、全国を支配すること、王権?を支配すること
まあその辺はお前の言う基地外が顔真っ赤になるから限定はせんよ
恐らく「織田も天下とれずに家臣に討たれてるし」とか、いいたいだろうから

773:人間七七四年
11/12/22 23:52:13.53 oOnmDSuH
実際天下を取った秀吉と比べたら信玄になかったのはチャンスをつかみ取る才能だろう
三河で一向一揆が起きてゴタゴタになっているときも相変わらず上の方で謙信相手に無駄な戦をしていたし
本庄が反逆して謙信がかかりっきりのときも行動が遅すぎる

774:人間七七四年
11/12/23 01:46:19.47 8sdNMBLd
今川が討死してザル体制になった時点で攻めてればな

775:人間七七四年
11/12/23 02:15:08.68 ambulEuv
天下統一 を最初から目指していたのは信長くらいだろうし、信玄に罪は無い

776:人間七七四年
11/12/23 11:13:30.01 UcO0hyOd
実際できたかって話だと難しい話かな
織田徳川と仲良くすれば徳川と一緒に北条を滅ぼせたんじゃないのかね
北条とだって同盟結ぶ謙信とだって同盟結んでさ
なんか伊達みたいだな

777:人間七七四年
11/12/23 12:43:44.99 qW4+TsFQ
そう考えると信玄って、ちょっと残念な武将だ

778:人間七七四年
11/12/23 13:22:33.61 OGtsd4Nu
>>732
勝俣鎮夫氏が道三の悪政の根拠として論述してる。
>>737>>743>>747
ガキじゃねぇんだから保護者がいなくても図書館くらい行けるだろ。
>>738
11/27山県宛て書状では近江の蒲生氏が武田に内通したと書いてある。
1月に入ると本願寺が遠三尾濃の一揆の蜂起を命じ
(天正2年8/5の幽斎宛て信長書状にも尾・勢之中一揆を尋ね出して悉く楯切り(思いっきり)しろと命じてる)
岡崎にある勝鬘寺が蜂起予定だし、伊勢長島門徒も岐阜城付近に要害を建設した。
2/17に信玄が野田から撤収したと23日付けで幽斎に信長は言ってるが、
3/6には信玄が秋山に東美濃に織田が攻めてきたから追い払えと命じてる。
(ちなみにこの後に信長の子の御坊主丸を甲府に送ったとされる)
その後も岩村は武田方なので、織田軍はまた岐阜へ敗走したんだろうねw
3/7に義昭が信長の人質を突っ返して断交してるし
京都の大山崎にある山城離宮八幡宮は、信玄の上洛は確実とみて
さっそく諸役免除と禁制発給をお願いしてるし(26日に諸役免除を認めてる)
>>742>>745
>>今川は桶狭間以降三河連中に押し返される
今川の衰退は永禄6年12月から始まるとされていて
遠州錯乱とか遠州忩劇と呼ばれる遠江での相次ぐ反氏真
国人達の自立行動により三河とも連絡が取れなくなったから。
>>746>>748>>749>>750
基礎的な知識がないならROMに徹してろよ。
>>751
>>そこ治めていいよって信長が安堵しただけだぞ。
もともと当初は池田らは信長に抵抗してたのも知らんのか・・・
織田に屈服したのが永禄11年10月だし。
伊丹氏は永禄12年4/20に信長の朱印状を貰ってる。
>>天正元年2月23日伊丹氏が足利義昭に与して抵抗
元亀4年3月から義昭に与してるんだけど・・・

779:人間七七四年
11/12/23 13:26:13.06 OGtsd4Nu

>>勝手に殺すなw
死んだなんて一度も言ってないんだが・・・
つか伊丹氏は元亀元年7/12に本興寺に禁制を出したのを最後に統治実績が消える。
元亀2年8月28日の白井河原の戦いなどで伊丹氏が衰亡してるのは明白なんだが。
逆にそれ以降も伊丹氏が健在だとする一次史料を出してください。
>>信長-義昭のもとを行ったり来たりしている
いや、基本的に信長への面従腹背してるだけの話。義昭は松永が兄殺しだから許さなかっただけの話。
松永は摂津方面にも自由に動き回ってるから(荒木などともつながってる)から
京から遠く離れてる事は無いし、松永が信長配下としての軍役で近江へ行くと筒井の暴れる。
松永が信長の軍役を無視して帰ってくると筒井が劣勢になり、
すると筒井が織田への帰順を申し出て松永を攻めるという事を繰り返してるシーソーゲーム状態であり
実質的に摂津と同様に大和も織田に面従腹背を繰り返してる。
角明浩氏によれば摂津同様に信長の命令を無視して私戦を繰り返しまくって去就著しい大和衆の統御を
織田家がうまく行えるようになったのは天正2年(1574年)の蘭奢待採取と塙直政の大和守護任官が大きいそうだ。
これにより筒井衆や興福寺を始めとした大和衆の本願寺攻撃への協力が取り付けれるようになり
伊勢長島への有効的な攻撃が可能になったのだと。
(しかし同時に信玄と義昭に内通したが許された松永が
筒井より下の立場に逆転したので不満をもっており大和混乱の火種は残り謙信の西進に呼応する)
伊勢での織田の支配がスタートしたのはこの大和支配の浸透後の天正3年からの
信雄が北畠家督を得て田丸城へ入り御本所と呼ばれるようになってから。
ここでも人徳がない信長は天皇権威を利用して大和を平定www
>>高みの見物というなら
そりゃああれだけ義景に危機感が無いのは高みの見物してるから。
三河物語にも信長が義景に「朝倉殿が天下を持ち給え。もう私は天下を2度と望まない」
と土下座してるのでもわかる。
>>753
>>撤退せずに織田軍が進軍
そりゃあ織田軍は敵が災害にあってる最中なんだから
これ幸いと一気に攻め込むだろうよ。浅間山噴火ともなれば
西上野は当事者だし、それをとりまく隣接地帯の佐久郡や北信濃や甲斐も大混乱してるだろうよ。
ただでさえ京では噴火を甲斐信濃破滅の予告とまで思われてたんだから士気に関わりまくるわ。
信長公記は3日ごろより織田軍が信濃へ進撃したように書いてるが史料を拾うと
木曽氏は6日に織田へ援軍を要請している。
それに答えた信忠と滝川の出撃は一次史料だと12日に岐阜出撃。
15日に出陣準備中の信長が滝川らが国境を越えたとの注進を得て
(14日の夜空は東方に厚い雲が垂れ込め空が赤く染まる様子が京で観測される)
ほぼ織田軍の信濃侵攻が噴火の時期と一緒。武田の瓦解と噴火はリンクしてる。
>>部下の失敗まで信長のせいにすんじゃねーよw
戦略面で指示してるのは信長だろ。都合いい主張すんなよ・・・
織田厨は信玄の敗北として毎回、板垣らが独断しまくりのせいで負けた上田原の戦いを
すぐ持ち出すくせにw(調和を乱す権臣の甘粕や板垣らが死んでくれて、むしろ信玄は助かったが)

780:人間七七四年
11/12/23 13:29:30.54 OGtsd4Nu


>>766
史料はちゃんと確認してるんだがw
「鉄砲之薬 従大将陣配当之儀は勿論候 雖然如近年者 自然之時節欠乏候者
即凶事之基候之条 知行役相当に玉薬支度之事」のことだろうが。
これさ、大将が配当するのは当然なのだが、近年は自然と欠乏する時期もあると
凶事の元になりかねないから知行貰ってる者は玉薬の支度もしておくようにと
心構えを説いてるだけで、基本的には大将が用意するよって書いてあるだけなのに
思いっきり文意を歪曲するのはどうなのかねぇ。
しかもこの上記の書状は勝頼の署名も無ければ竜印も無い写しでしょ。
同じ日付で勝頼の竜印付きの軍備の心構えを説いてる書状があるけど
それには上記の文章は存在してないし。
さらに言うと、信玄の西上の時である元亀4年正月の挨拶で、小山田が甲府陣所に
1/5付けで塩硝50斤を進上してるほど余裕があるんだがw
逆に信長の場合は同時期に金も火薬も兵糧も無いので幽斎に調達するように命じたが
無理だったから、信長自らが指揮して京で恐喝略奪して凌いだ。
同じように幽斎には長篠の戦い寸前の時期にも信長が今回は鉄砲の玉薬だけだが
調達を要求していて、この時は調達できるようになっていたのが
5/12の幽斎書状への5/15信長返書書状でわかる。
5/20には玉薬が到着したようで信長はそれに関して「祝着だ」と大喜びし
家康はいよいよ陣城に籠城して討ってでない体制を構築して長篠城落城の危機に焦り
5/20夜に酒井忠次らによる鳶ヶ巣山砦襲撃計画を発動したために
さっそく5/21に長篠の合戦が起こってる。
そして5/26岐阜に戻るやさっそく幽斎に詳報して感謝してる。
>>771
>>基地外が、都合の良い資料のみを羅列して
はぁ?なら一次史料で反論すればいいだけだろ。
一切そんなことはしないで、
義龍は嘘つき、長政の大本営発表、義景はハッタリ癖がある、
信玄の書くことはまったく信用できない
謙信が誇張して戦があったかのように書いただけとか
学者名を挙げても、そんなやつ有名じゃないとか
学者の言うことは何でも信じるのかとか
ことごとく根拠なく恣意的な発言しかしてないのがもっとも無知な織田厨。

781:人間七七四年
11/12/23 13:35:31.68 yCeAC42k
ID:OGtsd4Nu、ちょっと落ち着けw

史学系の論文を読んだことある?
頭悪そうな煽り文句を並べるんじゃなく、論理的に史料を引用しながら論証せよ

782:人間七七四年
11/12/23 13:36:00.73 OGtsd4Nu
訂正
>>天正元年2月23日伊丹氏が足利義昭に与して抵抗
元亀4年3月から義昭に与してるんだけど・・・

ここ天正2年と日付を読み間違えたので削除。



783:人間七七四年
11/12/23 14:54:52.91 UcO0hyOd
長い
産業で纏めろ

784:人間七七四年
11/12/23 16:00:36.73 JQEKVYJS
>>780
史料確認してるなら元亀についてグダグダいわねえよボケ

785:人間七七四年
11/12/23 20:23:49.39 9Nu9J/Qr
>>779
後半部分は完全に妄想ですね

786:人間七七四年
11/12/23 20:55:41.12 0+plca0e
信玄死んで信長は九死に一生を得たな。
離反に次ぐ離反で信長の石高は80万石以下にまで大激減してただろうね。

787:人間七七四年
11/12/23 22:33:05.10 gV1cpnJH
妄想は現実と違うんだぞ
起こってない出来事を勝手にそうだと思い込むのはよくないな

788:人間七七四年
11/12/23 23:17:34.49 ivT9uIaF
アスペルガーだがの煽り口調での無知丸出しな嘘も痛々しいが
アンチだが連合のこんな基地外池沼をからかう弱いモノ虐めも痛々しい

こいつら何とかならんのか?

789:人間七七四年
11/12/23 23:29:06.67 ambulEuv
>>778
なんだ?信玄は天下統一の野望を最初からは持っていない、信長の猿真似であり
室町幕府に属する旧態依然とした保守勢力である事は事実だろ?

790:人間七七四年
11/12/24 00:08:52.16 mE7DYPCw
>>776
織田徳川なんかと仲良くする武将が後世人気が出たとは到底思えないけどな。
天下人にれなかったからこそ信玄のやり方が評価されている節がある。
謙信だって織田軍破っていざ追撃って時に病死したからそういう残念さも相まって人気が高いわけで、
真田も同じ事だな。
負け犬だから人気がある。
そういう事で勝ち組の徳川には人気が無いし、
本能寺で死んだ信長は、むしろ本能寺で死んだから人気がある。
正解の道筋通って最後まで正解した武将なんて魅力無いよ。

791:人間七七四年
11/12/24 05:48:44.86 Q8qUCMtM
だがは本当に情弱だなw

>>11/27山県宛て書状では近江の蒲生氏が武田に内通したと書いてある。

これ、三方ヶ原の戦い以前に武田氏に与した奥平貞能にあてた書状だけど、
一種の勧誘工作なのにそれにも気づかないとかw

この山県の記載事項を全て鵜呑みにすると、
蒲生氏をはじめとした近江の大部分の勢力が朝倉に翻意し、江北で朝倉と戦った織田軍が大敗
ほとんどのものは朝倉についたという、超がつく武田贔屓の内容の書状。
しかも当の山県本人が「本当のところはわからないのでそっちで確認してね」という投げっぷり。
URLリンク(www.dosugoi.net)

>>もともと当初は池田らは信長に抵抗してたのも知らんのか・・・

で、だから摂津三守護はもともとの織田家臣じゃないよね、信長が荒木を咎める必要ないよねって意味なんだけど理解できてる?
自分からそれを証明してくれるとは思ってなかったけどさw

>>元亀2年8月28日の白井河原の戦いなどで伊丹氏が衰亡してるのは明白なんだが。

おまえは一次史料の前に事実確認が先だったな。
白井河原の戦いの主勢力は荒木村重、中川清秀と和田惟政らであって、
この戦い以前に既に勢力としては伊丹氏は衰亡している。
衰亡したからこそ、荒木は標的を伊丹から和田に変えたわけで。
で、正式に信長に与することを伝えてから和田を乗っ取り(高山独断とも)、死にかけの伊丹を潰した。

でさ、おまえは荒木村重の本領は伊丹城で、荒木は伊丹によって追われたって>>663の名言しているけど
これのソース何?ついでに伊丹親興がありながら荒木が伊丹城を統治していたというソースもあわせてだせよ。

>>いや、基本的に信長への面従腹背してるだけの話。

いやだから話を逸らせないでくれ。俺は別に親信長勢力として松永を出したわけじゃない。
おまえが3月6日付尋憲記をソースにして、足利-三好-松永という対織田勢力ができたと言っているから
時勢によってコロコロ帰属先を変えてた松永を足利勢力に入れてもいいのか?と疑問に思っただけ。

しかもおまえは、松永と筒井は対立してコロコロ帰属先を変えるシーソーゲームをやっていると言っている。
この状況なら、猶更筒井は松永の帰属先と対立した勢力について、結局またシーソーゲームを続けるだけで
足利について織田と最前線で戦うなんて無理だと思うけどな。

792:人間七七四年
11/12/24 06:04:37.79 Q8qUCMtM
>>791続き

>>そりゃあ織田軍は敵が災害にあってる最中なんだからこれ幸いと一気に攻め込むだろうよ。

京まで見える噴火規模だった、と言うなら猶更信濃にいる織田軍なんか被害被るわけだけどそこは考えないの?
ついでに言うと滝川一益が国境を越えたのが15日だが、滝川は書状でもわかるとおり信忠本隊の補佐を任されているわけで、
織田軍の先発隊はもうすでに信濃入っているんですけど・・・
実際信長公記と照らし合わせると2月14日には既に先鋒を任された森勝蔵、団平八が信濃飯田にいるし、
そもそも木曽義昌や穴山梅雪すらどうすることもできなかった武田が
「噴火がなければ織田の大軍を撃退した」とするソースは?

>>戦略面で指示してるのは信長だろ。都合いい主張すんなよ・・・

局地で戦い敗れたのは光秀なんだから敗戦の責任は光秀にあるに決まってるだろw
板垣が独断で戦ったというが何?上田原の戦いの総大将は板垣信方なの?
武田晴信はどっか別の城にでも引きこもってたの?ならソース出して。
おまけに確か村上相手に砥石城でもやらかしてたよね?あれも信玄じゃなくて別の誰かが率いてたってことなの?

793:人間七七四年
11/12/24 06:07:45.43 Q8qUCMtM
>>そりゃああれだけ義景に危機感が無いのは高みの見物してるから。

いやいや、朝倉もいっぱいいっぱいだったから和議結んだんだろw
あれだけ浅井を助けて自分も信長と戦いまくってたのに高みの見物とかw

794:人間七七四年
11/12/24 08:30:35.98 OLaNk3U0
義景が高見の見物ってモロゲーム脳じゃん…

795:人間七七四年
11/12/24 09:29:46.19 03q31p82
>>791
蒲生が内通や織田が負けたのはおそらく事実だろう。
ただ近江が織田から一斉離反と言うのは
あちこちで一向一揆が頻繁してると言う意味合いで書いてるだけなのだろうし、
だからこそ近江から来た者から聞いたと情報源を明示してるし、
詳しくはそっちでも聞いてくださいって意味だろう。
信長公記でも戦線が大きく動くのは、
やはり14日で松尾城の小笠原の内通したので、
森と団が木曾峠を越えて、
飯田城の坂西と保科が14日夜に撤退したことで、
滝川が信長から砦を築いて勝手に動くなって命令されていた事の無視が始まり独断専行して進撃が始まる。
火山噴火の影響が無いと言う解釈には無料がある。
特に神仏と自然災害を結び付けて祭祀をするような
精神性がある中世ではなおさら。
信長は伊丹氏や和田氏に安堵を与えてるんだから、
勝手に荒木が攻撃してるなら、
信長が罰するのが当然だと思うが。
荒木は標的を伊丹から和田に変えたではなく、
あなたの意見はずっと伊丹城は伊丹氏が維持していたと主張してたから、
subから統治実績のソース要求されてるはず。
和田を潰す許可を信長から受けているとするソースは?
信玄と松永もつながっているのだから、
そもそも反織田路線で織田に面従腹背でしょう。
板垣らは勝ちに奢り敵前で首実検したとされてるし、
特にそのことに異論や否定する論者を見たことないけど。
武田研究は戦国史研究で最も進んでるし。
戦争指導してる指導者が無茶な命令して戦術レベルで敗北したのなら指導者の責任だろう。
ヒトラーは無敗だったと言いたいのだろうか。
砥石城に限らず城攻めまでいれるなら、
小谷城を含めて信長はかなり負けまくりだろうね。


796:人間七七四年
11/12/24 10:10:25.03 03q31p82
>>780
信長なんて越後まで平定したとか、
五畿内は言うに及ばず中国四国まで制圧したとかデタラメばかり吐いてて、
1番信用性ゼロの誇大妄想書状出してる嘘つきぶりな罠…
よっぽど信玄や長政や義景や義龍や謙信の書状の方が信用出来る。


797:人間七七四年
11/12/24 11:53:26.91 OLaNk3U0
実質そいつら詰んでたからなwあの状況どうあがいても織田に勝てないし
一万の兵に皆殺しにされた雑魚浅井朝倉斎藤の言ってる事は全く宛にならんw
実が伴わないと説得力なんか皆無www

798:人間七七四年
11/12/24 11:56:18.41 OLaNk3U0
しかも息をするように嘘をつく信玄のが信用できるとかwww
いつから聖人君子になったの信玄wwwwwwwww

799:人間七七四年
11/12/24 12:40:50.19 0MpOg3K3
>>795
だがさん、ちわーっすw

800:人間七七四年
11/12/24 12:44:12.83 Q8qUCMtM
>>795
いやだから文中には信長が負けて近江の連中が越前朝倉に同意したとあるんだけど。
これ事実なら朝倉に寝返ったってことだよね?おまえの言う「蒲生内通」のところでも「同意」ってあるからよ
これが事実ならしばらくすれば近江は朝倉領になりそうだけど、実際そうなったっけ?

>>火山噴火の影響が無いと言う解釈には無料がある

勘違いしてもらっては困る。俺は影響がないとは言ってない。
武田家滅亡の主原因として噴火は適切ではないと言いたいだけ。
いくら噴火がおきようが織田軍が攻めなきゃ武田は滅びんわけで、
そっちが織田が攻撃したという事実をすっぽかすからそれは違うと言ってるだけだ。

>>信長は伊丹氏や和田氏に安堵を与えてる

敵対行動ほのめかすような人間に安堵云々の話が通じるとは思わんけどな。
ましてや和田の場合、裏で荒木が引っ張ってた可能性があるとはいえ、
根本的には和田惟長と有力家臣の高山父子によるお家争い。他家のゴタゴタまで信長に口を出させるのは
状況的にも時勢的にもやりすぎと言わざるを得ない。

>>板垣らは勝ちに奢り敵前で首実検したとされてるし、

この上田原で信玄が負けに起因していないというのなら、信玄がこの戦そのものに関与しているという情報がないと。
確かに板垣が余裕こいてる間に敵が出てきて討たれたのは事実かもしれんが、それを見抜けなかったのは平たく言えば信玄も同じ。
だからこそ武田の大敗の1つとしてここまで言われてるわけで、武将一人死んだくらいじゃ誰もそこまで言わんだろ。
あと信長は別に無茶な戦略を光秀に出してるわけじゃないだろ。事実直正の死後は明智の丹波平定軍が勝ち続けているし。

801:人間七七四年
11/12/24 12:45:30.90 Q8qUCMtM
訂正:この戦そのものに関与していないという情報がないと。

802:人間七七四年
11/12/24 15:36:59.13 3zoaF2rJ
>>800
実際、近江はほとんど反織田方でしょ。
織田軍が攻略済みの佐和山や横山も街道沿いなように
織田が近江で支配してたのは街道に位置した城を織田武将が
維持してただけに過ぎないし。
大津を維持していた山岡景隆の弟の山岡景友が義昭から山城半国守護になり
近江で有力な山岡家まで分裂してる始末だし。
高島七頭が朝倉と書状交換してるように、近江の西岸を北上して
小谷に出てくる朝倉の背後を付いて敦賀攻撃もできないのが織田。
義昭挙兵の時も六角と一揆に背後を閉じられ、朝廷和睦斡旋で
信長公御名代として信広が義昭と会談した翌日にはすぐに六角と百済寺を攻撃に出撃してるし。
これで蒲生が武田に内通したら、近江がほぼ敵になったと考えて間違いないし、
織田が一万しか兵を集められなかったとするソースを、さらに裏付けることになる。
>>俺は影響がないとは言ってない
いやいやあなたは、ほぼそう主張してるとみて間違いないでしょう。弱気になったのか。
天変地異で弱体化するのは当然の理でしょう。そりゃあ最前線から本国へ帰るのを
信長公記などでは「敗走」とか「自壊」「自落」と書いてるんでしょ。
>>他家のゴタゴタまで信長に口を出させるのは
大問題でしょ。信長自らが細川に和田の後見するように指示してるのを無視してんだから。
普段の信長だったら間違いなく激怒してるケースでしょ。
ちなみに伊丹氏が元亀4年に和田惟長の説得を拒否して織田を裏切り
義昭に呼応し蜂起した際に奪い取って挙兵したのは賀島城。
なので伊丹氏は和田氏の世話になっていたと思われる。
>>無茶な戦略を光秀に出してるわけじゃないだろ
京で村井貞勝と光秀が統治業務をしていたのに(秀吉の京統治参加は対浅井攻めの横山城転任で終わってる)
信長が返却していた丹波でわずかな御料所の代官職を持っていた伊勢貞興14歳が
明智配下と言う理由で伊勢氏には地縁があるから大丈夫だろって、
京の統治から光秀を外してなんの準備もなされてないのに丹波攻めを始めさせたのが信長。
明らかに無茶振りで失敗は目に見えてる。
>>上田原
村上に地の利があり、しかも積雪がかなりある戦場での上田原の戦いは
最前線で板垣や甘利ら討死が出たので武田の敗北とされる印象があるけど、
実際は後続の小山田隊が奮戦して戦況挽回していて、晴信は本陣を動かさずに
踏みとどまってて、村上軍を威圧してるんだけどな。
だから勝ちとしなくても引き分けとするもんなんだが。

803:人間七七四年
11/12/24 15:59:18.36 3zoaF2rJ
>>779
大和の統治安定化に関しては、山城統治への懐柔策の副産物と言う一面があります。
天正3年3/14に信長は寺社や公家衆に対してのみ徳政令を行ってます。
11/6・7には公家や寺社に朱印状を発給し所領安堵をしてます。
どうやら織田は京での焼き打ちや略奪や虐殺の悪影響のためか
山城統治がうまくいかず、結局は公家や寺社への懐柔策に切り替え
見返りに官位の上昇という天皇権威を利用しての畿内統治に政策を移行させてる。
特に朱印状発給の実務担当は、武井・松井・村井・原田直政(塙直政)が行っており、
光秀が丹波征討に転任したあとの京の統治メンバーとして
大和守護となった原田がおり、公家や寺社の徳政や領地安堵先が大和にもあることが分かります。
その結果、11/4に信長は権大納言。11/7右近衛大将にしてもらい
将軍義昭の官位と同等にしてもらってます。
これに危機感を持った義昭が鞆幕府を設立して
天正4年正月から毛利の後援の元に東進することになります。


804:人間七七四年
11/12/24 17:57:18.66 Q8qUCMtM
だから自分にレスを飛ばすなw

>>800
まず近江だが、大半の勢力は織田に帰しているといっていい。
佐和山横山をはじめとして浅井方の主要拠点はほぼ織田に分捕られて、この時期では浅井の単独行動がほぼ不可能。
さらに小谷城の目の前に虎御前山砦を築かれ張子の虎状態だ。残る六角も近江で細々と勢力を維持しているが、
史実では対義昭戦のついでに潰されたような勢力規模であることは信長公記を見ればわかるだろう。

仮に山県昌景の言うことが事実なら、武田軍西進というのは朝倉にとって絶好のチャンスなわけで、
それを生かさないばかりか、近江戦線で織田軍を突破できず撤退するような行動はまずなかったであろう。
これはむしろ史実で武田信玄が滅茶苦茶怒ったことということで、信玄好きの方が詳しいだろう。

>>天変地異で弱体化するのは当然の理でしょう。

果たしてそうでしょうか?気象庁浅間山噴火記録(URLリンク(www.seisvol.kishou.go.jp))には、
1527年、1528年、1532年、1534年、1590年、1591年と1582年以外にも噴火が起きていますが、
この時期で信濃の勢力が弱体化、あるいは類を見ない被害が発生して大名が滅亡したということはありません。
それとも武田家は信濃勢力以上に噴火にビビったんでしょうか?それはそれで弱さを露呈するだけだと思いますけどね。

噴火によってある程度勢いが削がれたというのが副次的なものです。
それとも、武田軍がまともに戦争もできないくらい噴火の被害があったんですか?
そういう状況なら織田軍とてまともに戦争もできたものではありません。
それでも織田軍が維持できたなら、武田滅亡の主要因は織田軍が異常にタフだったからということになります。

>>大問題でしょ。信長自らが細川に和田の後見するように指示してるのを無視してんだから。

そもそもここからして本来おかしなことです。
普通城主や領主を家臣以外の人間に後見させるなんていうことはしません。細川家文書にあるので事実だとは思いますが、
信長からすれば惟長に家臣でもない他の人間の補佐をつけるくらい頼りなかったと見えます。
まあその後高山父子が足利方につけば話は違ったのでしょうが、生憎高山は織田について荒木の下で働くようになりました。
正直なところ、和田家がもともと親足利だったことを考えれば、むしろラッキーなくらいだろうと。

>>京の統治から光秀を外してなんの準備もなされてないのに丹波攻めを始めさせたのが

むしろ遊撃ポジションにいた光秀にはその程度の事など日常茶飯事だぞ。
松永久秀討伐にもいったり本願寺戦線に駆り出されたりと天正序盤の光秀はとにかくコロコロ戦場を変える。」
結局そんな辛さを感じさせる間もなく、赤井直正に苦戦はしたものの、
丹波攻略を手掛けてから3、4年後の天正7年には丹波平定しているからな。
つか別に信長もいきなり何もなく攻め込め言ってたわけじゃない。
片岡藤五郎や川勝継氏といった丹波豪族に対して光秀と協力するよう説得する旨が
新免文書、記録御用所本古文書にある。

>>上田原

板垣駿河、甘利備前、才間河内、初鹿野伝右衛門尉が戦死して、晴信自身も傷を負ったと妙法寺記にはあるが・・・
確かに小山田が活躍してなんとか押しとどめたともあるがこれをもって引き分けとするのはかなり苦しいだろう。



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